信長と激しく対立した浄土真宗の紀州御坊が置かれた場所
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- 旅行時期:2014/08(約11年前)
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by yoshimune-kunさん(男性)
和歌山市 クチコミ:65件
和歌山市内にある秋葉山は、浄土真宗本願寺派(一向宗)と深い関係を持つ場所です。
浄土真宗本願寺派の和歌山への布教は、1476年頃に現在の海南市冷水に設けられた冷水道場が始まりだと言われています。その後、1507年に海南市黒江へ移転し、1550年には現在の秋葉山(当時の名前は弥勒寺山)へ移転してきました。このため秋葉山は別名「御坊山」とも呼ばれるようになります。(「御坊」というのは一般的に浄土真宗の寺院のことを指す言葉です)
ここに紀州御坊が移転した経緯については詳しくはわかりませんが、当時精強をもって全国に知られていた「雑賀衆」の中には浄土真宗の熱烈な信者が多かったと言われていることから、雑賀衆が自らの本拠地であった弥勒寺山に紀州御坊を招いたのかもしれません。
その後、1563年に本願寺の指導者である顕如上人が弥勒寺山を訪れ、ここにあった紀州御坊を和歌山市鷺森へと移転させました。これが現在の「本願寺鷺森別院」であり、一時期は全国の本願寺の本拠地となっていた場所です。
顕如上人率いる浄土真宗本願寺派は、当時、「戦国時代最大の宗教的武装勢力」であったと言われ、全国統一を目指す織田信長の強力なライバルでした。このため、1570年に発生した「野田城・福島城の戦い」を皮切りに、本願寺と信長は11年にも及ぶ激しい戦いを全国で繰り広げます。これがいわゆる「石山合戦」で、教科書に出てくる「長島一向一揆」や「越前一向一揆」というのもこの合戦の一環として位置づけられています(「加賀一向一揆」は信長との直接対決ではないので少し意味合いが異なります)。
最終的にこの戦いは、1580年に本願寺が朝廷の仲介を受け入れて信長と講和したことにより終結するのですが、その際の講和条件の一つが、「顕如上人の大阪からの退去」でした。これに基づき、顕如上人が移り住んだ先が本願寺紀州御坊なのです。
これにより、「本願寺紀州御坊(現在の鷺森別院)」は、「本願寺」の本拠地となりました。
こうした歴史を受けて、秋葉山の山頂には「顕如上人桌錫所の碑」が建立されています。「桌錫」というのは、「錫杖を突き立てる」ということで、「顕如上人がこの地に立った」というような意味だそうです。
この碑は、顕如上人の300回忌を記念して、明治24年(1891年)に信者らが建立したものと伝えられています。
和歌山と宗教との関わりを考えていく上で高野山や熊野信仰についてはよく語られるのですが、本願寺と雑賀衆との関係は我が国の戦国時代を考える上で絶対にはずせないトピックであり、浄土真宗においても和歌山は重要な地域であると言うことができるのです。
- 施設の満足度
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3.5
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 3.0
- 人混みの少なさ:
- 3.0
- バリアフリー:
- 3.0
- 見ごたえ:
- 3.0
クチコミ投稿日:2015/10/13
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