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日蓮宗のお寺、『妙瑞山・大光寺』の紹介です。元々は上野国名和郷(現伊勢佐木市)にあった、甲州武士18家の創建したお寺でしたが、いくつかの変遷を経て、清州越しの時にこの地に移ったお寺です。。

2015秋、大光寺と妙道寺(13/20):妙瑞山・大光寺:パゴダ風の本堂、庫裏、井上士朗句碑

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2015/09/18 - 2015/09/22

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旅人のくまさん

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日蓮宗のお寺、『妙瑞山・大光寺』の紹介です。元々は上野国名和郷(現伊勢佐木市)にあった、甲州武士18家の創建したお寺でしたが、いくつかの変遷を経て、清州越しの時にこの地に移ったお寺です。。

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  • 入口門の門柱にあった『日蓮宗・大光寺』の表札です。日蓮宗身延山・久遠寺の末寺とされます。大光寺は、元々は上野国名和郷(現伊勢佐木市)にあった、甲州武士18家の創建したお寺でした。家康の無二の忠臣平岩親吉が厩橋(現前橋)の城主となった時に帰依を受けて厩橋に移り、平岩親吉の国替えにより、親吉とともに甲府から清洲、更に清洲越しにより名古屋の現在の地に移りました。

    入口門の門柱にあった『日蓮宗・大光寺』の表札です。日蓮宗身延山・久遠寺の末寺とされます。大光寺は、元々は上野国名和郷(現伊勢佐木市)にあった、甲州武士18家の創建したお寺でした。家康の無二の忠臣平岩親吉が厩橋(現前橋)の城主となった時に帰依を受けて厩橋に移り、平岩親吉の国替えにより、親吉とともに甲府から清洲、更に清洲越しにより名古屋の現在の地に移りました。

  • パゴダ風の造りの『妙瑞山・大光寺』の本堂光景です。インドのパゴダ(仏塔)のような本堂は、第二次大戦の名古屋空襲でお寺が焼けたあと、当時の住職の発案で建てられたものとされます。

    イチオシ

    パゴダ風の造りの『妙瑞山・大光寺』の本堂光景です。インドのパゴダ(仏塔)のような本堂は、第二次大戦の名古屋空襲でお寺が焼けたあと、当時の住職の発案で建てられたものとされます。

  • こちらは、同じ境内にあった庫裏の玄関先の光景です。銅葺屋根の唐風に造られた玄関でした。かつては、清洲城の裏門を拝領し、幕末まで現本堂の南側に寺門として残っていたとされます。

    イチオシ

    こちらは、同じ境内にあった庫裏の玄関先の光景です。銅葺屋根の唐風に造られた玄関でした。かつては、清洲城の裏門を拝領し、幕末まで現本堂の南側に寺門として残っていたとされます。

  • さらに接近して、右手前から眺めた、唐風の造りの庫裏の玄関光景です。大光寺は、高岳院、善隆寺、平田院とともに平岩親吉公(1542~1612年)所縁の寺とされます。平岩親吉公は、徳川家康公(1543~1616年)の無二の忠臣とされた人です。徳川十六神将の一人に数えられます。

    さらに接近して、右手前から眺めた、唐風の造りの庫裏の玄関光景です。大光寺は、高岳院、善隆寺、平田院とともに平岩親吉公(1542~1612年)所縁の寺とされます。平岩親吉公は、徳川家康公(1543~1616年)の無二の忠臣とされた人です。徳川十六神将の一人に数えられます。

  • 左手前から眺めた、唐風の玄関光景です。平岩親吉公は、徳川家康公と同年であったことから、今川義元の人質時代から家康に付き従いました。天文16年(1547年)、小姓として駿府に送られました。

    左手前から眺めた、唐風の玄関光景です。平岩親吉公は、徳川家康公と同年であったことから、今川義元の人質時代から家康に付き従いました。天文16年(1547年)、小姓として駿府に送られました。

  • 江戸時代後期の俳人『井上士朗(1742~1812年)』の句碑です。『山里の月夜を運べ庭乃松』の句です。医師で、尾張俳壇の指導者だった人です。

    江戸時代後期の俳人『井上士朗(1742~1812年)』の句碑です。『山里の月夜を運べ庭乃松』の句です。医師で、尾張俳壇の指導者だった人です。

  • 女性のように見える石造の立像の光景です。合掌する姿は、モデルがいたような写実的な雰囲気がありましたが、名前は分かりませんでした。

    女性のように見える石造の立像の光景です。合掌する姿は、モデルがいたような写実的な雰囲気がありましたが、名前は分かりませんでした。

  • 春日灯篭形式の石灯篭ですが現在の標準タイプとは違いました。標準型の場合、正面に前戸、背面に後戸があり、正面から左回りに、鹿・雲・後戸・三笠山・透かしの順になっています。右手に前戸家、後戸の火口がありますが、その左側は、鹿・雲・三笠山・透かしの、いずれでもない、橘風の文様でした。

    春日灯篭形式の石灯篭ですが現在の標準タイプとは違いました。標準型の場合、正面に前戸、背面に後戸があり、正面から左回りに、鹿・雲・後戸・三笠山・透かしの順になっています。右手に前戸家、後戸の火口がありますが、その左側は、鹿・雲・三笠山・透かしの、いずれでもない、橘風の文様でした。

  • 境内の庭木の紹介です。濃い葉の色をした、常緑樹らしい高木の光景です。常緑樹の『クロガネモチ(黒鉄黐)』らしい、丸い葉をしていました。クロガネモチですと、モチノキ科モチノキ属の常緑高木です。高木と言っても10メートルどまりのようですから、別種の樹木かも知れません。

    境内の庭木の紹介です。濃い葉の色をした、常緑樹らしい高木の光景です。常緑樹の『クロガネモチ(黒鉄黐)』らしい、丸い葉をしていました。クロガネモチですと、モチノキ科モチノキ属の常緑高木です。高木と言っても10メートルどまりのようですから、別種の樹木かも知れません。

  • 同じく、常緑樹らしい高木の光景です。こちらも剪定はされずに、自由に枝を伸ばしていました。まだ黄葉の気配がなかった銀杏の樹です。左手前方に見えるのは、扉が半開きになった山門です。

    同じく、常緑樹らしい高木の光景です。こちらも剪定はされずに、自由に枝を伸ばしていました。まだ黄葉の気配がなかった銀杏の樹です。左手前方に見えるのは、扉が半開きになった山門です。

  • 同じく、『大光寺』の境内光景です。今は使われなくなったらしい古井戸の側面には、上り籐らしい寺紋が刻まれていました。周りの灌木は、花期を過ぎた紫陽花です。

    同じく、『大光寺』の境内光景です。今は使われなくなったらしい古井戸の側面には、上り籐らしい寺紋が刻まれていました。周りの灌木は、花期を過ぎた紫陽花です。

  • 少し離れた右手前から眺めた、『大光寺』の出入口門の光景です。車の出入りが主なのか、こちらには山門は設けてありませんでした。代わりにスライド式のアコーデオン・シャッターでした。

    少し離れた右手前から眺めた、『大光寺』の出入口門の光景です。車の出入りが主なのか、こちらには山門は設けてありませんでした。代わりにスライド式のアコーデオン・シャッターでした。

  • 正面から眺めた、『日蓮宗・大光寺』の山門の光景です。先程の紋に表札がありましたが、こちらの門には、表札も扁額もありませんでした。半開きになった、木製扉の光景です。

    正面から眺めた、『日蓮宗・大光寺』の山門の光景です。先程の紋に表札がありましたが、こちらの門には、表札も扁額もありませんでした。半開きになった、木製扉の光景です。

  • 『日蓮宗・大光寺』の山門の右側方面の光景です。掲示板の周りに、小さな庭が設けてありました。その掲示板には、『日蓮宗』の表示がありました。

    『日蓮宗・大光寺』の山門の右側方面の光景です。掲示板の周りに、小さな庭が設けてありました。その掲示板には、『日蓮宗』の表示がありました。

  • 紹介が遅れましたが、山門の左手にあった、『妙瑞山・大光寺』の文字が刻まれた石標の光景です。その左横に、『井上志朗宅跡』の石碑と、名古屋市教育委員会名で建てられた、その説明立札がありました。

    紹介が遅れましたが、山門の左手にあった、『妙瑞山・大光寺』の文字が刻まれた石標の光景です。その左横に、『井上志朗宅跡』の石碑と、名古屋市教育委員会名で建てられた、その説明立札がありました。

  • 『俳○・井上士朗・宅址』の文字が刻まれた石碑の光景です。『○』の文字は、『人』、『号」、『吟』、『諧』などの文字を当てはめてみても、石碑の文字とは違うようでした。意味は、『俳人』であることは間違いないようです。

    『俳○・井上士朗・宅址』の文字が刻まれた石碑の光景です。『○』の文字は、『人』、『号」、『吟』、『諧』などの文字を当てはめてみても、石碑の文字とは違うようでした。意味は、『俳人』であることは間違いないようです。

  • 先程の『『俳○・井上士朗・宅址』の説明立札です。親の代から医者だった井上士朗の邸宅が、大光寺に隣接した場所にあったことなどが紹介されていました。この立札を詠んでも、『俳○』は解読できませんでした。井上士朗のことは、『尾張名古屋は士朗(城)でもつ』のエピソードが一番雄弁でした。代表作などをいくつか紹介しておきます<br />『万代や山の上よりけふの月』<br />『たのみある一木は松にあらはれて』(住吉神社・三吟塚)<br />『たうたうと滝の落ちこむ茂りかな』(中区錦・名古屋三俳人句碑)<br />『み佛は大同二年すゝきかな』(豊明市二村山・山頂句碑)

    先程の『『俳○・井上士朗・宅址』の説明立札です。親の代から医者だった井上士朗の邸宅が、大光寺に隣接した場所にあったことなどが紹介されていました。この立札を詠んでも、『俳○』は解読できませんでした。井上士朗のことは、『尾張名古屋は士朗(城)でもつ』のエピソードが一番雄弁でした。代表作などをいくつか紹介しておきます
    『万代や山の上よりけふの月』
    『たのみある一木は松にあらはれて』(住吉神社・三吟塚)
    『たうたうと滝の落ちこむ茂りかな』(中区錦・名古屋三俳人句碑)
    『み佛は大同二年すゝきかな』(豊明市二村山・山頂句碑)

  • この後は、大光寺と井上士朗邸宅址の周りの光景の紹介です。左手の高木は、境内で紹介した銀杏の樹です。名古屋市の立看板は、この宅地の角地にありました。『妙瑞山・大光寺』石標の側面にあった、『開山・宝聚院・日伝上人』の文字が読み取れました。日伝上人(久遠寺在職:1519~1548年)は、身延山妙法華院久遠寺の13世でした。

    この後は、大光寺と井上士朗邸宅址の周りの光景の紹介です。左手の高木は、境内で紹介した銀杏の樹です。名古屋市の立看板は、この宅地の角地にありました。『妙瑞山・大光寺』石標の側面にあった、『開山・宝聚院・日伝上人』の文字が読み取れました。日伝上人(久遠寺在職:1519~1548年)は、身延山妙法華院久遠寺の13世でした。

  • 道路を挟んだ場所から眺めた、出入口門と石垣の上に造られた白壁の光景です。『大光寺』のものか、『井上士朗邸宅址』のものかは判断付きませんでした。

    道路を挟んだ場所から眺めた、出入口門と石垣の上に造られた白壁の光景です。『大光寺』のものか、『井上士朗邸宅址』のものかは判断付きませんでした。

  • 中央やや右寄りに、パゴダ風の『大光寺』の本殿の屋根飾りが見えています。境内の北側の白壁の光景になるようです。出入口を挟んで、左手はブロック塀になっていました。

    中央やや右寄りに、パゴダ風の『大光寺』の本殿の屋根飾りが見えています。境内の北側の白壁の光景になるようです。出入口を挟んで、左手はブロック塀になっていました。

  • これで、大光寺と井上士朗邸宅址の周りの紹介はおしまいです。最後にもう一度、江戸時代後期の医師で俳人の『井上士朗』の紹介です。加藤暁台門下で俳諧活動を行い、暁台の死後は名古屋の俳壇を主導しました。安永3年(1774年)4月、伊藤都貢と共に京都に上り与謝蕪村と交流、寛政元年(1789年)3月、本居宣長が名古屋を訪れた際に門人録に署名しました。晩年や死後に多くの句集が出版されました。

    これで、大光寺と井上士朗邸宅址の周りの紹介はおしまいです。最後にもう一度、江戸時代後期の医師で俳人の『井上士朗』の紹介です。加藤暁台門下で俳諧活動を行い、暁台の死後は名古屋の俳壇を主導しました。安永3年(1774年)4月、伊藤都貢と共に京都に上り与謝蕪村と交流、寛政元年(1789年)3月、本居宣長が名古屋を訪れた際に門人録に署名しました。晩年や死後に多くの句集が出版されました。

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