2024/06/16 - 2024/06/16
20位(同エリア120件中)
さっくんさん
ウズベキスタン・タシュケントにて一泊した後、先ずはタジキスタンのホジャンドに向かいます。ホジャンドにて今日の午後と明日の午前観光をしてタシュケントに引き返します。
- 旅行の満足度
- 5.0
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遂に本格的に旅が始まります。
う~ん、良い夜明けです。 -
ホテルからの眺めはタシュケントの中心の筈ですが、高層ビルが少ないです。それでも実際は土地が少なくなり、郊外に新市街を建設中との事。土地が有り余っているシルクロードの街なので、狭い日本の様に高層ビルをぎっしり建てて、土地を効率良く使うと言う発想にはならないのかもしれません。予算の問題もあるかとは思いますが。
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朝食を食べた時、悲劇が起きました。異常に粘着力がある食べ物があって、ナニコレ?ヤバいと思った時は後の祭り、奥歯の詰め物が取れてしまいました。それに気を取られていて気付かなかったのですが、なんと直したばかりの前歯の仮歯がゴッソリ無くなっていました。テンション爆下がりです。これでは笑うとギャグマンガの主人公になってしまいます。(´;ω;`)
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中央アジアの道路は、土地に余裕があるからか、ソ連の設計が良かったのか、多くの場合広々とした道路に、大きな並木が連なってとても清々しいです。特に夏場は酷暑となるので、大きな並木が強烈な直射日光を遮ってくれて、歩行者にとってはとても有難いです。
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カソリックの教会がありました。基本ムスリム。続いてロシア正教で殆どの人口となるウズベキスタンではカソリックは極少数派です。
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暫く走ると郊外らしい風景に変わります。道沿いに小さなモスクが一定の感覚で建っています。小さきながらもドームはウズベク・ブルーに輝いています。やっぱり中央アジアはモスクが似合います。モスクじゃなければなりません。
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中央アジア諸国の地形はキルギスとタジキスタンが山岳地形、カザフスタンがステップと呼ばれる草原地帯。トルクメニスタンとウズベキスタンは殆どが砂漠地帯で基本都市はオアシス都市となります。そんな中タシュケント一帯は中央アジアの母なる川、シルダリヤ川が流れ、ダムも築かれている為緑が比較的豊かで、道路の両脇は北海道を思わせる大規模農業が展開しています。
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生産されているのは綿花でしょうか?綿花はソ連時代に計画的に(強制的)に中央アジアで生産され、それが現在の中央アジアの主力産業になっている側面もありますが、それが一方的克つ集中的に行われた事により中央アジアの産業の多様性を損なう原因ともなりました。
そして更に悪かったのは、綿花栽培に必要な水を、それでなくとも砂漠地帯のこの地で大体的に行った結果、世界第4位の面積を誇ったアラル海を消失寸前迄追いやった事は、世界的な環境破壊であり、かつ水資源に乏しいウズベキスタンにとって大きな問題となりました。 -
タジキスタンの国境を越えました。此処で一旦ウズベキスタンのドライバーさんとはサヨナラです。明日またピックアップして貰います。
久々の陸路国境越え、しかもタジキスタンと言う事で緊張していたのですが、ヴィザも必要無ければ入国カードも書かされる事無く、そしてクレクレタコラもいません。これではまるでヨーロッパのシュゲン条約非加入国の陸路の国境越えとなんら変わらないクリーンな国境越えでした。どうしてしまったのでしょう?
なんも無くて返って怖いぐらいです。
と思っていたら、乗せて乗せてタコラが現れました。私の車に便乗させてくれと言う白人パッカーです。
私が値段を示すと「金取るのか?」と驚き顔。それには此方こそ驚き顔です。
「私はボランティアで旅してるんじゃないぞっと。では良い旅を!」
非常識なパッカーは捨て置きました(笑)
(私はお金が欲しかったのではありません。試したのです。普通常識として割り勘だとか、これだけしかないけど…とか謙虚な心があるものです。それが無い人間は、いずれ同行しても嫌な思いをするものですから切り捨てるのが互いの為です。決して私が冷たい訳ではありません。) -
タジキスタン側に入ると風景は一変しました。道路の両脇には禿山が迫り、山と道路の間の平原は渇き、ウズベキスタン側の様に耕作をしている様子は見受けられません。山に木が無いのは未だ森林限界とは思えないので、乾燥によるものかと思います。
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中央アジア諸国は総じて経済力が乏しい国ばかりですが、タジキスタンはその中でも脆弱な国です。しかし私を導いてくれるドライバーさんは、タジキスタンを熱く紹介する口調の中から、何度も「リッチな」と言う単語を発しました。例えば我が国には豊富に鉱石があります。とか、そんな感じ。自分の国、仕事に誇りを持っていて、とても前向き。語りは熱い。私は直ぐに彼が好きになりました。
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目的地のホジャンドに到着しました。盆地の様な地形で街の中心にシルダリヤ川が流れています。シルダリヤ川はキルギスのイシククル湖付近の天山山脈に生まれ、此処ホジャンドを貫き、タシュケント付近を抜けカザフスタンに入りアラル海に注ぎます。
一方のアムダリヤ川はタジキスタンのパミール高原に生まれウズベキスタン南部を流れアラル海を終点とします。この二つの大河が中央アジアの二大河川となっており、ウズベキスタン(キジルクム砂漠)は北をシルダリヤ川、南をアムダリヤ川にまるで包み込まれる様な形となっています。 -
ホジャンドに到着したら、先ずは腹ごしらえです。中央アジアでは何処の国でもスープやサラダを前菜として出てきます。とても美味しかったのですが、ヨーグルトが入るんです。ブルガリアで良く学びましたが、頭の中では解っても、私の中ではヨーグルトは甘くなくちゃいけないのです。これはヨーグルトじゃない!ヨーグルトらしき別物だ!と思いながら食べてました(笑)
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中央アジアと言ったら何は無くともシシャリクです。日本で言えば串焼きですが、焼き鳥と思ってオーダーしてはいけません。大きいです。お皿に肉を全部串から抜いて頂きます。サイコロステーキの様な感じです。旅系YouTubeの綺麗なお嬢さんが、食べ方を知らなかったのか、串のまま豪快に食べていて、微笑ましくて笑ってしまいました。
付け合わせの玉葱のスライスは必ず食べましょう。中央アジアの食事は肉や油が多いので、暴食するとお腹を壊しやすいです。(自分の失敗談)脂っこい料理を多く食べる中国人が、ウーロン茶を多く飲むのと同様、玉葱は肉の油等の消化を良くする効果があるのだそうです。付け合わせって良く考えられているのですね!感心してしまいます。 -
川辺にはタジキスタンの偉人達の銅像が建てられていました。中央アジア諸国の銅像の多くは、ソ連統治の歴史がある故ソ連関連のものですが、此処の銅像は全く関係が無く、もっと古い時代からの偉人達です。
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中央アジア諸国は現在となってはテュルク系の人々が殆どで、言語も同様ですが、タジキスタンのみアーリア系の民族で、言語はペルシャに起源を持ちます。現在でも会話ではイラン人と意思の疎通が出来る程共通性を持ちますが、文字は全くの別物だと言います。成程言われてみれば、ミックス度が強いウズベキスタンは除いたとして、他の国々の人達の顔立ちと見比べると、彼等がアーリア系だと解りやすいです。
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カモリ・クジャンディ庭園を訪れました。言われなくとも一目見ればペルシャと言う単語が頭に浮かびます。成程、成程!
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調べてみると、やはりカモリ・クジャンティはペルシャの詩人だそうです。成程イラン・シーラーズで訪れたハーフェズ廟と瓜二つな形状です。ハーフェズもまたペルシャの詩人です。ただ此方の建物が廟か記念碑かはちょっと解らなかったです。
シーラーズの旅行記
https://4travel.jp/travelogue/11784797 -
木製の柱にはぎっしりと美しい彫刻が彫られています。そして柱の最下部がギュッと窄まる独特な形状は中央アジア独特の意匠で、タジキスタンだけではなくウズベキスタン全体で見られますし、現代建築にも応用されているので中央アジアでも意識して保全されている意匠なのだと思います。
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柱に留まらず天井も美しい彫刻で埋め尽くされ、首を痛めながらも見続けてしまいます。これらの繊細さもペルシャ譲りのものでしょう。
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これらの美しい彫刻に彩られたテラス群は、催事の時に使われたと言います。
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さて、タジキスタンがペルシャ系だと言う事は先述しました。当然其処に残る建築もペルシャ様式となります。でも、思えば前回ウズベキスタンで訪問したモスク、マドラサに装飾された紋様、そして色。いや、それだけではありません。建築様式でさえペルシャ起源のものなのです。
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ペルシャのモスクやマドラサの建築様式は、アイヴァンと呼ばれる独特の高い天井を持つ門を持ち、内部に入ると四方を回廊に囲まれた中庭があり、東西南北四方にそれぞれ門を持つのが特徴です。イスファハーンのイマーム・モスクが代表例ですが、ウズベキスタンの多くのモスクやマドラサがこの様式で建てられています。
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でも、現在のウズベキスタンはテュルク系の国、テュルク系の国ならトルコ様式で建てられてもおかしくありません。しかしながら少なくともオスマン様式で建てられたモスクを私は中央アジアで見た事がありません。(キルギスにオスマン様式のモスクがありますが、それは数年前エルドアン大統領が寄贈したものです。)
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何故だ?
私が天を仰いでいると、熱血ガイド君が
「良いところに気付いてくれたね!僕が君に伝えたい核心を突いているとも言える。まぁ落ち着き給え!後々教えてあげるよ!」
と熱血ガイド君。では、楽しみに待つとしよう! -
劇場の様です。
テアトリ・バ・ノミ・カモリ・フチャンジと言います。 -
アラブに共通する城壁が続いています。
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ホジャンド砦を利用したソグド歴史博物館を訪れました。
ソグド…? -
早速調べてみると…。
ソグドとはウズベキスタンのサマルカンド周辺のソグディアナ地方を拠点に、シルクロード交易に従事した商業民族であり、ペルシャ系の民族である…。ペルシャ系?
つまり、シルクロード交易が盛んな頃、ソグド人と呼ばれたペルシャ系の人々が現在のタジキスタンより西に当たるサマルカンド周辺で活躍していた事になる。
う~ん核心に近づいたかな? -
イスラーム建築の見所のひとつは扉の装飾。これは東西南北イスラーム圏で共通しています。イスラームは「人を羨ましがらせる事」を悪徳と考えます。(なのでマウントを取るなんて行為は逆に馬鹿にされます。)なので庭も外に見えない中庭を築き、外観はなるべく質素にします。だけど人はやっぱり洒落心は隠せません。だから彼等は扉に美意識を凝縮させるのです。チュニジアやザンジバルが有名です。
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博物館自体は典型的なものであり、ホジャンドやタジキスタンの歴史を順に追ったものです。しかし熱血ガイド君の熱弁により場は盛り上がります。
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只残念な事に彼は英語のみ。いや中央アジアで英語を喋れるだけで十分貴重なのです。そして彼の英語はとてもクリアです。でもそれに比べ私のヒアリングはヘナチョコです。ついていくのだけで必死なのに、専門用語がボコボコ出てくるし、範囲が広くあっちにこっちに世界を巡るので脳内回路がショート寸前です。
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そんな中、私の前に立ちはだかった壁は、日本の歴史教育の様々な言語をチャンポンにした教育です。一方ガイド君は当然英語一本です。
こんな具合になります。
マセドニアでは…(マケドニアでは…。)
ダリオス1世が…。(ダリオスって誰?あ!ダレイオス1世ですね!)
こうした脳内変換が必要なので、その度に引き離されてしまいます。 -
先述のやりとりで、!となった人がいるのではないでしょうか?そうアレキサンダー大王です。彼はマケドニアを出発し、ペルセポリスを破壊し、そして彼の東を目指した旅は、此処ホジャンドで終わりを告げるのです。
即ち、大王が名付けた街、アレクサンドロス・エスハテ(最果てのアレキサンドリア)とは此処ホジェンドを指すのです。
熱血ガイド君は、この事をとても誇りに思っており、だからこそ英語が覚束ないけど歴史は人一倍好きな日本人をとっ捕まえて、マケドニアからホジャンド迄のアレキサンダー大王の旅を熱く語るのでありました。取っ組み合いした気分だったよ。でも熱い思いと歴史の面白さは十分受け取ったぜ! -
中央アジアの国々はソ連統治時代が漏れなくあった為、共産党が大好きな記念碑や銅像が至る所にあるので、写真を見返した時、どれが何だか解らなくなってしまうのが玉に瑕なのですが、これは間違いなくアフガニスタン侵攻の記念碑だった筈です。ただ、未だソ連に親近感を抱く中央アジアの人々がこの記念碑を前にして抱く心境と、私の心境は、間違いなく180度異なった心境なのでしょう。
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これも忘れ様にも忘れられません。未だこんなのありました。レーニン像です。ソ連時代は、タジキスタンの英雄を差し置いて街の中心に置かれていましたが、独立後は位置が交換されました。とは言え残されている事自体が驚きです。
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かなり気温が上がっていたので、一旦ホテルへ向かいチェックインを済ませて一休みです。
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ホテルからホジャンドの街を眺めました。町の中心を除いて高層ビルはありません。道路の区画が無駄に広くてゆとりがあるのは中央アジアの街らしいです。
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窓の外の看板が四つ星ホテルである事を主張しています。本当でしょうか?先程部屋に戻ろうとしたらカードキーがお亡くなりになりました。結局アナログなカギを使う事に。あ!どうせ、うぷ主にカードキーを持たせるとインロックやらかすだけなので、アナログなキーを持たせておいた方が無難です(笑)
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街の中心をズームしました。中心に見えるエメラルド・グリーンのドームがメインとなるモスク。即ちホジャンドの中心でしょう。
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私の泊まる最上階の街を見渡せる窓際は、此処周囲で一番高いビルだからか、鳥さん達も街を眺めにやってきます。そして熱血ガイド君並みに熱く語ってくれました。
何を言っているのか訳解らんかったけど… -
夕食を頂きます。先ずはスープ。具沢山で美味しい!ヨーグルトも入ってません(笑)
-
メインはタジキスタン風ソーセージです。タジキスタンはイスラームが殆どですから中身は豚はあり得ません。
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夕食を摂った後、シルダリヤ川湖畔で見かけ、気になっていたロープウェイに乗る事にしました。まさかホジャンドにロープウェイがあるとは思いませんでした。
-
なんで夕食を摂った後にロープウェイなのか?と言いますと、その時間だと丁度夕焼けの時間になり、空中からホジャンドの夕陽を写せると思ったからです。我ながら名案と己惚れていると、今までピーカンだった空がみるみるうちに…。真っ黒い雲と強い風…。夕焼けを見ようとしたら、夕立が!
なんでやね~ん! -
ロープウェイの車窓から、砦の城門とモスクのドームが!思わず立ち上がります。(後に調べた結果、どうやらモスクでは無かった様です。詳細は不明です。)
-
熱血ガイド君が言いました。
「実はこのロープウェイの終点の公園に、君に紹介したい人物が待ってます。銅像ですがね!」
いったい何方でしょう? -
ガイド君は続けます。
「先に人物を紹介しておきます。イスマイル・サマーニーです。うぷ主さんは一度ウズベキスタンを旅したのですよね?覚えていませんか?」 -
…確か…ブハラに残っている中央アジア最古の建築物、イスマイル・サマーニー廟!
「ビンゴです!彼は9~10世紀サーマーン朝最盛期のアミールです。そう、ペルシャ系の人物です。現在のウズベキスタン、ブハラからサマルカンド一帯を支配していたのです。我々にとって彼は建国の父、タジキスタンの通貨ソモニも彼の名に因んでいるのです。」
イスマイル・サマーニー廟は此方から
https://4travel.jp/travelogue/11763307 -
成程、それで合点がいきました。タジキスタンの先祖は元々現在のブハラからサマルカンド一帯に暮らしていた。つまり先述した事を重ねれば、彼等こそソグド人の末裔と言う事なのでしょう。
ドームを持った建築の前にこんもりと鎮座する岩山が、どうやらアレキサンダー大王の砦に関する遺跡の様です。 -
そしてペルシャ系の彼等がペルシャ様式の文様や建築様式をウズベキスタンに定着させた。だからその後この地をテュルク系の国々が占める様になっても、現在に残るペルシャ様式の美しい建築群がウズベキスタンに残されていると言う事です。
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一般的に中央アジアの間では何処の国の人であっても、会話なら意思疎通できると聞きますが、ウズベキスタンのブハラやサマルカンドの人々の言語は難しいと聞きました。それはブハラやサマルカンドが長い歴史の中で、タジク系とテュルク系の言語が混じり合い、複雑化した事で、そうした現象が起こるのでしょう。
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さて、でもいったいどうして彼等は居住地を変えざる得なかったのでしょう。サーマーン朝は999年に滅亡してしまいます。その後も大小の国家が興っては消えましたが、この地に大きな変革を齎したのはジンギス・ハーンの大侵略です。この大侵略はそれまでの中央アジアの版図を全てリセットしてしまったと言って良いでしょう。
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ジンギス・ハーンの死後、彼の親族が途方も無い領土を分割して統治しましたが、フビライ・ハーンが興した元が急速に中華化したのと同様、中央アジアのハーン国は元のイスラームの国へと戻っていきました。
これは特定の場所で暮らさない遊牧民族が、定住民族を襲撃し奪った場合、遊牧民族は定住する為のノウハウに乏しいので、奪った民族の文化を流用して国家運営を行ったので、外側から見れば〇〇化してしまったと見えるのでしょう。 -
そんな分裂後の中央アジアで再び覇者が現れます。ティムールです。あっという間に中央アジアを平定しインド、ヨーロッパ迄攻め込みます。
「ジンギス・ハーンが破壊し、ティムールが創った。」
と言う言葉がウズベキスタンに残っています。今日サマルカンドに残されている遺構の殆どがティムール朝の時に作られたものです。ウズベキスタンではティムールは建国の父として、タシュケントの街の中心に銅像が建てられています。 -
ティムール朝が中央アジアを統一し、それが色々と興隆を繰り返しながら4つの国に分かれた。それが現在のカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスと言う事なのでしょう。
こうしたティムール朝に押される形で居場所を求めた結果、山深い現在の位置まで逃げ延びた。それが現在のタジキスタンなのかもしれません。 -
これは全くの脇道になりますが、ティムール亡き後、ティムール朝は一代で滅んでしまいました。しかし彼の血筋バーブルがモンゴル王朝の再興を掲げて奮起します。しかし結局ウズベキスタンで彼の努力は報われる事無く、彼は失念しアフガニスタンを南下し、遠く離れたインドでやっと自分の王朝を開く事が叶いました。
その王朝こそムガル帝国。ムガルとはインドの訛りでモンゴルの意味ですから、ムガル帝国とはウズベキスタン人がインドで開いたモンゴル帝国なのです。私のウズベキスタン担当ガイドが、
「バーブルがインドでは無く故郷でモンゴル王国を興せていたなら、タージマハルはウズベキスタンに建ち、もっと観光客が増えただろうに!」と嘆いていました。
そう言う風に考えたのは初めてだな(笑) -
話を元に戻しましょう。
今度はタジクの人々の視点に戻って歴史を追いましょう。
ジンギス・ハーンの大侵略、ティムールの台頭と言う中央アジアに起こった大波乱。結果それ以前にこの地に栄え、この地に文化を根付かせたタジクの人々は、故郷を追われ、国土の93%が山岳の現在の地域に移る他ありませんでした。
現在となってはその殆どがテュルク系で、ペルシャの血を継ぐタジク人は圧倒的少数派となってしまいました。 -
イスマイル・サマーニ像が出迎えてくれました。
「我々は今となっては少数派、ですが我々は中央アジアに文化を根付かせた誇り高い文化と歴史を持つ中央アジアの先住民なのです!」
これは熱血ガイド君の放った言葉ではありません。でも彼の心がこう叫んでいる様に私は感じました。熱心に国の歴史を誇りを持って語る彼に、タジクの人々に、私は敬意を払いたいです。 -
正直、今回タジキスタンを訪れなかったら、熱血ガイド君に出会わなかったら、私の中でタジキスタンは中央アジアの胡散臭い国程度で終わっていたかもしれません。でも今、私の中でタジキスタンは大きく変わりました。これだから旅は良い。
最後までご覧になって下さり、ありがとうございました。
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