2012/04/14 - 2012/04/18
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三国史演義のロケ地として建設された、三国城の紹介の続きです。太湖を『周瑜号』と呼ばれる遊覧船で巡り、湖上からもロケセットを見学しました。(ウィキペディア、JTB・中国)
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イチオシ
『呉』の文字が記された、かつての海軍施設の光景です。三国時代とは、後漢の滅亡に伴い、台頭した地方豪族の中で、それらをまとめあげた、魏(220~265年)、蜀(221~263年)、呉(222~280年)の三国で覇権を争った時代です。魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権の三者によって群雄割拠する地方豪族をまとめあげました。三国時代の勢力分野は、北が魏、東南が呉、西南が蜀の大雑把な支配区域でした。このため、呉の国は、『東呉』の呼び名もあります。(同上)
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『呉(222~280年)』の建国者の『孫権(182~252年)』は、父祖の時代から長江下流域に拠っていた豪族です。魏・蜀に次いで独立国の体裁をとり、のち、国を呉と号し、『建業(今の南京)』に都を定めました。支配区域の東は北限は長江辺り、東は東シナ海に面し、南は海南島や現在のベトナム北部も領域としました。(同上)
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正式には、呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る説もあります。しかし孫権が勢力を張ったのは父の孫堅・兄の孫策が築いたものを受け継いでのことでした。孫堅は呉の力弱い豪族と呼ばれる出身でした。孫堅の家は代々、呉郡富春県(浙江省)で役人をしていて、その家格は低く、家柄が重視されていた後漢の政界の中では軽視されていました。(同上)
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三国時代の儒学者、歴史家で政治家の『韋昭(い・しょう:生年不詳~273年)』が著した『呉史』によれば、孫堅一族は『孫子』の著者・孫武の末裔と称して、代々小役人を務めたと記しています。各地の県丞を歴任し、更に自らの実力をもって徐々に位を上げていき、黄巾の乱において功績を挙げました。(同上)
*写真は、遊覧を終えて帰着した船の紹介が続きます。 -
黄巾の乱での功績で、戦後に別部司馬(別働隊の指揮を執る武将)となりました。戦後も辺章・韓遂の反乱鎮圧に功績を挙げて長沙太守に任ぜられました。189年に洛陽で董卓が暴政を布いて関東諸豪族の反感を買い、反董卓連合軍が結成されると、孫堅も出兵しました。(同上)
*写真は、太湖の周りの岬や山々の遠望です。 -
出兵の途中、武陵太守寅が、光禄大夫の温毅の檄文を偽造した偽の檄文を受け取り、荊州刺史王叡・南陽太守張咨らを殺害し、そのまま南陽に乗り込んだ袁術の配下に入りました。連合軍は初めから戦意は低く、袁術と孫堅は董卓と一進一退の攻防を繰り返し、董卓の武将・華雄を討ち取り、呂布を撃退しました。(同上)
*写真は、最初に紹介した呉の海軍基地の光景です。 -
その後、董卓は洛陽を焼き払い、歴代皇帝の陵墓を荒らして西の長安へと去っていきました。孫堅は主のいなくなった洛陽に入り、復興と陵墓の修復に当たりました。また、これに前後して豫州刺史の孔伷が亡くなったため、孫堅は袁術の上表により、行破虜将軍(破虜将軍代行)、豫州刺史の位を得ました。(同上)
*写真は、楼塔が立ち並ぶ呉の基地の光景です。 -
しかし、袁紹は孫堅を豫州刺史と認めず、豫州刺史として周喁を送り込み、袁術・孫堅らと対立しました。これによって連合軍は完全に崩壊し、袁術・孫堅は袁紹・周喁と豫州を巡って戦争になりました。反攻の機会と見た董卓は洛陽を再占領のために朱儁を送り込みますが、朱儁は董卓を裏切って袁術に降伏し、中牟に駐屯しました。(同上)
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名前:『ナノハナ(菜の花)』
分類:アブラナ科アブラナ属
分布:地中海沿岸が原産地。
その他:現在は中国が世界最大の生産地です。(同上) -
イチオシ
名前:『ナノハナ(菜の花)』
分類:アブラナ科アブラナ属
分布:地中海沿岸が原産地。
その他:ナノハナ間に咲いている赤い花は、梅のようです。(同上) -
太湖遊覧船の予約が取れたようでしたから、待ち時間の間に近くを周遊しました。『呉』の国の紹介に戻ります。荊州刺史の劉表は、反董卓連合が結成された当時は袁術との関係は良好でしたが、二袁の争いで袁紹側についていたため、関係が悪化し、袁術は劉表討伐に乗り出しました。(同上)
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191年もしくは192年、孫堅は襄陽に侵攻し、劉表の部将である黄祖の軍を打ち破りますが、追撃途中に流れ矢(一説には落石)に当たって死亡しました。『襄陽の戦い(じょうようのたたかい)』は、中国後漢末期の191年に、孫堅と劉表との間で行われた戦いです。孫堅軍は終始優勢で戦を進め劉表軍を追い詰めましたが、孫堅が戦死したため退却を余儀なくされました。(同上)
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次は、『孫策(175~200年)』の時代の紹介です。孫堅亡き後、その軍団は甥の孫賁の指揮の元に袁術の旗下に入り、長男の孫策は兵を取り上げられ、力を失いました。しかし父と同じようにその状況からのし上り、袁術から貰ったわずか1,000ばかりの兵を元に江東(長江の東、江蘇省・安徽省)の劉繇・王朗らを撃破、またたく間に江東を制覇しました。(同上)
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孫策の周りには、程普・黄蓋・韓当ら孫堅時代からの配下に加え、周瑜・太史慈・張昭・張紘・魯粛などの人材が集まり、その伸張ぶりから『項羽に似る』と評されました。後漢末期の195年から199年にかけて行われた『孫策の江東平定』では、孫策が獲得した土地は、後に成立する呉王朝の基礎となりました。(同上)
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197年、『袁術(えんじゅつ:155~199年)』が後漢の皇帝を僭称する事態が起きました。大勢力を蓄え、もはや袁術に従う理由がなかった孫策にとって、これは渡りに船の出来事でした。袁術と絶交し、『献帝(181~234年)』を擁して道義的正当性を手に入れていた『曹操(そうそう:155~220年)』に付くことにしました。(同上)
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曹操も四方に敵を抱えている状態でしたから、これを喜び、曹操の弟の娘が孫策の弟の孫匡に嫁ぐことで同盟が成立しました。孫策は討逆将軍・呉侯の位を得ました。孫策はさらに長江の北にいる劉勲を討ち、父の仇である黄祖を散々に打ち破りました。
*写真は、『呉国水軍』の標識があった門の光景です。呉軍の船を模した遊覧船に乗るために戻ってきました。(同上) -
200年、北の曹操は袁紹との官渡の戦いに入り、首都の許昌の防衛はかなり薄くなりました。これに乗じて孫策は許都侵攻作戦を企てます。ところがその矢先、孫策はかつて殺した許貢の息子とその食客による襲撃を受け重傷を負い、命を落とします。曹操の幕僚である郭嘉は、『孫策は江東を制覇したが、いまだしっかりとは治まっておらず、いずれ刺客により殺害されるだろう』と言っていました。(同上)
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孫策の後を継いだのが、弟の『孫権(182~252年)』でした。孫権は兄の孫策から、『兵を率いて戦に勝ち、天下を争うのは俺の方が上だが、人材を良く使って江東を守るのはお前の方が上だ』と評されていました。その言葉通り、孫権は巧みな人心掌握術で配下の者たちの心を掴み、それに応えました。(同上)
*写真は、順番待ちで、私達のグループの乗船時間になった入口光景です。 -
孫権は、急激な膨張の後の孫策の死で、分裂しかねなかった孫呉勢力をよく治め、孫権の支配はひとまず安定しました。しかし、山間部の非漢民族である山越には、長く悩まされました。また、呉建国以前から居住していた漢民族は宗部・宗伍などと呼ばれ、呉は彼らの抵抗も排除しなければなりませんでした。(同上)
*写真は、下船の後の乗船待ちの光景です。 -
宗部の中には、山越と合流して抵抗を続けるものもいましたので、この時期に山越と呼ばれた勢力を純粋な非漢民族と見なすことは出来ないようです。孫権政権時代に諸葛恪や陸遜や賀斉らが山越討伐で多大な功績を挙げています。208年、孫権は父の仇である黄祖を討伐し、遂に討ち取りました。(同上)
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その頃、北の曹操は『官渡の戦い』の勝利により旧袁紹領をすべて併呑し、華北をほぼ統一していました。更に中国統一を目指し、208年に軍を南下させてきました。荊州の劉表はすでに病死していて、その後を継いだ劉琮は曹操に対してすぐに降伏しました。劉琮の降伏を受けた曹操は、劉表の元に身を寄せていた『劉備(161~223年)』を追い散らし、江東へと侵攻してきました。(同上)
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これに対して、孫権は劉備と同盟を結び、周瑜・程普を大都督として赤壁で曹操軍と激突し、黄蓋の火攻めにより、これに勝利しました。有名な『赤壁の戦い』です。敗北した曹操は北に引き上げて、以後は華北の経営を中心に進めていき、長江以南での孫呉勢力の覇権が確立されました。(同上)
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2008年に公開された映画の『レッドクリフ(赤壁)』は、十分に見応えがありました。『ジョン・ウー(呉宇森:1946~)監督』による中国のアクション映画です。中国文学の四大古典小説とされている羅貫中の『三国志演義』を基に、史実やオリジナル創作を交えながら前半のクライマックスシーンである赤壁の戦いを描きました。(同上)
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更に孫権は曹操軍がいなくなった荊州をも領有しようと軍を出しますが、荊州は劉表の長子の劉琦を立てて劉備が占拠していました。赤壁で主に戦ったのは孫呉であり、より多くの戦利品を得るべきと考えた孫権は、劉備に対して抗議しますが、劉備はのらりくらりとこの追及をかわし、結局孫権は荊州北部の江陵のみを得ただけとなりました。以後、このことは両者の間での懸案となりました。(同上)
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船に溢れるような人達が下船した後の乗船です。あっという間に人で溢れ、船縁だけでなく、1階から3階までの階段も人で埋まりました。昨日、『ゲン頭渚公園』から眺めた満載の船も、この『周瑜号』だったようです。天候が穏やかで、湖上も穏やかでしたから、少しだけ安心しました。呉の国の話に戻ります。曹操との敵対状態が続いている中で劉備とも事を構えるのは無謀であると考えた孫権は、妹を劉備に嫁がせて友好関係を固めて、魯粛の提案に従い、荊州の数郡を劉備に貸し与えました。(同上)
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その後、孫権は西の蜀(四川)を領有することを考ますが、準備中に総大将の『周瑜』が病死して計画は頓挫し、その隙に先を越されて蜀は劉備に占拠されました。210年、孫権は歩騭を交州刺史に任命して交州に派遣し、士燮を服属させ、呉巨を謀殺しました。212年には、それまでの呉から建業へと拠点を移し、備えとして石頭城を築きました。この年からは連年、曹操との間に戦いが起こりますが、双方共に戦果を得られませんでした。(同上)
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イチオシ
太湖遊覧を終えて、桟橋に戻ってきた遊覧船の光景です。とにかく超満員の船で、一瞬、乗船するのを躊躇するほどの込みようでした。呉の国の船を模したらしい『周瑜(しゅうゆ)号』でした。先ほど紹介した『周瑜(しゅうゆ)』は、呉軍の総大将でした。この写真は、先に撮影しておいた1枚です。(同上)
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『周瑜号』の表示があった古代模擬船の紹介です。新造船の板の色でした。呉の『周瑜(しゅうゆ:175~210年)』は、中国後漢末期の武将で、字は公瑾(こうきん)、渾名は周郎です。揚州廬江郡舒県(現在の安徽省六安市舒城県)の人です。立派な風采をしていたとされ、知略・武略に優れ、その才能は魏の曹操や蜀の劉備からも恐れられるほどだったようです。(同上)
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『周瑜号』による、太湖遊覧の始まりです。呉の国は、280年まで続きますが、初代の孫権の時代の終りの252年で、紹介は締め括りとします。220年に曹操が死去し、後継の曹丕が献帝より禅譲を受けて魏の皇帝を称しました。呉は樊城の対岸である襄陽まで兵を進めましたが、まもなく魏の曹仁に奪い返されました。翌年に劉備は魏に対抗して皇帝を名乗り、蜀漢を建てました。(同上)
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222年の『夷陵(いりょう)の戦い』で蜀漢軍に大勝した孫権は、魏に臣従する必要もなくなったため、新しく黄武の元号を立てて、魏から独立しました。大敗した蜀漢の劉備は、翌年の223年に病死しました。その後を劉禅が継ぎ、諸葛亮が政治・軍事の全てを司るようになりました。以降、蜀漢と呉は再び和睦して魏に対抗するようになります。(同上)
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