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中山道NO8本庄宿から高崎宿へ

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2008/10/24 - 2008/10/24

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ムッシュ

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  • 【金鑽神社(かなさらじんじゃ)】埼玉県本庄市<br />金鑚(かなさな)神社、宿の京(西)口に位置し、本庄宿の総鎮守です。<br />寛永16年(1639年)本庄城主の小笠原忠真が創建。<br />本殿は享保9年(1724年)に建てられたもの。寛永16年(1639年)に植えられた楠は県の天然記念物に指定されている。<br />(埼玉県本庄市千代田2丁目)<br /><br />【金鑚神社】 <br />  社伝によると、創立は欽明天皇の2年(547)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の嵩信が厚かった。<br />  境内は、ケヤキやイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は享保9年(1724)、拝殿は安永7年(1778)幣殿は嘉永3年(1850)の再建で、細部に見事な獄彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井画がある。<br />  当社の御神木となっているクスノキの巨木は、県指定の天然記念物で、幹回り5.1m、高さ約20m、樹齢約300年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信綱の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられる。<br /><br /> 

    【金鑽神社(かなさらじんじゃ)】埼玉県本庄市
    金鑚(かなさな)神社、宿の京(西)口に位置し、本庄宿の総鎮守です。
    寛永16年(1639年)本庄城主の小笠原忠真が創建。
    本殿は享保9年(1724年)に建てられたもの。寛永16年(1639年)に植えられた楠は県の天然記念物に指定されている。
    (埼玉県本庄市千代田2丁目)

    【金鑚神社】 
      社伝によると、創立は欽明天皇の2年(547)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の嵩信が厚かった。
      境内は、ケヤキやイチョウなどの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿でつないだ、いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。本殿は享保9年(1724)、拝殿は安永7年(1778)幣殿は嘉永3年(1850)の再建で、細部に見事な獄彩色の彫刻が施されており、幣殿には、江戸時代に本庄宿の画家により描かれた天井画がある。
      当社の御神木となっているクスノキの巨木は、県指定の天然記念物で、幹回り5.1m、高さ約20m、樹齢約300年以上と推定される。これは本庄城主小笠原信綱の孫にあたる忠貴が社殿建立の記念として献木したものと伝えられる。

     

  • 創立は欽明天皇2年(541)と,極め付きの古い歴史ある神社である。本庄地区の総鎮守。本庄城主だった小笠原氏によって創建され,本殿,拝殿,神楽殿,水屋,大門,神輿殿すべて豪奢な佇まいである,とくに社殿には,細部に見事な極彩色の彫刻が施されている,屋根には徳川家の家紋である「葵の御紋」が載っているのが確認できる。。<br /> 弘治2年(1556)本庄城築城の時,東本庄館から本庄2丁目の大正院付近に移され,更に寛永16年(1639)頃に現在地に移転したと伝えられている。権現造りの社殿は修復されたが極彩色漆塗りは建築当時のもの。

    創立は欽明天皇2年(541)と,極め付きの古い歴史ある神社である。本庄地区の総鎮守。本庄城主だった小笠原氏によって創建され,本殿,拝殿,神楽殿,水屋,大門,神輿殿すべて豪奢な佇まいである,とくに社殿には,細部に見事な極彩色の彫刻が施されている,屋根には徳川家の家紋である「葵の御紋」が載っているのが確認できる。。
     弘治2年(1556)本庄城築城の時,東本庄館から本庄2丁目の大正院付近に移され,更に寛永16年(1639)頃に現在地に移転したと伝えられている。権現造りの社殿は修復されたが極彩色漆塗りは建築当時のもの。

  • 【金鑽神社(かなさらじんじゃ)】【本庄宿】<br />本庄宿の総鎮守。<br />欽明天皇二年(541)創建の古刹で武蔵七党の一つである児玉党の氏神で、本庄城主歴代の崇敬が篤かったといいます。<br />本殿は享保九年(1724)、拝殿は安永七年(1778)、幣殿は嘉永三年(1850)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施された権現造り。<br />黒門は本庄市指定文化財です。<br />御神木のクスノキは埼玉県指定の天然記念物です、これは本庄城主小笠原信綱の孫にあたる忠	貴(ただたか)が嘉永十六年(1639)社殿改修時に献木したものです。

    【金鑽神社(かなさらじんじゃ)】【本庄宿】
    本庄宿の総鎮守。
    欽明天皇二年(541)創建の古刹で武蔵七党の一つである児玉党の氏神で、本庄城主歴代の崇敬が篤かったといいます。
    本殿は享保九年(1724)、拝殿は安永七年(1778)、幣殿は嘉永三年(1850)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施された権現造り。
    黒門は本庄市指定文化財です。
    御神木のクスノキは埼玉県指定の天然記念物です、これは本庄城主小笠原信綱の孫にあたる忠 貴(ただたか)が嘉永十六年(1639)社殿改修時に献木したものです。

  • 【浅間山古墳】  上里町指定文化財<br />七世紀前半につくられた古墳で、階段を登ると浅間神社と鉄の扉にしめ縄でふさがれた洞穴。

    【浅間山古墳】  上里町指定文化財
    七世紀前半につくられた古墳で、階段を登ると浅間神社と鉄の扉にしめ縄でふさがれた洞穴。

  • 埼玉県上里町のはずれにあるのが【神流川(かんながわ)】である<br />50mほど上流の勅旨河原に旧中山道の渡船場があった。この川を渡ると、いよいよ上州(群馬県)の新町に入る<br />神流川橋を渡った辺りが「神流川古戦場」として知られたところだ橋の袂に記念碑と説明板が建っている<br /><br />説明によると、信長が本能寺の変で亡くなった時<br />厩橋(うまやばし、現前橋)城で北関東一帯を押さえていた<br />織田の武将滝川一益は急遽上京しようとした<br /><br />しかしそれを阻止しようとする後北条とここで衝突し<br />壮絶な戦いを繰り広げ大敗を喫した<br />滝川一益は、この時2670名の戦死者を出し厩橋に撤退したという<br />その時、一益の勢力下にあった金窪城も落された<br />なお、神流川古戦場跡一帯は、現在は陸上自衛隊駐屯地になっている<br />(埼玉県児玉郡上里町)<br />

    埼玉県上里町のはずれにあるのが【神流川(かんながわ)】である
    50mほど上流の勅旨河原に旧中山道の渡船場があった。この川を渡ると、いよいよ上州(群馬県)の新町に入る
    神流川橋を渡った辺りが「神流川古戦場」として知られたところだ橋の袂に記念碑と説明板が建っている

    説明によると、信長が本能寺の変で亡くなった時
    厩橋(うまやばし、現前橋)城で北関東一帯を押さえていた
    織田の武将滝川一益は急遽上京しようとした

    しかしそれを阻止しようとする後北条とここで衝突し
    壮絶な戦いを繰り広げ大敗を喫した
    滝川一益は、この時2670名の戦死者を出し厩橋に撤退したという
    その時、一益の勢力下にあった金窪城も落された
    なお、神流川古戦場跡一帯は、現在は陸上自衛隊駐屯地になっている
    (埼玉県児玉郡上里町)

  • 【戦国時代の神流川(かんながわ)古戦場跡】<br />この川を渡れば群馬県の神流川古戦場跡碑があります。<br />天正十年(1582年)織田信長が本能寺に倒れると、家臣の厩橋(前橋)城主瀧川一益は信長の仇を討たんと、16,000の兵を率いて出陣、これに対し好機至れりと北条氏政は50,000の大軍を進め、両軍は神流川原で激突し、瀧川軍は戦死者3,760名を出し敗退しました、<br />

    【戦国時代の神流川(かんながわ)古戦場跡】
    この川を渡れば群馬県の神流川古戦場跡碑があります。
    天正十年(1582年)織田信長が本能寺に倒れると、家臣の厩橋(前橋)城主瀧川一益は信長の仇を討たんと、16,000の兵を率いて出陣、これに対し好機至れりと北条氏政は50,000の大軍を進め、両軍は神流川原で激突し、瀧川軍は戦死者3,760名を出し敗退しました、

  • ここでは【神流川(かんながわ)合戦】と呼ばれる大きな戦があった。<br />天正10(1582)年6月2日、織田信長は本能寺の変で横死した。<br />その情報は、6月9日に、関東の地で戦っていた織田方の武将・滝川一益のもとに届き、同じ頃に、この地で争っていた北条氏にも知られるところとなる。一益は、信長の仇を討とうと、急いで京を目指す。<br />対する北条氏は、この好機を逃すまいと、5万の大軍をこの神流川流域に差し向けた。一益は、西上州軍1万6千を率いて、6月18日、合戦に入る。<br />この戦は、関東における戦国時代最大の激戦で、「炎熱石を焦がし流水煮える中に阿鼻叫喚の死闘であった」と伝えられている。<br />滝川軍は3,760人の戦死者を出しながら、翌19日、中山道を京に向かって敗走した。その後一益は、中山道を通過するために、木曽地域を支配する木曾義昌の懐柔に奔走する。「足止め」をくらっていたのだ。<br />そうこうしているうちに、6月27日、信長亡き後の織田家の体制を決定する「清洲会議」が、一益を除く4人の宿老、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、そして羽柴秀吉の間で開かれてしまう。一益にとっては、生涯の痛恨事だったことだろう。<br />これを境に、織田家における一益の地位は一挙に急落してしまう。

    ここでは【神流川(かんながわ)合戦】と呼ばれる大きな戦があった。
    天正10(1582)年6月2日、織田信長は本能寺の変で横死した。
    その情報は、6月9日に、関東の地で戦っていた織田方の武将・滝川一益のもとに届き、同じ頃に、この地で争っていた北条氏にも知られるところとなる。一益は、信長の仇を討とうと、急いで京を目指す。
    対する北条氏は、この好機を逃すまいと、5万の大軍をこの神流川流域に差し向けた。一益は、西上州軍1万6千を率いて、6月18日、合戦に入る。
    この戦は、関東における戦国時代最大の激戦で、「炎熱石を焦がし流水煮える中に阿鼻叫喚の死闘であった」と伝えられている。
    滝川軍は3,760人の戦死者を出しながら、翌19日、中山道を京に向かって敗走した。その後一益は、中山道を通過するために、木曽地域を支配する木曾義昌の懐柔に奔走する。「足止め」をくらっていたのだ。
    そうこうしているうちに、6月27日、信長亡き後の織田家の体制を決定する「清洲会議」が、一益を除く4人の宿老、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、そして羽柴秀吉の間で開かれてしまう。一益にとっては、生涯の痛恨事だったことだろう。
    これを境に、織田家における一益の地位は一挙に急落してしまう。

  • 神流川(かんながわ)を横断します。

    神流川(かんながわ)を横断します。

  • 「木曽街道六十九次 本庄宿 神流川渡場」<br />

    「木曽街道六十九次 本庄宿 神流川渡場」

  • 【神流川(かんながわ)古戦場跡碑】(説明は次の写真参照)<br />天正10年(1582)6月19日、織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領瀧川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、これに対して好機至れりと北条氏は五万の大軍を神流川流域に進めた。瀧川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍一万六千を率いて、石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、瀧川軍は戦死三千七百六十級の戦史に稀なる大激戦で「神流川合戦」と呼んでいる。後世古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。<br /><br /> 天正10年(1582)6月18日,滝川一益と北条氏邦・氏直が戦った場所。<br />滝川一益は,織田信長に仕え,武田氏討伐の功績により佐久・小県ニ郡と上野の国が与えられ,天正10年3月,甲府を出て,各地の諸将を掌握しながら「厩橋城(前橋城」)へ入城。一方,小田原を中心に勢力を張った北条氏は,北の要所として「鉢形城」に氏邦をおき,勢力を維持し「金窪城」は両者の最前線となっていた。天正10年6月,「本能寺の変」で,織田信長が討たれたのを機にここぞとばかりに北条軍が進出してきて両者の戦いが始まった。6月16日北条軍は倉賀野表へ出陣し6月18日未明,戦いの火ぶたは切られ,激しい戦いとなったが,滝川側が金窪城を落とし北条氏邦が敗走。だが,翌日北条氏直の援軍が到着し形勢逆転,今度は滝川軍が敗走した。<br /> 滝川軍は,1万6千,北条軍は1万5千人で,北条氏の勝利におわり,滝川軍の戦死約3760余と云われている。

    【神流川(かんながわ)古戦場跡碑】(説明は次の写真参照)
    天正10年(1582)6月19日、織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領瀧川一益は信長の仇を討たんと京へ志し、これに対して好機至れりと北条氏は五万の大軍を神流川流域に進めた。瀧川一益は義を重んじ勇猛の西上州軍一万六千を率いて、石をも燃ゆる盛夏の中死闘を展開し、瀧川軍は戦死三千七百六十級の戦史に稀なる大激戦で「神流川合戦」と呼んでいる。後世古戦場に石碑を建立し、首塚、胴塚も史跡として残され東音頭にもうたわれ、神流の清流も今も変わることなく清らかに流れている。

     天正10年(1582)6月18日,滝川一益と北条氏邦・氏直が戦った場所。
    滝川一益は,織田信長に仕え,武田氏討伐の功績により佐久・小県ニ郡と上野の国が与えられ,天正10年3月,甲府を出て,各地の諸将を掌握しながら「厩橋城(前橋城」)へ入城。一方,小田原を中心に勢力を張った北条氏は,北の要所として「鉢形城」に氏邦をおき,勢力を維持し「金窪城」は両者の最前線となっていた。天正10年6月,「本能寺の変」で,織田信長が討たれたのを機にここぞとばかりに北条軍が進出してきて両者の戦いが始まった。6月16日北条軍は倉賀野表へ出陣し6月18日未明,戦いの火ぶたは切られ,激しい戦いとなったが,滝川側が金窪城を落とし北条氏邦が敗走。だが,翌日北条氏直の援軍が到着し形勢逆転,今度は滝川軍が敗走した。
     滝川軍は,1万6千,北条軍は1万5千人で,北条氏の勝利におわり,滝川軍の戦死約3760余と云われている。

  • 【神流川(かんながわ)合戦】<br />天正十年(1582)織田信長に仕えていた関東管領滝川一益(上州・現前橋に居住)が本能寺の変で急遽上京しようとした際、これを阻止しようとした小田原の北条氏と激突。一益は2700余人の戦死者を出して敗走した。戦いをしのぶ記念碑あり。

    【神流川(かんながわ)合戦】
    天正十年(1582)織田信長に仕えていた関東管領滝川一益(上州・現前橋に居住)が本能寺の変で急遽上京しようとした際、これを阻止しようとした小田原の北条氏と激突。一益は2700余人の戦死者を出して敗走した。戦いをしのぶ記念碑あり。

  • 英泉 木曽街道”新町”<br />大きな川は、神流川(かんながわ)。<br /><br />

    英泉 木曽街道”新町”
    大きな川は、神流川(かんながわ)。

  • 【新町宿】<br />新町宿常夜灯。神流川橋親柱<br />新町宿は上野(こうずけ)七宿の東口にあたり、神流川の渡しを控え、宿場がないと何かと不便とのことで、承応二年(1653)落合村と笛木村を合わせて新町宿が成立しました。<br /><br />天保14年(1843)頃の新町宿の宿	内家数は407軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠43軒で、宿内人口は1,437人、小宿ながら飯盛ははなはだ盛んでした。<br />2軒の本陣は、小林甚左衛門本陣(建坪135坪)と久保五左衛門本陣。

    【新町宿】
    新町宿常夜灯。神流川橋親柱
    新町宿は上野(こうずけ)七宿の東口にあたり、神流川の渡しを控え、宿場がないと何かと不便とのことで、承応二年(1653)落合村と笛木村を合わせて新町宿が成立しました。

    天保14年(1843)頃の新町宿の宿 内家数は407軒、うち本陣2、脇本陣1、旅籠43軒で、宿内人口は1,437人、小宿ながら飯盛ははなはだ盛んでした。
    2軒の本陣は、小林甚左衛門本陣(建坪135坪)と久保五左衛門本陣。

  • 【中山道 新町宿 常夜灯(見通し灯籠)】<br />新町宿は、本庄宿と倉賀野宿の間にあり、江戸から数えて11番目、中山道69次の中で最も新しくできた宿場町だ。

    【中山道 新町宿 常夜灯(見通し灯籠)】
    新町宿は、本庄宿と倉賀野宿の間にあり、江戸から数えて11番目、中山道69次の中で最も新しくできた宿場町だ。

  • 【中山道 新町宿 行在所公園】<br />中山道沿いに「行在所(あんざいしょ)公園」というところがあり、ここに、明治11(1878)年、明治天皇が北陸巡幸の際にご宿泊された平屋建ての建物が残されていた。

    【中山道 新町宿 行在所公園】
    中山道沿いに「行在所(あんざいしょ)公園」というところがあり、ここに、明治11(1878)年、明治天皇が北陸巡幸の際にご宿泊された平屋建ての建物が残されていた。

  • 【柳茶屋の芭蕉句碑】八坂神社 芭蕉句碑(拡大で読めます)<br />鳥居脇に宿の俳人達が天保十年(1839)に建立した句碑<br />「傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな」

    【柳茶屋の芭蕉句碑】八坂神社 芭蕉句碑(拡大で読めます)
    鳥居脇に宿の俳人達が天保十年(1839)に建立した句碑
    「傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな」

  • 昔この辺りに柳の大木があり,傍らの茶屋を柳茶屋と言った。新町宿の俳人小渕湛水・笛木白水らが柳にちなむ芭蕉の俳句を撰して,<br />天保10年頃句碑を建てた。<br />  「からかさにおしわけ見たる柳かな」

    昔この辺りに柳の大木があり,傍らの茶屋を柳茶屋と言った。新町宿の俳人小渕湛水・笛木白水らが柳にちなむ芭蕉の俳句を撰して,
    天保10年頃句碑を建てた。
      「からかさにおしわけ見たる柳かな」

  • 日本スリーデーマーチ発祥の地碑

    日本スリーデーマーチ発祥の地碑

  • 岩鼻陣屋跡にある小さな神社。<br />観音寺の裏手が岩鼻陣屋跡です、寛政五年(1793)に上野、下野、武蔵の幕府直轄領五十万石を支配する為に岩鼻陣屋(代官所)がここに設置されました。<br /><br />

    岩鼻陣屋跡にある小さな神社。
    観音寺の裏手が岩鼻陣屋跡です、寛政五年(1793)に上野、下野、武蔵の幕府直轄領五十万石を支配する為に岩鼻陣屋(代官所)がここに設置されました。

  • 【倉賀野追分】(群馬県高崎市倉賀野)<br />中山道と日光例幣使街道との分岐点。閻魔堂がたち、常夜灯には団十郎、雷電など有名人の名前もある。<br />右の道が中山道で、左の道は例幣使道(れいへいしみち、日光例幣使街道)である<br />角には、今でも当時の常夜灯や、阿弥陀堂、道標が残されている<br />例幣使道とは、家康の命日(4月18日)に行われる日光東照宮祭礼に朝廷から派遣される勅使が通る道である<br />中山道を下った勅使はここで、左に折れ今のJR両毛線に沿った道を通り、足利、栃木、今市を通り日光に向かったところである<br />

    【倉賀野追分】(群馬県高崎市倉賀野)
    中山道と日光例幣使街道との分岐点。閻魔堂がたち、常夜灯には団十郎、雷電など有名人の名前もある。
    右の道が中山道で、左の道は例幣使道(れいへいしみち、日光例幣使街道)である
    角には、今でも当時の常夜灯や、阿弥陀堂、道標が残されている
    例幣使道とは、家康の命日(4月18日)に行われる日光東照宮祭礼に朝廷から派遣される勅使が通る道である
    中山道を下った勅使はここで、左に折れ今のJR両毛線に沿った道を通り、足利、栃木、今市を通り日光に向かったところである

  • 日光街道と江戸道との分岐点。<br />【道標「従是 右江戸道 左日光道」】のわかされ碑があります。<br />楡木を経由して日光道中の今市へ至ります。<br />後方に文化十一年(1814年)建立の常夜燈があります、日光道と刻まれています、例幣使道五料宿の高橋光賢が若い頃の放蕩を悔い私財を投出し、不足分は寄進(雷電や団十郎他312人)によって建立された。<br />後ろの常夜灯は1814年に建立。

    日光街道と江戸道との分岐点。
    【道標「従是 右江戸道 左日光道」】のわかされ碑があります。
    楡木を経由して日光道中の今市へ至ります。
    後方に文化十一年(1814年)建立の常夜燈があります、日光道と刻まれています、例幣使道五料宿の高橋光賢が若い頃の放蕩を悔い私財を投出し、不足分は寄進(雷電や団十郎他312人)によって建立された。
    後ろの常夜灯は1814年に建立。

  • JR倉賀野駅舎。

    JR倉賀野駅舎。

  • 昼食を戴いたレストラン。

    昼食を戴いたレストラン。

  • 【英泉 木曾街道 倉賀野宿】<br />中山道水陸交通の一大拠点。ここより江戸川へ下る。江戸へ出される年貢米、コメ、麦、薪炭、石炭が積み出され、塩、海産物、日用品を陸揚げした。陸路で諸国へ。

    【英泉 木曾街道 倉賀野宿】
    中山道水陸交通の一大拠点。ここより江戸川へ下る。江戸へ出される年貢米、コメ、麦、薪炭、石炭が積み出され、塩、海産物、日用品を陸揚げした。陸路で諸国へ。

  • 倉賀野宿脇本陣跡<br /><br />倉賀野宿(第12宿、日本橋より100.5km)<br />利根川舟運の終点河岸でもあり、信越地方を結ぶ水運の要所。群馬県内では高崎につぐ人口を誇っていた。<br />天保14年(1843年)頃の倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠32軒、宿内人口は2,032人で、宿並は下町、中町、上町で構成された。<br /><br />

    倉賀野宿脇本陣跡

    倉賀野宿(第12宿、日本橋より100.5km)
    利根川舟運の終点河岸でもあり、信越地方を結ぶ水運の要所。群馬県内では高崎につぐ人口を誇っていた。
    天保14年(1843年)頃の倉賀野宿の宿内家数は297軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠32軒、宿内人口は2,032人で、宿並は下町、中町、上町で構成された。

  • 高崎市内を通る上信電鉄の線路、踏切です。

    高崎市内を通る上信電鉄の線路、踏切です。

  • JR高崎駅で、本日の歩きもここでゴールです。<br /><br />次へ  中山道NO9(群馬県)高崎宿から安中宿、松井田宿へ<br />https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10291196/

    JR高崎駅で、本日の歩きもここでゴールです。

    次へ  中山道NO9(群馬県)高崎宿から安中宿、松井田宿へ
    https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10291196/

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