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 バリ島の王宮跡を見学の後、暫くの間ウブド芸術村を自由散策しました。『バリ島文化の中心地』と称されるエリアです。(ウィキペディア、るるぶ・バリ島)

2013春、インドネシア旅行記2(10/33):5月22日(7):バリ島、王宮跡、ウブド芸術村、バロンと守護神

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2013/05/21 - 2013/05/26

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

 バリ島の王宮跡を見学の後、暫くの間ウブド芸術村を自由散策しました。『バリ島文化の中心地』と称されるエリアです。(ウィキペディア、るるぶ・バリ島)

  • 頂部に王冠の飾りがあった、格式高そうな瓦屋根の光景です。王宮の建物の一部のようでした。紹介が遅れましたが、ウブド王宮(プリ・サレン)の歴史は、16世紀から始まったと言われています。1908年からオランダによるバリ島の植民化が始まるまでの間、ウブド王政時代の政治と文化の中心で有り続けたウブド王宮です。(タビナカ・マガジン)

    頂部に王冠の飾りがあった、格式高そうな瓦屋根の光景です。王宮の建物の一部のようでした。紹介が遅れましたが、ウブド王宮(プリ・サレン)の歴史は、16世紀から始まったと言われています。1908年からオランダによるバリ島の植民化が始まるまでの間、ウブド王政時代の政治と文化の中心で有り続けたウブド王宮です。(タビナカ・マガジン)

  • 最後の王である『チョコルド・グデ・スカワティ(1899~1961年)』が亡くなった後は、その子孫と親族が暮らしています。今でも王家の一族が暮らすプライベートルームが王宮内にあるようです。また、現在の建物は1978年に改装されたものです。(同上)

    最後の王である『チョコルド・グデ・スカワティ(1899~1961年)』が亡くなった後は、その子孫と親族が暮らしています。今でも王家の一族が暮らすプライベートルームが王宮内にあるようです。また、現在の建物は1978年に改装されたものです。(同上)

  • ウブド王宮の一番の魅力は、なんといっても手の込んだ繊細な彫刻がなされた見事な建物それ自体です。赤レンガ作りの正面門に始まり、王宮に施された当時の華やかさを感じさせる豪華絢爛な彫刻に目を奪われます。(同上)

    ウブド王宮の一番の魅力は、なんといっても手の込んだ繊細な彫刻がなされた見事な建物それ自体です。赤レンガ作りの正面門に始まり、王宮に施された当時の華やかさを感じさせる豪華絢爛な彫刻に目を奪われます。(同上)

  • その一方で、時代が移り変わってきたことを痛感させる独特の静けさもそこには存在し、今から昔へと想いを馳せれば、ウブドの深い歴史を肌で感じることができます。今でも確かにウブドが歩んできた歴史を伝え、そして守り続けながら荘厳な姿勢でウブドを見守っていることを感じさせます。(同上)

    その一方で、時代が移り変わってきたことを痛感させる独特の静けさもそこには存在し、今から昔へと想いを馳せれば、ウブドの深い歴史を肌で感じることができます。今でも確かにウブドが歩んできた歴史を伝え、そして守り続けながら荘厳な姿勢でウブドを見守っていることを感じさせます。(同上)

  • 王が物見台として使っていた王宮南側にある東屋『バレ・パトック』は、王が活気ある市場の様子から庶民の様子を見て、政治や経済について熟考したり、はたまた美しい女性の様子までここから眺めていたようです。この場所こそ、間違いなく当時のウブドの始まりにして、中心でした。(同上)

    王が物見台として使っていた王宮南側にある東屋『バレ・パトック』は、王が活気ある市場の様子から庶民の様子を見て、政治や経済について熟考したり、はたまた美しい女性の様子までここから眺めていたようです。この場所こそ、間違いなく当時のウブドの始まりにして、中心でした。(同上)

  • 観光地化が進み、街中ではモダンでオシャレな雰囲気を感じながらも、それでもなおバリ島文化の多様性を感じさせ、伝統芸能・芸術の中心地としての面影を変わらず色濃く残すウブドは、一度来たら虜になる人続出の魅惑の都市です。ウブド王宮を訪れることなしにウブド、そしてバリ島は語れません。賑やかな中心地の雰囲気とは一転、静かで厳かな雰囲気の中、変わらないウブドの歴史を感じることができるウブド王宮は、ウブドを訪れたなら絶対に外せない観光地です。(同上)<br />写真は、オウゴンチク(黄金竹)のようです。筍から育ったばかりの若竹も黄金色をしていました。

    観光地化が進み、街中ではモダンでオシャレな雰囲気を感じながらも、それでもなおバリ島文化の多様性を感じさせ、伝統芸能・芸術の中心地としての面影を変わらず色濃く残すウブドは、一度来たら虜になる人続出の魅惑の都市です。ウブド王宮を訪れることなしにウブド、そしてバリ島は語れません。賑やかな中心地の雰囲気とは一転、静かで厳かな雰囲気の中、変わらないウブドの歴史を感じることができるウブド王宮は、ウブドを訪れたなら絶対に外せない観光地です。(同上)
    写真は、オウゴンチク(黄金竹)のようです。筍から育ったばかりの若竹も黄金色をしていました。

  • ウブド王国の歴史紹介です。18世紀に、バリ島を治めていたゲルゲル王朝が崩壊し、九つの小国に分裂しました。 その一つがギャニャール王国で、1890年に、ギャニャール王国の子孫がウブド王となりました。 1917年、バリの大地震で王家の長男が亡くなり、次男の『チョコルド・グデ・ラカ・スカワティ(1899~1967年)』がウブド王の跡取りとして王の座につきました。ヒンドゥ教徒で、ウブドのクシャトリヤ出身です。東インドネシア国の大統領を務めました。(続きます)

    ウブド王国の歴史紹介です。18世紀に、バリ島を治めていたゲルゲル王朝が崩壊し、九つの小国に分裂しました。 その一つがギャニャール王国で、1890年に、ギャニャール王国の子孫がウブド王となりました。 1917年、バリの大地震で王家の長男が亡くなり、次男の『チョコルド・グデ・ラカ・スカワティ(1899~1967年)』がウブド王の跡取りとして王の座につきました。ヒンドゥ教徒で、ウブドのクシャトリヤ出身です。東インドネシア国の大統領を務めました。(続きます)

  • 『チョコルド・グデ・ラカ・スカワティ(以降、スカワティと略称)』の紹介が続きます。1899年にスカワティ王家の次男として生まれました。スカワティ王家はオランダの支配を認めていたため、オランダ領東インドの支配層の地位を得ていて、スカワティは現地人官吏養成学校で教育を受けました。1918年にバンドンの監査人になり、同年末にデンパサールに異動しました。1919年に故郷ウブドに異動し、政治基盤の構築に努めました。1924年に人民評議会議員に任命され、1927年まで務めました。1931年にヨーロッパに留学し、1932年にはオランダで農業と畜産を学んでいます。帰国後は農業委員会委員に就任し、バリ島・ロンボク島の農業政策に関与しました。(続きます)

    『チョコルド・グデ・ラカ・スカワティ(以降、スカワティと略称)』の紹介が続きます。1899年にスカワティ王家の次男として生まれました。スカワティ王家はオランダの支配を認めていたため、オランダ領東インドの支配層の地位を得ていて、スカワティは現地人官吏養成学校で教育を受けました。1918年にバンドンの監査人になり、同年末にデンパサールに異動しました。1919年に故郷ウブドに異動し、政治基盤の構築に努めました。1924年に人民評議会議員に任命され、1927年まで務めました。1931年にヨーロッパに留学し、1932年にはオランダで農業と畜産を学んでいます。帰国後は農業委員会委員に就任し、バリ島・ロンボク島の農業政策に関与しました。(続きます)

  • スカワティは、1946年7月に開催されたマリノ会議に委員長として出席し、東インドネシア・ボルネオ島諮問委員会の委員に選出されます。8月末にはマリノ会議の結論を報告するため、ポンティアナック王国スルターンハミド2世と共にオランダを訪問しました。帰国後は、12月18日から24日にかけて開催されたデンパサール会議で委員長を務め、東インドネシア国の大統領に就任しました。デンパサール会議の開催では、同時に東インドネシア国議会の設立も決定されました。(続きます)

    スカワティは、1946年7月に開催されたマリノ会議に委員長として出席し、東インドネシア・ボルネオ島諮問委員会の委員に選出されます。8月末にはマリノ会議の結論を報告するため、ポンティアナック王国スルターンハミド2世と共にオランダを訪問しました。帰国後は、12月18日から24日にかけて開催されたデンパサール会議で委員長を務め、東インドネシア国の大統領に就任しました。デンパサール会議の開催では、同時に東インドネシア国議会の設立も決定されました。(続きます)

  • 東インドネシア国設立時、インドネシア共和国の『スカルノ(1901~1961年)』や、『モハマッド・ハッタ(1902~1980年)』は、東インドネシア国をオランダの傀儡政権と見做していました。また、1948年には東インドネシア国首相の『イデ・アナク・アグン・ゲデ・アグン(在位:1947~1949年)』がインドネシア共和国への合流を模索していました。(続きます)

    東インドネシア国設立時、インドネシア共和国の『スカルノ(1901~1961年)』や、『モハマッド・ハッタ(1902~1980年)』は、東インドネシア国をオランダの傀儡政権と見做していました。また、1948年には東インドネシア国首相の『イデ・アナク・アグン・ゲデ・アグン(在位:1947~1949年)』がインドネシア共和国への合流を模索していました。(続きます)

  • スカワティは、インドネシア独立戦争の激化の中でインドネシア東部の自立を目指しますが、オランダ領東インド陸軍の協力を得られず断念し、スカワティは単一国家としてのインドネシアを選択しました。スカワティは、1950年4月21日に行われた交渉でインドネシア共和国への合流を決定し、国民の支持を受けて8月17日に共和国へ合流し、東インドネシア国を解体しました。(続きます)

    スカワティは、インドネシア独立戦争の激化の中でインドネシア東部の自立を目指しますが、オランダ領東インド陸軍の協力を得られず断念し、スカワティは単一国家としてのインドネシアを選択しました。スカワティは、1950年4月21日に行われた交渉でインドネシア共和国への合流を決定し、国民の支持を受けて8月17日に共和国へ合流し、東インドネシア国を解体しました。(続きます)

  • ここで、『東インドネシア国』について整理しておきます。第二次大戦中、日本軍が蘭印を占領した際、西部を陸軍、東部を海軍が占領して別々に軍政を敷いていました。日本の降伏後、連合軍が進駐して西部を英印軍、東部をオーストラリア軍が引き続き占領しました。傀儡国家の樹立を目論むオランダは、1946年7月16~25日、セレベス島にマリノ会議を召集し、東部の王侯らに忠誠を誓わせ大東国の設立を提案しました。12月7~24日のデンパサール会議を経て、24日大東国の成立を宣言しました。人口の多い西部占領地のジャワ島に対抗するため、西部だったバリ島も編入されました。3日後の12月27日、スカワティらバリ人の要求で、『東インドネシア国』と改称されました。(続きます)

    ここで、『東インドネシア国』について整理しておきます。第二次大戦中、日本軍が蘭印を占領した際、西部を陸軍、東部を海軍が占領して別々に軍政を敷いていました。日本の降伏後、連合軍が進駐して西部を英印軍、東部をオーストラリア軍が引き続き占領しました。傀儡国家の樹立を目論むオランダは、1946年7月16~25日、セレベス島にマリノ会議を召集し、東部の王侯らに忠誠を誓わせ大東国の設立を提案しました。12月7~24日のデンパサール会議を経て、24日大東国の成立を宣言しました。人口の多い西部占領地のジャワ島に対抗するため、西部だったバリ島も編入されました。3日後の12月27日、スカワティらバリ人の要求で、『東インドネシア国』と改称されました。(続きます)

  • バリ貴族でインドネシア共和国寄りのスカワティらの指導者により、ハーグ円卓会議でインドネシア連邦共和国としての独立に道が開かれました。1950年8月17日、『インドネシア共和国』へ合流しました。しかし最もオランダ寄りだった南マルクでは南マルク共和国の成立が宣言され、その後も武力抵抗が続きました。(続きます)

    バリ貴族でインドネシア共和国寄りのスカワティらの指導者により、ハーグ円卓会議でインドネシア連邦共和国としての独立に道が開かれました。1950年8月17日、『インドネシア共和国』へ合流しました。しかし最もオランダ寄りだった南マルクでは南マルク共和国の成立が宣言され、その後も武力抵抗が続きました。(続きます)

  • 『東インドネシア国の変遷』<br />〇1946年12月24日:大東国成立 <br />〇1946年12月27日:東インドネシア国と改称<br />〇1949年12月27日:インドネシア連邦共和国を構成	<br />〇1950年8月17日:インドネシア共和国へ編入<br />(続きます)<br />*写真は、バロンのレリーフです。

    『東インドネシア国の変遷』
    〇1946年12月24日:大東国成立
    〇1946年12月27日:東インドネシア国と改称
    〇1949年12月27日:インドネシア連邦共和国を構成
    〇1950年8月17日:インドネシア共和国へ編入
    (続きます)
    *写真は、バロンのレリーフです。

  • 『東インドネシア国の構成』<br />〇首都:マカッサル<br />〇大統領:チョコルダ・グデ・ラカ・スカワティ<br />  (1946~1950年:初代のみ)<br />〇首相:イデ・アナク・アグン・ゲデ・アグン<br />  (1947~1949年:初代のみ)<br /><br />『インドネシア連邦国』<br />〇首都:ジャカルタ<br />〇成立時期:1949~1950年(1年間)<br />〇領土:現在の西パプアを除くインドネシア<br />〇その他:言語はインドネシア語、通貨はルピアなど、現在のインドネシアの基礎が出来た時期です。<br />*写真は、バロンのレリーフのズームアップです。

    『東インドネシア国の構成』
    〇首都:マカッサル
    〇大統領:チョコルダ・グデ・ラカ・スカワティ
      (1946~1950年:初代のみ)
    〇首相:イデ・アナク・アグン・ゲデ・アグン
      (1947~1949年:初代のみ)

    『インドネシア連邦国』
    〇首都:ジャカルタ
    〇成立時期:1949~1950年(1年間)
    〇領土:現在の西パプアを除くインドネシア
    〇その他:言語はインドネシア語、通貨はルピアなど、現在のインドネシアの基礎が出来た時期です。
    *写真は、バロンのレリーフのズームアップです。

  • オランダの植民地時代から、インドネシアが独立した時代に重要な役割を果たした『スカルノ(1901~1970年)』と、『モハマッド・ハッタ(1902~1980年)』について紹介します。インドネシア共和国の『スカルノ初代大統領』と、『ハッタ初代副大統領』として並び立った時代がありました。

    オランダの植民地時代から、インドネシアが独立した時代に重要な役割を果たした『スカルノ(1901~1970年)』と、『モハマッド・ハッタ(1902~1980年)』について紹介します。インドネシア共和国の『スカルノ初代大統領』と、『ハッタ初代副大統領』として並び立った時代がありました。

  • 『スカルノとハッタ』<br />インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家です。独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞しました。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は、不遇の晩年を送りました。(続きます)

    『スカルノとハッタ』
    インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家です。独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞しました。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は、不遇の晩年を送りました。(続きます)

  • 彼は、いまなお国民には『ブン・カルノ(カルノ兄さん)』と呼ばれ、『国父(建国の父)』として敬意を払われています。最高額面の10万ルピアに肖像が使われました。ジャワ島東部の都市スラバヤ生まれです。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥ教徒でした。1927年7月、宗主国のオランダ留学から帰国した同志らとインドネシア国民党(略称PNI)を結成しました。その後スカルノは、インドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、『民族の指導者』として認められました。日本が連合国に対して降伏してから2日後の8月17日、オランダ植民地政府が逃亡したままの権力の空白で、スカルノとハッタの2人が『インドネシアの独立』を宣言しました。(続きます)

    彼は、いまなお国民には『ブン・カルノ(カルノ兄さん)』と呼ばれ、『国父(建国の父)』として敬意を払われています。最高額面の10万ルピアに肖像が使われました。ジャワ島東部の都市スラバヤ生まれです。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリ人貴族の出身でヒンドゥ教徒でした。1927年7月、宗主国のオランダ留学から帰国した同志らとインドネシア国民党(略称PNI)を結成しました。その後スカルノは、インドネシアの独立と民族の統一を訴えるために各地で積極的に集会を開催し、壇上での熱のこもった演説で聴衆を魅了し、『民族の指導者』として認められました。日本が連合国に対して降伏してから2日後の8月17日、オランダ植民地政府が逃亡したままの権力の空白で、スカルノとハッタの2人が『インドネシアの独立』を宣言しました。(続きます)

  • 第二次戦後の国内の混乱の後、オランダからの独立戦となりました。オランダはスカルノと首相兼副大統領のハッタ、そして閣僚の大半を逮捕し、バンカ島に幽閉しました。しかし、イギリスやオーストリアをはじめとする国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難し、国連安保理は1948年12月24日の決議でオランダに共和国指導者の釈放を要求しました。オランダに逮捕されていたスカルノらは1949年7月6日にジョグジャカルタに帰還し、7月13日にはスマトラの臨時政府を解消して、政府機能を復活させ、和平協議を再開させました。この結果、1949年12月のハーグ協定の締結によってオランダはインドネシアを放棄することになりました。(続きます)

    第二次戦後の国内の混乱の後、オランダからの独立戦となりました。オランダはスカルノと首相兼副大統領のハッタ、そして閣僚の大半を逮捕し、バンカ島に幽閉しました。しかし、イギリスやオーストリアをはじめとする国際世論は植民地主義に固執するオランダを激しく非難し、国連安保理は1948年12月24日の決議でオランダに共和国指導者の釈放を要求しました。オランダに逮捕されていたスカルノらは1949年7月6日にジョグジャカルタに帰還し、7月13日にはスマトラの臨時政府を解消して、政府機能を復活させ、和平協議を再開させました。この結果、1949年12月のハーグ協定の締結によってオランダはインドネシアを放棄することになりました。(続きます)

  • オランダからの独立を達成し、独立国家としての一歩を踏み出したものの、植民地時代からの『負の遺産』を多く抱えたその後のインドネシア、そしてインドネシア大統領となったスカルノの前途は多難を極めました。こうした困難を乗り越えるためにスカルノが1950年代末頃に打出したのが『指導される民主主義』の構想でした。(続きます)、写真は、ウブドの町並み光景です。

    オランダからの独立を達成し、独立国家としての一歩を踏み出したものの、植民地時代からの『負の遺産』を多く抱えたその後のインドネシア、そしてインドネシア大統領となったスカルノの前途は多難を極めました。こうした困難を乗り越えるためにスカルノが1950年代末頃に打出したのが『指導される民主主義』の構想でした。(続きます)、写真は、ウブドの町並み光景です。

  • これは、混乱の原因とされる議会制を停止し、スカルノが国内諸勢力の調停者として国家を指導するというもので、独裁化という危険をはらむものですが、混乱する政局に嫌気がさしていた国民の間に支持者が拡大しました。1959年7月にスカルノは議会を解散し、スカルノの行動を制約していた1950年憲法を停止し、1945年憲法に復帰することを宣言しました。(続きます)

    これは、混乱の原因とされる議会制を停止し、スカルノが国内諸勢力の調停者として国家を指導するというもので、独裁化という危険をはらむものですが、混乱する政局に嫌気がさしていた国民の間に支持者が拡大しました。1959年7月にスカルノは議会を解散し、スカルノの行動を制約していた1950年憲法を停止し、1945年憲法に復帰することを宣言しました。(続きます)

  • スカルノ大統領と『双頭体制』を組んだハッタ副大統領の紹介です。オランダとの独立戦争では首相・外相・国防相を務め、とくに外交面で主導的な役割を担いました。しかし、次第にスカルノと対立し、1956年に副大統領を辞職しました。その理由が本人から語られることはなく、その後、政界に復帰することもありませんでした。1986年にスカルノとともに『独立宣言英雄』の称号が与えられました。(一旦、一区切りです)

    スカルノ大統領と『双頭体制』を組んだハッタ副大統領の紹介です。オランダとの独立戦争では首相・外相・国防相を務め、とくに外交面で主導的な役割を担いました。しかし、次第にスカルノと対立し、1956年に副大統領を辞職しました。その理由が本人から語られることはなく、その後、政界に復帰することもありませんでした。1986年にスカルノとともに『独立宣言英雄』の称号が与えられました。(一旦、一区切りです)

  • 歩道に施設されていた、カラータイルを用いた文様の紹介です。8枚分相当の敷石の大きさで、横(縦)長の植物らしいものがデザインされていました。上下、および左右に対称な文様です。

    歩道に施設されていた、カラータイルを用いた文様の紹介です。8枚分相当の敷石の大きさで、横(縦)長の植物らしいものがデザインされていました。上下、および左右に対称な文様です。

  • 同じく、歩道に施設されていた、カラータイルを用いた文様の紹介です。こちらは、16枚分相当の敷石の大きさの、正方形のカラータイルでした。同じく植物を題材にした花の絵柄です。

    同じく、歩道に施設されていた、カラータイルを用いた文様の紹介です。こちらは、16枚分相当の敷石の大きさの、正方形のカラータイルでした。同じく植物を題材にした花の絵柄です。

  • バリ島の犬の後ろ姿です。バリ島では、バリ犬とキンタマニー犬の2種が本来の血統とされます。 一般的に見るのはバリ犬が殆どで、キンタマニー犬は白くて毛足が少し長いのが特徴とされます。2008年頃には60~80万頭と推定されていましたが、2008年にバリ島周辺で狂犬病が流行したため大量に犬が処分され、現在ではその数は15~16万頭と推定されています。

    バリ島の犬の後ろ姿です。バリ島では、バリ犬とキンタマニー犬の2種が本来の血統とされます。 一般的に見るのはバリ犬が殆どで、キンタマニー犬は白くて毛足が少し長いのが特徴とされます。2008年頃には60~80万頭と推定されていましたが、2008年にバリ島周辺で狂犬病が流行したため大量に犬が処分され、現在ではその数は15~16万頭と推定されています。

  • 温水プールのようです。サニアズ・ハウスの看板がありました。木が切られずに、看板の下を通過していました。ヒンドゥ教の影響でしょうか、随分と大切にされていました。末尾の方に、『スイミング・プール』と『ホット・ウォター』の表示がありました。

    温水プールのようです。サニアズ・ハウスの看板がありました。木が切られずに、看板の下を通過していました。ヒンドゥ教の影響でしょうか、随分と大切にされていました。末尾の方に、『スイミング・プール』と『ホット・ウォター』の表示がありました。

  • 『スカルノからスハルトへ』<br />政界を離れたハッタは、スカルノの『指導される民主主義』、『9月30日事件』後のスカルノの失脚とその死、そして『スハルトの新秩序体制』を見つめ続け、1980年に永眠しました。ここで、1965おきます。『通称9・30事件』は、今でも謎が多いとされる、インドネシアで起きた軍事クーデターです。事件の背景として、①インドネシア国軍と共産党の権力闘争、②スカルノ大統領の経済年に起きた『9月30日事件』についても説明して政策の失敗にともなう国内の混乱、③マレーシアとの対立により国際連合脱退まで至った、国際政治におけるインドネシアの孤立、などがありました。この事件を契機として、東南アジア最大の共産党だったインドネシア共産党は壊滅し、スカルノは失脚しました。(続きます)

    『スカルノからスハルトへ』
    政界を離れたハッタは、スカルノの『指導される民主主義』、『9月30日事件』後のスカルノの失脚とその死、そして『スハルトの新秩序体制』を見つめ続け、1980年に永眠しました。ここで、1965おきます。『通称9・30事件』は、今でも謎が多いとされる、インドネシアで起きた軍事クーデターです。事件の背景として、①インドネシア国軍と共産党の権力闘争、②スカルノ大統領の経済年に起きた『9月30日事件』についても説明して政策の失敗にともなう国内の混乱、③マレーシアとの対立により国際連合脱退まで至った、国際政治におけるインドネシアの孤立、などがありました。この事件を契機として、東南アジア最大の共産党だったインドネシア共産党は壊滅し、スカルノは失脚しました。(続きます)

  • スカルノと、日本との関係です。第二次世界大戦中よりスカルノと親密な関係を持っており、第二次世界大戦後急速に復興を進めて世界有数の経済大国に返り咲いた日本は、アメリカやイギリスと同じ西側諸国の一国となりました。日本政府はその後も一貫して政府借款や、重工業から中小企業までの企業によるインドネシアへの投資を政府の支援の下で行うなど、経済面を中心にスカルノと引き続き親密な関係を続けていきました。さらに1959年には、日本の商社『東日貿易』からの紹介を受けて、日本人の妻で第3夫人となる、後のデヴィ・スカルノ を娶ることとなり、より一層密接な関係を築くことになりました。『デヴィ』夫人の呼び名で、今も日本のマスコミを賑わせています。(続きます)

    スカルノと、日本との関係です。第二次世界大戦中よりスカルノと親密な関係を持っており、第二次世界大戦後急速に復興を進めて世界有数の経済大国に返り咲いた日本は、アメリカやイギリスと同じ西側諸国の一国となりました。日本政府はその後も一貫して政府借款や、重工業から中小企業までの企業によるインドネシアへの投資を政府の支援の下で行うなど、経済面を中心にスカルノと引き続き親密な関係を続けていきました。さらに1959年には、日本の商社『東日貿易』からの紹介を受けて、日本人の妻で第3夫人となる、後のデヴィ・スカルノ を娶ることとなり、より一層密接な関係を築くことになりました。『デヴィ』夫人の呼び名で、今も日本のマスコミを賑わせています。(続きます)

  • スカルノから実権を奪って1968年3月に正式に第2代大統領に就任したスハルトが、新たに作った『新秩序体制』のもとで、共産党とそのシンパを国内政治から完全に排除しました。また冷戦下の東南アジアにおける反共国家として中華人民共和国と断交し、アメリカやイギリス、南ベトナムなどの西側諸国と接近しました。(続きます)

    スカルノから実権を奪って1968年3月に正式に第2代大統領に就任したスハルトが、新たに作った『新秩序体制』のもとで、共産党とそのシンパを国内政治から完全に排除しました。また冷戦下の東南アジアにおける反共国家として中華人民共和国と断交し、アメリカやイギリス、南ベトナムなどの西側諸国と接近しました。(続きます)

  • 一方、スカルノは『国父』としての地位は保ったものの、全ての役職をはく奪され、自宅に事実上の軟禁状態におかれました。さらにデヴィ夫人たちと多くの家族が国外に政治亡命、離散するという失意の状況におかれたまま、1970年6月21日にジャカルタで死去しました。なお、アメリカ政府は、『9月30日事件』への関わりを、やんわりと否定しています。(以上)

    一方、スカルノは『国父』としての地位は保ったものの、全ての役職をはく奪され、自宅に事実上の軟禁状態におかれました。さらにデヴィ夫人たちと多くの家族が国外に政治亡命、離散するという失意の状況におかれたまま、1970年6月21日にジャカルタで死去しました。なお、アメリカ政府は、『9月30日事件』への関わりを、やんわりと否定しています。(以上)

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