片瀬貴文さんへのコメント一覧(12ページ)全122件
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ミューレン
片瀬様へ
おはようございます。
写真は、どの辺りでございましょうか?プリエンツ湖かな?
スイスは、毎年観光の為に整備(改悪)?されてます。残念です。
33年前が羨ましいです。
ミューレンには二年前と今年行きましたが、二度ともアイガーは雲ガくれでした。来年はあきらめて行きません!プンプン。
爺様より
RE: ミューレン
とらいもんさんへ
ミューレンもヴェンゲンもすっかり拓けましたね。
数年前、ミューレンからロープウェーで、シルトホルンに登りました。
アルプスの展望が目的でしたが霧で視界がなく、それでも4時間待って、2分間雲が切れました。
その瞬間の感動は、言葉に尽せません。
ロープウェー駅には、当時すでに公衆パソコン(有料)が用意されており、驚きました。
若返り爺さんより2005年10月11日20時46分 返信するRE: RE: ミューレン
ソフイさんへ
シルトホルンですか。日程・行程が細かすぎて時間が取れません!
来年6月まであと8ヶ月、今年中に決定しなければ。
シルトホルンが加われば、アッペンツエル・ベルリナ特急と、追加の調整にうれしい悩みが・・・・・。ま、楽しみます。
としよりより
2005年10月11日21時30分 返信するRE: RE: RE: ミューレン
とらいもんさん
スイス旅行計画楽しそうですね。
スイスの周辺にも、いいところがたくさんあります。
フランスでは、シャモニーの奥のアルジャンチエール、水の綺麗なアヌシー。
イタリアは、トリノからアオスタの谷を遡って、峠で見るマッターホルンの横顔。
オーストリーのチロルの小村群。
もう一度行って見たい所がいっぱいです。2005年10月12日07時19分 返信する -
期待!
片瀬さまへ
こんにちは、私は年寄りですが「スイスお宅」なのです。あなたの次の投稿を望んでおります。30年以上前のスイスの様子が楽しみです。
興味深深の田舎の爺様よりRE: 期待!
とらいもんさん
ご激励、有難うございます。
スイスは思い出の深い国です。
44年前、1961年の初訪問以来、私もスイスお宅になり、その後10回ほど訪ねました。
しかし初訪問の印象は、一番強烈です。
しばらく書き進めることが楽しみです。2005年10月07日02時15分 返信するお待ちしてます
片瀬様へ
おはようございます。
44年前のスイスと、現在も毎年行くたびに「観光化?」されているスイスを比べることが出来ます。
よろしく。
田舎者より2005年10月07日05時47分 返信するRE: お待ちしてます
とらいもんさん
最近訪問したスイスでは、イタリアから、グラン・サンベルナールの峠を越えたところにある、ヴェルビエが素敵でした。
180度に展開する、アルプスの山々。
花の咲き乱れる、高原の散歩道。
60歳以上半額のケーブルカー。
親切な宿のあるじ。
観光案内所で日本円の交換レートがわからなかったところを見れば、日本の人が来ないのでしょう。
2005年10月08日09時12分 返信するRE: セントバーナード
とらいもんさんへ
セントバーナード峠は、古来アルプス越えの往来が多く、ここで救助活動をしたのが「セントバーナード犬」と言われています。
ヴェルビエで泊ったホテル名は「verluisant(蛍)」だったと記憶します。
食事つきで何泊かしましたが、部屋からのアルプス展望に、飽きることがなかった毎日でした。
毎日コックさんが工夫してイタリア料理を作ってくれ、食事が楽しみでした。
目の前出るケーブルに乗って、ハイキングも楽しみました。
ヴェルビエはジュネーブから近く(車で30分と書いてあります)、チューリッヒ空港からも列車で行けるはずです。
一度訪問されませんか。
まだスイスらしさが残っていると思います。
2005年10月11日20時37分 返信する -
ソフトテニスのこと
毎日興味深く事業展開について示唆していただきありがとうございます。
さて、ソフトテニスとは、良く理解してませんでしたが、「軟式テニス」だと解釈しました。
当方もずいぶん毎日練習に明け暮れた思い出があり、世界に通用するスポーツだと再認識した次第です。
時々「ソフトテニス」の意味を掲載していただければ、私のように途中からアクセスした者への参考となるのではと思います。
事業の内容がより身近なものとして感じます。
新しい事業展開を実施した経験がありますが、国外のことゆえ困難にあるほどやりがいがあります。事業化の展開時における発想が共感を呼びます。
有難うございます。
maeです。 -
視察旅行
ひどい話ですね。だから官も民も徹底した構造改革が必要となった。でも流石、現代ではその様な慰労旅行は少なくなったのではないでしょうか?官は税金支払い者が許さないし、民は株主が許さない。
それから現地駐在員の駐在目的も変わってきているのではないでしょうか。
官の慰労旅行がまだあるとすれば駐在員はそれを摘発して欲しいと思います。
それにしても相手側に申し訳無い。それなりに時間を割いてくれても行く者が観光旅行であれば、時間の泥棒。あんた何しに来たのと言うことで日本人の恥になることこの上ないですね。表敬が重要な場合もあろうかと思いますがその場合それを目的にすれば良い。変に課題を設けると相手の迷惑になりますね。
それにしても片瀬さん本当にご苦労様でした。自分の時間を犠牲にすることは辛いですね。2005年08月26日15時08分返信するRE: 視察旅行
木場三郎さん
ご感想有難うございます。
日本人に接することは、外国人に接するより、よほど楽しいことでした。
1960年代は、情報が少なくて、日本人は外国を知っておらず、「外遊」は一生に一回の、大きな価値観転換の機会だったと思います。
私は、日本人の「洗脳」がとても楽しみでした。
日本にいる限り味わうことの出来ない、生きがいでした。
日本人旅行客との対応はピークは集中しましたが、全作業量の四分の一程度でした。
一番辛かったのは、日本代表としての国際会議でした。
先ず、日本の主張をまとめること。
次いで、その主張を通すための、各国の説得。
官の慰労出張は、その後中央から地方へと移り、消えてしまったはずです。
海外駐在員の役割は、通信・交通の発達で、様変わりしたと思います。
当時の海外駐在は、責任が重い反面、自由裁量が多く、もう一度体験して見たいものです。
2005年08月28日18時35分 返信する -
1970年代フランス
片瀬貴文さま,
日本人の接客はたいへんなお仕事でしたね。
要求がはげしいから。
ジンバブエでお仕事をされ,時々換金の為も兼ねてフランスへ
でかける,という事でなかったでしょうか?
1970年前後,私はサンドゥニ(パリの北10キロ)にいました。
サンドゥニはゴシック様式を完成させた最初の教会が建設された
ところ。
米軍が第二次大戦の戦勝パレードでこのサンドゥニからパリに
行進した,という話は米人退役軍人から,ずっと後で聞きました。
当時ジャパニーズ・レストランはパリに数軒しかなくて
とても高いものでしたから数えるだけしか行かなかったです。
愛車モトベカンでパリを走っていて日本食の看板に引き込まれて
食事したとき,
日本を忘却していたせいもあり,日本語を聞くのが嬉しかった,
また,豆腐を食べて涙がポロリ,お新香の味に感極まって涙が
ポロリ,遠い遠い祖国を思いだしたものです。
RE: 1970年代フランス
サンドニとは!
懐かしい名前ですね。
このあたり左翼が強く、選挙では注目地区でした。
町の雰囲気にどことなく温かさがあって、大好きです。
パリで市電が復活したとき、久々にサンドニに行ってきました。
カフェの賑わいなど、昔のままのようでした。
日本人の接待は、楽しい思い出です。
ただ年に一回ほど、国会議員に手こずることがありました。
東京の憂さを、パリで発散させる時代だったのですね。
アフリカのストレス発散には、スペインの田舎を一人旅しました。
「太閤記」や「坂の上の雲」を読みました。
1970年代、今とは違い、遠い遠い祖国でしたね。
「お新香に感動」
またお話を聞かせて下さい。
2005年08月23日17時46分 返信する -
同感です
片瀬貴文さん 今日は 残暑お見舞い申しあげます。
後輩へのご教示全く同感です。
人間関係とその習慣については、外部人は、簡単には理解出来ないのでは!
日本国内の大阪南部地域(泉州)は、今でも保守的です。
祖父の代より住む人と新居住者の間の関係には、差別が存在する。
岸和田のだんじり祭りでは、いまでも外様・譜代と家を差別している。
祖父の代より居住し、地域に貢献してきた者のみ、だんじりの上に、
乗ることが出来る。彼等は、祭りの都度100万円の寄付が必要と
米国では、現地に居住し、高校・大学を卒業して、すでに日本語が、可笑しくなった現地居住の日本人でも、真の意味で、白人社会には、入れて貰えないと
華僑は上手に立ち廻っているが、政治形態の変更時には、国籍が中国人で無く現地の国籍でも、やはり阻害されている。
現地で骨を埋める日本人が、沢山出ないと同調出来ないのでは、
と思っています。
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アフリカ
片瀬貴文さん,
おっしゃる事が身に染みます。
むかしブラジルで黒人と一日ブラブラしました。
家に誘われたのですが,どうしても不安があり,断ったのですが,
その後ずっと頭の隅にあります。
友達の知り合いだとか会社関係の人ならば不安はないのでしょうが,
その日知り合って仲良くなっても,その人の家族・友達と環境を知らずして
家までは行けなかったのです。
出来る限り友好の輪を広げたいと思って活動してきたつもりですが,
個人の場合には,どうしても一歩踏み込めない。
家族とか友達とか会社の仲間とかいるときは,友好を広めることは
難しいことはまったくありませんが。
日本人ほど国際感覚が備わってきた国民は他にそれ程多くないと思って
います。他国の人たちに比べて(あくまで比較して,一般的に)
日本企業の活動はまだまだましだと思っていますが...
搾取・搾取を繰り返している会社が多いなかで日系はそれでもよく
現地に溶け込んでいる方だと私はみています。
ただし,日系は利益追求が急すぎると感じています。
搾取して,さっと逃げるという態度が少ないからだと思いますが,
現地企業を育てていくという精神を兼ね備える会社はごく一部
だと映ります。
片瀬貴文さんの提案は,しかし,なるべく多くの人に感じてもらいたいと
私も思います。
実は私は,自分が楽しむだけの旅行にはもうあまり興味がないほど
です。
コンゴウですか...
政治家の腐敗は少しは改善されたのでしょうか。
豊かな資源を備えているのに,またはそれ故に外国資本に踏み込まれて
搾取されてきたのではないかと憶測しています。RE: アフリカ
終戦後30年間ほどでしょうか。
日本人はどこかに、卑屈の影を背負っていました。
その後外国に慣れ始め、同時に異文化に対する畏敬の念や感動が、薄くなってきたように思います。
外国を知るにあたり、表面だけを見て、深く理解しようとしていないのではと、懸念します。
せっかく海外旅行をしても、現地の人に交わる意欲が少ないようです。
今年4月、初めて経験するツアー旅行でしたが、100人の現地人と話すノルマを自分に課しました。
準備した話題は、中国、EC、法王選出。
最近は、さらに日本文化への誇りを取り戻しつつあり、外国でも堂々として見えます。
変化が激しく、ブレーキもかかりにくい民族性があるのかも知れません。
海外旅行のチャンスに、日本への理解も、もっと深めることが大切でしょう。
コンゴの腐敗については、これから「キンシャサ日記」で触れてゆこうと思っております。
25年前に出会ったコンゴの子供たちは、社会の中堅に育っています。
しかし5年ほど前から、音信が途絶えました。
かつて新進の意気に燃えていた新独立国が、深い悩みに陥っているようです。
原因は、単なる経済問題ではない、精神問題が大きいと思います。2005年08月13日09時48分 返信するRE: RE: アフリカ
片瀬貴文さん,kaz-ykさん,
同感ですね。
有意義に旅行するという趣旨に,同感です。
積極的に話しかけるという態度が大切ですね。
私ははじめての滞在が英国でしたが,
人種偏見が残りビートルズが全盛を過ぎていた頃。
排他的ムード,凋落の哀愁が漂っていました。経済は沈滞し
「イギリス人は過去に生きている」と言われていました。
こんな国が先進国かと疑問がわきましたね。
差別される側の人々と接する機会も多くありました。
「イギリス人って,卑怯だよね,ケンちゃん」と私に語りかけて
くる差別される側の友達
「(例えば)インド人って,きたないよね,ケンちゃん」とイギリス人。
その様な事がいつもあった。それで,私達日本人は中間の立場になって
お互いを理解しないといけない,偏見というのはよくない,差別は
いいことではない,威張るのはいけない,と思うようになりました。
現在,日本はいまは見事に中間の立場に立っていると思う。
あくまで他の国に比べての話です。あくまで他の国の人々と比べての
事ですが,全般的にならして表現して,日本人の優しさ誠実さは国の
文化教養のお陰だろうと思う(いざという時のことです)。
しかし,歴史の問題がありますね。日本も又巻き込まれてひどいことを
した過去があります。日本だけでなく,多くの国が帝国主義の時代
時の弱者をいじめた...
この歴史認識や戦争反対についても,私達が心がけて社会に訴えて
いくべき事柄かな...,と思うのです。
でも,悲しいかな世界はそんなに平和ではない。利権を求める国が
多い,政治優先,自国優先の国が多い。
だからこそ,日本なのでしょうね...
損な役回りなのですが。
2005年08月13日11時18分 返信するRE: RE: RE: アフリカ
人種偏見は、民族の自信喪失か、焦りなのかも知れませんね。
日本でも1980年代「アフリカ人は優秀だぜ」と言ったら、いやな顔をする人がたくさんいました。
仕事がうまく行かないとき、彼らのせいにしたい人もおりました。
世界の舞台に立って、リーダーシップを発揮できる日本人が、少しずつ育っているように思います。
これからの人類社会、平和は歌い文句から、信念になるべき時代。
戦争は、発生の過程を抑えなければならないと思いますが、しばらくは力の対決時代が続くようです。
まだ痛い目に会う機会が、不十分なのでしょうか。
環境問題にしても、然りですね。2005年08月14日16時46分 返信するRE: RE: RE: RE: アフリカ
片瀬貴文さんとソフィーさんは,
同一人物に思えるほどですが?
私はやっと自由時間がつくれる歳になりました。
みなさんの指針というべき事柄を考えています。
なるべくよく理解して,できる事をしていく,という事ですね。
旅で多くの人と話し一緒に遊び,食べたりして,広い世界を知る。
その時に,ある程度自覚して出来る何かをする,という事ですね。2005年08月14日17時06分 返信する人生の黄金期
「片瀬貴文さんのマイページ」は、「ソフィさんのマイページ」と兄弟です。
リタイア三年目、今こそ人生の「稔りの黄金期」ではないかと、考えるようになりました。
地域の高齢者と接している内に、一人でも多く元気老人創りを手伝いたいと、思うようにもなりました。
「コントラクト・ブリッジ」「フランス語シャンソン」「パソコン」などを、皆さんに教えております。
先日まで、日本に滞在する外国人に「にほんのうた」を教え、日本理解を深めて貰おうともしました。
これらの日程はパソコンで情報公開し、全ての人がフリーに参加できます。
何回か、高齢者を集めて講演会も開きました。
併行して、自分の経験を「マイページ」で残したい所存です。
子孫に引き継ぐものは、お金ではなくて、心だと思います。
旅は私のエネルギー源です。
経験を深め、新たな発見を重ねたいものです。2005年08月16日14時57分 返信する -
旧国鉄マンのご苦労が、良く解りました。
片瀬貴文さん 今晩は
国鉄がそんな昔から、海外貢献・技術交流をされているとは、
知りませんでした。ご苦労様でした。
戦後日本の地位が、上がりましたのは、沢山の方々が、種々の分野で、
レベルUP・国際貢献を果たされたお蔭と感謝致しております。
戦争に負けて豊かに、”焼け太り”結構過ぎると思いきや
日本の若者の荒廃振り、TR西の空前の事故、航空関係の前事故現象、ISO、QC
は、かなり勉強した筈ですが、精神面の未熟性ですかね!
戦中派の一人としては、心配に耐えない昨今です。
RE: 旧国鉄マンのご苦労が、良く解りました。
お便り有難うございます。
仰せの通り、最近の世の中は、困ったものと思います。
社会現象の一部は、世界的なものでしょうが、日本だけの特異さが目立ちます。
21世紀に向けて、世界の先頭を切っているのでしょうか。
しかしこのような世の中を作った責任は、われわれの世代にあると考えます。
戦後60年間、われわれの考え方は「古い」と言われ、子孫への伝言を怠って来ました。
末永くない人生ですが、60年間の遅れを取り戻すべく、情報発信に力をいれています。
子供や孫たちの世代に向け、同年輩たちの世代に向け、経験談を話す機会を求め、同時に経験談を残しておこうと、努めております。
戦争時代経験者は20%を割り、戦争経験者は10%以下となったそうです。
またお便りをお待ちします。
2005年08月03日14時56分 返信する -
アンゴラ
初めまして silvaといいます。
懐かしい名前がでてきたので、拝見しました。
私は、1972年から2年間程 ルワンダに住んでいました。
ザンベジ川といいますとルワンダ近く(60km)に流れているリオ デ クワンダの事ですか?
リオ デ クワンダは、きれいな川でほとりにレストランがあり何回か食事に行ったことがあり、ボートで船遊びをしました。



