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泰州市にある古典庭園の喬園の紹介です。明の万暦年間(1573~1620年)の時に建てられた個人園林です。その後、塩運使の『喬松年』が所有したため、『喬園』と称されるようになりました。(ウィキペディア、JTB・中国)

2012春、中国旅行記22(14/50):4月15日(9):泰州市、喬園、泰州市の古典庭園、太湖石の庭石

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2012/04/14 - 2012/04/18

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旅行記グループ 2012春、中国旅行記22(上巻)

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旅人のくまさん

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泰州市にある古典庭園の喬園の紹介です。明の万暦年間(1573~1620年)の時に建てられた個人園林です。その後、塩運使の『喬松年』が所有したため、『喬園』と称されるようになりました。(ウィキペディア、JTB・中国)

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  • 喬園の建物光景です。途中から所有した『喬松年(きょう・しょうねん:1815~1875年)』は、清末の官僚です。字は鶴儕、山西省徐溝県出身とされます。『蘿藦亭伝記』、『蘿藦亭遺詩』の著作があります。(同上)<br />

    喬園の建物光景です。途中から所有した『喬松年(きょう・しょうねん:1815~1875年)』は、清末の官僚です。字は鶴儕、山西省徐溝県出身とされます。『蘿藦亭伝記』、『蘿藦亭遺詩』の著作があります。(同上)

  • 〇喬松年は、1835年に進士となり、工部主事・郎中を歴任しました。1853年、蘇州の知府に任命されました。当時、上海は劉麗川率いる小刀会に占拠されていましたが、喬松年は城内の郷勇と連絡を取り、鎮圧に成功しました。<br />〇この功により常鎮通海道に任命されました。<br />〇1856年から常州に駐屯して太平天国軍と戦いました。(同上)

    〇喬松年は、1835年に進士となり、工部主事・郎中を歴任しました。1853年、蘇州の知府に任命されました。当時、上海は劉麗川率いる小刀会に占拠されていましたが、喬松年は城内の郷勇と連絡を取り、鎮圧に成功しました。
    〇この功により常鎮通海道に任命されました。
    〇1856年から常州に駐屯して太平天国軍と戦いました。(同上)

  • 〇『太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)』は、1851年に清で起こった大規模な反乱です。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きました。『長髪賊の乱』ともいわれます。(同上)

    〇『太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)』は、1851年に清で起こった大規模な反乱です。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きました。『長髪賊の乱』ともいわれます。(同上)

  • 〇1863年、安徽巡撫に抜擢され、翌年に湖北省から安徽省に侵入した太平天国軍・捻軍をセンゲリンチン(僧格林沁)・英翰らとともに迎撃し、10万人を降伏させ、首領の陳得才を自殺させる功をたてました。<br />〇1866年、陝西巡撫に転任し、提督の劉松山や安徽軍を率いる郭宝昌と協力して、侵入した張宗禹率いる捻軍と戦い、陝西省を守り抜きました。<br />〇1871年、東河総督に任命され、黄河の治水にあたりました。死後、勤格の諡号を贈られました。(同上)

    〇1863年、安徽巡撫に抜擢され、翌年に湖北省から安徽省に侵入した太平天国軍・捻軍をセンゲリンチン(僧格林沁)・英翰らとともに迎撃し、10万人を降伏させ、首領の陳得才を自殺させる功をたてました。
    〇1866年、陝西巡撫に転任し、提督の劉松山や安徽軍を率いる郭宝昌と協力して、侵入した張宗禹率いる捻軍と戦い、陝西省を守り抜きました。
    〇1871年、東河総督に任命され、黄河の治水にあたりました。死後、勤格の諡号を贈られました。(同上)

  • 〇『捻軍(ねんぐん)』は、太平天国の乱と同時期に清に反抗した華北の武装勢力です。清国側は捻匪や捻賊と呼びました。捻乱とも呼ばれます。<br />〇「捻」は、「ひねる」「こよる」という意味の語ですが、淮河北方の方言では「一本一本の糸をよりあげる」ことから転じて「人々の集まり」を示します。<br />〇捻軍の起源は、「捻子」という遊民の集団で安徽省・河南省一帯に広がっていきました。<br />〇豊2年(1852年)の飢饉で加入者が増加しますと、18名の首領が会合し、張楽行を盟主として活動が活発化しました。(同上)

    〇『捻軍(ねんぐん)』は、太平天国の乱と同時期に清に反抗した華北の武装勢力です。清国側は捻匪や捻賊と呼びました。捻乱とも呼ばれます。
    〇「捻」は、「ひねる」「こよる」という意味の語ですが、淮河北方の方言では「一本一本の糸をよりあげる」ことから転じて「人々の集まり」を示します。
    〇捻軍の起源は、「捻子」という遊民の集団で安徽省・河南省一帯に広がっていきました。
    〇豊2年(1852年)の飢饉で加入者が増加しますと、18名の首領が会合し、張楽行を盟主として活動が活発化しました。(同上)

  • 〇咸豊3年(1853年)、太平天国が北伐を開始しますと、安徽省・河南省の捻軍はこれに呼応して、至る所で蜂起しました。<br />〇咸豊5年(1855年)、黄河の堤防が決壊しますと、山東省・安徽省北部・江蘇省北部の多くの民衆が難民となり、捻軍に加入しました。<br />〇捻軍は亳州で張楽行を「大漢盟主」とし、黄・白・藍・黒・紅の「五旗軍制」を制定し、雉河集を根拠地としました。数十万人が集まり、淮河の南北はみな捻軍という状況でした。<br />〇咸豊6年(1856年)、交通の要衝の潁州三河尖を占領し、太平天国の陳玉成と緊密な連携を持つこととなりました。(同上)

    〇咸豊3年(1853年)、太平天国が北伐を開始しますと、安徽省・河南省の捻軍はこれに呼応して、至る所で蜂起しました。
    〇咸豊5年(1855年)、黄河の堤防が決壊しますと、山東省・安徽省北部・江蘇省北部の多くの民衆が難民となり、捻軍に加入しました。
    〇捻軍は亳州で張楽行を「大漢盟主」とし、黄・白・藍・黒・紅の「五旗軍制」を制定し、雉河集を根拠地としました。数十万人が集まり、淮河の南北はみな捻軍という状況でした。
    〇咸豊6年(1856年)、交通の要衝の潁州三河尖を占領し、太平天国の陳玉成と緊密な連携を持つこととなりました。(同上)

  • 〇数十万人が集まり、淮河の南北はみな捻軍という状況でした。<br />〇咸豊6年(1856年)、交通の要衝の潁州三河尖を占領し、太平天国の陳玉成と緊密な連携を持つこととなりました。(同上)<br />*写真は、泰州の古典庭園の喬園の泉水光景です。泉水の縁取りは、重ね合わせた細長い石が主体でした。水の入れ替えが少ないのか、やや緑色をしていました。泳ぐ魚の姿が見えましたから、藻の発生は深刻ではないようです。

    〇数十万人が集まり、淮河の南北はみな捻軍という状況でした。
    〇咸豊6年(1856年)、交通の要衝の潁州三河尖を占領し、太平天国の陳玉成と緊密な連携を持つこととなりました。(同上)
    *写真は、泰州の古典庭園の喬園の泉水光景です。泉水の縁取りは、重ね合わせた細長い石が主体でした。水の入れ替えが少ないのか、やや緑色をしていました。泳ぐ魚の姿が見えましたから、藻の発生は深刻ではないようです。

  • 〇咸豊8年(1858年)から同治元年(1862年)まで、捻軍は山東・江蘇・安徽を転戦します。これに対し清朝は、モンゴル族の勇将センゲリンチン(僧格林沁)を投入しました。同治2年(1863年)にセンゲリンチンは雉河集を攻略し、張楽行を捕らえ処刑しました。(同上)<br />*写真は、泉水の魚のズームアップ光景です。緋鯉と野鯉らしい姿が見えました。

    〇咸豊8年(1858年)から同治元年(1862年)まで、捻軍は山東・江蘇・安徽を転戦します。これに対し清朝は、モンゴル族の勇将センゲリンチン(僧格林沁)を投入しました。同治2年(1863年)にセンゲリンチンは雉河集を攻略し、張楽行を捕らえ処刑しました。(同上)
    *写真は、泉水の魚のズームアップ光景です。緋鯉と野鯉らしい姿が見えました。

  • 〇同治3年(1864年)に太平天国が滅亡しますと、太平天国の遵王・頼文光は張楽行の甥の張宗禹ら捻軍の残存勢力と連合して組織の改編を行いました。<br />〇頼文光は捻軍の部将に太平天国の王号を授け、10万人の騎兵を擁するようになりました。(同上)<br />*写真は、睡蓮の葉と、緋鯉の光景です。

    〇同治3年(1864年)に太平天国が滅亡しますと、太平天国の遵王・頼文光は張楽行の甥の張宗禹ら捻軍の残存勢力と連合して組織の改編を行いました。
    〇頼文光は捻軍の部将に太平天国の王号を授け、10万人の騎兵を擁するようになりました。(同上)
    *写真は、睡蓮の葉と、緋鯉の光景です。

  • 名前:『オウバイモドキ(黄梅擬)』 (推定)<br />分類:モクセイ科ソケイ属<br />分布:中国西南部原産。<br />その他:池に枝垂れる黄色の花です。オウバイモドキ(黄梅擬)当たりでしょうか。(同上)

    名前:『オウバイモドキ(黄梅擬)』 (推定)
    分類:モクセイ科ソケイ属
    分布:中国西南部原産。
    その他:池に枝垂れる黄色の花です。オウバイモドキ(黄梅擬)当たりでしょうか。(同上)

  • 〇同治4年(1865年)、捻軍は山東省の曹州でセンゲリンチンの騎兵部隊を壊滅させ(高楼寨の戦い)、英雄を失った清朝を震え上がらせました。<br />〇清朝は曽国藩に捻軍の討伐を命じ、曽国藩は湘軍・淮軍8万を率いて当たりましたが、捻軍は包囲を突破して湖北省に入ったため、曽国藩は欽差大臣を解任され、李鴻章に代わりました。(同上)

    〇同治4年(1865年)、捻軍は山東省の曹州でセンゲリンチンの騎兵部隊を壊滅させ(高楼寨の戦い)、英雄を失った清朝を震え上がらせました。
    〇清朝は曽国藩に捻軍の討伐を命じ、曽国藩は湘軍・淮軍8万を率いて当たりましたが、捻軍は包囲を突破して湖北省に入ったため、曽国藩は欽差大臣を解任され、李鴻章に代わりました。(同上)

  • 〇同治5年(1866年)、捻軍は東西に分かれ、東捻軍を頼文光・任柱・李蘊泰が指揮し、西捻軍は張宗禹・邱遠才・張禹爵が指揮して陝西省に入りました。<br />〇東捻軍は山東省で李鴻章に包囲され同治6年(1867年)の尹隆河の戦いで大きな打撃を受けました。<br />〇西捻軍は左宗棠と戦っていましたが、東捻軍の救援に向かいました。(同上)

    〇同治5年(1866年)、捻軍は東西に分かれ、東捻軍を頼文光・任柱・李蘊泰が指揮し、西捻軍は張宗禹・邱遠才・張禹爵が指揮して陝西省に入りました。
    〇東捻軍は山東省で李鴻章に包囲され同治6年(1867年)の尹隆河の戦いで大きな打撃を受けました。
    〇西捻軍は左宗棠と戦っていましたが、東捻軍の救援に向かいました。(同上)

  • 〇同治7年(1868年)、東捻軍は山東省の膠萊河で全滅し頼文光は捕えられました。<br />〇西捻軍は保定・天津に迫りましたが、大雨で騎兵が動けず壊滅し、張宗禹は行方不明となりました。(一説に投水自殺したといわれます)<br />〇こうして十数年にわたって安徽・河南・山東・江蘇・湖北・陝西・山西・直隷の8省を駆け巡った捻軍の戦いは終結しました。(同上)

    〇同治7年(1868年)、東捻軍は山東省の膠萊河で全滅し頼文光は捕えられました。
    〇西捻軍は保定・天津に迫りましたが、大雨で騎兵が動けず壊滅し、張宗禹は行方不明となりました。(一説に投水自殺したといわれます)
    〇こうして十数年にわたって安徽・河南・山東・江蘇・湖北・陝西・山西・直隷の8省を駆け巡った捻軍の戦いは終結しました。(同上)

  • 『前期捻軍』の組織は、次の通りでした。概ね1855年以降1863年までです。<br />〇黄旗:張楽行(大漢盟主):1811~1863年刑死<br />〇白旗:龔得樹(軍師)<br />〇黒旗:蘇天福・王貫三<br />〇紅旗:侯士偉<br />〇藍旗:韓奇峰 (同上)

    『前期捻軍』の組織は、次の通りでした。概ね1855年以降1863年までです。
    〇黄旗:張楽行(大漢盟主):1811~1863年刑死
    〇白旗:龔得樹(軍師)
    〇黒旗:蘇天福・王貫三
    〇紅旗:侯士偉
    〇藍旗:韓奇峰 (同上)

  • 『後期捻軍』の組織は、次の通りでした。前期の後の期間です。<br />〇遵王:頼文光<br />〇梁王:張宗禹:生年不詳~1868年?:張楽行の後任です。<br />〇荊王:牛宏升<br />〇魯王:任柱<br />〇幼沃王:張禹爵<br />〇魏王:李蘊泰<br />〇淮王:邱遠才 (以上)

    『後期捻軍』の組織は、次の通りでした。前期の後の期間です。
    〇遵王:頼文光
    〇梁王:張宗禹:生年不詳~1868年?:張楽行の後任です。
    〇荊王:牛宏升
    〇魯王:任柱
    〇幼沃王:張禹爵
    〇魏王:李蘊泰
    〇淮王:邱遠才 (以上)

  • 名前:『フジ(藤)』 (推定:野田藤)<br />分類:マメ科フジ属<br />分布:日本の固有種。<br />その他:開花直前の藤の花の光景です。(同上)<br />

    イチオシ

    名前:『フジ(藤)』 (推定:野田藤)
    分類:マメ科フジ属
    分布:日本の固有種。
    その他:開花直前の藤の花の光景です。(同上)

  • 名前:『フジ(藤)』 (推定:野田藤)<br />分類:マメ科フジ属<br />分布:日本の固有種。<br />その他:同じく、開花直前の藤の花です。日本固有種の野田藤ではなく、シナフジかも知れません。(同上)

    名前:『フジ(藤)』 (推定:野田藤)
    分類:マメ科フジ属
    分布:日本の固有種。
    その他:同じく、開花直前の藤の花です。日本固有種の野田藤ではなく、シナフジかも知れません。(同上)

  • 『喬園』の文字が陽刻風の扁額の光景です。430年あまりの歴史を持ち、蘇州北部地域に現存する最古の古典園林とされます。瀟洒な文字が記された扁額は、まだ新しい造りのようでした。(同上)

    イチオシ

    『喬園』の文字が陽刻風の扁額の光景です。430年あまりの歴史を持ち、蘇州北部地域に現存する最古の古典園林とされます。瀟洒な文字が記された扁額は、まだ新しい造りのようでした。(同上)

  • 『喬園』の名前の元になった『喬松年』の主な役職と年次は次の通りです。(『清史稿』巻425・列伝212)<br />〇安徽巡撫:1863~1866年<br />〇陝西巡撫:1866~1868年<br />〇河道総督:1871~1875年 (同上)

    『喬園』の名前の元になった『喬松年』の主な役職と年次は次の通りです。(『清史稿』巻425・列伝212)
    〇安徽巡撫:1863~1866年
    〇陝西巡撫:1866~1868年
    〇河道総督:1871~1875年 (同上)

  • 先程引用した『清史稿(しんしこう)』は、中国の辛亥革命による中華民国成立後に、趙爾巽が中心となって、約100人余りの学者が編纂した二十四史を継ぐ清朝1代の未定稿の紀伝体歴史書です。『趙爾巽(ちょう・じそん)』は、清末民初の政治家で、清末に地方官を歴任し、辛亥革命後は袁世凱・段祺瑞政権下で『清史稿』編纂の主幹を担いました。(同上)

    先程引用した『清史稿(しんしこう)』は、中国の辛亥革命による中華民国成立後に、趙爾巽が中心となって、約100人余りの学者が編纂した二十四史を継ぐ清朝1代の未定稿の紀伝体歴史書です。『趙爾巽(ちょう・じそん)』は、清末民初の政治家で、清末に地方官を歴任し、辛亥革命後は袁世凱・段祺瑞政権下で『清史稿』編纂の主幹を担いました。(同上)

  • 『清史稿』の作成過程についての紹介です。『中華民国(北洋軍閥)』国務院は、先例にのっとり清史館を設立し、二十四史に続く清代の歴史書を残すよう、大総統の『袁世凱(1859~1916年)』に意見書を出しました。1914年3月、袁世凱は自らの皇帝即位への思惑を含めて清史館設立の布告を出しました。(同上)<br />*写真は、喬園の庭木と石橋の光景です。

    『清史稿』の作成過程についての紹介です。『中華民国(北洋軍閥)』国務院は、先例にのっとり清史館を設立し、二十四史に続く清代の歴史書を残すよう、大総統の『袁世凱(1859~1916年)』に意見書を出しました。1914年3月、袁世凱は自らの皇帝即位への思惑を含めて清史館設立の布告を出しました。(同上)
    *写真は、喬園の庭木と石橋の光景です。

  • 〇清朝の遺臣である『趙爾巽』を館長に任命し、柯劭忞らが編纂主任となり、9月1日に正式に開館し、『清史』の編纂を開始しました。約100人余りが編纂に参加しました。編集方針は議論がありましたが、清史を『旧来の史書の最後』と位置付け、皇帝なき時代の歴史書は、自ずから別に議論されるはずだからとし、清史は明史の形式を踏襲すべきという主張が大勢を占めました。(同上)

    〇清朝の遺臣である『趙爾巽』を館長に任命し、柯劭忞らが編纂主任となり、9月1日に正式に開館し、『清史』の編纂を開始しました。約100人余りが編纂に参加しました。編集方針は議論がありましたが、清史を『旧来の史書の最後』と位置付け、皇帝なき時代の歴史書は、自ずから別に議論されるはずだからとし、清史は明史の形式を踏襲すべきという主張が大勢を占めました。(同上)

  • 〇財政難と袁世凱死後の政治の混乱から編纂作業は遅れ、1920年に初稿が完成したものの、編集が一時中断された後に1926年から修正開始、翌1927年にほぼ脱稿しました。(同上)<br />*写真は、太湖石の奇石の光景です。江南地方では、『透、痩、漏、皺』が太湖石を評価する四大原則だとされます。大きな穴や多くの穴が開いていて反対側が見え、かつ、細身で皺が複雑な太湖石が、価値のある太湖石の条件とされます。尊御条件を満たす奇石の一つのようでした。

    〇財政難と袁世凱死後の政治の混乱から編纂作業は遅れ、1920年に初稿が完成したものの、編集が一時中断された後に1926年から修正開始、翌1927年にほぼ脱稿しました。(同上)
    *写真は、太湖石の奇石の光景です。江南地方では、『透、痩、漏、皺』が太湖石を評価する四大原則だとされます。大きな穴や多くの穴が開いていて反対側が見え、かつ、細身で皺が複雑な太湖石が、価値のある太湖石の条件とされます。尊御条件を満たす奇石の一つのようでした。

  • 〇趙爾巽は、奉天の張作霖らの協力を得て翌28年に出版しますが、発行直前に趙爾巽が病死しました。<br />〇すると、その後の方針を巡って清史館が内紛状態に陥り、更に追い討ちをかけるように、蔣介石率いる国民政府の北伐軍が清史館のある北京を占領しました。<br />〇国民政府は「清史稿」に強く反発しました。(同上)

    〇趙爾巽は、奉天の張作霖らの協力を得て翌28年に出版しますが、発行直前に趙爾巽が病死しました。
    〇すると、その後の方針を巡って清史館が内紛状態に陥り、更に追い討ちをかけるように、蔣介石率いる国民政府の北伐軍が清史館のある北京を占領しました。
    〇国民政府は「清史稿」に強く反発しました。(同上)

  • 〇国民政府の反発は、「清史稿」が中国国民党を「賊」として扱っている事や、辛亥革命後に及んだ記事についても宣統の元号を用いている事などでした。<br />〇このため、国民政府では清史稿の出版禁止命令が出されました。<br />〇先の内紛の際に外部に持ち出された版があり、満州国や日本軍の占領地域で刊行され続け、現在の中華人民共和国も認めているようです。(以上)

    〇国民政府の反発は、「清史稿」が中国国民党を「賊」として扱っている事や、辛亥革命後に及んだ記事についても宣統の元号を用いている事などでした。
    〇このため、国民政府では清史稿の出版禁止命令が出されました。
    〇先の内紛の際に外部に持ち出された版があり、満州国や日本軍の占領地域で刊行され続け、現在の中華人民共和国も認めているようです。(以上)

  • 名前:『タケ(竹)』<br />分類:イネ科タケ亜科<br />分布:タケ類の種は、世界で600種~1,200種。<br />その他:竹林の光景です。この庭園の見所の一つです。(同上)<br />

    名前:『タケ(竹)』
    分類:イネ科タケ亜科
    分布:タケ類の種は、世界で600種~1,200種。
    その他:竹林の光景です。この庭園の見所の一つです。(同上)

  • 名前:『タケ(竹)』<br />分類:イネ科タケ亜科<br />分布:タケ類の種は、世界で600種~1,200種。<br />その他:竹林の光景です。(同上)<br />

    名前:『タケ(竹)』
    分類:イネ科タケ亜科
    分布:タケ類の種は、世界で600種~1,200種。
    その他:竹林の光景です。(同上)

  • 名前:『タケ(竹)』<br />分類:イネ科タケ亜科<br />分布:タケ類の種は、世界で600種~1,200種。その他:竹林とその間を通る石畳の散策路の光景です。(同上)<br />

    名前:『タケ(竹)』
    分類:イネ科タケ亜科
    分布:タケ類の種は、世界で600種~1,200種。その他:竹林とその間を通る石畳の散策路の光景です。(同上)

  • 名前:『タケ(竹)』<br />分類:イネ科タケ亜科<br />分布:タケ類の種は、世界で600種~1,200種。<br />その他:竹林の光景です。(同上)<br />

    名前:『タケ(竹)』
    分類:イネ科タケ亜科
    分布:タケ類の種は、世界で600種~1,200種。
    その他:竹林の光景です。(同上)

  • 『喬園』の母屋のような建物光景です。塔のような姿をした、三階建ての建物でした。上階からは、四方の見晴らしが効きそうな造りでした。南面になるようですが、一階から三階まで全て壁ではなく、扉か窓になっているようでした。(同上)

    イチオシ

    『喬園』の母屋のような建物光景です。塔のような姿をした、三階建ての建物でした。上階からは、四方の見晴らしが効きそうな造りでした。南面になるようですが、一階から三階まで全て壁ではなく、扉か窓になっているようでした。(同上)

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