2014/05/09 - 2014/05/23
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jijidarumaさん
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ドイツの春:北方二州・シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州&メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡る旅
期間:2014年05月09日~23日 15日間)
参考:
≪ドイツの春:北方二州を巡る旅に出る≫
http://4travel.jp/travelogue/10883955
05月12日(月) 244km、朝から大雨(午後時々晴れ間)10〜14℃
起床6:00、朝食7:15〜8:00、Tremsbuettelトレムスビュッテル出発8:45 =>L?・A21(Bad Segenburg)=>B205(Neumuenster)=>A7(Rendsburg)=>A7(Schleswig)=>A7・B200・B199・L? 160km Flensburgフレンスブルク・Schloss Gluecksburgグリュックスブルク城着・見学10:50〜13:00、 昼食:Schloss Keller13:10〜13:45、グリュックスブルク城出発14:10 =>L?・B199・B200・A7・B201・B76・L? 44km Schleswigシュレースヴィヒ・Schloss Gottorfゴットルフ城着・見学14:42 〜16:30 、ゴットルフ城出発16:50 =>L?・B76・L? 35km Gut Altenhof 古城ホテル グート・アルテンホーフ城着17:40。
アルテンホーフ城から車で往復5kmの距離のレストランに行く。夕食:Treib⚓Gutトライプ・グート18:40〜20:00、アルテンホーフ城着20:10。
写真は”神は平和と共に幸運を与える”グリュックスブルク城
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
*朝食(7:15〜8:00)は昨日、お茶をした“Wiener Kaffeehausヴィナーカフェーハウス”で頂いた。
朝食が用意されていたのはレストランLuiseルイーズ横の部屋だったので、カフェーハウスからは少しは離れていたが、パビリオンの明るさが好ましく、そちらを選んだ。
写真はトレムスビュッテル城のレストランLuiseルイーズHotel Schloß Tremsbuttel ホテル
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写真はトレムスビュッテル城のレストランLuiseルイーズ
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今日のパビリオンの外は激しい雨だ。
生憎の天候ながら、先に進むべくチェックアウトを済ませ(8:30)、8:45トレムスビュッテルを出発し、フレンスブルクに向かう。
写真はトレムスビュッテル城のレストラン“Wiener Kaffeehausヴィナーカフェーハウス”で朝食。・・・外は大雨が降り、ガラスに降りかかっている。 -
幸い煩わしい渋滞もなく160kmを2時間で走り、Flensburgフレンスブルクの町に入った。
<Flensburgフレンスブルク>
http://www.flensburg.de/
フレンスブルクはドイツ最北の町である。
デンマークとの国境に10kmと近いため、随所にその影響がみられる。町並みはバルト海に通じるフレンスブルク・フィヨルドの湾の奥から西の丘に続いている。
見所はマリエン教会、船舶博物館(月は休館)など。
近郊のグリュックスブルク城は北ドイツの名城のひとつに数えられている。
この城もその昔から、一度は訪れたいと思っていた城だが、名城という以上にその城を彩る華麗な家系に驚かされた。
写真は1650年頃のシュレースヴィヒ地方の図・・・少々わかりにくいが黒線でルートを示した。 -
地図を見るとフレンスブルクからシュレースヴィヒの地方はAngelnアンゲルン半島と呼ぶようだ。
この地名は古語で釣り針(Angelアンゲル)形の地形から来ているらしい。
ゲルマン民族の1種族にアングル人がいるが、この半島に居住していた事からそう呼ばれている。
そのアングル人は5世紀にザクセン人とともにブリテン島(英国)に上陸、先住民であったブリトン人を征服し、アングル人の王国を作っている。
以前、2012年の旅で英国のヴィクトリア女王に関して書いた時、英国・ハノーファー朝、ヴィクトリア朝もドイツの王朝であったとしました。
ゲルマン民族のアングロサクソン人(アングル人・ザクセン人)はイングランド(英国)全域を支配したから、その事を思うと、確かに英国人はドイツ人である。
≪英国ヴィクトリア女王はドイツ人だった!≫
http://4travel.jp/travelogue/10875676
写真はAngelnアンゲルン半島 -
写真はSchloss_Gluecksburgグリュックスブルク城の俯瞰
フレンスブルクの水城・“幸運の城”グリュックスブルク城を訪ねて by jijidarumaさんグリュックスブルク城 城・宮殿
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さらに北東の郊外に向かい、Flensburger Foerdeフレンスブルク湾に面したSchloss Gluecksburgグリュックスブルク城も分かりやすい場所にあり、湖面に映える城の駐車場に着いた(10:50)。
写真はグリュックスブルク城 -
写真はDBP_1977_913_グリュックスブルク城の郵便切手
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≪Schloss Gluecksburgグリュックスブルク城≫
10:50〜14:10 入場料Euro13
D-24960 Gluecksburg 、Am Schlosssee 1
http://www.schloss-gluecksburg.de/
https://www.youtube.com/watch?v=k13iBCS_IVk
https://www.youtube.com/watch?v=hFETIyWu1eQ
博物館;織物、革加工品などの民俗資料のコレクション。休日なし、10~18時。
見学10:50〜13:00、日本語説明のオーディオあり。撮影不可。駐車料金Euro2。
写真はグリュックスブルク城のベンチにてしばし休憩 -
広い湖水に浮かぶような城は実に美しく、石橋を渡ると城門がある。
この城は3つの連接した3階建ての白い本館で、4隅に塔が立っている。
3個の6角の塔、赤い屋根が目立つ城館は“幸運の城”の名前通りに全く戦いの備えが無い。
(もっとも近年、観光客用に備えたと思われる大砲が置いてあったが。)
写真はグリュックスブルク城と大砲 -
三方を水に囲まれた北欧ルネサンスの水城・グリュックスブルク城はフレンスブルクの町から18kmにあり、Herzog Johann III. von Schleswig-Holstein-Sonderburg公爵ヨハン3世シュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンダーブルク家(1545 -1622年)が1583〜1587年にかけて築城したものである。
“Gott gebe Glueck mit Frieden ・・・「 GgGmF」神は平和と共に幸運を与える。”との城の名前の所以ともなった言葉が今も入口ポータルの紋章上に見ることができる。
写真はグリュックスブルク城の美しい景観 -
イチオシ
気温は風もあって12℃と寒い。
湖面に浮かぶ水城が曇天下に陰鬱に見えると、グリュックスブルク城のかつての歴史を偲ばせてくれる。
時には風で雲が流れ日差しも出ると、晴れ間に見るグリュックスブルク城は“幸運の城”の名前に恥じない様子になり、実に美しい。
写真は日差しがでて明るくなったグリュックスブルク城 -
写真はGluecksburg(Ostsee)-Wappen グリュックスブルクの紋章・・・水城の様子を示しているように見えるが?
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1210年にグリュックスブルクのシトー会修道院(Zisterzienserkloster Ruede)Rude Klosterルーデ修道院ができた。=≫左の白線のあたりにあった。
写真はグリュックスブルク城とかつてのRude Klosterルーデ修道院の俯瞰 -
写真は水に浮かぶグリュックスブルク城・俯瞰
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1階緑の玄関の間、その先奥のバロック風地下教会(1717年に改装)、30年戦争の戦死者供養の聖壇、1857年製パイプオルガン、それぞれ見事な色彩である。
写真はグリュックスブルク城:緑の玄関大広間gruene-diele -
写真はグリュックスブルク城:schlosskapelle城内礼拝堂(バロック風地下教会)
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2階の赤の大広間は長方形で18世紀の壮麗なもので、天井に漆喰細工の子供たち(城のこどもは23人いたとか?)が見える。
たいへん珍しいことに花や天使風にアレンジされて中央に様々な子供の顔があった。赤の間の左右の部屋は衣装の間、寝室、デンマーク王家の人物画、家族用の小さな食事の間などがある。
写真はGluecksburg_Schloss_RoterSaalグリュックスブルク城:赤の広間 -
3階には大きな白の間があり、晩餐会の為の部屋であるが、今はコンサートなどに利用されている。
左右に王子や王女たちの部屋。壁いっぱいにかけられたゴブランの間、18〜9世紀の陶磁器、銀器、
訪れたドイツ最後の皇妃アウグステ・ヴィクトリアを囲んだ宴会の再現(皇妃や妹Caroline Mathildeカロリーネ・マチルダ公妃、一族、使用人たちの人形)、
19世紀のシュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争(デンマークXプロイセン・オーストリア)の歴史展示、公爵家とヨーロッパ王家の家系図、人物画、武器の展示、
あるいは屋根裏部屋では城で働く従者・召使たちの仕事の仕組みを人形で表示していた。
写真はグリュックスブルク城:赤の広間 -
写真はSchloss_Gluecksburg_1900:グリュックスブルク城1900年の画像
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≪グリュックスブルク城とデンマーク王家、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン公国の歴史≫
1210年にグリュックスブルクのシトー会修道院(Zisterzienserkloster Ruede)Rude Klosterルーデ修道院ができた。
1538年には修道院の世俗化が行われ、1544年にはデンマーク王国Christian IIIクリスティアン3世の領地となった。
1582年、時のFriedrich II. (Koenig Daenemark und Norwegen)デンマークとノルウェー王のフリードリヒ2世はこの地を弟のヨハン3世(1545 -1622年)に封土として与えた。
1583〜1587年にかけて、Herzog Johann III. von Schleswig-Holstein-Sonderburgシュレースヴィヒ・ホルシュタイン(ゾンダーブルク)公爵ヨハン3世はこの地にグリュックスブルク城を建設した。
ヨハン3世の死後、息子のPhilipp フィリップが1622年から、この地にHerzogtum Schleswig-Holstein-Sonderburgシュレースヴィヒ・ホルシュタイン(ゾンダーブルク)公国を創建し、神聖ローマ帝国の一領邦国家となった。
*城内の歴史展示にも見受けられたが、欧州の王家との縁も深く、グリュックスブルク公爵家の家系のすごさは別記・番外編にまとめた。
≪“ヨーロッパの義父”と呼ばれたデンマーク王クリスチャン9世“≫
http://4travel.jp/travelogue/10980323
写真は1818年Christian”Wiege Europas”:“ヨーロッパの義父”と呼ばれたデンマーク王クリスチャン9世 -
1622年から1779年までの150年間、Haus Oldenburg オルデンブルク家の傍系の古参の家系として、(aeltere Linie )Schleswig-Holstein-Sonderburg-Gluecksburgシュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンダーブルク公爵家は代々グリュックスブルク城を居城とした。
1779年、最後のFriedrich Heinrich Wilhelmフリードリヒ・ハインリヒ・ヴィルヘルムが死去すると、後継たる息子がいなかったため、封土はデンマーク王に返還された。
但し、1824年まで公爵ヴィルヘルムの未亡人Anna Carolinaアンナ・カロリーナにグリュックスブルク城を使用することを認めた。
公爵ヴィルヘルムの死後数年ののち、デンマーク王Friedrich VIフリードリヒ6世は義弟Friedrich Wilhelmフリードリヒ・ヴィルヘルム(Schleswig-Holstein-Sonderburg-Beckベック家)にシュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンダーブルク公爵の地位を与えてグリュックスブルク城を継がせた。
デンマーク王家は主権下にあるグリュックスブルク城を夏の離宮としてしばしば使用してきたが、フリードリヒ7世の頃は1854〜1863年の間、王宮として利用している。
所が、ドイツにおけるプロイセン王国の勢力伸長とドイツ統一という民族主義の機運が巻き起こり、ドイツのデンマーク王家の主権を揺るがす争いが独・墺とデンマークの間に勃発した。
それはシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国の支配を巡って争われ、Schleswig-Holsteinischer Krieg (=Deutsch-Daenischer Krieg)シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争と呼ぶ。
戦争の発端は、1848年にデンマーク王のChristian VIIIクリスティアン8世が死去、Friedrich VIIフリードリヒ7世が即位し、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン公国をデンマークに併合することを命じたことに始まる。
両公国の住民の多くはドイツ系であり自治とドイツへの統一を求めていたこともあり、両公国は反発し、ドイツの支援を受けて仮政府を樹立した。ホルシュタイン公国で起きたアウグステンブルク公クリスティアン・アウグスト2世(デンマーク王家オレンボー家の支流アウグステンブルク家の当主)と、その弟フリードリヒによる暫定政府の樹立である。この政府はデンマークからの分離を目指しており、背後にプロイセン王国の支援があった。
第一次は1848年から1852年にかけ断続的に、第二次は1864年に行われた。第二次の戦争でプロイセン側の勝利となり、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン公国はプロイセンとオーストリア帝国の管理下に置かれ、1866年の普墺戦争後にプロイセン王国に併合された。
写真はグリュックスブルク城:Queen_Lujza_of_Denmarkデンマーク王妃ルィーズ(クリスチャン9世の又従妹にあたるLouise von Hessen-Kasselルィーズ・ヘッセン・カッセル=ヘッセン・カッセル・ルンペンハイム方伯の令嬢と結婚) -
クリスチャン9世は王妃ルイーゼ妃との間に3男3女を儲けた。
①クリスチャン・フレゼリク・ヴィルヘルム・カール(デンマーク国王フレゼリク8世)
②アレクサンドラ・カロリーネ・マリー・シャーロッテ・ルイーセ・ユリア(イギリス国王エドワード7世王妃)
③クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナンド・アドルフ・ゲオルク(ギリシャ国王ゲオルギオス1世)
④マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマー(ロシア皇帝アレクサンドル3世皇后)
⑤テューラ・アマーリア・カロリーネ・シャーロッテ・アンネ(元ハノーファー王太子エルンスト・アウグスト2世妃)
⑥ヴァルデマー(デンマーク王子)
写真はグリュックスブルク城:Christian_IX_Denmark_and_family_1862年デンマーク王クリスチャン9世と家族 -
≪ドイツ最後の皇妃アウグステ・ヴィクトリア≫
ドイツ皇帝フリードリヒ3世と皇妃Victoria Adelaide Mary Louiseヴィクトリア・アデレイド・メアリ・ルイーズ(1840〜1901年:英国Koenigin Victoriaヴィクトリア女王の長女)は息子であるドイツ最後の皇帝Wilhelm IIヴィルヘルム2世(1859〜1941年)の花嫁にHerzog Friedrich VIII. von Schleswig-Holstein-Sonderburg -Augustenburgフリードリヒ8世シュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンダーブルク・アウグステンブルク公爵家の王女Auguste Viktoriaアウグステ・ヴィクトリアを迎えた。
夏の避暑を兼ねて、皇妃アウグステ・ヴィクトリアは夫である皇帝ヴィルヘルム2世と共にしばしば妹Caroline Mathildeカロリーネ・マチルダ、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン・グリュックスブルク公爵妃(1885年、Herzog Friedrich Ferdinand von Schleswig-Holstein-Sonderburg-Gluecksburgシュレースヴィヒ・ホルシュタイン・グリュックスブルク公爵と結婚。)を訪ね、一族そろってグリュックスブルク城で過ごしたことが知られている。
XXX
写真はドイツ最後の皇帝・皇妃:AugusteViktoria皇妃アウグステ・ヴィクトリア&Wilhelm皇帝ヴィルヘルム2世 -
写真はAuguste_Viktoria,_Deutsche_Kaiserin,ドイツ皇妃アウグステ・ヴィクトリア1908年
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写真はグリュックスブルク城:Kaiserin_Auguste_Viktoria皇妃アウグステ・ヴィクトリア55歳・・・この顔はなんとなく現在の英国のエリザベス女王に似ている。
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写真はKaiser_Wilhelm_II皇帝ヴィルヘルム2世と、皇妃アウグステ・ヴィクトリア、7人の子供たち
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写真はFriedrich_VIII_von_Schleswig-Holsteinフリードリヒ8世シュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンダーブルク・アウグステンブルク公爵、最後のドイツ皇妃アウグステ・ヴィクトリアの父
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≪シュレースヴィヒ・ホルシュタイン公爵妃アーデルハイト≫
Adelheid Victoria Amalie Louise Maria Konstanze zu Hohenlohe-Langenburgアーデルハイト・ヴィクトリア・アマーリエ・ルイーゼ・マリア・コンスタンツェ・ツー・ホーエンローエ・ランゲンブルク(1835〜1900年)はシュレースヴィヒ・ホルシュタイン公爵フリードリヒ8世の妃。
のちのドイツ皇妃アウグステ・ヴィクトリアの母となった。
フェオドラ・ホーエンローエ・ランゲンブルク侯爵妃の次女である。
写真は写真はアーデルハイト妃(1860年) -
写真はフリードリヒ8世シュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンダーブルク・アウグステンブルク公爵とアーデルハイト妃の子供たち:左から右に
Carolineeカロリーネ、Augusteアウグステ、 Louiseルイーズ 、 Ernstエルンスト 1869年の写真 -
≪シュレースヴィヒ・ホルシュタイン公爵妃カロリーネ≫
Herzog Friedrich Ferdinand von Schleswig-Holstein-Sonderburg-Gluecksburgフリードリヒ・フェルディナント公爵は1885年3月19日に、アウグステンブルク家家長で名目上のシュレースヴィヒ・ホルシュタイン公であるフリードリヒ8世の娘、Caroline Mathildeカロリーネ・マティルデと結婚し、5人の子女をもうけた。
カロリーネ・マティルデはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の皇妃アウグステ・ヴィクトリアの妹であった。
写真はフリードリヒ8世シュレースヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンダーブルク・アウグステンブルク公爵の子供:Princess_Karoline_Mathildeプリンセス・カロリーネ・マチルダ -
番外・
≪ホーエンローエ・ランゲンブルク侯爵妃フェオドラ≫
Anna Feodora Auguste zu Leiningenアンナ・フェオドラ・アウグステ・ツー・ライニンゲン(1807〜 1872年)は、ホーエンローエ・ランゲンブルク侯爵エルンスト1世の妻で、英国のヴィクトリア女王の異父姉。
結婚後はフェオドラ・フォン・ホーエンローエ・ランゲンブルクと名乗った。
ライニンゲン侯エミッヒ・カールと、2度目の妃ヴィクトリアの長女として、Amorbachアモールバッハ(2015年の旅で訪れたことがある町だ。現バイエルン州ミルテンベルク郡)で誕生。同母兄にカール・フリードリヒがいる。
父の死別後、母がイギリス王子ケント公エドワード・オーガスタスと再婚したため、妊娠した母に伴われて、兄とともに1819年にイギリスへ渡った。生まれた異父妹アレクサンドリナ・ヴィクトリア(後のヴィクトリア女王)とは仲の良い姉妹だったという。
2人はフェオドラの死まで文通をしていた。
イギリスで教育を受け、1828年にドイツへ戻ってエルンストと結婚し、6子を生んだ。
写真は大変な美形であったフェオドラ侯爵妃 -
写真は母フェオドラ・ランゲンブルク侯爵妃と少女時代のアーデルハイト(後のシュレースヴィヒ・ホルシュタイン公爵フリードリヒ8世の公妃)を描いたリトグラフ(1841年)
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1988年8月2日、英国のチャールズ王子がグリュックスブルク城の親族を訪れた。
グリュックスブルク公爵家の居城グリュックスブルク城でみた同家の家系図に触発されて調べた人たちです。(参考はWikiほか)
ここで英国ヴィクトリア女王やその長女ドイツ皇帝妃ヴィクトリアなどが出て来るとは思いもしなかったし、何故、英国のチャールズ王子がグリュックスブルク城を訪れていたのかも理解できた。
写真は左から:
Prinz Friedrich Ferdinandフリードリヒ・フェルディナンド王子、
Prinzessin Ingeborgインゲボルク王女、
Herzogin Marie-Alixマリー・アリックス公爵妃(シャウムブルク・リッペ侯爵子シュテファンの娘)、
Prinz Charlesチャールズ王子、
Prinzessin Elisabethエリザベート王女(リッペ・ヴァイセンフェルト侯爵子アルフレートの娘)とPrinz Christophクリストフ王子と彼ら子どもたち。
・・・いまだにこのような王、公、爵といった爵位で呼ばれる。
写真はグリュックスブルク城:英国チャールズ王子の訪問 -
<(昼食)グリュックスブルク城・Schloss Kellerシュロスケラーで>
13:10〜13:45、Euro20(2,645円)
飲物はリンゴジュース、オレンジジュース、カレー味の鱈のフライとジャガイモ添えの料理は予想外に美味しかった。
Schloss Kellerはかつての城の台所であり、入口付近には牢獄と拷問部屋があったと云う。
写真はシュロスケラーの入口 -
写真は飲物はリンゴジュース、オレンジジュース、カレー味の鱈のフライとジャガイモ添えの料理でした。
-
昼食後、グリュックスブルク城を出発(14:10)。
来た道をたどり、44km先のSchleswigシュレースヴィヒ、つまり「シュライの湾」を意味し、その湾内奥にSchloss Gottorfゴットルフ城があった(14:42)。
事前にゴットルフ城の写真を見ていたが、宮殿前の広々とした駐車場に車を止めてみると、宮殿が大きく、立派なことに驚いた。
写真はSchloss Gottorfゴットルフ城と近くにあるWikinger Museum Haithabuヘイタブ・ヴァイキング博物館の図 -
<Schleswigシュレースヴィヒ>
http://www.schleswig.de/
州の北東に位置する都市、シュレースヴィヒは「シュライの湾」という意味である。
市街地は海抜0m〜20mの高さである。人口24千人。
Hedebyヘーゼビューのヴァイキング(デンマーク人)は804年に初めて現在の町の南方に移住したと言われている。
バルト海(ドイツ語ではOstseeと称する。)地域の中でも勢力が強く200年以上もこの地域を支配していた。
1050年に人々はシュライの対岸に町を移し、シュレースヴィヒの町となった。
1066年になるとヘーゼビューもついになくなり、シュレースヴィヒはデンマーク王国の一部として残ることになった。
写真はSchleswig_Wappenシュレースヴィヒの紋章 -
1544年にゴットルフ城が地方領主の居城となった。
城主のゴットルフ公爵はデンマーク王の家臣で、現在のシュレースヴィヒ・ホルシュタイン州よりも広い土地を支配した。
1721年に、大北方戦争(Grosser Nordischer Krieg:1700~1721年は、スウェーデンと反スウェーデン同盟=北方同盟を結成した諸国とが北欧、中欧、そして東欧におけるスウェーデンの覇権と争った戦争である。)が終わると、ゴットルフ公爵は力を失い、土地はデンマーク王の領地となった。
写真は大きなゴットルフ城の正面 -
写真はゴットルフ城の駐車場周辺に咲く薄紫のライラック。
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写真は大好きなライラック。
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イチオシ
写真は薄紫のライラックはこの季節に咲く。
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≪Schloss Gottorf (Gottorp)ゴットルフ(ゴットルプ)城≫
14:45〜16:30、Euro18
D-24837 Schleswig 、Schlossinsel 1
http://www.schloss-gottorf.de/
https://www.youtube.com/watch?v=rMCyjCwlT7s
北欧ルネサンスのゴットルフ城は宮殿のように大きい。
16世紀以来の城だが、現在の建物は18世紀のものだ。
<ゴットルフ城の歴史>
ゴットルフ城を居城とした領主Holstein-Gottorp(Schleswig-Holstein-Gottorf)ホルシュタイン・ゴットルプ家は16世紀から18世紀にかけて北ドイツのホルシュタイン・ゴットルプ公領(キールが首府)を支配した貴族の家系である。
ゴットルプの名はシュレースヴィヒにあった居城ゴットルプ(ゴットルフ)城に因む。
ホルシュタイン・ゴットルプ家からは18世紀に3つの家系で、
即ち、1751年にスウェーデン王家、
1762年にロシア帝国の皇帝ピョートル3世が出て、
また、北ドイツのOldenburgオルデンブルク大公国(ヴェーザー川の河口一帯)の君主位を獲得している。
スウェーデンでは19世紀初頭まで、他の2国では20世紀に君主制が廃止されるまで続いた。
尚、1773年よりデンマーク王がホルシュタイン・ゴットルプ公を兼ねた。
XXX
写真はGottorf_1600:ゴットルフ城1600年の古い絵 -
ゴットルフ宮殿は不規則な形をした4つの翼棟が中庭を取り囲んでおり、俯瞰すると大きなPのように見える。
かつてのルネサンス城塞は絶えず改築・拡張され、何世紀もの年月をかけて今日のバロック様式の宮殿の姿になった。
写真はゴットルフ城の1732年当時の様子を描いた絵・・・これを見てもなかなかの規模だ。 -
1500年頃に、後に有名なゴットルフ蔵書が入ることになる、ゴシック様式の巨大な2廊式ホールが建てられました。
1595年には最も美しいルネサンス様式の祝典の間と云われる、「大鹿の間」が完成している。同時期に初期バロック様式のオルガン、金銀線細工が施された彫刻や寄木細工で飾られた公爵礼拝室も建てられている。
1637年から、イタリアを手本に宮殿の周囲にテラス式のバロック庭園が造られ、中でも「ゴットルフの地球儀」のある豪華な園亭(世界初のプラネタリウム)が有名である。
庭園と地球儀はオリジナルに忠実に復元され、2007年の秋から再びバロックの輝きを放っている。
写真はゴットルフ城でレンタカーのVWに乗って -
<宮殿内のLandesmuseum fuer Kunst und Kulturgeschichte州立芸術・文化史博物館とArchaeologisches Landesmuseum州立考古学博物館見学>
休日なし、10~17時、1〜4階。
絵画、Jugendstilユーゲント・シュティール作品、彫刻作品、馬車や馬橇など旅行必需品・旅行の歴史に関するコレクション、民芸品コレクション、ヴァイキングの足跡、Samurai日本の侍に関する展示ほか、
写真はゴットルフ城内展示:民芸品コレクション・怖い仮面など。 -
ヴァイキングの足跡:
Nydamboot紀元320年のヴァイキング舟は45人ほどの兵士を乗せた軍船で1863年に発掘された。ヴァイキングの戦士像、ヴァイキングの軍列の人形。
写真はゴットルフ城内展示:ヴァイキング舟 -
リューベックのBernt Notkeベルント・ノトケ(15世紀ドイツの画家)の描いた『死の舞踏』:リューベックの聖マリア教会にあったものは連合軍の爆撃によって破壊されてしまったが、ここの展示は複製で長さ十数メートルもあるという。
ラヴァル(現エストニア、タリン)の聖ニコラス教会にあった『死の舞踏』作品は無事だった。
写真はゴットルフ城内展示:『死の舞踏』作品 -
写真はゴットルフ城内展示:『死の舞踏』作品
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写真はゴットルフ城内展示:バイキングの大きな兵士像
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Moorleiche Windeby神秘的な泥中遺体は1952年にKreis Rendsburg-Eckernfoerde ・Windebyの近くで、泥炭の中から発見された16歳の少年。
写真はMoorleiche1-Schloss-Gottorfゴットルフ城内展示:神秘的な泥中遺体 -
写真はゴットルフ城内展示:ドイツの木の家の作り方
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写真はゴットルフ城内展示:バイキングの軍勢
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Samurai日本の侍に関する展示:大名行列の絵、義経の八艘飛びの絵、甲冑、刀剣類。
写真はゴットルフ城内展示:日本の大名行列の絵 -
写真はゴットルフ城内展示:源平合戦(壇ノ浦)義経の八艘飛びの絵
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Jugendstilユーゲント・シュティール作品、ドイツ・ルネサンス時代の画家Lucas Cranach ルーカス・クラナハ(父)の作品:アダムとイブなど。
15世紀半ばのGutenberg-Bibelグーテンベルク製版の聖書などなど。
写真はゴットルフ城内展示:ユーゲント・シュティール作品 -
写真はゴットルフ城内展示:ユーゲント・シュティール作品
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昨日訪れたアーレンスブルク城内でも全く同じ人物画を見たが、
Friederike Juliane Graefin von Reventlowフレデリカ・ジュリアナ・レーベントロー伯爵夫人の絵は大変美形である。
帰国後、調べてみると、残念ながら複製であり、オリジナルは第二次世界大戦以来発見されていないと云う。
(注:レーベントロー伯爵夫妻:ジュリアナ(1762〜1816年)はデンマーク王家の財政主任で、アーレンスブルク城主であったHeinrich Karl von Schimmelmannハインリヒ・カール・シンメルマン伯(1724〜82年)の娘である。
ジュリアナは1779年に17歳で シュレースヴィヒ・ホルシュタインの貴族Friedrich Karl Graf von Reventlowフリードリヒ・カール・レーベントロー伯爵(1755〜1828年)・デンマーク王家の外交官・Gut Emkendorfエムケンドルフ城主・・・グート・アルテンホーフ城主に繋がる・・・と結婚している。
1788年、レーベントロー伯は外交官を辞し、エムケンドルフ城に定住した。父の死後、1795 〜1797年に夫婦でイタリア旅行に出て、多くの貴重な美術品を持ち帰って、城館を飾った。更に、ドイツの作家、劇作家、思想家の著書を蔵書に加えた。)
写真はゴットルフ城内展示:フレデリカ・ジュリアナ・レーベントロー伯爵夫人の絵 -
写真はゴットルフ城内展示:バイキング船の守護神?
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写真はゴットルフ城内展示
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写真はゴットルフ城内展示:中世の人々の木像
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ドイツ・ルネサンス時代の画家Lucas Cranach ルーカス・クラナハ(父)の作品:アダムとイブなど。
写真はゴットルフ城内展示:アダムとイブ -
写真はゴットルフ城内展示:ルーカス・クラナハ(父)の作品
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写真はGottorf_Schlosskapelleゴットルフ城:城内礼拝堂(公爵礼拝室)
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写真はGottorf・Hirschsaalゴットルフ城:1595年には最も美しいルネサンス様式の祝典の間と云われる「大鹿の間」が完成した。
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写真はゴットルフ城内:見事な造りの間
XXX
ゴットルフ城の州立博物館には大変の数が展示されていた。
結局、ザックリと半分しか見ることが出来ず、広大な庭園も見ていない。
さすがに目と足腰が疲れ、駐車場周辺に咲く薄紫のライラックに癒された。
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この旅行記へのコメント (4)
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- frau.himmelさん 2016/06/21 22:58:16
- jijidarumaさん、お久しぶりです。
- 3週間ほどドイツ・オーストリアを旅していまして、帰国してからも調子が戻らず、しばらくグダグダしておりました。
新シリーズ、始まっていますね。
今日はグリュクブルウ城を拝見させていただきました。
北欧の城ってなんだか憧れがあります。水に映るお城のきれいなこと。
私が北ドイツ旅行中にお城を見たのは唯一シュベリーン城だけですが、あれも水城でとても美しかった。
さて、もう一点興味を抱いたのは歴史的背景。
あの係累の名前を見るだけでもクラクラするくらい、歴史的に有名な人物像のオンパレード。
その中でも、どうしても私の興味は近代史になりますが、ドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム2世の妃は、シュヴェスヴィッヒ・ホルシュタイン家の出なのですね。
ポツダム会談が行われたツェツィーリエンホフ宮殿は、ヴェルヘルム2世の皇太子で、その妃ツェツィーリエも北ドイツの出身だったはずと思い調べましたら、こちらはメクレンブルク家なのですね。
プロイセン王国と北ドイツは深いつながりがあったのだなーとjijidarumaさんの旅行記で改めて認識しました。
いろいろと面白いですね。
himmel
- jijidarumaさん からの返信 2016/06/22 00:04:24
- RE: jijidarumaさん、お久しぶりです。
- himmelさん
こんばんは。
3週間のドイツ・オーストリアの旅、羨ましいほど長い旅ですが、きっと充実した旅になったことでしょう。
三人の前半・一人旅となった後半と分けられたようですが、ゆっくり掲載をお願いします。また何が出て来るか?楽しみですよ。
さて、当方も旅シリーズは2009年ドイツのクリスマス、2015年の黒い森・アルザスといった旅の掲載が終わり、今年はまだ未定ですから、それなら2014年の北方2州の旅にしようと、週一ぐらいでスタートした次第です。
北欧様式の?シンメルマン伯家の夏の宮殿アーレンスブルク城も?グリュックスブルク城も美しい姿でしたね。
これらの城はその昔から観光本やカレンダーでよく見たもので、ようやく念願がかなったのです。
どちらもデンマークに縁があって、当時のこの地方の北欧の国々との関係が近いことをあらためて教えられました。
シュベリーン城も水城でしたが、フランス・ロワール地方のシャンボール城を手本としただけに、一段と壮麗な城でしたね。ここには05月17日(土)に訪れます。
ご興味を持たれたグリュックスブルク城の歴史的背景、“ヨーロッパの義父”と呼ばれたデンマーク王クリスチャン9世“の話、19世紀のシュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争(デンマークXプロイセン・オーストリア)を読んでみると、ほんと、少々混乱するほどでした。
Schloss Cecilienhofツェツィーリエンホフ宮殿は一部が古城ホテルになっていたので、宿泊をトライしましたが、無理でした。
おっしゃるように1914〜1917年に、当時皇太子であったWilhelm von Preussenヴィルヘルム・フォン・プロイセン(ホーエンツォレルン家最後の王子)と彼の妻メクレンブルク・シュヴェリーン家のツェツィーリエのために建てられ、皇太子一家が住んでいた英国風の館でしたね。
歴史はいろいろと面白いですね。それではまた。
jijidaruma
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- rinnmamaさん 2016/06/21 15:55:43
- ゴットルフ城・楽しませて頂きました
- jijidarumaさん、こんにちは
PCの調子が悪くてスマホの画面なのが残念です。また、PCでゆっくりと拝見させて頂きます。
4tとは何かも分からないままに初投稿しましたドイツ旅に、たくさんのご訪問・ご投票をありがとうございます。
jijidarumaさんの旅行記を拝見いたしますと赤面の至りですが・・
今回も相当のお時間を割かれて、お調べなさっていらっしゃると思いました。
ドイツ語が堪能でいらっしゃいますから、ドイツ語文献からでしょうか?
私は家系図などわかりかねますが、掲載なさったポートレートが素敵で見入ってしまいました
特にドイツ最後の皇帝とご一緒の皇女アウグステ・ヴィクトリア様が素敵です。
昔のお洋服の何と優雅で品の宜しい事か。。
勿論、由緒正しき方々ですから当然ですが、醸し出す雰囲気が証明なさっていらして、見させて頂く私まで気分良くさせて頂きました(^。^)
行く機会は無いかな〜とおもいながらも、最後の大鹿の間だけでも見てみたいです。
時間も克明に記入して旅をなさっていらっしゃる事に敬服いたしました。
最後にライラックはプラハの思い出です(^-^)
私もあの薄紫色が好きです。
これからも、ドイツ一筋の旅を楽しませて頂きます。
rinnmama
- jijidarumaさん からの返信 2016/06/21 19:16:54
- RE: ゴットルフ城・楽しませて頂きました
- rinnmamaさん
こんばんは。
旅行記にコメント頂きありがとうございました。
ご主人と2012年4月下旬から2週間、”ドイツ2人旅”の個人旅行、興味深く拝見しました。様々な事がありましたが、楽しそうで何よりでした。
電車の旅はやらない私共の旅ではもちろん駅を間違えて反対方向に行く事はありませんが、ナビなしで走るレンタカーの旅はしばしば行き先間違いをしますよ。アウトバーンですと、直ぐに降りて戻るのができないので、しばし車の中は険悪に(笑)。
旅行の企画はrinnmamaさんがご担当の由、我が家はこの点については古城めぐりの好きな私には譲れないところです^^。
ライラックもドレスデンも気に入られたとか、ベルリンの博物館はさすがに首都の感がありますが、ザクセンの古城群を巡り、ドレスデンに入るとずっとその素晴らしさに魅かれますね。
エルベの流れ、2泊したHotel Schloss Eckberg古城ホテル エックベルク城、レジデンツ・シュロス王宮の新旧・緑の丸天井の宝物、ドレスデン名物のEierscheckeアイアシェッケやCafe Kreutzkammカフェ クロイツカムのバウムクーヘン、そしてアウグスト強王の寵愛を一人占めしたと云われている、コーゼル伯爵夫人の事など、様々なことが思い出されてきます。
さて、グリュックスブルク城もゴットルフ城もドイツの歴史の周辺にあるものと思っていましたが、そこで見た広がりは大きかったですね。
歴史好きなので、その場で分からないことは帰国して旅行記を埋めていく際に、ドイツ語の資料も辞書を片手に調べてみます(ドイツ語を忘れないためにも良いのです)。
例えば、以前に掲載した“ヨーロッパの義父”と呼ばれたデンマーク王クリスチャン9世“といったものは、城の展示では理解が進みませんでした。
広がりすぎたものは私自身の興味と拘りで、4Travelで掲載するにはドイツ語名を併記しますから少々読みにくいかと思います。でもひょっとして同好の方もおられるかと・・・。
そうそう、ドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム2世と皇妃アウグステ・ヴィクトリアの写真などが目に留まられた由、長い家系の持つ“魅力”!を思います。
当時の王侯・貴族の女性名にVictoriaヴィクトリアを多く見ることが出来ます。日本でも男性名で古い時代には同じ名を継承していますが。
ケント公爵エドワード(ハノーヴァー朝第3代英国王ジョージ3世の四男)の妻ヴィクトリア公妃、その娘である英国ヴィクトリア女王、さらにその娘ヴィクトリア皇妃(ドイツ皇帝フリードリヒ3世の皇妃となった)の三代のヴィクトリアについては実に面白くて、別途書き残しています。
これに繋がる息子の嫁に同じ名の皇妃アウグステ・ヴィクトリアを選んだことが、私にとってはたいへん興味深いものでした。
私もまた立ち寄らせていただきます。ありがとうございました。
jijidaruma
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