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小倉に戻ってきて最初に訪れたのが、松本清張記念館。<br />シニア夫婦が初めて読んだ推理小説が2人とも、松本清張でした。<br />中は撮影禁止でしたが、作品の紹介と作品の時代背景が判る映像を交えながら理解するのは面白かったです。<br />杉並区高井戸の自宅の再現も面白かったです。<br />特に執筆を行った書斎の再現は、興味深かったな~~<br /><br />そして小倉城へ。<br />建物は昭和に鉄筋コンクリートで復元した建物ですが、内部の博物館が面白かったです。<br />特に細川忠興のファンである私にとって、面白く知識欲がそそられる、ワクワクするスペースでした。。<br />

8日間で福岡県を巡ってみました。⑲松本清張記念館~小倉城

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2025/06/13 - 2025/06/20

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nichi

nichiさん

小倉に戻ってきて最初に訪れたのが、松本清張記念館。
シニア夫婦が初めて読んだ推理小説が2人とも、松本清張でした。
中は撮影禁止でしたが、作品の紹介と作品の時代背景が判る映像を交えながら理解するのは面白かったです。
杉並区高井戸の自宅の再現も面白かったです。
特に執筆を行った書斎の再現は、興味深かったな~~

そして小倉城へ。
建物は昭和に鉄筋コンクリートで復元した建物ですが、内部の博物館が面白かったです。
特に細川忠興のファンである私にとって、面白く知識欲がそそられる、ワクワクするスペースでした。。

  • 門司港から約15分、小倉に戻ってきました。

    門司港から約15分、小倉に戻ってきました。

  • 小倉駅前からバスに乗って、

    小倉駅前からバスに乗って、

  • 約10分の乗車。<br />北九州市役所でバスを下車。

    約10分の乗車。
    北九州市役所でバスを下車。

  • 小倉城の城内にある、松本清張記念館にやってきました。

    小倉城の城内にある、松本清張記念館にやってきました。

  • 今回の旅行で訪れたかった場所の一つです。

    今回の旅行で訪れたかった場所の一つです。

  • 小倉生まれの松本清張です。<br />彼の生まれ故郷にある記念館です。

    小倉生まれの松本清張です。
    彼の生まれ故郷にある記念館です。

  • 松本清張記念館、小倉城、小倉城庭園<br />の入場がセットになって700円。

    松本清張記念館、小倉城、小倉城庭園
    の入場がセットになって700円。

  • 700円×2枚

    700円×2枚

  • 入るとそこは、壮観なスペース。<br />松本清張全作(約700冊)の壁です。<br /><br />このうち、何冊読んでるかな~??<br /><br />中学生の頃、初めて読んだ推理小説が松本清張でした。<br />「点と線」<br />「ゼロの焦点」<br />「黒い樹海」<br />「歪んだ複写」<br />「黄色い風土」<br />他にも色々夢中になったな~~<br /><br />相方も中学生~高校生の頃にはまったそうです。<br />私は恐らく20作ぐらい。<br />相方は50冊ぐらいもようです。<br />私より相方の方が松本清張を読んでいるようです。

    入るとそこは、壮観なスペース。
    松本清張全作(約700冊)の壁です。

    このうち、何冊読んでるかな~??

    中学生の頃、初めて読んだ推理小説が松本清張でした。
    「点と線」
    「ゼロの焦点」
    「黒い樹海」
    「歪んだ複写」
    「黄色い風土」
    他にも色々夢中になったな~~

    相方も中学生~高校生の頃にはまったそうです。
    私は恐らく20作ぐらい。
    相方は50冊ぐらいもようです。
    私より相方の方が松本清張を読んでいるようです。

  • この石は何?

    この石は何?

  • 東大寺の回廊の礎石なのですね。<br />自宅に所有されていたようです。<br />松本清張の思いがこもった石なんですね。

    東大寺の回廊の礎石なのですね。
    自宅に所有されていたようです。
    松本清張の思いがこもった石なんですね。

  • ココから先は撮影禁止。<br />現代小説<br />推理小説<br />歴史小説と時代小説<br />現代史<br />古代史<br />松本清張フィルモグラフィ<br />の6ジャンル別に清張文学の全貌を紹介しています。<br /><br />清張が様々な作品を生み出した時代ごとのニュース映像などを映すモニターで拝見することができました。<br />当時の社会背景や世相なども同時に知ることができ、興味深く拝見しました。<br /><br />杉並区高井戸の自宅の再現も面白かったです。<br />応接間、資料室、書斎など、じっくり拝見しました。

    ココから先は撮影禁止。
    現代小説
    推理小説
    歴史小説と時代小説
    現代史
    古代史
    松本清張フィルモグラフィ
    の6ジャンル別に清張文学の全貌を紹介しています。

    清張が様々な作品を生み出した時代ごとのニュース映像などを映すモニターで拝見することができました。
    当時の社会背景や世相なども同時に知ることができ、興味深く拝見しました。

    杉並区高井戸の自宅の再現も面白かったです。
    応接間、資料室、書斎など、じっくり拝見しました。

  • 松本清張記念館は、小倉城の中にあるので、記念館を出るとお城の内堀。

    松本清張記念館は、小倉城の中にあるので、記念館を出るとお城の内堀。

  • 小倉城は明治時代になると旧日本軍の管理下に置かれ、小倉連隊区司令部歩兵第12旅団司令部が設置されました。<br />これがその門柱です。

    小倉城は明治時代になると旧日本軍の管理下に置かれ、小倉連隊区司令部歩兵第12旅団司令部が設置されました。
    これがその門柱です。

  • この階段の所に小倉城の鉄門がありました。

    この階段の所に小倉城の鉄門がありました。

  • 階段を登るとその先に、やはり旧日本軍の旧第十二師団司令部正門跡がありました。

    階段を登るとその先に、やはり旧日本軍の旧第十二師団司令部正門跡がありました。

  • 昭和14年のこの門の写真です。

    昭和14年のこの門の写真です。

  • この大砲は、四年式十五珊榴弾砲。

    この大砲は、四年式十五珊榴弾砲。

  • 小倉城の本丸に向かいます。

    小倉城の本丸に向かいます。

  • 宮本武蔵と佐々木小次郎ですね。<br />巌流島の決闘の様子です。<br /><br />ココ小倉は、宮本武蔵にとって、一番長く滞在した土地なんですね。<br />小倉城が細川藩の頃から小笠原藩の頃まで、7年にも及ぶそうです。

    宮本武蔵と佐々木小次郎ですね。
    巌流島の決闘の様子です。

    ココ小倉は、宮本武蔵にとって、一番長く滞在した土地なんですね。
    小倉城が細川藩の頃から小笠原藩の頃まで、7年にも及ぶそうです。

  • この碑は、<br />「誠心直道」の碑。<br /><br />この言葉は、宮本武蔵が創始となった、右手に大太刀、左手に小太刀を持って戦う剣術としてよく知られる「兵法二天一流」の神髄なんだそうです。<br />剣術の技術というより理念が重要なんですね。

    この碑は、
    「誠心直道」の碑。

    この言葉は、宮本武蔵が創始となった、右手に大太刀、左手に小太刀を持って戦う剣術としてよく知られる「兵法二天一流」の神髄なんだそうです。
    剣術の技術というより理念が重要なんですね。

  • 小倉城の天守が見えてきました。

    小倉城の天守が見えてきました。

  • 戦後に再建された鉄筋コンクリート造りの天守です。<br />

    戦後に再建された鉄筋コンクリート造りの天守です。

  • お邪魔します。

    お邪魔します。

  • 中は博物館になっています。

    中は博物館になっています。

  • ここは模型と共に小倉城の歴史のお話。

    ここは模型と共に小倉城の歴史のお話。

  • 関門海峡に面した小倉は、陸海の交通の要衝として古くから砦や城が築かれていました。

    関門海峡に面した小倉は、陸海の交通の要衝として古くから砦や城が築かれていました。

  • そして戦国時代の末期、1569年に中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから小倉城の歴史が始まります。

    そして戦国時代の末期、1569年に中国地方の毛利氏が現在の地に城を築いたことから小倉城の歴史が始まります。

  • 慶長7年(1600年)の関ケ原の戦い家康方が勝利しますが、その時の功績によって、細川忠興が豊前の国(今の福岡県東部と大分県の北西部)を与えら、ここに本格的は城を7年をかけて築城しました。

    慶長7年(1600年)の関ケ原の戦い家康方が勝利しますが、その時の功績によって、細川忠興が豊前の国(今の福岡県東部と大分県の北西部)を与えら、ここに本格的は城を7年をかけて築城しました。

  • 細川忠興は諸国の商人や職人を集め、商業別に住まわせました。<br />さらに細川の次の小笠原時代には長崎街道が整備され、人々の往来が増えて城下町はさらに繁栄しました。

    細川忠興は諸国の商人や職人を集め、商業別に住まわせました。
    さらに細川の次の小笠原時代には長崎街道が整備され、人々の往来が増えて城下町はさらに繁栄しました。

  • 職業がそのまま町名になった所が多く、染物屋があった紺屋町、魚屋が多かった魚町などが城下町にその町名が残っています。

    職業がそのまま町名になった所が多く、染物屋があった紺屋町、魚屋が多かった魚町などが城下町にその町名が残っています。

  • 細川忠興の妻であり、明智光秀の娘であった細川ガラシャは、敵であった石田三成から人質になるように命じられますがこれを拒否。<br />キリシタンであったため自害できないため、家来に介錯を依頼します。<br />細川忠興によって小倉で葬儀ミサが執り行われました。

    細川忠興の妻であり、明智光秀の娘であった細川ガラシャは、敵であった石田三成から人質になるように命じられますがこれを拒否。
    キリシタンであったため自害できないため、家来に介錯を依頼します。
    細川忠興によって小倉で葬儀ミサが執り行われました。

  • 細川忠利の時代、小倉で金山が発見されました。<br />藩は金山奉行を設置し、300人ほどの堀子を集め、採掘事業に取り組みました。

    細川忠利の時代、小倉で金山が発見されました。
    藩は金山奉行を設置し、300人ほどの堀子を集め、採掘事業に取り組みました。

  • 元和6年(1620年)、細川忠興が隠居し、忠興の三男である忠利が小倉細川藩の二代目当主に就任しました。

    元和6年(1620年)、細川忠興が隠居し、忠興の三男である忠利が小倉細川藩の二代目当主に就任しました。

  • 細川氏が熊本に移り、代わりに小笠原氏が入国します。

    細川氏が熊本に移り、代わりに小笠原氏が入国します。

  • 城下町の紫川に架かる常盤橋です。

    城下町の紫川に架かる常盤橋です。

  • 幕府に献上された像も渡った橋です。

    幕府に献上された像も渡った橋です。

  • 城下では、流鏑馬も行われていました。<br />細川の次の藩主だった小笠原家に受け継がれた弓馬術を「小笠原流流鏑馬」と言われ、今でも神社で奉納されています。

    城下では、流鏑馬も行われていました。
    細川の次の藩主だった小笠原家に受け継がれた弓馬術を「小笠原流流鏑馬」と言われ、今でも神社で奉納されています。

  • 1837年に、失火により、小倉城は全焼してしまいます。<br />その後、再建されましたが、天守は再建されませんでした。

    1837年に、失火により、小倉城は全焼してしまいます。
    その後、再建されましたが、天守は再建されませんでした。

  • この行列は、朝鮮通信使一行の行列です。<br />将軍の代が変わるごとに、祝賀の為に来日していました。

    この行列は、朝鮮通信使一行の行列です。
    将軍の代が変わるごとに、祝賀の為に来日していました。

  • 朝鮮から玄界灘を渡り、陸路大阪までは海路。<br />その先は陸路江戸まで向かっていました。

    朝鮮から玄界灘を渡り、陸路大阪までは海路。
    その先は陸路江戸まで向かっていました。

  • 元治元年(1864年)には、第一次長州征伐の為、幕府軍が小倉にやってきました。

    元治元年(1864年)には、第一次長州征伐の為、幕府軍が小倉にやってきました。

  • 慶応2年(1866年)には第二次長州征伐で小倉に塀が集まりました。。。。

    慶応2年(1866年)には第二次長州征伐で小倉に塀が集まりました。。。。

  • 尊王倒幕を掲げる長州藩vs幕府軍の戦いは、小倉藩がその中心的な役割を果たしました。<br />武力に勝る長州藩は小倉藩を攻め、8月1日小笠原氏は自ら小倉城に火を放ちます。<br />

    尊王倒幕を掲げる長州藩vs幕府軍の戦いは、小倉藩がその中心的な役割を果たしました。
    武力に勝る長州藩は小倉藩を攻め、8月1日小笠原氏は自ら小倉城に火を放ちます。

  • そもそも小倉城を築城した細川忠興の細川家は?<br />鎌倉時代から続く名家です。<br />南北朝動乱期や応仁の乱でも活躍したが、室町末期の細川藤孝(幽斎)は文化人として有名ですね。足利氏から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、皆から重用されています。<br />文芸や茶道など文化面でも一流でした。<br /><br />その長男の細川忠興は、明智光秀の長女である細川ガラシャが妻で、茶道にも通じた文武両道の名将でした。<br />信長、秀吉、家康と戦国の天下人にも仕えた忠興は、関ケ原で活躍し、小倉上を築城して初代藩主になりました。<br /><br />忠興とガラシャの三男であった忠利は、小倉藩の二代目藩主となります。藩の経済発展と庶民の為の藩政を行い、後に熊本に移り、熊本藩の初代藩主になりました。

    そもそも小倉城を築城した細川忠興の細川家は?
    鎌倉時代から続く名家です。
    南北朝動乱期や応仁の乱でも活躍したが、室町末期の細川藤孝(幽斎)は文化人として有名ですね。足利氏から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、皆から重用されています。
    文芸や茶道など文化面でも一流でした。

    その長男の細川忠興は、明智光秀の長女である細川ガラシャが妻で、茶道にも通じた文武両道の名将でした。
    信長、秀吉、家康と戦国の天下人にも仕えた忠興は、関ケ原で活躍し、小倉上を築城して初代藩主になりました。

    忠興とガラシャの三男であった忠利は、小倉藩の二代目藩主となります。藩の経済発展と庶民の為の藩政を行い、後に熊本に移り、熊本藩の初代藩主になりました。

  • 細川忠興が関ケ原の戦いで使用されたという鎧兜です。<br />本当か~?<br /><br />細川家で大切に保管されていたようです。

    細川忠興が関ケ原の戦いで使用されたという鎧兜です。
    本当か~?

    細川家で大切に保管されていたようです。

  • 大阪夏の陣の屏風です。<br /><br />シニア夫婦はこのような絵が好きなんですよね~

    大阪夏の陣の屏風です。

    シニア夫婦はこのような絵が好きなんですよね~

  • 一番左には豊臣秀頼、総大将の本陣です。

    一番左には豊臣秀頼、総大将の本陣です。

  • 赤備えは、豊臣方の真田幸村の軍勢です。

    赤備えは、豊臣方の真田幸村の軍勢です。

  • 対する一番右には徳川家康の本陣です。

    対する一番右には徳川家康の本陣です。

  • 徳川方の軍勢です。<br />前田利常、藤堂高虎、井伊直孝、本多忠朝、黒田長政、伊達政宗<br />の名前が見えます。

    徳川方の軍勢です。
    前田利常、藤堂高虎、井伊直孝、本多忠朝、黒田長政、伊達政宗
    の名前が見えます。

  • こちらも徳川方の軍勢です。<br />松平忠直、小笠原秀政、松平忠明、徳川義直、徳川頼宜<br />の名前が見えます。<br /><br />見ていてワクワクします。

    こちらも徳川方の軍勢です。
    松平忠直、小笠原秀政、松平忠明、徳川義直、徳川頼宜
    の名前が見えます。

    見ていてワクワクします。

  • ここからは、細川忠興と茶の湯のお話。<br />忠興は父であった藤孝(幽斎)の影響で、武術、算術、医学の他、和歌や能楽、茶などの文化にも造詣が深く、深い教養を身に付けていました。<br />特に茶に対する造形は特に深かったようです。

    ここからは、細川忠興と茶の湯のお話。
    忠興は父であった藤孝(幽斎)の影響で、武術、算術、医学の他、和歌や能楽、茶などの文化にも造詣が深く、深い教養を身に付けていました。
    特に茶に対する造形は特に深かったようです。

  • 江戸時代の小倉城と城下町。<br />細川忠興が築いた小倉城は、城下町全体を城郭とする巨大なお城でした。

    江戸時代の小倉城と城下町。
    細川忠興が築いた小倉城は、城下町全体を城郭とする巨大なお城でした。

  • 小倉城本丸にあった茶室は、千利休の好みを継承しつつ、忠興独自の拘りもあったようです。

    小倉城本丸にあった茶室は、千利休の好みを継承しつつ、忠興独自の拘りもあったようです。

  • 関ケ原の戦いで東軍(家康方)だった細川忠興は、妻であるガラシャが石田三成から捕虜になることを拒否して死亡してしまい、父のいた田辺城は命は助かったものの落城。<br />大きな犠牲を払いましたがその武功によって、小倉の国持大名に出世しました。

    関ケ原の戦いで東軍(家康方)だった細川忠興は、妻であるガラシャが石田三成から捕虜になることを拒否して死亡してしまい、父のいた田辺城は命は助かったものの落城。
    大きな犠牲を払いましたがその武功によって、小倉の国持大名に出世しました。

  • 細川忠興が京都の家老に宛てた手紙です。<br />達筆すぎて全く読めないのですが、解説文を読んだら、これ、面白い!<br />以下がこの手紙の内容です。<br /><br />中納言殿(徳川秀忠)からかつて千利休が所持していた、尻ふくらの御茶入を拝領した。松井も知っているように、長年に渡り一番欲しかったのがこれだ。<br />ついに手に入れたのだ。どうだ?これ以上満足なことはない。<br />これからこの茶入れでますます茶の湯にのめり込んでいくと思うと、嬉しくてたまらない。

    細川忠興が京都の家老に宛てた手紙です。
    達筆すぎて全く読めないのですが、解説文を読んだら、これ、面白い!
    以下がこの手紙の内容です。

    中納言殿(徳川秀忠)からかつて千利休が所持していた、尻ふくらの御茶入を拝領した。松井も知っているように、長年に渡り一番欲しかったのがこれだ。
    ついに手に入れたのだ。どうだ?これ以上満足なことはない。
    これからこの茶入れでますます茶の湯にのめり込んでいくと思うと、嬉しくてたまらない。

  • 近年、細川忠利が葡萄酒をつくることを命じた記録が発見されました。<br />小倉は日本初の国産ワインの産地だったのかもしれません。<br />この頃のワインは、嗜好品と言うより薬用や贈答用として用いられていました。

    近年、細川忠利が葡萄酒をつくることを命じた記録が発見されました。
    小倉は日本初の国産ワインの産地だったのかもしれません。
    この頃のワインは、嗜好品と言うより薬用や贈答用として用いられていました。

  • イワシやサバなどの青魚を糠味噌で炊き込む「ぬか炊き」は小倉の郷土料理です。<br />城下町では各家庭で先祖代々のぬか床が受け継がれていて、百年床も珍しくないそうです。

    イワシやサバなどの青魚を糠味噌で炊き込む「ぬか炊き」は小倉の郷土料理です。
    城下町では各家庭で先祖代々のぬか床が受け継がれていて、百年床も珍しくないそうです。

  • 上野焼は、小倉藩の領地だった上野で造られる焼物で、茶器などで使われています。<br />毛利家、細川家、小笠原家などの歴代の城主の支援のもと、生産が続けられました。<br />昭和になって伝統工芸品に認定されています。

    上野焼は、小倉藩の領地だった上野で造られる焼物で、茶器などで使われています。
    毛利家、細川家、小笠原家などの歴代の城主の支援のもと、生産が続けられました。
    昭和になって伝統工芸品に認定されています。

  • 小倉織は縞模様が特徴の織物で、徳川家康の羽織にも使われました。<br />生地が強く丈夫なことから、武士や庶民の袴や帯、日常着として好まれていたそうです。<br />絹を使った小倉縮は、藩の献上品になったそうです。

    小倉織は縞模様が特徴の織物で、徳川家康の羽織にも使われました。
    生地が強く丈夫なことから、武士や庶民の袴や帯、日常着として好まれていたそうです。
    絹を使った小倉縮は、藩の献上品になったそうです。

  • 山車に据え付けられた太鼓の音が無数に重なる小倉祇園祭は、京都の祇園祭をもとに行ったのが始まりです。

    山車に据え付けられた太鼓の音が無数に重なる小倉祇園祭は、京都の祇園祭をもとに行ったのが始まりです。

  • 細川家が熊本に移り、代わって小倉の藩主になったのは小笠原家です。<br />初代藩主は小笠原忠真です。<br />母親である登久姫が、徳川家康と織田信長の孫であったため、小笠原忠真は家康と信長のひ孫なんですね。<br />寛永9年(1632年)に小倉藩主になったのですが、九州の外様大名の監視役の命を受けていました。<br /><br />この小笠原氏が幕末まで小倉城の城主を務めました。

    細川家が熊本に移り、代わって小倉の藩主になったのは小笠原家です。
    初代藩主は小笠原忠真です。
    母親である登久姫が、徳川家康と織田信長の孫であったため、小笠原忠真は家康と信長のひ孫なんですね。
    寛永9年(1632年)に小倉藩主になったのですが、九州の外様大名の監視役の命を受けていました。

    この小笠原氏が幕末まで小倉城の城主を務めました。

  • 寛永14年(1637年)に起きた桐志位淡の弾圧に抗議した島原の乱では、幕府の命を受けた小倉藩の藩主である小笠原忠真が総大将となって、鎮圧にあたりました。

    寛永14年(1637年)に起きた桐志位淡の弾圧に抗議した島原の乱では、幕府の命を受けた小倉藩の藩主である小笠原忠真が総大将となって、鎮圧にあたりました。

  • この大太鼓は、藩政時代に小倉城の天守閣の最上階に置かれ、事あるごとに城下の人々に急を告げていました。

    この大太鼓は、藩政時代に小倉城の天守閣の最上階に置かれ、事あるごとに城下の人々に急を告げていました。

  • 巌流島における、二刀流の宮本武蔵とツバメ返しの佐々木小次郎の巌流島における決闘は有名ですね。<br />弟子同士が言い争いとなり、どちらの方が上か?<br />で決着をつけることになりました。

    巌流島における、二刀流の宮本武蔵とツバメ返しの佐々木小次郎の巌流島における決闘は有名ですね。
    弟子同士が言い争いとなり、どちらの方が上か?
    で決着をつけることになりました。

  • これ、上は佐々木小次郎の刀と鞘。<br />下は宮本武蔵の木刀だそうです。<br />本物??

    これ、上は佐々木小次郎の刀と鞘。
    下は宮本武蔵の木刀だそうです。
    本物??

  • 佐々木小次郎は、細川忠興に見いだされ、藩の剣術師範になっています。<br />巌流島の戦いで宮本武蔵に敗れ命を落としています。

    佐々木小次郎は、細川忠興に見いだされ、藩の剣術師範になっています。
    巌流島の戦いで宮本武蔵に敗れ命を落としています。

  • 巌流島の戦いのあと、息子である伊織が小笠原小倉藩の筆頭家老になります。<br />晩年に五輪書を書き上げています。<br /><br />宮本武蔵は剣術や兵法だけでなく、芸術家とし手の才能もあったようです。<br />武蔵による絵が掛け軸になっていました。<br />残念ながら撮影禁止でした。

    巌流島の戦いのあと、息子である伊織が小笠原小倉藩の筆頭家老になります。
    晩年に五輪書を書き上げています。

    宮本武蔵は剣術や兵法だけでなく、芸術家とし手の才能もあったようです。
    武蔵による絵が掛け軸になっていました。
    残念ながら撮影禁止でした。

  • 武蔵が残した五輪書とは?

    武蔵が残した五輪書とは?

  • 武蔵が残した兵法です。

    武蔵が残した兵法です。

  • 最上階に上がってきました。<br />ココは夜景がきれいな所で、夜になるとバーがオープンします。<br />お洒落なお城の天守ですね~

    最上階に上がってきました。
    ココは夜景がきれいな所で、夜になるとバーがオープンします。
    お洒落なお城の天守ですね~

  • 天守最上階からの西側の景色です。<br />グルっと巡って眺望を楽しみましょう。<br />左の建物は小倉北警察署。<br />ずっと奥に見える山が石峰山。

    天守最上階からの西側の景色です。
    グルっと巡って眺望を楽しみましょう。
    左の建物は小倉北警察署。
    ずっと奥に見える山が石峰山。

  • 石峰山をアップで!

    石峰山をアップで!

  • こっちは高塔山です。

    こっちは高塔山です。

  • こちらは北側の景色です。<br />堀の奥に小倉祇園 八坂神社が見えます。<br />その奥の近代的な建物は、大型商業施設であるリバーウォーク北九州。

    こちらは北側の景色です。
    堀の奥に小倉祇園 八坂神社が見えます。
    その奥の近代的な建物は、大型商業施設であるリバーウォーク北九州。

  • 東側の景色です。<br />右のビルが北九州市役所庁舎。<br />手前には小倉城庭園が見えます。<br />左奥には小倉駅も見えます。

    東側の景色です。
    右のビルが北九州市役所庁舎。
    手前には小倉城庭園が見えます。
    左奥には小倉駅も見えます。

  • アップにすると、戸ノ上山が見えます。

    アップにすると、戸ノ上山が見えます。

  • 紫川も見えます。

    紫川も見えます。

  • 小倉城庭園をアップ。

    小倉城庭園をアップ。

  • こちらは南側の景色です。<br />真ん中の緑の建物は中央図書館。<br />右奥は皿蔵山です。

    こちらは南側の景色です。
    真ん中の緑の建物は中央図書館。
    右奥は皿蔵山です。

  • アップで!

    アップで!

  • 奥の真ん中の建物は、小倉北区役所です。

    奥の真ん中の建物は、小倉北区役所です。

  • 天守を下りてきました。

    天守を下りてきました。

  • 建物は復元したものですが、石垣は昔のままです。

    建物は復元したものですが、石垣は昔のままです。

  • ココ、石垣が低い。

    ココ、石垣が低い。

  • 大手門があった方向に下りて行きます。

    大手門があった方向に下りて行きます。

  • ココは広い虎口ですね。

    ココは広い虎口ですね。

  • かつてはココに大手門がありました。

    かつてはココに大手門がありました。

  • 大手門があった所から天守を見上げます。

    大手門があった所から天守を見上げます。

  • 巨石を使った石垣ですね。

    巨石を使った石垣ですね。

  • 本丸と堀、そして小倉城庭園の位置関係が判ります。

    本丸と堀、そして小倉城庭園の位置関係が判ります。

  • 内堀の外に出てきました。

    内堀の外に出てきました。

  • 大きな石垣ですね~

    大きな石垣ですね~

  • 随分高く積み上げた石垣の上に天守が建っています。

    随分高く積み上げた石垣の上に天守が建っています。

  • 画になるな~

    画になるな~

  • 石垣は野面積みです。

    石垣は野面積みです。

  • 「唐造りの天守」と呼ばれ、四階と五階の間に屋根の庇がありません。<br />五階が四階よりも大きくなっているのが特徴です。<br /><br />先ほどあそこから小倉の眺望を楽しみました。

    「唐造りの天守」と呼ばれ、四階と五階の間に屋根の庇がありません。
    五階が四階よりも大きくなっているのが特徴です。

    先ほどあそこから小倉の眺望を楽しみました。

  • 八坂神社一の鳥居を入れて天守を撮影しました。<br /><br />つづく

    八坂神社一の鳥居を入れて天守を撮影しました。

    つづく

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