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太湖の畔にある三国城紹介の締め括りです。日本でも人気が高い『三国志・三国志演義』は、戦前・戦中に新聞連載された吉川英治の作品に始まり、柴田錬三郎、陳舜臣、宮城谷昌光、北方謙三と続いています。(ウィキペディア、JTB・中国)
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〇三国城の映画セットがあるのが、かつての呉の国になりますので、説明が偏りましたので、三国時代の幕開けから紹介します。
〇三国時代の幕開けは、既に紹介しましたように184年に起きた『黄巾の乱』です。主導者は、道教の一派である太平道の創始者の『張角(ちょう・かく:生年不詳~184年)』でした。(同上) -
イチオシ
〇黄巾の乱』は、光和7年(184年)、人身御供を捧げて天を祭り、一斉に蜂起して州郡の役所を焼き払い、長官を殺害し集落を略奪しました。張角は『天公将軍』称しました。しかし同年夏以降は、後漢朝廷の皇甫嵩や朱儁らの活躍もあり、急速に乱が治まっていきました。『黄巾の乱』のキャッチフレーズは、『蒼天已死・黄天當立・歳在甲子・天下大吉』でした。(同上)
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〇張角は、広宗に拠って抵抗しましたが、10月に広宗は陥落しました。この時、張角が既に病死していたため、討伐軍は棺を暴いて遺体を刑罰に処し、斬首した首を洛陽で木に吊るしました。広宗は、現在の河北省邢台市に位置します。後漢により設置されましたが、1958年に廃止され巨鹿県に編入されましたが、1961年に再設置され現在に至ります。(同上)
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〇しかし鎮圧後も中央政府の悪政は変わらず、民衆の不満も豪族たちの不満も解消されないままであり、各地に黄巾の残党が散らばったことで反乱は続きました。この頃、西の雍州・涼州で韓遂・辺章・王国らが羌族や氐族とともに後漢に反逆し、後漢の張温・皇甫嵩・董卓らと激しい戦いを繰り広げました。同上)
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〇『後漢(25~220年)』の第12代皇帝の『霊帝(れいてい:156~189年)』の時代、劉焉は地方の支配力が弱くなっていることを理由に、刺史の代わりに州牧を置くことを提案しました。また、劉焉も益州牧となりました。『霊』の諡号は、『乱れはしたが国を滅ぼすほどではなかった』、の意味とされます。(同上)
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イチオシ
〇189年に12代皇帝の霊帝が崩御しますと、その後継を巡って、何皇后が生んだ劉弁と、霊帝の母の董太后に養育された劉協の間で後継争いが起こりました。
〇相続争いは、母の何太后と母方の伯父の『何進(何太后の異母兄)』により擁立された劉弁の何皇后側が勝利しました。劉弁が皇帝に即位し、『少帝弁(しょうていべん:在位189年)』を名乗りました。(同上) -
〇後継争いに勝利したことで宦官勢力を押さえ込んだ何進は、名門の出身である袁紹に唆されて宦官誅滅を謀りますが、逆に宦官に殺されました。これを見た袁紹や袁術たちは宮中に入り込んで宦官を虐殺し始めました。
〇この混乱の中で、少帝弁と陳留王劉協は宮廷の外へと連れ出され、何進の呼びかけに応えて洛陽へやってきていた西涼の董卓により保護されます。(同上) -
〇朝廷の実権を手中にした『董卓(とう・たく:132~192年)』は、洛陽に暴政を布き、少帝弁を廃して陳留王を皇帝につけ、『献帝(在位:181~220年)』を名乗らせました。後漢最後の皇帝となりました。
〇190年、これに反対する刺史・太守などの軍閥たちは各地で反董卓の軍を挙げて、反董卓連としてして董卓を攻めました。(同上) -
〇連合軍と董卓軍は何度か激突しますが、董卓は洛陽に火をかけて焦土とした上で、西の長安へと引き揚げ、長安に都を移しました。洛陽は、袁術の部将の孫堅が制圧しました。この時点での後の三国の創始者たちの動向です。魏の創始者の曹操は、連合軍に参加し、自前の兵力は少なかったものの、『鮑信(ほうしん:152~192年)』と手を組み、董卓軍に果敢に挑みましたが、大敗しました。(同上)
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〇蜀漢の創始者である劉備は、連合軍の中の公孫瓚の配下の一武将に過ぎませんでした。呉の創始者である孫権の父の孫堅は、荊州刺史の王叡や南陽太守の張咨を殺害するなど傍若無人を極めていましたが、袁術の配下に収まってからは陽人の戦いで董卓軍を破り、董卓の武将である華雄を討ち取り、洛陽を制圧するなど、目立つ活躍を見せました。(同上)
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〇『袁紹(えん・しょう:生年不詳~202年)』は、董卓により擁立された長安の献帝に対抗するため、幽州の『劉虞(りょう・ぐ:生年不詳~199年)』の擁立を計画しましたが、一族の『袁術(えん・じゅつ:155~199年)』は、これに強く反対しています。また、劉虞自身も皇帝になるのを拒否しています。(同上)
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〇この頃、中国北部では韓馥から冀州を奪い取った袁紹と、幽州に割拠する公孫瓚が対立し、中国中部では豫州と荊州南陽郡で袁術とその配下になっていた孫堅が勢力を広げ、中国南部では荊州で劉表が、益州では劉焉が勢力を拡大していました。(同上)
*写真は、海難訓練のメンバーのようでした。オレンジ色のライフ・ジャケットを身に着けた人達が真剣に取り組んでいました。 -
〇袁術の配下の孫堅は、豫州刺史でしたが、191年、袁紹は周昂(または周昕)を豫州刺史として派遣しましたので、孫堅と孫堅の主である袁術は周昂(または周昕)と豫州を奪い合うこととなりました。これにより反董卓連合軍は完全に崩壊し、袁術と袁紹の対立が激化しました。(同上)
*写真は、同じく海難訓練らしいメンバーの光景です。 -
〇と袁紹の対立により、それぞれ群雄と盟約を結び対抗しました。袁紹と同盟したのが曹操・劉表・周喁など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫瓚・陶謙などでした。
〇192年(あるいは191/193年)、袁紹の意を受けた荊州の劉表が袁術の背後を襲い、袁術の命令で孫堅が劉表を攻めましたが、劉表の部下の黄祖により戦死しました(襄陽の戦い)。孫堅の軍は孫賁が継いで袁術のもとに帰還しました。(同上) -
〇192年1月、董卓軍の牛輔は李?・郭汜・張済に命じて、中牟で袁術派に寝返っていた朱儁を破らせ、兗州陳留郡・豫州潁川郡の諸県を攻略させ、李?・郭汜らは行く先々で略奪・殺戮・誘拐を行いました。(同上)
*写真は、三国城セットの平面図ですが、傷んで解読し難くなっていました。呉国の海軍基地は、左上付近です。 -
〇董卓は銅貨の五銖銭を改鋳して貨幣価値を落としたため、経済混乱(インフレーション)を招きました。192年4月、董卓は司徒の王允と部下の呂布により殺されました。〇董卓の勢力は部下の李?・郭汜らに引き継がれました。李?・郭汜らは王允・呂布を破り、献帝を手中に収め、後漢政府の事実上の統率者となりましたが、暴政を布いたため、前漢の首都圏は荒廃しました。(同上)
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イチオシ
巨大な鼎の光景です。歴史的文化財ではない、レプリカのようでしたが、その大きさはギネスブック・クラスのようでした。鼎は、三国志時代の版図にも例えられるため、ここに展示してあったようです。『鼎(かなえ)』は、食物を煮るのに用いた金属の器のことです。古くは土器で、飲食物を煮るだけに用いられましたが、後に祭祀用になりました。(同上)
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同じく、ギネスブック・クラスの大きさとされる鼎のズームアップ光景です。三国志時代の始まりの説明に戻ります。後に後漢の『魏王』となった『曹操(155~220年)』の台頭についての紹介です。
〇192年、曹操は兗州牧となり、兗州で青州から来た黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を自分の配下に納めて、急激に勢力を拡大しました。(ウィキペディア) -
〇193年、袁術が正式な兗州刺史金尚を伴って曹操の兗州を攻めましたが、青州兵を得て兵力が整っていた曹操に大敗し、さらに劉表に背後を絶たれたため、本拠地の南陽郡を捨て、揚州の寿春に落ち延び、寿春を本拠地として割拠しました。
〇193年、劉虞は公孫瓚を攻めますが、公孫瓚に敗れ、捕らえられて処刑されました。(同上) -
〇193年、曹操は父の曹嵩や弟の曹徳を陶謙の配下が殺したとして、敵討ちのために徐州の陶謙を攻めて大勝しましたが、通過した地域で多くの人を虐殺しました。
〇194年、陶謙は病に倒れ、先年の曹操の侵攻の際に自分への援軍に駆け付けた後に豫州刺史に推挙していた劉備に徐州を譲る意思を示しました。劉備は陶謙が死去するとこれを受け入れました。(同上) -
194年、曹操の親友の張邈と部将の陳宮が呂布を迎え入れて、曹操に反逆し、曹操の領地の兗州の大半は、呂布のものとなりました。しかし、曹操の部下の荀彧・夏侯惇・程昱らが曹操の本拠地を守り抜き、曹操は呂布との激戦の末に兗州から呂布を駆逐し、兗州を取り返しました。呂布は徐州刺史の『劉備(161~223年)』を頼り、劉備の保護を受けました。(同上)
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〇194年、馬騰・韓遂・劉焉らが長安の李?を攻めましたが、樊稠・郭汜らに大敗しました。
〇194年、劉焉は死去し、劉焉の子の劉璋が益州牧となりました。
〇195年、袁術の庇護下にあった孫策は、父の孫堅の服喪が明けたため、袁術のもとに出仕して馬日?の上表により懐義校尉に任命され、江東へと進出して揚州刺史劉繇を破りました。
〇また同時期に呉郡太守許貢を破り、呉郡・丹陽郡一帯に勢力を築きました。その後も孫策は揚州の諸勢力に勝利し、急速に勢力を拡大していきました。(同上) -
〇196年、呂布が徐州から劉備を追い出し、徐州を支配しました。その後、劉備は呂布に攻められて敗走し、曹操のもとに身を寄せました。
〇196年、李?・郭汜らは内紛を起こし、献帝は楊奉らとともに東に逃亡して、洛陽に入りました。
〇196年、曹操は荀彧・董昭らの計略に従い、献帝を曹操の拠点である許に連れていきました。曹操は献帝を道義的・政治的な後ろ盾として使い、政略を有利に進めていきました。以後、許は許都と呼ばれます。
〇196年、曹操は屯田制を開始しました。
〇197年、袁術は皇帝を自称しますが、このことで袁術は求心力を失い、部将の離反を招き、その勢力は急激に衰えていきました。孫策はこれを契機に袁術からの独立を決意し、完全な自立勢力となりました。(同上) -
〇曹操は呂布・袁術などを滅ぼし、曹操に反逆した劉備を追い散らして河南から山東までの地域を統一しました。
〇一方、袁紹も公孫瓚を滅ぼして、河北・山西を領有し、曹操と袁紹とがにらみ合う状態となりました。
〇両雄は200年の黄河南岸の白馬・官渡などで激突します。(官渡の戦い)
〇序盤は曹操が袁紹の部将の顔良・文醜を討ち取り、優位に立ちます。しかし、曹操軍本体と袁紹軍本体の戦いで、兵力に勝る袁紹軍が勝利し、曹操は官渡の砦に篭城しました。(同上) -
〇袁紹は豫州の諸郡に対し、味方になるよう誘いをかけ、曹操軍の後方に劉備らを派遣し、荒らし回らせると、曹操は本拠地の豫州の支配の維持さえ困難となり、窮地に陥りました。しかし、袁紹軍から投降してきた許攸の計略を用いて、曹操が袁紹の兵糧庫を奇襲してこれを焼き払ったことをきっかけに、曹操の大勝利に終わり、中原での覇権を確固たるものとしました。(同上)
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〇202年、袁紹が病死しますと、曹操はしばらくは袁紹の息子の袁譚・袁尚らを滅ぼすことに費やし、黒山賊の張燕を降伏させ、袁氏に味方した袁紹の甥の高幹や烏桓族を攻め下し、袁紹の旧勢力を吸収した曹操は圧倒的な大勢力となり、南下に乗り出しました。
〇208年、曹操が南征を開始しますと、荊州の劉表は死去しました。荊州では劉表の後継者争いが起こっていました。
〇長男の劉琦を支持する側と、次男の劉琮を支持する側に分かれて、優勢であった劉琮が荊州牧に就きました。荊州では曹操軍が到来したと知ると、劉琮は王粲の勧めもあり曹操に帰順しました。(同上)
*写真は、『三国城』の文字が記された巨大な標識の光景です。 -
〇曹操は新野の劉備を攻めようとしました。しかし、劉備軍はいち早く撤退しましたので曹操は軽騎をもって追撃し、当陽県の長坂でこれを大いに撃破しました。
〇しかし、劉備軍の被害はいたって少なく、彼らは江東の孫権と同盟して曹操軍と対峙するに至りました。
〇周瑜は部将黄蓋の進言を採用し、佯降を偽装して接近に成功しました。(同上) -
〇接近に成功した黄蓋が、曹操軍の船団に火を放つと忽ち燃え広がり。曹操軍を火計で破りました。(赤壁の戦い)
〇周瑜が劉備と再度合流して追走しますと、曹操は曹仁と徐晃を江陵の守備に、楽進を襄陽の守備に残し、自らは北方へ撤退しました。『呉主伝』(同上)
*写真は、昼食のレストランの看板の紹介です。『紫雲湖鮮館』の文字がありました。無錫は水産物が豊富で『太湖三白(銀魚、白蝦、白魚)』を食べないと無錫に来た甲斐がないとも言われるほどです。白魚は骨が少なくて、味もあっさりしています。その鮮魚店です。 -
〇『赤壁の戦い』後、劉備は劉表の長子の劉琦を上表し荊州刺史に擁立しました。
〇荊州南部の武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を併合し、徐州を追い出されて以来、初めて確固たる基盤を得ました。
〇敗れた曹操は北へ引き返し、以後は南征を控えて華北の経営と軍事力の回復を中心に行うことになります。
〇孫権は劉備とともに荊州を攻め取りました。孫権は南郡を獲得し、劉備は武陵・長沙・桂陽・零陵の大部分を獲得しました。
〇ほどなくして劉琦が死去したため、劉備自ら荊州牧となりました。
〇劉備は京城で孫権と会見し、赤壁から荊州争奪戦で獲得した領地の領有権について話しました。(同上) -
〇周瑜を失った呉は『劉備と協調して曹操に対抗すべきだ』という魯粛の提案により、孫権は劉備に荊州の数郡を貸し与えることにしました。
〇周瑜の後は魯粛が継ぎました。
〇229年、孫権は即位し『周瑜がいなければ皇帝になれなかった』と嘆きました。
〇239年、孫権が蕪湖に周瑜を祀る廟を建てました。(以上)
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