2012/12/14 - 2012/12/19
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骨董品街の見学の後、すぐ近くのオランダ広場に歩いて移動しました。2007年の旅行の時にも見学した、マラッカの異国情緒豊かな広場です。スタダイス広場、オランダ広場、ダッチスクエア、クロックタワーなど、様々な呼び名があります。(ウィキペディア、るるぶ・マレーシア)
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明の武将で海軍提督だった『鄭和』の紹介の続きです。
〇『第1次航海(1405~1407年)』:永楽3年6月15日(1405年7月11日)、34歳の鄭和は永楽帝より諸国への航海と南海船団の指揮をとることを命じられ、その年の年末に第1次航海に出発しました。『明史』によればその航海は下西洋(西洋下り)と呼ばれます。大船62隻、乗組員2万7800名余の大艦隊でした。(同上) -
〇『第1次航海(続き)』:蘇州府太倉州から出発した船団は泉州府→シュリー・ヴィナーヤ(チャンパ、現在のビンディン省クイニョン)→スラバヤ(マジャパヒト王国、現在の東ジャワ州)→パレンバン→マラッカ→アル(現在の北スマトラ州)→サムドラ・パサイ王国(サマトラ、現在のアチェ州北部)→セイロンという航路を辿り、永楽5年(1407年)初めにコーリコードに到達しました。(同上)
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〇『第1次航海(続き)』:マジャパヒトに滞在中、鄭和たちは内戦(パルグルグ戦争)に巻き込まれました。スマトラ島のパレンバン寄港中には、華僑間の勢力争いに巻き込まれましたが、パレンバンは明の影響下に置かれることとなりました。この航海により、それまで明と交流がなかった東南アジア諸国が続々と明へと朝貢へやってくるようになりました。(同上)
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〇『第1次航海(続き)』:中でも朝貢に積極的だったのがパラメスワラ治下で建国間もないマラッカ王国でした。マラッカはこの後も鄭和の艦隊がやってくるたびに朝貢を行い、北のアユタヤ王朝の南進を阻みました。こうしてマラッカは鄭和の影響力を背景に力を蓄え、明から艦隊が派遣されなくなる頃には地域強国として自立を果たし、東西貿易の中継港として発展しました。(同上)
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〇『第2次航海(1407~1409年)』:永楽5年(1407年)9月に帰国後、38歳の鄭和にすぐに再出発の命令が出され、年末には第2次航海へと出発しました。艦隊はまずシュリー・ヴィナーヤへ寄港し、インドラ・ヴァルマン6世の迎えを受けました。シュリー・ヴィナーヤでいったん艦隊を分割し、本隊はマジャパヒト(現在のスラバヤ)へ直行しました。(同上)
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〇『第2次航海(続き)』:一方、分隊がアユタヤを訪問したのち再集結し、コーリコードおよびコーチへ至りました。帰路の途中の永楽7年2月1日(1409年2月15日)、セイロン島のガレに漢文・タミル語・ペルシア語の3カ国語で書かれた石碑を建てています。その後同じ経路を通り、永楽7年(1409年)夏に明に帰還しています。(同上)
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〇『第3次航海(1409~1411年)』:鄭和帰着時には次回航海の準備は完全に整っていて、同年9月には鄭和は第3次航海へと出発しました。今度もほぼ同じ航路でコーリコードに到達しました。帰路のセイロン(ガンポラ王国、現在のコーッテ)でガンポラ王ヴィジャヤバーフ6世が鄭和の船団に積んである宝を強奪しようと攻撃してきたため、鄭和は反撃しました。(同上)
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〇『第3次航海(続き)』:鄭和の反撃により、『明・コーッテ戦争』となりました。その結果、ヴィジャヤバーフ6世とその家族を虜にして明へと連れ帰り、永楽9年(1411年)7月に帰国しました。王の権威が失墜したセイロンでは、ガンポラ王国からコーッテ王国へと政権が移りました。(同上)
*写真は、マラッカ旧市街の光景が続きます。 -
〇『第4次航海(1413~1415年)』:これまでの3度の航海の成功を受けて、永楽帝はコーリコードよりさらに遠方に船団を送ることを決定しました。このため入念な準備が必要となり、それまでの航海が帰着後2カ月から3カ月程度で再出発していたのに対し、第4次航海は帰着後1年半後に行われることとなりました。この準備期間の間に鄭和は、故郷の昆陽に戻って祖先の祭祀を行っています。(同上)
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〇『第4次航海(続く)』:この航海に参加した馬歓により、後に『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』が編まれ、鄭和にとっての貴重な資料となりました。永楽11年(1413年)冬に出航した鄭和艦隊は、コーリコードへ至るまではそれまでとほぼ同じ航路を取り、そこから本隊はさらに西へ航海してペルシア湾岸のホルムズに到着しました。(同上)
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〇『第4次航海(続く)』:ここで鄭和は外交と通商を行った後に同一経路をたどって帰路につき、永楽13年(1415年)7月に帰国しました。一方スマトラで別れた分遣隊はさらに西へと向かいモルディブに到着し、さらにインド洋を横断してアフリカ東岸のモガディシオへと到着しました。さらに分隊は南進し、マリンディ(現在のケニア)にまで到達しました。(同上)
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〇『第5次航海(1417~1419年)』:5度目の航海は鄭和46歳、永楽15年(1417年)の冬に出発しました。この艦隊には第4次航海の時の各国使節が乗船していて、各国へ彼らを送り届けることも任務の一つでした。本隊は前回通りの経路を通って、セイロンから前回と同じくホルムズまで到達し、永楽17年(1419年)8月に帰国しました。(同上)
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〇『第5次航海(続く)』:途中で分かれた分隊も前回と同様モルディブ諸島を経由しアフリカ東岸のマリンディまで到着し、アデンなどを経由して、本隊から一年遅い永楽18年(1420年)夏に帰国しました。この黄海で、ホルムズからライオンやヒョウ、ブラバからダチョウ、モガディシオからシマウマなどの珍しい動物を連れ帰りました。永楽帝は、殊に麒麟のお土産を喜んだとされます。(同上)
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イチオシ
〇『第6次航海(1421~1422年)』:6度目の航海は、永楽19年(1421年)2月になります。それまでとは異なり、朝貢に来訪していた各国の使節を送ることが主目的でした。今度もほぼ同じ航路を取って、帰国は永楽20年(1422年)8月でした。ただし、この航海で50歳の鄭和がどこまで行ったかについては、論争があるようです。(同上)
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〇『第6次航海(続き)』:サムドラ・パサイまで鄭和が向かったことはほぼ確実とされますが、そこで鄭和本人は引き返したとの説と、従来通りホルムズまで向かったとの説があります。いずれにせよ、前回同様分遣隊がスマトラで別れ、モルディブ、アフリカ東岸、アデンを経由し、永楽21年(1423年)に明へと帰着しました。この後、永楽帝が1424年8月に崩御し、しばらくは航海は休止となりました。(同上)
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〇『第7次航海(1430~1433年)』:宣徳年間に国力の回復が進むと、宣徳5年(1430年)に宣徳帝は7度目の航海を計画し、鄭和にその指揮を命じました。9年ぶりの艦隊派遣であり、既に鄭和は60歳の老齢でした画、彼に代わる人材はいませんでした。本隊と分遣隊に分かれ、馬歓らを含む分隊はイスラム教の聖地メッカに至りました。第7次航海から帰国後ほどなくして、鄭和は死去しました。(以上)(同上)
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マラッカ川の光景です。マラッカ中心部を流れる全長50キロの川です。川沿いは遊歩道になっていて、川べりの建物に描かれた壁画アートを見ながら散歩ができます。夜はライトアップされ、川岸に並ぶレストランのテラス席をロマンティックに照らしています。(同上)
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同じく、マラッカ川の光景です。左側に見える樹木は、ガジュマルでしょうか、数多くの気根が垂れ下がっていました。川の両岸に整備された散策路は、その距離は約5.5キロ続いているようです。(同上)
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マラッカ川の河畔光景が続きます。リバー・クルーズのボートが運行されているようでした。ネットで紹介されていたリバー・クルーズです。『往復約9キロ、45分のクルーズは河口近くから川を遡り、マレー系住宅があるカンポンモルテン付近でUターンし戻ってくるコース』、と紹介されていました。(同上)
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オランダ風車の光景です。実用として稼働しているのではなく、オランダ広場と呼ばれる異国情緒あふれる広場の景観アップが目的のようです。少し前の2010年(平成26年)の4月の3か国旅行で、オランダのキンデルダイクの風車と、チューリップで有名なキューケンホフ公園を見学しましたが、別の出来事でも印象に残った旅行でした。それは、アイスランドの火山活動で、第二次大戦以来と言われる、空の交通マヒと遭遇したことでした。結果としてはラッキーで、3日ほど余分に滞在し、ゆっくりとドイツの街を散策できました。(同上)
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オランダ広場の花壇の光景です。12月ですが、色とりどりの花が咲いていました。先ほど紹介した、2010年4月のオランダのキューケンホフ公園では、例年ですと、大変な混雑になるチューリップの見頃の季節でしたか、飛行機が飛べなくなったために、観光客が少なく、ゆっくりとチューリップと水仙を見学出来ました。(同上)
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オランダ広場のシンボル・カラーともいうべき、外壁と屋根の色です。マラッカのシンボルカラーにもなっています。建設当時のオランダ占領時代、これらの建物はすべて灰色でした。ところがその後、イギリス植民地時代に労働者たちが嚙んでいたビンロウの色で建物の外壁のあちこちが赤く汚れしまい、その汚れを隠すために、現在のサーモンピンク色に塗り替えた、と言われています。(同上)
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オランダ広場のシンボル、サーモンピンクのキリスト教会の光景です。1753年、オランダ統治時代に建てられたもので、現在も信者が静かに祈りを捧げています。建設当時のまま残る天井の梁は、継ぎ目のない一本の木から作られているようです。オランダはルターが唱えた宗教改革によって分派した、プロテスタント教国ですから、クライスト(キリスト)教会内部には十字架が壁に掛けられているだけのようです。内部見学はしませんでしたが、ネット情報で写真を確認しました。(同上)
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オランダ広場の中心にある、年代を感じさせる石造の噴水の光景です。マラッカは、16世紀にポルトガル、17世紀からオランダ、19世紀にはイギリスに統治されました。この噴水は、イギリス統治時代の19世紀に造られたもののようです。(同上)
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オランダ広場の一角に立つ、四角の建物の時計塔です。1886年にプラナカン豪商によって建てられたこの時計台には、当初英国製の時計が備え付けられていたようです。それが1982年の改修時に今のセイコー社製のものに取り替えられたようです。一見、『スタダイス』と呼ばれる議事堂。市役所の建物の付属の建物と見紛います。(同上)
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派手な観光人力車のトライショーの待機光景です。トライショーは1時間50リンギットほどの相場が決まっているようです。自転車タクシーはインドではリキシャ、インドネシアではベチャ、ここマラッカではトライショーと呼ばれています。中国でよく見かけた自転車タクシーですが、中国ではいつの間にかなくなってしまいました。(同上)
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正面から眺めた、『クライスト教会マラッカ・1753』の文字と十字架が標された教会の光景です。十字架の上には鐘の姿も見えていました。ポルトガル海上帝国からマラッカを奪取した2代目植民地支配者のオランダが、統治100年を記念して建築した、マラッカのクライストチャーチです。1741年に建設が計画され、12年かけて1753年に完成しました。スペインの後に統治したイギリスも16世紀にイギリス宗教改革によって成立したイギリス国王を最高権威者とするイギリス国教会となりました。
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現在のマレーシアは、イスラム教を国教として定めていますが、キリスト教や仏教をはじめ、他の宗教を排斥することはないようです。日本の外務省の基礎データでも、イスラム教(61.3%)、仏教(19.8%)、キリスト教(9.2%)、ヒンドゥ教(6.3%)、儒教・道教等(1.3%)と紹介されていました。(同上)
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オランダ語で『スタダイス』と呼ばれる建物光景です。『議事堂・市役所」を意味するようです。1650年にオランダの征服者がオフィスとして建てたものが起源とされます。マラッカが19世紀にイギリスに引き渡されると、1826年12月にこの地に住んでいた宣教師によってスタダイスに隣接する場所に無償の学校が建てられました(マラッカ・ガイド)。(同上)
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オランダ広場に建つ、キリスト教会とスタダイス、あるいは隣接する建物光景です。観光ガイドブックでは、『オランダ広場』、『スタダイス広場』等の呼び名で紹介していますが、地元ではこの広場を『クロックタワー』とも呼んでいますが、スタダイス広場、オランダ広場、ダッチスクエア、クロックタワーいずれも同じ意味とされます。(同上)
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