2013/05/21 - 2013/05/26
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旅人のくまさんさん
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ウルワツ寺院の一角で開催された、ケチャダンスの紹介です。焚火の明かりの中、男性合唱をベースに、『ラーマーヤナ』の物語を題材とする舞踏劇の様式で演じられました。(ウィキペディア、るるぶ・バリ島)
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バリ島に押し寄せるインド洋の荒波の光景です。7~80メートルとされる断崖に押し寄せては、白い泡を作っていました。その沖合には、次々と押し寄せる波の列が連なっていました。荒波と表現するよりは、インド洋の呼吸のような秩序だった波の光景でした。
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イチオシ
バリ島に押し寄せるインド洋の荒波のズームアップ光景です。インド洋の呼吸のような波が、岸壁に押し寄せては吐く白い息、と表現したくなる光景でした。繰り返されるそのリズムは、普段の生活では忘れ去ってしまいそうな、ゆったりとして、悠揚迫らないものでした。
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繰り返し波に洗われていた、岸壁近くの小岩のズームアップ光景です。岩の濃い色が、白い波頭で、一層際立っていました。先端が尖った三角形をした、おにぎりのような小岩でした。
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崖の上に微かに見える『メル(多重塔)』と呼ばれるウルワツ寺院の建物です。バリのヒンドゥ教が現在みられる形になったのは、幾人かの僧侶の功績と長い年月がかかったとされます。8世紀初頭の高僧ルシ・マルカンディア、11世紀初頭の高僧クトゥラン、そして16世紀半ばに活躍した東ジャワの僧侶・ニラルタの名が、歴史上登場します。(ふしぎなはなし・タイガ)
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ニラルタは、ゲルゲル王国(マジャパイト王国により建国された王国)のワトゥレンゴン王の治世中だった1546年頃に、家族と共のバリに渡ってきました。そして、バリの村々に広まっていた疫病を、聖水の霊力によって治したといわれています。ニラルタは、この王に仕え、王権と祭司のパートナーシップの中でいくつかの功績を残しました。ニラルタが補佐した、この時代がゲルゲル王朝の最盛期で、ジャワ・ヒンドゥーの成熟した宗教、哲学、芸能は、バリ古来の文化と融合して独特の文化を開花しました。トペン(仮面)劇、ガンブー劇、ワヤン・クリッ(影絵芝居)、宮廷音楽(ガムラン)など、王を褒め称える芸能を創作しました。また、緻密な彫刻・絵画が、宮廷に奉納されました。(同上)
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70メートルの高さの崖の上に建つ、三重建物の『メル(多重塔)』のズームアップ光景です。ニラルタの建設と伝わります。ニラルタ自身、優秀な演じ手で、ゲルゲル王国の民衆の心を掴んでいきました。彼は、古代ジャワ語で書かれたインド起源の韻律を用いたカカウィンと言われる複雑な詠唱歌を、神秘的に歌いあげました。(同上)
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同じく、崖の端に建つ、ウルワツ寺院の『メル(三重塔)』の光景です。ここで、これから始まるケチャック・ダンスについて説明しておきます。『ケチャ(kecak)』とは、インドネシアのバリ島で行われる男声合唱、または呪術的な踊り(サンヒャン)にともなう舞踏劇のことです。バリ島では「k」を発音しないため、現地では『チャ』と呼ばれています。(ウィキペディア)
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『ケチャ』の紹介が続きます。バリ島の伝統的な舞踏、『サンヒャン』がそのベースになったとされます。サンヒャンは、疫病が蔓延したときなどに、童女を媒体にして祖先の霊を招き、加護と助言を求めるものでした。これに対して現在のケチャは、『ラーマーヤナ』の物語を題材とする舞踏劇の様式で演じられています。(同上)
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ケチャの『芸能化』が進められたのは、1920年代後半から1930年代にかけて、バリ人と共にバリ芸術を発展開花させたドイツ人画家、ヴァルター・シュピースの提案によるものでした。シュピースは、1920年代後半からウブド村の領主チョコルド・グデ・ラコー・スカワティに招かれてウブドに在住した画家・音楽家です。(同上)
*写真はケチャ・ダンスが演じられる中心場所の光景です。 -
イチオシ
シュピースは、現地の芸術家と親交を結びながらケチャやバリ絵画などの「バリ芸術」を形作っていきました。ある著名なバリ人舞踏家がサンヒャン・ドゥダリの男声合唱にバリス舞踊の動きを組み込ませたのを見たシュピースは、ガムランの代わりにこの男声合唱のみを使って『ラーマーヤナ』のストーリーを組み込んだ舞踊を提案しました。(同上)
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シュピースの提案を受けたプドゥル村の人々が、1933年にボナ村の人々とともに、総勢160名で試みたのが、最初のケチャとされます。その2年後の1935年にボナ村の人びとがさらに発展させたケチャを上演し、これが今のケチャの原型になりました。こうして、その後の1950~1960年代頃には、一般に観光向けに上演される舞踏劇としての様式が確立しました。今日、最も盛んなプリアタン村でケチャが始まったのも1966年です。(同上)
*写真は、割れ門と、ケチャ・ダンス演技場の飾りつけの光景です。 -
さらに、ケチャはバリ島のみならず世界に広がり、日本では芸能山城組が上演しています。山城組は1972年にバリ人以外で世界で初めて上演して以来、毎年新宿三井ビル55ひろばにて、ケチャまつりが行なわれています。他のバリ舞踏でも言われることですが、ケチャは各地の舞踏団により出演人数・技能水準が大きく異なります。なお、数人で行われるコミカルな合唱も、広く一般に『ケチャ』と呼ばれていまする。
*写真は割れ門から眺めたインド洋方面の光景です。 -
お祭り広場の中心に松明に火が灯され、ケチャ・ダンスの雰囲気が次第に盛り上がってきました。上半身裸で腰布を巻いた数十人(百人を超えることもあります)の男性が、幾重にも重なった円陣を組んであぐら座りをします。今は、その前段階の踊りの模様です。(同上)
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次第に中央の松明を取り囲む人数が増えてきました。お揃いのタータン模様の腰布を身に着けていました。日本ではタータン・チェックとも呼ばれるこの文様の故郷は、スコットランドです。特にハイランド地方の民族文化と強く結びついていて、民族衣装であるキルトは通常、タータンによって仕立てられます。(同上)
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ケチャの合唱は、端的に言えば『打楽器で表現すべきメロディのないリズム・パートを、口三味線で唱えるもの』です。主旋律を刻むのが『タンブール』と呼ばれるパートです。これは単独で『シリリリ・プン・プン・プン』と発声しながら、メトロノームのように基本的な四拍子を刻み、全体のリズムを保ちます。(同上)
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立っていた人達が、外回りの人から中腰姿勢になりました。中央付近の人達はまだ立ったままです。両手を上げる仕草は同じでした。中には、背中全体にタトゥを入れた人もいました。そう言えば、魏志倭人伝で描かれた昔の倭人の男子はタトゥを入れていたことが『男子無大小皆黥面文身』、と記されています。(同上)
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全員が胡坐を組んで、車座になりました。車座は、この写真では中央やや左奥がこの後の演技者の出入り場所として、隙間が開けられていました。先程は『タンブール』のパートを紹介しましたが、『プポ』は、単独でメロディーを歌います。そして、この2人以外の全員が四つのパートに分かれて座り、サルの鳴き声を模倣したピッチを持たない『チャッ』『チャッ』ににた発声を行います。(同上)
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『ブボ』の四つのパートとは、次のものです。
①プニャチャ:四拍子の間に「チャ」という叫び声を7回入れる。
②チャク・リマ:四拍子の中に「チャ」を5回入れる。
③チャク・ナム:四拍子の中に「チャ」を6回入れる。
④プニャンロット:チャク・ナムを16分の1後ろにずらして刻む。(同上) -
このようにそれぞれのパートが一定のリズム・パターンを持っており、これが全体として合わさると『ケチャケチャケチャケチャ』という、16ビートのリズムのように聞こえます。『ケチャ』という呼称はこれによるとされます。ところで、売る割る寺院の境内は、猿の生息地としても有名です。今回も、現地ガイドさんから、帽子やメガネなどを取られないよう注意がありました。(同上)
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イチオシ
ここで、ネットから、その体験談の紹介です。『ガイドの注意で、「猿がサングラスを取っていく」、私はサングラスをしてないので大丈夫と、思っていると、何と、メガネをとっていかれた、その早技に、唖然、そこに、サルの餌を売るおばさん登場、買って、餌をばら撒くと、メガネを手放した。なーんだ連携商売か』、通常は、取られた品はなかなか戻ってこないようです。(同上)
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この後の紹介になりますが、『ラーマーヤナ』物語を題材としたバリ舞踊の踊りが円陣の中央の空間に次々と登場し、舞踊劇の様式で行われます。男たちはリズムを刻むだけでなく、劇の進行に伴って合唱を行うこともあります。また、さまざまな手や体の動きで、劇の背景としての表現も行います。(同上)
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『バロン』、『レゴン』と並んで、バリ島の三大舞踊のひとつに数えられる『ケチャ』です。ケチャダンスやケチャックダンスとも表記されます。『ケチャ』は、古い歴史がある舞踊のように感じますが、先に紹介したように、現在のスタイルで踊るようになったのは、まだ100年足らずです。一番の功績者は、ドイツ人画家で、音楽家の『ヴァルター・シュピース(1895~1942年)です。(同上)
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『シュピース』の紹介です。1895年、ロシア帝国・モスクワのドイツ人外交官を務める裕福な商家の次男として生まれました。音楽、舞踊、絵画教育を受けるなど裕福で恵まれた少年時代を過ごしますが、第一次世界大戦中にはウラルの敵国人抑留キャンプに収容されました。この時に遊牧民族の生活に触れた体験がきっかけとなり、アジアへの関心を高めたとされます。(同上)
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『シュピース』の紹介が続きます。ドイツへ帰還してからは、しばらく画家としての生活を過ごし、1923年にヨーロッパを離れ、オランダ領東インドに向かいジャワに到着しました。ジョグジャカルタの宮廷で、スルタンの宮廷楽団における音楽監督の職を得ました。1925年に初めてバリを訪れると、その魅力に感化され、2年後に移住を決意しました。(同上)
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シュピースは、当時のウブド領主『チョコルダ・スカワティ(1899~1967年)』に招待されるかたちで、1928年にチャンプアン渓谷に居を構えました。ウブドのスタジオを中心に絵画の制作活動を始め『風景と子供たち』などの代表作を残し、音楽、舞踊、絵画といった分野でバリ文化に多大な影響を及ぼしました。(同上)
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シュピースは、画家としてはもとより、現代バリ芸術の父としても知られます。シュピースはドイツ語、ロシア語、英語、フランス語、オランダ語、ジャワ語、バリ語を流暢に操ることができ、彼のもとにはさまざまな国からの芸術家、学者が集まり、現地のバリ人とともに芸術サロンの中心を形成しました。(同上)
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シュピースらは、毎週土曜日にウブドの王宮前で観光客向けの土産物としてバリ人の描く絵画の品評会を開き、優秀な絵を買い上げ欧米のギャラリーや展覧会に出展したり、ホテルに売却などしました。この過程から、バリ人たちは欧米人の好みを把握し、それを『バリの伝統』として受け入れ、具体化していきました。(同上)
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1920年代末にシュピースは、バリのガムラン音楽を録音し、ニューヨークのオデオン社からレコードとして出しました。さらには、1931年のパリ植民地博覧会では、バリのガムラン音楽と舞踊団、美術・工芸品を出展するのに尽力するなど、西洋へのバリ紹介でも大きな役割を果たしました。(同上)
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ジュピースは、1936年に宗教儀礼劇としてのチャロナラン劇を観光客向けの商業用パフォーマンスとして組織させたり、サンヒャン・ドゥダリと呼ばれる宗教舞踊から観光用のケチャを創出・改良することにも深く関わりました。このことからシュピースは、『現代バリ芸術の父』として湛えられています。(同上)
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1940年5月ドイツがオランダを占領すると、シュピースは敵国人として蘭印政府に捕えられ、ジャワ、スマトラへ抑留されます。1942年1月、日本軍の侵攻により、ほかの収容者たちとスマトラ島パンダンから移送船「ファン・イムホフ」に乗せられ、セイロン島へ移送されますが、途中日本軍機の攻撃を受けて船が沈没、他のドイツ人と共に溺死しました。(ファン・イムホフ号事件)。(同上)
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