
2017/05/02 - 2017/05/08
6位(同エリア434件中)
ウェンディさん
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- Q&A回答130件
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- フォロワー350人
2017年のゴールデンウィークに御年73歳になる母と共にウズベキスタンの碧い都市を歩いてきました。
中央アジアにある国【ウズベキスタン】は日本ではまだまだ認知度が低い国で、サマルカンドやタシュケントという地名から「砂漠」・「駱駝」・「シルクロード」を連想することがあっても、人々のルーツや歴史的な背景などはあまり知られていないエリアだと思います。
実は、私もウズベキスタンについて調べ始めた時はそんな状態で、心に浮かんでいたのは「サマルカンド・ブルー」や「青」という抽象的な言葉が描くおぼろげな絵でした。
海外へと旅立つ時、子供の頃からの憧れだったから、あの風景を見たいから、思い出の地だから…など特定の理由や目的をそのモチベーションとする方が多いと思います。
事実、私も何かしらのターゲットを決めて旅をする場合が殆どです。
しかし今回の旅は例外で、その目的や旅先の選択理由が何であるのかは、旅の直前、飛行機に搭乗する段階になってすら自分自身で明確には捉えきれていませんでした。
ウズベキスタンへの渡航を決めた理由…その答えは何だかとてもモヤモヤと渦巻く霧のようで、「ウズベキスタンへと行きたい」という強い想い。
ただ、それだけでした。
そして、今回の旅の同行者である母。
母も私同様、ウズベキスタンに何かを感じていたようです。
母は歳の割にはかなり元気な方ですが、さすがにウズベキスタンは自分の年齢では無理だろう…と思っていたそうです。
でも、私がウズベク旅を計画していると知ると、「ウズベキスタンは、気になっていた国なの♪」と語尾にハート・マークが無限大についてきそうな勢いで返してきて、続いて母の口から出た言葉は、「一緒に行こう」。
母のその言葉には、迷いは一切無いように感じました。
300kmの距離を隔てて暮らす母と私。
それまでウズべキスタンの「ウ」の字も会話に出ていなかったのに、二人の旅ベクトルが同じ方向を示したとの云う事象が意味するのは【ウズベキスタンに呼ばれている】ということ。
砂漠を旅するキャラバンが砂の中の蜃気楼に惑わされ惹きつけられるように、母も私もウズベキスタンの記憶が紡ぐ古の蒼きオアシスの幻に引き寄せられたのかもしれません。
☆★2017G.W. スタンの国へ行ってみよう♪母と娘で歩くシルクロード 旅程☆★
□5/2 成田09:25-11:50インチョン15:45-19:20タシュケント(大韓航空)
タシュケント駅22:05-寝台列車-05:55(+1)ブハラ駅
■5/3 ブハラ観光
□5/4 アイダクル湖・キジルクム砂漠への一泊二日ツアーへ
□5/5 キジルクム砂漠-サマルカンド
□5/6 サマルカンド観光
□5/7 サマルカンド観光
タシュケント21:20-
□5/8 07:35インチョン10:10-12:30成田(大韓航空)
☆★旅行記☆★
・闇両替も悪徳警備員も、どんと来い♪ http://4travel.jp/travelogue/11240625
・夜行寝台列車はクリスティの世界 http://4travel.jp/travelogue/11243491
・古のオアシスが微睡む夢 http://4travel.jp/travelogue/11247059
・アレクサンドロスの追憶 https://4travel.jp/travelogue/11340022
・砂漠のユルタでキャンプ https://4travel.jp/travelogue/11346596
・生ける王が眠る青い古都 https://4travel.jp/travelogue/11349106
・Win-Win詐欺★甘い話には裏がある https://4travel.jp/travelogue/11351077
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 徒歩
- 航空会社
- 大韓航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ウズベキスタンへと到着したのは昨晩のこと。
母と私は無謀にも飛行機を降りた足でそのままタシュケント駅へと向かい夜行列車に飛び乗り、ウズベキスタンの古都であるブハラへとやってきた。
生まれて初めての夜行寝台列車。
どうなることかと危惧していたのだが、悩む位ならば身を任せよう♪と心地よい列車の揺れに身を預けてぐっすりと熟睡し、ブハラ駅へと到着。
宿で荷物を預かってもらったら、早速ブハラの町探検へ。
初めて訪れる町では、太陽の位置のチェックと、地図上と実際の道路の道幅の比較が大事。
これさえしっかりと把握しておけば、どんな町でも大丈夫…な筈だったが、母と私は見事に迷子になり、早朝のブハラの町の中を右往左往。
でも朝の2時間の迷子経験のお蔭で、ブハラの旧市街の地図はバッチリとインプットされ、午前9時には地図が無くてもOld City(旧市街エリア)ならばスタスタと歩ける位になっていた。
そんな私たちがブハラで最初に訪れたのが、現存する世界最古のイスラム建築であるイスマイール・サーマーニ廟。
砂漠の砂が揺り篭となり何世紀にも渡り守り続けてきた霊廟は、美しい幾何学模様に光の陰影を刻みながら、静かに佇んでいた。 -
母と私のブハラの町での滞在時間は、この日の朝6時から翌朝の9時まで。
古いオアシス都市であるブハラの旧市街地の観光エリアはそんなに広くはなく、団体ツアーならばその観光時間は3時間もあれば御の字とされている。
個人旅の口コミサイトでもブハラの観光には半日もあれば十分…なんていう意見も多い。
「そんな小さな町に丸1日もいてどうするの?」「飽きてしまうのでは?」
そのように思う旅人もいるだろう。
でも私はそうは考えず、むしろ、日中のわずか数時間しかブハラに滞在しない…とは、なんと勿体ないのだろうと感じていた。
その昔、シルクロードの砂漠を旅してきた隊商の一行が宿場としたオアシス都市;ブハラ。
こんこんと湧く泉には太陽の光が射しこみ、反射光がモスクやメドレセの緻密な青の装飾を輝かせる光景は当時の砂漠の旅人達の疲れを癒し、心に安息を与えたのではなかろうか。
光の入射角も計算に入れて建てられているブハラのイスラム建築。
その建築物の昔のままの美しさを感じたいならば、訪れるべき時間は、シルクロードを駱駝で旅するキャラバンがオアシス都市を訪れた時間帯;つまり光の陰影が深くなる朝と夕方が、一番のスペクタクルな景色を楽しめる時間帯となるだろう…そんな風に考えていた。
(写真: 11時:ミル・アラブ・メドレセ…陽射しはかなり強く、気温も上昇中) -
だから、この日の私たちの過ごし方も、基本は太陽の動きに合わせて。
午前中の比較的涼しい時間帯は町探検や古の王城やモスク散策でのんびり過ごし、最高気温が38℃にもなる暑い時間帯(12時-17時)は強い日差しを浴びた建物の外観も白く光ってしまうので町探検は一時中断して、メドレセ(神学校)やモスクの内部を見学したり、チャイハナ(ウズベキスタン式のカフェ)で一休み。
街歩きの再開は、陽射しの和らぐ17時頃とするザックリとした計画を立ててみた。
そして、実際に自分の目で見た夕暮れ時のブハラの古都。
夕方の少し翳りのある太陽光は建物の壁面装飾の凹凸を浮かび上がらせ、建物の陰影も炎天下の陽射しの中で見るよりもくっきりと見え、その視覚効果も抜群だった。
(写真: 17時頃:死者の塔“カラーン・ミナレット”) -
そんな過ごし方をしたブハラでの1日の旅行記の始まりは、朝9時半のアルク城の見学から。
アルク城があるエリアはブハラの町の礎となった地で、その歴史は2000年前にも遡る。
ブハラを統治した代々の王(ブハラ・ハン)は、この場所にその居城を構えていた。アルク城 城・宮殿
-
中央アジアの宿命である度重なる敵の襲来でアルク城は幾度も破壊され、そして再建を繰り返してきた。
7世紀のアラブとの戦い、13世紀のモンゴル軍による住民大虐殺の時も城は壊されたが、生き残った人々は壊れた部分を修理し、城を元あった姿へと戻していった。
しかし、今現在のアルク城に残されているのは石造りの城の抜け殻部分だけ。
100年前までは存在していたハン(王)の居住スペースなどの木造部分はもう見ることはできない。
1920年のソビエト(赤)軍による攻撃で、アルク城の木造建築部分の大部分は破壊され、崩れ落ちた。
(写真:レギスタン広場に面したアルク城の特徴的な城壁部分。ソ連による爆撃で壊された部分は修復されている) -
遠目に城壁の外壁面を眺めると、なんだか均等に並ぶドット模様が見える。
このドットの正体は壁に埋め込まれた木の棒で、建築時の足がかりとして使われた木材がそのまま装飾的な役割で残っているそうだ。
確かにのっぺりとした城壁にメリハリを与えている木の棒だが、私がハンならば、この木の棒は建築完了時に壁面と同じ面位置になるまで削ってしまうだろう。
どう見ても、この木の棒は外敵が城壁を超えて侵入するときに足がかりとなりそうな気がするのだけれど…。 -
アルク城の入場料(25000スム/2人)を払い城の中へと入ると、なんと門の直ぐ先の通路にあったのは牢獄;木の檻が付けられていた立派な牢屋だ。
かつての牢獄は、昔の風俗を示す展示やハン(王)の正装などの展示スペースとして使われていた。
城の正門の内側に牢獄がある理由。
多分それはアルク城前にあるレギスタン広場が、その昔は公開処刑所として使われていた場所だったからではなかろうか。
血脈の遺伝性が影響しているのか、ハンという役職が後天的な何かをもたらすのかは分からないが、歴代のハンは残虐で加虐性の強い気質である人物が多く、ハンに抵抗する反乱分子は容赦なく広場で処刑されたそうだ。
これから処刑される人物にその恐怖を与える為、わざと処刑場(レギスタン広場)に繋がる正門脇に牢獄を設けたのだとしたら、ブハラ・ハンはかなりのサディストだったのではないか…と思ってしまう。 -
アルク城の中へと入ると、その内部はちょっとした迷路みたく作られていて、ココが城だと聞いていなかったら、小さな村の中に迷い込んだのかと思うような雰囲気。
街路にはイスラム建築独特の門のアーチ形が見られ、9世紀以降のイスラム文化が台頭していた頃に城のデザインの基礎が作られたことがよくわかる。 -
そんな白い町の中を歩いていると、現れるのは装飾が施された大きな門。
こういう装飾があるのは、王(ハン)がらみの場所だよね…ということで門をくぐると…。 -
予想どおり、そこにあったのは飾り彫りの美しい天井をもつ玉座の間だった。
天井装飾はかなりきれいに保たれていたので、多分だがソ連の攻撃で焼け落ちてしまい後世に修復された装飾なのだろうが、天井を支えるクルミ材の柱は建築当時の崩壊を免れた姿で残っていた。
柱も天井同様にキレイに修復すればよいのに…との声もあるだろうが、今のままの傷がある柱の状態の方が歴史の重みを感じさせてくれる姿だと思う。
さすがに柱の台座部分は壊れてしまったらしく大理石製の台座に変えられていたが、上部へ行くほど細くなり天井に届く部分のムカルナス装飾(鍾乳石飾り)は見事(修復だけどね)だった。
玉座の間の壁部分は修復は施されずに漆喰でその模様だけを描いていたが、もし、この玉座の間がソ連に攻撃されずに今も残っていたとしたら、かなり見事な一室だったのだろう。 -
建物の一角には、一般庶民へのハン(王)の謁見スペースも有り、王は謁見台へと登り毎日300~400人の謁見者に顔見世をしたそうだ。
この謁見台へは私達見学者も登ることができ、そこからはブハラの町を見下ろせる。
絶景という程のスペクタクルな風景ではなかったが、高い建物が少なかった昔は、ハンはココから町を見下ろし、自分の権力を臣下の皆に知らしめたのだろう。 -
アルク城の中には、イスラム文化の建築物としてはなかなか意外なモノ:獅子の像もあった。
アフリカに居るライオン(獅子)に比べると、その獰猛さは影を潜めなにやら気弱そうな顔つきにも見えるが、それはシルクロードを経てウズベキスタンに伝聞される間に微妙にデフォルメされデザイン化された故だろう。
アフリカのライオンと日本のシーサーや狛犬の中間点のデザインにも見える。
で、このライオンの何処が意外なのかというと、この彫像が「獅子」という偶像であるという点だ。
旧約聖書では有名なシーンに、モーゼが山で神の神託を得ている間に、反モーゼ派の信者たちが金を溶かして羊の偶像を作り神として奉ったところ、それが「偶像崇拝を禁ずる」神の教えに背いたというコトで、羊の偶像を作った反モーゼ派の信者たちは神の雷に打たれ全員が即死する(実際は、モーゼ派の信徒が殺したのだろうが…)というくだりがある。
この部分はイスラム教の歴史の中でも神の啓示として同じように伝えられていて、過去から現在までのイスラム教においても、偶像崇拝をかなり厳格に禁じれている。
(キリスト教の中にはキリストやマリアの像を教会の祭壇に祀る宗派が多く、コレはある意味、偶像崇拝に当たる。キリスト教における偶像崇拝禁止の考え方には抜け道が多くあり、旧約聖書の逸話はあまり効力を発揮していない) -
そう、7世紀から中央アジアに根付くイスラム教を信じるハンの国としては、偶像であるライオン像を王城に置くなど、本来ならばあってはならないことだ。
でも、それをやってのけるのが、中央アジア人気質。
欧州人やアジア人等数々の民族が入り乱れ、○○人という概念は通用しない世界だった中央アジア。
アレクサンダー大王に制圧され、漢の武帝(仏教)に荒らされ、ペルシャ帝国(ゾロアスター教)の支配下に置かれ、トルコ族・アラブ族の侵略を受けてきた地域で暮らす人々。
その後の1000年にもわたるイスラム教の台頭にもかかわらず、彼らの心の奥底にあったのは、生き残れるのは勝者のみ、喰うか喰われるかの刹那勝負の世界観。
だから、ハン(王)は宗教で禁止されている…なんていう事は無視して、自分の優位性を示す象徴として、百獣の王である獅子の彫像を作らせた…のではないのかな。
(写真:アルク城で展示されているハンとその妃の衣装。現在のウズベキスタンの民族衣装と比較すると色使いは意外にシックだ。) -
イチオシ
一見しただけでは、ただの古い城に見えるブハラのアルク城だが、そこにはかなりドロドロの粘着質の黒歴史が詰まっている。
ココを訪れる観光客の多くは多分そんな歴史の裏話なんて、あんまり気にしないのだろう。
仲間との記念撮影なのか自撮棒を長く伸ばしては、写真をパチパチ撮るのに夢中な人が多い。
でも、実は私達もそんな彼らと一緒。
城の歴史よりも魅力的なモノ;ブハラ猫を見つけてしまった♪ -
アルク城の一角にはお土産さんが軒を連ねるスペースがあり、そこの裏で猫の親子を発見した。
母も私も大の猫好きなので、ネコを見つけようものならば思わず駆け寄ってしまう。
そして、ネコに惹きつけられた私達を見つけたお土産屋さんの店主のお兄さんも、どうやら私たちと同族らしく、お土産屋さんの仕事を放りだして、私たちとネコ談義。
とはいうものの、彼はウズベク語で私たちは日本語(英語も少し)なので会話は殆ど成立しないのだが、ネコ好きとは不思議なものでネコを介して雰囲気での会話が出来てしまう。
お兄さんは彼のお昼のパンをちぎってネコに与えながら、「この猫、ミーシャって言うんだ。可愛いだろう」とウズベク語で説明(多分、そう言っていたのだと思う)。
それに対し、母も「お母さんはミーシャって言うのね。可愛いわねぇ」と日本語で話していた。
2人はネコ談義で何やら話をしていたが、母には多言語の素質があるのか、長年の経験値から来る能力で言葉を介さずに話す能力があるのかは知らないが、知らない言語の土地でも、不思議と会話が成立している様だ。 -
仔猫たちは今年の春に生まれたばかりで、固形物も食べるがお母さんのお乳もまだ欲しい時期。
一心不乱にパンにかぶりつく仔猫、食事をするお母さんの下に潜り込み必死で乳首を探す仔猫。
彼等は野良ネコだが、お土産屋さんの店主さん達に可愛がられているので、人間を怖がることなく、平気で足元へとやってきては頭をスリスリとしてくる。
イスラムの国は猫に優しい国が多いよね♪ -
アルク城のレギスタン広場を挟んだ反対側には、ハン(王)専用のボラハウズと呼ばれるモスクがあり、モスク前のクルミの列柱が並ぶ柱が見事。
このモスクは現在でも祈りの場として活躍しているのだが、さすが王専用とあり、現代でも女性の入場は禁止されている。ボラハウズ モスク 寺院・教会
-
クルミの木で作られた柱は硬く、その装飾が美しい。
訪れた人が皆が撫でる為か、柱の下部はまるで磨いたかのようにピカピカ。
20本も柱を使った前庭の建築様式は、ブハラではここでしか見ることのできないアイヴァン様式だ。 -
イチオシ
このボラハウズ・モスクは別名:40列柱のモスクとも呼ばれている。
だから、私は柱が40本並んでいるのだとばかり思っていたが、前庭にあるクスミ柱の数は10本×2列の計20本。
どうして柱は20本しかないのに40列柱と呼ばれたのか。
モスクしか見て見なければ柱の数は20本しか見えないのだが、王が居住していたアルク城からこのモスクを眺めていた時、その景色の中には40本の柱があったそうだ。
2枚前の写真、池に映るボラハウズ・モスクの写真をもう一度見て欲しい。
前庭に20本、そして池に映るリフレインが20本で、計40本の柱だ。 -
ボラハウズ・モスクで美しいのは立ち並ぶクルミ列柱だけではなく、その天井も煌びやかだ。
-
アルク城のあるエリアを堪能した後に向かったのは、観光客でにぎわう旧市街地の中心地。
アルク城から徒歩10分でやってきたのは、ブハラの旧市街地の中でも一番有名な観光地である場所で、ココへは高さ46mのカラーン・ミナレットを目指して歩いてきた。
ブハラの町は地図が無くても歩ける町だと云われている。
その理由は、カラーン・ミナレットが目印となるから。
ブハラで一番高い建造物であるカラーン・ミナレットはどこに居ても見ることができる。
だから、道に迷ったら、まずはカラーン・ミナレットを目指して歩けば、とりあえずブハラの町の中心部には帰ってくることが可能だ。 -
焼き煉瓦で作られたカラーン・ミナレットは14層の模様で構成されていて、最上部にはトルコ・ブルーの色が印象的なタイルが嵌め込まれ、ウズベキスタンのミナレットの中でも独創的な造りだということだ。
現在も安息日の金曜礼拝の呼びかけにも使われるこのミナレットだが、その昔は大海原の中の灯台としても使われていた。
まだシルクロードをラクダに乗った隊商が歩いていた時代。
ミナレットの最上部にあるアーチ型の灯火窓にはかがり火が焚かれ、地図のない砂漠の中でオアシスのある町を示す道標となっていた。 -
カラーン・ミナレットの役割は、まだまだある。
さすがに現代はそのような目的で使われることは無くなったが、19世紀ごろのブハラではミナレットは死刑塔としての役割も兼ねていた。
ブハラのハン(王)の気質が代々サディスト的であったことは前に述べたが、特に末代のハンはその傾向が強固で、今から130年ほど前まで、袋に詰めた罪人を窓から投げ捨てるという死刑方法が実際に行われていたそうだ。カラーン ミナレット 寺院・教会
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イチオシ
カラーン・ミナレットの脇にはカラーン・モスク(入場料: 14000スム/2人)がある。
カラーン・モスクは16世紀に建てられた広い中庭を持つモスクで、正門の階段からモスクの正面を眺めると、目に飛び込んでくるのはトルコ石色の青い玉ねぎ型ドーム。
イスラム・アーチの内側には独特なイスラム文様が描かれていた。
薄暗いモスクの扉を潜った瞬間に目に映った景色;暗闇の向こうに浮かび上がる碧いドームの姿は、けっこう感動的だった。カラーン モスク 寺院・教会
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カラーン・モスクの中庭の広さは約1ヘクタールで、その昔は1万人の信者が祈りを捧げていた聖なる場所だ。
しかし、このモスクはソ連の属国であった時代には(ソ連時代、イスラム教は抑圧されていた)倉庫として利用されたと云う歴史を持つ。
当時のソ連の指導者は、他国の国民を懐柔するにはまずはその心をつかむのが大事だというコトを知らなかったのだろうか。
心のよりどころである宗教のモスクを倉庫に代用するなど、明らかにウズベキスタンの国民感情を軽視していたのではないかと思うのだが…。 -
カラーン・モスクの礼拝堂の最深部にはミフラーブと呼ばれる壁龕が埋め込まれ、その周りを玉ねぎドームと同じトルコ石色のタイルが覆っていた。
-
礼拝堂から中庭を振り返ると、青空に聳えるカラーン・ミナレットの姿。
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時刻は11時を過ぎ、日陰に居ると涼しい風が心地よいが、炎天下に出ると肌にさすような光で、空気が陽炎のようにも見える状態。
母はこの時点でかなりお疲れの様子だったので、風が通るモスクの日陰のベンチで、少し休憩してもらう。 -
その間に私は、周囲を探索に出かけた。
208本の柱から成る回廊が形作るカラーン・モスク。
その柱の上には288個の丸天井が隠されている…と云われている。
回廊を巡り、どこかでドーム天井の形が見える場所はないモノか…と探したのだが、建物の内側からはその形を見つけることはできなかった。 -
気を取り直して、モスクの入口まで行ってみる。
カラーン・モスクの門越しに見えてきたのは、二つの青の玉ねぎドームを持つミル・アラブ・メドレセ。
ドームのトルコブルーの色が、空に同化している。
まるで、ドームをパレットにして、空に彩色をしているかのよう。 -
美しい二つの玉ねぎドームを持つミル・アラブ・メドレセは現役の神学校で、今も多くの学生がイスラムの教えやアラビア語についてこの地で学んでいる。
ミル アラブ メドレセ 史跡・遺跡
-
ミル・アラブ・メドレセの青の装飾はティムール様式の末期のデザインと言われ、青×白で描かれた植物文様と文字紋様のタイルを組み合わせたものだ。
ティムール様式とは、ウズベキスタン建国の父であり中央アジアの覇者であるティムールの時代のイスラム建築で多用されたスタイルのことで、サマルカンドの建築物には多用されていた。 -
現役の学校の見学は、入口部分だけ。
静かで落ち着いた雰囲気の中庭は、勉学の空間。
観光客は入ることが出来ない。 -
ベンチで休む母の体力の回復を待ってから、少しブハラの町中を歩く。
町中で面白いものと言えば、たこ焼き型の屋根を持つタキと呼ばれる建物だ。
タキは昔の商業施設で、ギルドみたいなもの。
今から100年ほど前のブハラでは、職人さんや商売人さん達が同じ職種で集まり、一つの建物の中でマーケットを運営していた。
東京で云えば食器問屋さんの集まる合羽橋や、繊維問屋さんが集まる日暮里的な感覚だろうか。
ブハラに現存するタキはその建物の外枠は残されてはいるが、残念ながらギルド式のタキのシステム自体は消滅し、当時の問屋街の雰囲気を味わうことは難しい。
現存するタキの建物はこの写真のタキ・ザルガロン(宝石商のタキ)、旅行記2で紹介したタキ・サラフォン(両替商のタキ)、そして次の写真で紹介するタキ・テルパクフルシャンで、たこ焼き型のドーム一つ一つの天井には明かり取りの窓がついている。タキ (タキ ザルガラン、タキ サラファン、タキ テルパクフルシャン) 市場
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イチオシ
たこ焼き型のタキの建物は、旅の前にはかなり興味を持っていた部分だったのだが、実際に行ってみると日中のタキの内部は観光客目当てのお土産屋さんで埋め尽くされ、興ざめもほどほどにしてくれ…と叫びたくなるほどで、ちょっと残念な場所だったのだが、昔ながらの建築物としてのタキの雰囲気を味わえるお勧めの時間帯も有る。
それは、早朝。
朝7時頃のタキならばまだ土産物屋さんもお店を広げていないので、美しいたこ焼き型の造りを内部からも堪能することができる。タキ (タキ ザルガラン、タキ サラファン、タキ テルパクフルシャン) 市場
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タキ・ザルガロンの中の通り、そのまま表通りを直進すると現れるのが二つのメドレセ(神学校)であるウルグベク・メドレセとアブドゥール・アジズ・ハン・メドレセだ。
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15世紀に建造されたウルグベク・メドレセは特徴的なグルグル巻き柱を持つ、現存する神学校の建物としては中央アジアで最古のものだ。
でも私は、ここで感じたウルグベク・メドレセに対する印象を上手く思い出すことが出来ない。
というのも、入場料を払いメドレセの内側に入り、中庭を目にした瞬間に飛び込んできた映像があまりにショッキングすぎたから。ウルグベク メドレセ (ブハラ) 史跡・遺跡
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ウルグベク・メドレセの中庭には、学生たちが寝泊まりしていた神学校の状態がそのまま残されていて、実際に神学校時代の時に使われていた1階の小部屋部分、2階の寄宿舎部分の様子を見ることができる。
その昔はティムール様式の装飾で覆われていた中庭に面した小部屋の壁面は、そのタイルが朽ち、剥げ落ちていた。
その様子は歴史の流れを感じさせるもので決して悪い印象は持たなかったのだが、問題なのは神学校の小部屋の使われ方。
ウルグベク・メドレセの神学校の1階の小部屋は、観光客相手のお土産屋さんにその内部空間を占拠され、全体としては神学校の神聖さなんてこれっぽっちも感じさせないありさまに変わり果てていた。 -
お土産屋さんの入る小さな小部屋の中には数百年前のイスラム装飾が残されているのだが、それも商品で覆い隠されて保護もされていない状態(写真)だった。
ブハラは地域として世界遺産認定されているのに、歴史的な神学校を土産物屋さんが占拠しているって、いったいどういうコト!?
いったい政府はどういう管理をしている訳!? -
ウルグベク・メドレセの扉には学者でもありハン(王)でもあったウルグベクの格言「向学心こそ、ムスリムになくてはならぬもの」、「信仰する人には、いつでも神の祝福の扉が開かれている」と彫られているのだが…、
向学心ならぬ商売魂が先行する神学校の現状。
ウルグベクさんも下界を見下ろしては、天の上で嘆いているのではないかな。 -
しかし、そんなことを見ただけでテンションが下がる母と私ではない。
“郷に入れば郷に従え”が私達の旅モットー。
世界遺産の神学校の中にお土産屋さんがあるのがウズベク流儀ならば、それを文化として受け入れるのが旅人の嗜み…と、ちょっとだけお土屋さんの店先を覗いてみる。
で、結局、お土産屋さんにうまく乗せられて、手刺繍のブラウスとスザニのクッションカバーを購入することに。
・スザニのクッションカバー 2枚で7米ドル(約800円)
・手刺繍のブラウス 12米ドル(約1350円)
ブハラでは、メドレセの中での買い物以外に道沿いのお土産屋さんで小さな藍色の陶器とスザニのポーチを購入したが、物欲少なめな私たちはブハラでの買い物で十分に満足してしまい、この後に訪れたサマルカンドではお土産屋さんの店先すら覗かなかった。
・10cmサイズの陶器 4個で10米ドル(約1120円)
・スザニのファスナー式ポーチ 3枚で10米ドル(約1120円) -
お土産屋さんで何かを買うには、まず交渉から始めなければならない。
言い値の半分程度から初めて、最後は複数個買うから安くして作戦…等の交渉術が重要となる。
これから行かれる方には、上の写真の価格が参考価格となるとは思うが、買い物は縁であると考えると気が楽になると思う。
縁があれば、その品物は自分が納得する価格でやってくる。
もし、相手の最終提示価格が希望と折り合わなければ、そこでの買い物は諦めて次回の縁に期待する方がいいと思う。
価格交渉のやり方にもルールがあり、自分の欲しいものに対し始めからお店の方のプライドを傷つける様な価格を提示するのはルール違反。
彼らにも仕入れ値があるだろし、良いものを売っているというプライドがある。
お互いが気持ち良い取引が出きたと思える価格。
その価格をどのように引き出すか、それを愉しむゲームだと思えば買い物の交渉も苦にはならない。
(写真:ブハラ タキ・テルパクフルシャンの傍にあるスザニのポーチを購入した店。店番の中学生の女の子は流暢な日本語を話す。彼女のお姉さんは2016版の歩き方の内表紙の写真のモデルだそうだ) -
ウルグベク・メドレセの残念な内部にちょっとがっかりとして、メドレセの脇の石に座っていたら、学校帰りの小学生の子ども達に声をかけられた。
「カリーニャ(韓国人)?」と聞かれたので「ヤポーニャ(日本人)だよ」と答えると、私のカメラを見つけ、写真撮って♪と笑いかけてきた。
ウズベキスタンの人達は、人懐っこく写真を撮るのも撮られるのも大好きで、母と私も他の人の写真に沢山写りこんだし、彼らの写真も撮らせてもらった。
ウズベキスタンでは、ウズベク語、ロシア語、カザフ語、キルギス語と様々な言葉がちゃんぽんで話される上、英語の普及率は悪く、家庭的なホテルでは英語は通じないと考えておく必要がある。
でもね、年齢層が比較的若い人達(30歳くらいまでかな)には、簡単な日本語ならば通じる時もある。 -
ウズベキスタンの大きめの都市には日本語学校があり、多くの子供たちは通常の学校が終わった後にダブル・スクールで日本語学校へと通い、日本語を学んでいる。
多くの日本語学校がボランティアの活動により運営されているので、その費用は最低限だというコトだ。
ウズベキスタンはまだこれから発達していく国だが、現状では今の子ども達がオトナとなった時に憧れる職業というのはあまり多くは無く、幅広い学部のある大学の数も少ない。
そんな状況のなかで日本語を学び日本語検定1級に合格すれば、学生の奨学金制度を利用し公費での日本の大学への留学という道が開け、希望の翼を手に入れることができる…そう考える親世代が多く、子供を日本語学校へと通わせる家庭も多いらしい。
だから、ウズベキスタンの子供たちは、私たちが日本人と分かると物おじせずに「こんにちは」など話しかけてくる。
(写真:アルク城にて) -
そんな子供たちと少しだけ話をしてから、今度はウルグベク・メドレセの向かい側へとあるアブドゥール・アジズ・ハン・メドレセへと足を向ける。
アブドゥール・アジズ・ハン・メドレセは、その向かいにあるウルグベク・メドレセと比較するとかなり派手派手な装飾。アブドゥールアジス ハン メドレセ 史跡・遺跡
-
それもその筈。
ウルグベク・メドレセを構成するのは靑と白を基調とするタイルだが、アブドゥール・アジズ・ハン・メドレセのタイルは金箔や赤の色素も多用し、かなり色彩過多の状態。
コレを見た私の中に思い浮かんだのは、栃木県にある日光東照宮の色使い。
青と白のタイル模様が美しいウルグベク・メドレセは日本でいえば、銀閣寺。
多色使いのアブドゥール・アジズ・ハン・メドレセは日光東照宮。
私がどっちに軍配を上げたかと言えば、シンプルな優美さを持つウルグベク・メドレセだ。
ところで、ウズベキスタンの旅とは話が逸れてしまうが、最近修復された日光東照宮の彫像たち。
修復後の写真をネットでみたのだが、あまりに以前と雰囲気が違い過ぎていて驚いてしまった。
専門家が修復しているのだから、その色使いや技法に間違いはないと思うのだが、眠り猫なんて体毛の流れがハッキリと描きこまれているし、ちょっとどうなのかな…と思ったのは私だけではないと思うのだが。 -
ブハラの旧市街をプラプラ歩いていたら、時刻はもうすぐ13時。
宿(ホテル クルジン(Khuzjin))に戻り、チェックインをお願いする。
宿があるのはリャビ・ハウズから徒歩5分、クカリダシュ・メドレセの裏側に当たる場所だ。
朝6時に来た時には英語スタッフはまだいなかったが、この時にはちゃんと居てくれて、英語でのチェックイン手続きが無事に完了し、部屋に案内してもらう。 -
中庭に面して小さな部屋が並ぶ造りは、昔この建物が神学校(メドレセ)の寄宿舎であった時の名残で、部屋の中もメドレセの小部屋の雰囲気をそのまま残し、天井には明かり取りの天窓がある。
メドレセを改築しているので客室は広くはなく、シングルベッド2台で部屋の中は一杯一杯。
でも、エアコンやTVも付いているし、シャワーも各個室にある。
ただ、この宿が手放しでお勧め…という訳ではなく、リモコンの電池は電池切れを起こしていたのでエアコンを使用するためには私の手持ちの電池に交換が必要だったし、シャワーの湯温度はお湯ではなく、ぬるま湯程度までしか上がらなかった。
5月のブハラは最高気温が35℃以上あるのでぬるま湯シャワーでも苦にはならなかったが、冬は風邪をひく可能性が高い。 -
部屋の壁にはウズベキスタンの郷土民芸品のタペストリが飾られ、飾り棚にも可愛らしい置物が置かれていた。
女性受けの良い宿であることは間違いない。
枕元のサイドテーブルにはミネラルウォーター2本のサービスも有り、リャビ・ハウズから歩いて5分のロケーションを考えると、ツイン1泊(朝食付き)35米ドル/2人ならばお得だと思う。
因みに、ホテル代金の支払いは、基本は米ドル払いとなる。
宿泊施設によってはウズベキスタン通貨であるスムも使えるが、換算レートが闇レートよりも高いので、スム払いは米ドルで払うよりは割高になることが多い。 -
ウズベキスタンには外国人の宿泊に関する特別ルールがあり、ウズベキスタンに到着後72時間以内に宿泊施設での滞在登録を行わなければならない。
そして、観光目的のツーリストが滞在登録を行なうことができるのは、国の営業許可のある宿泊施設だけで、友人の家に泊まる…等というコトは許されない。(違反した場合は国外退去処分、高額罰金となる)
だから、私たちをチェックインと同時にパスポートをホテルのお兄さんに預け、滞在登録証:レギストラーツァを作成してもらった。 -
チェックインも終わり、荷物整理も終わったらあっという間に時刻は14時前。
お腹も空いたのでランチを食べに出かける。
そんなに重くない食べものをと思い、Cafeと看板のあるローカルな店へと入ったのだが、ココははっきり言って失敗だった。
Cafe場所はリャビ・ハウズの池の通り沿いにあり、店構えはいたって普通の店だったのだが、まずメニューが無かった。(ウズベキスタンではメニューが無いことはよくある)
客は、自分でキッチンまで出向いて行き、おばちゃんから作り置きの料理の説明を受ける。(作り置きというコトは、おばちゃんに新しく料理を作る気は一切ない)
でも、その説明はウズベク語だから分からないので、基本は目で見て料理の内容を理解をする。
その時に、価格の説明は一切なかった。 -
で、母と私が頼んだのは、スープとサラダを2人前とプロフ1人前にお茶。
今までに読んだブログなどの感覚から、高くても二人で5万スム(約760円)程度かと想像していたのだが、食事後にいくら?と聞いたら7万スム(約1060円)だという。
更に、支払う時に店のお姉ちゃんは客の財布の中を覗き込んでくる始末だったので、はっきり言って、店員の行儀も悪く、お勧めは出来ないお店だった。
食事の味は、悪くは無かったけれど。
後日に別のレストランで類似の食事をした時は4万5千スム、観光客向けのレストランでコース料理を食べた時も8万スムだった。
そこの金額を考えると、カフェのこれだけの料理で7万スムというのが如何に高いかがよくわかる。 -
昼食後は、ブハラで一番楽しみにしていたリャビ・ハウズ脇のナディール・ディヴァンベギ・メドレセへと向かう。
この写真の青のメドレセ(神学校)がその場所なのだが、メドレセ入口の門装飾(ファザード)が、イスラム教を信仰する国の建築物なのに…と驚かされる意匠となっているのはわかるだろうか。 -
イスラム教では偶像崇拝を禁止していることはアルク城のライオン像の部分で触れたのだが、このメドレセの建築を命じた大臣ナディール ディヴァンベギはアルク城でライオン像を建てた王よりも更に自己顕示欲が強く、建物の正面部分にイスラム教では禁止されている偶像【太陽・鳳凰・動物】をモザイク・タイルで描かせた。
更にもう一つ言及するならば、この建物は最初はシルクロードを旅する巡礼や旅人の宿であるキャラバンサライとして作られていた筈なのに、美しい偶像タイル細工を見たハン(王)がその装飾を非常に気に入り「素晴らしいメドレセだ」と呟いたばかりに、建設途中でその利用用途を宿から神学校に変更することになった…と云う歴史を持つ。ナディール ディヴァンベキ メドレセ 史跡・遺跡
-
イチオシ
サマルカンドにもファザードに偶像を描きこんだメドレセがあるが、こちらはイスラムの教義に反した建築物を作ってしまったことを建築家が後悔し、自死する結末を選んだとされる曰くつきの建物だ(一説によると、王の命令で偶像を装飾に入れたが、建築途中で王が後悔し始め、その責任を建築家に押し付け、暗殺した…との話もある)。
その点、ブハラのナディール・ディヴァンベギ・メドレセでは、建築家は死には追いやられなかったらしいが、きっと考える所はあったのではないかな。
ファザードに描かれた鳳凰は足に白い鹿を掴み、輝く太陽へ向かって飛んでいく絵柄。
きっとこれは、王の権力の更なる飛翔を意味するために描かれたのだろう。
これらは繁栄を意味するデザインとなのだろうが、じっとファザードを見つめていた私の目には太陽の顔は東北地方のこけし、鹿は白豚に見えてきてしまい、神聖なはずのメドレセの模様が何だか愛嬌のあるデザインに思えてきた。 -
鳳凰と白豚(もとい、白鹿)の図柄は正門わきの小部屋のデザインにも取り入れられていた。
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ナディール・ディヴァンベギ・メドレセの中庭は、ウルグベク・メドレセ同様に一階部分がお土産屋さんに占拠され、中庭にはテーブルとイスが並べられレストランが営業中。
文化的な貴重な遺産の使用用途として、お土産屋さんやレストランとはどうなのだろうか…と首をかしげたくもなるが、もうコレはそういう文化として受け入れるしかないのだろう。 -
時刻は14時半で、一日の中でも一番暑い時間帯。
こんな時間帯は水辺のカフェでのんびりと寛ごうと思っていたのだが、午前の旧市街探検で行き忘れたところを、一つ発見した。
それは、ブハラの貴婦人とも呼ばれる塔だ。
距離はそんなに遠くはなくが、リャビ・ハウズから歩いて15分、往復30分の時間がかかる。
炎天下の中を母が歩けるのかどうかが一番の心配だったのだが、母が行ってみたいというので、歩いてみることにした。ラビハウズ その他の料理
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イチオシ
ブハラの貴婦人であるチョル・ミナルがあるのは、旧市街地の中でも他のモスクやメドレセとは反対側で、少し行きにくい場所だ。
道も細い路地を入って行く為に、本当にこの道あっているのか…と思うような住宅街の中の道を進む。
そんな不安そうな思いが私の顔に出ていたのか、すれ違う町の人達は大抵「チョル・ミナル?」と声をかけてくれて、指先で方向指示してくれた。
だから、母と私は迷わず到着することが出来た。
チョル・ミナルの名前が意味するのは、4本の塔で、このミナレット(塔)を作らせたインドの大富豪の4人の美しい娘をイメージして作られたと云われている。チョル ミナル 史跡・遺跡
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だから、4人娘を表す4つの棟の模様は全て異なり、その繊細な図柄は貴婦人と云われるのも納得。
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チョル・ミナルまでの30分間の炎天下の散歩で、予想通り母はバテバテなのだが、絶景の見える日陰を求めてもう少しだけ移動する。
町中移動にタクシーを使うという手もあるが、ブハラの旧市街地は日中は車の通行が制限されている道路も有り、日陰を歩いて行くならば、タクシーに乗るのも歩くのもたいして変わらない。
目の前に見えるのは帽子のギルドであったタキ・テルパクフルシャンだ。タキ (タキ ザルガラン、タキ サラファン、タキ テルパクフルシャン) 市場
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タキ・テルパクフルシャンの脇には、ガイドブックには言及がないが、キャラバンサライ(隊商宿)の大きな遺跡がある。
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遺跡の内部には浴場(サウナ風呂)であったと思わせる形の空間も有り、観察するのが面白い…のだが、気温は38℃にもなろうかという酷暑。
こんなところに母を待たせていたら熱中症になりそうなので、早々に日陰へと移動する。 -
道を歩くウズベク人のおばさま方もさすがに陽射しが厳しいのか、帽子代わりのスカーフは欠かせないようだ。
ここで、ちょっとだけウズベク美人について私なりの推測を書いてみたい。
美人の定義というのは国により異なると思うのだが、どうやらウズベキスタンでの美人の条件は、胸もお尻も大きい女性らしい安産型の体型であることで、この定義は同じような考え方をする国も多いと思う。
そして、更にもう一つ、美人の条件がウズベキスタンにはあるようだった。
それは、金(Gold)が似合うコト。
ウズベキスタン独特の体全体を覆う衣装を着たおばさま方のお洋服にはたいてい、金色の模様が描きこまれていて、更にニカっと笑うと口の中の歯も金色の冠で覆われ、太陽の光がキラリと反射する。
今から半世紀以上前の日本にも年寄りの金歯が裕福な家庭のステイタスシンボルであった時代が存在したが、ウズベキスタンの場合は老いも若きも金歯がキラリだったので、多分、美しさの基準に金(Moneyでは無くてGold)が何らかの関与をしている様だった。 -
カラーン・モスクの近くまで来て、探していたチャイハナを見つけた。
チャイハナとはウズベキスタン式のカフェの事で、ここは旅ブログなどで絶景カフェとして紹介はされるのだが、なかなかその場所が見つけられないカフェとも云われる幻のカフェ;チャシマイ・ミロブ。
チャシマイ・ミロブがあるのは、カラーン・モスクの道路を挟んで向かい側だ。チャシマイ ミロブ カフェ
-
住宅街に入るようなイスラム門を抜けて坂を少し登ると、カフェの入口が右手にある(看板は無かったかもしれない)。
(写真:カフェ側から門越しにカラーン・ミナレットを眺める) -
暗く小さな入口を通り、階段を登っていくとカフェの2階席(室内)が見え、更にその上には螺旋階段が続く。
螺旋階段をそのまま登り続けると、建物の屋上のテラスへと出て、そこが絶景カフェであるチャシマイ・ミロブのテラス席。 -
お勧めのテーブルは、テラス席の張り出した部分。
レンガを積んだ手作り感あふれるカフェの建物なので、テラス席の張り出しているでっぱり部分は崩れ落ちそうで若干怖さもあるが、絶景には代えられない。 -
テラス席から見えるのは、少しずつ空の青味が夕焼け色に変わり始めてきている風景。
ブハラを代表する3つの建造物;カラーン・ミナレット、カラーン・モスク、ミル・アラブ・メドレセが目の前に広がる。 -
イチオシ
午前中は下から見上げることしかできなかったミル・アラブ・メドレセの二つの青いドームが目の高さと同じ位置にある。
ミル アラブ メドレセ 史跡・遺跡
-
ドームの基部の装飾のモザイク模様もその細部までが良く分かる。
-
そして、ドームの表明を注視すると…、
チョビ・チョビとドーム表面には生えている雑草の姿が見えてきた。
頑張ってタイルの間に根づいた雑草をこそげ落とさず、そのままの姿で残しておくのがイスラムの優しさ…なのかもね。 -
カラーン・モスクの天井にあると云われる288個の丸屋根も、カフェのテラス席から眺めると、その存在が一目瞭然。
地面からモスクの天井を見上げていた午前中は、どこに丸屋根があるのだろうか…と思っていたのだが、高いところからからモスクを眺めると、ポコポコと丸屋根が並ぶ様子が良く分かる。
こういう風景は高台にあるカフェからでなくては、見ることが出来ないよね。カラーン モスク 寺院・教会
-
カフェのテラス席からは、路地裏の様子なども見下ろすことができ、どこを眺めていても飽きることはなかった。
-
時刻は17時。
カフェは母と私以外には二組のお客さんしかおらず、その彼らもお酒を飲みながらのんびりと景色を楽しんでいるので、私たちもお茶を飲みながら、ゆったりと流れる時間を愉しんだ。 -
夕方の日の傾きが変わるのは、あっという間。
刻々と太陽光の当たる位置が変わり、青の玉ねぎドームはその色合いをゆっくりと変えていく。 -
18時過ぎにカフェを出て、夕闇迫るブハラの碧い都市を見上げる。
-
カラーン・モスクの白い回廊の中にも夕陽が入り込み、色合いが日中とは異なり優しい感じ。
カラーン モスク 寺院・教会
-
イチオシ
夕方の赤みを帯びた光が、ミル・アラブ・メドレセの青いファザードにベールをかける。
数百年前、砂漠を旅する隊商が見たブハラの町は、きっとこんな色合いだったのだろう。 -
観光客の人通りが少なくなったお店では、店番のお兄さんは立ち話をしていて、お爺さんは色の禿げた陶器の部分を修繕中。
その修繕の仕方が何とも原始的というか…で、その姿を観光客に見せてしまって良いのか状態。
お爺さんはカラフルな油性マジックを持ち陶器を手に取り、色が剥げているところに…。
もう、これ以上書かなくても、想像できるよね。
道端で売っているような安い絵皿は、飾り用として購入するのが無難かな。
食用食器として使用したら、なんだかマッキーの味がしそうだ。 -
19時。もうすぐ日没。
アリム・ハーン・メドレセ側からカラーン・ミナレットを眺めつつ、ホテルへと戻る。
夕陽を浴びたカラーン・ミナレットは碧いタイル装飾が浮かび上がり、その姿は昼間の光で眺めるよりも何倍も美しかった。 -
イチオシ
1200年に渡るブハラの町の歴史。
砂漠の中のオアシス都市の宿命で、何度も他民族に侵略され、チンギス・ハンには町を蹂躙され皆殺しに近いような目にもあった。
それでも、人々はまたオアシスに吸い寄せられるように集まり、イスラム装飾の美しい街並みを作り上げていった。
世界遺産の神学校の小部屋の中に鎮座するお土産屋さん…には驚かされたが、そのようなしたたかさこそがこの町が幾度の蹂躙にも耐え、不死鳥のように復活してきたパワーの源なのだろう。
この日の母と私のブハラ散歩は、この夕景が最後の写真。
一日かけてブハラの古都を歩き抜いたおかげで、もう夕食も食べる気力もないほど体力を使い果たし、宿に帰ってシャワーをしたのは覚えているが、その先の記憶はもう翌朝のもの。
タシュケントからの夜行寝台列車の旅に始まったウズベキスタンでの初日。
厳しい暑さの中でも母は予想以上に歩けていたので、この分ならば翌日以降も多分、大丈夫。
ウズベキスタンでの5日間は、面白い旅になりそうだ。
前の旅行記:夜行寝台列車はクリスティの世界
http://4travel.jp/travelogue/11243491
続きの旅行記:古のオアシスが微睡む夢
http://4travel.jp/travelogue/11247059
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この旅行記へのコメント (13)
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- TKさん 2017/06/18 20:45:00
- ブハラ懐かしいです。
- ウエンディさん
こんばんは。
ブハラ、楽しんいた様子何よりです。ここは素晴らしシルコロードのオアシス都市ですね。
写真を観て、あ!ここ登ったというところがありました。チャシマイ・ミロブ。というんですね。恥ずかしい話ですがウエンディさんの旅行記を読んで初めて知りました。
私は偶然行きました。眺望が素晴らしく、写真もきれいなのが取れました。
ブハラ、一日中ぶらぶらしても飽きない、異邦人の街、また行きたくなりました。
ありがとうございます。
TK
- ウェンディさん からの返信 2017/06/19 21:22:13
- RE: ブハラ懐かしいです。
- TKさん こんばんは。
TKさんの旅行記を拝見してから気になっていたウズベキスタンにGWを利用していってきました。(そして、また来年も…)
ブハラは小さい町で見どころがそれほど多いわけではないですが、カフェでのんびりお茶をしながら移りゆく景色を眺めるのが似合う町ですよね。
カラーンモスクの脇のチャイハナ・チャシマイミロブは私も偶然の産物でした。
あの辺りに絶景カフェがあるとは知っていましたが、行こうと思うと辿り着けない幻のフェとも聞いていたので、全く気にはしていなかったのですが…。
そういう時に限って、視野に入って来るのですよね。
ゆっくりと日が傾くオアシスの町を眺める贅沢な時間。
あのような時間の過ごし方は個人旅だからこその醍醐味。
気に入った場所で、何時間も過ごせるのって、幸せですね。
ところで、ペルーのイキトスの旅行記、凄かったです。
アマゾン川の自然を堪能する旅、良いですね。
私も憧れてはいますが、予算がまだまだ足りない…のが現実です。
いつか、行ってみたいところがTKさんの旅行記で、また一つ増えました。
ウェンディ
-
- くわさん 2017/06/03 09:32:00
- 美しい旅行記ですね
- 当時、共産圏の放送局はモスクワ放送とかラジオ・プラハとか局名にその国の首都の名を冠していました。
15の国から構成されていたソビエト連邦はそれぞれの国に放送局があり、カザフ共和国(現カザフスタン)にもラジオタシケントという短波放送のラジオ局がありました。
タシケントは日本に比較的近く、比較的受信しやすい放送局でした。受信報告書を送って、ベリカードという受信証をもらったりしていました。中学生時代の懐かしい話です。
短波放送を聴くことは当時流行っていて、各国の言葉の音韻、言葉の響きを面白おかしく、四か国麻雀として笑わせたタモリさんはコメディアンに、英語をまじめにとことん勉強した手島良先生は英語の教師になり、NHKの英語講座の講師に、短波放送の不思議さに捕らわれた私は無線技術者になるなど短波放送で人生を左右された人も多かったようでした。
カザフスタンやウズベキスタンなどの中央アジアには一度行って見たいと思い、数年前に計画しましたが、キルギスで紛争があり戦争の可能性もあったので断念しましたが。いつか行ってみたいですね。
それにしても美しい文章の旅行記ですね。グイグイ引き込まれてしまいました。これからも楽しみにしています。
ところで、イギリス旅行、着々と計画が進んでいます。コッツウォルズではウェンディさんが泊まられたところに予約を入れました。旅行記が大変参考になりました。ありがとうございました。
- ウェンディさん からの返信 2017/06/04 10:53:48
- RE: 美しい旅行記ですね
- くわさん こんにちは。
ウズベキスタンという国。
私がこの国の事をある程度詳しく知ったのは、ほんのここ3年位のこと。
それまでは、タシュケントという地名は知っていてもそれがウズベキスタンの首都であること、ウズベキスタンが過酷な運命に翻弄された地域であること、シベリア抑留者と同じように敗戦時に多くの当時の日本兵が強制路移動に駆り出されていたことなど、多くのことを知りませんでした。
そんなウズベキスタンの超・初心者である私が古くからのウズベキスタンの歴史に触れているくわさんにこんなことを云うのは変なのですが、敢て書いてしまいます。
「ウズベキスタンは、旅人を優しく迎えてくれるお母さんのような国。 是非、再び、くわさんの旅のリストに加えてください」と。
ウズベキスタンへと渡った知人は、口を揃えて「あそこはお勧め♪」と言っていました。
そして、私も今はそれに共感しています。
何故、なのでしょうね?
旅の後でもその理由は私にも分からないのですが、母も私もあの空気・雰囲気に獲りこまれてしまいました。
夏のイギリス旅、プランニングがまとまってきたようで良かったです。
コッツウォルズの同じ宿…The Bull Hotel/Fairfordでしょうか。
Fairfordは村と言ってもい程小さな町なので夜にレストランも閉まるのが早いと思います。
夕食は早めの時間にしておく方が良いかもしれませんね。
ウェンディ
- くわさん からの返信 2017/06/04 19:22:24
- RE: RE: 美しい旅行記ですね
- ウェンディさん、
なんかカザフスタンとウズベキスタンがごっちゃになったコメントで申し訳ありません。
ちょっと勘違いをしてました。
コッツウォルズの宿、まさにその通りです。
そしてもう一箇所。
結局、最終日までM4に近いコッツウォルズに滞在、その後M4を走ってヒースローに戻る予定です。
今日、ロンドンでまたまたテロがあったとのこと。
先々月キャンセルした韓国旅行は自分ではどうしようもない状況だったのであきらめましたが、ロンドンは後ろ向きに歩いて注意したいと思います。
食事の情報ありがとうございました。
無事帰ってきたら、旅行記をアップしたいと思います。
- ウェンディさん からの返信 2017/06/04 21:33:24
- RE: RE: RE: 美しい旅行記ですね
- 最近、テロがあちこちで頻発していますね。
今日のロンドン橋での事件も然り。
今の世界情勢では日本も例外ではなく、どこに行ってもテロやミサイルと背中合わせなのかもしれません。
かれこれ20年以上前に私がイギリスに居た時にはロンドンのキングスクロス駅で国内紛争に起因するテロがあり怖いと思いましたが、今はそれ以上に予想の付きにくい宗教がらみの無差別テロ。
宗教の考え方は人それぞれ。
難しいですよね。
たとえそれが、宗教という隠れ蓑を被った狂信的な集団だったとしても…。
-
- tabinakanotaekoさん 2017/05/30 12:01:25
- お母さんの目線で読ませていただきました。
- ウエンディさん、
ウズベキスタンって私の旅リストに入っておりませんでしたが
ウエンディさん母娘のこの旅行記で急上昇。中央アジアというのが
どの辺なのかも知らないので、後で地図を見てみます。
行ってみたいです。いいな〜、娘さんのいるお母さんは。
暑い中も弱音などはかず頑張られて拍手です。
お母さんの書かれた旅行記が読みたいわと思いました。
あなたのお母さんとほぼ同じような年齢ということもあり
俄然、行ってみようかという気持ちになりました。まだ私も
元気なんです。すっかりお母さんの気持ちになって
ページをめくっていきました。
英語事情は困りませんでしたか。
tabanakanotaeko
- ウェンディさん からの返信 2017/05/31 06:56:16
- RE: お母さんの目線で読ませていただきました。
- tabanakanotaekoさん、こんにちは。
母も私も初めての中央アジアで、旅に行く前はけっこうドキドキでしたが行ってみたら、ウズベキスタンは癖になりそうな程面白い国でした。
英語はホテルでも通じないことがありましたが、ブハラを歩いて迷子になっても地名を言えば、たいていの方が指さしで教えてくれました。サマルカンドでは、若い方たちが片言の日本語を理解できることが多く、英語で道を聞くとその答えが日本語で帰ってくることも少なくは無かったです。
親日家が多い国ですので(日本に対し、好印象を持っている方が多いですね)、旅をしやすい国だと思います。
もし、tabanakanotaekoさんが旅を検討されているならば、是非旅の前にウズベキスタンに関する本を何冊か読んでみてくださいね。(旅の本ではなく、エッセイやソ連による強制労働の記録等)。
民族も歴史も入り乱れている国なので、大まかな歴史の流れを抑えておくだけでも、モスクやマドラサ、その他の遺跡を見た時のその感動度が変わってきます。
そして、何故ウズベク人が親日の感情を持つのかも分かると思います。
中央アジアのスタンの国というと、なんだか危なそうなイメージが先行しますが、ウズベキスタンは治安も良く、女性の1人旅も安心して出来る国です。
旅先の候補としてもお勧めです♪
ウェンディ
- tabinakanotaekoさん からの返信 2017/05/31 09:20:54
- Re:お母さんの目線で読ませていただきました。
- ウェンディさん、
ガイドブック以外の本のお薦めをいくつか挙げて下さいませんか。やさしい取っ付きの良さそうな順にお願いします。最初に難解なのを読むとビビってしまうかも知れないからです。
プハラが出てくる度にプラハと読みそうになりますわ。
tabinakanotaeko
- ウェンディさん からの返信 2017/05/31 19:59:57
- RE: Re:お母さんの目線で読ませていただきました。
- 私が旅の前に読んだ中から、いくつかピックアップして見ました。
最初の3冊は軽めの本ですが、最後の1冊はズシリと来る本です。
・ウズベキスタン日記: 空想料理の故郷へ/高山 なおみ
・ウズベキスタンの桜/中山 恭子
・ウズベキスタン滞在記―シルクロードの中継点/矢嶋 和江
・日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた/嶌 信彦
歴史書は、ウズベキスタンの歴史を分かりやすく書いてある本というのは私も出会えていなく、様々な文献を拾い読みしました。
とりあえずエッセイを読んで、雰囲気を掴んでから歴史を学ぶ方が良い気がします。
- tabinakanotaekoさん からの返信 2017/05/31 21:10:17
- RE: RE: Re:お母さんの目線で読ませていただきました。
- ウエンディさん、
早速、4冊を紹介していただいて
ありがとうございました。図書館にあるかどうか
調べてくることにします。
それにしてもこれの他にも歴史書を拾い読みも
されたそうで、本当に読書家でいらっしゃるのですね。
その上に旅の前の下調べも本気でなさっているし
スゴイなと思います。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
tabinakanotaeko
-
- mayたんさん 2017/05/29 20:46:46
- カフェからのナイスビュー
- 日の当たり時間を計算しての遺跡巡り。
夕陽が当たったカラーンミナレット、とっても美しいですね。
モスクを一望できるカフェがあったとは、知らなかったです。
そこでのんびりお茶。羨ましいー。
私もその存在を知っていれば!
やっぱりウズベキスタンのモスクの青色って綺麗ですね。
日中かなり暑かったのではないですか?
私は暑さでヘロヘロになりました。
お母様本当にお元気!
私も年齢重ねても好奇心のまま、彼方此方旅したい。
情報盛り沢山のウェンディさんの旅行記、これから行く人には特に参考になりますね。
続きも楽しみにしてます。
may
- ウェンディさん からの返信 2017/05/30 00:19:53
- RE: カフェからのナイスビュー
- mayたんさん こんばんは。
旅の前には色々と教えていただいてありがとうございました。
初めての中央アジアでしたが、非常に面白く興味深い旅になりました。
イスラム圏はエジプトに始まり、モロッコ、ヨルダン、トルコ、(インドネシア)と旅をしてきましたが、ウズベキスタンのイスラムは他とはちょっとだけ異色ですね。
お祈りの仕方も両手を広げ神の祝福を手に受け止めて、その恵みを自分に還元する作法など、今回の旅を通して自然と学んできました。
ゆるゆるなイスラム文化だとも感じましたが、廟やモスクなど神聖な場所に入る時だけではなく食事の時にもお祈りをする敬虔さや、日本人(明らかにイスラム教徒ではないのは分かっているのに)の旅行者なのに一緒にお祈りをしようと誘ってくれたりする懐の広さなど、今までのイスラム圏の国とは異なる国民気質にとても親しみを持ちました。
ブハラでは、1日をゆっくりと旧市街地の中だけで過ごし、光の角度で変わりゆく景色を堪能してきましたが、やはりOld Cityが美しく輝くのは朝と夕方ですね。
柔らかい光の中に浮かび上がるモスクやメドレセの姿は感動的でした。
ブルーのタイルが作り出す尖塔の青は1つ1つが全て異なる色彩で、青く輝くオアシス都市の意味を身を以て体感してきました。
絶景チャイハナへと辿り着けたのは、運が良かったからかな。
ふと見上げた場所にカフェのテラス席があるのが視線に入り、あとは引き寄せられる様に辿り着きました。
最高気温38℃の酷暑のブハラでしたが、乾燥気候なので日陰に行けば体感気温はせいぜい28℃程度。
1日をかけてのんびりと歩いたからこそ、母も頑張れたのではないかと思います。
今回の旅でウズベキスタンがとっても気に入ってしまったウェンディ娘母は、次はヒヴァ+トルクメニスタンを画策中。
実行可能かはまだ未知数ですが、とにかくプランを練ってみようと思っています。
ウェンディ
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