博多旅行記(ブログ) 一覧に戻る
引き続き福岡城の中を散策しているシニア夫婦です。<br />旧舞鶴中学校の校舎がカフェになっていて、ココで少し休憩。<br />そして、福岡城二の丸にある平和台球場へ。<br />プロ野球西鉄ライオンズの本拠地であった平和台球場です。<br />この下に、飛鳥・奈良・平安時代の外交施設で、中国大陸や朝鮮半島からの使節団の迎賓館として使用されていました鴻臚館があったのです。<br />ずっと発掘調査は継続中で、遺構や出土品、復元建物などを鴻臚館跡展示館で拝見することができました。<br />今回福岡城を訪れた際、この鴻臚館跡に寄ることも多きじゃ目的の一つでした。

8日間で福岡県を巡ってみました。⑨博多3日目は福岡城から。三の丸のカフェ~福岡城むかし探訪館~鴻臚館跡展示館

40いいね!

2025/06/13 - 2025/06/20

934位(同エリア6083件中)

nichi

nichiさん

引き続き福岡城の中を散策しているシニア夫婦です。
旧舞鶴中学校の校舎がカフェになっていて、ココで少し休憩。
そして、福岡城二の丸にある平和台球場へ。
プロ野球西鉄ライオンズの本拠地であった平和台球場です。
この下に、飛鳥・奈良・平安時代の外交施設で、中国大陸や朝鮮半島からの使節団の迎賓館として使用されていました鴻臚館があったのです。
ずっと発掘調査は継続中で、遺構や出土品、復元建物などを鴻臚館跡展示館で拝見することができました。
今回福岡城を訪れた際、この鴻臚館跡に寄ることも多きじゃ目的の一つでした。

  • 広島城の三の丸を歩き、「アーティストカフェフクオカ」にやってきました。<br />ここは三の丸にあった旧舞鶴中学校の校舎です。

    広島城の三の丸を歩き、「アーティストカフェフクオカ」にやってきました。
    ここは三の丸にあった旧舞鶴中学校の校舎です。

  • ここは福岡市が運営するアートを中心とした複合交流施設です。<br />展覧会やワークショップ、トークイベントなどが開催されています。

    ここは福岡市が運営するアートを中心とした複合交流施設です。
    展覧会やワークショップ、トークイベントなどが開催されています。

  • お邪魔しま~~す。

    お邪魔しま~~す。

  • こんな所でみんなで手を洗いましたね。

    こんな所でみんなで手を洗いましたね。

  • いかにも元学校です、<br />懐かしいこの雰囲気。

    いかにも元学校です、
    懐かしいこの雰囲気。

  • カフェに寄ってみましょう。

    カフェに寄ってみましょう。

  • 教室がカフェです。

    教室がカフェです。

  • 図書が並んでます。

    図書が並んでます。

  • シニア夫婦は、アイスコーヒーを戴きます。

    シニア夫婦は、アイスコーヒーを戴きます。

  • 教室でアイスコーヒーを戴いていると、文化祭のようです。

    教室でアイスコーヒーを戴いていると、文化祭のようです。

  • アーティストカフェフクオカを出ました。<br />三の丸にある平和台陸上競技場です。

    アーティストカフェフクオカを出ました。
    三の丸にある平和台陸上競技場です。

  • ここは福岡国際マラソンのスタート・ゴール地点として使用された競技場です。<br /><br />瀬古さん、宗兄弟、中山さん。<br />ココでマラソンの名勝負が生まれたのですね。

    ここは福岡国際マラソンのスタート・ゴール地点として使用された競技場です。

    瀬古さん、宗兄弟、中山さん。
    ココでマラソンの名勝負が生まれたのですね。

  • 平和台陸上競技場を左に見て三の丸を東に進みます。

    平和台陸上競技場を左に見て三の丸を東に進みます。

  • 右には三の丸の大きな石垣です。

    右には三の丸の大きな石垣です。

  • 立派な石垣ですね~<br />この上は二の丸ですね。

    立派な石垣ですね~
    この上は二の丸ですね。

  • この図が判りやすいです。<br />今いる所が赤い「現在地」の所。<br />石垣の上には二の丸。<br />その上に本丸があります。

    この図が判りやすいです。
    今いる所が赤い「現在地」の所。
    石垣の上には二の丸。
    その上に本丸があります。

  • 壁になっている石垣です。

    壁になっている石垣です。

  • 石垣は玄武岩や花崗岩が使われていますが、名島城や鎌倉時代の元寇の際に築かれた石垣の石や周辺の古墳の石も使われていたようです。

    石垣は玄武岩や花崗岩が使われていますが、名島城や鎌倉時代の元寇の際に築かれた石垣の石や周辺の古墳の石も使われていたようです。

  • さらに東に進むと、こんな広い広場。

    さらに東に進むと、こんな広い広場。

  • ここはなんと、プロ野球西鉄ライオンズの本拠地であった平和台球場があった所です。<br />明治の廃城令で城は取り壊され、ここには日本陸軍歩兵連隊がありました。<br />戦後はGHQに接収されていましたが、昭和23年(1948年)に開催された福岡国体の際に接収が解除され球場が造られました。

    ここはなんと、プロ野球西鉄ライオンズの本拠地であった平和台球場があった所です。
    明治の廃城令で城は取り壊され、ここには日本陸軍歩兵連隊がありました。
    戦後はGHQに接収されていましたが、昭和23年(1948年)に開催された福岡国体の際に接収が解除され球場が造られました。

  • 私にとっては、子供の頃にプロ野球ニュースで見ていた平和台球場です。<br />西鉄ライオンズ~太平洋クラブライオンズ~クラウンライターライオンズ<br />の記憶です。<br />その後球団は西武に買収されて所沢に行きましたね。<br /><br />そっか~~~<br />ココに平和台球場があったのですね。

    私にとっては、子供の頃にプロ野球ニュースで見ていた平和台球場です。
    西鉄ライオンズ~太平洋クラブライオンズ~クラウンライターライオンズ
    の記憶です。
    その後球団は西武に買収されて所沢に行きましたね。

    そっか~~~
    ココに平和台球場があったのですね。

  • 遠くに見える建物は、

    遠くに見える建物は、

  • 福岡城むかし探訪館。

    福岡城むかし探訪館。

  • お邪魔します。<br />入ってすぐに大きな福岡城の模型。

    お邪魔します。
    入ってすぐに大きな福岡城の模型。

  • 堀に囲まれ、二の丸、三の丸、本丸の関係がよくわかります。

    堀に囲まれ、二の丸、三の丸、本丸の関係がよくわかります。

  • 築城のプロ、黒田如水(官兵衛)と長政。<br /><br />黒田親子は、黒田家の故郷である岡山県の長船に城を築き、福岡城と名付けます。<br />大阪城の縄張り図等も手掛けています。<br />今の福岡県福岡市に城を築く際、この岡山に築城した福岡城に因んで同じ名前の福岡城と名付けています。<br />福岡藩の繁栄にも貢献した黒田親子。<br />藩御用達の様々な商店に黒田家の足跡が見れるとか。。。<br />拝見してみたいものです。

    築城のプロ、黒田如水(官兵衛)と長政。

    黒田親子は、黒田家の故郷である岡山県の長船に城を築き、福岡城と名付けます。
    大阪城の縄張り図等も手掛けています。
    今の福岡県福岡市に城を築く際、この岡山に築城した福岡城に因んで同じ名前の福岡城と名付けています。
    福岡藩の繁栄にも貢献した黒田親子。
    藩御用達の様々な商店に黒田家の足跡が見れるとか。。。
    拝見してみたいものです。

  • 忍者も泣いた!?<br />不落の名城。<br /><br />海から見ると、鶴が羽ばたいているように見える福岡城。<br />だから舞鶴城とも呼ばれたのですね。<br />よって城跡が舞鶴公園なのね~~<br /><br />複雑な石垣に大小47の櫓。<br />10の城門。<br />敵が攻めにくいお城だったのですね。<br /><br />堀は城を囲むだけでなく、城郭を囲むように造られ、博多湾や那珂川とつながり、くまなく水を還流させていました。<br />面白かったのは、堀の深さにこだわっていたこと。<br />潜るには浅すぎ、立つには深すぎる忍者泣かせの堀だったそうです。<br />実際には160㎝ぐらいの深さだったそうです。

    忍者も泣いた!?
    不落の名城。

    海から見ると、鶴が羽ばたいているように見える福岡城。
    だから舞鶴城とも呼ばれたのですね。
    よって城跡が舞鶴公園なのね~~

    複雑な石垣に大小47の櫓。
    10の城門。
    敵が攻めにくいお城だったのですね。

    堀は城を囲むだけでなく、城郭を囲むように造られ、博多湾や那珂川とつながり、くまなく水を還流させていました。
    面白かったのは、堀の深さにこだわっていたこと。
    潜るには浅すぎ、立つには深すぎる忍者泣かせの堀だったそうです。
    実際には160㎝ぐらいの深さだったそうです。

  • 黒田二十四騎だ!<br /><br />本山 一城さんによる「黒田官兵衛と二十四騎」を以前読みました。<br />姫路の1万石にも満たない黒田家が、52万石の国主に上り詰めたのは、この二十四騎の存在は大きかったようです。<br />黒田官兵衛・長政親子家臣団の中で特に功績を残した精鋭24人の事で、<br />勇猛果敢な剣の達人、戦乱で荒れ果てた博多の街を整備するなど、様々な家臣がいたのですね。。。

    黒田二十四騎だ!

    本山 一城さんによる「黒田官兵衛と二十四騎」を以前読みました。
    姫路の1万石にも満たない黒田家が、52万石の国主に上り詰めたのは、この二十四騎の存在は大きかったようです。
    黒田官兵衛・長政親子家臣団の中で特に功績を残した精鋭24人の事で、
    勇猛果敢な剣の達人、戦乱で荒れ果てた博多の街を整備するなど、様々な家臣がいたのですね。。。

  • 福岡城の本丸に天守閣はあったのか??<br />黒田如水、長政親子は、幕府に遠慮して、福岡城には天守を築かなかったと言われてきました。<br />ところが近年、小倉藩主であった細川忠興が息子に宛てた手紙が発見され、「長政が幕府に配慮して、天守を取り壊すと語った。」と記してあったとのこと。<br />つまり、天守閣は一度は造られていたようです。<br />実際に存在していたのは、十数年のようですが・・<br /><br />最近でもこんな新しい事実が判るなど、面白いですね~

    福岡城の本丸に天守閣はあったのか??
    黒田如水、長政親子は、幕府に遠慮して、福岡城には天守を築かなかったと言われてきました。
    ところが近年、小倉藩主であった細川忠興が息子に宛てた手紙が発見され、「長政が幕府に配慮して、天守を取り壊すと語った。」と記してあったとのこと。
    つまり、天守閣は一度は造られていたようです。
    実際に存在していたのは、十数年のようですが・・

    最近でもこんな新しい事実が判るなど、面白いですね~

  • 博多と福岡<br /><br />那珂川を挟んで東側は商人の町博多、西側は武士の町福岡。<br />両方とも黒田の城下町です。

    博多と福岡

    那珂川を挟んで東側は商人の町博多、西側は武士の町福岡。
    両方とも黒田の城下町です。

  • 博多と福岡を隔てる那珂川の河口付近に、大きな中洲がありました。<br />博多の人は、中島橋を渡って中島に渡り、西中島橋を渡って福岡に行きました。<br />西中島橋のたもとには、物々しい石垣の頑丈な桝形門があって、博多から福岡に入るには厳しい検問があったのですね。

    博多と福岡を隔てる那珂川の河口付近に、大きな中洲がありました。
    博多の人は、中島橋を渡って中島に渡り、西中島橋を渡って福岡に行きました。
    西中島橋のたもとには、物々しい石垣の頑丈な桝形門があって、博多から福岡に入るには厳しい検問があったのですね。

  • 軍師黒田官兵衛の朱塗りの兜です。

    軍師黒田官兵衛の朱塗りの兜です。

  • 織田信長から贈られた名刀のレプリカです。

    織田信長から贈られた名刀のレプリカです。

  • 福岡城むかし探訪館を出て、平和台球場跡越しに見える、鴻臚館に向かいます。

    福岡城むかし探訪館を出て、平和台球場跡越しに見える、鴻臚館に向かいます。

  • 鴻臚館は今回福岡城を訪れた目的の一つです。<br /><br />飛鳥・奈良・平安時代の外交施設で、中国大陸や朝鮮半島からの使節団の迎賓館として使用されていました。<br />また、遣唐使の宿泊所としても使用されていました。<br />そのような施設がココに?

    鴻臚館は今回福岡城を訪れた目的の一つです。

    飛鳥・奈良・平安時代の外交施設で、中国大陸や朝鮮半島からの使節団の迎賓館として使用されていました。
    また、遣唐使の宿泊所としても使用されていました。
    そのような施設がココに?

  • 1987年の平和台球場の外野席改修工事による発掘調査で、遺構の一部が発見されていました。<br />そもそも老朽化を理由に閉鎖することが決まっていた平和台球場は、「古代アジアの玄関口」とされる鴻臚館遺跡の上にあったことになります。<br />1999年~2013年までに平和台球場跡の発掘調査が行われました。

    1987年の平和台球場の外野席改修工事による発掘調査で、遺構の一部が発見されていました。
    そもそも老朽化を理由に閉鎖することが決まっていた平和台球場は、「古代アジアの玄関口」とされる鴻臚館遺跡の上にあったことになります。
    1999年~2013年までに平和台球場跡の発掘調査が行われました。

  • これが以前ココにあったとされる鴻臚館です。

    これが以前ココにあったとされる鴻臚館です。

  • 平和台球場の外野席のすぐ下から見つかった遺跡です。

    平和台球場の外野席のすぐ下から見つかった遺跡です。

  • 1995年、発掘調査が終了した南側遺構に鴻臚館跡展示館が完成しました。

    1995年、発掘調査が終了した南側遺構に鴻臚館跡展示館が完成しました。

  • 入場はなんと無料なんです。

    入場はなんと無料なんです。

  • 発掘当時のまま残された遺構や出土品、復元建物などを拝見することができます。

    発掘当時のまま残された遺構や出土品、復元建物などを拝見することができます。

  • 保存のために屋根で遺跡をすっぽり覆っています。<br />保護のために空調も効いています。

    保存のために屋根で遺跡をすっぽり覆っています。
    保護のために空調も効いています。

  • 鴻臚館は、古代における我が国の外交施設で、平安時代には福岡(筑紫)、大阪(難波)、京都(平安京)の3か所に置かれました。<br />でもその跡が確認できたのは、ココ福岡の鴻臚館だけなんです。<br />福岡の鴻臚館は、7世紀後半~11世紀半ば(飛鳥時代~平安時代)の400年もの長い間存続していました。<br />元々は筑紫館と呼ばれていましたが、平安時代になって唐の国の外交を司る鴻臚寺にならって鴻臚館と名を改めています。<br /><br />奈良時代から平安時代の初め頃までは、中国や新羅からの外交施設をもてなしたり、日本からの遣唐使の出航前の宿泊地になりました。<br />平安時代の半ばから、外国からの商人が往来する交易の拠点施設となって、後の中世都市博多が生まれる先駆的な役割を果たしています。<br />

    鴻臚館は、古代における我が国の外交施設で、平安時代には福岡(筑紫)、大阪(難波)、京都(平安京)の3か所に置かれました。
    でもその跡が確認できたのは、ココ福岡の鴻臚館だけなんです。
    福岡の鴻臚館は、7世紀後半~11世紀半ば(飛鳥時代~平安時代)の400年もの長い間存続していました。
    元々は筑紫館と呼ばれていましたが、平安時代になって唐の国の外交を司る鴻臚寺にならって鴻臚館と名を改めています。

    奈良時代から平安時代の初め頃までは、中国や新羅からの外交施設をもてなしたり、日本からの遣唐使の出航前の宿泊地になりました。
    平安時代の半ばから、外国からの商人が往来する交易の拠点施設となって、後の中世都市博多が生まれる先駆的な役割を果たしています。

  • ココ、まさにココに鴻臚館があったのですね。

    ココ、まさにココに鴻臚館があったのですね。

  • 発掘調査で発見された遺構を調査当時のままで公開していました。<br />礎石や柱の跡などを拝見することができます。

    発掘調査で発見された遺構を調査当時のままで公開していました。
    礎石や柱の跡などを拝見することができます。

  • ココには宿坊や回廊があったと想定されています。

    ココには宿坊や回廊があったと想定されています。

  • こんな建物だったのかな~?<br />という想定図。

    こんな建物だったのかな~?
    という想定図。

  • これが想定で建てられた建物です。

    これが想定で建てられた建物です。

  • 鴻臚館と大宰府は、官道で結ばれていました。<br />外交施設の往来に利用された道です。<br />幅は約9m。<br />長さは16㎞程であったようです。

    鴻臚館と大宰府は、官道で結ばれていました。
    外交施設の往来に利用された道です。
    幅は約9m。
    長さは16㎞程であったようです。

  • 大宰府は、九州に置かれた国の地方行政機関でした。<br />諸外国との対外交渉の窓口として、そして九州の守りの要として置かれていました。<br />組織も長官を筆頭に多くの役人が従事していました。<br />一つ一つの省の役割を拝見すると、今と似ている所もあって面白い・・

    大宰府は、九州に置かれた国の地方行政機関でした。
    諸外国との対外交渉の窓口として、そして九州の守りの要として置かれていました。
    組織も長官を筆頭に多くの役人が従事していました。
    一つ一つの省の役割を拝見すると、今と似ている所もあって面白い・・

  • こんな木簡が出土しています。<br />板に文字が書かれています。

    こんな木簡が出土しています。
    板に文字が書かれています。

  • この木簡、なんとトイレの遺構から発見されています。<br />でもトイレに関連するものではなく、肥後だとか京都だとか日本の地名が入っていて、当時税の一つだった物品名が記されているのだそうです。

    この木簡、なんとトイレの遺構から発見されています。
    でもトイレに関連するものではなく、肥後だとか京都だとか日本の地名が入っていて、当時税の一つだった物品名が記されているのだそうです。

  • 鴻臚館は、元々は筑紫館と言われていました。<br />飛鳥から平安初期までの事です。<br />

    鴻臚館は、元々は筑紫館と言われていました。
    飛鳥から平安初期までの事です。

  • かつてあった鴻臚館のイメージ図。

    かつてあった鴻臚館のイメージ図。

  • こんなものが出土しています。<br />これは陶製の枕です。<br />鮮やかですね~<br /><br />8世紀から9世紀の唐のものだそうです。

    こんなものが出土しています。
    これは陶製の枕です。
    鮮やかですね~

    8世紀から9世紀の唐のものだそうです。

  • ここにはごみ穴から見つかった中国の陶磁器です。

    ここにはごみ穴から見つかった中国の陶磁器です。

  • 多くの陶磁器が出土しています。

    多くの陶磁器が出土しています。

  • 平安時代の遣唐使船です。<br />こんな船で大陸との間を行き来していたのですね。

    平安時代の遣唐使船です。
    こんな船で大陸との間を行き来していたのですね。

  • 遣唐使船の航路です。<br />最短距離の航行で、約9日間の航海だったようです。<br />いくつもの航路があったのですね。

    遣唐使船の航路です。
    最短距離の航行で、約9日間の航海だったようです。
    いくつもの航路があったのですね。

  • 遣唐使の船団は4隻。<br />400人~500人に人々が分乗していました。<br />どんな人が乗船していたのか記してありました。<br />そもそも270人~280人(つまり半分以上の人)が漕ぎ手だったのですね。<br />書記官や通訳と言うのは判りますが、神主や占い師も乗船していたのは面白い。

    遣唐使の船団は4隻。
    400人~500人に人々が分乗していました。
    どんな人が乗船していたのか記してありました。
    そもそも270人~280人(つまり半分以上の人)が漕ぎ手だったのですね。
    書記官や通訳と言うのは判りますが、神主や占い師も乗船していたのは面白い。

  • 中には江戸時代に掘られた井戸の跡もあります。<br />それぞれどの時代なのか、ちゃんとわかるのですね~

    中には江戸時代に掘られた井戸の跡もあります。
    それぞれどの時代なのか、ちゃんとわかるのですね~

  • これは太い柱の跡です。

    これは太い柱の跡です。

  • ロマンがあるな~

    ロマンがあるな~

  • このような建物であったようですね。<br />イメージが湧きます。

    このような建物であったようですね。
    イメージが湧きます。

  • ロマンがあるな~

    ロマンがあるな~

  • 鴻臚館の整備イメージ図です。<br /><br />明治維新で日本陸軍の施設ができ、戦後は平和台球場ができたことにより、地中で無事だった鴻臚館。<br />まだまだ発掘中です。<br />今度はどんなものが発掘され、何が発見されるのでしょうか?<br />楽しみですね。<br /><br />つづく

    鴻臚館の整備イメージ図です。

    明治維新で日本陸軍の施設ができ、戦後は平和台球場ができたことにより、地中で無事だった鴻臚館。
    まだまだ発掘中です。
    今度はどんなものが発掘され、何が発見されるのでしょうか?
    楽しみですね。

    つづく

40いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP