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かつての有岡城の『岸の砦』があったとされる、猪名野神社の紹介です。伊丹城や有岡城の時代に先立つ延喜4年(904年)、この地に勧請された古社とされます。(ウィキペディア、日本百・続百名城公式ガイド)

2017暮、大阪湾の名城(6/42):12月5日(6):有岡城(6/8):城下町、猪名野神社、参道

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2017/12/05 - 2017/12/07

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旅人のくまさん

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かつての有岡城の『岸の砦』があったとされる、猪名野神社の紹介です。伊丹城や有岡城の時代に先立つ延喜4年(904年)、この地に勧請された古社とされます。(ウィキペディア、日本百・続百名城公式ガイド)

交通手段
観光バス

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  • 左端の社標には、『猪名野神社』の文字が刻まれ、その右に『御由緒略記』の表示がありました。古くは『野ノ宮』、『天王ノ宮』と呼ばれ、祭神は猪名野座大神と称して、建速須佐之男命を祀ると紹介されていました。延喜4年(904年)、この地に勧請された古社です。寛文元年(1661年)、伊丹の地は近衛家の領地となり、地元の伊丹郷町の氏神になったことも紹介されていました。(同上)

    左端の社標には、『猪名野神社』の文字が刻まれ、その右に『御由緒略記』の表示がありました。古くは『野ノ宮』、『天王ノ宮』と呼ばれ、祭神は猪名野座大神と称して、建速須佐之男命を祀ると紹介されていました。延喜4年(904年)、この地に勧請された古社です。寛文元年(1661年)、伊丹の地は近衛家の領地となり、地元の伊丹郷町の氏神になったことも紹介されていました。(同上)

  • 南側から眺めた、『猪名野神社』の参道光景です。参道の松の古樹が古社であることを偲ばせていました。先程の神社の縁起には、明治2年(1869年)、神仏分離の時に『猪名野神社』の名前になったことが記されていました。直前の呼び名は、『野宮牛頭天王』だったようです。また、祭神の『猪名野坐大神』は、『いなのにますおおかみ』と読むようです。(同上)

    南側から眺めた、『猪名野神社』の参道光景です。参道の松の古樹が古社であることを偲ばせていました。先程の神社の縁起には、明治2年(1869年)、神仏分離の時に『猪名野神社』の名前になったことが記されていました。直前の呼び名は、『野宮牛頭天王』だったようです。また、祭神の『猪名野坐大神』は、『いなのにますおおかみ』と読むようです。(同上)

  • 奉納の鳥居の上部と、金文字の『猪名野神社』の文字が記された扁額のズームアップ光景です。その背後には、松の古樹が左右から枝を伸ばしていました。延喜略記に記された、『野ノ宮』、『天王ノ宮』以外にも、『牛頭天王社』、『祇園社』とも呼ばれていたようです。(同上)

    奉納の鳥居の上部と、金文字の『猪名野神社』の文字が記された扁額のズームアップ光景です。その背後には、松の古樹が左右から枝を伸ばしていました。延喜略記に記された、『野ノ宮』、『天王ノ宮』以外にも、『牛頭天王社』、『祇園社』とも呼ばれていたようです。(同上)

  • 鳥居に向かって右手に建てられていた、『猪名野神社』の文字が刻まれた社標の光景です。宇多天皇の時代(887~896年)に、金剛院の別宮摂社として創始された後、醍醐天皇の時代(897~929年)に現在地に勧請されたといわれています。その後、荒廃し増したが、源為朝(みなもとの ためとも)が再興し、天正年間(1573~1592年)の荒木村重の時代に再び荒れてしまい、豊臣秀頼の命により修復され、寛文元年(1661年)に近衛家の所領となってからは、同家の尊崇を受けて栄えたようです。(同上)

    鳥居に向かって右手に建てられていた、『猪名野神社』の文字が刻まれた社標の光景です。宇多天皇の時代(887~896年)に、金剛院の別宮摂社として創始された後、醍醐天皇の時代(897~929年)に現在地に勧請されたといわれています。その後、荒廃し増したが、源為朝(みなもとの ためとも)が再興し、天正年間(1573~1592年)の荒木村重の時代に再び荒れてしまい、豊臣秀頼の命により修復され、寛文元年(1661年)に近衛家の所領となってからは、同家の尊崇を受けて栄えたようです。(同上)

  • 参道脇に一対で置かれていた石灯篭の光景です。拝殿に向かって右手の石灯篭です。高い台座の上に置かれていました。火袋に明かりを灯す時の台座にもなっているようです。(同上)

    参道脇に一対で置かれていた石灯篭の光景です。拝殿に向かって右手の石灯篭です。高い台座の上に置かれていました。火袋に明かりを灯す時の台座にもなっているようです。(同上)

  • 同じく、参道脇に一対で置かれていた石灯篭の光景です。拝殿に向かって左手の石灯篭です。石灯篭の柱には、『奉献燈』、最下部の台座には、『松中』らしい文字が刻まれていました。(同上)

    同じく、参道脇に一対で置かれていた石灯篭の光景です。拝殿に向かって左手の石灯篭です。石灯篭の柱には、『奉献燈』、最下部の台座には、『松中』らしい文字が刻まれていました。(同上)

  • 猪名野神社の参道入口の鳥居光景です。立派な扁額が懸かった、まだ新しい造りの石の鳥居でした。その先に、参道脇の松並木が続いていました。(同上)

    イチオシ

    猪名野神社の参道入口の鳥居光景です。立派な扁額が懸かった、まだ新しい造りの石の鳥居でした。その先に、参道脇の松並木が続いていました。(同上)

  • 『国指定史跡。有岡城・岸の砦跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。猪名野神社は、江戸時代の伊丹郷町の北端にあり、戦国時代に有岡城の北端に位置し、惣構えの『岸の砦』が置かれていた場所にあります。境内は有岡城跡の一部として国の史跡に指定されています。『北ノ砦」とも呼ばれていたようです。(同上)

    『国指定史跡。有岡城・岸の砦跡』のタイトルがあった説明パネルの光景です。猪名野神社は、江戸時代の伊丹郷町の北端にあり、戦国時代に有岡城の北端に位置し、惣構えの『岸の砦』が置かれていた場所にあります。境内は有岡城跡の一部として国の史跡に指定されています。『北ノ砦」とも呼ばれていたようです。(同上)

  • 小春日和の空をバックにした、参道の松の古樹の光景です。『小春日和(こはるびより)』は、晩秋から初冬にかけての、暖かく穏やかな晴天を指します。移動性高気圧に覆われるなどして発生します。俳句の季語では『冬』です。(同上)

    小春日和の空をバックにした、参道の松の古樹の光景です。『小春日和(こはるびより)』は、晩秋から初冬にかけての、暖かく穏やかな晴天を指します。移動性高気圧に覆われるなどして発生します。俳句の季語では『冬』です。(同上)

  • 右上に見えているのが、先程の左に大きく幹が曲がった松の古木です。その左奥に黄葉の大樹が見えていました。また、参道脇には短い間隔で石灯篭が並んでいました。(同上)

    右上に見えているのが、先程の左に大きく幹が曲がった松の古木です。その左奥に黄葉の大樹が見えていました。また、参道脇には短い間隔で石灯篭が並んでいました。(同上)

  • 猪名野神社の参道光景です。両脇に松の古樹と、ずらりと並んだ石灯篭がありました。境内の石灯籠の数は97基とされ、一番古いものは寛永20年(1643年)の建立とされます。(同上)

    猪名野神社の参道光景です。両脇に松の古樹と、ずらりと並んだ石灯篭がありました。境内の石灯籠の数は97基とされ、一番古いものは寛永20年(1643年)の建立とされます。(同上)

  • 同じく、猪名野神社の参道光景です。大きな石柱が建った、二つ目の門がありました。その先の正面に猪名野神社の拝殿が見えてきました。(同上)

    同じく、猪名野神社の参道光景です。大きな石柱が建った、二つ目の門がありました。その先の正面に猪名野神社の拝殿が見えてきました。(同上)

  • 一対で置かれていた狛犬の光景です。拝殿に向かって右手の阿形の雄獅子です。台座に『五瓜に唐花紋(ごかにからはなもん)』がありました。この紋は、戦国武将の柴田勝家が用いたことで知られています。(同上)

    一対で置かれていた狛犬の光景です。拝殿に向かって右手の阿形の雄獅子です。台座に『五瓜に唐花紋(ごかにからはなもん)』がありました。この紋は、戦国武将の柴田勝家が用いたことで知られています。(同上)

  • 同じく、一対で置かれていた狛犬の光景です。拝殿に向かって左手の吽形の雌獅子です。こちらの台座にも、『五瓜に唐花紋』がありました。日本五大家紋の『木瓜紋」の一種です。神紋として、京都八坂神社を初めとする『祇園社』などが使用しています。須佐之男命を祀る、『天王社』、あるいは『祇園社』時代の狛犬かも知れません。現在の社紋として使われていました。(同上)

    同じく、一対で置かれていた狛犬の光景です。拝殿に向かって左手の吽形の雌獅子です。こちらの台座にも、『五瓜に唐花紋』がありました。日本五大家紋の『木瓜紋」の一種です。神紋として、京都八坂神社を初めとする『祇園社』などが使用しています。須佐之男命を祀る、『天王社』、あるいは『祇園社』時代の狛犬かも知れません。現在の社紋として使われていました。(同上)

  • 右の建物は、神社には不可欠の手水舎です。足が外向きになった四方転びの柱のようですが、利用できる面は正面だけでした。例大祭では、氏神様を乗せた神輿が、猪名野神社と尼崎市猪名寺の元宮との間を往復するようです。伊丹市と尼崎市は、意外と近い距離にあります。(同上)

    右の建物は、神社には不可欠の手水舎です。足が外向きになった四方転びの柱のようですが、利用できる面は正面だけでした。例大祭では、氏神様を乗せた神輿が、猪名野神社と尼崎市猪名寺の元宮との間を往復するようです。伊丹市と尼崎市は、意外と近い距離にあります。(同上)

  • 社務所が別の場所にありましたから、この建物は授与所あたりかと思いましたが、今は特別な使途がない建物になっているようです。左隅の方に絵馬と、右隅に絵馬掛けがあっただけでした。明治2年の神仏分離により、観音堂、地蔵堂および仏教関係の諸記録等は、先に紹介した金剛院に移され、猪名野神社に改称されました。(同上)

    社務所が別の場所にありましたから、この建物は授与所あたりかと思いましたが、今は特別な使途がない建物になっているようです。左隅の方に絵馬と、右隅に絵馬掛けがあっただけでした。明治2年の神仏分離により、観音堂、地蔵堂および仏教関係の諸記録等は、先に紹介した金剛院に移され、猪名野神社に改称されました。(同上)

  • 猪名野神社の拝殿光景です。貞享2年(1685年)から翌年にかけて建立されたようです。伊丹が五摂家の筆頭、近衛家の所領になった貞享元年(1684年)の翌年、貞享2年(1685年)に本殿が再建されたと縁起に記されていました。地元の方にとっての荒木村重は、伊丹の町造りの恩人なのかも知れません。(同上)

    イチオシ

    猪名野神社の拝殿光景です。貞享2年(1685年)から翌年にかけて建立されたようです。伊丹が五摂家の筆頭、近衛家の所領になった貞享元年(1684年)の翌年、貞享2年(1685年)に本殿が再建されたと縁起に記されていました。地元の方にとっての荒木村重は、伊丹の町造りの恩人なのかも知れません。(同上)

  • 玄関などに注連縄が張られた、社務所の建物光景です。玄関右横に、『猪名野神社・社務所』の表札がありました。(同上)

    玄関などに注連縄が張られた、社務所の建物光景です。玄関右横に、『猪名野神社・社務所』の表札がありました。(同上)

  • 猪名野神社の由緒によれば、境内社が15社あります。その一覧は、 新宮神社、天満神社、厳島神社、佐田彦神社、貴布弥神社、祓戸神社、熊野神社、五柱皇子神社、立田神社、大地主神社・戎社、愛宕神社、塞神社、護国神社、神明神社と稲荷神社です。鳥居に『恵比寿』の扁額が懸かったこの神社は、『大地主神社』でした。(同上)

    猪名野神社の由緒によれば、境内社が15社あります。その一覧は、 新宮神社、天満神社、厳島神社、佐田彦神社、貴布弥神社、祓戸神社、熊野神社、五柱皇子神社、立田神社、大地主神社・戎社、愛宕神社、塞神社、護国神社、神明神社と稲荷神社です。鳥居に『恵比寿』の扁額が懸かったこの神社は、『大地主神社』でした。(同上)

  • 猪名野神社の境内末社の紹介を続けます。赤い鳥居の稲荷神社です。稲荷神を祀る神社を稲荷神社と呼び、京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本宮となっています。伏見稲荷大社を創建した秦氏族は、渡来系の氏族とされます。中国の秦の始皇帝13世系の子孫とも言われます。(同上)

    イチオシ

    猪名野神社の境内末社の紹介を続けます。赤い鳥居の稲荷神社です。稲荷神を祀る神社を稲荷神社と呼び、京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が日本各所にある神道上の稲荷神社の総本宮となっています。伏見稲荷大社を創建した秦氏族は、渡来系の氏族とされます。中国の秦の始皇帝13世系の子孫とも言われます。(同上)

  • 横から眺めた、猪名野神社の社殿光景です。伊丹氏の有形文化財の『猪名野神社神幸絵巻』によれば、町を挙げての神社の祭礼では、1703年から行列が猪名寺村(今の尼崎市)の御旅所まで巡行するようになり、この様子が3巻の絵巻に描かれています。今も続けられているようです。(同上)

    横から眺めた、猪名野神社の社殿光景です。伊丹氏の有形文化財の『猪名野神社神幸絵巻』によれば、町を挙げての神社の祭礼では、1703年から行列が猪名寺村(今の尼崎市)の御旅所まで巡行するようになり、この様子が3巻の絵巻に描かれています。今も続けられているようです。(同上)

  • 本堂の濡れ縁光景です。伊丹の銘酒の菰樽が並べられていました。『白雪』、『老松』と『大手柄』です。天下に名をとどろかせた『剣菱』、『男山』、『松竹梅』などの伊丹発祥の銘柄の多くは、灘などの蔵元に移転、買収されました。『大手柄』は、2006年に廃業しましたが、ブランドは2009年に小西酒造が復活させました。(同上)

    本堂の濡れ縁光景です。伊丹の銘酒の菰樽が並べられていました。『白雪』、『老松』と『大手柄』です。天下に名をとどろかせた『剣菱』、『男山』、『松竹梅』などの伊丹発祥の銘柄の多くは、灘などの蔵元に移転、買収されました。『大手柄』は、2006年に廃業しましたが、ブランドは2009年に小西酒造が復活させました。(同上)

  • 『新宮神社』の鳥居と、その先に見える拝殿と本殿の光景です。デジタル大辞泉プラスの解説には、『岐阜県郡上市にある神社。947年創祀。祭神は那比大神(なびおおかみ)』と解説されていました。那比新宮神社(なびしんぐうじんじゃ)とも呼ばれ、神体が仏像(金銅宝冠虚空蔵菩薩坐像)であるなど、廃仏毀釈以前の神仏習合の形が残っている神社とされます。(同上)

    『新宮神社』の鳥居と、その先に見える拝殿と本殿の光景です。デジタル大辞泉プラスの解説には、『岐阜県郡上市にある神社。947年創祀。祭神は那比大神(なびおおかみ)』と解説されていました。那比新宮神社(なびしんぐうじんじゃ)とも呼ばれ、神体が仏像(金銅宝冠虚空蔵菩薩坐像)であるなど、廃仏毀釈以前の神仏習合の形が残っている神社とされます。(同上)

  • 唐破風風の屋根のズームアップ光景です。鬼瓦や、軒丸瓦に、『猪名野神社』の社紋の『五瓜に唐花紋(ごかにからはなもん)』がありました。(同上)

    唐破風風の屋根のズームアップ光景です。鬼瓦や、軒丸瓦に、『猪名野神社』の社紋の『五瓜に唐花紋(ごかにからはなもん)』がありました。(同上)

  • 『天満神社』の光景です。学問の神様の菅原道真公を祀るようです。道真公の祖先は野見宿禰、出雲国から垂仁天皇の時に大和国に来ました。 当麻蹶速に角力で勝ち、相撲の租神とされます。 当時は殉死する者が多く、野見宿禰が埴土により殉死に代え、天皇は喜ばれ土師の姓を与えました。光仁天皇の天応元年(781年)、その末孫土師宿禰古人は、住む土地の名により土師を改め菅原姓となりました。(同上)

    『天満神社』の光景です。学問の神様の菅原道真公を祀るようです。道真公の祖先は野見宿禰、出雲国から垂仁天皇の時に大和国に来ました。 当麻蹶速に角力で勝ち、相撲の租神とされます。 当時は殉死する者が多く、野見宿禰が埴土により殉死に代え、天皇は喜ばれ土師の姓を与えました。光仁天皇の天応元年(781年)、その末孫土師宿禰古人は、住む土地の名により土師を改め菅原姓となりました。(同上)

  • 現在は空き家になっている境内社のようでした。薄いシートに覆われ、入口は金属線で縛られて、開かないようにしてありました。資の境内社の手掛かりも見付かりませんでした。(同上)<br />(追記)ネット情報では、以前は厳島神社だったようです。

    現在は空き家になっている境内社のようでした。薄いシートに覆われ、入口は金属線で縛られて、開かないようにしてありました。資の境内社の手掛かりも見付かりませんでした。(同上)
    (追記)ネット情報では、以前は厳島神社だったようです。

  • 『佐太彦神社』の光景です。佐太彦神社の御祭神は『佐太彦大神(さたひこのおおかみ)』です。『猿田彦神(さるたひこのかみ)』と同義とするネット情報もありましたが、『佐太彦神社』と『猿田彦神社』との関係は、さっぱり分かりませんでした。(同上)

    『佐太彦神社』の光景です。佐太彦神社の御祭神は『佐太彦大神(さたひこのおおかみ)』です。『猿田彦神(さるたひこのかみ)』と同義とするネット情報もありましたが、『佐太彦神社』と『猿田彦神社』との関係は、さっぱり分かりませんでした。(同上)

  • 幕末に伊丹の俳人達によって建てられた鬼貫の句碑の光景です。江戸時代の俳諧師、『上島鬼貫(うえじま・おにつら:1661~1738年)は、蕉門の広瀬惟然や八十村路通などとも親交があり、彼らを通じ松尾芭蕉とも親交を持つようになりました。作風に芭蕉の影響を受けましたが、『東の芭蕉・西の鬼貫』とまで称せられました。(同上)

    幕末に伊丹の俳人達によって建てられた鬼貫の句碑の光景です。江戸時代の俳諧師、『上島鬼貫(うえじま・おにつら:1661~1738年)は、蕉門の広瀬惟然や八十村路通などとも親交があり、彼らを通じ松尾芭蕉とも親交を持つようになりました。作風に芭蕉の影響を受けましたが、『東の芭蕉・西の鬼貫』とまで称せられました。(同上)

  • 鬼貫の句碑のズームアップ光景です。伊丹の酒造家、上島宗次の三男として生まれました。鬼貫の遠い祖先は武士の名家だったため、武士になりたいと熱望した鬼貫は、諸藩への短期間の武家奉公を繰り返しました。8歳で初めての句『こいこいといへど蛍がとんでゆく』を詠み、13歳で松江維舟の門に入り、16歳頃には芭蕉にも影響を与えた西山宗因を知るなど、若い頃から才能を発揮しました。(同上)

    鬼貫の句碑のズームアップ光景です。伊丹の酒造家、上島宗次の三男として生まれました。鬼貫の遠い祖先は武士の名家だったため、武士になりたいと熱望した鬼貫は、諸藩への短期間の武家奉公を繰り返しました。8歳で初めての句『こいこいといへど蛍がとんでゆく』を詠み、13歳で松江維舟の門に入り、16歳頃には芭蕉にも影響を与えた西山宗因を知るなど、若い頃から才能を発揮しました。(同上)

  • 鬼貫の句碑、『鳥ハ未(まだ) 口はほとけす 初鰹』の句の説明パネルです。春まだ浅く、囀り始めた鳥たちも、まだ覚束ない様子を詠んだものと解説されていました。嘉永4年(1707年)、鬼貫47歳の時の句です。『ほとけす』は、『解(ほど)けず』と読むのでしょうか。(同上)

    鬼貫の句碑、『鳥ハ未(まだ) 口はほとけす 初鰹』の句の説明パネルです。春まだ浅く、囀り始めた鳥たちも、まだ覚束ない様子を詠んだものと解説されていました。嘉永4年(1707年)、鬼貫47歳の時の句です。『ほとけす』は、『解(ほど)けず』と読むのでしょうか。(同上)

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