2015/04/25 - 2015/04/25
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たびたびさん
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下関と言えば、関門海峡を望むのどかな景色に、ふぐで名高い唐戸市場やかつては捕鯨船の母港としても栄えた港町のイメージでしょう。その象徴は横浜DeNAベイスターズのルーツ、大洋ホエールズ。球団は1949年に下関で生まれ、当初はここを本拠地にしていました。
一方で、瀬戸内海は古くから交通の要衝。源平最後の決戦となった壇ノ浦の戦いもこの地です。そして、時代は下って、幕末の長州藩。馬関戦争と第一次長州討伐で危機に陥った長州藩の大逆転は、高杉晋作が決起した功山寺の挙兵から。明治維新への道も一つはこの下関から始まったといっても過言ではないと思います。
現在の下関の中心部、唐戸地区には、旧下関英国領事館、南部町郵便局、旧秋田商会ビルなど、明治・大正期に建てられたレトロな建物がいくつも残っていて、海外へもつながっていた港町下関の繁栄を偲ばせる一角です。対岸にある門司港レトロほどの派手さはありませんが、その分、街の景色に自然に溶け込んでいるような気もします。
また、長府地区には、かつて長府毛利藩の時代の武家屋敷がしっかり残っていて。その武家屋敷の外観を特徴づけるのが、屋敷を囲む練塀です。石垣の上に粘土を練り混ぜた土塀を築いただけのもので、素朴な土の造作物ですが、旅ごころをいっそう誘う風景。今になって知ったことは口おいしいことでしたが、交通の便がイマイチなので仕方なかったかもしれません。
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今回は羽田空港から北九州空港へ飛んで、そこから下関に入るコースです。
下関駅に到着して、まずは一階にある観光案内所へ。下関の街歩きの前に、ここで観光地図をいただきます。下関は限られた街ですが、その狭い範囲に観光スポットがぎっしり。観光地図はエリアごとに詳しいく載っていました。それなりに調べては来ていましたが、なるほど、これはすごいです。 -
ということで、レンタサイクルを利用することにします。海峡レンタサイクルというのですが、市内のいくつかのホテルで受け付けていて、下関駅から一番近いこのウイングへ。
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さて、これで出発です。
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白石正一郎旧宅跡は、下関駅から歩いても数分といった場所。道路わきに石柱と記念碑が建っていました。ここは、高杉晋作による奇兵隊結成の地。文久3年(1863年)6月のことです。
文久3年は、攘夷に向けた機運が絶頂を迎えた年。攘夷の先陣を切って馬関戦争が火ぶたを切りますが、長州藩は全く歯がたたず。力の差を散々に見せつけられることとなってしまうのですが、騎兵隊はこの敗戦を受けて藩に起用された高杉晋作の発案によるものでした。ちなみに、白石正一郎は竹崎の荷受問屋で、勤王派の支援をしていた人物です。 -
長門市場は、観光地図にも載っているし面白そうだったのですが、典型的なシャッター商店街。近くで場所を聞いた人も、「店はほとんど閉まってるよ」と言ってましたが、そのとおり。土曜日の朝でしたが、肉屋さんが開いているくらいでした。
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大歳神社は、見上げるとため息が出そうな長い石段がシンボル。平家追討のためやってきた源義経がここで戦勝祈願を行ったのが始まりです。
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以来、武運長久の神社とされ、奇兵隊旗揚げの軍旗が奉納されたという神社でもあります。大鳥居が立派ですが、騎兵隊の後ろ盾として知られる白石正一郎が奉納したものだということです。
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並びにある東光寺は、下関市街を見下ろす高台。なんの変哲もない寺なんですが、ここも高杉晋作ゆかりの場所。高杉晋作は、功山寺の挙兵の後、萩藩の出先である新地会所を襲撃し、一旦は了円寺に立てこもりますが、しばらくすると隊員が増え手ぜまになったことから、この東光寺に本陣を移しました。
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日和山公園は、大正11年、大正天皇即位の記念公園として造られた公園。同じ並びなんですが、とにかく上ったり下りたり、大変です。
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特にこちらは、意外なほどけっこうな丘陵地にあって、それなりの坂道を登っていかないといけない。行くには少し覚悟が必要かもしれません。
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高杉晋作陶像は、下関市街から日和山公園に登ると、公園の入口正面に立っています。
ただ、もともとは銅像で、昭和11年に建てられたのですが、太平洋戦争の最中、拠出されてしまったのだとか。現在の像は、昭和31年に建てられたもの。備前焼の陶製で造られました。渋い茶色が印象的です。
周囲はつつじが満開でした。 -
続いての光明寺は、本願寺派の寺。幕末、久坂玄瑞が結成した有志隊がここに寄宿。当時、長州に亡命していた中山忠光を総帥として、ここを本営としていたことから、「光明寺党」とも呼ばれます。
ところで、馬関戦争の口火を切った第1弾は、光明寺党が放ったものです。中山忠光が五條の代官所を襲う天誅組の変を起こしたのはこの1か月後ですし、まさに攘夷派の絶頂期といっていい年に当たります。 -
境内には保存樹木の銀杏。その奥が墓地で奇兵隊士の墓も。なお、入口のフェンスは自分で開けて入れます。
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岡の家の本店は長府なんですが、下関市内にも支店があります。
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イチオシ
お店のイチオシという麩饅頭をいただきました。
ただ、麩饅頭は、おいしいところはおいしいですからねえ。下関の実力はどうなんでしょう。半信半疑でいただくと、む、むー。これはすごい。もっちりした生麩は当然として、艶のある餡子はこれ以上ないくらいに生麩とベストマッチしてますよ〜。それに、餡子のちょっとした余韻がありますが、これはなんでしょうか。どっちにしても、文句なく絶品です。 -
さて、さらに先を急ぎます。
この山口銀行旧本店は、下関市内にあるレトロ建物の一つ。もともとは、大正9年に三井銀行下関支店として、建てられた長野宇平治の古典主義銀行建築の代表作で、その後、昭和8年に山口銀行の前身である百十銀行の本店となり、6つの銀行が統合してできた山口銀行でも本店となりました。
正面外壁は御影石。イオニア式とコリント式を組み合わせた柱頭というのですが、確かに変わっていると思います。 -
内部の見学は自由。この奥がやまぎん史料館に続きます。
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上階に貸ギャラリーのような部屋と大内人形や赤間硯などの郷土の伝統工芸を紹介するコーナーもありましたが、
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イチオシ
圧巻は一階にある萩焼の展示室。10代三輪休雪から
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11代、
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イチオシ
12代の作品が並んでいましたが、それぞれの個性をよく伝えるもの。12代は例によって黄金の焼き物。博多で開かれた襲名披露の個展で、初めて見た時は気が狂っているのではないかと思いましたが、やはりただ者ではない。これも含めて必見でしょう。
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童謡詩人金子みすゞは、大正12年に長門市の仙崎で生まれますが、その後、下関に移り創作活動を行います。市内には金子みすゞゆかりの地が点在しており、この顕彰碑のある寿公園もその一つ。みすゞの20歳の写真と紹介文は、平成10年に設置されたもの。何気なく歩いていても、すぐにそれと気づきます。
ところで、金子みすゞ詩の小径というのがあって、これは、下関市内にあるみすゞゆかりの地を結んだ散策ルート。これまでは金子みすゞは仙崎の人というイメージが強かったので、ちょっと認識が変わりました。スタートはこれから行く秋田商会。一階にみすゞの作品を紹介する小さな展示室があって、みすゞの最期の写真を撮ったカメラもありました。 -
下関南部町郵便局は、唐戸地区に点在するレトロ建築物の一つ。もともとは、赤間関郵便電信局として建築されたものですが、明治33年に完成した煉瓦造2階建て洋風建築の建物は、現役の郵便局舎としては国内最古のものだそうです。
それにしても、歩道から正面の写真を撮ろうとしても全景が入りきらないほど大きな建物。カフェが併設されたギャラリーや中庭もあって、郵便局というイメージからははみ出ていると思います。 -
イチオシ
下関観光情報センターは、 南部町郵便局と並んで建つ、これも唐戸地区を代表するレトロ建物。
大正4年に竣工した和洋折衷の建物で、台湾、朝鮮、満州を含めて木材取引や海運業を営んでいた商社、秋田商会が建てたものです。外観は一階まで届く塔屋を頂いて、純洋風なんですが、 -
中に入ると
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二階などは書院作りの純和風。あまりのギャップに唖然としてしまいました。なお、屋上庭園がありますが、下からそれらしい緑が確認できるだけ。公開はしていません。
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これは帰り道。この下に金子みすずの記念室がありますが、写真撮影は不可でした。
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宮崎商館は、田中絹代ぶんか館の隣り。美しい赤いレンガにところどころ白い石が少し混じった地のデザインに、二階のベランダには五つのアーチが並ぶという、なかなか目立つ意匠のレトロ建物です。
石炭輸送業を営む商社が明治40年に建てたものということですが、実は建物の名前も何も書いてない。どうしてなんでしょうか。不思議な扱いです。 -
田中絹代ぶんか館は、下関出身の大女優で、松竹の看板として黎明期の日本映画界を支えた田中絹代の功績を伝える記念館。
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明治生まれの女優だし、名前をちらりと聞いたことがあるくらいでしかなかったのですが、清純派から演技派、女監督までと人気に乗っただけではない努力の人であったことが分かりました。裕福だった家の没落で苦労をした生い立ちとか、ジオラマ等で紹介されている内容はかなり赤裸々。これにもちょっと好感を持ちました。
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近くにある教法寺は、奇兵隊ゆかりの寺。奇兵隊は、正規の藩士で編成された撰鋒隊と互いに対抗意識をもっていましたが、とうとう二つの隊は衝突し撰鋒隊士が奇兵隊士によって斬殺されるという事件が起きてしまいます。これが教法寺事件。高杉晋作はこの責任を取って、奇兵隊総督を解任されてしまいました。奇兵隊結成からわずか3か月後のことでした。
高杉晋作の最大の決断は、第一次長州征討直後の功山寺の挙兵ですが、その挙兵を当初担ったのは力士隊に遊撃隊。この時、山形有朋の指揮下にあった奇兵隊は当初は参加を渋り、少し遅れて参戦しています。 -
本行寺は、教法寺事件で知られる教法寺の隣り。ここも奇兵隊ゆかりの寺で、第二次長州征討における小倉戦争で戦死した山田鵬輔ほか奇兵隊士の墓があります。
ただ、目立っているのは、山門横の太平洋戦争時の下関空襲直後の風景を描いた大きな絵。平和を願う強い意思を示しているのだと思います。 -
末広稲荷神社は、赤い鳥居をくぐって奥に進むと、ちょっとした崖のような場所に張り付くようにして小さな社が建てられていました。
幕末、下関には稲荷町、裏町といった遊郭街があり、高杉晋作や伊藤博文らの長州の志士たちも闊歩していたのでしょう。そうした往時を偲ぶ神社だということです。 -
さて、海の方に戻ってカモンワーフへ。唐戸地区の海岸端にあって、ここも唐戸市場と並んで多くの観光客が集まる商業施設です。
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ウッドデッキの遊歩道が周囲を巡って、関門海峡を望むロケーションは開放感いっぱい。向かいの港からは、ひっきりなしに巌流島や対岸の門司に向けた渡船が発着していて、それを眺めながら食事をしたりするのも楽しい施設です。
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ただ、私が昼目に選んだのは。カモンワーフの隣りにあるふぐの店、ふくの河久。
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1000円でも食べられる「ふく刺しぶっかけ丼」をいただきました。ちょっと生臭さが鼻について、ポン酢の味も濃すぎるような。最初はえっという感じでしたが、まあまあ食べられるかなあ。ただ、確かにこれはふぐの味でしょうけど、逆にフラストレーションはたまったような気持ちになりました。ちょっと、残念。話のネタくらいのことかと思います。
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旧下関英国領事館は、カモンワーフの向かい側。赤いレンガ塀に囲まれた建物は、英国領事館が開設された明治34年の5年後、明治39年に建設されたものです。
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庭に面した明るい執務室など、快適な空間となっています。二階のベランダはアーチ形の窓が並んだデザイン。庭から見上げると、これも痛快です。
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下関には縁起焼の店が複数あるようですが、これは唐戸地区の商店街にあるお店。
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大判焼のようなものかなあと思ったら、餡子が包まれたのは似ていても、真っ白で、皮がもっちりした食感のちょっと変わった感じ。白いたい焼きというのがありますが、そっちの方に近いかもしれません。やっぱり下関の名物の一つだろうとは思います。
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三好屋は、そのはす向かいのケーキ屋さん。といっても、奥に喫茶のスペースがあったりして、けっこう悠々とした構えです。
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店頭に朝市のシュークリームがあって、それを見ればこれも食べないわけにはいきません。カスタードクリームがいい感じ。取り立てての特徴はありませんが、これでいいんですという期待通りのうまさでした。
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こちらは、対馬屋。看板も何もないのですが、歩道に商品を並べたケースを置いて、家族総出で商売しているような、アットホームな感じが目に止まりました。いただいたのは、たいもなか。これはもなかというより、ミニたい焼きですね。歩きながら食べました。
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さて、チェックしたい観光スポットはまだまだてんこ盛りです。
亀山八幡宮は、カモンワーフのはす向かい。関門海峡を正面に臨む小高い山の上に建っていて、巨大な石の鳥居に、本殿に向けてはそれなりに急な石段と、下関の総鎮守であり、長門国の三宮の一つという格式に相応しい堂々とした構えです。 -
本殿は工事中。
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境内には、世界一のふぐの像や山陽道の終点を示す碑に、
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亀山八幡宮の境内には林芙美子文学碑があるはずなんだけどなあと思って探してもなかなか見つからない。宮司さんに尋ねると、目立たない一角に、これも全く目立たない歌碑がありました。
林芙美子は、桜島や尾道などゆかりの地はいくつかあるのですが、生まれたのは下関だそう。碑は地元出身の実業家が建てたということです。 -
境内からのカモンワーフの眺めです。
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少し移動して、これは引接寺。小早川隆景の菩提を弔うために、藤堂高虎が現在の地に寺を移し、巨大な堂宇を造ったことから隆盛を極めたと説明板がありました。
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見どころの一つは、三門で、二手先の組みもので囲まれた鏡天井に彫り込んだ龍が見事です。この龍は、旅人を襲った殺人事件の犯人だったという伝説まで生んだというのですが、いかがでしょうか。
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藤原義江記念館は、関門海峡を望む高台に建つ邸宅を利用したもの。昭和11年に、英国系商社ホーム・リンガー商会の社長令息のために建てられたということです。
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ちなみに、藤原義江は下関出身の世界的オペラ歌手ですが、父は、このリンガー商会の支配人だったという縁があったんですね。
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館内では、サンタルチアとかイタリアの民謡を歌う藤原義江のCDが掛かっていて、なんだかバタ臭くてとっても優雅な雰囲気。世界とつながっていた下関だけに、こうした文化がここでしっかり育ったことも記憶にとどめるべき事実だと思います。
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坂を下って、赤間神宮に向かいます。梅寿軒は、その途中。立派な構えなんですが、裏通りなので、これでは観光客は気が付かないでしょうね。
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いただいたのは、道明寺の桜餅。粒々の皮に滑らかな餡子の甘さは老舗のお菓子屋さんならではの出来栄え。なかなかの名店だと思います。
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本陣伊藤邸は、龍馬とお龍ゆかりの地。龍馬は、慶応3年(1867年)2月にお龍を連れて下関にやって来ています。
ちなみに、薩長同盟が締結されたのは前年の1月。龍馬が亀山社中の船ユニオン号を使い、第二次長州征討の小倉戦争で戦う高杉晋作らを支援したのは6月のことでした。
下関では、この伊藤邸の一室を借り、つかぬまの夫婦生活を送ったということ。龍馬が朝帰りをして、お龍にこっぴどく怒られた逸話等が伝わります。 -
日清講和記念館は、明治28年、日清戦争の講和会議が行われた地に建つ施設。
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イチオシ
会議の際に使用されたテーブルや椅子などの調度品や資料などがそのまま展示されていました。
ちなみに、日本側の代表は伊藤博文(内閣総理大臣)、陸奥宗光(外務大臣)。清側は李鴻章(北洋大臣直隷総督)。テーブルを挟んで会議した様子がまざまざと想像できて、これは生々しい。戦勝国の日本が強硬な主張をしたのは明らかでしょう。その様子が目に浮かぶようで、これは予想外の迫力です。 -
安徳天皇阿弥陀寺御陵は、赤間神宮の隣り。ただ、あまり目立たないので、赤間神宮に何度か行っている人でも気が付いていない人は多いかもしれません。安徳天皇は、壇ノ浦の戦いで、平清盛の妻であり、天皇にとっては祖母である時子とともに、幼くして入水した悲劇の天皇。平家物語の中でも最も涙を誘う場面の一つでしょう。
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そのまま赤間神宮の
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境内に入って。
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境内の赤間神宮宝物殿は、入口右手すぐに平家一門一人一人の肖像画が並びます。そして、一番奥に安徳天皇の肖像と左手には、源平の戦いを描いた合戦図の屏風。これだけ平家一色の展示を見ると、ちょっと圧倒されてしまいますね。
それにしても、平家が滅びたのは、一門の横暴さとかだけに原因を求めるのは単純すぎる。長く続いた律令制度のほころびは、土地の私有制を認めた荘園から始まるのでしょうが、時代は新田開発の技術が進歩して開墾した土地の所有権を認めてもらおうとする土着の新興勢力が台頭する流れ。これまでの制度疲労が表面化した面も大いにあるはずであり、いわゆる摂関政治の矛盾を一身に受けてしまったということもあるのだと思います。時代は前に前に進んで行くしかありません。 -
耳なし芳一は、平家物語の弾き語りを得意とする盲目の琵琶法師が平家一門の怨霊との間で起きた怪談話ですが、その耳なし芳一を祀るお堂が宝物殿の隣り奥にあります。お堂には芳一の木像が安置されて、けっこう生々しい姿。耳なし芳一まつりは、7月ですが、この木像は普段でも拝めますので、是非どうぞ。
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七盛塚は、その奥。耳なし芳一のさらに先です。小さな一角に、平家一門の供養碑が並んでいて、前列の7基は、有盛(平清盛の嫡男、平重盛の四男)、清経(平重盛の三男)、資盛(平清盛の父、平重盛の次男)、教経(平教盛の次男)、経盛(平忠盛の三男)、知盛(平清盛の四男)、教盛(平忠盛の四男)。関門海峡で海難事故が頻発したことから、平家一門の怨霊のせいだと考え、1600年ごろ、こうして一門の供養を行ったということです。
平 維盛(たいら の これもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男。
ちなみに、清盛の嫡男、重盛の嫡男。つまり、清盛の嫡孫、平維盛の供養碑はありません。平維盛は、富士川の戦いと倶利伽羅峠の戦いの二大決戦で、大敗した際の大将。平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱し、那智の沖で入水自殺した人物です。光源氏の再来とされたほどの貴公子だったようですが、平家は三代で武士ではなく公家に戻ってしまっていたというのですが、その象徴的な人物かと思います。 -
高浜虚子句碑は、七盛塚の傍らに建っています。
昭和3年に高浜虚子が下関を訪れた際、「七盛の墓包み降る椎の露」という句を詠んだことを記念するものです。七盛塚は、平家一門の供養碑であり、鎮魂の意味が込められているのでしょうが、「椎の露」といったあたりがそれなんでしょうか。簡単に解説するのはばかられるような句碑だと思います。 -
赤間神宮から道路を挟んだ海側にあるのが阿弥陀寺公園。名前の阿弥陀寺というのは赤間神宮のところにあった寺ですが、明治の廃仏毀釈でなくなってしまいました。公園には、朝鮮通信使節の上陸記念碑が建っていますが、それは阿弥陀寺が通信使の宿泊所だったから。現地には、もう少し、説明があってもいいかと思います。
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隣りの広場の方が開けていまして、
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対岸の門司の街もよく見えていました。
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ここから、関門大橋を越えて、長府の市街に向かいます。自転車じゃないと、このコースは無理ですね。ただ、けっこう風がきつくて、大変です。
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イチオシ
みもすそ川公園は、関門大橋を少し過ぎた場所。まず目に付くのは、源義経と平知盛像。
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義経は八艘跳び、知盛は錨を担いだ姿で、両雄がまみえた姿が関門海峡をバックに生き生きと表現されています。一の谷の戦いから、屋島の戦いを経て、この壇ノ浦が最後の決戦ですが、不意打ちを食らった一の谷の戦いなど、義経の天才的な戦略・戦術によって、とうとうここで平家は滅びます。
ちなみに、知盛は平清盛の四男(時子腹としては二男)。三男(時子腹としては長男)だった宗盛がこの頃では平家の実質的な総帥となっていましたが、優柔不断で大将の器ではない宗盛に対し、知略も武勇も兼ね備えていたと言われます。
一の谷の合戦では、すでに武勇で並ぶと言われた弟の重衡は捕えられ、嫡男知章も討ち死にしています。さらに屋島を失った後は、有力武将の寝返りも次々と。。錨を担いだ姿は、「見るべき程の事は見つ」と入水自殺を図った際のものですが、
壇ノ浦では初めから最後の死に場所を求めるような心境だったのかもしれません。
対岸の門司には甲宗八幡神社というのがあって、知盛のものといわれる墓が残っています。
公園には、安徳帝御入水之処碑や長州砲のレプリカもありました。 -
さらに進んで、前田砲台跡です。この辺りは、下関市街と長府市街の中間になるでしょうか。関門海峡を望む高台です。
長州藩の攘夷決行のために築かれた砲台のひとつで、大砲20門を装備していたのですが、馬関戦争では、フランス軍に占領されてしまい、大砲も戦利品として持ち去られてしまいました。攘夷熱の最も高かった長州藩が諸外国の実力を初めて知った出来事です。 -
一方で、現代にあって関門海峡を航行する船。のどかですねえ〜
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串崎城址は、平安時代に起源があるようですが、関ヶ原の戦いで防長二州に減封された毛利氏の支藩、長府藩の居城として改修された城。ほどなく、徳川幕府の一国一城令によって取り壊されますが、隣接地に藩主の居館が造られました。
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幕末には攘夷決行のため、ここも砲台が築かれたということですが、確かに眼下に関門海峡を望む絶好のロケーションだと思います。一帯は関見台公園として整備されていて、
石垣も後で手が入れられたのかもしれませんが、とても美しいです。 -
このくじらの博物館はやっているのか、いないのか。よく分かりませんでした。
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少し移動して。
豊功神社は、「とよことじんじゃ」と読みます。
歴代の長府藩主を祀る神社であり、豊臣秀吉とは関係ありません。串崎城跡から回りましたが、けっこう急な坂道を登ります。
初日の出がきれいという満珠・干珠島の風景が有名だからでしょう。入口に、景色を眺める前にまずお参りしましょうの看板が出ています。 -
その満珠島 干珠島は、豊功神社から眺める景色が有名。初日の出が美しいということで、境内の続きにはかなりたくさんの人が入っても大丈夫な草原があって、そこから正面に二つの島が少し重なるように見えていました。
なお、島は無人島。原生林が国指定の天然記念物となっているほか、源平合戦の壇ノ浦の戦いでは源氏軍が拠点としたということです。 -
さて、寄り道しましたが、ここから長府市街。
まず訪ねた長府庭園は、長府藩の家老格、西運長(にしゆきなが)の屋敷跡。 -
小高い山を背にした庭園は、
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書院と池を中心に
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小川も流れる回遊式の庭園。
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広さは3万?ということですが、
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その規模よりも
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イチオシ
水と豊かな緑に囲まれた潤いある景色が印象的です。
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なお、書院の内部は見れないので、見学はこうして周囲を散策するだけになります。
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下関市立美術館は長府庭園の向かい。ちょうど美術館の代表的なコレクションである地元ゆかりの狩野芳崖や高島北海の作品を学芸員の方が解説するイベントが行われていました。芳崖が地元で描いた絵と上京してからの絵を比較したりしていましたが、地元で描いた絵もやはり凄味はある。いずれにしても、地元ならでは。所蔵作品がそれなりの数なので、いろんな角度から鑑賞できる利点があるように思いました。
薩摩藩なら黒田清輝。長州藩なら狩野芳崖。二つの雄藩は、絵画の分野でも明治の時代をリードしてます。 -
ここからは、さらに長府市街の中心部です。
日頼寺の日頼は、毛利元就の法号「日頼洞春」にちなむもの。長府藩の初代藩主、毛利秀元が再興し、毛利元就の菩提を弔う意味で、改称したということです。
仲哀天皇の遺体を仮埋葬した塚もあるようですが、それはちょっと分かりませんでした。一方で、本堂前の枯山水の庭園が美しく整備されていて目を引きました。最近、手を入れられたようでした。 -
旧野々村家表門は、下関の市街からだと長府地区に入る入口といった場所。
野々村家は、禄高130万石の御馬廻格の上級藩士。長府に残されている薬医門では大きなものということですが、ただ、本当に表門と練塀だけが建っているだけなので、見応えとしてはイマイチかもしれません。 -
壇具川は、長府市街の中心を流れる川。ホタルの生息地だったり、水鳥が遊んでいたりと自然の豊かさを感じる川。昔は水道のなかった時代。こうした川が流れて、少し坂になった場所の方が街を造るには適していたということを聞いたことがありますが、長府もまさしくそんな条件が整っている街だったということかと思います。
長府藩侍屋敷長屋は、その壇具川沿い。長屋は長府藩家老職であった西家の分家の表門に附属していたもの。上級藩士の屋敷にあった建物なので、長屋とはいっても、がっちりとした重厚感の感じられる建物です。中は、休憩所のようなスペースもあるので、ゆっくりできると思います。 -
総社跡は、長府毛利邸の門前に説明板がありました。
説明板によると、歴史は平安中期頃に遡ります。律令制度の元では、国司は管内の官社を巡拝することが義務であったのですが、それが面倒だということで、管内の神社を集めて総社とし、これに参るということにしたのだとか。
ちなみに、山口県は長門と周防国。長門の国府は長府であり、周防国の国府は防府。つまり、この遺構は、ここに国府があったことを偲ぶ遺構なんですね。 -
長府毛利邸は、長府観光の目玉の一つ。
明治36年、長州藩の支藩であった長府毛利家の第14代藩主毛利元敏が建てた邸宅です。 -
イチオシ
奥に進んで行くこの感じも、素晴らしいですね。
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玄関を入って。
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大広間を抜けた先には、長い廊下沿いに部屋が並んでそれぞれの部屋からはちょっとした日本庭園を眺められる設計。
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そして、離れのような位置ですが、明治天皇の行在所として使われた部屋も残されています。
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ところで、長府藩は幕末、尊王攘夷の急先鋒であった公家の中山忠光を一時預かります。中山忠光は、長州藩の下関戦争で外国船に砲撃を加えた光明寺党のトップに担がれたり、奈良の五條の代官所を襲う天誅組の乱を主導したりと超過激な行動が目立った人物。第一次長州征討の際は、天誅組の変から八月十八日の政変の後で、長州藩に匿われていたのですが、長府藩が持て余したこともあって刺客に殺されてしまいます。しかし、この中山忠光は明治天皇の叔父にあたっていて、明治天皇が長府に来た時はどんな気持ちだったのか。興味の湧くところではあります。
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さて、いよいよ功山寺。長府観光のハイライトでしょう。
この寺は、長府毛利家の菩提寺なんですが、歴史的には、高杉晋作がここでで挙兵した回天義挙が重要でしょう。
8.18の政変によって追われた失地回復を図った禁門の変ですが、再びこれに敗れると、長州藩は朝敵として、第一次長州征伐を受け、勤王派であった三家老は切腹。藩政は幕府恭順の俗論派が握ることとなりました。これに異を唱える高杉晋作が挙兵した事件です。無謀な挙兵と言われた挙兵ですが、挙兵は成功。俗論派を退け、討幕に向かう正義派が長州藩の実権を握るという大転換となりました。
五條では、天誅組の変が明治維新の先駆けとうたっていますが、私は本当の明治維新の先駆けは、この功山寺の挙兵ではないかと思います。 -
境内には国宝の三門。奥には七卿潜居の間もあります。
この山門は、毛利藩の支藩、長府藩主10代毛利匡芳が建立したもの。二重櫓造りで、禅宗様というのですが、知恩院の山門などと同じく頭でっかちのいわゆる二重門というタイプでしょう。現在は、修復工事中で一段高いところから見下ろすことができるだけ。功山寺の挙兵の際に付けられた刀傷などは見ることはできませんでした。 -
功山寺の本堂裏手にあるのが七卿潜居の間。8.18の政変で都落ちした三条実美等5人の公卿が潜居した部屋のことです。
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ここだけは、拝観有料。部屋自体は立派なのですが、日当たりが悪くて陰気な雰囲気。ここに日がな一日いるとちょっと気分がめいってしまいそうです。一方で、周囲の庭はビロードのような苔がびっしり。苔寺もびっくりと言った見事な苔でした。
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イチオシ
回天義挙とも呼ばれる功山寺挙兵。我が身をかえりみず、信念に従って兵を挙げた騎馬姿の高杉晋作像もありました。
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下関市立長府博物館は、功山寺の隣り。国の登録有形文化財ともなった重厚な石造りの建物です。中に入ると、展示ケースがいくつも並んで、長州藩に関する幕末の資料が豊富。高杉晋作愛用の携帯用硯などもあって、芸達者というか洒脱な趣味だったという高杉の人となりを伝えています。
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古江小路は、菅家長屋門に面した通り。入口は緩やかな坂を下って行くのですが、両側に練り塀と塀の向こうに緑が豊かな庭の木ものぞいていて、のどかな風景が続きます。長府には、他にも名前の付いた小路はありますが、この小路が一番長いし、見応えがあると思います。
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その古江小路の上手にあるのが門菅家長屋門。同じ並びにある武家の屋敷の門と違って、少し奥まった一段高いところに構えられた門で、かなりの格式を感じさせます。
というのも、菅家は、長府藩主に京都から招かれ、侍医兼侍講職を務めた家柄。代々藩中医家随一の名門なのだそうです。 -
この忌宮神社は、「いみのみやじんじゃ」と読みます。長府市街の中心で、坂の途中といった場所ですが、境内に入ると意外なほど広くて清々しい雰囲気に包まれた神社です。
仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した行宮があった場所でもあります。 -
忌宮神社宝物殿は、忌宮神社の境内の一角にあって、蔵のような建物。
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中に入ると、目を引いたのは能・狂言の面の数々。下関市指定の文化財のようですが、年代も古いのでしょうが、実際に使われたことで、余計に迫力が備わったような感じがしました。
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横枕小路は、乃木神社の脇を東西に走る細道。この一帯はほとんどそうなんですが、土の練塀に挟まれた細道です。特に、名所スポットがあるわけではないのですが、ちゃんと名前がついている。生活の中では、名前がついていないと不便だからでしょうね。
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乃木神社は、乃木希典将軍を祀り、地元では学問の神様として知られる神社。
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境内には、乃木将軍が幼少期を過ごした旧家が復元され、
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その隣りには、遺品などを展示する乃木記念館があります。
ちなみに、神社よりもこの乃木記念館の方が先に出来たようです。記念館の拝観は無料です。 -
聖武天皇が全国に造営した国分寺・国分尼寺。長門国の国分寺跡は、長府の市街地にありました。石碑辺りの一帯が境内だったようで、8町(960m)×6町(720m)程度の敷地。瓦や土器なども発掘されているとのことでした。
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吉岡家長屋は、国分寺跡の向かい側。白壁のがっちりした建物が建っていて、ギャラリーのような表札が出ていたので入ってみましたが、昔はそうだったのかもしれないなあというような雑然としたスペースで、見るのがはばかられるような感じ。早々に引き揚げました。
この場所は、かつて長府藩馬廻として藩の要職に就いていた大久保家が構えていたということ。今の建物も江戸時代後期のもののようです。 -
覚苑寺は、毛利長府藩の三代目藩主綱元による創建。毛利家の菩提寺の一つです。
石柱が建っているだけのちょっと粗末な門を入ると、丘陵地を使った境内が奥の方まで延びています。珍しい黄檗宗の寺で、宇治の万福寺の流れを汲んでいます。
覚苑寺本堂は、江戸時代の1794年に建てられた黄檗宗の建物。元々は、防府市にあった同じ黄檗宗の海蔵醍醐寺の本堂として建てられたものを明治になってから、ここに移築したということです。一重裳階付の吹放しに、屋根は入母屋造の本瓦葺。豪快な印象は黄檗宗ならではかと思います。 -
狩野芳崖銅像は、覚苑寺の境内。本堂の前、一段低い場所に建っていました。
ちなみに、狩野芳崖は、長府藩の絵師狩野家の長男として生まれ、その後、江戸の狩野勝川院に遊学。同門の橋本雅邦と双璧と言われた日本画の大家。「悲母観音の図」はあまりにも有名でしょう。
長門鋳銭所跡は、覚苑寺の一角に石柱と説明板が立っていました。奈良・平安時代に銭貨の鋳造を行った場所であり、和同開珎や型などが出土したよう。長門国衙に付設されたもので、この一帯が鋳銭所で、かなり広い範囲。国の重要文化財にも指定されています。 -
毛利家の菩提寺の一つ、黄檗宗の覚苑寺境内。毛利家墓所につながる竹林をバックにして、乃木将軍銅像はありました。長府には、乃木希典を祀った乃木神社もあるのですが、ここにもこうして像がある。よほど、郷土の誇りとして尊敬された存在なのかなあと思います。山口からは、軍人でも多くの人材を輩出しているはずなんですが、明治天皇に続いて殉死したりしたことなど、尊王攘夷の土地だけに特別な思いもあるのかもしれません。
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正円寺は、長府市街のメインストリート沿い。山門は行ってすぐのイチョウの巨木が有名です。太さ約7.8m、高さは約13m。イチョウの古木で見られるいわゆる「乳の下垂}が参道を覆うように垂れ下がって、なかなかに壮観です。
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みやはら製菓は、長府市街のメインストリート沿い。お店の前面に長府せんべいと書かれた赤い幕があって、それが目印。
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お土産に、その長府せんべいをいただきました。砂糖をまぶした甘さと表面に塗った生姜の香りがはっきりとした特徴ですが、全体としてとっても自然な味わい。サクサク食べられる煎餅です。
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徳応寺は、長府市街のメインストリート沿い。通りに面した立派な楼門が目立っています。本願寺派の寺で、織田信長の家臣内藤正吉という人物が出家し、毛利氏に従いこの地で、寺を再建したのだそうです。なお、境内は、柵があって入れませんでした。
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はりま太鼓で登録になってますが、お店の看板は「ゆず家太鼓」。場所方も、山陽道の表通りの方に移転しています。「大名(たこ焼き風)」というのが一番人気。今川焼の中にたこ焼きのような粉もんが入っているんですが、まったく違和感なし。これは馴染の味になるでしょう。以前、今川焼にいろんなものを入れている店がありましたが、どれが一番ということはないとおっしゃっていました。しかし、ここはそうではなくて、いろんなものの中からここに落ち着いたんでしょう。そういう潔さもいいと思います。なお、常連さんでけっこう賑わっているので、お店はすぐに分かります。
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出雲屋は、長府商店街の一角。朝8時からやっていて、大福とか生菓子が食べたかったのですが、夕方にはすべて売り切れていました。
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代わりに買ったのは、おしるこ。最中の皮に包まれた粉の餡子をお湯で溶かしていただきます。うーん。ほっこりした餡の甘さがとってもうまいですねえ。いいお菓子屋さんは、何を作ってもやっぱり違う。そんな思いを強くさせてくれるひと品でした。
これで、長府はおしまい。下関市街に戻ります。 -
平家の一杯水は、長府から下関市街に戻ってくる途中。小さな神社に守られて、海岸端にありました。
「壇ノ浦の戦いで敗れ、命からがら岸に泳ぎ着いた平家の武将が水溜りを見つけ、飲んでみるとおいしい真水だった。しかし、もう一口飲もうとしたら塩水になっていて、その場で力が尽きた」という伝説。何か不思議な話ですが、そのとおりだったのか。実はもともと塩水だったのだが、もしかしたら初めにそれを飲んだ時は真水と間違えるほど疲労困憊していたということなのかもとか。いろいろ想像できる伝説だと思います。 -
関門トンネルは、下関と北九州を結ぶ人道。
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エレベーターを降りた先がトンネルの入り口なんですが、それなりに深いので、エレベーターに乗っている時間は長く感じます。一方で、そこから北九州は780mほど。短い距離なので、手軽に行き来できる。自転車を押して歩いている人も多いです。
なお、通行時間は、6時から22時までです。 -
はい!からっと横丁は、唐戸地区のほど近く。元は埋立地という海岸端にある遊園地です。入場は無料で、アトラクションを利用する際に料金を払うシステム。大観覧車を眺めながら、公園のように散歩して楽しむのもあり。このゆるい感じも魅力の一つだと思います。
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海峡ゆめ広場は、ゆめタワーの隣りに整備された公園風の広場。小さなステージもあって、何かのイベントでもあれば、活用されるんでしょう。夕方で、天気も悪かったせいか、人影はほとんどなし。ゲートから背後にゆめタワーを頂く眺めを確認するくらいでした。
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海峡ゆめタワーは、高さ153m。下関市内ならどこからでも見えるし、下関のランドマークといったところでしょう。外壁は全面ガラス張り。近くで見るとシースルーな感じは福岡タワーとよく似ています。ただ、高所恐怖症の私にはちょっと無理。足元から見上げる景観を確認してよしとしました。
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三枡は、下関でちょっとうまいものを食べたいなあと思って訪ねました。広いカウンターがあって居酒屋風なんですが、お客さんが思い思いに食事を楽しんでいる感じがして、入った瞬間から、皆さんのリラックス感が伝わってきます。
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いただいたのは、お任せお造りとふぐのから揚げ。どちらもうまいですねえ。本当にうまい。刺身は包丁の入れ方とかがいいんでしょうか。ピカピカ光っているし、九州の少し甘めの醤油も鮮度がいい魚にはぴったり。
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イチオシ
から揚げの方も、これぞふぐって感じですよね。マヨネーズをつけていただきますが、とっても美味。これは名店間違いなし。何一つ申し分ない下関を代表するお店の一つだと思います。
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グリーンモール商店街は、下関駅前のコリアタウン。下関は、韓国の釜山とフェリーで結ばれているので、観光の商材が手に入りやすいんだとか。確かに、焼肉屋さんとか多いような感じでした。入口に釜山門と書いた極彩色の門があって、これもかなり目立っています。
その中にあるのが今夜の宿の下関ステーションホテル。下関駅からも近いのに、なんかやけに安いなあと思ったら、実はカプセルの部屋でした。しかし、カプセルがあるのは独立した部屋なので、プライバシーはかなり確保されていて、快適。これはかなりコストパーフォーマンスが高いと思います。
さて、明日は下関の残りと防府を回ります。
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この旅行記へのコメント (3)
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- tadさん 2015/12/11 10:32:44
- 素晴らしい旅行記発見!
- 今、下関と防府の旅行記を読み終わりました。どちらも、正確な歴史知識が背景にあり、読み応えのある旅行記でした。有難うございました。これからも勉強させていただきたく、さっそくお気に入りに登録させていただきました。
- たびたびさん からの返信 2015/12/11 13:24:49
- RE: 素晴らしい旅行記発見!
- お気に入りに登録ありがとうございました。幕末の長州藩に関心が高い人は多いと思いますが、観光で訪れるとすると松下村塾のある萩となる人がほとんどです。しかし、それはちょっと間違い。幕末の動乱の中心は下関であり、高杉晋作らの正義党はここから起って、萩に勢力を置く幕府への恭順を主張する俗論党を打ち破ったんですね。
そして、維新のヒーローで最も人気のあるのは坂本龍馬でしょうが、これほど起死回生の決断をして形勢逆転をする、とんでもない大ばくちを打った人物は高杉晋作意外には誰もいなかったように思います。
下関の街歩きをするまでは、そんな気持ちはありませんでしたが、あちこちまわることによって、そうした晋作への思いがこみ上げてきました。コメントをいただいて、また当時の感動が蘇りました。ありがとうございました。
- tadさん からの返信 2015/12/11 16:48:06
- RE: RE: 素晴らしい旅行記発見!
- > お気に入りに登録ありがとうございました。幕末の長州藩に関心が高い人は多いと思いますが、観光で訪れるとすると松下村塾のある萩となる人がほとんどです。しかし、それはちょっと間違い。幕末の動乱の中心は下関であり、高杉晋作らの正義党はここから起って、萩に勢力を置く幕府への恭順を主張する俗論党を打ち破ったんですね。
萩は幕末の動乱の中心人物を生み出した場所という意味では、重要ですが、動乱の中心は下関であるというのは、まったくその通りですね。
> そして、維新のヒーローで最も人気のあるのは坂本龍馬でしょうが、これほど起死回生の決断をして形勢逆転をする、とんでもない大ばくちを打った人物は高杉晋作意外には誰もいなかったように思います。
しかも、このような少数の仲間で決起するという大博打を打った人物が晋作であるというのもその通りですね。山縣などの奇兵隊そのものは、最初は晋作に加担しませんでした。むしろ伊藤博文らの力士隊などが最初に駆けつけたというのも注目すべきです。後に、伊藤は、自分の人生で自慢できることがあるとすれば、その真っ先に晋作と合流したことだと後に語ったといいます。晋作なきあと、私は伊藤がもっとも長州では面白い人物だと思っています。
> 下関の街歩きをするまでは、そんな気持ちはありませんでしたが、あちこちまわることによって、そうした晋作への思いがこみ上げてきました。コメントをいただいて、また当時の感動が蘇りました。ありがとうございました。
つまらないものですが、晋作の東行庵の私の旅行記です:
http://4travel.jp/travelogue/11021529
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