2024/06/22 - 2024/06/22
39位(同エリア230件中)
さっくんさん
キルギスに入りました。午前中は軽くビシュケクの中心を散策し、午後ビシュケクを発ってイシククル湖を目指しました。生憎の時折雨のパラつく曇り空でしたが、前日は洪水も起きたと言うので不幸中の幸いだったと思います。中央アジアはこの季節の天候は良い筈なのですが、山の天気はやっぱり読めません。
- 旅行の満足度
- 5.0
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キルギスの首都、ビシュケクの街の中心を散策しました。この季節は中央アジアでは安定した気候の筈でしたが、生憎の曇り空。キルギスは山の国、やっぱり山の天気は予測が立て辛いです。
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ソ連時代あるあるの無骨な建物が建ち並びます。政府の各機関が集中しており機能的な街並みに感じました。それでいて息苦しくならないのは、それらの建物の感覚に、広大な公園が設けられているからです。
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そして、それらの公園には数多くの銅像が飾られています。これも共産圏あるあるです。
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ビシュケクの中心、アラトー広場に到着しました。その更に中心に立つのはキルギスの英雄マナトの像です。ソ連支配時代はレーニンに場所を奪われていましたが、独立して返り咲きました。
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アラトー広場を無骨な建物が取り囲んでいます。
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いったいこの武骨な建物は何の建物でしょう?とグーグル先生で検索してみたら、どうやら公的機関の様です。市民の皆様の怨嗟の声のレビューが盛り沢山。星一つが勢揃いになってました。どこの国も公務員と言うものは叩かれてナンボの存在ですが、元共産圏とならば猶更の事でしょう。ご愁傷さまです。
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人民友好記念碑。見るからに、名づけからも、ソ連時代に建てられたものです。タジキスタンもそうでしたが、未だソ連臭がこれ程残っていると言う事はある意味新鮮に感じる程驚きです。私は共産主義が上手く機能すると信じる事は、イエティやネッシーが実在すると信じているのと同等な類だと思っています。
同じ理由で昨今西側諸国で騒々しいポリコレ云々も同じ事。どちらも平等な社会を目指している様ですが、その根本が大きく間違っています。そんな事大真面目に考えている人々、草生えます。 -
前大統領府、現国会議事堂です。以前は塀で囲まれ市民は目にする事さえ出来なかったと言います。現大統領になって以来、市民と政治の壁を取り除こうと言う姿勢から、塀は撤去されたとの事。更に自分にとって大統領府は大き過ぎると言う事で、それまで大統領府より小さかった国会議事堂と役割を交換したのだそうです。自由化はされましたが、あまり近くからの撮影は自粛して欲しいとの事で遠くから。
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前国会議事堂、元大統領府です。確かに上の建物より半分以下のサイズです。つまり以前はたった一人の大統領が巨大な建物の中に塀に囲まれて仕事を行い。大勢の議員が狭い建物に犇めき合って議会を開いていたのです。
しかし現大統領となって、塀を壊して建物を解放し、更に自分はサイズの小さい元国会議事堂に大統領府を移し、大きい元大統領府に国会の場を譲ったと言う事です。より良い国になれそうですね!
私は撮影した写真と、その建物の名称を符合する為、ネットで再確認する様にしています。が、今回のケース、同じ建物でも、大統領府と国会議事堂、異なる表記の写真が出てきます。これは上記の様に、大統領命令で二つの建物の役割を交換した為、そうした現象が起こったのです。現在は大きい方が国会議事堂、小さい方が大統領府となります。 -
タジキスタンでも、ありましたが、第二次大戦中にソ連軍として参戦し、功名を立てて、最終的には戦死した人々が英雄として銅像になっているパターンが多いです。
ロシアはウクライナ紛争でも、モスクワのロシア人を徴兵せず、周囲の異教徒や異民族を徴兵して戦争に送り込んでいます。
24年の3月、モスクワでテロが発生し、ロシア人が200人死んだそうです。犯人の中に中央アジア人がいたらしく、ロシア政府は意図的に中央アジア人やムスリムに対して偏見を煽る様な政策を取っています。
これらプーチンのあからさまな人種差別、レイシズムのやり方は本当に人間の屑ですが、これらはプーチンのみならず西側の白人連中も本質的に持ち合わせているものです。パリの五輪でもあからさまでした。
それにしてもロシアは一日に何人ウクライナ人を殺しているのでしょう?一日何人の自国内の異教徒や異民族に犠牲を強いているのでしょう?他国に軍事侵入し、異国の人を虐殺している様な国に、テロを非難する権利はありません。いや、その様な政策をしているからテロを誘発しているのです。非の無い所にはテロは起こりません。
200人のロシア人の命?ウクライナ紛争でロシアのせいで命を落とした人々の方が倍以上いるのです。笑わせないで欲しいです。とばっちりを喰らったロシア人には同情を感じますが、プーチンを支持している様なら因果応報、自業自得だと思います。
これらの像は、ソ連の英雄を湛えているのかもしれませんが、私には犠牲者にしか映りません。見る者にとって違って映るんです。 -
パンフィロフ公園と呼ばれるソ連の影響を色濃く残す公園には観覧車がありました。
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ソ連時代の無骨で不愛想な建物が続きます。
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そんな無機質な建物群をオーク公園の緑が心を癒してくれます。このバランスは素晴らしいと思います。
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ビシュケクにもレーニン像がありました。タジキスタン同様ソ連時代はキルギスの英雄マナスの建つべき場所に建てられていた様ですが、独立後、マナスが建つべき場所に戻され、レーニン像が今の場所に引っ越してきました。
ボタンを押すと行先を向いてくれるギミックをつけると面白そうなポーズを取っています。
「トイレに行きたいのですが…。」
レーニン像曰く」
「右手の方向にございます!」
「嘘つき…。」(笑)
レーニンさん、私は気づいてしまいました。中央アジアで最貧国の1位と2位を競っている国、両国とも貴方を飾っているのです。もしかして貴方、貧乏神ですか? -
これは何の建物だったでしょうか?日本で言えば霞が関的な地域です。
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此方の銅像は軍人では無く、マルクスとエンゲルスです。経済学を学んでいれば必須な人達ですね。どっちがボケで、どっちが突っ込みでしたっけ?
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街の中心にはソ連時代の建物と緑深き公園。その景観は美しいのですが、ソ連時代以前から残る遺構が何一つ無いのは、ウズベキスタンの首都、タシュケントとの大きな違いだと思います。それは定住化したウズベク人とは違い、キルギスが生粋の遊牧民だった故でしょう。
同じくテュルク系の遊牧民の国トルクメニスタンは悉く現代的な純白な街並みに変えられ、最早伝統的なアイコンは見つけられませんでしたし、これから訪れるカザフスタンのアルマトイも歴史的アイコンは殆ど無く、ソ連時代の建造物が目立ちます。 -
太古の昔には天山山脈を越した隊商が停泊地として街が運営されたれたと言います。コーカンド・ハーン国の領土に組み込まれた歴史もあります。只、本格的な街として発展させたのは、此処を支配したソ連だったので、ほぼほぼソ連臭しか感じない景観となっている理由なのでしょう。
私は、この様な大国支配の痕跡はあまり好みではありません。同様の理由で、中南米の都市も興味を抱けません。征服者のスペインはマヤやインカの街並みを、悉く破壊してしまったからです。現在の街並みは征服当時のスペインの街並みのフランチャイズに過ぎません。
中南米の人々も、此処の人々も、その風景を嫌っている訳では無いので、私が目くじらを立てる事も無いのですが、私は現地の歴史的風景を楽しみたく訪れている訳で、大国の侵略の史跡を見に来た訳では無いので、共感が持てないのです。 -
国立歴史博物館。
中央アジアと言えば、シルクロード。シルクロードと言えば東西貿易と言う観点から語られる事が多いですが、それは商業的観点から見た場合に限ります。政治的観点から見ると、現在のウズベキスタン地域に興ったオアシスに都市を構築し、定住化した国と、その周辺に群雄割拠した遊牧民族の間の鬩ぎ合いと捉えて良いでしょう。
例え方は悪いですが、遊牧民族は、まるでウイルスが突如大流行するが如く、あっという間にこの地域を制圧し、この地域の情勢を全てリセットさせ、そして嘘の様に消えてゆきました。モンゴル帝国然り、ティムール帝国然り…。 -
アラトー広場へ戻って来ました。ソ連時代の無機質で無骨な建築と豊かな自然の絶妙なコラボが印象的な街でした。幾度かの政変を乗り越えて、以前の大統領の閉鎖性と巨大な権力を示すかの様な巨大な大統領府、その壁を破壊して、その大きな建物から自ら退いた現大統領への期待を、ガイドさんの熱弁から感じ取る事が出来ました。
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セントラル・モスクにやってきました。中央アジアで初めて見るオスマン・トルコ様式のモスクです。2018年にトルコのエルドアン大統領が寄贈したモスクだそうです。道理でオスマン様式の筈です。顔立ちからすると本当東洋的な人々なのですが、キルギスがテュルク系だと言う事を改めて感じさせられました。
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礼拝の時間等が表記された看板。
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中庭に続く門。三角形に近い天井にムカルナスが施されています。その形状もペルシャ系のものと大きく異なります。
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中庭から本堂を眺めました。鉛筆型のミナレット。半円を多用したドーム。オスマン様式のモスクはイスラーム建築の中でも個性的なスタイルです。その所以はオスマン様式のルーツが、ビザンティン帝国の大聖堂アヤ・ソフィアにあるからです。コンスタンティノープル、即ちイスタンブールを奪取したオスマン朝が、アヤ・ソフィアの素晴らしさに息を飲み、アヤ・ソフィアに負けない様なモスク造りに挑んだ中、オスマン様式のモスクが成立しました。
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更に歴史を遡れば、イスラーム成立初期にも、イスラームはシリアに進出した際、ビザンティン帝国のダマスカスを奪取し、ダマスカスの教会をウマイヤド・モスクへ改装しました。そしてそのウマイヤド・モスクはその後のモスク建築に大きな影響を与える重要なモスクとなりました。イスラームは建築以外にも様々な叡智をビザンティンから吸収しました。そしてそれがイスラームの急拡大の原動力ともなりました。
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一方キリスト教世界では、カソリックの西ヨーロッパと、東の東方正教会、即ちビザンティン帝国の間では長らく絶縁状態が続き、文化のやりとりは途絶えていました。
そしてイスラームはビザンティンの領土を掠め、ビザンティンの叡智を吸収しながら拡大をしていきます。そして拡張を続けるイスラームは北アフリカを西に進み、地中海を渡りイベリア半島迄領土を広げました。その領土にはアッバース朝の政変に敗れたウマイヤ朝の一派が後ウマイヤ朝が興します。 -
その後、後ウマイヤ朝は分裂、スペインに興ったレコンキスタにより、徐々にイベリア半島の領土を奪われ北アフリカへ堕ちていきました。
しかし、その過程でイスラームがビザンティンから継承した叡智の数々が、西ヨーロッパに齎される事となりました。そしてその叡智の数々が、スペインに於けるルネッサンスを後押ししていく事になります。
カソリックとビザンティンの反目により途絶えていた東方の叡智が、イスラームと共に地中海を西に進み、地中海を渡り、イベリア半島にて西ヨーロッパに到達する。人類の叡智もまた、旅をしていたと思うと、歴史のロマンを感じずにはいられません -
さて、オスマン帝国はコンスタンティノープルを奪取すると国を急拡大させました。中東から地中海沿岸の北アフリカ、そしてバルカン半島を席巻し、オーストリアでヨーロッパとぶつかり合う事となります。目線が西へ、西へと向いていたからかもしれませんが、不自然に感じる程、同じテュルク系の暮らす中央アジアに関して影響を感じません。
オスマン以前の文化交流は、掘り起こす必然性は感じますが、少なくともオスマン様式で建てられたモスクを私は此処で初めて出逢いました。
どうしてオスマン朝は中央アジアへ進出しなかったのか?学べば学ぶ程、学ぶべき項目が次から次へと…。だから歴史は面白いし、だから旅は良い。 -
現在のトルコ人にとっては中央アジアは故郷とも言える大地です。彼等はこの中央アジアを遊牧し、西へ西へと進み、コンスタンティノープルを奪った事により更に西へと進み、そして故郷に戻る事はありませんでした。
そして2018年、エルドアン大統領の久しぶりの故郷への凱旋にて寄贈されたこのモスク。漸くトルコ族の故郷にオスマン様式のモスクが聳える事となったのです。 -
ビシュケクを出発し、イシククル湖を目指しました。折角美しいと聞く湖に、この生憎の天気は残念ですが、先日は洪水も起こった様です。不幸中の幸いと捉えましょう。
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途中、一般家庭券レストランにて昼食を頂きました。此処迄東に来ると中国人の旅人も多いのか、食事をしていると中国人団体が入ってきました。予約無しで入ってきて何やら揉めています。レクサスに乗って来た癖にたった5ドルの事であんなに揉めてる。とガイドさんが笑っています。余りに定番過ぎて私は表情一つ変えません。あんなんで驚いていたら中国人とは付き合えませんよと涼しい顔です。
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如何にも一般家庭的な素朴な店内。但しトイレも一般的な家庭のものなので、穴しかありません(笑)
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此処でこの旅初めてとなる、食べたかったラグメンにあたりました。こんな野菜炒めと
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こんな野菜炒めを
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うどんにかけて頂きます。私の大好きな中央アジア料理です。中国のウイグルから中央アジアにかけて食べられる、うどん料理です。中華の影響を強く受けるウイグルのものは、野菜炒めも中華色が強く、中華に慣れた日本人にとっては此方の方が親近感を感じるかもしれません。
中央アジアのラグメンはスープが多かったり、トマトを多用する傾向があり、西に向かった分、ちょっぴり西洋の味付けを感じたりします。いずれにせよ、日本人の口に良く合い、バズら無いのが不思議な程です。 -
食後、喉かな農村を散策しました。
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郊外の典型的なモスクがありました。ウズベキスタンにある様な伝統的なスタイルでは無く、イスラーム圏全体の郊外に良く見られる典型的なスタイルのモスクです。
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更に山道を高度を上げながら走りました。
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そして車窓からイシククル湖が。大きさは琵琶湖の9倍。入ってくる川は多いものの、流れ出す川は無し。透明度は、ロシアのバイカル湖に次いで二位と言います。そして琵琶湖と同じく古代湖であり高山湖でもあります。それでいて何故か冬になっても凍る事がありません。古代湖であり干上がった事が無いのに限らず、湖底から遺跡の痕跡があったりと謎に満ちた湖なのだそうです。
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湖に向かう前に、岩絵屋外博物館を見学しました。
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思った以上に保存状態が良い岩絵が多かったと思います。
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4000年前からの遺跡だそうです。
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岩絵は世界中に存在しますが、いったい何の為に人々は石に絵を残したのでしょう?
私は、文字と言うものが未だ成り立っていない時代に、狩りの獲物の種類や、獲物が捕れた方角等の情報を、子孫に残す手段だったのでは無いかと思いました。 -
そんな風に考えたのは、世界の様々な宗教画を想像したからです。昔は外国語を喋っれる人は今よりずっと少なかった筈ですし、同じ国であっても識字率は圧倒的に低かった筈です。そんな環境の中、宗教を伝播させる為には、言葉で伝えるより絵で伝えた方がより多くの人々に理解を得やすかったと思います。
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しかし、それに当てはまらない宗教がひとつあります。イスラームです。イスラームは偶像を認めていないので、宗教画はありえません。更に伝える為に必要な言語もアラビア語に限られています。世界的な宗教に広がる為には大きな障壁となるに違わない制約です。然しながら現在イスラームはカソリックを抜く勢いで信者を増やしています。
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死者を称える為に作られると言う石人も展示されていました。時代背景的には全く違う時代のものです。偶然同じ場所に残されたのか、はたまた、適当に同じ場所に集められ展示されてしまったのか?詳細は不明です。
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イシククル湖にやってきました。天候が残念ですが、晴れていれば多くの観光客が訪れるであろう、湖畔には数多くのビーチパラソルが花を広げていました。海の無いキルギスでは泳げる貴重なビーチ・リゾートです。その大きさ琵琶湖の9倍。海と言っても過言では無い大きさです。
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私がこの湖に立ちたかったのは、泳ぎたかったからではありません。この地が私の尊敬する屈強な旅人、玄奘三蔵が天竺を目指す折立ち寄った湖だったからです。
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玄奘三蔵は当時鎖国状態の唐から密出国をしてまで天竺に経典を求めて旅に出ました。即ちwantedな状態で旅を続けたのです。
しかし現在のトルファン、高昌国にて国王麹文泰から熱烈歓迎を受け、国に残って欲しいと再三頼まれますが、玄奘はそれを固辞しました。当時では国王の要請を断る事は殺されかねない事ではありましたが、この国王は、そんなチンケな王では無く、玄奘を高昌国の正式な使節に任命、多くの付き人、旅をする必需品そして西突厥への招待状等を手配しました。
その西突厥へ向かう道中で、イシククル湖を通り抜けたのです。玄奘はこの湖をどんな想いで眺めていたのでしょう?
高昌国の旅
https://4travel.jp/travelogue/11769656 -
その後玄奘は現在のウズベキスタンのブハラにて進路を南に変えて、アフガニスタンのバーミアンを経由してパキスタンのガンダーラに到達します。しかし玄奘がガンダーラに到達した時には、ガンダーラでは仏教は既に衰退していたのです。人形劇ではガンダーラこそ天竺でしたが、実際の玄奘の旅は人形劇よりずっと過酷な運命だったのです。
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その後玄奘はインドの内陸を円を描く様に天竺を探し求めます。天竺はビハール州、ブッダガヤにもほど近い、ナーランダー僧院だと言われています。その後玄奘は現在のカシュガルを経由して天山南路を経由して帰国を果たします。
往きに世話になった高昌国はなんと玄奘の祖国唐によって滅ぼされ廃墟と化していました。玄奘はどの様な想いで廃墟と化した高昌国を眺めたのでしょう? -
玄奘三蔵の旅は、人形劇等を見るとややもすると女々しいものとして描かれています。しかし実際の玄奘三蔵は単独密出国な状態で旅を始め、時には乞食坊主の様な行い迄して天竺を目指した屈強の旅人なのです。イブン・バトゥータと共に私の尊敬する屈強の旅人です。
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西安からトルファン、彼が帰路に立ち寄ったカシュガル。彼が進路を南へ変えたウズベキスタンのブハラ。当初の目的地だったパキスタンのガンダーラ。玄奘が訪れたインドの最東端、現在のバングラデシュ…これ迄幾つもの玄奘が足跡を残した地を旅しました。今回それにもうひとつ自分の足跡を重ねる事が叶いました。
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「色は青黒味を帯び~大きな波が果てしなく、荒い波は沫だっているいる。竜も魚も共に雑居し、不思議な事がおりおり起こる。」(大唐西域記)
玄奘に映ったイシククル湖は、どうやら私が今見る長閑な風景とは異なる様です。 -
然しながら、熱い雲に覆われた湖面を眺めていると、ふとした瞬間竜が現れたとして不思議に思えないかもしれません。
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晴れに恵まれなかったのは残念ですが、ビーチパラソルの下、リゾートを満喫する人々の嬌声を聴きながらでは、歴史に耽る事は出来なかったであろうから、どんよりとしたこんな湖面も、何処か神秘的で、歴史に耽るには好都合だったのかもしれません。
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夕食を食べに向かいました。
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定番のサラダを頂きます。実はこれ迄かなりきつめのスケジュールだったのに、猛暑の中、休憩も取らずに朝焼けから夜更けまで動き捲っていた事、肉料理ばかり食べ、付け合わせの玉葱やヨーグルトを蔑ろにした、なんて事が祟ってか、お腹を壊してしまいました。胃は人一倍強いのに、腸が超弱いのです。歳を取ってそれが顕著になりました。油を選ぶ体になってしまいました。大好きなのに家系ラーメンですら仕事中の昼飯には遠慮する程なのです。
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ガイドさんがチョイスした、この肉のプレートも、とても美味しそうでしたが写真だけで我慢しました。
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そんな時、頼りになるのがラグメンです。幼い頃、お腹を壊した時は良くうどんを食べました。やはり一番慣れている食べ物が一番の薬です。そしてそれが大の好物なら猶更です。このお店のラグメンはスープ・スパの様にお汁があるタイプでした。お店によってバリエーションが豊富なので、同じメニューでも飽きる事がありません。
今回も最後までご覧になってくださり、ありがとうございました。
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