2014/07/24 - 2014/07/24
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滝山氏照さん
上野国榛名山(はるなさん)の東南麓に広がる丘陵の中心部に位置する箕輪城(みのわじょう、群馬県高崎市箕郷町)は西側を流れる榛名白川や城の南側にある椿名沼と呼ばれる湿地帯など自然の地形を巧みに利用した東西約500m、南北約1100mに及ぶ広大な城域を有する関東屈指の城です。
築城は定かではありませんが1500年頃に長野氏によるもので、以降方業(まさなり、生没不詳)・業政(なりまさ、1499~1156)・業盛(なりもり、1544~1566)の3代が箕輪城を本拠にしています。
長野氏は武田信玄の西上野侵攻に際して最後まで抵抗しますが永禄9年(1566)9月難攻不落の箕輪城はついに落城、業盛は自害し長野氏は滅亡します。
その後は武田氏支配となり内藤正月が城代として西上野を治めますが、天正10年(1582)4月武田氏滅亡に伴い織田領となり宿将・滝川一益が関東統治の取次役を兼ねて入城、しかしながら同年6月明智光秀謀反によって信長が本能寺にて自刃を経て小田原北条氏との神流川戦いにより一益は敗退します。
念願の西上野を得た小田原北条氏ですが、豊臣秀吉による小田原討伐を受け、天正18年(1590)氏政・氏照兄弟の切腹及び氏政嫡男氏直の高野山追放で小田原北条氏は滅亡、箕輪城も秀吉の命により前田利家・上杉景勝軍等の攻撃を受け落城します。
滅亡した小田原北条氏遺領関八州は秀吉の意向に従い徳川家康が受け継ぐことになり、江戸に本拠を置いた家康は主たる重臣を各要所に配置する中で、上野国には後に徳川四天王の一人に数えられる井伊直政(いい・なおまさ、1561~1602)を最大石高の12万石で封じます。
直政はそれまでの箕輪城を大きく修復して大空堀を周囲に巡らし防御を堅める一方城下町を整備、現在残っている町割りなどは直政時代のものです。
然しながらその8年後の慶長3年(1598)直政は交通の要地である高崎に拠点を移しそのため箕輪城は廃城となります。
2022年9月13日追記
現地で入手のパンフレットには次のごとく紹介されています。
『 国指定史跡 箕 輪 城 跡
箕輪城の歴史
箕輪城は西暦1500年ころに高崎市の浜川地域を拠点としていた長野氏が築城した城です。
長野氏に関する文書資料が少ないことから、築城年・築城者など不明の点が多くあります。後の系図から、築城者は長野業尚(尚業)で、その後、憲業(信業)業政、業盛の計4代にわたって、長野氏が箕輪城を拠点にしていたと考えられます。
長野氏は業政の代に全盛期を迎え、西上野の国人諸将と婚姻関係を結び、勢力を広げました。永禄年間に入ると、西上野は甲斐の武田、相模の北条、越後の上杉の三巴の戦いの舞台になります。その結果、長野方の要所である国峰城(甘楽町)、安中城(安中市)、松井田城(安中市)、倉賀野城(高崎市)などが武田信玄によって落城してしまいます。こうした中、長野業政は関東管領山内上杉家に対して、最後まで尽くしていたことで知られています。そして、永禄9年(1566)、難攻不落であったと伝えられる箕輪城もついに落城することになりました。
落城後は、武田・織田・北条・徳川氏の城として使われます。この間城主となったのは、各戦国大名の重臣で、武田氏時代(1566~1582年)は内藤昌秀(昌豊)など、織田氏時代(1582年の1ヶ月間)は滝川一益、北条氏時代(1582~1590年)は北条氏邦などが城主を務めています。そして最後の徳川氏時代(1590~1598)は、井伊直政が徳川家康の家臣では最大の領地(12万石)を拝領し城主になっています。このように、戦国時代を通じて、西上野で最大の拠点になった城です。』
また、現地で入手した「箕輪城跡」と題するパンフレットでは下記の通り城郭を中心に記載されています。
『 箕 輪 城 跡
箕輪城跡は榛名山の東南麓に広がる独立丘陵上の中心部に位置します。城の西側を流れる榛名白川や城の南側に存在した榛名沼と呼ばれる湿地帯など自然の地形を巧みに利用した構造になっています。
城内で標高の最も高い280mほどの霊置山から御前曲輪、本丸、二の丸、郭馬出という尾根上の曲輪を城の中心軸として、線対称的に多くの曲輪を丘陵上に配している他、新曲輪、内宿などの平城部を一部含んだ平山城です。城域面積約36ha、そのうち国指定史跡範囲約19haと群馬県の戦国時代において屈指の規模を誇る城郭です。
昭和62年に群馬県の戦国時代を代表する城郭跡として国指定跡に指定されました。高崎市では平成10~18年度まで、本丸・二の丸・三の丸・郭馬出など城中枢部を中心に約7000m2を発掘調査しました。この調査は箕輪城跡を史跡公園として活用するための基礎資料収集を目的として行いました。その結果、最後の井伊直政期を中心に、門跡、石垣、石組の排水溝、土塁、堀、掘立柱建物が見つかっています。特に、堀の規模と虎口(出入り口)周囲の残りのよさが特徴であり、そうした特徴をいかした史跡の環境整備・遺構整備に平成23年度から着手しています。』
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 徒歩
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高崎市地図
駅前設置の地図にて改めて箕輪城跡位置を確認します。群馬バスにて8:25発「伊香保温泉」行に乗車、「城山入口」下車の予定でしたが、土・日のみ運行であること判明、予定変更して8:15発「箕郷営業所」行に乗車、終点で改めて渋川行に乗換とします。(運行本数が少ないので事前チェックが必要です) -
高崎駅西口周辺地図
西口前道路を直進すると高崎城址公園が見えます。 -
群馬バス箕郷営業所
途中の高崎経済大学で学生が多数下車、以降終点まではまるで貸切バスの呈でした。女性運転手から終点で9:00発渋川行に乗れば城山入口下車するようにアドバイスがありました。 -
旧家門構え
沿道は時代を感じさせる立派な門構えの旧家が建ち並んでいます。 -
箕輪城跡入口
「城山入口」下車し渋川方向に歩きY字を左に進むと箕輪城跡入口看板が視野に入ります。 -
箕輪城跡全景
入口を進むと前方になだらかな山々が左右に広がっているのが見えます。 -
箕輪城「搦手口(からめてぐち)」標柱
戦国時代の長野氏では大手口でしたが、その後の徳川家康重臣井伊直政入城後は大手口は城下町に近い南側に造られ、当所は搦手口と変更されています。 -
箕輪城跡遊歩道案内図
箕輪城は城主が替わるごとに幾度も造り替えがされており、現在の城跡は戦国時代における長野氏の城とはかなり異なり、現状は徳川家康重臣井伊直政在城時の姿と思われます。 -
二の丸登城
搦手口から一番近い二の丸に向かいます。 -
二の丸登城
城郭特有のクランク道となっています。さすがに戦国時代の防御には相当な対策が施されています。 -
二の丸跡
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二の丸跡石標
説明板によれば二の丸は「出撃する拠点」で四方への通路が確保されていたとされます。 -
箕輪城復元想像図
長野氏時代の箕輪城復元想像図で当時は今の搦手門が大手門となって描かれています。 -
箕輪城二の丸跡
現在では「あずまや(休憩所)」と洗面所が設置されています。 -
二の丸跡
あずまやから二の丸入口を見渡します。左側が駐車場となっているようです。
見学コースとしては二の丸~三の丸~蔵屋敷~御前曲輪~本丸を巡回する中央コースを採ってみます。 -
城郭風景
二の丸東端の「あずまや」から住宅街を見晴らします。 -
大堀切
二の丸跡から南側の大堀切を捉えます。この大堀切は城の中央部を南北に分断されています。 -
イチオシ
大堀切
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大堀切土橋
箕輪城を南北に分断する大堀切は南側が落とされても城の主要部(本丸・二ノ丸・三の丸)の北側を守る役割を果たします。そしてこの堀を唯一渡ることができる土橋が造られています。 -
大堀切標柱と説明板
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イチオシ
大堀切土橋
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大堀切
土橋から大堀切の東側を展望します。 -
大堀切
土橋から大堀切の西側を展望します。 -
郭馬出(かくうまだし)柱標・説明板
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郭馬出跡
52mX27m規模の郭で南側に出撃する拠点とされ西側に2階建ての櫓門と推定される門跡が在ります。 -
郭馬出説明
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木俣
郭馬出南端から空堀を越えて木俣方向を捉えます -
箕輪城歴代城主一覧
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郭馬出西虎口
途中で城郭地図にプロットして現在位置(郭馬出西虎口)を確認できるようになっています。 -
木俣方向
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木俣柱標
説明石碑には二俣や三俣のように五つの方向に分かれるのが木俣ですが当所がその形をしていることから木俣と呼ばれているそうです。 -
木俣
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郭馬出西虎口
大堀切底へ向かって坂を下ります。 -
大堀切底階段
坂から更に階段を下って大堀切の底道に向かいます。 -
郭馬出西虎口方向
底道から郭馬出西虎口方向に振り返ります。堀底までの途中ながら高低さが大きく大堀切のスケ−ルを感じます。 -
イチオシ
大堀切底道
底道は下り坂となりこのまま進むと大手虎とう門口に出ます。引き返して中央コ−スに戻ります。 -
二の丸説明
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三の丸跡方向
今度は二の丸から三の丸へ移動します。 -
三の丸跡
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三の丸柱標
三の丸跡中央に「三の丸」柱標が見えます。 -
本丸空堀西遊歩道
直進すると蔵屋敷となりますが右側遊歩道を降りて本丸西空堀に沿って北進します。 -
本丸西端
遊歩道から本丸西端を捉えます。 -
本丸空堀
本丸西空堀を右に見ながら遊歩道を北進します。 -
本丸西虎口通路
かつては本丸と蔵屋敷とは橋によって往来が可能でした。 -
本丸堀の橋台説明
本丸と蔵屋敷をつなぐ橋の土台があったとのことです。 -
本丸西虎口跡
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御前曲輪方向
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蔵屋敷説明
備蓄穀物を保管する場所であったと言われています。 -
本丸西空堀
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本丸西空堀
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稲荷曲輪方向
通仲曲輪(とおりなかくるわ)を左にして遊歩道を進んでゆきます。 -
御前曲輪北堀
説明ではここで五つの堀が分かれており、まず稲荷曲輪・玉木山・通仲曲輪の三つがくちばし状に集まっており、そして間を進むと新曲輪・丸馬出の二つに行くことができます。 -
御前曲輪北堀の位置
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御前曲輪北堀説明
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稲荷曲輪方向
本丸と同様の御前曲輪西空堀を右手に稲荷曲輪が正面方向にあります。 -
御前曲輪方向
当階段を登ると御前曲輪へ繋がります。 -
御前曲輪跡虎口
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御前曲輪跡
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箕輪城将士慰霊碑
永禄9年(1566)武田信玄攻撃に耐えきれず城主長野業盛は御前曲輪の持仏堂にて自刃、一族重臣等が跡を追ったそうです。 -
イチオシ
箕輪城跡柱標
昭和62年12月17日付で国指定史跡となっています。 -
箕輪城跡御前曲輪敷地寄贈記念碑
御前曲輪は土地所有者の安田利平次氏の寄贈によるものです。 -
御前曲輪井戸
城郭生活のうえで飲料水に関して確保していたと思われます。 -
御前曲輪井戸
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御前曲輪井戸内部
深さ20mの底から長野氏累代の墓石が多数掘り出されたそうです。 -
御前曲輪井戸説明
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芭蕉句碑
「夏草や兵どもが夢のあと」 -
句碑説明
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御前曲輪西虎口
空堀を隔てた通仲(とおりなか)曲輪を連絡する御前曲輪西入口跡です。 -
通仲(とおりなか)曲輪方向
かつては橋によって御前曲輪と通仲曲輪とが連絡されていました。 -
御前曲輪跡敷地東端
青々とした整備された敷地があまりにもきれいで不自然でもあります。 -
御前曲輪敷地北端
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御前曲輪敷地南端
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御前曲輪柱標と説明
本丸寄りに建立の柱標と説明板があります。 -
御前曲輪説明板
「 御前曲輪(ごぜんくるわ)
この郭は本質的に本丸の一部であって、落城の際、城主はここの持仏堂に入って自刃し、一族郎党みなあと追ったと伝えられているように、箕輪城の精神的中心であった。いわば天守郭か本丸の同一平面に設けられたとも考えられる所である。
昭和2年に発見された井戸からは多数の五輪塔などの墓石が発見された。
西南隅には櫓があったと思われ、濠内に石垣が残っている。
昭和57年1月
箕輪城跡保存会 」 -
御前曲輪説明板
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御前曲輪北西方向
御前曲輪柱標から北西方向を捉えます。 -
イチオシ
本丸跡
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本丸北虎口
本丸北入口で空堀を隔てて蔵屋敷と橋で連絡可能でした。北虎口門は間口5.4m、奥行き3.3mで本丸虎口3ヶ所の中で最大の規模でした。 -
本丸北虎口説明板
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本丸通路
本丸跡を右に、東端を走る土塁を左に見ながら通ります。 -
本丸跡
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本丸跡
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本丸説明板
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稲荷曲輪跡
本丸東端の土塁から見下ろすと稲荷曲輪跡の一部が視野に入ります。 -
本丸跡東端通路
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本丸跡土塁
本丸東端には2−3mの土塁が走っています。 -
イチオシ
本丸跡
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本丸柱標
柱標と共に沿革石碑が並立されてます。 -
イチオシ
箕輪城跡石碑
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箕輪城跡沿革
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箕輪城跡案内図
現在地(本丸)がプロットされています。 -
本丸石垣の一部
土塁が崩れないように三段ほど積まれ堀に沿って長く積まれています。 -
本丸石垣の一部(近景)
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石垣説明板
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本丸西虎口跡
空堀を隔てた蔵屋敷とを橋で連絡する本丸側虎口跡があります。 -
本丸西虎口跡
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蔵屋敷跡
本丸西虎口から蔵屋敷跡を捉えますが樹林に遮られ敷地跡が確認できません。 -
本丸西虎口説明
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本丸南虎口跡
本丸に設置され3虎口のうちの1つで二の丸から入場するため最も重要な虎口だったと思われます。 -
南虎口跡説明
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本丸門馬出跡
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本丸門馬出跡説明
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本丸虎口
二の丸と本丸を結ぶ唯一の通路は意識的に土橋風になっています。 -
本丸南堀
本丸を巡る空堀は幅30−40m、深さ10mで規模の大きさが伝わります。 -
本丸南虎口
本丸南堀の反対側は防御を意識した土塁が大きく造作されています。 -
本丸と二の丸を繋ぐ通路
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再び大堀切
帰路は大堀切を西進して「大手虎こう口」に出ます。 -
イチオシ
大堀切
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危険案内板
イノシシ出没の看板が立っています。 -
大手虎とう門口
大堀切を西進しますとその先は「大手虎とう門口」に出ます。 -
大堀切口
「大手虎とう門口」から振り返りますと大堀切の堀底の状況がわかります。 -
大手虎とう門口広場
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大手虎こう門柱標
大堀切の西部を守る位置にあり周辺井伊直政入城後に造作されたものと思われます。 -
虎こう門説明
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大手虎とう門駐車場
城域の西側道路から入城する場合は虎こう門が便利よく広い駐車場が完備されています。 -
大手虎とう門案内板
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白川口理門跡
虎とう門から榛名白川へ出る唯一の秘密通路だったそうです。 -
大手尾根口
城域西側道路を南下しますとフェンスが途切れる部分に「大手尾根口」があります。 -
大手尾根口柱標
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箕輪城コ−ス案内図
中央コ−ス合流(大堀切の土橋あたりか)まで約12分の行程のようです。 -
大手尾根口コース
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城址入口石柱
南進し交差点角に箕輪小学校が在りこの一隅に「箕輪城址入口」と刻された石柱が立っています。地図によれば当該学校を含む後背地が「椿名沼」という湿地帯であったようです。 -
箕輪城跡地図
箕輪小学校の石柱の横に立つ城跡地図で城域の中での位置関係が理解できます。 -
箕輪城城下町案内・裏宿
城下町には仲宿・裏宿・矢原宿・上の宿の4つの宿(家々が集まった所)があり、この一帯は裏宿で城下町の真ん中の裏にあったことから裏宿と呼ばれたそうです。 -
「裏宿」説明
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箕輪城城下町案内・道具屋敷
戦いに使う弓矢や武具を保管していた所でお城に近い場所が建っていたようです。 -
「道具屋敷」説明
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井伊氏時代の大手門周辺
井伊直政時代の大手口で間口約11m、奥行き4.4mの櫓門−文禄4年(1595)築−はやがて高崎移転の際「槻木門」として移築されています。 -
大手門周辺
大手門の前には「丸戸張」という馬出が構えられていたそうです。 -
大手門柱標・説明
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丸戸張説明板
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