末広稲荷神社
寺・神社・教会
3.29
クチコミ・評判
1~9件(全9件中)
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石段に並ぶ数多くの赤い鳥居
- 3.0
- 旅行時期:2021/09(約4年前)
- 0
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裏道の奥にあります
- 3.5
- 旅行時期:2021/09(約4年前)
- 0
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少しだけ開く戸
- 3.0
- 旅行時期:2020/12(約5年前)
- 2
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階段狭く、お社も質素です。
- 3.5
- 旅行時期:2020/10(約5年前)
- 0
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ひっそりと赤い鳥居がありました。
- 3.5
- 旅行時期:2020/10(約5年前)
- 0
町の繁栄からは忘れられた様に、ひっそりと赤い鳥居がありました。掲示の案内によると、809年(大同4年)に建立された下関最古... 続きを読むの稲荷神社で、古来商家の崇敬篤く赤間関の繁栄の守護神として信仰を集めてきたそうで、この辺りは稲荷町と呼ばれます。赤間関の繁栄は遊郭を生み出しますが、日本の郭の発祥地ともいわれます。(壇ノ浦で敗れた平家の女官たちが遊女となったという話もこんなところから出ているのかも知れませんね)稲荷町の名は全国に知れ渡り、井原西鶴、十返舎一九、頼山陽など文人墨客が訪れます。名にし負う名妓も多く、幕末の志士、伊藤博文、山縣有明、井上馨の夫人は当地の出身です。高杉晋作の愛人もそうです。空襲によりすべて灰燼に帰し、その面影は何も残っていません。東京第一ホテル下関のあるところは、元禄時代から続く最大の妓楼「大坂屋」があった場所だそうです。 閉じる
投稿日:2020/12/01
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遊郭のあった稲荷町にある神社。高杉晋作、伊藤博文、藤原義江など。。
- 3.0
- 旅行時期:2019/03(約7年前)
- 19
稲荷町には遊郭があった。長州軍と4か国連合艦隊の幕末の戦闘の後、伊藤博文がアーネスト・サトウを誘って、この近辺の一軒である... 続きを読む大坂屋で、一緒に飲んだのも、このあたりだ。二人は、どちらもロンドン大学で学んでおり、この後、長い付き合いが始まる。この時は、通訳として、二人とも講和会議に参加していたが、後に、総理大臣と英国全権公使となっても、やりとりが続いた。二人が大成した後のやりとりは、アーネスト・サトウの日記などを読むと、細かく当時の動きを反映していることがわかり、痛快だ。幕末の戦闘の後、遥かに時間はたち、日清戦争時代になっても、この二人のやりとりは、続いた。日英同盟まで結ぶ両国は、当然、次の日露戦争に関しても、英国は、大変な助けを日本に行うことになった。
私には稲荷町といえば、このあたりで連れ合いを見つけたであろう伊藤博文、高杉晋作らのことも思い出す。最近、読んだ古川薫氏の「漂泊者のアリア」(直木賞受賞作)では、テナー歌手藤原義江のことも、このあたりに関係がありそうだ。藤原歌劇団として今でも名前が残る藤原義江は、父はイギリス人で、下関に住居があった。現在、藤原義江記念館として知られる建物がそうだ。そのリード氏は、下関で働いていたが、その時、稲荷町の琵琶芸者をしていた女性との間に藤原義江は誕生したそうだ。彼の波乱万丈の人生については、古川氏の本を参照のこと。
テナー歌手藤原義江の当時の人気はすさまじいものがあった。ビクター・レコードの赤盤として世界で発売された音楽家だったのだ!クライスラーやラフマニノフらと同列のレコードだった。
今はこの稲荷町も遊郭らしさはどこにもない。ただ、この石の階段の上にある神社に、かつての稲荷町の名前を残すのみだ。
閉じる投稿日:2019/03/03
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往時を偲ぶ神社です
- 4.0
- 旅行時期:2015/04(約11年前)
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飲み屋街にある
- 3.0
- 旅行時期:2014/01(約12年前)
- 0
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かつては賑わった遊郭
- 3.0
- 旅行時期:2012/04(約14年前)
- 0
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基本情報(地図・住所・アクセス)
- 施設名
- 末広稲荷神社
- 住所
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- 山口県下関市赤間町5
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- 大きな地図を見る
- アクセス
- JR山陽本線下関駅からサンデン交通バス長府方面行きで7分、唐戸下車、徒歩7分
- 登録者
- araiguma999 さん
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