ミナミ(難波・天王寺)旅行記(ブログ) 一覧に戻る
9月に淀屋橋から心斎橋辺りのレトロ建物を巡ってとても面白かったので、同じことをミナミでやったらどうなるのか。どうにも気になって気になって仕方がないので、今回さっそくチャレンジすることにしました。<br /><br />いやー、同じ大阪市内と言っても、心斎橋あたりとは全然違いますねえ。上町台地の寺町や七つ坂は四ツ橋筋で四天王寺までつながってまして、なるほどこういう位置関係でしたかって感じ。<br /><br />そこから新世界に今宮戎神社までも、勢いに任せて歩いて、最後は最近はまった串カツとどて焼きに舌鼓。B級グルメですけど、こんなうまいものないですよね。食道楽の大阪人が育て上げたすばらしい文化でしょう。<br /><br />いずれにしても、地域によって、これだけくっきり特徴があるのは、やっぱり関西ならでは。関東ではなかなかこうはならないんですよ~。京都の街歩きが本分の私ですが、しばらくは大阪の街歩きから離れられないような予感がする旅となりました。

五條からミナミ・枚方の大阪界隈手探り旅(二日目)~生国魂神社から七つ坂・寺町に、仁徳天皇の難波高津宮や四天王寺。古代の匂いも香る上町台地を歩きます~

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2014/12/06 - 2014/12/06

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たびたび

たびたびさん

9月に淀屋橋から心斎橋辺りのレトロ建物を巡ってとても面白かったので、同じことをミナミでやったらどうなるのか。どうにも気になって気になって仕方がないので、今回さっそくチャレンジすることにしました。

いやー、同じ大阪市内と言っても、心斎橋あたりとは全然違いますねえ。上町台地の寺町や七つ坂は四ツ橋筋で四天王寺までつながってまして、なるほどこういう位置関係でしたかって感じ。

そこから新世界に今宮戎神社までも、勢いに任せて歩いて、最後は最近はまった串カツとどて焼きに舌鼓。B級グルメですけど、こんなうまいものないですよね。食道楽の大阪人が育て上げたすばらしい文化でしょう。

いずれにしても、地域によって、これだけくっきり特徴があるのは、やっぱり関西ならでは。関東ではなかなかこうはならないんですよ~。京都の街歩きが本分の私ですが、しばらくは大阪の街歩きから離れられないような予感がする旅となりました。

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  • 堺筋線の長堀駅で下車して、今日の旅はスタートです。このあたりは、まだ心斎橋の近くです。<br />大阪農林会館は、昭和5年に、三菱商事大阪支店として建てられたレトロビル。あの建築家ジョサイア・コンドルも関わっています。<br />戦後、三菱商事から買い受けられ、農林省資材調整事務所などとして使われたことで、株式会社大阪農林会館という登記となったようです。角が正面になったデザインは今見てもバランスがいいし、とても雰囲気があると思います。

    堺筋線の長堀駅で下車して、今日の旅はスタートです。このあたりは、まだ心斎橋の近くです。
    大阪農林会館は、昭和5年に、三菱商事大阪支店として建てられたレトロビル。あの建築家ジョサイア・コンドルも関わっています。
    戦後、三菱商事から買い受けられ、農林省資材調整事務所などとして使われたことで、株式会社大阪農林会館という登記となったようです。角が正面になったデザインは今見てもバランスがいいし、とても雰囲気があると思います。

  • 次の旧川崎貯蓄銀行大阪支店は、昭和6年の建物。川崎貯蓄銀行は、関東の小財閥、東京川崎財閥の銀行です。設計者は矢部又吉。バロック-新古典主義の純粋様式の装飾ということでまじりっけなし。その分、堅い印象も持ってしまいますが、これが正統派のデザインです。

    次の旧川崎貯蓄銀行大阪支店は、昭和6年の建物。川崎貯蓄銀行は、関東の小財閥、東京川崎財閥の銀行です。設計者は矢部又吉。バロック-新古典主義の純粋様式の装飾ということでまじりっけなし。その分、堅い印象も持ってしまいますが、これが正統派のデザインです。

  • 太閤路地の碑は、堺筋の歩道。あまり目立たない看板です。<br />大阪の街自体、太閤秀吉が大阪城の築城とともに、整備された街なので、そういう意味だと何もかもが太閤ゆかりのものになってしまいかねないのですが、それでも路地は下水道の整備によってできたもの。先進的な取組と言うことでしょう。<br />

    太閤路地の碑は、堺筋の歩道。あまり目立たない看板です。
    大阪の街自体、太閤秀吉が大阪城の築城とともに、整備された街なので、そういう意味だと何もかもが太閤ゆかりのものになってしまいかねないのですが、それでも路地は下水道の整備によってできたもの。先進的な取組と言うことでしょう。

  • ここで、朝飯を食べたくなって。<br />つるまる堺筋店は、谷町筋沿い。朝7時から開いていて、まだ人通りが少ない時間帯でしたが、ポツポツお客さんが入ってきます。

    ここで、朝飯を食べたくなって。
    つるまる堺筋店は、谷町筋沿い。朝7時から開いていて、まだ人通りが少ない時間帯でしたが、ポツポツお客さんが入ってきます。

  • おにぎりとうどんのセットを注文して、ここで朝食にしました。喫茶店に入ってもいいんですが、やっぱりこっちの方が手っ取り早い。うどんも適度にコシがあって、まあまあでした。

    おにぎりとうどんのセットを注文して、ここで朝食にしました。喫茶店に入ってもいいんですが、やっぱりこっちの方が手っ取り早い。うどんも適度にコシがあって、まあまあでした。

  • 長堀橋から、日本橋に移動して。<br />東京の台所が築地なら、大阪の台所は黒門市場です。

    長堀橋から、日本橋に移動して。
    東京の台所が築地なら、大阪の台所は黒門市場です。

  • 難波からでも歩いて10分くらいでしょうか。ただ、築地のように食堂街がそれほど発達していないので、ちょっと地味は地味かも。八百屋さん、魚屋さんのお店を普通に見て回ることになります。

    難波からでも歩いて10分くらいでしょうか。ただ、築地のように食堂街がそれほど発達していないので、ちょっと地味は地味かも。八百屋さん、魚屋さんのお店を普通に見て回ることになります。

  • 最近は、ここも外国の人に人気が出てきたようですが、そもそも観光客があんまり歩いていませんねえ。時間帯が違うんでしょうか。

    最近は、ここも外国の人に人気が出てきたようですが、そもそも観光客があんまり歩いていませんねえ。時間帯が違うんでしょうか。

  • ダイワ果園は、大阪市内に何店舗かあるようですが、黒門市場の中にあるこのお店が本店です。基本は果物のお店なんでしょうが、

    ダイワ果園は、大阪市内に何店舗かあるようですが、黒門市場の中にあるこのお店が本店です。基本は果物のお店なんでしょうが、

  • スイーツもそれなりにあって、焼きドーナツをいただきました。まあ、まずくもないし、普通かなあといった感じ。本当に普通です。

    スイーツもそれなりにあって、焼きドーナツをいただきました。まあ、まずくもないし、普通かなあといった感じ。本当に普通です。

  • 並びの三都屋もスイーツ屋さん。

    並びの三都屋もスイーツ屋さん。

  • 市場らしく、大量のいちご大福が店頭に並んでいました。ちょっと毒々しい色は、いちごを餡子で包んだタイプ。これをいただきましたが、はっきり言えば、いちごは小さいし、酸っぱいですねえ。まあ、それをカバーした餡子ががんばっているんで、全体としては成り立っていますけど、まあ、そういう感じです。<br />黒門市場は以上です。

    市場らしく、大量のいちご大福が店頭に並んでいました。ちょっと毒々しい色は、いちごを餡子で包んだタイプ。これをいただきましたが、はっきり言えば、いちごは小さいし、酸っぱいですねえ。まあ、それをカバーした餡子ががんばっているんで、全体としては成り立っていますけど、まあ、そういう感じです。
    黒門市場は以上です。

  • 国立文楽劇場の文楽と言うのは、人形浄瑠璃のことです。今では歌舞伎が一世を風靡している感がありますが、江戸時代では、人形浄瑠璃で人気を博した演目が歌舞伎に取り入れられたり、人形浄瑠璃は大衆芸能のさきがけ的な役割があったのだと思います。<br />ただ、以前、ここに来た時に困ったのは、言葉が古風で分かりにくかったこと。むしろ、筋書きを予め予習しておくくらいの方が鑑賞しやすいのではないかと思いました。傾城阿波鳴門は、ここで見たわけではありませんが、何度見ても泣ける。人形浄瑠璃の力はすごいです。

    国立文楽劇場の文楽と言うのは、人形浄瑠璃のことです。今では歌舞伎が一世を風靡している感がありますが、江戸時代では、人形浄瑠璃で人気を博した演目が歌舞伎に取り入れられたり、人形浄瑠璃は大衆芸能のさきがけ的な役割があったのだと思います。
    ただ、以前、ここに来た時に困ったのは、言葉が古風で分かりにくかったこと。むしろ、筋書きを予め予習しておくくらいの方が鑑賞しやすいのではないかと思いました。傾城阿波鳴門は、ここで見たわけではありませんが、何度見ても泣ける。人形浄瑠璃の力はすごいです。

  • 国立文楽座の前にある旧跡二ツ井戸は、傍らにゆかりがあれこれ書いてあります。石でできた井戸で中が仕切ってあるのですが、二つの井戸が並んでいたということですから、井戸の穴は二つは別々に掘られていたのでしょう。大きな穴を掘らずに、別々に二つ掘るということがやはり珍しかったのでしょうか。小説「夫婦善哉」にも度々登場する井戸だそうです。

    国立文楽座の前にある旧跡二ツ井戸は、傍らにゆかりがあれこれ書いてあります。石でできた井戸で中が仕切ってあるのですが、二つの井戸が並んでいたということですから、井戸の穴は二つは別々に掘られていたのでしょう。大きな穴を掘らずに、別々に二つ掘るということがやはり珍しかったのでしょうか。小説「夫婦善哉」にも度々登場する井戸だそうです。

  • これも並びにある谷崎潤一郎文学碑。<br />谷崎潤一郎は東京出身ですが、代表作の細雪は大阪船場の上流階級の暮らしぶりを描いた作品です。実際にその小説の舞台となった倚松庵も神戸に残っていて、関西との関係は深い作家でしょう。この文学碑には、「蓼喰ふ蟲」の一節が刻まれていて、千代子夫人との離婚の影を映した作品と言われていますが、碑は植え込みの中にあって、ちょっと分かりづらいかもしれません。<br />

    これも並びにある谷崎潤一郎文学碑。
    谷崎潤一郎は東京出身ですが、代表作の細雪は大阪船場の上流階級の暮らしぶりを描いた作品です。実際にその小説の舞台となった倚松庵も神戸に残っていて、関西との関係は深い作家でしょう。この文学碑には、「蓼喰ふ蟲」の一節が刻まれていて、千代子夫人との離婚の影を映した作品と言われていますが、碑は植え込みの中にあって、ちょっと分かりづらいかもしれません。

  • ここからは、少し橋巡り。<br />下大和橋は、道頓堀川の最上流に架かる橋。下大和橋まで流れてきた東横堀川が、ここで直角に曲がって道頓堀川となるのです。<br />橋の辺りは大和町といって、かつては金比羅詣の舟の発着場があり、参詣客相手の舟宿で大変賑わったところ。近松門左衛門の「生玉心中」でも、一場面として登場しているそうです。<br />ただ、現在は普通の橋です。

    ここからは、少し橋巡り。
    下大和橋は、道頓堀川の最上流に架かる橋。下大和橋まで流れてきた東横堀川が、ここで直角に曲がって道頓堀川となるのです。
    橋の辺りは大和町といって、かつては金比羅詣の舟の発着場があり、参詣客相手の舟宿で大変賑わったところ。近松門左衛門の「生玉心中」でも、一場面として登場しているそうです。
    ただ、現在は普通の橋です。

  • 東横堀川は、この上大和橋の下流で終わり。その後は、直角に西へ曲がって道頓堀川となり、初めての橋が下大和橋です。上大和橋も下大和橋も、この辺りにあった大和町から付けられた名前。ただ、今は高速道路の高架の下で今は見る影もありません。

    東横堀川は、この上大和橋の下流で終わり。その後は、直角に西へ曲がって道頓堀川となり、初めての橋が下大和橋です。上大和橋も下大和橋も、この辺りにあった大和町から付けられた名前。ただ、今は高速道路の高架の下で今は見る影もありません。

  • 瓦屋橋も、東横堀川に架かる橋で、上大和橋の一つ上流。江戸時代にはこの辺りは、南瓦屋町という町で、瓦の窯や土取場があって、実際に瓦の生産が行われていたということ。その瓦を積み出す船も行き交いし、賑わっていたそうです。今は、高架の下で見る影もありませんが。。

    瓦屋橋も、東横堀川に架かる橋で、上大和橋の一つ上流。江戸時代にはこの辺りは、南瓦屋町という町で、瓦の窯や土取場があって、実際に瓦の生産が行われていたということ。その瓦を積み出す船も行き交いし、賑わっていたそうです。今は、高架の下で見る影もありませんが。。

  • 東横堀川に架かる橋は、いくつもあって、東堀橋は、瓦屋橋の一つ上流に架かる橋。高架の下にあって、陰気な場所なのですが、よく見ると照明塔があって、ちょっとおしゃれなところもあって、これは平成6年に改修された時にできたもののようです。

    東横堀川に架かる橋は、いくつもあって、東堀橋は、瓦屋橋の一つ上流に架かる橋。高架の下にあって、陰気な場所なのですが、よく見ると照明塔があって、ちょっとおしゃれなところもあって、これは平成6年に改修された時にできたもののようです。

  • 九之助橋は、「くのすけばし」。人の名前のようですが、定かではないようです。<br />東横堀川に架かる橋で、西詰に、住友家の銅製錬所があり、辺りは鋳物屋、鍛冶屋などが多い金属工業の町だったようです。江戸時代前期にはあったことが分かっていて、古い歴史があるようです。

    九之助橋は、「くのすけばし」。人の名前のようですが、定かではないようです。
    東横堀川に架かる橋で、西詰に、住友家の銅製錬所があり、辺りは鋳物屋、鍛冶屋などが多い金属工業の町だったようです。江戸時代前期にはあったことが分かっていて、古い歴史があるようです。

  • 住友は、銅の関係で、その経済的基盤を築いた家。<br />そうなると、この銅精練所は、住友のルーツに直接つながる史跡でしょう。跡は公園のように整備されていました。<br />この精練所は、寛永年間に、住友家の2代によって開かれたのだとか。<br />銅は輸出用のもので長崎へ送られたのだそうです。

    住友は、銅の関係で、その経済的基盤を築いた家。
    そうなると、この銅精練所は、住友のルーツに直接つながる史跡でしょう。跡は公園のように整備されていました。
    この精練所は、寛永年間に、住友家の2代によって開かれたのだとか。
    銅は輸出用のもので長崎へ送られたのだそうです。

  • そこから谷町筋の方に移動すると景色がいっぺん。ここって、まったく寺町じゃないですか。今日はここから、このまま南下する予定ではあったんですが、まさかこんなところだとは想像していませんでした。どうかすると、京都の寺町通りより規模が大きいような。大阪市内中心部とはとても思えません。

    そこから谷町筋の方に移動すると景色がいっぺん。ここって、まったく寺町じゃないですか。今日はここから、このまま南下する予定ではあったんですが、まさかこんなところだとは想像していませんでした。どうかすると、京都の寺町通りより規模が大きいような。大阪市内中心部とはとても思えません。

  • 田中金峰なんて、ちょっとマニアックな人物なんでしょうが、妙寿寺の門前に大きな石杭が建っていました。<br />金峰は、医師の子として生まれ、自身も医学寮を開くのですが、それが15歳の若さだったという早熟の人。また、恵まれない人たちのために漢方の施薬院も設立して無料で治療を行うなど、徳のあった人物ですが、18歳で亡くなったということです。<br />なお、猛犬がいますという注意書がありますが、近づいたりしなければ大丈夫です。

    田中金峰なんて、ちょっとマニアックな人物なんでしょうが、妙寿寺の門前に大きな石杭が建っていました。
    金峰は、医師の子として生まれ、自身も医学寮を開くのですが、それが15歳の若さだったという早熟の人。また、恵まれない人たちのために漢方の施薬院も設立して無料で治療を行うなど、徳のあった人物ですが、18歳で亡くなったということです。
    なお、猛犬がいますという注意書がありますが、近づいたりしなければ大丈夫です。

  • 法性寺の門前にボードインゆかりの地という石柱があります。<br />ボードインは、都市公園の意義を説いて、それで東京の上野公園ができたという上野公園の恩人なのですが、ここは緒方惟準の招聘に応じて病院建設に携わった際の宿舎だったということ。寺に起居して、とうとう南無妙法華経を唱えるようになったという変わったオランダ人です。

    法性寺の門前にボードインゆかりの地という石柱があります。
    ボードインは、都市公園の意義を説いて、それで東京の上野公園ができたという上野公園の恩人なのですが、ここは緒方惟準の招聘に応じて病院建設に携わった際の宿舎だったということ。寺に起居して、とうとう南無妙法華経を唱えるようになったという変わったオランダ人です。

  • つまり、この法性寺は、日蓮宗の寺。たぶん、基本的には観光のお寺ではなくて、ボードインゆかりの地というのが唯一観光の要素だと思ったのですが、山門に並ぶ仁王像がけっこう見応えあり。

    つまり、この法性寺は、日蓮宗の寺。たぶん、基本的には観光のお寺ではなくて、ボードインゆかりの地というのが唯一観光の要素だと思ったのですが、山門に並ぶ仁王像がけっこう見応えあり。

  • 古いものではないと思いますが、憤怒の表情が生き生きとしています。<br />

    古いものではないと思いますが、憤怒の表情が生き生きとしています。

  • 雲雷寺は、法性寺の向かいにある、これも日蓮宗の寺。<br />境内の建物は、新しい建物が多いのですが、創建は天正年間という古刹で、豊臣秀吉の命によって、ここにに移転しました。建物は大阪大空襲後に復興されたもののようです。

    雲雷寺は、法性寺の向かいにある、これも日蓮宗の寺。
    境内の建物は、新しい建物が多いのですが、創建は天正年間という古刹で、豊臣秀吉の命によって、ここにに移転しました。建物は大阪大空襲後に復興されたもののようです。

  • 少し南下して。円妙寺は、かつては京都の頂妙寺の末寺だったいう、これも日蓮宗の寺。塀の向こうに立派な三重塔が見えたので立ち寄ってみました。山門を入ると狭い通路があって、そのまま墓地の方につながっています。その墓地は一段低いところにあって、そこからみる三重塔がちょっと面白い景色となっていました。境内に井戸があって「水の寺」とも云われるそうです。

    少し南下して。円妙寺は、かつては京都の頂妙寺の末寺だったいう、これも日蓮宗の寺。塀の向こうに立派な三重塔が見えたので立ち寄ってみました。山門を入ると狭い通路があって、そのまま墓地の方につながっています。その墓地は一段低いところにあって、そこからみる三重塔がちょっと面白い景色となっていました。境内に井戸があって「水の寺」とも云われるそうです。

  • そして、高津公園は、中寺の寺町から南に下がり切った場所。高津神社に続く参道脇のスペースに整備された公園で、どうかすると高津神社の境内といってもおかしくないロケーションです。ただ、寺町の方から降りてくると桜の並木が迎えてくれて、こんなふうにちょっと雰囲気があります。

    そして、高津公園は、中寺の寺町から南に下がり切った場所。高津神社に続く参道脇のスペースに整備された公園で、どうかすると高津神社の境内といってもおかしくないロケーションです。ただ、寺町の方から降りてくると桜の並木が迎えてくれて、こんなふうにちょっと雰囲気があります。

  • ところで、高津神社は、難波高津宮に遷都した仁徳天皇が主祭神。仁徳天皇は、堺の仁徳天皇陵が有名ですが、人家のかまどから煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除したり、難波の堀江の開削と茨田堤を築いたりして、仁政を行った天皇としても、古事記に記されている天皇。その時の都が高津宮であり、高津神社は、その跡地に建てられたものということです。<br /><br />

    ところで、高津神社は、難波高津宮に遷都した仁徳天皇が主祭神。仁徳天皇は、堺の仁徳天皇陵が有名ですが、人家のかまどから煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除したり、難波の堀江の開削と茨田堤を築いたりして、仁政を行った天皇としても、古事記に記されている天皇。その時の都が高津宮であり、高津神社は、その跡地に建てられたものということです。

  • また、古典落語の演目「高津の富」の舞台にもなったことも知られているようですが、高台の上にあって、境内も広いし、確かに雰囲気のある神社です。

    また、古典落語の演目「高津の富」の舞台にもなったことも知られているようですが、高台の上にあって、境内も広いし、確かに雰囲気のある神社です。

  • 勧善歌碑は、お手洗いの脇。<br />大きな石碑ですが、これは藤沢南岳という人物の書いた、人の道などに関わる生活訓。ちなみに、藤沢南岳は、明治維新に活躍した儒学者で、漢籍は当代随一といわれたとか。通天閣や寒霞渓などの名付親でもあるそうです。

    勧善歌碑は、お手洗いの脇。
    大きな石碑ですが、これは藤沢南岳という人物の書いた、人の道などに関わる生活訓。ちなみに、藤沢南岳は、明治維新に活躍した儒学者で、漢籍は当代随一といわれたとか。通天閣や寒霞渓などの名付親でもあるそうです。

  • 境内奥にある西坂は、別名、縁切り坂。明治初期まで形が三行り半になっていることから、&amp;shy;悪縁を絶つ坂として知られているそうです。ただ、三行半の形っていうのはイマイチよく分かりませんが、急な坂だし、途中で曲がっているので、それだけでも特異な形かも知れません。

    境内奥にある西坂は、別名、縁切り坂。明治初期まで形が三行り半になっていることから、&shy;悪縁を絶つ坂として知られているそうです。ただ、三行半の形っていうのはイマイチよく分かりませんが、急な坂だし、途中で曲がっているので、それだけでも特異な形かも知れません。

  • こちらの碑には、「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」とあるそうですが、これは先ほど紹介した仁徳天皇の逸話の一つ。<br />仁徳天皇が、この難波高津宮から遠くをご覧になられると、人々の家からは少しも煙が上がっていないことに気付いた。これに対し、「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。」と考えられ、三年間の税の免除をされ、その結果、また、煙が見えるようになったことを喜んで詠われたもの。<br />仁政を行った天皇として、記憶に残ることとなりました。

    こちらの碑には、「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」とあるそうですが、これは先ほど紹介した仁徳天皇の逸話の一つ。
    仁徳天皇が、この難波高津宮から遠くをご覧になられると、人々の家からは少しも煙が上がっていないことに気付いた。これに対し、「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。」と考えられ、三年間の税の免除をされ、その結果、また、煙が見えるようになったことを喜んで詠われたもの。
    仁政を行った天皇として、記憶に残ることとなりました。

  • 北野恒富筆塚 恒富庵は、神社を下った道脇にある立派な石碑。<br />ちなみに、傍らの説明板によると、北野恒冨というのは、金沢生まれで、浪華情緒あふれる美人画で知られる人物。また、筆塚の文字は友人だった河東碧悟桐によるものだそうです。

    北野恒富筆塚 恒富庵は、神社を下った道脇にある立派な石碑。
    ちなみに、傍らの説明板によると、北野恒冨というのは、金沢生まれで、浪華情緒あふれる美人画で知られる人物。また、筆塚の文字は友人だった河東碧悟桐によるものだそうです。

  • 献梅碑も並びにある大きな石碑。<br />これも、仁徳天皇に因むもの。仁徳天皇が皇位についたことを喜んで、教育係であった王仁博士が詠んだ歌。王仁博士は、日本に漢字を伝えた渡来人ですが、梅花にこの和歌を添えて奉ったと伝えられます。<br /><br />浪速津に 咲くやこの華冬ごもり<br />今は春べと 咲くやこの花<br /><br />これで、高津神社はおしまい。

    献梅碑も並びにある大きな石碑。
    これも、仁徳天皇に因むもの。仁徳天皇が皇位についたことを喜んで、教育係であった王仁博士が詠んだ歌。王仁博士は、日本に漢字を伝えた渡来人ですが、梅花にこの和歌を添えて奉ったと伝えられます。

    浪速津に 咲くやこの華冬ごもり
    今は春べと 咲くやこの花

    これで、高津神社はおしまい。

  • さらに進んで、今度は生國魂神社にやって来ました。こちらは、地元では「いくたまさん」の通称です。<br />

    さらに進んで、今度は生國魂神社にやって来ました。こちらは、地元では「いくたまさん」の通称です。

  • ここは北の入口です。

    ここは北の入口です。

  • 振り返るとこれは真言坂。千日通りから生國魂神社にまっすぐ登って行く坂で、天王寺七坂と呼ばれる坂の中では、一番北に位置します。一方で、坂は自動車も通れる石畳。段のない真っ平らな坂なので、趣とかはちょっとイマイチかもしれません。

    振り返るとこれは真言坂。千日通りから生國魂神社にまっすぐ登って行く坂で、天王寺七坂と呼ばれる坂の中では、一番北に位置します。一方で、坂は自動車も通れる石畳。段のない真っ平らな坂なので、趣とかはちょっとイマイチかもしれません。

  • 境内に入って。<br />鞴神社は、生國魂神社の境内、北側にある8つの末社のうちの一つ。<br />ふいごは、火をおこす道具で、鍛冶や鋳物業に関係するもの。祭神は、鍛冶の神、カマドの神として信仰を集めていて、毎年11月のふいご祭りでは、刀匠が鞴を使っておこした火で玉鋼を鍛錬、奉納するのだそうです。<br />

    境内に入って。
    鞴神社は、生國魂神社の境内、北側にある8つの末社のうちの一つ。
    ふいごは、火をおこす道具で、鍛冶や鋳物業に関係するもの。祭神は、鍛冶の神、カマドの神として信仰を集めていて、毎年11月のふいご祭りでは、刀匠が鞴を使っておこした火で玉鋼を鍛錬、奉納するのだそうです。

  • 家造祖神社は、その隣り。名前から想像できる通り、祭神は建築業の祖神。ということで、土木建設業界の信仰を集める神社で、毎年4月の例祭では、業界多数の参列があるようです。

    家造祖神社は、その隣り。名前から想像できる通り、祭神は建築業の祖神。ということで、土木建設業界の信仰を集める神社で、毎年4月の例祭では、業界多数の参列があるようです。

  • そのまた隣りが浄瑠璃神社。北門を入って、すぐの右手にほかの末社と並んで建っていて、芸能上達の神様。近松門左衛門や武本義太夫など文楽、義太夫の関係者をを祀っています。<br />ただ、建立は明治9年なので、そう古くはないようです。

    そのまた隣りが浄瑠璃神社。北門を入って、すぐの右手にほかの末社と並んで建っていて、芸能上達の神様。近松門左衛門や武本義太夫など文楽、義太夫の関係者をを祀っています。
    ただ、建立は明治9年なので、そう古くはないようです。

  • 城方向八幡宮。これは、「きたむきはちばんぐう」と読みます。<br />神武天皇、応神天皇、神功皇后を祭神とし、生國魂神社の北方に大坂城があるため、鬼門の守護神として置かれた神社ということです。<br />8つの末社のうち、この神社も含めてうち四つが並んで建っていました。

    城方向八幡宮。これは、「きたむきはちばんぐう」と読みます。
    神武天皇、応神天皇、神功皇后を祭神とし、生國魂神社の北方に大坂城があるため、鬼門の守護神として置かれた神社ということです。
    8つの末社のうち、この神社も含めてうち四つが並んで建っていました。

  • 鴫野神社も8つの末社のうちのひとつですが、四つの末社からは少し離れています。<br />起こりは、江戸時代になって、大阪城に異変が起こった際、淀殿の崇りと考えられたため、ここに淀殿を祀る祠を建てたことから。女性の守護神ともされるようです。

    鴫野神社も8つの末社のうちのひとつですが、四つの末社からは少し離れています。
    起こりは、江戸時代になって、大阪城に異変が起こった際、淀殿の崇りと考えられたため、ここに淀殿を祀る祠を建てたことから。女性の守護神ともされるようです。

  • そばにある精鎮社も、生國魂神社の境内社のひとつ。<br />元々は表参道脇に蓮池があった弁財天社だったものが、明治になって、こちらに移転されたもの。社前に小さな池があって、網に覆われていますが、中をのぞくと悠々と錦鯉が泳いでいました。

    そばにある精鎮社も、生國魂神社の境内社のひとつ。
    元々は表参道脇に蓮池があった弁財天社だったものが、明治になって、こちらに移転されたもの。社前に小さな池があって、網に覆われていますが、中をのぞくと悠々と錦鯉が泳いでいました。

  • 井原西鶴像は、生國魂神社の北門の方に戻ったところ。 <br />ちなみに、井原西鶴は、好色一代男や日本永代蔵など、浮世草子の作者としてのイメージが強いのですが、生國魂神社と西鶴の関係は俳諧。西鶴が32歳の時、ここ生國魂神社で、万句俳諧の興行を行い、後日出版したのが西鶴の処女撰集。つまり、浮世草子の作者は、俳諧師としても名を成した後の転身だったようです。

    井原西鶴像は、生國魂神社の北門の方に戻ったところ。
    ちなみに、井原西鶴は、好色一代男や日本永代蔵など、浮世草子の作者としてのイメージが強いのですが、生國魂神社と西鶴の関係は俳諧。西鶴が32歳の時、ここ生國魂神社で、万句俳諧の興行を行い、後日出版したのが西鶴の処女撰集。つまり、浮世草子の作者は、俳諧師としても名を成した後の転身だったようです。

  • 改めて、生國魂神社ですが。。<br />初代天皇である神武天皇が、神武東征の際に、この辺りに日本列島そのものの神である生島大神、足島大神を祀り、国家安泰を祈願したことが始まりと伝わります。<br />そういう意味では、天皇の起源とも重なるかなりの歴史ということでしょう。<br />

    改めて、生國魂神社ですが。。
    初代天皇である神武天皇が、神武東征の際に、この辺りに日本列島そのものの神である生島大神、足島大神を祀り、国家安泰を祈願したことが始まりと伝わります。
    そういう意味では、天皇の起源とも重なるかなりの歴史ということでしょう。

  • 現在の地への移転は、豊臣秀吉による大坂城築城に際して決定されたということ。しかし、秀吉も厚く遇したことも間違いないでしょう。<br />

    現在の地への移転は、豊臣秀吉による大坂城築城に際して決定されたということ。しかし、秀吉も厚く遇したことも間違いないでしょう。

  • そして、川崎孫四郎自刃の所は、生國魂神社の正面鳥居前。かなりボロボロになった案内板に謂れが書いてありまして。<br />川崎孫四郎は、水戸藩士。桜田門外の変では、大坂の連絡係。変に合わせて大阪で挙兵する計画も立てていたようですが、幕府に探知され、ここで自刃。尊王攘夷の行いから、明治になって復権。従五位が贈られたようです。

    そして、川崎孫四郎自刃の所は、生國魂神社の正面鳥居前。かなりボロボロになった案内板に謂れが書いてありまして。
    川崎孫四郎は、水戸藩士。桜田門外の変では、大坂の連絡係。変に合わせて大阪で挙兵する計画も立てていたようですが、幕府に探知され、ここで自刃。尊王攘夷の行いから、明治になって復権。従五位が贈られたようです。

  • こちらが正面の参道。いい感じです。

    イチオシ

    こちらが正面の参道。いい感じです。

  • 齢延寺は、生國魂神社から南に歩いてすぐ。この辺りから、再びお寺がたくさんあって、坂道も多い、いわゆる上町台地のエリアが広がります。 <br />団体さんを引き連れた案内人があちこちの寺巡りをしているのに、何度も会いまして、この齢延寺も定番コースの一つのようですね。<br />

    イチオシ

    齢延寺は、生國魂神社から南に歩いてすぐ。この辺りから、再びお寺がたくさんあって、坂道も多い、いわゆる上町台地のエリアが広がります。
    団体さんを引き連れた案内人があちこちの寺巡りをしているのに、何度も会いまして、この齢延寺も定番コースの一つのようですね。

  • 江戸時代は「齢延寺の彼岸桜」と呼ばれた桜の名所だったり、儒者の藤澤東咳・南岳父子、画家の鍋井克之、名刀鍛冶師の左行秀など有名人の墓も。山門は真新しいですが、随分凝った造りのよう。檀家の厚さも窺われるようで、リッチなお寺ではないかと思います。

    江戸時代は「齢延寺の彼岸桜」と呼ばれた桜の名所だったり、儒者の藤澤東咳・南岳父子、画家の鍋井克之、名刀鍛冶師の左行秀など有名人の墓も。山門は真新しいですが、随分凝った造りのよう。檀家の厚さも窺われるようで、リッチなお寺ではないかと思います。

  • 銀山寺も定番コースの一つ。源聖寺坂を上がって右手に門がありますが、ここからは入れない。ガイドのおじさんが銀山寺について説明をしていましたが、秀吉に大変かわいがられた寺だそう。<br />銀山寺の名前も秀吉が改名したり、秀吉の守り本尊である雨宝童子立像、秀吉の画像、朱印状などもこの寺に伝わっています。入れる入口は、源聖寺坂の門から回ったところですが、さっきの源聖寺坂の門から中をのぞく方が雰囲気はあるかもしれません。

    銀山寺も定番コースの一つ。源聖寺坂を上がって右手に門がありますが、ここからは入れない。ガイドのおじさんが銀山寺について説明をしていましたが、秀吉に大変かわいがられた寺だそう。
    銀山寺の名前も秀吉が改名したり、秀吉の守り本尊である雨宝童子立像、秀吉の画像、朱印状などもこの寺に伝わっています。入れる入口は、源聖寺坂の門から回ったところですが、さっきの源聖寺坂の門から中をのぞく方が雰囲気はあるかもしれません。

  • 源聖寺坂は、銀山寺から下ってみたのですが、

    源聖寺坂は、銀山寺から下ってみたのですが、

  • 案内板もなくてこれが本当に源聖寺坂なのかなあと不安に思いながら降りました。

    イチオシ

    案内板もなくてこれが本当に源聖寺坂なのかなあと不安に思いながら降りました。

  • すると下から上がってくる入口に立派な石柱があって、源聖寺坂と書いてありました。天王寺七坂の一つですが、一番しっかりした坂のような気がします。

    すると下から上がってくる入口に立派な石柱があって、源聖寺坂と書いてありました。天王寺七坂の一つですが、一番しっかりした坂のような気がします。

  • 萬福寺は、源聖寺坂を下りてすぐの松屋町筋沿い。前田利家の弟の前田次郎兵衛利信が開基ですが、門前に「新撰組大阪旅宿所跡」という石柱が建っていました。<br />石柱の隣りに詳しい説明があって、実質的には、新撰組の大坂駐屯地。大坂相撲力士との乱闘、町奉行与力内山彦次郎暗殺などの事件を起こしたり、あまり気持ちのいい内容ではないかもしれません。

    萬福寺は、源聖寺坂を下りてすぐの松屋町筋沿い。前田利家の弟の前田次郎兵衛利信が開基ですが、門前に「新撰組大阪旅宿所跡」という石柱が建っていました。
    石柱の隣りに詳しい説明があって、実質的には、新撰組の大坂駐屯地。大坂相撲力士との乱闘、町奉行与力内山彦次郎暗殺などの事件を起こしたり、あまり気持ちのいい内容ではないかもしれません。

  • 口縄坂は、天王寺七坂の三つ目。源聖寺坂から松屋町筋を歩いて向かいましたが、予想以上に遠くて、ちょっと迷いました。松屋町筋からは、けっこう細い入口。口縄というのは、蛇のことですが、くねくね曲がっているのではなく、まっすぐ上がる坂。起伏が蛇のようだというのですが、ちょっと分かりにくいと思います。<br />

    口縄坂は、天王寺七坂の三つ目。源聖寺坂から松屋町筋を歩いて向かいましたが、予想以上に遠くて、ちょっと迷いました。松屋町筋からは、けっこう細い入口。口縄というのは、蛇のことですが、くねくね曲がっているのではなく、まっすぐ上がる坂。起伏が蛇のようだというのですが、ちょっと分かりにくいと思います。

  • 織田作之助文学碑 「木の都」 は、口縄坂を上ったところ。織田作之助は、法善寺の近くに「夫婦善哉」の碑がありますが、大阪人には特別の作家なんでしょう。織田作之助が口縄坂を愛していたことが、「木の都」の一節から偲ぶことができるという意味の文学碑です。

    織田作之助文学碑 「木の都」 は、口縄坂を上ったところ。織田作之助は、法善寺の近くに「夫婦善哉」の碑がありますが、大阪人には特別の作家なんでしょう。織田作之助が口縄坂を愛していたことが、「木の都」の一節から偲ぶことができるという意味の文学碑です。

  • 浄春寺は、口縄坂を上ったところからちょっと裏手に入ります。曹洞宗の寺で、藤原家隆の菩提所として開かれたという古刹。境内は広いのですが、本堂とか小さくて、正直いえば、みすぼらしい感じ。これが本堂ですかと確かめてみたくらいです。<br />藤原家隆の墓は、ちょっと離れた場所。そのそばに伊達家・陸奥家の墓所跡といったものが残されていて、たぶん、かつてはそこの境内だったのかも。そう考えると由緒が正しい寺であることはうかがえました。

    浄春寺は、口縄坂を上ったところからちょっと裏手に入ります。曹洞宗の寺で、藤原家隆の菩提所として開かれたという古刹。境内は広いのですが、本堂とか小さくて、正直いえば、みすぼらしい感じ。これが本堂ですかと確かめてみたくらいです。
    藤原家隆の墓は、ちょっと離れた場所。そのそばに伊達家・陸奥家の墓所跡といったものが残されていて、たぶん、かつてはそこの境内だったのかも。そう考えると由緒が正しい寺であることはうかがえました。

  • 松屋町筋から口縄坂を経由、谷町筋に出てきました。<br />太平寺は、加賀藩大坂蔵屋敷の菩提所だったということですが、十三参りの寺。お寺の看板でも大きく「十三参り」と書かれていました。<br />関西では、七五三ではなくて、十三参りをよく見ます。一方で境内はなんか都会風のすっきりした景色。ごてごてしているよりはいいかもしれませんが、本当にすっきりした感じです。

    松屋町筋から口縄坂を経由、谷町筋に出てきました。
    太平寺は、加賀藩大坂蔵屋敷の菩提所だったということですが、十三参りの寺。お寺の看板でも大きく「十三参り」と書かれていました。
    関西では、七五三ではなくて、十三参りをよく見ます。一方で境内はなんか都会風のすっきりした景色。ごてごてしているよりはいいかもしれませんが、本当にすっきりした感じです。

  • こうしてみると、谷町筋は、上町台地を南北に走っていたんですね。松屋町筋までは低地にあることを考えると、ちょっと様子が違います。難波津と言われた頃なら、松屋町筋から西側は海だったということでしょう。

    こうしてみると、谷町筋は、上町台地を南北に走っていたんですね。松屋町筋までは低地にあることを考えると、ちょっと様子が違います。難波津と言われた頃なら、松屋町筋から西側は海だったということでしょう。

  • 谷町筋を少し北に戻って。<br />鳳林寺は、六万体にある大きなお寺。始まりは天正年間です。<br />豊臣秀吉の命によって、この地に移転。面白いのは、大坂夏の陣の話。真田幸村のために茶臼山の本陣を追われた徳川家康がこの寺に一時避難をしたというのです。真偽のほどはよく分かりませんが、大阪人は秀吉びいき。尾ひれも付いた話になったかもしれません。

    谷町筋を少し北に戻って。
    鳳林寺は、六万体にある大きなお寺。始まりは天正年間です。
    豊臣秀吉の命によって、この地に移転。面白いのは、大坂夏の陣の話。真田幸村のために茶臼山の本陣を追われた徳川家康がこの寺に一時避難をしたというのです。真偽のほどはよく分かりませんが、大阪人は秀吉びいき。尾ひれも付いた話になったかもしれません。

  • その少し北が吉祥寺。ここは、赤穂義士の寺なんだそうです。なんでこんなところにと思ったのですが、寺を開いた住職が赤穂出身で、討ち入りの以前から参勤交代の途中、ここに立ち寄ったりして、浅野長矩とも親交があったのだそう。その後、討ち入りが起きた後は、江戸の泉岳寺よりも先に赤穂義士の墓がここに建てられました。<br />

    その少し北が吉祥寺。ここは、赤穂義士の寺なんだそうです。なんでこんなところにと思ったのですが、寺を開いた住職が赤穂出身で、討ち入りの以前から参勤交代の途中、ここに立ち寄ったりして、浅野長矩とも親交があったのだそう。その後、討ち入りが起きた後は、江戸の泉岳寺よりも先に赤穂義士の墓がここに建てられました。

  • 寺は、赤穂藩藩主浅野家の祈願所であり、赤穂浪士四十七士の墓の他に、ダイナミックな石像があって、ちょっと見応えがあります。

    寺は、赤穂藩藩主浅野家の祈願所であり、赤穂浪士四十七士の墓の他に、ダイナミックな石像があって、ちょっと見応えがあります。

  • 十三参りの太平寺と谷町筋を挟んで正面に見える寺は、天鷺寺。<br />屋根の中央に赤い塔をいただいた目立つ建物なので、この辺りを歩けば、いやでも目に入るお寺だと思います。ただ、何のお寺なのかは、よくわからない。とにかく、目立つお寺です。

    十三参りの太平寺と谷町筋を挟んで正面に見える寺は、天鷺寺。
    屋根の中央に赤い塔をいただいた目立つ建物なので、この辺りを歩けば、いやでも目に入るお寺だと思います。ただ、何のお寺なのかは、よくわからない。とにかく、目立つお寺です。

  • ここから南に下って。<br />真光院も、谷町筋沿いにあるのですが、歩道が広くなって奥まった場所。ただ、楼門の入口が目立っているので、すぐにそれと分かりました。<br />この寺は、聖徳太子の草創という古い歴史、ここに聖徳太子が六万体の石地蔵尊を刻んで納めたということで、それがこの辺りの地名の六万体町のゆえんだそうです。境内には、六地蔵などの石仏がたくさんあって、賑やかです。

    ここから南に下って。
    真光院も、谷町筋沿いにあるのですが、歩道が広くなって奥まった場所。ただ、楼門の入口が目立っているので、すぐにそれと分かりました。
    この寺は、聖徳太子の草創という古い歴史、ここに聖徳太子が六万体の石地蔵尊を刻んで納めたということで、それがこの辺りの地名の六万体町のゆえんだそうです。境内には、六地蔵などの石仏がたくさんあって、賑やかです。

  • 松屋町筋との間のエリアに戻ります。<br />こちらは勝鬘院が寺の名前のようですが、通称は「愛染さん」。<br />

    松屋町筋との間のエリアに戻ります。
    こちらは勝鬘院が寺の名前のようですが、通称は「愛染さん」。

  • 本尊は愛染明王で、聖徳太子が開いた施薬院に始まる四天王寺の別院ということです。<br />

    イチオシ

    本尊は愛染明王で、聖徳太子が開いた施薬院に始まる四天王寺の別院ということです。

  • 愛染堂の裏手には、重要文化財の多宝塔もあって、四角い愛染堂との組み合わせがちょっと面白いと思います。

    イチオシ

    愛染堂の裏手には、重要文化財の多宝塔もあって、四角い愛染堂との組み合わせがちょっと面白いと思います。

  • 愛染坂は、天王寺七坂の四つ目。坂の下り口に、さっきの愛染堂があって、それが名前の由来です。天王寺七坂は、だいたい石段になっている坂が多いのですが、この坂は平たい坂。学校の脇を下って行くし、あまり景色に情緒はないかもしれません。

    愛染坂は、天王寺七坂の四つ目。坂の下り口に、さっきの愛染堂があって、それが名前の由来です。天王寺七坂は、だいたい石段になっている坂が多いのですが、この坂は平たい坂。学校の脇を下って行くし、あまり景色に情緒はないかもしれません。

  • 下る口の脇にあるのが大江神社。<br />聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その外護として造られた四天王寺七宮というのがあるのですが、この神社はその一つ。ただ、愛染堂の方から境内に入ると、けっこうな広さがあって、小さな神社ではありません。<br />境内にはこま犬ならぬ、狛虎があって、それは珍しいことでしょう。

    下る口の脇にあるのが大江神社。
    聖徳太子が四天王寺を創建した際に、その外護として造られた四天王寺七宮というのがあるのですが、この神社はその一つ。ただ、愛染堂の方から境内に入ると、けっこうな広さがあって、小さな神社ではありません。
    境内にはこま犬ならぬ、狛虎があって、それは珍しいことでしょう。

  • 藤原家隆の墓は、地図で見たら愛染堂の中かなあと思ったのですが、塀の外でした。<br />近くにある浄春寺は、藤原家隆の菩提所ですが、その浄春寺の飛び地のような感じです。ちなみに、藤原家隆は鎌倉時代の歌人で新古今和歌集の撰者の一人。承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇に歌の手ほどきをした人物でもあるようです。<br />そして、この辺りの地名、夕陽丘は、ここから見える大阪湾に沈む夕陽を家隆が好んだことからということです。<br />

    藤原家隆の墓は、地図で見たら愛染堂の中かなあと思ったのですが、塀の外でした。
    近くにある浄春寺は、藤原家隆の菩提所ですが、その浄春寺の飛び地のような感じです。ちなみに、藤原家隆は鎌倉時代の歌人で新古今和歌集の撰者の一人。承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇に歌の手ほどきをした人物でもあるようです。
    そして、この辺りの地名、夕陽丘は、ここから見える大阪湾に沈む夕陽を家隆が好んだことからということです。

  • 愛染坂を下った先にある清水坂は、天王寺七坂の五つ目。名前は、清水寺の北側にあることから。<br />緩やかな幅の広い石段で、ちょっと端正な美しさを感じます。ちなみに、清水寺には、大阪市内唯一の滝があったり、この辺りは名泉所として知られた場所なのだそうです。<br />

    愛染坂を下った先にある清水坂は、天王寺七坂の五つ目。名前は、清水寺の北側にあることから。
    緩やかな幅の広い石段で、ちょっと端正な美しさを感じます。ちなみに、清水寺には、大阪市内唯一の滝があったり、この辺りは名泉所として知られた場所なのだそうです。

  • 続いての天神坂は、天王寺七坂の六つ目。名前は、菅原道真を祀る安居神社へ通じる坂道だから。<br />菅原道真は、大宰府に左還される際、河内の伯母を訪ねたのですが、その途中、ここに立ち寄って井戸の水を口にしたということ。名前だけではなく、実際にゆかりがあるということであり、これは価値があるのではないかと思います。

    続いての天神坂は、天王寺七坂の六つ目。名前は、菅原道真を祀る安居神社へ通じる坂道だから。
    菅原道真は、大宰府に左還される際、河内の伯母を訪ねたのですが、その途中、ここに立ち寄って井戸の水を口にしたということ。名前だけではなく、実際にゆかりがあるということであり、これは価値があるのではないかと思います。

  • 安居神社は、天神坂から上ったところ。<br />

    安居神社は、天神坂から上ったところ。

  • 境内には真田幸村の碑がありまして、説明によれば、ここは、真田幸村の終焉の地だそうです。大坂夏の陣で真田幸村の本陣は茶臼山にありましたが、そんなに離れた場所ではありません。少しの距離しか離れていないことは、逆に、それだけ大軍に囲まれた中での激戦を物語っているような気もしました。紛れもなく英雄の死であり、日本人の潔さの美学と言ったバックボーンの一つになっていると思います。<br />

    境内には真田幸村の碑がありまして、説明によれば、ここは、真田幸村の終焉の地だそうです。大坂夏の陣で真田幸村の本陣は茶臼山にありましたが、そんなに離れた場所ではありません。少しの距離しか離れていないことは、逆に、それだけ大軍に囲まれた中での激戦を物語っているような気もしました。紛れもなく英雄の死であり、日本人の潔さの美学と言ったバックボーンの一つになっていると思います。

  • 逢坂は、天王寺七坂の最後です。ただ、今は国道25号となっているので、あまり情緒はありません。ただ、かつては急な坂だったらしく、明治になってから、大阪市電の建設に伴う拡張工事などで、今のような姿になったようです。

    逢坂は、天王寺七坂の最後です。ただ、今は国道25号となっているので、あまり情緒はありません。ただ、かつては急な坂だったらしく、明治になってから、大阪市電の建設に伴う拡張工事などで、今のような姿になったようです。

  • 向かいにある大きなお寺が一心寺。もう四天王寺に近い辺りですが、とっても人気があって、四天王寺に行く人よりもこっちの方が多いとも言われています。

    向かいにある大きなお寺が一心寺。もう四天王寺に近い辺りですが、とっても人気があって、四天王寺に行く人よりもこっちの方が多いとも言われています。

  • 浄土宗の寺ですが、宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れる寺として有名なんですよね。

    浄土宗の寺ですが、宗旨に関係なく参詣や納骨を受け入れる寺として有名なんですよね。

  • この日も境内は、焼香の煙でもうもうとしていました。<br />なお、大坂冬の陣、大坂夏の陣では、徳川家康の陣がこの寺に置かれていたということです。<br />

    この日も境内は、焼香の煙でもうもうとしていました。
    なお、大坂冬の陣、大坂夏の陣では、徳川家康の陣がこの寺に置かれていたということです。

  • 近くに清水寺というのもあって、これも回ってみます。ただ、住宅地の中を抜けていくので、ちょっと分かりづらいかも。<br />やっと聞いて辿り着くと、びっくりするくらい見晴らしの良い墓地。上町台地に位置することがはっきり実感されました。かつては、眼下に広がる市街地は大阪湾の海だったのかも。ちょっと雄大な気分になれました。なお、清水寺の方は本堂を改築中でした。

    近くに清水寺というのもあって、これも回ってみます。ただ、住宅地の中を抜けていくので、ちょっと分かりづらいかも。
    やっと聞いて辿り着くと、びっくりするくらい見晴らしの良い墓地。上町台地に位置することがはっきり実感されました。かつては、眼下に広がる市街地は大阪湾の海だったのかも。ちょっと雄大な気分になれました。なお、清水寺の方は本堂を改築中でした。

  • で、ここまで来たら四天王寺には寄らないわけにはいきませんね。<br />四天王寺の西大門の手前に大きな石鳥居があります。これまでは別に何とも思わなかったのですが、気づいて見ればお寺に鳥居っておかしいかも。<br />ただ、聖徳太子が四天王寺を創建した際、その守りとして、四天王寺七宮という神社が造られました。その名残のようです。

    で、ここまで来たら四天王寺には寄らないわけにはいきませんね。
    四天王寺の西大門の手前に大きな石鳥居があります。これまでは別に何とも思わなかったのですが、気づいて見ればお寺に鳥居っておかしいかも。
    ただ、聖徳太子が四天王寺を創建した際、その守りとして、四天王寺七宮という神社が造られました。その名残のようです。

  • ちなみに、四天王寺は、四天王寺式伽藍配置といわれ、

    ちなみに、四天王寺は、四天王寺式伽藍配置といわれ、

  • 南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並び、それを回廊が囲む形式。

    南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並び、それを回廊が囲む形式。

  • 回廊の内側に入って、五重塔と金堂の並ぶ姿を見上げると、法隆寺ととても雰囲気が似ています。

    回廊の内側に入って、五重塔と金堂の並ぶ姿を見上げると、法隆寺ととても雰囲気が似ています。

  • こんなに似ていたかなあと不思議な気持ちになりました。なお、五重塔は上まで登れるんですがけっこう大変だと聞いて、無理はしないことにしました。見上げるだけで十分感動します。

    イチオシ

    こんなに似ていたかなあと不思議な気持ちになりました。なお、五重塔は上まで登れるんですがけっこう大変だと聞いて、無理はしないことにしました。見上げるだけで十分感動します。

  • 境内をさらに散策。回廊の外にも見所はあります。

    境内をさらに散策。回廊の外にも見所はあります。

  • 四天王寺は、聖徳太子の時代ですから、唐門なんかは本来時代錯誤なんですが、これは徳川秀忠の再建した本坊西通用門。本坊というのは、四天王寺関係者の住まいですから、後世の様式であっても、邪魔にはならないということなんでしょう。

    四天王寺は、聖徳太子の時代ですから、唐門なんかは本来時代錯誤なんですが、これは徳川秀忠の再建した本坊西通用門。本坊というのは、四天王寺関係者の住まいですから、後世の様式であっても、邪魔にはならないということなんでしょう。

  • 五智光院は、本坊庭園とともに、有料エリア。この日は天気も良かったので、せっかくならと思って入ってみました。<br />建物は、入ってすぐ。入母屋造、瓦葺きの堂々たる構えで、徳川秀忠による再建。大日如来を中心とする五智如来像を安置し、徳川家代々の位牌も収めているそうです。内部の拝観はできません。

    五智光院は、本坊庭園とともに、有料エリア。この日は天気も良かったので、せっかくならと思って入ってみました。
    建物は、入ってすぐ。入母屋造、瓦葺きの堂々たる構えで、徳川秀忠による再建。大日如来を中心とする五智如来像を安置し、徳川家代々の位牌も収めているそうです。内部の拝観はできません。

  • 奥に進むと本坊庭園に入ります。<br /><br />

    奥に進むと本坊庭園に入ります。

  • いつごろ造られた庭かは分かりませんが、当然聖徳太子の頃にはなかったもの。方丈庭園の感じですが、方丈は禅宗の

    いつごろ造られた庭かは分かりませんが、当然聖徳太子の頃にはなかったもの。方丈庭園の感じですが、方丈は禅宗の

  • 大池の傍らにライトブルーの小さな洋風建物があって、それが八角亭でした。庭の景観のアクセント的な存在なのですが、まあ程々と言ったところ。ただ、近くで見るとステンドグラスが渋く光っていて、出来た当時は訪れる人の目を驚かせていたかもしれません。

    大池の傍らにライトブルーの小さな洋風建物があって、それが八角亭でした。庭の景観のアクセント的な存在なのですが、まあ程々と言ったところ。ただ、近くで見るとステンドグラスが渋く光っていて、出来た当時は訪れる人の目を驚かせていたかもしれません。

  • 東光院は、四天王寺の中にあって、グーグルの地図にも表示されているのですが、四天王寺のパンフレットなどには載っていません。というのも、私的な住居であって、公的な建物ではないからです。したがって、内部の拝観等も一切ありません。

    東光院は、四天王寺の中にあって、グーグルの地図にも表示されているのですが、四天王寺のパンフレットなどには載っていません。というのも、私的な住居であって、公的な建物ではないからです。したがって、内部の拝観等も一切ありません。

  • 中之院も、東光院と同じように、四天王寺の中にはあるのですが、私的な居住区。公的な建物ではないので、お寺のパンフレットにも載っていません。ここがそうですかと聞いても、四天王寺の関係者でないと知っている人はいませんので、ご注意を。

    中之院も、東光院と同じように、四天王寺の中にはあるのですが、私的な居住区。公的な建物ではないので、お寺のパンフレットにも載っていません。ここがそうですかと聞いても、四天王寺の関係者でないと知っている人はいませんので、ご注意を。

  • 六時礼讃堂は、実質的には当寺の中心道場。主要な伽藍建物は、聖徳太子の遺産と言った性格も強いし、当時は言わば寺は学問所でしたから、たぶん、その後の宗教的な活動のためにはこうした施設が必要になったのだと思います。<br />六時礼讃堂の名は、昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから。薬師如来・四天王等をお祀りしているようです。いわゆる我々のイメージするお寺に一番近い施設でしょう。<br />

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    六時礼讃堂は、実質的には当寺の中心道場。主要な伽藍建物は、聖徳太子の遺産と言った性格も強いし、当時は言わば寺は学問所でしたから、たぶん、その後の宗教的な活動のためにはこうした施設が必要になったのだと思います。
    六時礼讃堂の名は、昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから。薬師如来・四天王等をお祀りしているようです。いわゆる我々のイメージするお寺に一番近い施設でしょう。

  • 総本山四天王寺宝物館は、四天王寺の宝物を展示しているのですが、そのもっとも有名なのは扇面法華経。私的には、平家納経と並んで、日本では一番美しい和紙の芸術品だと思うのですが、あいにくこの日は休館中。ただ、扇面法華経は、展示はあってもレプリカの場合もあるし、どこかの美術館の企画展に出されたりすることもあるので、気を付けていればちょこちょこ見る機会はあります。

    総本山四天王寺宝物館は、四天王寺の宝物を展示しているのですが、そのもっとも有名なのは扇面法華経。私的には、平家納経と並んで、日本では一番美しい和紙の芸術品だと思うのですが、あいにくこの日は休館中。ただ、扇面法華経は、展示はあってもレプリカの場合もあるし、どこかの美術館の企画展に出されたりすることもあるので、気を付けていればちょこちょこ見る機会はあります。

  • 境内の一角に聖霊院という建物があります。これは、聖徳太子を祀り、聖徳太子信仰の施設。聖徳太子は、日本に仏教を受け入れたであり、それだけでも特別な存在なのですが、その並外れた言動というか思想というかは、日本人にとってはちょっと並ぶ人がいないほど抜きんでているし、庶民に根強い人気のあるのも他の追従を許さないところ。<br />

    境内の一角に聖霊院という建物があります。これは、聖徳太子を祀り、聖徳太子信仰の施設。聖徳太子は、日本に仏教を受け入れたであり、それだけでも特別な存在なのですが、その並外れた言動というか思想というかは、日本人にとってはちょっと並ぶ人がいないほど抜きんでているし、庶民に根強い人気のあるのも他の追従を許さないところ。

  • 建物は昭和になって再興されたもののようですが、緩やかな屋根の傾斜とか、唐招提寺の食堂みたいで、まさしく飛鳥の匂いがプンプン。いい建物です。

    イチオシ

    建物は昭和になって再興されたもののようですが、緩やかな屋根の傾斜とか、唐招提寺の食堂みたいで、まさしく飛鳥の匂いがプンプン。いい建物です。

  • 以上で、四天王寺はおしまい。新世界に向かいましょう。

    以上で、四天王寺はおしまい。新世界に向かいましょう。

  • その前に、総本家釣鐘屋は、四天王寺の参道にあるお菓子屋さん。明治創業のお店と言うことですが、趣のある店構えが目立っています。しかし、釣鐘って何でしょう。尋ねると、四天王寺にあった大きな釣鐘に因むもの。しかし、釣鐘は、太平洋戦争の供出でなくなってしまったんだそうで。

    その前に、総本家釣鐘屋は、四天王寺の参道にあるお菓子屋さん。明治創業のお店と言うことですが、趣のある店構えが目立っています。しかし、釣鐘って何でしょう。尋ねると、四天王寺にあった大きな釣鐘に因むもの。しかし、釣鐘は、太平洋戦争の供出でなくなってしまったんだそうで。

  • ここのお菓子がそれを偲ぶものとなりました。お菓子は、人形焼きのような感じです。

    ここのお菓子がそれを偲ぶものとなりました。お菓子は、人形焼きのような感じです。

  • ちょっと距離がありましたが、なんとか大阪市立美術館に到着。<br />

    ちょっと距離がありましたが、なんとか大阪市立美術館に到着。

  • だいぶ昔になりますが、円山応挙展を見たことがあって、国宝「雪松図屏風」を見たのもその時。孔雀の絵とかがよくあるんですが、この絵は、雪を白抜きにするという奇抜な描写。今でも強く印象に残っています。

    だいぶ昔になりますが、円山応挙展を見たことがあって、国宝「雪松図屏風」を見たのもその時。孔雀の絵とかがよくあるんですが、この絵は、雪を白抜きにするという奇抜な描写。今でも強く印象に残っています。

  • ただ、今回は常設展。入るといきなり、伊藤若冲の鶏の屏風。墨一色で自在に描いた、これぞ伊藤若冲の得意中の得意と言ったものでした。常設展と言っても質量が充実。一方で、円山応挙の作品は限られていて、ちょっと残念に思いました。

    ただ、今回は常設展。入るといきなり、伊藤若冲の鶏の屏風。墨一色で自在に描いた、これぞ伊藤若冲の得意中の得意と言ったものでした。常設展と言っても質量が充実。一方で、円山応挙の作品は限られていて、ちょっと残念に思いました。

  • 再び外に出て。<br />慶沢園は、大阪市立美術館と茶臼山の間に入口がありますが、27年3月末まで改修工事のようで、残念ながら閉園中でした。<br />ただ、ここは豪商・住友家15代吉左衛門が住友家の本邸とともに大阪市に寄贈したもの。庭園の設計は明治に活躍した小川治兵衛であり、とても価値ある日本庭園でしょう。<br />

    再び外に出て。
    慶沢園は、大阪市立美術館と茶臼山の間に入口がありますが、27年3月末まで改修工事のようで、残念ながら閉園中でした。
    ただ、ここは豪商・住友家15代吉左衛門が住友家の本邸とともに大阪市に寄贈したもの。庭園の設計は明治に活躍した小川治兵衛であり、とても価値ある日本庭園でしょう。

  • 天王寺公園の中にある茶臼山は、周囲を濠に囲まれた前方後円墳。<br />

    天王寺公園の中にある茶臼山は、周囲を濠に囲まれた前方後円墳。

  • ただ、ここは、大坂冬の陣では徳川家康の本陣となり、夏の陣では真田幸村の本陣となって、最大の激戦地となった舞台。有名な天王寺口の戦いでは、真田幸村が家康を追い詰めあと一歩に迫ったことなど、まさに歴史に残る戦いとなりました。

    ただ、ここは、大坂冬の陣では徳川家康の本陣となり、夏の陣では真田幸村の本陣となって、最大の激戦地となった舞台。有名な天王寺口の戦いでは、真田幸村が家康を追い詰めあと一歩に迫ったことなど、まさに歴史に残る戦いとなりました。

  • 天王寺公園は、大阪のミナミを代表する公園ですが、具体的なイメージとしては天王寺動物園のある公園と言った方が分かりやすいかも。茶臼山から通天閣の新世界へは、幅の広い回廊で結ばれているので、回遊性も抜群です。

    天王寺公園は、大阪のミナミを代表する公園ですが、具体的なイメージとしては天王寺動物園のある公園と言った方が分かりやすいかも。茶臼山から通天閣の新世界へは、幅の広い回廊で結ばれているので、回遊性も抜群です。

  • 新世界に入って。

    新世界に入って。

  • スマートボールは、四万温泉など、古くからの温泉地ではたまに見かけますが、新世界にもニュースターというスマートボールの店がありました。パチンコなんかと違って、二人が並んで腰かけて、あれこれしゃべりながらでも遊戯できるという、のどかな感じがいいですね。

    スマートボールは、四万温泉など、古くからの温泉地ではたまに見かけますが、新世界にもニュースターというスマートボールの店がありました。パチンコなんかと違って、二人が並んで腰かけて、あれこれしゃべりながらでも遊戯できるという、のどかな感じがいいですね。

  • ビリケン神社のビリケンは、通天閣にあるのが有名なんですけど、こちらは神社ですか。どっちにしても、コテコテの大阪の象徴なんですが、実はルーツは海の向こうのアメリカ。女性芸術家のフローレンス・プリッツという人が制作した像なんだそうです。

    ビリケン神社のビリケンは、通天閣にあるのが有名なんですけど、こちらは神社ですか。どっちにしても、コテコテの大阪の象徴なんですが、実はルーツは海の向こうのアメリカ。女性芸術家のフローレンス・プリッツという人が制作した像なんだそうです。

  • 大阪国技館跡は、スパワールドの階段を下りたところ。ちょっとした空地のような場所に石柱が建っていました。<br />ここに東京の両国国技館に匹敵する施設が出来たのは大正8年のこと。建坪500坪、収容人員10,000人という巨大さでしたが、さすがに最後はその巨大さを持て余してしまうことになってしまったようです。

    大阪国技館跡は、スパワールドの階段を下りたところ。ちょっとした空地のような場所に石柱が建っていました。
    ここに東京の両国国技館に匹敵する施設が出来たのは大正8年のこと。建坪500坪、収容人員10,000人という巨大さでしたが、さすがに最後はその巨大さを持て余してしまうことになってしまったようです。

  • で、ここでの楽しみと言えば、なんといっても串カツとどて焼きでしょう。<br />八重勝は、ジャンジャン横丁にある超人気の串カツ屋さん。夕方だとものすごい行列なので、少し早めだったので行列は限られていました。

    で、ここでの楽しみと言えば、なんといっても串カツとどて焼きでしょう。
    八重勝は、ジャンジャン横丁にある超人気の串カツ屋さん。夕方だとものすごい行列なので、少し早めだったので行列は限られていました。

  • 隣りのてんぐのどて焼きが素晴らしくうまかったので、ちょっと食べ比べをしようと思ったのですが、どて焼きはてんぐの方がうまいかなあ。出汁のこくで差がつきます。

    イチオシ

    隣りのてんぐのどて焼きが素晴らしくうまかったので、ちょっと食べ比べをしようと思ったのですが、どて焼きはてんぐの方がうまいかなあ。出汁のこくで差がつきます。

  • しかし、ここの特徴は串焼きでしょう。それも、ころもがいいですねえ。素材をしっかりつつんだころもの存在感が程よく、豊かな味を醸し出しています。串カツなんて同じと思ったら大間違い。同じようでも、それぞれ特徴がある。なかなか奥深いものだと思います。

    しかし、ここの特徴は串焼きでしょう。それも、ころもがいいですねえ。素材をしっかりつつんだころもの存在感が程よく、豊かな味を醸し出しています。串カツなんて同じと思ったら大間違い。同じようでも、それぞれ特徴がある。なかなか奥深いものだと思います。

  • 鶴亀家は、ずぼらやなどがある新世界のメインストリート沿い。名前の通り、鶴と亀の大きなモニュメントがお店の看板になっていて、ド派手な新世界にあっても、ちゃんと目立っています。

    鶴亀家は、ずぼらやなどがある新世界のメインストリート沿い。名前の通り、鶴と亀の大きなモニュメントがお店の看板になっていて、ド派手な新世界にあっても、ちゃんと目立っています。

  • ここでも、自慢のどて焼きをいただきました。他の店では、串に刺さって、串から食べるんですが、こちらは皿にばらばらと乗っているのもあって、ネギが掛かっているし、なるほどそれぞれ違いますねえ。で、お味の方は、どちらかといえば、あっさり系。食べ始めのインパクトはイマイチですが、食べているうちにうまさが浸みてくる。やはりおいしいです。<br />ただ、お店全体としては飲み屋さん。酒のつまみのメニューが充実しています。

    イチオシ

    ここでも、自慢のどて焼きをいただきました。他の店では、串に刺さって、串から食べるんですが、こちらは皿にばらばらと乗っているのもあって、ネギが掛かっているし、なるほどそれぞれ違いますねえ。で、お味の方は、どちらかといえば、あっさり系。食べ始めのインパクトはイマイチですが、食べているうちにうまさが浸みてくる。やはりおいしいです。
    ただ、お店全体としては飲み屋さん。酒のつまみのメニューが充実しています。

  • 新世界自体がけっこうディープだと思いますが、この新世界市場はさらにディープ。

    新世界自体がけっこうディープだと思いますが、この新世界市場はさらにディープ。

  • 開いているのか開いていないのか。営業しているのかどうかも分からない店もたくさんあるのですが、それでも商店街としては成り立っている。不思議な商店街です。

    開いているのか開いていないのか。営業しているのかどうかも分からない店もたくさんあるのですが、それでも商店街としては成り立っている。不思議な商店街です。

  • その新世界市場の入口にあるのが肉のさかもと。1500円のでかいビーフカツサンドの看板がインパクトありますね。これがあまりにもうまそうだったので、小さいのをいただきました。<br />

    その新世界市場の入口にあるのが肉のさかもと。1500円のでかいビーフカツサンドの看板がインパクトありますね。これがあまりにもうまそうだったので、小さいのをいただきました。

  • 肉そのものうまみを大事にしているので、味付けはびっくりするくらい薄味。注文するとそれから揚げてくれるのでちょっと待ちますが、価値あるビーフカツサンドだと思います。

    肉そのものうまみを大事にしているので、味付けはびっくりするくらい薄味。注文するとそれから揚げてくれるのでちょっと待ちますが、価値あるビーフカツサンドだと思います。

  • 新世界稲荷神社は、新世界商店街から少し脇に入ったところ。夕方でしたが、ぼんやり灯がともって、ちゃんと手が入っているような感じです。街の稲荷さんは、やっぱり地元の人がお世話しないと成り立たない。そこの加減がいいところでしょう。

    新世界稲荷神社は、新世界商店街から少し脇に入ったところ。夕方でしたが、ぼんやり灯がともって、ちゃんと手が入っているような感じです。街の稲荷さんは、やっぱり地元の人がお世話しないと成り立たない。そこの加減がいいところでしょう。

  • 釣鐘屋って、四天王寺の近くにありましたけど、こちらの総本家釣鐘屋本舗は、新世界の中。同じお店ですかと聞くと、ルーツは同じでも違います。味も違いますとのことで、では食べ比べ。

    釣鐘屋って、四天王寺の近くにありましたけど、こちらの総本家釣鐘屋本舗は、新世界の中。同じお店ですかと聞くと、ルーツは同じでも違います。味も違いますとのことで、では食べ比べ。

  • こっちの方が包装も凝っているし、いくぶん華やかな味がするような。バターが多めに入っているとかそんなことなんでしょうが、人形焼きのような基本的なおいしさは同じでしょう。

    こっちの方が包装も凝っているし、いくぶん華やかな味がするような。バターが多めに入っているとかそんなことなんでしょうが、人形焼きのような基本的なおいしさは同じでしょう。

  • 小西来山十萬堂跡は、阪堺線の終点駅ちかく。鉄の囲いに守られた石碑です。<br />ちなみに、来山は元禄時代の俳人。蕉風に近い正統派の俳人。酒を愛して句作三昧の生活。晩年、ここに寓居して十萬堂と称したということです。<br />

    小西来山十萬堂跡は、阪堺線の終点駅ちかく。鉄の囲いに守られた石碑です。
    ちなみに、来山は元禄時代の俳人。蕉風に近い正統派の俳人。酒を愛して句作三昧の生活。晩年、ここに寓居して十萬堂と称したということです。

  • いさみ蒲鉾店は、新世界を出て今宮戎神社に向かう途中。交差点の角にあるお店です。出来立てのイカ天をいただきました。

    いさみ蒲鉾店は、新世界を出て今宮戎神社に向かう途中。交差点の角にあるお店です。出来立てのイカ天をいただきました。

  • 熱々のイカ天は、ちょっと甘めの味付け。ふわふわの蒲鉾のおいしさをよく引き出しています。かまぼこにもいろんな味があるなあとちょっと感心してしまいました。

    熱々のイカ天は、ちょっと甘めの味付け。ふわふわの蒲鉾のおいしさをよく引き出しています。かまぼこにもいろんな味があるなあとちょっと感心してしまいました。

  • ということでやってきた今宮戎神社は、商売繁盛の神様「えべっさん」。毎年1月9日から11日に十日戎が開催されることでも有名です。しかし、見た感じは、そんな難波の豪快なイメージではなく、意外にこじんまりした神社だなあという印象。境内に楠木を植えた鉢が置いてあって、おみくじがたくさん結わえてありました。何か意味があると思ったのですが、巫女さんに聞いても分かりませんでした。

    ということでやってきた今宮戎神社は、商売繁盛の神様「えべっさん」。毎年1月9日から11日に十日戎が開催されることでも有名です。しかし、見た感じは、そんな難波の豪快なイメージではなく、意外にこじんまりした神社だなあという印象。境内に楠木を植えた鉢が置いてあって、おみくじがたくさん結わえてありました。何か意味があると思ったのですが、巫女さんに聞いても分かりませんでした。

  • 広田神社は、今宮戎神社から。歩いて数分の場所です。<br />この辺り天王寺の鎮守。アカエの絵馬というのがあって、痔疾の平癒を祈り、全快の報賽にアカエの絵馬を捧げるのだそうです。ただ、外観では普通の神社で、特に特徴はありません。

    広田神社は、今宮戎神社から。歩いて数分の場所です。
    この辺り天王寺の鎮守。アカエの絵馬というのがあって、痔疾の平癒を祈り、全快の報賽にアカエの絵馬を捧げるのだそうです。ただ、外観では普通の神社で、特に特徴はありません。

  • もうかなり歩いてきてますが、こうなったらついでに大阪木津卸売市場へ。生鮮市場なので、朝行かないと活気ある姿は見れないのでしょうが、時間の都合もあって、行ったのは夕方。閑散とはしていましたが、大量買いのスーパーのような売り場があるし、軽食のコーナーもあって、ちょこちょこ人がいました。がらんとした空間でしたが、朝だとここが賑わうんでしょうね。。<br />では、今日もこれから京都の定宿に帰ります。

    もうかなり歩いてきてますが、こうなったらついでに大阪木津卸売市場へ。生鮮市場なので、朝行かないと活気ある姿は見れないのでしょうが、時間の都合もあって、行ったのは夕方。閑散とはしていましたが、大量買いのスーパーのような売り場があるし、軽食のコーナーもあって、ちょこちょこ人がいました。がらんとした空間でしたが、朝だとここが賑わうんでしょうね。。
    では、今日もこれから京都の定宿に帰ります。

  • ただ、難波で途中下車。もう暗いですが、ちょこっと散策しましょうか。<br />なんばグランド花月は、吉本の総本山といったところ。吉本新喜劇とかテレビで見れるんですが、やっぱり生は違います。3回くらい行きましたが、始まりの客いじりから、もうどっかんどっかん笑いを取って、一気に場が盛り上がる。こんなのテレビで見てるからもういいといってる人。生を見ないとやっぱり大阪のお笑いの凄さはわかりませんよ。

    ただ、難波で途中下車。もう暗いですが、ちょこっと散策しましょうか。
    なんばグランド花月は、吉本の総本山といったところ。吉本新喜劇とかテレビで見れるんですが、やっぱり生は違います。3回くらい行きましたが、始まりの客いじりから、もうどっかんどっかん笑いを取って、一気に場が盛り上がる。こんなのテレビで見てるからもういいといってる人。生を見ないとやっぱり大阪のお笑いの凄さはわかりませんよ。

  • 戎橋筋に入ってすぐにあるのはほっぷしゅうくりーむ。シュークリームの専門店なら、これは気になります。

    戎橋筋に入ってすぐにあるのはほっぷしゅうくりーむ。シュークリームの専門店なら、これは気になります。

  • 注文すると、それからクリームを詰めてくれるんですね。やっぱり、クリームが新鮮な感じ。一方で、シューはカリッとした固めです。その組み合わせが意外にも新味があって、いい感じ。そのままかじるとクリームがはみ出すので歩き食べにはちょっとやっかいですけど、上手に食べればOK。まあ範囲内かなと思います。

    注文すると、それからクリームを詰めてくれるんですね。やっぱり、クリームが新鮮な感じ。一方で、シューはカリッとした固めです。その組み合わせが意外にも新味があって、いい感じ。そのままかじるとクリームがはみ出すので歩き食べにはちょっとやっかいですけど、上手に食べればOK。まあ範囲内かなと思います。

  • 中座くいだおれビルは、 どうしてなんだか、くいだおれ太郎の人形が撤去されて、どうなっているんだろうと心配で覗いて見たんですが、かつての雰囲気はさほど変わっていないような。キャラクター自体はなくなっていないので、店内にはくいだおれ太郎の顔があちこち。まあ、この程度でも十分存在感があると思います。

    中座くいだおれビルは、 どうしてなんだか、くいだおれ太郎の人形が撤去されて、どうなっているんだろうと心配で覗いて見たんですが、かつての雰囲気はさほど変わっていないような。キャラクター自体はなくなっていないので、店内にはくいだおれ太郎の顔があちこち。まあ、この程度でも十分存在感があると思います。

  • 岸本水府句碑は、老舗のうどん店、道頓堀今井の前にあります。<br />ちなみに、岸本水府は、大正・昭和初期の川柳作家。大阪の企業であるグリコ、福助、サントリーなどの広告を手掛け、グリコの「一粒300メートル」のコピーは水府の作ったもの。記憶にしっかり残る言葉です。

    岸本水府句碑は、老舗のうどん店、道頓堀今井の前にあります。
    ちなみに、岸本水府は、大正・昭和初期の川柳作家。大阪の企業であるグリコ、福助、サントリーなどの広告を手掛け、グリコの「一粒300メートル」のコピーは水府の作ったもの。記憶にしっかり残る言葉です。

  • 太左衛門橋もチェックします。<br />橋の名前は、橋のすぐに歌舞伎の小屋を開いた大坂太左衛門から。江戸時代初期に、ここに芝居や遊郭が公認されたことで、京都から進出したのだそうです。道頓堀にはいくつも橋が架かっているのですが、ここも歴史を秘めた橋の一つです。

    太左衛門橋もチェックします。
    橋の名前は、橋のすぐに歌舞伎の小屋を開いた大坂太左衛門から。江戸時代初期に、ここに芝居や遊郭が公認されたことで、京都から進出したのだそうです。道頓堀にはいくつも橋が架かっているのですが、ここも歴史を秘めた橋の一つです。

  • いや、もう真っ暗。遅くなってしまいました。<br />明日は、最終日。枚方の周辺を歩きます。

    いや、もう真っ暗。遅くなってしまいました。
    明日は、最終日。枚方の周辺を歩きます。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • スーパーこひつじさん 2018/02/09 20:32:56
    すごい、こんなところがあったんですねぇ!
     すーぱーこひつじと申します。勝手ながらたびたびさんの旅行記(大阪)を読ませていただきました。自分は大阪が行ったとき、どうしても中心部(梅田、心斎橋、道頓堀)にしか目が行かないのですが、たびたびさんの旅行記を見たときに今年もまた大阪に行こうと決心しました。

     黒門市場って場所があったのですね!家族にいいお土産を買ってくることができそうです。写真にのってた大和果園という場所のレモンドーナツや大福類おいしそう!さしつかえなければ、またたびたびさんの旅行記を読ませていただき自分の行先を増やしていこうと思います。それでは失礼しました。

    たびたび

    たびたびさん からの返信 2018/02/10 08:28:20
    RE: すごい、こんなところがあったんですねぇ!
    ディープな大阪へ、ようこそ!すーぱーこひつじさんの目にとめていただき、ありがとうございます。
    ただ、こんな世界に目覚めると、もう抜け出せなくなるかもしれませんので、ご注意ください(笑)
    たびたび

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