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松山城見学の後、香川の金刀比羅宮に向かいました。その途中立寄った、りんりんパークなどの紹介です。好天に恵まれ、桜の花を眺めながらの金刀比羅宮の石段登りでした。

2015春、四国周遊(23/26):3月31日(7):香川、りんりんパーク、緋鯉、燕、金刀比羅宮

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2015/03/29 - 2015/03/31

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

松山城見学の後、香川の金刀比羅宮に向かいました。その途中立寄った、りんりんパークなどの紹介です。好天に恵まれ、桜の花を眺めながらの金刀比羅宮の石段登りでした。

交通手段
観光バス
  • りんりんパークにいたツバメ(燕)さんです。あまり離れていない距離でしたが、写真に納まってくれました。

    りんりんパークにいたツバメ(燕)さんです。あまり離れていない距離でしたが、写真に納まってくれました。

  • 同じく、りんりんパークにいたツバメ(燕)さんです。先に撮影していた人の話では、もう一羽いて、そちらは出掛けて行ったとのことでした。

    イチオシ

    同じく、りんりんパークにいたツバメ(燕)さんです。先に撮影していた人の話では、もう一羽いて、そちらは出掛けて行ったとのことでした。

  • 満開だったサンシュユ(山茱萸)の花です。ミズキ科ミズキ属の落葉小高木です。ハルコガネバナ(春黄金花)、アキサンゴ(秋珊瑚)、ヤマグミ(山茱萸)等の別名を持ちます。

    満開だったサンシュユ(山茱萸)の花です。ミズキ科ミズキ属の落葉小高木です。ハルコガネバナ(春黄金花)、アキサンゴ(秋珊瑚)、ヤマグミ(山茱萸)等の別名を持ちます。

  • 満開だったサンシュユ(山茱萸)の花ンもアップ光景です。江戸時代の享保年間に朝鮮経由で漢種の種子が日本に持ち込まれ、薬用植物として栽培されるようになったとされます。生薬の薬効は、強精薬、止血、解熱作用等です。

    満開だったサンシュユ(山茱萸)の花ンもアップ光景です。江戸時代の享保年間に朝鮮経由で漢種の種子が日本に持ち込まれ、薬用植物として栽培されるようになったとされます。生薬の薬効は、強精薬、止血、解熱作用等です。

  • 将棋の駒のような形をした『鯉塚』の石碑があった庭園光景です。推測ですが、石碑は、病死したり、天寿を全うした鯉の墓のようです。

    将棋の駒のような形をした『鯉塚』の石碑があった庭園光景です。推測ですが、石碑は、病死したり、天寿を全うした鯉の墓のようです。

  • 満開だったサンシュユ(山茱萸)の近くでは、ソメイヨシノも満開に近づいていました。背後には、フェニックスや椰子の樹も見えました。棕櫚の樹ではなかったようです。

    満開だったサンシュユ(山茱萸)の近くでは、ソメイヨシノも満開に近づいていました。背後には、フェニックスや椰子の樹も見えました。棕櫚の樹ではなかったようです。

  • りんりんパークご自慢の大池で泳ぐ、ジャンボ錦鯉の光景です。この画面では、黄金色の錦鯉がたくさん写っていました。

    りんりんパークご自慢の大池で泳ぐ、ジャンボ錦鯉の光景です。この画面では、黄金色の錦鯉がたくさん写っていました。

  • りんりんパークの公式HPには、緋鯉の鑑賞ポイントなども紹介されていました。背びれ、尾びれなどに色彩がなく、緋色がくっきりとして、左右のバランスが良いことなどでした。

    イチオシ

    りんりんパークの公式HPには、緋鯉の鑑賞ポイントなども紹介されていました。背びれ、尾びれなどに色彩がなく、緋色がくっきりとして、左右のバランスが良いことなどでした。

  • ネット情報ですが、りんりんパークの錦鯉は、品評会の優勝クラスで1匹1千万円、大池全体では、総額3億円の緋鯉が泳いでいると紹介されていました。

    ネット情報ですが、りんりんパークの錦鯉は、品評会の優勝クラスで1匹1千万円、大池全体では、総額3億円の緋鯉が泳いでいると紹介されていました。

  • 緋鯉が泳ぐ大池の光景です。緋鯉用の専用の餌が販売されていました。何しろ、総額3億円とも言われる緋鯉の群です。迂闊な餌は与えられません。

    緋鯉が泳ぐ大池の光景です。緋鯉用の専用の餌が販売されていました。何しろ、総額3億円とも言われる緋鯉の群です。迂闊な餌は与えられません。

  • 緋鯉が泳ぐ大池の光景が続きます。餌を挙げる人の周りに集まってきた緋鯉の群です。鮮やかな色の鯉の群は見応えがありました。

    緋鯉が泳ぐ大池の光景が続きます。餌を挙げる人の周りに集まってきた緋鯉の群です。鮮やかな色の鯉の群は見応えがありました。

  • りんりんパークの緋鯉を紹介した看板です。ジャンボ緋鯉の大きさは、75〜97センチ、年齢は30〜60歳で、人に例えれば60〜120歳くらいと紹介されていました。

    りんりんパークの緋鯉を紹介した看板です。ジャンボ緋鯉の大きさは、75〜97センチ、年齢は30〜60歳で、人に例えれば60〜120歳くらいと紹介されていました。

  • 西条市のりんりんパークでの昼食と休憩を終えて、次の見学地の琴平町の金刀比羅宮にやってきました。駐車場に向かう途中の光景です。社殿のような屋根を持った橋の光景です。金倉川に架かっていました。

    西条市のりんりんパークでの昼食と休憩を終えて、次の見学地の琴平町の金刀比羅宮にやってきました。駐車場に向かう途中の光景です。社殿のような屋根を持った橋の光景です。金倉川に架かっていました。

  • 『表参道』と呼ばれる通りの光景です。まだ駐車場に向かうバスの中からの撮影です。表参道は、はじめ平坦ですが途中から石段に代わります。その1段目が785段の始まりとなります。

    『表参道』と呼ばれる通りの光景です。まだ駐車場に向かうバスの中からの撮影です。表参道は、はじめ平坦ですが途中から石段に代わります。その1段目が785段の始まりとなります。

  • バスが駐車した、お土産店からは少し近道をして、表参道に向かいました。その途中の光景です。ソメイヨシノの桜が見頃を迎えていました。何よりも好天に恵まれました。

    バスが駐車した、お土産店からは少し近道をして、表参道に向かいました。その途中の光景です。ソメイヨシノの桜が見頃を迎えていました。何よりも好天に恵まれました。

  • 暫くは商店街の中を歩きました。両脇が商店街と言っても、金刀比羅宮の参道の一部です。所々にある、段数の少ない石段も本殿までの石段の785段に勧請されているようです。

    暫くは商店街の中を歩きました。両脇が商店街と言っても、金刀比羅宮の参道の一部です。所々にある、段数の少ない石段も本殿までの石段の785段に勧請されているようです。

  • 写真には修めませんでしたが、最初の1段目は、正面と右横の二方から昇ることができる、特徴のある石段でした。商店街の中の石段登りが続きます。

    写真には修めませんでしたが、最初の1段目は、正面と右横の二方から昇ることができる、特徴のある石段でした。商店街の中の石段登りが続きます。

  • 参道脇にあった真新しい立看板です。『燈明道と吊灯篭』のタイトルがありました。昭和45年に国の重要有形民俗文化財に指定されたことが記されていました。見学する時間はありませんでしたが、安政5年(1858年)に、民間から寄進された霧妻造・瓦葺・四間一面の堂です。竜骨状の下梁が特徴とされます。

    参道脇にあった真新しい立看板です。『燈明道と吊灯篭』のタイトルがありました。昭和45年に国の重要有形民俗文化財に指定されたことが記されていました。見学する時間はありませんでしたが、安政5年(1858年)に、民間から寄進された霧妻造・瓦葺・四間一面の堂です。竜骨状の下梁が特徴とされます。

  • この場所で小休止し、周りの桜を眺めました。電柱が少し邪魔でしたが、石灯籠と2種の桜の光景です。その背後には石垣です。

    この場所で小休止し、周りの桜を眺めました。電柱が少し邪魔でしたが、石灯籠と2種の桜の光景です。その背後には石垣です。

  • 濃い赤色の桜と、ソメイヨシノの光景です。濃い赤色の桜は、大輪の一重咲ですから、陽光桜かも知れません。

    濃い赤色の桜と、ソメイヨシノの光景です。濃い赤色の桜は、大輪の一重咲ですから、陽光桜かも知れません。

  • 花で溢れた、石垣の周りの光景です。2種類の桜と、椿の赤い花です。ソメイヨシノは、満開寸前、椿は散ってしまった花が地面を赤くしていました。

    花で溢れた、石垣の周りの光景です。2種類の桜と、椿の赤い花です。ソメイヨシノは、満開寸前、椿は散ってしまった花が地面を赤くしていました。

  • 今度は、青空をバックに入れての桜の光景です。左手の赤っぽい桜は、やはり陽光桜のようです。写真を撮る人や、散策する人の姿がありました。

    イチオシ

    今度は、青空をバックに入れての桜の光景です。左手の赤っぽい桜は、やはり陽光桜のようです。写真を撮る人や、散策する人の姿がありました。

  • 金刀比羅宮の第19代別当の琴陵宥常(ことおかひろつね)の銅像です。琴陵宥常が創立した帝国水難救済会の30周年記念として、昭和2年(1927年)に建設された像です。

    金刀比羅宮の第19代別当の琴陵宥常(ことおかひろつね)の銅像です。琴陵宥常が創立した帝国水難救済会の30周年記念として、昭和2年(1927年)に建設された像です。

  • 金刀比羅宮の第19代宮司の琴陵宥常(ことおかひろつね)の銅像です。近世以前は金光院とも呼ばれ、別当は初代の宥範から第19代の宥常まで19名を数えます。別当は、明治以降は宮司となりました。宥常は、神仏分離令後に琴陵宥常として権宮司(明治19年からは宮司)に就いています。

    金刀比羅宮の第19代宮司の琴陵宥常(ことおかひろつね)の銅像です。近世以前は金光院とも呼ばれ、別当は初代の宥範から第19代の宥常まで19名を数えます。別当は、明治以降は宮司となりました。宥常は、神仏分離令後に琴陵宥常として権宮司(明治19年からは宮司)に就いています。

  • 門柱に『金刀比羅本教総本部』の表札があった建物です。境内のソメイヨシノが満開でした。昭和44年(1969年)8月5日、宗教法人となった教団の本部です。

    門柱に『金刀比羅本教総本部』の表札があった建物です。境内のソメイヨシノが満開でした。昭和44年(1969年)8月5日、宗教法人となった教団の本部です。

  • 『金刀比羅本教』のタイトルがあった立看板です。金刀比羅宮の興隆に尽くした教祖、巌魂彦命を祀る巌魂神社の説明です。祀られている祭神の『厳魂彦命』とは、第四代象頭山金毘羅大権現別当金光院主の宥盛さんです。

    『金刀比羅本教』のタイトルがあった立看板です。金刀比羅宮の興隆に尽くした教祖、巌魂彦命を祀る巌魂神社の説明です。祀られている祭神の『厳魂彦命』とは、第四代象頭山金毘羅大権現別当金光院主の宥盛さんです。

  • 『琴平山』の三号が記された扁額が掛かった建物です。神域の総門となる『大門』です。水戸光国公の兄である、松平頼重候から寄進された、二層入母屋造・瓦葺の建物です。扁額の文字は、有栖川宮熾仁親王の揮毫です。

    『琴平山』の三号が記された扁額が掛かった建物です。神域の総門となる『大門』です。水戸光国公の兄である、松平頼重候から寄進された、二層入母屋造・瓦葺の建物です。扁額の文字は、有栖川宮熾仁親王の揮毫です。

  • 『大門』がある場所までの石段の数が365段とされます。段数は、覚えやすい一年と同じ数でした。年代を経た石の柵と、その先に見えていた満開のソメイヨシノの光景です。

    『大門』がある場所までの石段の数が365段とされます。段数は、覚えやすい一年と同じ数でした。年代を経た石の柵と、その先に見えていた満開のソメイヨシノの光景です。

  • 『大門』を潜った後で、暫くは段差の少ない区間になりました。大きな傘を差して飴を売る5軒のお店の光景です。この5軒は、特別に宮域での商いを許された『五人百姓』と呼ばれています。

    『大門』を潜った後で、暫くは段差の少ない区間になりました。大きな傘を差して飴を売る5軒のお店の光景です。この5軒は、特別に宮域での商いを許された『五人百姓』と呼ばれています。

  • 『大門』から150メートル程続く石畳の参道は、桜馬場と呼ばれています。桜の名所でした。その参道の脇にあった石垣の光景です。

    『大門』から150メートル程続く石畳の参道は、桜馬場と呼ばれています。桜の名所でした。その参道の脇にあった石垣の光景です。

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