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元禄3年(1690年)、尾張藩第2代藩主・徳川光友より織田信秀の居城だった古渡城の跡地約1万坪の寄進を受けて建立された真宗大谷派名古屋別院の紹介です。通称は、東別院です。

2015秋、東別院と古渡城址(1/3):修復工事中の本堂・山門、古渡城址、石碑群、彼岸花

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2015/09/18 - 2015/09/18

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

元禄3年(1690年)、尾張藩第2代藩主・徳川光友より織田信秀の居城だった古渡城の跡地約1万坪の寄進を受けて建立された真宗大谷派名古屋別院の紹介です。通称は、東別院です。

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  • 東別院の南側に位置する通りの光景です。葉桜になった街路樹が立ち並んでいました。紅葉の時期までは、1カ月以上あります。

    東別院の南側に位置する通りの光景です。葉桜になった街路樹が立ち並んでいました。紅葉の時期までは、1カ月以上あります。

  • 現在建物の修復工事中です。シートに覆われた山門の光景です。通常通りに通行できました。

    現在建物の修復工事中です。シートに覆われた山門の光景です。通常通りに通行できました。

  • 敷地内の通路に嵌めこまれた大きなレリーフの花柄模様です。菊に似た花をデフォルメした紋のようです。因みに、東本願寺大谷家は東六条八ツ藤紋と本願寺抱牡丹紋が主に用いられているようです。この紋とは相違しています。

    敷地内の通路に嵌めこまれた大きなレリーフの花柄模様です。菊に似た花をデフォルメした紋のようです。因みに、東本願寺大谷家は東六条八ツ藤紋と本願寺抱牡丹紋が主に用いられているようです。この紋とは相違しています。

  • 山門の手前に置かれていた石灯篭の光景です。蝋燭や電球が灯されることのない飾りの灯篭のようでした。

    山門の手前に置かれていた石灯篭の光景です。蝋燭や電球が灯されることのない飾りの灯篭のようでした。

  • 『真宗大谷派名古屋別院』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。東本願寺の公式HPには、『真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173〜1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂を建て宗祖の影像を安置したことに起源する。』と紹介されていました。

    『真宗大谷派名古屋別院』の文字が刻まれた大きな石碑の光景です。東本願寺の公式HPには、『真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173〜1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂を建て宗祖の影像を安置したことに起源する。』と紹介されていました。

  • 山門に向かって右手方面の光景です。植木の横に、宗祖親鸞聖人750回の『御遠忌法要厳修』の立札がありました。来年、2016年4月22から5月1日までの期間が末尾に記されていました。

    山門に向かって右手方面の光景です。植木の横に、宗祖親鸞聖人750回の『御遠忌法要厳修』の立札がありました。来年、2016年4月22から5月1日までの期間が末尾に記されていました。

  • 境内の外側から眺めた、中門の屋根の光景だったようです。修復工事中の山門はシートに覆われていました。

    境内の外側から眺めた、中門の屋根の光景だったようです。修復工事中の山門はシートに覆われていました。

  • 外側から眺めた、屋根飾りが付いた瓦屋根の建物光景です。この後、内側からも紹介しますが、お土産などを販売している、『お茶所と太鼓楼』の名前の建物です。

    外側から眺めた、屋根飾りが付いた瓦屋根の建物光景です。この後、内側からも紹介しますが、お土産などを販売している、『お茶所と太鼓楼』の名前の建物です。

  • 外側から眺めた、修復工事中の山門の入口光景です。右手に、親鸞聖人750回遠忌法要の大きな垂幕がありました。

    外側から眺めた、修復工事中の山門の入口光景です。右手に、親鸞聖人750回遠忌法要の大きな垂幕がありました。

  • 南側から眺めた、修復工事中の本殿の正面光景です。覆いがされていない、瓦屋根部分などは、修復工事の対象外のようでした。

    南側から眺めた、修復工事中の本殿の正面光景です。覆いがされていない、瓦屋根部分などは、修復工事の対象外のようでした。

  • 東本願寺の境内光景です。濃い緑をした常緑樹が存在感を示していました。右端に見えるのが、山門の修復工事の覆いのシートです。

    東本願寺の境内光景です。濃い緑をした常緑樹が存在感を示していました。右端に見えるのが、山門の修復工事の覆いのシートです。

  • 鐘楼の光景です。梵鐘には、元禄5年(1692年)鋳造の銘文が刻まれています。総高177.5センチ、口径108.0センチ、名古屋市の指定文化財に指定されています。

    鐘楼の光景です。梵鐘には、元禄5年(1692年)鋳造の銘文が刻まれています。総高177.5センチ、口径108.0センチ、名古屋市の指定文化財に指定されています。

  • 多宝塔のような二層の屋根を持った外観の建物です。納骨堂の建物でした。信徒さん達のための施設のようです。

    多宝塔のような二層の屋根を持った外観の建物です。納骨堂の建物でした。信徒さん達のための施設のようです。

  • 『明治天皇名古屋大本営』の文字が刻まれた石碑です。戦災の古傷でしょうか、折れたた跡を補修した跡がありました。昭和8年11月に史跡名勝として指定された際の石碑のようです。史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定されていた、明治天皇の行在所等の『聖蹟』は、昭和23年(1948年)6月29日付け、昭和23年文部省告示第64号により、一斉に指定解除されました。

    『明治天皇名古屋大本営』の文字が刻まれた石碑です。戦災の古傷でしょうか、折れたた跡を補修した跡がありました。昭和8年11月に史跡名勝として指定された際の石碑のようです。史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定されていた、明治天皇の行在所等の『聖蹟』は、昭和23年(1948年)6月29日付け、昭和23年文部省告示第64号により、一斉に指定解除されました。

  • 『明治天皇行在所舊址』の文字が刻まれた石碑です。『舊址』は、『旧址』の意味です。昭和9年に建てられた石碑の元になった石碑のようです。

    『明治天皇行在所舊址』の文字が刻まれた石碑です。『舊址』は、『旧址』の意味です。昭和9年に建てられた石碑の元になった石碑のようです。

  • 尾張真宗専門学校(現・同朋大学/名古屋市中村区)を創設した住田智見師(1868〜1938年)の句碑です。『白毫の光尊し夜半の秋 閑凡夫』と刻まれています。『閑凡夫』は住田師の雅号です。

    尾張真宗専門学校(現・同朋大学/名古屋市中村区)を創設した住田智見師(1868〜1938年)の句碑です。『白毫の光尊し夜半の秋 閑凡夫』と刻まれています。『閑凡夫』は住田師の雅号です。

  • 東別院と関わりがある、住田智見師(1868〜1938年)の顕彰碑です。生誕100年を記念して建てられた碑の説明文です。

    東別院と関わりがある、住田智見師(1868〜1938年)の顕彰碑です。生誕100年を記念して建てられた碑の説明文です。

  • 境内の塀の近くの光景です。庭石とは少し趣が異なった彫刻がされた丸い石が置かれていました。

    境内の塀の近くの光景です。庭石とは少し趣が異なった彫刻がされた丸い石が置かれていました。

  • 『イチョウ(公孫樹)』の大木の根元光景です。名古屋市の保存樹の標識がありました。イチョウ科イチョウ属に属する裸子植物です。

    『イチョウ(公孫樹)』の大木の根元光景です。名古屋市の保存樹の標識がありました。イチョウ科イチョウ属に属する裸子植物です。

  • 文字が読み取れませんでしたから、東本願寺の公式HPからの説明です。『豊本説教場碑(とよもとせっきょうじょうひ)』です。現在の中区栄にあった別院の説教場の一つです。昭和63年(1988年)の名古屋都市高速道路の工事の際に出土し、東別院に運ばれたと解説されていました。

    文字が読み取れませんでしたから、東本願寺の公式HPからの説明です。『豊本説教場碑(とよもとせっきょうじょうひ)』です。現在の中区栄にあった別院の説教場の一つです。昭和63年(1988年)の名古屋都市高速道路の工事の際に出土し、東別院に運ばれたと解説されていました。

  • 名古屋市保存樹の標識は写真に写っていませんが、それに相当するクスノキ(楠)の大樹です。クスノキ科ニッケイ属の常緑高木です。

    名古屋市保存樹の標識は写真に写っていませんが、それに相当するクスノキ(楠)の大樹です。クスノキ科ニッケイ属の常緑高木です。

  • 名古屋市教育委員会名の解説の立札があった、『古渡城址』の石碑です。天文15年(1546年)、織田信長が13歳で元服した城ですが、父の信秀が末森城に移ったことにより、廃城となりました。末森城は、縁起の良い名ということで、末盛城とも書かれました。

    名古屋市教育委員会名の解説の立札があった、『古渡城址』の石碑です。天文15年(1546年)、織田信長が13歳で元服した城ですが、父の信秀が末森城に移ったことにより、廃城となりました。末森城は、縁起の良い名ということで、末盛城とも書かれました。

  • 『涛坊幽渓先生碑』らしい文字が刻まれた石碑の光景です。ネット検索しても、情報は集まりませんでした。号らしい『幽渓』から連想できる硯から、書道家当たりです。

    『涛坊幽渓先生碑』らしい文字が刻まれた石碑の光景です。ネット検索しても、情報は集まりませんでした。号らしい『幽渓』から連想できる硯から、書道家当たりです。

  • 刻印があった大きな石です。名古屋城築城の際、石材はいったん古渡城址に集められたようです。その残りが29個、東別院と下茶屋公園で確認されています。

    刻印があった大きな石です。名古屋城築城の際、石材はいったん古渡城址に集められたようです。その残りが29個、東別院と下茶屋公園で確認されています。

  • 東別院の敷地の正なんか度の光景です。古渡城址のお堀は、この塀の外の道路辺りと推定されています。

    東別院の敷地の正なんか度の光景です。古渡城址のお堀は、この塀の外の道路辺りと推定されています。

  • 『古渡城址』の石碑は、東別院の敷地の片隅にありましたが、元々は東別院全体が古渡城の城跡の敷地だったようです。

    『古渡城址』の石碑は、東別院の敷地の片隅にありましたが、元々は東別院全体が古渡城の城跡の敷地だったようです。

  • 『古渡城址』の石碑があった一角の光景です。城は東西140メートル、南北100メートルの平城で、周囲に二重の堀が巡らされていたとされます。

    『古渡城址』の石碑があった一角の光景です。城は東西140メートル、南北100メートルの平城で、周囲に二重の堀が巡らされていたとされます。

  • 『納骨堂』の名札があった入口の光景です。東別院の敷地の西端方面です。

    『納骨堂』の名札があった入口の光景です。東別院の敷地の西端方面です。

  • 納骨堂の建物光景です。門徒の方のお骨が納められています。毎年7月15日に法要が勤められているようです。

    納骨堂の建物光景です。門徒の方のお骨が納められています。毎年7月15日に法要が勤められているようです。

  • 納骨堂の建物光景近くで咲いていたヒガンバナの光景です。普段見掛けることが多い赤色の他、白色の花もありました。

    納骨堂の建物光景近くで咲いていたヒガンバナの光景です。普段見掛けることが多い赤色の他、白色の花もありました。

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