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泰州市にある古典庭園の喬園の紹介です。『泰州(たいしゅう)』は、中国にかつて存在した州です。南唐代(937~975年)から民国初年(1912年)にかけて、現在の江蘇省泰州市一帯に設置されました。(ウィキペディア、JTB・中国)

2012春、中国旅行記22(16/50):4月15日(11):泰州、古典庭園、喬園、太湖石、藤棚、築山、三師堂

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2012/04/14 - 2012/04/18

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旅行記グループ 2012春、中国旅行記22(上巻)

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旅人のくまさん

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泰州市にある古典庭園の喬園の紹介です。『泰州(たいしゅう)』は、中国にかつて存在した州です。南唐代(937~975年)から民国初年(1912年)にかけて、現在の江蘇省泰州市一帯に設置されました。(ウィキペディア、JTB・中国)

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  • 写真は、泰州市にある古典庭園の喬園の築山と、その上に築かれた『数魚亭』の名の東屋の光景です。『泰州』の略歴の紹介です。937年(昇元元年)、『南唐(937~975年)』により揚州海陵県に泰州が置かれました。五代十国時代に江南に割拠した国で、宋代(960~1279年)の時、泰州は淮南東路に属し、海陵・如皋の2県を管轄しました。(同上)

    写真は、泰州市にある古典庭園の喬園の築山と、その上に築かれた『数魚亭』の名の東屋の光景です。『泰州』の略歴の紹介です。937年(昇元元年)、『南唐(937~975年)』により揚州海陵県に泰州が置かれました。五代十国時代に江南に割拠した国で、宋代(960~1279年)の時、泰州は淮南東路に属し、海陵・如皋の2県を管轄しました。(同上)

  • 元代(1271~1368年)の1277年(至元14年)、泰州は泰州路と改められました。1284年(至元21年)、泰州路は泰州と改められました。泰州は揚州路に属し、海陵・如皋の2県を管轄しました。明代(1368~1644年)の1369年(洪武2年)、海陵県は廃止され、泰州に編入されました。泰州は揚州府に属し、如皋県1県を管轄しました。(同上)<br />*写真は、喬園の見応えのある石壁の光景です。

    イチオシ

    元代(1271~1368年)の1277年(至元14年)、泰州は泰州路と改められました。1284年(至元21年)、泰州路は泰州と改められました。泰州は揚州路に属し、海陵・如皋の2県を管轄しました。明代(1368~1644年)の1369年(洪武2年)、海陵県は廃止され、泰州に編入されました。泰州は揚州府に属し、如皋県1県を管轄しました。(同上)
    *写真は、喬園の見応えのある石壁の光景です。

  • 名前:『シナフジ(シナ藤)』(推定)<br />分類:マメ科フジ属<br />分布:東アジアに自生。<br />その他:下から眺めた藤棚の光景です。(同上)<br />

    名前:『シナフジ(シナ藤)』(推定)
    分類:マメ科フジ属
    分布:東アジアに自生。
    その他:下から眺めた藤棚の光景です。(同上)

  • 名前:『シナフジ(シナ藤)』(推定)<br />分類:マメ科フジ属<br />分布:東アジアに自生。<br />その他:蕾状態のようです。まだ開花していませんでした。(同上)

    名前:『シナフジ(シナ藤)』(推定)
    分類:マメ科フジ属
    分布:東アジアに自生。
    その他:蕾状態のようです。まだ開花していませんでした。(同上)

  • 泰州の略史紹介に戻ります。清代1616~1912年)の時、泰州は揚州府に属し、属県を持たない散州となりました。1912年、中華民国により泰州は廃止され、泰県と改められました。<br />次に、隋代(589~618年)に現在の山東省泰安市一帯に設置された泰州についての紹介です。『隋書』によれば、605年(大業元年)に廃止され、管轄県は魯州に統合されたという記事があるようですが、その設置年は不明です。(以上)

    泰州の略史紹介に戻ります。清代1616~1912年)の時、泰州は揚州府に属し、属県を持たない散州となりました。1912年、中華民国により泰州は廃止され、泰県と改められました。
    次に、隋代(589~618年)に現在の山東省泰安市一帯に設置された泰州についての紹介です。『隋書』によれば、605年(大業元年)に廃止され、管轄県は魯州に統合されたという記事があるようですが、その設置年は不明です。(以上)

  • 楊守敬の『隋書地理志考証』では、王劭の著した『舎利感応記』のなかに『広弘明集』の記述を引用し「仁寿元年有泰州岱岳寺起塔」との記述があることから601年(仁寿元年)以前に成立したとしています。南京師範大学の施和金は、596年(開皇16年)に隋が多くの州を新設していることから、泰州もこの年に設置されたと推測しています。(以上)

    楊守敬の『隋書地理志考証』では、王劭の著した『舎利感応記』のなかに『広弘明集』の記述を引用し「仁寿元年有泰州岱岳寺起塔」との記述があることから601年(仁寿元年)以前に成立したとしています。南京師範大学の施和金は、596年(開皇16年)に隋が多くの州を新設していることから、泰州もこの年に設置されたと推測しています。(以上)

  • この後紹介します『泰州喬園』のパンフレットには『千年古柏・鎮園之宝』と紹介されていた古木の光景です。『カシワ(柏、槲、檞)』は、ブナ科コナラ属のの落葉樹です。日本・朝鮮半島・中国の東アジア地域に分布し、痩せ地でも生育し、海岸で群落もあります。葉は、かつて料理を盛るために使われ、端午の節句の柏餅を包む葉としても知られます。(同上)

    イチオシ

    この後紹介します『泰州喬園』のパンフレットには『千年古柏・鎮園之宝』と紹介されていた古木の光景です。『カシワ(柏、槲、檞)』は、ブナ科コナラ属のの落葉樹です。日本・朝鮮半島・中国の東アジア地域に分布し、痩せ地でも生育し、海岸で群落もあります。葉は、かつて料理を盛るために使われ、端午の節句の柏餅を包む葉としても知られます。(同上)

  • 逆光でシルエットになってしまいましたが、『千年古柏・鎮園之宝』と、その周りの光景です。冬でも落葉せずに枝に残ることから、日本では神が宿る縁起木とされています。(同上)

    逆光でシルエットになってしまいましたが、『千年古柏・鎮園之宝』と、その周りの光景です。冬でも落葉せずに枝に残ることから、日本では神が宿る縁起木とされています。(同上)

  • 『喬園』の見所の一つ、太湖石の庭石の光景です。壁面に積み上げるように奇石が置かれていました。年月を経た大掛かりの庭石らしく、穴が多く開いた奇石の隙間に、草木の姿がありました。(同上)

    『喬園』の見所の一つ、太湖石の庭石の光景です。壁面に積み上げるように奇石が置かれていました。年月を経た大掛かりの庭石らしく、穴が多く開いた奇石の隙間に、草木の姿がありました。(同上)

  • 古典庭園の喬園の築山の上に築かれた『数魚亭』の名前の東屋の光景です。喬園の説明パンフレットに、清朝・道光5年、名所絵に『数魚亭』と記してあったことが紹介されていました。道光5年は、1825年になります。(同上)

    古典庭園の喬園の築山の上に築かれた『数魚亭』の名前の東屋の光景です。喬園の説明パンフレットに、清朝・道光5年、名所絵に『数魚亭』と記してあったことが紹介されていました。道光5年は、1825年になります。(同上)

  • 左から読んで、『三師堂簡介』タイトルがあった説明パネルの光景です。中国語の『簡介』は、日本語では『簡単な紹介』の意味になります。『三師(さんし)は、太師、太傅、太保の呼称。古くは三公と呼ばれましたが、北魏から三師と呼ばれました。』、と解説されていました。江蘇人の『張執中(1937年~)』による説明のようでした。『張執中』は、開南大学の広報管理学科の教員で、『学術的専門知識と研究:国際関係、中国政府と政治、相互関係とクロス・ストラト政策』が専門と紹介されていました。『三師堂』についても調べた人のようでした。(同上)

    左から読んで、『三師堂簡介』タイトルがあった説明パネルの光景です。中国語の『簡介』は、日本語では『簡単な紹介』の意味になります。『三師(さんし)は、太師、太傅、太保の呼称。古くは三公と呼ばれましたが、北魏から三師と呼ばれました。』、と解説されていました。江蘇人の『張執中(1937年~)』による説明のようでした。『張執中』は、開南大学の広報管理学科の教員で、『学術的専門知識と研究:国際関係、中国政府と政治、相互関係とクロス・ストラト政策』が専門と紹介されていました。『三師堂』についても調べた人のようでした。(同上)

  • 右から読んで、『三師堂』の文字が記された緑色の扁額の光景です。その下に勝者な格子窓があり、外の景色が見えていました。その景色は、隣接する建物の屋根の光景のようでした。(同上)

    右から読んで、『三師堂』の文字が記された緑色の扁額の光景です。その下に勝者な格子窓があり、外の景色が見えていました。その景色は、隣接する建物の屋根の光景のようでした。(同上)

  • 右の文字は『戎(えびす)』か『成(せい)』か判然としませんでした。左側の文字は、それよりも判読が難しく、『趣(しゅ)』でもなさそうでした。『戎』を含む2字熟語は、王戎、西戎、戎夷、戎衣、戎器、戎具、戎国、戎馬、山戎、犬戎、其戎などがありましたが、左側の文字を推測する手掛かりにはなりませんでした。(同上)

    右の文字は『戎(えびす)』か『成(せい)』か判然としませんでした。左側の文字は、それよりも判読が難しく、『趣(しゅ)』でもなさそうでした。『戎』を含む2字熟語は、王戎、西戎、戎夷、戎衣、戎器、戎具、戎国、戎馬、山戎、犬戎、其戎などがありましたが、左側の文字を推測する手掛かりにはなりませんでした。(同上)

  • 名前:『太湖石』:中央奥の奇石<br />分類:石灰岩<br />その他:薄い灰色と、薄い茶色のツートンカラーの奇石の光景です。中型から大型ほどの大きさです。(同上)

    名前:『太湖石』:中央奥の奇石
    分類:石灰岩
    その他:薄い灰色と、薄い茶色のツートンカラーの奇石の光景です。中型から大型ほどの大きさです。(同上)

  • 真新しい皮付きの丸太を使った井桁の光景です。推測ですが、その下に見える井戸らしいものの蓋か、落下防止のようでした。これまでに見掛けたことがない造作でした。(同上)

    真新しい皮付きの丸太を使った井桁の光景です。推測ですが、その下に見える井戸らしいものの蓋か、落下防止のようでした。これまでに見掛けたことがない造作でした。(同上)

  • 新緑と赤いモミジの葉に彩られた、築山の上に築かれた『数魚亭』の建物光景です。『恰心池』や渓流などが庭内を流れ、魚鱗が見られたことからの『数魚亭』の命名のようでした。(同上)

    新緑と赤いモミジの葉に彩られた、築山の上に築かれた『数魚亭』の建物光景です。『恰心池』や渓流などが庭内を流れ、魚鱗が見られたことからの『数魚亭』の命名のようでした。(同上)

  • 名前:『シダレエンジュ(枝垂れ槐)』:推定(名札の文字が読み取れず)<br />分類:マメ科エンジュ属<br />分布:中国原産<br />その他:大変縁起の良い木で、中国では尊貴の木として知られ、紀元前1200年前、周代の朝廷の最高位にある三公がそれぞれ3本の槐(えんじゅ)の木に向かって座った事から三公の位を象徴する木と言われます。中でも変種のシダレエンジュ)はその最高種とされ、庭木として珍重されてきた。上海でお聞きした樹木を参考にしました。(同上)

    名前:『シダレエンジュ(枝垂れ槐)』:推定(名札の文字が読み取れず)
    分類:マメ科エンジュ属
    分布:中国原産
    その他:大変縁起の良い木で、中国では尊貴の木として知られ、紀元前1200年前、周代の朝廷の最高位にある三公がそれぞれ3本の槐(えんじゅ)の木に向かって座った事から三公の位を象徴する木と言われます。中でも変種のシダレエンジュ)はその最高種とされ、庭木として珍重されてきた。上海でお聞きした樹木を参考にしました。(同上)

  • 名前:『太湖石』<br />分類:石灰岩<br />その他:薄い灰色と、薄い茶色のツートンカラーの奇石の光景です。中型から大型ほどの大きさです。(同上)

    名前:『太湖石』
    分類:石灰岩
    その他:薄い灰色と、薄い茶色のツートンカラーの奇石の光景です。中型から大型ほどの大きさです。(同上)

  • 名前:『太湖石』<br />分類:石灰岩<br />その他:薄い灰色と、薄い茶色のツートンカラーの奇石の光景です。中型から大型ほどの大きさです。先程とは、場所を変えて眺めた奇石の光景です。(同上)

    名前:『太湖石』
    分類:石灰岩
    その他:薄い灰色と、薄い茶色のツートンカラーの奇石の光景です。中型から大型ほどの大きさです。先程とは、場所を変えて眺めた奇石の光景です。(同上)

  • 通路の途中にあった、四本柱の簡易な造りの建物光景です。基壇を設けて、通路より一段高くなっていました。庭内の鑑賞場所の一つでしょうか、柱には五言絶句の一部らしい、漢詩が記された表示板がありました。(同上)

    通路の途中にあった、四本柱の簡易な造りの建物光景です。基壇を設けて、通路より一段高くなっていました。庭内の鑑賞場所の一つでしょうか、柱には五言絶句の一部らしい、漢詩が記された表示板がありました。(同上)

  • これで『喬園』の庭園の見学を終わりました。出入口の先に続く石畳の道の光景です。右端に太湖石の庭石の一部が見えていました。先ほど紹介した、ツートンカラーの太湖石のようでした。(同上)

    これで『喬園』の庭園の見学を終わりました。出入口の先に続く石畳の道の光景です。右端に太湖石の庭石の一部が見えていました。先ほど紹介した、ツートンカラーの太湖石のようでした。(同上)

  • 石壁の前に設けられた、赤い提灯が連なった細長い建物の光景です。柱4本だけの簡単な造りの建物でしたが、風変わりな軒瓦が使われていました。壁面のレリーフの鑑賞場所かも知れませんが、レリーフはかなり風化が進んでいました。(同上)

    石壁の前に設けられた、赤い提灯が連なった細長い建物の光景です。柱4本だけの簡単な造りの建物でしたが、風変わりな軒瓦が使われていました。壁面のレリーフの鑑賞場所かも知れませんが、レリーフはかなり風化が進んでいました。(同上)

  • 推測も入りますが、紹介パンフレットの平面図を参照しますと『大門』になるようでした。その門の内側から眺めた上部光景です。(同上)

    推測も入りますが、紹介パンフレットの平面図を参照しますと『大門』になるようでした。その門の内側から眺めた上部光景です。(同上)

  • 『大門』と推測した門を潜って、外から眺めた光景です。『喬園』の文字が石造りの中ほどに見えました。先ほど紹介した赤い提灯が連なった建物が、正面奥に見えていました。(同上)

    イチオシ

    『大門』と推測した門を潜って、外から眺めた光景です。『喬園』の文字が石造りの中ほどに見えました。先ほど紹介した赤い提灯が連なった建物が、正面奥に見えていました。(同上)

  • 先程『大門』と紹介した、右から読んで『喬園』の文字が記されていた門の光景です。重厚で、凝った造りの石門でした。様々なレリーフの飾りがありましたが、概ね、花鳥風月をモチーフにしたレリーフのようでした。(同上)

    先程『大門』と紹介した、右から読んで『喬園』の文字が記されていた門の光景です。重厚で、凝った造りの石門でした。様々なレリーフの飾りがありましたが、概ね、花鳥風月をモチーフにしたレリーフのようでした。(同上)

  • 『日捗園』らしい文字が記された石造の門の光景です。万暦年間(1573~1620年)に『喬園』が建設された時の呼び名が『日捗園』でしたから、その名が記されているようです。『日捗園』の呼び名は、この後紹介します『喬園簡介』のタイトルの解説文に記されていました。(同上)

    『日捗園』らしい文字が記された石造の門の光景です。万暦年間(1573~1620年)に『喬園』が建設された時の呼び名が『日捗園』でしたから、その名が記されているようです。『日捗園』の呼び名は、この後紹介します『喬園簡介』のタイトルの解説文に記されていました。(同上)

  • 『三峰勝境』の文字が記された石造の門の光景です。先ほど紹介した側の反対側の光景です。このあと紹介します『泰州喬園』のパンフレットには、建設された時の『日捗園』ん始まり、『『三峰園』等、数度の名称変更が行われたことが紹介されていました。(同上)

    『三峰勝境』の文字が記された石造の門の光景です。先ほど紹介した側の反対側の光景です。このあと紹介します『泰州喬園』のパンフレットには、建設された時の『日捗園』ん始まり、『『三峰園』等、数度の名称変更が行われたことが紹介されていました。(同上)

  • 『泰州喬園・国家AAAA級旅游景点』のタイトルがあった、案内パンフレットの表紙です。『淮左第一園』の添え字がありました。『淮(わい)左』のエリアが分かりませんでしたが、近くには、周恩来の故居の『淮南(わいなん)市』や『淮河(わいが)』などがあります。『淮』の字には少なくとも、『ワイ・ カイ・ エ』の三つの読み方があるようです。その意味は、わかりませんしたが、『川の名/淮水』の解説がありました。(同上)

    『泰州喬園・国家AAAA級旅游景点』のタイトルがあった、案内パンフレットの表紙です。『淮左第一園』の添え字がありました。『淮(わい)左』のエリアが分かりませんでしたが、近くには、周恩来の故居の『淮南(わいなん)市』や『淮河(わいが)』などがあります。『淮』の字には少なくとも、『ワイ・ カイ・ エ』の三つの読み方があるようです。その意味は、わかりませんしたが、『川の名/淮水』の解説がありました。(同上)

  • 『喬園簡介』のタイトルの解説文です。解説文の下に広さ12万平方メートル余の平面図と、その下に現在の位置図が記されていました。明代の万暦年間(1573~1620年)に建設が始まったことから説明が始まっていました。太湖石のことや、植物では竹、牡丹、芍薬、芭蕉等のことが紹介されていました。締め括りには2006年、泰州市政府により修復工事が行われたことが紹介されていました。(同上)

    『喬園簡介』のタイトルの解説文です。解説文の下に広さ12万平方メートル余の平面図と、その下に現在の位置図が記されていました。明代の万暦年間(1573~1620年)に建設が始まったことから説明が始まっていました。太湖石のことや、植物では竹、牡丹、芍薬、芭蕉等のことが紹介されていました。締め括りには2006年、泰州市政府により修復工事が行われたことが紹介されていました。(同上)

  • 上の写真から、『喬園』の文字が記された建物、4名の喬園に所縁の人、一番下が『喬園石刻』でした。4名の喬園に所縁の人では、左から2人目の人が、『喬園』の行重の由来となった『喬松年』のイラスト図です。(同上)

    上の写真から、『喬園』の文字が記された建物、4名の喬園に所縁の人、一番下が『喬園石刻』でした。4名の喬園に所縁の人では、左から2人目の人が、『喬園』の行重の由来となった『喬松年』のイラスト図です。(同上)

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