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高知城紹介の続きです。見学中に天守閣がライトアップされ始めました。雪洞が灯り、城内の桜の下では、あちらこちらで宴席が始まりました。

2015春、四国周遊(7/26):3月29日(7):高知、高知城の桜、天守閣、雪洞、花見の宴

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2015/03/29 - 2015/03/31

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

高知城紹介の続きです。見学中に天守閣がライトアップされ始めました。雪洞が灯り、城内の桜の下では、あちらこちらで宴席が始まりました。

交通手段
観光バス

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  • 二の丸址からの眺望です。新緑矢まだ冬木立の木々の間から、高知市街が見えていました。北側方面の光景になります。

    二の丸址からの眺望です。新緑矢まだ冬木立の木々の間から、高知市街が見えていました。北側方面の光景になります。

  • 二の丸址から北側に降りる通路の光景です。ソメイヨシノのほか、ヤマザクラの樹もありました。昔ながらの石垣が残されていました。

    二の丸址から北側に降りる通路の光景です。ソメイヨシノのほか、ヤマザクラの樹もありました。昔ながらの石垣が残されていました。

  • 右が本丸御殿、左奥が天守の光景です。土佐24万石の藩主の居城として、全国に現存する12の天守の内の一つに数えられます。

    右が本丸御殿、左奥が天守の光景です。土佐24万石の藩主の居城として、全国に現存する12の天守の内の一つに数えられます。

  • 二の丸跡の松の木越しに眺めた天守の光景です。享保12年(1727年)、城下町の大火で追手門を残し天守はじめほとんどの建物を焼失し、現在の天守は寛延2年(1749年)に再建されたものです。

    二の丸跡の松の木越しに眺めた天守の光景です。享保12年(1727年)、城下町の大火で追手門を残し天守はじめほとんどの建物を焼失し、現在の天守は寛延2年(1749年)に再建されたものです。

  • 先に紹介した、オウバイモドキ(黄梅擬)があった石垣付近の光景です。モクセイ科ソケイ属の常緑半蔓性低木です。

    先に紹介した、オウバイモドキ(黄梅擬)があった石垣付近の光景です。モクセイ科ソケイ属の常緑半蔓性低木です。

  • 左手に、松の木を入れての天守の光景です。天守の北側の建物光景になります。天守から右手に伸びるのは矢狭間塀です。

    左手に、松の木を入れての天守の光景です。天守の北側の建物光景になります。天守から右手に伸びるのは矢狭間塀です。

  • 同じく、天守の北側の建物光景です。最上階の屋根飾りはシャチ(鯱)です。鯱は頭は龍の姿、背中に鋭いトゲを持つ想像の魚です。海に棲むので防火の効があるという考え方で、城郭建築に多く用いられています。

    イチオシ

    同じく、天守の北側の建物光景です。最上階の屋根飾りはシャチ(鯱)です。鯱は頭は龍の姿、背中に鋭いトゲを持つ想像の魚です。海に棲むので防火の効があるという考え方で、城郭建築に多く用いられています。

  • 右橋は三の丸の石垣です。その左は詰門、矢狭間塀から天守へと続きます。詰門、矢狭間塀や天守など、現存する建物は国の重要文化財に指定されています。

    右橋は三の丸の石垣です。その左は詰門、矢狭間塀から天守へと続きます。詰門、矢狭間塀や天守など、現存する建物は国の重要文化財に指定されています。

  • 右手前にソメイヨシノの花を入れての天守の光景です。天守の周りを矢狭間塀が防御しています。丸、三角、長方形などの空間がありますが、丸や三角が鉄砲、長方形が矢で攻撃する構造になっています。

    右手前にソメイヨシノの花を入れての天守の光景です。天守の周りを矢狭間塀が防御しています。丸、三角、長方形などの空間がありますが、丸や三角が鉄砲、長方形が矢で攻撃する構造になっています。

  • 三の丸に生えていた、堂々とした姿の古木です。18時を少し回り、そろそろ雪洞に明かりが灯り始めました。

    三の丸に生えていた、堂々とした姿の古木です。18時を少し回り、そろそろ雪洞に明かりが灯り始めました。

  • 明かりが灯り始めた雪洞と、石垣をバックにしたソメイヨシノの光景です。満開には達していませんが、見頃と言ってもよい咲方です。

    明かりが灯り始めた雪洞と、石垣をバックにしたソメイヨシノの光景です。満開には達していませんが、見頃と言ってもよい咲方です。

  • 楠正成のひ孫の正盛を祖とし、高名な医者だった、『楠正興・尚徳碑』です。多くの門人を育て、その門下生たちが建てた石碑とされます。

    楠正成のひ孫の正盛を祖とし、高名な医者だった、『楠正興・尚徳碑』です。多くの門人を育て、その門下生たちが建てた石碑とされます。

  • 『楠正興顕彰碑』の謂れを記した説明看板です。楠正興(1829〜1887年)は、漢方医学を修めたのち、大坂で緒方研堂らに西洋医学を学びました。高知藩主の山内豊信の侍医を務め、維新後は高知で開業しました。

    『楠正興顕彰碑』の謂れを記した説明看板です。楠正興(1829〜1887年)は、漢方医学を修めたのち、大坂で緒方研堂らに西洋医学を学びました。高知藩主の山内豊信の侍医を務め、維新後は高知で開業しました。

  • 高知城の見学を終えて出口に向かう途中、振り返って眺めた天守閣方面の光景です。天守閣がライトアップされ、雪洞の明かりが次第に目立ち始めました。

    高知城の見学を終えて出口に向かう途中、振り返って眺めた天守閣方面の光景です。天守閣がライトアップされ、雪洞の明かりが次第に目立ち始めました。

  • 往きにも紹介した、三の丸石垣の光景です。平成12年度に事前調査が行われ、平成16年度から19年度までの4年間で行われた石垣の発掘調査と積み直し工事の様子などは、この後纏めて紹介します。

    往きにも紹介した、三の丸石垣の光景です。平成12年度に事前調査が行われ、平成16年度から19年度までの4年間で行われた石垣の発掘調査と積み直し工事の様子などは、この後纏めて紹介します。

  • 自由民権運動で高名な、板垣退助(1837〜1919年)の銅像です。日本の武士(土佐藩士)で、明治以降は政治家です。死去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられました。

    自由民権運動で高名な、板垣退助(1837〜1919年)の銅像です。日本の武士(土佐藩士)で、明治以降は政治家です。死去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられました。

  • 板垣退助(1837〜1919年)の銅像のアップ光景です。栄典は従一位勲一等伯爵です。後藤象二郎、佐々木高行とともに、土佐三伯とも称されます。明治15年(1882年)遊説中の岐阜で襲われ、血を流しながらも『吾死スルトモ自由ハ死セン(板垣死すとも自由は死せず)』の言葉を残しました。

    板垣退助(1837〜1919年)の銅像のアップ光景です。栄典は従一位勲一等伯爵です。後藤象二郎、佐々木高行とともに、土佐三伯とも称されます。明治15年(1882年)遊説中の岐阜で襲われ、血を流しながらも『吾死スルトモ自由ハ死セン(板垣死すとも自由は死せず)』の言葉を残しました。

  • 『板垣退助』のタイトルがあった説明プレートです。日本語解説とほぼ同文の英文と、要点を記した漢文とハングルの説明文がありました。『板垣死すとも 自由は死せず』の部分は、英文では『イタガキ・メイ・ダイ,バット・リバティ・ネヴァー!』と訳してありました。

    『板垣退助』のタイトルがあった説明プレートです。日本語解説とほぼ同文の英文と、要点を記した漢文とハングルの説明文がありました。『板垣死すとも 自由は死せず』の部分は、英文では『イタガキ・メイ・ダイ,バット・リバティ・ネヴァー!』と訳してありました。

  • すっかりシルエットの光景になってしまいましたが、センダン(栴檀)の大木の光景です。5月頃に、薄紫の花を咲かせます。

    すっかりシルエットの光景になってしまいましたが、センダン(栴檀)の大木の光景です。5月頃に、薄紫の花を咲かせます。

  • 『高知公園のセンダン』のタイトルがあった説明看板です。樹齢:約268年、樹高:25メートル、周囲:5.4メートルと紹介してありました。土佐では旅人のために、すべての道路にセンダンを植えていたことも紹介されていました。

    『高知公園のセンダン』のタイトルがあった説明看板です。樹齢:約268年、樹高:25メートル、周囲:5.4メートルと紹介してありました。土佐では旅人のために、すべての道路にセンダンを植えていたことも紹介されていました。

  • 振り返って眺めた天守方面の光景です。木々の間にライトアップが始まった天守が見え隠れしていました。石段の右手にあるのが、先ほど紹介した板垣退助の銅像です。

    振り返って眺めた天守方面の光景です。木々の間にライトアップが始まった天守が見え隠れしていました。石段の右手にあるのが、先ほど紹介した板垣退助の銅像です。

  • 国の重要文化財の追手門の光景です。門の内側からの光景になります。木造の入母屋造、本瓦葺の櫓門です。

    国の重要文化財の追手門の光景です。門の内側からの光景になります。木造の入母屋造、本瓦葺の櫓門です。

  • 追手門の門柱のアップ光景です。柱の角が金属で補強してありました。緑青を吹いていましたから、銅製のようです。

    追手門の門柱のアップ光景です。柱の角が金属で補強してありました。緑青を吹いていましたから、銅製のようです。

  • 追手門の説明看板です。慶長年間に創建され、寛文4年(1664年)に再建されたことなどが記されていました。主柱矢扉などには、ケヤキ(欅)が使われていることなども記されていました。

    追手門の説明看板です。慶長年間に創建され、寛文4年(1664年)に再建されたことなどが記されていました。主柱矢扉などには、ケヤキ(欅)が使われていることなども記されていました。

  • 『国宝高知城』の石碑です。昭和9年(1934年)に天守など15棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定された時の石碑です。昭和25年(1950年)に天守等15棟は文化財保護法の施行により国の重要文化財に指定されましたので、その間では有効でした。

    『国宝高知城』の石碑です。昭和9年(1934年)に天守など15棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝に指定された時の石碑です。昭和25年(1950年)に天守等15棟は文化財保護法の施行により国の重要文化財に指定されましたので、その間では有効でした。

  • 国の重要文化財の追手門の光景です。門の外側からの光景になります。追手門が高知城の正門になります。

    国の重要文化財の追手門の光景です。門の外側からの光景になります。追手門が高知城の正門になります。

  • 追手門付近からの光景です。天守のライトアップが始まりました。まだ空が明るい時間帯ですが、ライトアップされていることは、直ぐに分かりました。

    イチオシ

    追手門付近からの光景です。天守のライトアップが始まりました。まだ空が明るい時間帯ですが、ライトアップされていることは、直ぐに分かりました。

  • 三の丸跡の光景です。たくさんのソメイヨシノが植込まれ、雪洞の照明灯も数多く建っていました。防寒対策をしての花見の宴が始まっていました。

    イチオシ

    三の丸跡の光景です。たくさんのソメイヨシノが植込まれ、雪洞の照明灯も数多く建っていました。防寒対策をしての花見の宴が始まっていました。

  • 同じく、三の丸跡の光景です。石垣の周りの発掘調査と修復工事に関する、沢山の説明パネルがありましたが、末尾で、纏めて紹介しました。

    同じく、三の丸跡の光景です。石垣の周りの発掘調査と修復工事に関する、沢山の説明パネルがありましたが、末尾で、纏めて紹介しました。

  • 三の丸跡の光景が続きます。私のこの後の予定は、近くの『ひろめ市場』に立寄って晩酌を楽しむ積りにしています。

    三の丸跡の光景が続きます。私のこの後の予定は、近くの『ひろめ市場』に立寄って晩酌を楽しむ積りにしています。

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