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高知城の天守閣や隅櫓の外観の紹介です。併せてとソメイヨシノの桜の花と、手入れの行き届いた松等の紹介です。

2015春、四国周遊(6/26):3月29日(6):高知、高知城、城内の桜、天守、本丸、二の丸

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2015/03/29 - 2015/03/31

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

高知城の天守閣や隅櫓の外観の紹介です。併せてとソメイヨシノの桜の花と、手入れの行き届いた松等の紹介です。

交通手段
観光バス
  • 石垣の下から見上げた天守の光景です。高知城の天守は、現存する12天守の一つです。その12天守は、弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城と高知城です。四国には四箇所残っています。<br />

    石垣の下から見上げた天守の光景です。高知城の天守は、現存する12天守の一つです。その12天守は、弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城と高知城です。四国には四箇所残っています。

  • ソメイヨシノの花越に眺めた、天守とその石垣光景です。高知城は本丸の建物が完全に残る唯一の城とされます。

    ソメイヨシノの花越に眺めた、天守とその石垣光景です。高知城は本丸の建物が完全に残る唯一の城とされます。

  • ソメイヨシノの花のアップ光景です。この樹は五分咲を超えて、七分咲ほどでした。神社に似合うのは梅ですが、お城には桜が良く似合います。

    ソメイヨシノの花のアップ光景です。この樹は五分咲を超えて、七分咲ほどでした。神社に似合うのは梅ですが、お城には桜が良く似合います。

  • 苔生した石碑の光景です。最上部に『星野秀太郎顕彰碑』の文字がありました。星野秀太郎(1859〜1888年)は、明治初期の医師だった人です。

    苔生した石碑の光景です。最上部に『星野秀太郎顕彰碑』の文字がありました。星野秀太郎(1859〜1888年)は、明治初期の医師だった人です。

  • 『愛妻之碑』のタイトルがあった、比較的新しい歌碑です。『あきかぜの福井の里ににいもをおきて 安芸の大山越えがてぬかも』の末尾に、『鹿持雅澄先生山斉集より』の文字が添えてありました。鹿持雅澄(1791〜1895年)は、土佐国土佐郡福井村(現在の高知市)出身の国学者です。長歌に優れた歌人でもあり、生涯を捧げた著述の『万葉集古義』は、没後に上梓されました。

    『愛妻之碑』のタイトルがあった、比較的新しい歌碑です。『あきかぜの福井の里ににいもをおきて 安芸の大山越えがてぬかも』の末尾に、『鹿持雅澄先生山斉集より』の文字が添えてありました。鹿持雅澄(1791〜1895年)は、土佐国土佐郡福井村(現在の高知市)出身の国学者です。長歌に優れた歌人でもあり、生涯を捧げた著述の『万葉集古義』は、没後に上梓されました。

  • 『岡村景楼』の名前が記された石碑です。岡村景楼(1835〜1890年)は、江戸時代末期から明治時代の医者です。大坂や長崎で西洋医学を学びました。新政府の土佐藩軍医や高知病院医監を務めました。

    『岡村景楼』の名前が記された石碑です。岡村景楼(1835〜1890年)は、江戸時代末期から明治時代の医者です。大坂や長崎で西洋医学を学びました。新政府の土佐藩軍医や高知病院医監を務めました。

  • 『鉄門(くろがねもん)』の説明パネルです。この辺りに、多くの鉄板で補強した扉を持つ、入母屋の二階建の門が置かれて蛸との説明です。二の丸から本丸に通じる重要な場所です。

    『鉄門(くろがねもん)』の説明パネルです。この辺りに、多くの鉄板で補強した扉を持つ、入母屋の二階建の門が置かれて蛸との説明です。二の丸から本丸に通じる重要な場所です。

  • 『鉄門(くろがねもん)』から『詰門』に向かう石段です。この空間は、侵入した敵を三方から攻撃できるように桝形になっています。

    『鉄門(くろがねもん)』から『詰門』に向かう石段です。この空間は、侵入した敵を三方から攻撃できるように桝形になっています。

  • 二ノ丸と本丸を結ぶ爪門(廊下橋)の光景です。2艘の櫓からなり、階下は東西に通じる門、階上は登城した家臣が詰める溜ノ間(たまりのま)と本丸への渡り廊下の二つの役割があります。

    二ノ丸と本丸を結ぶ爪門(廊下橋)の光景です。2艘の櫓からなり、階下は東西に通じる門、階上は登城した家臣が詰める溜ノ間(たまりのま)と本丸への渡り廊下の二つの役割があります。

  • 天守の石垣下の光景です。周りは、矢狭間塀などで守られているようです。

    天守の石垣下の光景です。周りは、矢狭間塀などで守られているようです。

  • 天守の光景です。『咸臨閣』という別称を持ち、国の重要文化財の一つです。享保の大火(1727年)で焼失し、1749年に再建されました。

    天守の光景です。『咸臨閣』という別称を持ち、国の重要文化財の一つです。享保の大火(1727年)で焼失し、1749年に再建されました。

  • 城内で咲いていた黄色の花です。オウバイモドキ(黄梅擬)のようです。モクセイ科ソケイ属の常緑半蔓性低木です。原産地は中国西南部です。

    城内で咲いていた黄色の花です。オウバイモドキ(黄梅擬)のようです。モクセイ科ソケイ属の常緑半蔓性低木です。原産地は中国西南部です。

  • オウバイモドキ(黄梅擬)の純粋な黄色の花のアップ光景です。八重咲のように見えますが、一重6弁〜8弁の花が多いようでした。

    オウバイモドキ(黄梅擬)の純粋な黄色の花のアップ光景です。八重咲のように見えますが、一重6弁〜8弁の花が多いようでした。

  • 『二の丸』のタイトルがあった説明パネルです。二の丸は、本丸の北、三の丸の西上に位置します。明治6年(1872年)の公園化に伴い、二の丸御殿、表御殿や奥御殿は撤去されたこと等が説明されていました。

    『二の丸』のタイトルがあった説明パネルです。二の丸は、本丸の北、三の丸の西上に位置します。明治6年(1872年)の公園化に伴い、二の丸御殿、表御殿や奥御殿は撤去されたこと等が説明されていました。

  • 望楼が廻らされている天守の最上階付近のアップ光景です。天守の平面寸法は、初層と2層が総二階造りで8間×6間、3層と4層が4間四方とし、5層と最上層は3間四方です。

    望楼が廻らされている天守の最上階付近のアップ光景です。天守の平面寸法は、初層と2層が総二階造りで8間×6間、3層と4層が4間四方とし、5層と最上層は3間四方です。

  • 天守の光景です。天守の外観は4層ですが、構造上は3層6階、高欄廻縁付きの望楼型独立天守です。高さは18.5メートルです。

    イチオシ

    天守の光景です。天守の外観は4層ですが、構造上は3層6階、高欄廻縁付きの望楼型独立天守です。高さは18.5メートルです。

  • 本丸御殿の建物光景です。本瓦葺きの平屋建てです。式台廻り・正殿・納戸蔵(なんどぐら:納戸多聞櫓)からなり、正殿は典型的な書院造りです。

    本丸御殿の建物光景です。本瓦葺きの平屋建てです。式台廻り・正殿・納戸蔵(なんどぐら:納戸多聞櫓)からなり、正殿は典型的な書院造りです。

  • 左奥が天守と接続された本丸御殿などの建物光景です。開館時間を過ぎていましたので、入場見学することはできませんでした。

    左奥が天守と接続された本丸御殿などの建物光景です。開館時間を過ぎていましたので、入場見学することはできませんでした。

  • 二の丸跡の光景です。手入れが行き届いた松の庭木が立ち並んできました。現在時刻は16時少し前です。西の空が茜に染まってきました。

    イチオシ

    二の丸跡の光景です。手入れが行き届いた松の庭木が立ち並んできました。現在時刻は16時少し前です。西の空が茜に染まってきました。

  • 二の丸からの高知市内の眺望です。お城の建物は、左から廊下橋門櫓、西多聞と矢狭間塀です。

    二の丸からの高知市内の眺望です。お城の建物は、左から廊下橋門櫓、西多聞と矢狭間塀です。

  • 二の丸からの本丸方面の眺めです。左手が本丸御殿の建物、中央から右手が廊下橋門櫓と西多聞の光景です。中央奥に天守の最上階付近が見えています。

    二の丸からの本丸方面の眺めです。左手が本丸御殿の建物、中央から右手が廊下橋門櫓と西多聞の光景です。中央奥に天守の最上階付近が見えています。

  • 二の丸址の西方面から眺めた、本丸方面の光景です。土佐藩の最後となる第16代藩主は、山内豊範(1846〜1886年)でした。その前代の藩主が、幕末の四賢侯の一人として評価された山内容堂(豊信)でした。因みに、四賢侯の後の3名は、薩摩藩第11代藩主の島津斉彬、福井藩第14代藩主の松平慶永(春嶽)と、宇和島藩第8代藩主の伊達宗城です。

    二の丸址の西方面から眺めた、本丸方面の光景です。土佐藩の最後となる第16代藩主は、山内豊範(1846〜1886年)でした。その前代の藩主が、幕末の四賢侯の一人として評価された山内容堂(豊信)でした。因みに、四賢侯の後の3名は、薩摩藩第11代藩主の島津斉彬、福井藩第14代藩主の松平慶永(春嶽)と、宇和島藩第8代藩主の伊達宗城です。

  • 二の丸址から眺めた『獅子の段』と呼ばれた一角の光景です。江戸時代には『鹿ノ段』とも呼ばれ、射場や馬場があったとされます。明治7年(1874年)高知城公園の開園を記念し梅林となり、現在は『梅ノ段』と呼ばれています。

    二の丸址から眺めた『獅子の段』と呼ばれた一角の光景です。江戸時代には『鹿ノ段』とも呼ばれ、射場や馬場があったとされます。明治7年(1874年)高知城公園の開園を記念し梅林となり、現在は『梅ノ段』と呼ばれています。

  • 二の丸跡から眺めた、高知市内の光景です。その背後には山並み光景がありました。

    二の丸跡から眺めた、高知市内の光景です。その背後には山並み光景がありました。

  • 二の丸跡の庭木越しに眺めた、薄暮の高知市内の光景です。

    二の丸跡の庭木越しに眺めた、薄暮の高知市内の光景です。

  • 二の丸跡にあった小さな庭園光景です。規模や風格からいって、二の丸当時の庭園が再現されたものではないようです。

    二の丸跡にあった小さな庭園光景です。規模や風格からいって、二の丸当時の庭園が再現されたものではないようです。

  • 二の丸跡から眺めた、薄暮の高知市内の眺望です。時刻は18時少し前です。

    二の丸跡から眺めた、薄暮の高知市内の眺望です。時刻は18時少し前です。

  • 二の丸の西の端の方にあった生垣光景です。鋭い棘を持つカラタチ(枳殻)が新芽を出していました。ミカン科カラタチ属の落葉低木で、中国長江上流域が原産です。日本へは、8世紀頃に渡来したようです。

    二の丸の西の端の方にあった生垣光景です。鋭い棘を持つカラタチ(枳殻)が新芽を出していました。ミカン科カラタチ属の落葉低木で、中国長江上流域が原産です。日本へは、8世紀頃に渡来したようです。

  • 二の丸跡で咲いていたソメイヨシノの花のアップ光景です。全体としては五分〜七分咲程でした。二の丸は、藩主の居住空間である二の丸御殿等があった場所です。

    二の丸跡で咲いていたソメイヨシノの花のアップ光景です。全体としては五分〜七分咲程でした。二の丸は、藩主の居住空間である二の丸御殿等があった場所です。

  • 同じく、二の丸跡で咲いていたソメイヨシノの花のアップ光景です。ネット写真で見た二の丸や三の丸の敷地には、数多くの建物が犇めいていました。これらの建物は、明治6年に撤去されたようです。

    イチオシ

    同じく、二の丸跡で咲いていたソメイヨシノの花のアップ光景です。ネット写真で見た二の丸や三の丸の敷地には、数多くの建物が犇めいていました。これらの建物は、明治6年に撤去されたようです。

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