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紹興市東浦鎮。古い景観を残す水郷地帯。まだ、他の水郷古鎮のように観光化が進んでいない。街河では、洗濯や野菜、食器を洗う人びとの姿が、ふつうの日常の生活の中に見られる。 東浦鎮は秋瑾と並ぶ清末の革命家・徐錫麟の生家跡がある。徐錫麟は、1873年の生まれ。 青年時代まで郷里で学校の教師をしていたが、のちに日本に遊学。帰国後、 当地の会党(仁侠組織)とひそかに連絡をとり、革命グループの組織化をはかった。そのかたわら、秋瑾らとともに紹興市内に大通学堂を設立。新式体操の授業をかくれみのに革命軍の養成にあたった。 だが、1907年、安慶での蜂起に失敗し、刑死した。<br />

紹興の東浦古鎮・古橋・水の都・2/2

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2011/09/09 - 2011/09/09

196位(同エリア251件中)

中国の風景

中国の風景さん

紹興市東浦鎮。古い景観を残す水郷地帯。まだ、他の水郷古鎮のように観光化が進んでいない。街河では、洗濯や野菜、食器を洗う人びとの姿が、ふつうの日常の生活の中に見られる。 東浦鎮は秋瑾と並ぶ清末の革命家・徐錫麟の生家跡がある。徐錫麟は、1873年の生まれ。 青年時代まで郷里で学校の教師をしていたが、のちに日本に遊学。帰国後、 当地の会党(仁侠組織)とひそかに連絡をとり、革命グループの組織化をはかった。そのかたわら、秋瑾らとともに紹興市内に大通学堂を設立。新式体操の授業をかくれみのに革命軍の養成にあたった。 だが、1907年、安慶での蜂起に失敗し、刑死した。

旅行の満足度
4.0
観光
3.0
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス
旅行の手配内容
個別手配
  • 古鎮内地図はありません。グーグルでも描いてありません。<br />

    古鎮内地図はありません。グーグルでも描いてありません。

  • 「徐錫麟 」の銅像が「東浦鎮」の壁の前に建っています。「徐錫麟」は20世紀初頭、清帝国に対して革命運動を起こした孫文に呼応して立った一人で、安徽省で蜂起したが失敗。その後捕らえ られ処刑された英雄。近代国家の礎を担った中国庶民の代表だったようです。その徐さんの 故郷がこの東浦古鎮らしい。 <br />

    「徐錫麟 」の銅像が「東浦鎮」の壁の前に建っています。「徐錫麟」は20世紀初頭、清帝国に対して革命運動を起こした孫文に呼応して立った一人で、安徽省で蜂起したが失敗。その後捕らえ られ処刑された英雄。近代国家の礎を担った中国庶民の代表だったようです。その徐さんの 故郷がこの東浦古鎮らしい。

  • 白い壁、黒い屋根、石畳の道。江南の古鎮らしい風景です。<br /><br />

    白い壁、黒い屋根、石畳の道。江南の古鎮らしい風景です。

  • 水路の交わる所が古鎮の中心です。平橋があります。<br />

    水路の交わる所が古鎮の中心です。平橋があります。

  • 水路脇の廊棚(屋根付き道路)。<br />

    水路脇の廊棚(屋根付き道路)。

  • 是も廊棚です。支えの石柱が倒れそう。<br />

    是も廊棚です。支えの石柱が倒れそう。

  • <br />一番絵になるアーチ橋。<br /><br />


    一番絵になるアーチ橋。

  • アーチ橋を渡って対岸へ行きます。<br />

    アーチ橋を渡って対岸へ行きます。

  • 親子でお洗濯。<br />

    親子でお洗濯。

  • 水路沿いの石畳の道を行く学校帰りの子供達。<br /><br />

    水路沿いの石畳の道を行く学校帰りの子供達。

  • 水路の交差する所、広い池のように成っている。<br />

    水路の交差する所、広い池のように成っている。

  • 生活感一杯の道を行く。

    生活感一杯の道を行く。

  • 徐錫麟故居を目指して古鎮を進みます。<br />

    徐錫麟故居を目指して古鎮を進みます。

  • 曲がると同じような景色が続きます。<br />

    曲がると同じような景色が続きます。

  • また曲がります。方向が解らなく成りそう。

    また曲がります。方向が解らなく成りそう。

  • 時々水路に出てしまいます。<br />

    時々水路に出てしまいます。

  • 狭い路地を進みます。<br />

    狭い路地を進みます。

  • <br />「徐錫麟の住いはコッチ」というマーク。迷路みたいな道、案内に沿ってくねくねと曲がって故居へと進みます。<br />


    「徐錫麟の住いはコッチ」というマーク。迷路みたいな道、案内に沿ってくねくねと曲がって故居へと進みます。

  • 案内板が無くどちらに行ったら良いのでしょう。<br />

    案内板が無くどちらに行ったら良いのでしょう。

  • 秋瑾と並ぶ清末の革命家・徐錫麟の生家跡。徐錫麟は、1873年の生まれ。 青年時代まで郷里で学校の教師をしていたが、のちに日本に遊学。帰国後、 当地の会党(仁侠組織)とひそかに連絡をとり、革命グループの組織化をはかった。そのかたわら、 秋瑾らとともに紹興市内に大通学堂を設立。新式体操の授業をかくれみのに革命軍の養成にあたった。 だが、1907年、安慶での蜂起に失敗し、刑死した。故居には、同志にあてた書簡や詩文をはじめ、 教育用に自ら作製したといわれる天球儀などが展示されている。市の西郊、東浦鎮。人家が密集した 運河沿いにあり、ちょっとわかりにくい。<br /><br />

    秋瑾と並ぶ清末の革命家・徐錫麟の生家跡。徐錫麟は、1873年の生まれ。 青年時代まで郷里で学校の教師をしていたが、のちに日本に遊学。帰国後、 当地の会党(仁侠組織)とひそかに連絡をとり、革命グループの組織化をはかった。そのかたわら、 秋瑾らとともに紹興市内に大通学堂を設立。新式体操の授業をかくれみのに革命軍の養成にあたった。 だが、1907年、安慶での蜂起に失敗し、刑死した。故居には、同志にあてた書簡や詩文をはじめ、 教育用に自ら作製したといわれる天球儀などが展示されている。市の西郊、東浦鎮。人家が密集した 運河沿いにあり、ちょっとわかりにくい。

  • 帰国後は、徐錫麟の活動範囲で秋瑾も少女時代を過ごした紹興に住む。1907年正月には大通学堂を開校し、秋瑾は代表者となった。開校祝いに戴いた対聯には「競争世界 雄冠全球」(世界に冠たれ。)が壁の掲げられていたという。この大通学堂は、光復会の幹部を訓練し組織化するために設立された革命拠点である。秋瑾はここを拠点として「体育会」を組織し、会党(政治的色彩を帯びた秘密結社)のメンバーや革命青年を集めて軍事訓練を行った。また、浙江省各地の会党と連携して「光復軍」を結成し、武装蜂起に向けた準備を進めていった。また、1907年1月14日には秋瑾らが中心となって、上海において『中国女報』を創刊している。目的は中国の女性解放運動を推し進めることだった。<br />

    帰国後は、徐錫麟の活動範囲で秋瑾も少女時代を過ごした紹興に住む。1907年正月には大通学堂を開校し、秋瑾は代表者となった。開校祝いに戴いた対聯には「競争世界 雄冠全球」(世界に冠たれ。)が壁の掲げられていたという。この大通学堂は、光復会の幹部を訓練し組織化するために設立された革命拠点である。秋瑾はここを拠点として「体育会」を組織し、会党(政治的色彩を帯びた秘密結社)のメンバーや革命青年を集めて軍事訓練を行った。また、浙江省各地の会党と連携して「光復軍」を結成し、武装蜂起に向けた準備を進めていった。また、1907年1月14日には秋瑾らが中心となって、上海において『中国女報』を創刊している。目的は中国の女性解放運動を推し進めることだった。

  • しかし、帰国からわずか1年半後、秋瑾の計画は頓挫することになる。1907年5月、徐錫麟は紹興から西北350kmほど離れた安徽省安慶で武装蜂起を計画。秋瑾も浙江で呼応すべく準備を進めたが、武装蜂起のため打ち合わせた日時の食い違いから、7月6日、先に徐錫麟が行動を起こしてしまった。徐錫麟は、安慶で蜂起し清朝政府の安徽巡撫である恩銘を刺殺したものの、たちまち鎮圧・処刑されてしまう。<br /><br />

    しかし、帰国からわずか1年半後、秋瑾の計画は頓挫することになる。1907年5月、徐錫麟は紹興から西北350kmほど離れた安徽省安慶で武装蜂起を計画。秋瑾も浙江で呼応すべく準備を進めたが、武装蜂起のため打ち合わせた日時の食い違いから、7月6日、先に徐錫麟が行動を起こしてしまった。徐錫麟は、安慶で蜂起し清朝政府の安徽巡撫である恩銘を刺殺したものの、たちまち鎮圧・処刑されてしまう。

  • これにより、当局は秋瑾の浙江での蜂起計画も察知。同志らは秋瑾に一時避難するよう勧めたが、秋瑾は大通学堂に留まった。7月13日、学堂を包囲する清軍に秋瑾も逮捕。不意を衝かれたため、短刀を抜くことも一発のピストルを撃つこともできなかったという。2日後の1907年7月15日(清朝の旧暦では6月6日)早朝、紹興軒亭口の刑死場で斬首、処刑された。三十一歳の若さであった。<br />

    これにより、当局は秋瑾の浙江での蜂起計画も察知。同志らは秋瑾に一時避難するよう勧めたが、秋瑾は大通学堂に留まった。7月13日、学堂を包囲する清軍に秋瑾も逮捕。不意を衝かれたため、短刀を抜くことも一発のピストルを撃つこともできなかったという。2日後の1907年7月15日(清朝の旧暦では6月6日)早朝、紹興軒亭口の刑死場で斬首、処刑された。三十一歳の若さであった。

  • 光復会が設立した士官養成学校跡。もとは貢院(官吏登用試験の地方レベルの試験場)として使われていた建物で、 紹興市の市街南部にある。校長となったのは清末の女性革命家・秋瑾で、表向きはたんなる体育学校に すぎなかったが、真の目的は革命軍士官の養成にあったといわれる。1907年、安徽省で徐錫麟 による蜂起が失敗すると共同謀議のかどで、秋瑾ら大通学堂の主だった指導者は逮捕・殺害され、 同時に大通学堂も閉鎖された 。奥に徐錫麟を記念した徐公祠が設けられている。紹興市勝利路189号。 紹興飯店と道をはさんだ斜め向かい。<br />

    光復会が設立した士官養成学校跡。もとは貢院(官吏登用試験の地方レベルの試験場)として使われていた建物で、 紹興市の市街南部にある。校長となったのは清末の女性革命家・秋瑾で、表向きはたんなる体育学校に すぎなかったが、真の目的は革命軍士官の養成にあったといわれる。1907年、安徽省で徐錫麟 による蜂起が失敗すると共同謀議のかどで、秋瑾ら大通学堂の主だった指導者は逮捕・殺害され、 同時に大通学堂も閉鎖された 。奥に徐錫麟を記念した徐公祠が設けられている。紹興市勝利路189号。 紹興飯店と道をはさんだ斜め向かい。

  • 108番バスが走っているのを発見して、そこで分かったのですが、108番バスは、紹興の「轅門橋」バス停で乗り換えて城北橋へ行きます。 古鎮近くの「東浦汽車駅」から「轅門橋」まで一人2.5元。<br /><br />

    108番バスが走っているのを発見して、そこで分かったのですが、108番バスは、紹興の「轅門橋」バス停で乗り換えて城北橋へ行きます。 古鎮近くの「東浦汽車駅」から「轅門橋」まで一人2.5元。

  • 徐錫麟故居(生家)の記念館。入場料5元。(老人券2元)訪れる人殆んどなし、という雰囲気でした。秋瑾の方が女性なので有名になった。 <br /><br />

    徐錫麟故居(生家)の記念館。入場料5元。(老人券2元)訪れる人殆んどなし、という雰囲気でした。秋瑾の方が女性なので有名になった。

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