2024/06/23 - 2024/06/23
21位(同エリア162件中)
さっくんさん
本日はイシククル湖を発ってカザフスタンとの国境を越え、アルマトイを目指します。途中ブラナの塔等に立ち寄りますが、ほぼほぼ移動日と言って良いでしょう。同じ様な車窓の風景ばかりになりますが、キルギスからカザフスタンの移動の気分を味わって頂けたらと思います。
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本日はキルギスから国境を越え、最後の訪問国であり最後の訪問地アルマトイに向かいます。本当あっと言う間です。お腹の調子は悪いままでホテルへ戻るとトイレがお友達状態なのに、出発となるとシャキッと普段に戻ります。年老いてまだまだ旅人ですね!(絶対仕事では無理(笑))
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車窓からイシククル湖にサヨナラを告げます。
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本日は実質移動日となります。観光する事も楽しい事ですが、移動する事も旅の醍醐味のひとつと私は考えています。長いドライブの中で、車窓の風景が長い時間をかけて、全く異なる風景に移り変わっていく。そんな時、はるか遠く迄旅してきたのだなぁと実感する。そんな瞬間が私は好きです。
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緑深き耕作地の向こうに背の高い並木、そしてその向こうに聳えるは天山山脈でしょうか?
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高度を下げたら晴れ間が広がってきました。やっぱり晴れは心が躍ります。
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森林限界を超えているのでしょうか?山脈には木々の姿はありません。
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山深きワインディングロードを車はひた走ります。乗っている分には楽しいですが、運転するドライバーさんは大変でしょう。
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天山山脈で産声をあげたシルダリヤ川と並走します。やがてこの大河は、初日に訪れたホジャンドの街を貫いて、タシュケントを掠め、ヒヴァより遥か西側、アラル海まで流れます。
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こんなワインディングロードを大きなトラックが頻繁にすれ違っていきます。キルギスを始め中央アジア諸国は全て内陸国です。(ウズベキスタンは世界で二つしかない二重内陸国)海路による輸出入が出来ないので、物流に於いて大きなハンデを抱えています。安価な輸送は車が生命線なのです。
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陸路を苦労して走っても、これ迄頼りにしていたロシア(頼りにするにもどうか?と言う国ですが)はドンパチに夢中ですし、東は中国、南は犬猿の仲のタジキスタンを通過してアフガニスタンとパキスタン。西はウズベキスタンとカザフスタンを経由してカスピ海。東西南北、どちらに向かっても海に辿り着く迄絶望的な立地だと思います。
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更にタジキスタン同様国土の約9割が山岳地帯。つまりは物流に欠かせない大型トラックが難儀するワインディングロードばかりと言う事。国外に出るまでだって大変と言う事。タジキスタンとキルギスで、中央アジアの経済力の底辺争いをしているのも十分頷けます。
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経済力は弱く、所謂発展途上にある国ではありますが、人口密度が低い中央アジアと言う立地からか、アジアやアフリカの発展途上国にある様な、混沌やカオスな状態は見当たりません。
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小さな集落を抜ければ、そこには大平原が広がるのみ。
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かなり高度がさがりキルギスでは貴重な平原に出ました。大地を走る道も、これまでとは打って変わってまっすぐな道になりました。
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漸く目的地が見えてきました。ブラナの塔です。
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ブラナの塔に到着しました。カラ・ハン朝の築いた古代都市パラサグンに残された、半壊しながらも唯一残された遺跡だと言われています。カラ・ハン朝は9世紀から13世紀初頭にかけて存在したテュルク系の国家で、ブラナの塔は11世紀に建てられました。
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カラ・ハン朝は最盛期は、東は現在のウイグル自治区からウズベキスタンのブハラ周辺まで領有しました。当時ブハラやサマルカンドはタジキスタン編で紹介したサーマーン朝が領有しており、カラ・ハン朝はサーマーン朝に勝利する事で、ブハラやサマルカンドの領土を奪いました。
テュルク系の民族が中央アジアの覇権を取るのに決定的な政変はモンゴルの来襲とその後の分割統治にある事は明白ですが、それより前、ペルシャ系のサーマーン朝が、テュルク系のカラ・ハン朝に敗れて、ブハラやサマルカンドを失った事も大きな分岐点となった事は間違いないでしょう。
遊牧民族が時折起こした大侵略は破壊ばかりと思われがちですが、宗教、建築から食に至る迄の各種文化を広域に伝えるアテンダーの役割も果たしました。こうしてペルシャ系の文化を吸収したテュルク系の遊牧民の国家カラ・ハン朝は、イスラームとペルシャ建築を中央アジア全体に広げる事に大きく貢献したのです。
サーマーン朝について
https://4travel.jp/travelogue/11914023 -
我が国もそうである様に、隣同士の国は大抵仲が良くありません。キルギスとタジキスタンと言う中央アジアの同じ山岳に暮らす人々からなる二つの国も例外ではありません。2021年には武力衝突にさえ至りました。
二つの国の決定的違いは民族です。キルギスはテュルク系の人々、タジキスタンはペルシャ系の人々です。そんなタジキスタンの先祖はサーマーン朝の人々、そのサーマーン朝を滅ぼしたのは、此処キルギスで興ったカラ・ハン朝(民族的にはキルギス人とは異なる。)そんな歴史的背景も二つの国々の人々の溝を深くしているのかもしれません。 -
ブラナの塔の脇には小さな博物館が併設されています。大きな壺が展示されていました。世界の何処の遺跡でも見る事が出来る大定番ですね。遠く離れた世界観でも、人の考える事は大抵共通していると言う事でしょうか?
世界中の子供達を眺めていると、女の子は大抵、ピンク系の服や小物を身に着けているものです。女の子がピンク系が好き。(もしかすると、女の子はピンク系と言う親の先入観)は、人類の共通する習性なのでしょうか?不思議です。 -
カラ・ハン朝の首都パラサグンの想像図。
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ブラナの塔周辺の当時の想像図。
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嘗て中央アジアを席巻したカラ・ハン国の首都とされた場所も、最早見渡す限りの大平原が広がるのみ。ただ半壊したミナレットが嘗ての栄光を物語っています。
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ブラナの塔の脇には石人と呼ばれる人型の石像が集まる場所があります。歴史的に元から此処に集結していたのか、集められたものなのか、詳細は解りませんが、石人は死者を称える為に作られたものなので、元からこの地に纏まっていたのなら、此処は墓地と言う事になるでしょう。
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石人は5~6世紀の突厥の戦士達の墓とされています。当時は当然手作りですから、一人一人表情が違います。
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石人が集まる場所の脇には、如何にも何かある様な、こんもりと土地が盛られている地形がありました。仏教遺跡で良くこの様な地形を見ますが、今後の発掘街の可能性もあるでしょう。
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此方のお方は穏やかな表情をしていますね。
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さて、ブラナの塔に登りましょう。ミナレットを登る螺旋階段は、人ひとりがやっとのスペース。登る人と下る人が鉢合わせてしまうと、どちらかが引き返す他ありません。だから人の流れが途切れると、声を掛け合って後続がいないか確かめながら先に進む必要があります。
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ブラナの塔から広大な眺めを楽しみます。本当に晴れて良かったです。こうした眺めはとても天気に左右されてしまいます。
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こんな歴史ある建築物には大抵エピソードがあるものです。ひとつ紹介いたしましょう。
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ある有力なハーンに娘が生まれました。ハーンは大勢の客を集め祝いましたが、その中のとある老人が、娘は16歳の誕生日に蜘蛛に噛まれて死ぬだろうと不吉な予言を残しました。
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ハーンは娘一人が暮らせる高い塔を築きました。そうです、それがこのブラナの塔です。ハーンの召使は入念にチェックを施した料理を梯子を使って塔を登り、娘に食事を与えました。
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そしておとずれた16歳の誕生日、ハーンは果物の籠を持って娘の誕生日を祝いました。しかしその籠の果物に蜘蛛は隠れていたのです。結局予言は当たってしまいました。ハーンは取り乱して大声で泣き叫び、その衝撃で塔は半壊してしまいました。
と言うお話です。 -
石人が集まる一帯を見下ろしました。
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目前に広がる大平原を眺めます。キルギスは東西交易、即ちシルクロード交易のハイライトであり、最難関であったと思います。カスピ海方面から東を目指せば、其処は雨も殆ど降らないキジルクム砂漠。高低差も殆ど無いし、ルート選びをしっかり行えば、アムダリヤ川もシルダリヤ川も、東西を旅のルートと並走する様に流れているので、隊商の行く手を困難にする大河の渡河を行わなければならない機会も少ないでしょう。
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こうして平坦で渡河も少ない、比較的安定したルートを旅してきた隊商達の行く手を阻む様に立ちはだかるのはキルギスから中国にかけて連なる天山山脈です。天山山脈を含むこの一帯は、隊商達にとってまるで東西を結ぶシルクロードの東西間の最難関の関所の様な存在だったのかもしれません。
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ブラナの塔から降りてきました。完成時は45m、半壊して25m。実際の高さはそれ程のものではありません。しかし周囲あった筈の首都の建物は最早跡形も無く、大平原の中、ポツンと残された塔の姿は、そしてその塔からの眺めは、スケール以上の大きさを感じる事が出来ました。
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私の記憶が確かならば、此処からそう遠く離れていないであろう、タラス地方にて唐に圧力をかけられたゾグディアナを救う為、タシュケントの王子はアッバース朝に救援を要請。そしてアッバース朝率いるイスラーム軍と唐がタラス川河畔で大激突!結果アッバース朝の大圧勝!唐軍の5万人が戦死、2万人が捕虜となりました。
これにより中央アジアの覇権は確定、それまで緩い伝達に過ぎなかったソグド人、テュルク系の人々に、深くイスラームが浸透していきました。そして今尚その構図は変わりません。イスラームの記録的勝利と言って良いでしょう。また、この戦いにより唐から製紙技術が伝達し、サマルカンドに製紙工場が建てられ、イスラームに製紙技術が広まりました。 -
この歴史大敗は唐にとって大きなダメージとなり国の弱体へと繋がりました。やがて起こった安史の乱の際は、嘗て敵対したアッバース朝からアラブ人の援軍を求める程の弱体ぶりで、とても中央アジアに進出するどころの問題では無くなりました。
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ビシュケクからイシククル湖迄続く線路を越します。
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アク・ベシム遺跡を訪れました。遺跡と言うよりは発掘現場と言った方が良い遺跡です。目下帝京大学のチームが発掘調査を行っているとの事です。
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一見特筆すべき事も無い発掘現場と言った風情ですが、私にとって特筆すべきは、この遺跡が6~7世紀に築かれた西突厥の本拠地スイアーブの遺跡である可能性があると言う事です。もしこれが確実となれば、玄奘三蔵が此処を訪れていた可能性が高くなるのです。
天竺を目指した玄奘三蔵の旅、当初は密出国のwanted状態の旅でしたが、高昌国の国王、麴文泰から絶大の信頼を受け、天竺を目指す為に次に訪れるべき国への招待状を与えられました。その国こそ突厥でした。ならば三蔵は必ず本拠地スイアーブを目指した筈なのです。
高昌国の旅行記
https://4travel.jp/travelogue/11769656 -
嘗て、玄奘三蔵もこの地に立ち、この風景を眺めていたのでしょうか?帝京大学の研究結果が楽しみです。
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此処の遺跡に固有の花らしく、遺跡の発掘と共に研究対象となっている花で、薬として利用されていた可能性がある様です。
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ブラナの塔を後にして、ちょっと走ったところ、カザフスタンとの国境前で昼飯を摂りました。
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お腹を壊しているのだから、野菜は積極的に摂りましょう。
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メインは今回もラグメンです。お腹を壊しているから胃に優しいですが、例えお腹を壊していなくても、大好きだから立て続けて食べても飽きません。嗚呼記事書いててまた食べたくなってしまいました。
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カザフスタンとの国境を越えました。今回はキルギスとカザフスタンはスルーでガイドを務めてくれるので、車ごと国境を超える事になります。そんな車ごとの国境越えに慣れていなくてミスをおかしてしまいました。荷物を車に置き去りにして国境を越えてしまいました。
大抵車で国境を超えた場合、人の方が早く国境を越えます。車とドライバーの国境越えを待っていると、係員に呼ばれました。荷物のチェックを受けてください!
やってしまいました。振り出しに戻ります。国境を引き返して、荷物を車から持ち出し、荷物の検査を受けて再び国境を越えました。国境を超える時は自分の荷物を忘れずに!です。 -
牛さん、お馬さん、車でカケッコをしました。馬と牛の混成部隊って珍しいですよね?牛の放牧かな?と思っていたのですが、よく見たら馬も混じっていてビックリしました。
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カザフスタンは広大な国土を持ち、世界第9位の国土面積を持ちます。内陸国としては世界一大きな国で、イスラームの国としても世界一の面積を誇り、かつ最北端の国となっています。石油、天然ガスを豊富に持ち、一国で中央アジアのGDPの60%を稼ぎ出す、中央アジアの経済的、政治的に牽引する存在となっています。
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国土の大半がステップと呼ばれる草原地帯となっており、モンゴル帝国の侵攻とソ連の吸収を除けば、歴史の大半をテュルク系の遊牧民族の国家が興亡を繰り返してきました。
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カザフスタンに入ると、車窓の風景は大平原に変わり、道は基本真っすぐな道が永遠と続きます。
日本は土地が狭いので基本カーブが多いですが、例え真っすぐな道を作れても、完全には真っすぐにしないと聞いた事があります。余りに単調な道は、居眠り運転を誘うからです。
運転手さんごめんなさい。時折頭がガクンと落ちます。いいえ、眠っている訳ではありません。ヘッドバンギングしているのです(笑) -
国土の殆どが草原と言うか大平原なので、風力発電にはもってこいな地形でしょう。日本は狭すぎて風力発電は窮屈に見えてしまいますが、これだけ広いと良く風景に馴染みます。
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ガソリンスタンドに立ち寄りました。ロング・ドライブなので必須です。ただ乗車するのみの身分の私でさえ、伸びをする時間が必要です。ガソリンスタンドの良いところはクレジットカードが利用出来る事。クレジットカードの欠点はあまり金額に無頓着になる事。後々ホテルで確認して驚きました。飲み物一つだけだったのですが、キルギスとの経済格差を痛感しました。
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因みにカザフスタンのガソリンスタンドではヴィザ・カードは使えませんでした。マスター・カードは普通に使えました。推測ですが、私のヴィザ・カードはデビットなので、それがいけなかったのではないかと思います。他に大き目なスーパーマーケットでもカードが使えます。
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ほんの狭い範囲ではありますが、砂丘らしい地形もありました。相変わらずまっすぐな道が続きます。嗚呼たった今、私は中央アジアを疾走している。そう思うと眠気も吹っ飛びます。今回の旅の最終目的地、アルマトイも、もうすぐ其処の筈です。
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行く手の先に再び山脈が見えてきました。頂上には今尚雪が被っています。どうやらアルマトイが近づいています。
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何と言う山脈でしょうか?天山山脈の最西端?グーグル先生はアルマトイは天山山脈のふもとの街とおっしゃってますので、そうなんだと思います。(責任逃れ)
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遠目に見ても、美しいです。
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夕食はホテルから近いレストランで、こう言うのどう言う風に呼ぶのでしたっけ?学生時の食堂に良くあるスタイルですよね。言葉が解らない外国人には、指差しで注文出来るから使いやすいです。
あれ?海の無い中央アジアで魚を見かけたので思わず注文してしまいました。(海から遠いので選ばない方が無難です。)結果鮭と白飯。粗末な日本食みたいな取り合わせになってしまいました。鮭はカスピ海から私の胃袋に逢いに来てくれたそうです。長い旅路をしてきたのですね。私の胃袋の中で思う存分泳ぎなさい。 -
キルギスのイシククル湖から、カザフスタンのアルマトイへ。山の国から草原の国へ、遥々ドライブした一日となりました。中国とイスラームが中央アジアの覇権を巡って一騎打ちしたタラス河畔の戦い、中央アジアの覇権を巡って争った、サーマーン朝とカラ・ハーン朝。嘗て中央アジアを巡った覇権争いに、想いを巡らせた一日となりました。
今回も、最後までご覧になって下さり、ありがとうございました。
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