松山旅行記(ブログ) 一覧に戻る
四国の名城、松山城紹介の続きです。加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、慶長7年(1602年)麓に二之丸と三之丸を有する平山城の築城に着手し、築き上げた城郭です。

2015春、四国周遊(20/26):3月31日(4):松山城、連立式天守、武具類展示、書、絵画

35いいね!

2015/03/29 - 2015/03/31

342位(同エリア1657件中)

旅行記グループ 2015春、四国周遊

0

30

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

四国の名城、松山城紹介の続きです。加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、慶長7年(1602年)麓に二之丸と三之丸を有する平山城の築城に着手し、築き上げた城郭です。

交通手段
観光バス
  • 大天守、小天守、南聞櫓と北隅櫓が、渡櫓で繋がった連立式天守を巡りながらの見学です。松山城の本壇を取り囲む塀越しに眺めた、桜の花と松山市街の眺望です。

    大天守、小天守、南聞櫓と北隅櫓が、渡櫓で繋がった連立式天守を巡りながらの見学です。松山城の本壇を取り囲む塀越しに眺めた、桜の花と松山市街の眺望です。

  • 松山城の連立式天守を巡りながら眺めた松山市街の光景です。松山市は愛媛県の県庁所在地で、四国最大の人口を擁する都市です。51万6千人余の人口とされます。

    松山城の連立式天守を巡りながら眺めた松山市街の光景です。松山市は愛媛県の県庁所在地で、四国最大の人口を擁する都市です。51万6千人余の人口とされます。

  • 同じく、松山城の連立式天守を巡りながら眺めた松山市街の光景です。左下に見える屋根は野原櫓です。

    同じく、松山城の連立式天守を巡りながら眺めた松山市街の光景です。左下に見える屋根は野原櫓です。

  • 跳ね上げ式の窓から眺めた城下町の光景です。左下に見えているのは、野原櫓のようですから、西側方面の光景になります。野原櫓は、四国で最も古い櫓とされます。

    跳ね上げ式の窓から眺めた城下町の光景です。左下に見えているのは、野原櫓のようですから、西側方面の光景になります。野原櫓は、四国で最も古い櫓とされます。

  • 『太刀(銘:龍泉・高橋貞次』<br />(昭和38年8月吉祥日)<br /><br />高橋貞次氏の61歳鍛彫の花押がある昭和の新刀です。高橋貞次氏(1902〜1968年)は、日本刀の製作者として、第1号の人間国宝に選ばれた名工です。優美で洗練された味わいを持つ名刀を残された方です。

    イチオシ

    『太刀(銘:龍泉・高橋貞次』
    (昭和38年8月吉祥日)

    高橋貞次氏の61歳鍛彫の花押がある昭和の新刀です。高橋貞次氏(1902〜1968年)は、日本刀の製作者として、第1号の人間国宝に選ばれた名工です。優美で洗練された味わいを持つ名刀を残された方です。

  • 『刀』<br />銘:龍泉高橋貞次彫同作 花押<br />(昭和64年11月吉日)<br />『短刀』<br />銘:龍泉貞次造<br />(昭和31年8月吉日作)

    『刀』
    銘:龍泉高橋貞次彫同作 花押
    (昭和64年11月吉日)
    『短刀』
    銘:龍泉貞次造
    (昭和31年8月吉日作)

  • 日本刀制作者で、初めての人間国宝になった高橋貞次氏(1902〜1968年)の紹介パネルです。昭和の初めの頃の号は、『竜王子貞次』、人間国宝に認定された昭和30年(1955年)の翌年からは、『龍泉貞次』を名のりました。

    日本刀制作者で、初めての人間国宝になった高橋貞次氏(1902〜1968年)の紹介パネルです。昭和の初めの頃の号は、『竜王子貞次』、人間国宝に認定された昭和30年(1955年)の翌年からは、『龍泉貞次』を名のりました。

  • 『鉄切付五枚胴紺絲縅具足』<br /><br />松平家4代藩主、松平定直着用の甲冑です。

    『鉄切付五枚胴紺絲縅具足』

    松平家4代藩主、松平定直着用の甲冑です。

  • 『鉄切付五枚胴紺絲縅具足』<br /><br />松平家4代藩主、松平定直着用の甲冑の兜部分のアップ光景です。

    『鉄切付五枚胴紺絲縅具足』

    松平家4代藩主、松平定直着用の甲冑の兜部分のアップ光景です。

  • 『鉄板黒漆紺絲素懸威最上胴丸』<br /><br />松平家3代藩主、松平定長着用と伝わる甲冑です。

    イチオシ

    『鉄板黒漆紺絲素懸威最上胴丸』

    松平家3代藩主、松平定長着用と伝わる甲冑です。

  • 『鉄板黒漆紺絲素懸威最上胴丸』<br /><br />松平家3代藩主、松平定長着用と伝わる甲冑のp兜部分のアップ光景です。

    『鉄板黒漆紺絲素懸威最上胴丸』

    松平家3代藩主、松平定長着用と伝わる甲冑のp兜部分のアップ光景です。

  • 松平家9代藩主、松平定国の五言絶句です。<br />人皆苦炎熱<br />我愛夏日長<br />薫風自南来<br />殿閣生微涼<br /><br />力のこもった豪快な書です。

    松平家9代藩主、松平定国の五言絶句です。
    人皆苦炎熱
    我愛夏日長
    薫風自南来
    殿閣生微涼

    力のこもった豪快な書です。

  • 松平家の歴代藩主の種などの展示状況です。『藩政の改革』のタイトルで、(1721〜1968年)の年代区分での説明文がありました。

    松平家の歴代藩主の種などの展示状況です。『藩政の改革』のタイトルで、(1721〜1968年)の年代区分での説明文がありました。

  • 『竹』<br />松平定則書<br /><br />松山城12代城主の松平定則の書です。

    『竹』
    松平定則書

    松山城12代城主の松平定則の書です。

  • 『天地一家春』<br />松平定道書<br /><br />松山城13代城主の松平定道の書です。

    『天地一家春』
    松平定道書

    松山城13代城主の松平定道の書です。

  • 『能管』<br /><br />松山藩主、久松松平家に伝わっていたものとの説明書きがありました。

    イチオシ

    『能管』

    松山藩主、久松松平家に伝わっていたものとの説明書きがありました。

  • 『葵紋入塗金薬缶』<br /><br />松山藩主、久松松平家に伝わっていたものとの説明書きがありました。

    『葵紋入塗金薬缶』

    松山藩主、久松松平家に伝わっていたものとの説明書きがありました。

  • 『葵紋付鬼瓦』<br />三ノ門南櫓東側の鬼瓦<br /><br />松山藩主、久松松平家に伝わっていたものとの説明書きがありました。

    『葵紋付鬼瓦』
    三ノ門南櫓東側の鬼瓦

    松山藩主、久松松平家に伝わっていたものとの説明書きがありました。

  • 『伊予四季図屏風』<br />松山藩絵師・遠藤広実(1784〜1862年)画<br />絹本着色<br /><br />右の1面には初春の万歳楽、2面は夏の田植え、3面は秋の三坂、4面は面河と雪の石鎚の景が描かれています。

    『伊予四季図屏風』
    松山藩絵師・遠藤広実(1784〜1862年)画
    絹本着色

    右の1面には初春の万歳楽、2面は夏の田植え、3面は秋の三坂、4面は面河と雪の石鎚の景が描かれています。

  • 『内裏雛図』<br />松山藩絵師・遠藤広実(1784〜1862年)画

    『内裏雛図』
    松山藩絵師・遠藤広実(1784〜1862年)画

  • 『松山藩絵師・遠藤広実拝領硯箱』<br /><br />松山藩絵師の遠藤広実が藩主から拝領した硯箱です。筆には、ギヤマンの柄が用いられています。ギヤマンは、江戸時代におけるガラスの呼び名に使われています。

    『松山藩絵師・遠藤広実拝領硯箱』

    松山藩絵師の遠藤広実が藩主から拝領した硯箱です。筆には、ギヤマンの柄が用いられています。ギヤマンは、江戸時代におけるガラスの呼び名に使われています。

  • 『長持』<br /><br />三つ葉葵と梅鉢の紋が入った長持です。『三つ葉葵』をあしらうケースは、将軍家からの下賜品、将軍家の子女の嫁入り道具、将軍家の男子が養子に入り、『三つ葉葵』門の使用が許された場合などがあります。

    『長持』

    三つ葉葵と梅鉢の紋が入った長持です。『三つ葉葵』をあしらうケースは、将軍家からの下賜品、将軍家の子女の嫁入り道具、将軍家の男子が養子に入り、『三つ葉葵』門の使用が許された場合などがあります。

  • 『赤心報国』<br />松平勝成・定昭書<br /><br />慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いにより松山藩追悼令が出され、松山城は土佐藩により接収されました。この時、勝成・定昭父子は祝谷の常信寺に謹慎し、この『赤心報国』の書をしたため、恭順の意を表したとされます。

    『赤心報国』
    松平勝成・定昭書

    慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いにより松山藩追悼令が出され、松山城は土佐藩により接収されました。この時、勝成・定昭父子は祝谷の常信寺に謹慎し、この『赤心報国』の書をしたため、恭順の意を表したとされます。

  • 『懸魚(げぎょ)』<br />松山城・唐破封・妻飾<br />(推:嘉永期)<br /><br />魚形の飾りを屋根に飾り、火難除けとしたのが始まりとされます。

    『懸魚(げぎょ)』
    松山城・唐破封・妻飾
    (推:嘉永期)

    魚形の飾りを屋根に飾り、火難除けとしたのが始まりとされます。

  • 模型で説明されていた木組みの紹介です。<br /><br />『鎌継(かまつぎ)』<br /><br />男木の上部小口に、鎌の形をした突起を出す継ぎ方です。突起部分と女木の相手方に傾斜をつけ、引き寄せながら組み上げます。主として、引張を受ける土台、軒桁などに広く用いられる継手です。<br />

    模型で説明されていた木組みの紹介です。

    『鎌継(かまつぎ)』

    男木の上部小口に、鎌の形をした突起を出す継ぎ方です。突起部分と女木の相手方に傾斜をつけ、引き寄せながら組み上げます。主として、引張を受ける土台、軒桁などに広く用いられる継手です。

  • 『蟻継(ありつぎ)』<br /><br />横方向、主に土台を継ぐための方法です。上から載っているだけの継方ですから、強度を要する場所には使用できません。蟻の頭のような男木の形状からの命名です。<br /><br />

    『蟻継(ありつぎ)』

    横方向、主に土台を継ぐための方法です。上から載っているだけの継方ですから、強度を要する場所には使用できません。蟻の頭のような男木の形状からの命名です。

  • 『金輪継(かなわつぎ)』<br /><br />最も入念な継手の一つとされます。継手の長さは、材幅の約3倍を重ね、栓を打って小口を密着させています。ねじれ止が、外部に見えるのが特徴とされます。

    『金輪継(かなわつぎ)』

    最も入念な継手の一つとされます。継手の長さは、材幅の約3倍を重ね、栓を打って小口を密着させています。ねじれ止が、外部に見えるのが特徴とされます。

  • 『尻挟継(しりばさみつぎ)』<br /><br />最も入念な継手の一つです。継手の長さは、材幅の約3倍を重ね、栓を打って小口を密着させています。ねじれ止が、内部に隠れるため、小口に見えてこないのが特徴とされます。化粧物の梁。桁などに使用されます。

    『尻挟継(しりばさみつぎ)』

    最も入念な継手の一つです。継手の長さは、材幅の約3倍を重ね、栓を打って小口を密着させています。ねじれ止が、内部に隠れるため、小口に見えてこないのが特徴とされます。化粧物の梁。桁などに使用されます。

  • 『下見板(したみいた)』<br /><br />古くから伝わる木造住宅などの外部板張りの一種です。よこほうこうに、下から順に少しずつ羽重ねにして張り上げる板のことです。

    『下見板(したみいた)』

    古くから伝わる木造住宅などの外部板張りの一種です。よこほうこうに、下から順に少しずつ羽重ねにして張り上げる板のことです。

  • 『和釘(わくぎ)』<br /><br />日本刀と同様に、鍛造によって作られた釘で、腐食に強いとされます。錐で穴をあけてから打込まないと、木材が割れてしまいます。

    『和釘(わくぎ)』

    日本刀と同様に、鍛造によって作られた釘で、腐食に強いとされます。錐で穴をあけてから打込まないと、木材が割れてしまいます。

この旅行記のタグ

35いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

2015春、四国周遊

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP