祖谷渓・かずら橋・大歩危旅行記(ブログ) 一覧に戻る
<はじめに><br /><br />ツアーに参加しての、2泊3日の四国周遊旅行です。桜の花を眺めながらの主な見学先は、次の通りです。各県それぞれに、見どころが揃っていました。<br /><br />①徳島県:小歩危(こぼけ)、大歩危(おおぼけ)、祖谷(いや)渓、蔓(かずら)橋、琵琶の滝<br />②高知県:高知城、桂浜、四万十川遊覧、高瀬沈下橋<br />③愛媛県:松山城、道後温泉・坊っちゃん湯、湯築城跡、宇和島城(車窓)<br />④香川県:金刀比羅宮、瀬戸大橋記念公園、瀬戸大橋タワー、丸亀城(車窓)<br /><br /><旅のあらまし><br /><br />2015年3月29日(日):出発、名古屋から新幹線で岡山へ、岡山から電車で四国へ<br /><br />JR名古屋駅を7時36分の光495号で出発し、乗り換えなしで9時59分に岡山駅に到着しました。岡山駅からは10時23分発のマリンライナー21号に乗り継ぎ、終点の徳島県の高松駅には11時17分に到着しました。高松駅から、出迎えの観光バスに乗って四国周遊の始まりです。<br />最初の見学地は、徳島県の吉野川の支流になる、小歩危(こぼけ)峡の車窓観光、大歩危(おおぼけ)峡では、レストランで昼食の後、ゆっくりと大歩危峡の渓谷美を観光できました。その後、祖谷(いや)渓に移動し、蔓(かずら)橋を渡り、琵琶の滝を見学しました。この日は、高知市内での宿泊でした。<br />早めのチェックインでしたから、早速、高知城の見学に出掛けました。歩いて10分とはかからない距離でした。高知城の天守閣は、ホテルの横の、見晴らしの良い南北の通の先に見えていました。高知平野のほぼ中心に位置する、標高44.4メートルの大高坂山上に築かれた、梯郭式平山城です。<br />高知城は、『鷹城』の呼び名を持ちます。現在見られる城は、江戸時代初期に土佐藩初代藩主の山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成しました。天守閣の見晴らしが出来た南北の通りを北に歩くと、すぐにお堀址に到着しました。その後はお堀に沿って入口に向かいました。<br />初代城主の山内一豊以上に有名なのが、その妻の千代です。結婚の時に持参した10両を一豊に渡し、そのお金で立派な馬を用意して、馬揃えに臨んだことが織田信長の目に留まり、出世のきっかけとなった逸話が有名です。天主に向かう途中、馬の手綱を引く見性院(千代)の像がありました。<br />高知城は石垣でも有名です。難工事だった三の丸は、慶長16年(1611年)に竣工し、高知城の縄張りが全て完成しました。『三の丸石垣』は、慶長6年(1601年)の築城開始から10年を要して完成した、高さ約13メートルの石垣です。安土城の築城で、穴太衆(あのうしゅう)によって始められた野面積みで構築されました。穴太衆は、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉にその技術を認められました。<br />三の丸跡では、雪洞が灯り、花の宴が始まりました。天守のライトアップ始まったところで、高知城を後にしました。夜は高知城から近い『ひろめ市場』で白ワインでの晩酌を楽しみました。旅談義などで、話が弾んだご夫婦と隣席でしたから、あっという間に楽しい時が過ぎました。<br /><br />3月30日(月):桂浜、坂本龍馬像、四万十川遊覧、高知から愛媛へ、道後温泉、坊ちゃん湯<br /><br />高知に宿泊し、朝一番に向かったのは、坂本龍馬のブロンズ像が建つ桂浜です。太平洋に向かって上竜頭岬が北東端に、下竜頭岬が南西端に伸び、その間に弓形の砂浜が広がります。桂浜を見下ろす場所に建つ、坂本龍馬の銅像は、高知県の青年有志が募金活動を行い、当時の金額にして2万5千円を集め建立され、昭和3年5月27日に除幕式が行われました。第二次大戦中、学校の二宮金次郎像やお寺の鐘まで供出させられましたが、この像は無事でした。<br />龍馬が藩船の夕顔丸で長崎を出航し、上洛中の洋上で後藤象二郎に対して口頭で提示したとされる『船中八策』が有名ですが、それを現代風の表現にしますと、①大政奉還、②上下両院の設置による議会政治、③有能な人材の政治への登用、④不平等条約の改定、⑤憲法制定、⑥海軍力の増強、⑦御親兵の設置、⑧金銀の交換レートの変更の八項目です。海援隊士の長岡謙吉が書きとめ、成文化したとも伝わります。龍馬の直筆はないようですから、成文を巡っては異説もあるようです。<br />桂浜の見学を終え、次は清流で有名な四万十川に向かいました。川の途中にダムが建設されていないことから、『(日本)最後の清流』とも呼ばれています。四万十川クルージングの始発点の桟橋からは高瀬沈下橋が見えていました。沈下橋は四万十川の風物詩になっています。増水時に川に沈んでしまうように設計された、欄干のない橋が沈下橋です。流失防止の工夫とされます。<br />乗船したところで、早速の昼食でした。ご飯に載せて食べた川海苔の佃煮がおいしかったので、お土産に買って帰りました。野菜の煮物や、菜の花のおひたしなども美味しく戴きました。手長海老らしい川海老は、四万十川で船頭さんが獲られたものとお聞きしました。<br />高知の四万十川の見学を終えて、次に向かったのは愛媛の道後温泉です。その途中、車窓から日本百名城の宇和島城が見えました。夏目漱石の小説、『坊っちゃん』で有名な道後温泉は、有馬温泉、白浜温泉と並んで、日本三古湯の一つとされます。<br />明るい内に道後公園にある、日本百名城の一つ、湯築城址を見学し、夕食の後で道後温泉を見学しました。<br />湯築城は、今は石垣とお堀だけですが、日本百名城の80番に選ばれています。『伊予湯築城・想像図』などには、展望台の場所が本壇、丘陵広場が河野館跡と記されていました。別の図面には、本壇が天守、河野館が二の丸と記してありましたから、年代によって河野館は本丸御殿に)変化したようです。湯築城跡の一番高い場所に設けられていた展望台の上からは、山の上の松山城の天守が見えました。松山市街も四方が眺望できました。<br />道後公園と湯築(ゆずき)城跡の説明看板の紹介です。道後公園の説明では、12年間に亘る発掘調査で、土師質土器などの25万点の出土品が見付かったことや、湯築(ゆずき)城跡の説明では、14世紀初めに河野通盛によって築城されたことなどが記されていました。<br />次は夕食の後に見学した道後温泉の紹介です。写真撮影は禁止されていましたが、昭和天皇が使われた石製の湯槽や、休憩された金箔造りの部屋と玉座、それと漱石所縁の坊ちゃんの間などが見学できました。<br /><br />3月31日(火):高知、松山城、陽光桜、りんりんパーク、金刀比羅宮<br /><br />道後温泉に宿泊して、午前中はオプショナルツアーの日本百名城の一つ、松山城見学です。海抜132メートルの勝山山上に建ちますので、ロープウェイで登りました。好天にも恵まれ、ソメイヨシノと陽光桜が見頃でした。<br />ソメイヨシノと違って、濃い赤色の花を咲かせる陽光桜の紹介です。1940年(昭和15年)から青年学校で教鞭をとっていた、高岡正明氏(1909~2001年)によって作出された桜です。その開発に至る話はNHKのドキュメント、『こころを照らす桜』で紹介されました。また、高橋玄監督による映画、『陽光桜』が2015年3月からクランクインし、8月には試写会が予定され、11月に全国封切りを目指しています。<br />松山城の簡単な紹介です金亀城(きんきじょう)や、勝山城(かつやまじょう)の別名を持ちます。各地の松山城と区別するため、伊予松山城とも呼ばれます。現存12天守の一つ、大天守を含む21棟の現存建造物が、国の重要文化財に、城郭遺構が国の史跡に指定されています。それ以外では、連立式天守群の小天守、塀などの22棟が木造で復元されています。<br />また、松山城の建築物の特徴の一つとされる石垣は、中でも『登り石垣』が全国最大規模と紹介されていました。花崗岩を使用した算木積みです。算木積みは、石垣の隅部の積み方で、細長い石を使用し、長辺と短辺を交互に積み上げるものです。16世紀後半から用いられ、慶長10年(1605年)頃に完成した石積み法とされます。<br />松山城見学の後、香川の金刀比羅宮に向かいました。その途中、昼食でりんりんパーク立寄りました。庭と錦鯉が見応えがあったレストランです。緋鯉を紹介した看板には、ジャンボ緋鯉の大きさは、75~97センチ、年齢は30~60歳で、人に例えれば60~120歳くらいと記されていました。<br />好天に恵まれ、満開に近付いた桜の花を眺めながらの金刀比羅宮の石段登りでした。先達の方が道先案内をしてくれましたので、説明と休憩を織り交ぜながらの785段の石段登りでしたから、さほど苦労はしませんでした。<br /><br /><おわりに><br /><br />週間天気予報などの情報で、悪天候を覚悟した旅行の出発でしたが、写真でご紹介したように、好天続きの観光になりました。何にもましてラッキーな四国周遊旅行となりました。<br />添乗員さん、現地ガイドさんと運転手さん、それにご同行の皆様方に深くお礼を申し上げて、旅行記の筆をおきます。皆さん、本当に有難うございました。<br />

2015春、四国周遊(1/26):3月29日(1):名古屋から岡山、高松経由大歩危(おおぼけ)へ

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2015/03/29 - 2015/03/31

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

<はじめに>

ツアーに参加しての、2泊3日の四国周遊旅行です。桜の花を眺めながらの主な見学先は、次の通りです。各県それぞれに、見どころが揃っていました。

①徳島県:小歩危(こぼけ)、大歩危(おおぼけ)、祖谷(いや)渓、蔓(かずら)橋、琵琶の滝
②高知県:高知城、桂浜、四万十川遊覧、高瀬沈下橋
③愛媛県:松山城、道後温泉・坊っちゃん湯、湯築城跡、宇和島城(車窓)
④香川県:金刀比羅宮、瀬戸大橋記念公園、瀬戸大橋タワー、丸亀城(車窓)

<旅のあらまし>

2015年3月29日(日):出発、名古屋から新幹線で岡山へ、岡山から電車で四国へ

JR名古屋駅を7時36分の光495号で出発し、乗り換えなしで9時59分に岡山駅に到着しました。岡山駅からは10時23分発のマリンライナー21号に乗り継ぎ、終点の徳島県の高松駅には11時17分に到着しました。高松駅から、出迎えの観光バスに乗って四国周遊の始まりです。
最初の見学地は、徳島県の吉野川の支流になる、小歩危(こぼけ)峡の車窓観光、大歩危(おおぼけ)峡では、レストランで昼食の後、ゆっくりと大歩危峡の渓谷美を観光できました。その後、祖谷(いや)渓に移動し、蔓(かずら)橋を渡り、琵琶の滝を見学しました。この日は、高知市内での宿泊でした。
早めのチェックインでしたから、早速、高知城の見学に出掛けました。歩いて10分とはかからない距離でした。高知城の天守閣は、ホテルの横の、見晴らしの良い南北の通の先に見えていました。高知平野のほぼ中心に位置する、標高44.4メートルの大高坂山上に築かれた、梯郭式平山城です。
高知城は、『鷹城』の呼び名を持ちます。現在見られる城は、江戸時代初期に土佐藩初代藩主の山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成しました。天守閣の見晴らしが出来た南北の通りを北に歩くと、すぐにお堀址に到着しました。その後はお堀に沿って入口に向かいました。
初代城主の山内一豊以上に有名なのが、その妻の千代です。結婚の時に持参した10両を一豊に渡し、そのお金で立派な馬を用意して、馬揃えに臨んだことが織田信長の目に留まり、出世のきっかけとなった逸話が有名です。天主に向かう途中、馬の手綱を引く見性院(千代)の像がありました。
高知城は石垣でも有名です。難工事だった三の丸は、慶長16年(1611年)に竣工し、高知城の縄張りが全て完成しました。『三の丸石垣』は、慶長6年(1601年)の築城開始から10年を要して完成した、高さ約13メートルの石垣です。安土城の築城で、穴太衆(あのうしゅう)によって始められた野面積みで構築されました。穴太衆は、安土城の石垣を施工したことで、織田信長や豊臣秀吉にその技術を認められました。
三の丸跡では、雪洞が灯り、花の宴が始まりました。天守のライトアップ始まったところで、高知城を後にしました。夜は高知城から近い『ひろめ市場』で白ワインでの晩酌を楽しみました。旅談義などで、話が弾んだご夫婦と隣席でしたから、あっという間に楽しい時が過ぎました。

3月30日(月):桂浜、坂本龍馬像、四万十川遊覧、高知から愛媛へ、道後温泉、坊ちゃん湯

高知に宿泊し、朝一番に向かったのは、坂本龍馬のブロンズ像が建つ桂浜です。太平洋に向かって上竜頭岬が北東端に、下竜頭岬が南西端に伸び、その間に弓形の砂浜が広がります。桂浜を見下ろす場所に建つ、坂本龍馬の銅像は、高知県の青年有志が募金活動を行い、当時の金額にして2万5千円を集め建立され、昭和3年5月27日に除幕式が行われました。第二次大戦中、学校の二宮金次郎像やお寺の鐘まで供出させられましたが、この像は無事でした。
龍馬が藩船の夕顔丸で長崎を出航し、上洛中の洋上で後藤象二郎に対して口頭で提示したとされる『船中八策』が有名ですが、それを現代風の表現にしますと、①大政奉還、②上下両院の設置による議会政治、③有能な人材の政治への登用、④不平等条約の改定、⑤憲法制定、⑥海軍力の増強、⑦御親兵の設置、⑧金銀の交換レートの変更の八項目です。海援隊士の長岡謙吉が書きとめ、成文化したとも伝わります。龍馬の直筆はないようですから、成文を巡っては異説もあるようです。
桂浜の見学を終え、次は清流で有名な四万十川に向かいました。川の途中にダムが建設されていないことから、『(日本)最後の清流』とも呼ばれています。四万十川クルージングの始発点の桟橋からは高瀬沈下橋が見えていました。沈下橋は四万十川の風物詩になっています。増水時に川に沈んでしまうように設計された、欄干のない橋が沈下橋です。流失防止の工夫とされます。
乗船したところで、早速の昼食でした。ご飯に載せて食べた川海苔の佃煮がおいしかったので、お土産に買って帰りました。野菜の煮物や、菜の花のおひたしなども美味しく戴きました。手長海老らしい川海老は、四万十川で船頭さんが獲られたものとお聞きしました。
高知の四万十川の見学を終えて、次に向かったのは愛媛の道後温泉です。その途中、車窓から日本百名城の宇和島城が見えました。夏目漱石の小説、『坊っちゃん』で有名な道後温泉は、有馬温泉、白浜温泉と並んで、日本三古湯の一つとされます。
明るい内に道後公園にある、日本百名城の一つ、湯築城址を見学し、夕食の後で道後温泉を見学しました。
湯築城は、今は石垣とお堀だけですが、日本百名城の80番に選ばれています。『伊予湯築城・想像図』などには、展望台の場所が本壇、丘陵広場が河野館跡と記されていました。別の図面には、本壇が天守、河野館が二の丸と記してありましたから、年代によって河野館は本丸御殿に)変化したようです。湯築城跡の一番高い場所に設けられていた展望台の上からは、山の上の松山城の天守が見えました。松山市街も四方が眺望できました。
道後公園と湯築(ゆずき)城跡の説明看板の紹介です。道後公園の説明では、12年間に亘る発掘調査で、土師質土器などの25万点の出土品が見付かったことや、湯築(ゆずき)城跡の説明では、14世紀初めに河野通盛によって築城されたことなどが記されていました。
次は夕食の後に見学した道後温泉の紹介です。写真撮影は禁止されていましたが、昭和天皇が使われた石製の湯槽や、休憩された金箔造りの部屋と玉座、それと漱石所縁の坊ちゃんの間などが見学できました。

3月31日(火):高知、松山城、陽光桜、りんりんパーク、金刀比羅宮

道後温泉に宿泊して、午前中はオプショナルツアーの日本百名城の一つ、松山城見学です。海抜132メートルの勝山山上に建ちますので、ロープウェイで登りました。好天にも恵まれ、ソメイヨシノと陽光桜が見頃でした。
ソメイヨシノと違って、濃い赤色の花を咲かせる陽光桜の紹介です。1940年(昭和15年)から青年学校で教鞭をとっていた、高岡正明氏(1909~2001年)によって作出された桜です。その開発に至る話はNHKのドキュメント、『こころを照らす桜』で紹介されました。また、高橋玄監督による映画、『陽光桜』が2015年3月からクランクインし、8月には試写会が予定され、11月に全国封切りを目指しています。
松山城の簡単な紹介です金亀城(きんきじょう)や、勝山城(かつやまじょう)の別名を持ちます。各地の松山城と区別するため、伊予松山城とも呼ばれます。現存12天守の一つ、大天守を含む21棟の現存建造物が、国の重要文化財に、城郭遺構が国の史跡に指定されています。それ以外では、連立式天守群の小天守、塀などの22棟が木造で復元されています。
また、松山城の建築物の特徴の一つとされる石垣は、中でも『登り石垣』が全国最大規模と紹介されていました。花崗岩を使用した算木積みです。算木積みは、石垣の隅部の積み方で、細長い石を使用し、長辺と短辺を交互に積み上げるものです。16世紀後半から用いられ、慶長10年(1605年)頃に完成した石積み法とされます。
松山城見学の後、香川の金刀比羅宮に向かいました。その途中、昼食でりんりんパーク立寄りました。庭と錦鯉が見応えがあったレストランです。緋鯉を紹介した看板には、ジャンボ緋鯉の大きさは、75~97センチ、年齢は30~60歳で、人に例えれば60~120歳くらいと記されていました。
好天に恵まれ、満開に近付いた桜の花を眺めながらの金刀比羅宮の石段登りでした。先達の方が道先案内をしてくれましたので、説明と休憩を織り交ぜながらの785段の石段登りでしたから、さほど苦労はしませんでした。

<おわりに>

週間天気予報などの情報で、悪天候を覚悟した旅行の出発でしたが、写真でご紹介したように、好天続きの観光になりました。何にもましてラッキーな四国周遊旅行となりました。
添乗員さん、現地ガイドさんと運転手さん、それにご同行の皆様方に深くお礼を申し上げて、旅行記の筆をおきます。皆さん、本当に有難うございました。

交通手段
観光バス

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  • JR名古屋駅を7時36分の光495号で出発し、乗り換えなしで9時59分に岡山駅に到着しました。岡山駅からは10時23分発のマリンライナー21号に乗り継ぎました。終点の高松駅到着は11時17分の予定です。

    JR名古屋駅を7時36分の光495号で出発し、乗り換えなしで9時59分に岡山駅に到着しました。岡山駅からは10時23分発のマリンライナー21号に乗り継ぎました。終点の高松駅到着は11時17分の予定です。

  • 在来線のJR岡山駅のホーム光景です。現在時刻は10時10分頃、マリンライナー21号の到着まで、あと10分少しです。

    在来線のJR岡山駅のホーム光景です。現在時刻は10時10分頃、マリンライナー21号の到着まで、あと10分少しです。

  • 定刻にJR岡山駅を出発し、終点のJR高松駅に到着しました。現在時刻は11時25分頃です。定刻での到着です。

    定刻にJR岡山駅を出発し、終点のJR高松駅に到着しました。現在時刻は11時25分頃です。定刻での到着です。

  • JR高松駅の駅舎内の光景です。ここからは迎えの観光バスに乗車しての四国周遊となります。

    JR高松駅の駅舎内の光景です。ここからは迎えの観光バスに乗車しての四国周遊となります。

  • 迎えの観光バスを待つ間での撮影です。JR高松駅は、香川県の県庁所在地の高松市に属します。駅の愛称は、『さぬき高松うどん駅』です。

    迎えの観光バスを待つ間での撮影です。JR高松駅は、香川県の県庁所在地の高松市に属します。駅の愛称は、『さぬき高松うどん駅』です。

  • 同じく、JR四国の高松駅構内の光景です。駅構内から、なだらかな山並が見えていました。

    同じく、JR四国の高松駅構内の光景です。駅構内から、なだらかな山並が見えていました。

  • JR高松駅前を観光バスで出発しました。最初に向かったのは、徳島県の大歩危(おおぼけ)峡です。その途中、小歩危(こぼけ)峡を車窓見学しました。バスの中からの菜の花の光景です。

    JR高松駅前を観光バスで出発しました。最初に向かったのは、徳島県の大歩危(おおぼけ)峡です。その途中、小歩危(こぼけ)峡を車窓見学しました。バスの中からの菜の花の光景です。

  • 同じく、バスの中からの光景です。大歩危(おおぼけ)峡に到着しました。吉野川に架かっているらしい、青い鉄橋の光景です。

    同じく、バスの中からの光景です。大歩危(おおぼけ)峡に到着しました。吉野川に架かっているらしい、青い鉄橋の光景です。

  • ここからは、昼食の場所ともなった、大歩危(おおぼけ)峡で下車してからの光景です。新幹線で移動中には雨が降っていましたが、大歩危(おおぼけ)峡に到着する頃には、雨は上がり、薄日が射し始めました。

    ここからは、昼食の場所ともなった、大歩危(おおぼけ)峡で下車してからの光景です。新幹線で移動中には雨が降っていましたが、大歩危(おおぼけ)峡に到着する頃には、雨は上がり、薄日が射し始めました。

  • 大歩危(おおぼけ)峡のレストランの周りの光景です。雨が上がり、山に懸かった雲が、次第に晴れ上がっていきました。

    大歩危(おおぼけ)峡のレストランの周りの光景です。雨が上がり、山に懸かった雲が、次第に晴れ上がっていきました。

  • 同じく、大歩危(おおぼけ)峡のレストランの周りの光景です。常緑樹が多いために、紅葉の時期はいまいちのようでした。

    同じく、大歩危(おおぼけ)峡のレストランの周りの光景です。常緑樹が多いために、紅葉の時期はいまいちのようでした。

  • 大歩危峡のレストランで戴いた昼食です。14時に近い遅い昼食でした。ビールも頼まず、腹ごしらえ優先でした。

    大歩危峡のレストランで戴いた昼食です。14時に近い遅い昼食でした。ビールも頼まず、腹ごしらえ優先でした。

  • 夕食の後の自由散策です。レストランが大歩危峡の絶景の場所にありましたから、あまり移動せずに、その付近からの眺めです。

    イチオシ

    夕食の後の自由散策です。レストランが大歩危峡の絶景の場所にありましたから、あまり移動せずに、その付近からの眺めです。

  • 大歩危峡に架かった鯉幟の光景です。昼食を摂ったレストランからは、遊覧船も発着していました。

    イチオシ

    大歩危峡に架かった鯉幟の光景です。昼食を摂ったレストランからは、遊覧船も発着していました。

  • 大歩危峡の特徴の一つが、この水の色にあるようです。この付近の地質、殊に岩の色が影響しているようでした。

    大歩危峡の特徴の一つが、この水の色にあるようです。この付近の地質、殊に岩の色が影響しているようでした。

  • 白い岩肌に青い水の色、それをさらに引き立てるようにかけ垂れた鯉幟の列です。水の色は、水深によってその色が変化します。

    白い岩肌に青い水の色、それをさらに引き立てるようにかけ垂れた鯉幟の列です。水の色は、水深によってその色が変化します。

  • 川が狭まった箇所では流れが速くなり、白い波が立っていました。これらの景色は、食事をしたレストランの建物の中から眺めることができました。

    川が狭まった箇所では流れが速くなり、白い波が立っていました。これらの景色は、食事をしたレストランの建物の中から眺めることができました。

  • 今日の昼食は、事前に予約して座敷で戴きました。予約しない場合は、同じ建物の中にある食堂を利用することもできます。その食堂の入り口光景です。

    今日の昼食は、事前に予約して座敷で戴きました。予約しない場合は、同じ建物の中にある食堂を利用することもできます。その食堂の入り口光景です。

  • 真上から眺めた、大歩危峡に懸かった鯉幟の光景です。ワイヤーロープに、鯉幟をつるした綱が添えられていました。

    真上から眺めた、大歩危峡に懸かった鯉幟の光景です。ワイヤーロープに、鯉幟をつるした綱が添えられていました。

  • 大歩危峡で露出した岩盤の光景です。大歩危の含礫片岩は、徳島県の天然記念物に指定されています。後程、その説明看板を紹介します。

    大歩危峡で露出した岩盤の光景です。大歩危の含礫片岩は、徳島県の天然記念物に指定されています。後程、その説明看板を紹介します。

  • 大歩危峡に架けられた鯉幟軍と、その背後の山の光景です。目視できる範囲では5本のワイヤーロープが張られていました。

    大歩危峡に架けられた鯉幟軍と、その背後の山の光景です。目視できる範囲では5本のワイヤーロープが張られていました。

  • ここからは、一旦、建物の外に出てからの眺めです。バスでやって来た、北側方面の光景です。

    ここからは、一旦、建物の外に出てからの眺めです。バスでやって来た、北側方面の光景です。

  • バスでやって来た方角とは逆の、南側方面の光景です。川の流れは、南側から北側に向かっています。

    バスでやって来た方角とは逆の、南側方面の光景です。川の流れは、南側から北側に向かっています。

  • 眼下に眺めた、大歩危峡の光景です。左手が川下方面になります。吉野川は、小歩危・大歩危峡付近では北に向かって流れています。

    眼下に眺めた、大歩危峡の光景です。左手が川下方面になります。吉野川は、小歩危・大歩危峡付近では北に向かって流れています。

  • 同じく、眼下に眺めた、大歩危峡の流れの光景です。川底の岩が、ぼんやりと見えていました。

    同じく、眼下に眺めた、大歩危峡の流れの光景です。川底の岩が、ぼんやりと見えていました。

  • 眼下に眺めた、大歩危峡の流れの光景が続きます。複雑な波紋を描きながら流れていました。

    イチオシ

    眼下に眺めた、大歩危峡の流れの光景が続きます。複雑な波紋を描きながら流れていました。

  • 大歩危峡に架けられた鯉幟の光景です。船着き場の目印にもなっていた鯉幟です。川を泳がずに、一年中空を泳いでいるようです。<br />

    大歩危峡に架けられた鯉幟の光景です。船着き場の目印にもなっていた鯉幟です。川を泳がずに、一年中空を泳いでいるようです。

  • 大歩危峡の下流方面の光景です。近くの低い山の雲は消え去り、遠くの山の高い部分の雲が次第に晴れ上がっていく光景です。

    大歩危峡の下流方面の光景です。近くの低い山の雲は消え去り、遠くの山の高い部分の雲が次第に晴れ上がっていく光景です。

  • 『三名含礫片岩』のタイトルがあった説明看板です。この含礫片岩は、古生代に堆積した礫岩の地層が造山運動の結果押しつぶされて扁平化したものです。日本国内では非常に珍しいものとされます。徳島県の天然記念物に指定されたのは昭和28年です。

    『三名含礫片岩』のタイトルがあった説明看板です。この含礫片岩は、古生代に堆積した礫岩の地層が造山運動の結果押しつぶされて扁平化したものです。日本国内では非常に珍しいものとされます。徳島県の天然記念物に指定されたのは昭和28年です。

  • 花壇で咲いていた、白色とピンク色のサクラソウ(桜草)越しに眺めた、大歩危峡の光景です。

    花壇で咲いていた、白色とピンク色のサクラソウ(桜草)越しに眺めた、大歩危峡の光景です。

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2015春、四国周遊

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