長崎市旅行記(ブログ) 一覧に戻る
今回は一泊二日で長崎市内の名所・旧跡、龍馬の足どりをたどり、そして、佐賀県の武雄温泉にある楼門を訪ねてみました。スケジュール的にもタイトな旅行となってしまい、長崎市内は主だった観光名所の半分程度しか回ることができませんでした。稲佐山の夜景や軍艦島クルーズにも行くことができず、つくづく感じましたが、やはり長崎市内だけでも最低二泊三日が必要ですね。しかし、色々な場所で新たな発見もしましたし、美味しい料理も食べることができました。それが旅の醍醐味ですよね。そして、何よりも良かったのは、梅雨の時期に行ったのにもかかわらず雨に降られなかったことです。今回のスケジュールは、次のような場所を見て回りました。<br /><br />1 「見学順路」<br />①《鎮西大社 諏訪神社》⇒②《眼眼鏡》⇒③《元祖茶碗むし 吉宗浜町本店》⇒④《風頭公園》⇒⑤《亀山社中記念館と龍馬のぶーつ像》⇒⑥《興福寺》⇒⑦《大浦天主堂》⇒⑧《グラバー園》⇒⑨《四海樓》⇒⑩《JR長崎駅かもめ市場》⇒⑪《ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート》⇒⑫《武雄温泉楼門》⇒⑬《佐嘉平川屋 武雄温泉本店》⇒⑭《JR武雄温泉駅》⇒⑮《浦上天主堂》⇒⑯《日本二十六聖人殉教記念碑と日本二十六聖人記念館》⇒⑰《長崎空港蜂の家》<br /><br />2 「鎮西大社 諏訪神社」<br />「長崎空港」の「5番バス乗り場」から長崎空港リムジンバスに乗ること約45分で「JR長崎駅」前へ着きました。長崎空港リムジンバスは、座席の予約は不要で、並んだ順に乗車し、運賃は後払い方式です。ただ、長崎は人気の観光地なので、長崎市内に向かう長崎空港リムジンバスは、非常に混雑し一台見送らなければならない場合もあります。当日、私の二人後ろに並んでいた人は、満席のため次のバスになってしまいました。「4番バス乗り場」からも時間はかかりますが、「長崎駅前行き」のバスが出ていますので安心してください。また、全国相互利用交通系ICカード(nimoca、Suica、PASMO、ICOCAなど)なども利用できますので便利です。ICカードを利用する場合は、乗車時(バス入口右側)と降車時(運転手側)にカード読取部に交通系ICカードをタッチします。最初の目的地は、「諏訪神社」です。「諏訪神社」へのアクセスは、「長崎駅前」電停の路面電車の長崎電気軌道3系統「蛍茶屋行」を利用すると便利です。「長崎駅前」電停から乗車して「諏訪神社」電停で下車します。「長崎駅前」寄りに「諏訪神社」へ通じる地下道がありますので、地下道を通り階段を上がると右斜め前に「諏訪神社」の第一の鳥居があります。「諏訪神社」は、「鎮西大社」と称えられ、地元では厄除け、縁結び、海上守護の神社として崇敬され「おすわさん」と親しまれる長崎の総氏神様です。「諏訪神社」の歴史を紐解いてみると、「諏訪神社」は、かつて長崎市内に祀られていた「諏訪神社」、「森崎神社」、「住吉神社」の三社を寛永2年(1625年)に、初代宮司である肥前唐津の「青木賢清」が、長崎奉行の「長谷川権六」に願い出て、西山郷円山(現在の「松森神社」)に造営し、長崎の産土神としたのが始まりです。ちなみに、「産土神」とは、日本の神の区分のひとつで、その者が生まれた土地の守護神を指し、その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされています。そして、慶安元年(1648年)には徳川幕府より朱印地を得て「社殿」が造営されました。「諏訪神社」は、安政4年(1857年)の火災で、社殿のほとんどを焼失しましたが、孝明天皇の勅命により、明治2年(1869年)に約10年の歳月をかけて以前に勝るとも劣らぬ「社殿」が再建され、さらに、昭和59年(1974年)の「御鎮座360年祭」、平成6年(1994年)の「御鎮座370年祭」を記念して、二度の造営を行い現在の「社殿」が完成しました。毎年10月7~9日の3日間にわたって行われる「諏訪神社」の秋季大祭「長崎くんち」は、龍踊、鯨の潮吹き、太鼓山など豪華絢爛で異国情緒溢れ、長崎独特の文化的伝統を伝える祭として日本三大祭の一つに数えられ、昭和54年(1979年)2月3日に「国の重要無形民俗文化財」に指定されています。「長崎くんち」は、寛永11年(1634年)に、二人の遊女が「諏訪神社神」前に謡曲「小舞」を奉納したのが祭りの始まりと言われています。現在、奉納踊を披露するのは町ごとになっており、7年に一度の当番の町は「踊町」と呼ばれています。<br /><br />《「諏訪神社」のお薦め参拝巡路》<br />①《社号碑》⇒②《大灯籠》⇒③《一の鳥居》⇒④《陰陽石(男石)》⇒⑤《二の鳥居》…「松の森通り」…⇒⑥《大正四年石灯籠》⇒⑦《陰陽石(女石)》⇒⑧《四の鳥居》⇒⑨《大正十二年石碑》⇒⑩《まよひ子志らせ石》⇒⑪《大狛犬》⇒⑫《五の鳥居》⇒⑬《福沢諭吉先生之像》⇒⑭《祓戸神社》⇒⑮《大門》⇒⑯《神馬像》⇒⑰《さざれ石》⇒⑱《両性合体石》⇒⑲《拝殿》⇒⑳《止め事成就の狛犬》⇒&#12881;《こま犬の井戸》⇒&#12882;《トゲ抜き狛犬》⇒&#12883;《願掛け狛犬》⇒&#12884;《酒田恒山顕彰碑》⇒&#12885;《祖霊社》⇒&#12886;《高浜虚子句碑》⇒&#12887;《蛭子神社》⇒&#12888;《八坂神社》⇒&#12889;《厳島神社》⇒&#12890;《玉園稲荷神社》⇒&#12891;《齋館諏訪荘》⇒&#12892;《舞殿》⇒&#12893;《神輿庫》⇒&#12894;《よか獅子》⇒&#12895;《猪目(ハートの文様)の石垣》⇒&#12977;《太鼓楼》⇒&#12978;《病魔退散大楠》<br /><br />では、早速「諏訪神社」に参拝します。「諏訪神社」の「拝殿」に着くまでには、五つの大鳥居を潜り、石段は何段あるか数えませんでしたが、長く続く階段を上らなければなりません。「一の鳥居」の前には、両脇に「大灯籠」と左手に「社号碑」があります。次の「二の鳥居」の手前付近には、「陰陽石」である丸い形をした「男石」があります。分かりにくいので、注意して見つけてください。ちなみに、「諏訪神社」の「陰陽石」の御利益としては、参道を通る時に、男性は「女石」を、女性は「男石」を踏んだあと、「拝殿」前にある「両性合体石」を踏むと縁結びの願いが叶うとされています。「二の鳥居」を潜り、「松の森通り」を渡ると「三の鳥居」の両側に立派な「大正四年石灯籠」があります。さらに進むと「四の鳥居」がありその手前には、六角形の「陰陽石」である「女石」があります。「五の鳥居」付近には、「まよひ子志らせ石」、「大狛犬」、「福沢諭吉先生之像」、「祓戸神社」などがあります。見どころが沢山あるので、確かに長く続く石段ですが疲れを感じませんでした。「五の鳥居」を潜ると「長坂」と呼ばれる「大門」に続く坂があり、最後の石段を上れば、「大門」に到着します。「大門」は、「諏訪神社」の顔というべき門で、「大門」の下の「長坂」は、坂の町長崎を象徴するものだそうです。「大門」の内側から臨める長崎市内の眺望は絶景でした。「大門」を潜ると「拝殿」の左手に、「平和祈念像」の制作者である彫刻家の故「北村西望」の「神馬像」があります。ちなみに、この「神馬像」は故「北村西望」の102歳時の作品だそうです。100歳を過ぎてもなおこのような立派な作品を残せるとは偉大な彫刻家ですよね。そして、「拝殿」の右手には、「さざれ石」があります。ちなみに、「さざれ石」は、国歌「君が代」に「さざれ石の巌となりて」と詠われ、細かい石が長い年月をかけて固結してできた霊石のことです。また、「さざれ石」は私たち国民の一人一人をさしていて、一人の力は微力であるが、国民が力を合わせることで、大きな力(大きな巌)となることを意味しているそうです。そして、「拝殿」に進むと「陰陽石」のひし形の「両性合体石」があります。「拝殿」で参拝を終え、右方向に進むと「大門」の右手の廻廊(西回廊)のところに「本殿前休憩所」がありました。この「本殿前休憩所」の天井を見上げると「天井絵」がありました。この「天井絵」は、長崎美術協会会員75名により描かれたもので、目をなごませてくれました。実は、「西回廊」は、平成3年(1991年)9月に長崎地方を襲った台風17、19号により大門横の回廊(東西の廻廊)は倒壊してしまったそうです。そして、「伊勢神宮」の古材を利用し、平成7 年(1995年)11月に再建されました。「拝殿」と「社務所」の間の道を進んでいくと、私が興味があり、見たかった変わり種の「狛犬」のオンパレードです。「止め事成就の狛犬」、「こま犬の井戸」、「トゲ抜き狛犬」、「願掛け狛犬」と続きます。説明板によると「止め事成就の狛犬」は、昔から、家出の足止め、借金止め、受験のすべり止め、さらに禁酒禁煙などの願い事に、コヨリを狛犬の足に巻き祈願する信仰があったそうです。「止め事成就の狛犬」の右手には、小さな滝が流れている「神池」もありました。「こま犬の井戸」は、江戸時代から高麗犬の井戸と呼ばれ、名水としての評判も高く、どんな旱魃にも枯れることがなかったそうです。この水を飲めば安産に効き目があるともいわれています。また、別名「銭洗い狛犬」とも称され、この水でお金を洗えば倍に増えるとの信仰もあるそうです。私の家内もここぞとばかりにお金を取り出し洗っていました。「願掛け狛犬」は、江戸時代長崎の遊女街に登楼した船員に翌日海が荒れて出航できず、もう一晩泊ってもらうことを願い、遊女が「狛犬」を海の方向に廻して願いを懸けたことに由来するそうです。「狛犬」は廻せるそうですが壊れるんじゃないかと思い挑戦はやめました。「トゲ抜き狛犬」は、すごい顔の狛犬で、昔から厄払いの信仰があり、狛犬の口の中に手を触れると心に突き刺さっているトゲを抜いてくれるそうです。「トゲ抜き狛犬」の先には、「齋館諏訪荘」がありました。「諏訪荘」は、大正9年(1920年)に長崎の豪商である「永見寛二」が建築したもので、無節の日本栂材を用い、釘を一本も使用しない大正時代を代表する日本建築です。昭和11年(1936年)から「諏訪荘」の商号により和式旅館として営業を開始し、内外の著名人が多数利用したそうです。ちなみに、天皇皇后両陛下は、皇太子時代に宿泊したそうです。昭和59年(1984年)の廃業に当たり、保存を望む市民の熱意により当神社に移築奉納されたそうです。中を見学できなかったのが心残りです。「本殿」脇の坂を下ると「舞殿」、「神輿庫」があります。「神輿庫」は「東回廊」にあり、平成3年(1991年)9月に長崎地方を襲った台風17、19号により「大門」横の回廊(東西の廻廊)は倒壊してしまったそうです。しかし、「伊勢神宮」の古材を利用し、平成7 年(1995年)11月に再建されました。「神輿庫」には、神輿が3基ありました。「狛犬」のほかにもう一つ見たかったものがあります。それは「猪目(ハートの文様)の石垣」で、「社務所」の先に石垣があり、案内板も出ていたので、すぐに見つけることができました。案内板には、「神さまのいたずら?」と書いてありました。自然の力とはすごいものだと感心しました。「猪目」にふれることで御利益を得ることができるそうです。ちなみに「猪目」とは、形状そのままに「心臓型(ハート型)」とも呼ばれる文様のことだそうです。坂を下って行くと「太鼓楼」があります。「太鼓楼」は、平成の「御大典記念」として多くの氏子崇敬者の募財をもって平成4年(1992年)4月7日に完成しました。「太鼓楼」の中には、胴回り4.25メートルの「大太鼓」があり、朝夕に太鼓の音をもって、氏子地域をお祓いしているそうです。ちなみに、「御大典」とは、譲位の翌日から皇太子殿下が新天皇となられるために一連の儀式のことです。そして、「諏訪神社」の最後は、「病魔退散大楠」です。空高くそびえ立っている大楠で500~600年前のものといわれています。ここで病魔退散を願い、次の目的地の「眼鏡橋」に向かいます。<br /><br />3 「眼鏡橋」<br />「諏訪神社」から「眼鏡橋」に向かいました。当初は、「亀山社中」方面に向かう予定でしたが、家内がお腹が空いたというので、急きょ予定を変更して「眼鏡橋」を見て、「元祖茶碗むし 吉宗浜町本店」でランチをすることにしました。まず、「眼鏡橋」までは徒歩で12分800mほどです。地下道を抜け道路の反対側に出ます。そのまま「国道34号線」(新長崎街道)を直進します。1つ目の信号(表示名「伊勢町」)のところにある「ホンダ薬局」を右折し、750mほど進むと「御菓子司 岩永梅寿軒」があります。そこを右折し50mほど進むと「眼鏡橋」があります。実は、小腹が空いたので「御菓子司 岩永梅寿軒」で洒落たネーミングの「舶来焼」という和菓子を買い求め、店の方もとても親切で店の中で食べさせてもらいました。「舶来焼」は、黄味あんにカステラを練り合わせたオリジナルの「カステラあん」生地でピーナッツ入りの白あんを包み、軽く焼き上げた小さな焼菓子です。<br />「眼鏡橋」は、寛永11年(1634年)に、「興福寺」の第2代住職である「黙子如定」禅師が架設したとされています。「眼鏡橋」の河岸には黙子如定禅師像もあります。「眼鏡橋」の名前の由来は、川面に映る影が双円を描き「メガネ」に見えることからこの名前がついたと言われています。「眼鏡橋」は、東京の「日本橋」、山口の「錦帯橋」と並び日本三名橋に数えられます。「眼鏡橋」は、橋長22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46mで、本来は車両の通行も可能ですが、石積みに緩みが目立つようになったことから、昭和28年(1953年)に車両の通行を禁止し、今は人道橋として使われています。「眼鏡橋」は、昭和57年(1982年)の長崎大水害で一部崩壊しましたが翌年復元され、昭和35年(1960年)2月9日に国の重要文化財に指定されています。水位が低い時は、階段を使って川縁に降り水際を散策できるようになっています。「眼鏡橋」をはじめとする中島川護岸にある「ハートストーン」は恋愛成就のパワースポットとして注目されています。ハートの上に「I」の文字も見ることができます。修学旅行生も沢山いて「ハートストーン」探しに熱中していました。「ハートストーン」をみつけた時には大きな歓声をあげていました。それと「ハートストーン」以外にも大発見をしました。「中島川」の両岸の石垣の隙間にカニを発見しました。それも一匹だけでなく石垣の隙間の至る所にいました。たくましく生きるカニの姿をみてほっこりした気分になりました。また、長崎の冬の風物詩の「ランタンフェスティバル」の時期には、「眼鏡橋」周辺も提灯で華やかに飾られ、多くの人で賑わうそうです。<br /><br />4 「元祖茶碗むし 吉宗(よっそう) 浜町本店」<br />「眼鏡橋」から「元祖茶碗むし 吉宗浜町本店」へ向かいました。「御菓子司 岩永梅寿軒」まで戻り、「中通り商店街」を通り抜けすることにしました。「中通り商店街」は、江戸中期から続く長崎でも最も古くからある商店街です。別名「長崎中通り四百年商店街」とも言われています。「中通り商店街」は、江戸中期から続く長崎でも最も古くからある商店街です。一見普通のお店に見えますが、実は明治時代から続く老舗です。老舗菓子に雑貨、骨董、八百屋、ファッションなど約400m続く通りに約130軒ものお店がひしめきあっています。「中通り商店街」に続く通りは「ベルナール観光通り商店街」です。「元祖茶碗むし 吉宗浜町本店」はこの「ベルナール観光通り商店街」にあります。「ベルナール観光通り商店街」を120mほど進むと二つ目の十字路があります。そこを左折すると30m先の右手にあります。また、十字路の角には、テイクアウト専門の「吉宗」もありました。<br />「吉宗」の歴史を紐解いてみると、慶応2年(1866年)に、長崎市万屋町で「吉田宗吉信武」が「吉宗」を屋号に、茶碗むし・蒸寿し専門の店として開業したのが始まりだそうです。また、茶碗むしは、寛政年間京・大阪ではじまり、次第に江戸や長崎に広まっていったとされています。お盆に、茶碗むしだけでなく、酢飯を蒸し、あなごのかば焼き、魚のおぼろ、卵焼きをのせた蒸し寿司を添えた、「吉宗」オリジナルの「夫婦むし」はひと揃いの茶碗むしとして、現在にそのまま受け継がれているそうです。そして、「吉宗本店」は、昭和2年(1927年)に建てられた歴史的建造物ともいえる建物です。当日は、やってもらえませんでしたが、木札を鳴らしご来客を伝える昔ながらの出迎えをするらしいです。<br />「元祖茶碗むし 吉宗浜町本店」に着いた時刻は、13時00分頃で、15人ほど並んでいました。順番を記帳する表はなく、ただ並んでいるだけです。20分ほど待ち店内に入れました。店内に入ると歴史と伝統を感じる造りでした。食事は一階と二階があり、一階の席に通されました。女性の店員の方は愛想がよく、とても丁寧な応対でした。事前にメニューは、ネットで調べて注文するものは決めておきました。せっかく長崎に来たのだから茶碗蒸しだけでなく、卓袱も食べたかったので、「ミニ卓袱(小茶碗むし、小蒸寿しセット)8品4,070円」を頼みました。「一の膳」で「お刺身の盛り合わせ」が出てきました。さすが海に近い長崎だけあって、生臭さは全くなく、新鮮そのもので、身もプリプリしていました。次は、「二の膳」です。酢の和え物、角煮、揚げ物、メロン、そして楽しみにしていた名物の「茶碗むし」、「蒸寿し」のセットが出されました。そして、最後のデザートはお汁粉です。温かいと冷たいお汁粉をチョイスできます。全ての料理に舌づつみをうち満足感を得られました。この中で気になったものがありました。揚げ物がとても美味しかったのです。デザートが運ばれてきたときに、店員のかたに訊いてみると長崎名物「ハトシ」だそうです。家内と顔を見合わせ、口を揃えてこれが「ハトシ」といいました。ちなみに、「ハトシ」は、明治時代に清国から長崎に伝わった料理で、エビのすり身を食パンで挟み、それを油で揚げて作る料理で、当初は円卓を囲む卓袱料理のなかの一品となっていると教えてもらいました。お腹も満たされたので、次の目的地である「坂本龍馬」が設立した「亀山社中」、「風頭山」などゆかりの施設を訪ねながら、「坂本龍馬」が闊歩した足取りを訪ねたいと思います。<br /><br />5 「風頭公園」<br />当初の予定を変更したので少し遠回りになりタイムロスになりましたが、次は、「元祖茶碗むし 吉宗浜町本店」から「風頭公園」へ向かいました。「元祖茶碗むし 吉宗浜町本店」から戻るような感じで「ベルナール観光通り商店街」、「中通り商店街」、「中通り」を800mほど進むと右手に「ピザーラ長崎店」があります。そこ右折し100mほど進むと「寺町通り」になりますので、左折するとすぐ左手の「禅林寺」と「深崇寺」の間に細い道があります。これが「龍馬通り」です。「龍馬通り」の山道の石段をひたすら上ると、途中に「亀山社中」などがありますが、さらに先に進みます。結構な段数がありました。携帯のヘルスケアの上った階数には43階と表示されていました。本音でいうともう二度と上りたくない言う感じです。「坂本龍馬」など「亀山社中」のメンバーは毎日この地獄のような石段を上ったのでしょうか。感心せざるを得ません。上ること20分で「亀山通り」にでました。「亀山通り」を50mほど進むと右に曲がる角があるので右折します。30mほどすすむと左手に「風頭公園」、「龍馬像」の案内板がありますので左折します。「風頭公園」の手前にまた坂と階段がありました。それを上り終えるとやっとのことで「風頭公園」に到着しました。へとへとになりましたが、その甲斐あって素晴らしい眺めを手に入れることができました。<br />「風頭公園」は、長崎港を望む標高151.9mの「風頭山」にあり、長崎名物「ハタ揚げ(凧揚げ)」の名所として有名です。春には、約350本の桜、初夏には約2,500本ものあじさいが咲き誇り、四季折々の花々が楽しめます。春には「風頭公園桜まつり」が行われ、夜はぼんぼりが灯され、ライトアップされ幻想的な雰囲気を醸し出すそうです。私たちが行った日には、まだ、もう少しで散りはじめだと思いますが、あじさいの花がきれいに咲き誇っていました。その美しく咲き誇る姿を見ると疲れが癒されました。<br />お目当ての「坂本龍馬之像」は、「風頭公園」の「小広場」にあります。そして、そこには腕組みをしてブーツを履き長崎湾を眺める「坂本龍馬之像」があります。この「坂本龍馬之像」は、平成元年(1989年)に長崎在住の彫刻家である「山崎和國」によって製作され、市民の募金により建てられたそうです。また、この「坂本龍馬之像」は、「坂本龍馬」本人に良く似ていると評判です。「風頭公園」周辺には、「坂本龍馬」の姿をカメラに収めた日本最初の職業写真家「上野彦馬の墓」や「風頭公園ハタ揚げ広場」の先には、「長崎ハタ資料館( 小川ハタ店)」もあります。次は、「亀山社中記念館」へ向かいます。<br /><br />5 「亀山社中記念館」<br />「風頭公園」から来た道を戻り、「亀山社中記念館」へ向かいます。上るのも大変ですが、下るのもまた大変です。「風頭公園」から「亀山社中記念館」までは、徒歩6分350mほどです。「亀山通り」から「龍馬通り」の急な山道の石段を下りていきます。「風頭公園」や「亀山通り」、「龍馬通り」など人とほとんどすれ違いませんでしたが、「亀山社中記念館」には、かなりの人が来館していました。「坂本龍馬」の人気の根強さを感じました。「亀山社中記念館」は、木の門があります。門を潜り10mほど進むと左手に入口があり、靴を脱いで受付で入館料を払います。受付の方に確認したところ、「亀山社中記念館」内は撮影禁止ですが、床柱がある「第一展示場」は撮影可能ということでした。<br />「亀山社中」の歴史を紐解いてみると、「亀山社中」は日本初の商社とされ、慶応元年 (1865年)に薩摩藩や長崎の豪商「小曽根家」の援助を受け、「坂本龍馬」が中心となって同志20数人により結成組織されました。「亀山社中」は、日本初の「商社兼私設海軍」で、貿易会社と政治組織を兼ね、徳川幕府の倒幕を目的とした活動を行うとともに、「グラバー商会」と銃器の取引を開始し、藩に武器を卸す商業活動や物資の輸送や航海訓練なども行いました。また、険悪だった薩摩藩と長州藩の関係回復の仲介をし、薩長同盟の締結に大きな役割を果たしたと言われています。「亀山社中」の名前の由来は、当時活動の拠点として借りていた民家が、もともと「亀山焼」の職人の住居として使用されていたため、その地名の「亀山」と仲間を意味する「社中」を合わせて「亀山社中」と呼ばれたそうです。その「亀山社中」の遺構として伝わる建物が、当時の姿により近い形で整備され、平成21年(2009年)から一般公開されたのが、「亀山社中記念館」です。「亀山社中記念館」の内部は、10畳、8畳、3畳の部屋と土間に分かれており、隠し部屋と思われる中二階は、はしごを途中まで上って中を見学することができます。私もはしごを上ってみましたが、結構な大きさがありました。どことなく殺伐な雰囲気の隠し部屋でした。また、「坂本龍馬」のブーツのレプリカやピストル、書簡の写し、「亀山社中」の志士達の写真などゆかりの品々が展示されています。ちなみに、「亀山社中記念館」の名誉館長は「坂本龍馬」の大ファンである俳優の「武田鉄矢」だそうです。そして、「坂本龍馬」がもたれかかって座っていたと伝えられる柱などが再現されていました。「坂本龍馬」の写真といえばまず、台に腕をかけた写真が思い出されます。写真は日本で初めて商業写真館を開業した「上野彦馬」の撮影スタジオで撮影されたものです。「亀山社中記念館」には、スタジオにあった台のレプリカが設置されていました。ここで家内と交代で、「坂本龍馬」のポーズをまねして、お互いの記念撮影をしました。ちなみに、当時、撮影をするには長時間動いてはいけなかったので、身体を固定するためにこの台を使っていたそうです。また縁側に出ることはできませんでしたが、長崎の街と港が一望できます。そして、令和4年(2022年)11月より、土日祝日に限り、常駐ガイドの5~10分程度のお話を無料で聴くことができるそうです。床柱の話など、普通に観ただけではわからないような話や当時の逸話などを話してくれるそうです。次が、「亀山社中記念館」が徒歩1分15mほどのところのポケットパークにある「龍馬のぶーつ像」へ向かいます。<br /><br />6 「龍馬のぶーつ像」<br />「亀山社中記念館」の門を出て右方向に13mほど進むとポケットパークがあり、そこに「龍馬のぶーつ像」があります。念のためですが、「坂本龍馬」の銅像はありません。この「龍馬のぶーつ像」があるポケットパークは、視界がよく長崎の街並みや「鶴の港」と呼ばれる長崎港を一望でき、「長崎都市景観賞」を受賞するほどの絶景で、人気のフォトスポットとなっています。<br />「龍馬のぶーつ像」は、「亀山社中」の創設130周年を記念して、市民グループ「亀山社中ば活かす会」の呼びかけにより平成7年(1995年)に建立されたものです。「龍馬のぶーつ像」は、長崎県出身の彫刻家である「山和國」の制作によるもので、実際にブーツを履き、船の操舵輪を握ることのできる体験型オブジェです。ちなみに、何故「ブーツ」かというと、「亀山社中」の創設がわが国近代化の第1歩となったことから、長崎の歴史や文化をより深く理解してもらおうと願いをこめて、「坂本龍馬」のトレードマークであるブーツを選んだそうです。このブーツには靴を履いたまま足を入れることができるので、船の操舵輪を握りながら龍馬になった気分を味わうことができます。私も「坂本龍馬」になった気分で、船の操舵輪を握り大海原に船出しました。<br />一泊の旅行だったので、時間の都合上、「亀山社中」付近の「坂本龍馬」のゆかりの施設等を見学することができなかったので、簡単に説明だけしたいと思います。<br />① 「上野彦馬の墓」<br />「上野彦馬」は、日本最初の職業写真家として有名で、「坂本龍馬」をはじめとする亀山社中メンバーを撮影したと言われています。また、「高杉晋作」、「桂小五郎」などを撮影したことでも知られています。「上野彦馬の墓」は、「風頭公園」に隣接する上野家の墓地内にあり、すぐ横に展望台があり、長崎港を見下ろすように「坂本龍馬像」が立っています。ちなみに、上野家は絵師の家系であり、絵画、鋳金などに秀でていました。父親の「上野俊之丞」とその息子である「上野彦馬」は、父子は2代にわたり、写真技術の習得と普及に多大の功績を挙げ、わが国の近代化学研究の発展に寄与しました。<br />② 「坂本龍馬の銅像」(「若宮稲荷神社」境内)<br />「若宮稲荷神社」の境内にも「坂本龍馬の銅像」があります。この銅像は、「風頭公園」にある「坂本龍馬之像」の原型となったものだそうです。平成3年(1991年)に長崎市出身の彫刻家「山和國」から「亀山社中跡」に寄贈され、その後平成21年(2009年)に、「若宮稲荷神社」境内へと移設されました。ちなみに、ここの「坂本龍馬の銅像」は故郷である高知県の方角を向いているそうです。<br />③ 「亀山焼窯跡」<br />亀山社中記念館」の裏側にある「亀山通り」の「伊良林平公民館」に近くに「亀山焼窯跡」があります。「亀山焼窯」は、文化4年(1807年)に「大神甚五平」外3名が中心となって開窯しました。オランダが注文した水瓶を主に焼いていましたが、オランダ船来航の減少により白磁染付を製作するようになり、やがて慶応元年(1865年)に閉窯しました。「坂本龍馬」は自分の名と同じ龍が描かれた亀山焼の茶碗を愛用したといわれているそうです。<br />⑤ 「若宮稲荷神社」と「坂本龍馬神社」<br />「亀山焼窯跡」から「龍馬通り」をさらに下っていくと「若宮稲荷神社」が左手にあります。神社の境内には「坂本龍馬神社」があります。「坂本龍馬神社」には、高知県の「龍馬神社」から分霊された「坂本龍馬」の御霊が祀られています。そして、鳥居の正面や幟旗には「赤白赤」の龍馬らしい意匠である「二曳」や「坂本龍馬」の家紋である「桔梗紋」が施されています。ちなみに、鳥居と社の距離は、龍馬らが長崎で「亀山社中」を設立した1865年にちなんで「1865ミリ」になっているそうです。<br />⑥ 「亀山社中資料展示場」<br />「若宮稲荷神社」をさらに進むともう一つの「亀山社中」があります。それは「亀山社中ば活かす会」が管理・運営する「亀山社中資料展示場」です。先ほど訪れた「亀山社中記念館」は長崎市の管理です。「亀山社中資料展示場」は、平成18年(2006年)に閉鎖した「亀山社中跡」の資料を展示する場として設けられました。展示場内には「上野彦馬」が撮影したという、幕末の志士たちの写真や長崎の古い風景写真など、多数の貴重な資料が並んでいます。「亀山社中資料展示場」の最大の見どころは、「坂本龍馬」の筆跡が残る手紙だそうです。入場は無料ですが、ボランティア団体により運営されているので、任意で協力金を入れるボックスが設置されています。寄付をすると、特製のカードやリーフレットが貰えます。展示場内の撮影は自由です。法被や刀、ピストルを借りての記念撮影もできるそうです。<br />⑨龍馬通り<br />「龍馬通り」は、「寺町通り」の「深崇寺」と「禅林寺」の間から、「坂本龍馬」ゆかりの地である「亀山社中跡」を経て、「風頭公園」へ至る石段まじりの坂道です。「坂本龍馬」をはじめとした「亀山社中」の同志達が、どこへ行くにもこの通りを上り下りしていたという道筋は、現在「龍馬通り」と呼ばれ地域の人々に親しまれています。高齢の私にとっては、地獄のような坂道と石段でした。携帯のヘルスケアの上った階数には、最終的に53階と表示されていました。次は、「寺町通り」にある「興福寺」をじっくり見る予定でしたが、「亀山社中」エリアで時間をかなり要してしまったので、「興福寺」を急ぎ足で参拝することにしました。<br /><br />7 「興福寺」<br />「龍馬のぶーつ像」から坂道を降りるこ10分弱で「寺町通り」にでました。「寺町通り」を左折し、徒歩3分200mほど進むと左手に「興福寺」の「山門」があります。ここでアクシデントが発生しました。先ほどからバッテリーの容量は、低電力モードになっていましたが、「興福寺」の「山門」を撮影した瞬間にバッテリーが切れてしまいました。サイドバックの中から充電器を取り出そうとしましたがありませんでした。長崎駅西口のコインロッカーにスーツケースを預け持ってくるのを忘れてしまいました。近くにコンビニは近くにないし止むなく、「興福寺」の参拝をすることにしました。特徴的な朱色の「隠元禅師」が描かれた「山門」を潜り境内に入ります。<br /><br />【「興福寺」の参拝巡路】<br />①《山門》⇒②《中島聖堂遺構》⇒③《三江会所門》⇒④《東明燕(庭園)》⑤《大雄宝殿(本堂)》⇒⑥《瑠璃燈と金色の関帝(関羽)像》⇒⑦《媽姐堂》<br /><br />最初に「興福寺」の歴史を紐解いてみると、「興福寺」は「南京寺」、「あか寺」とも呼ばれ、元和6年(1620年)に、中国の南京地方出身者が、「真円」を開基に迎え「媽姐堂・仏殿」を建てたのがはじまりです。「興福寺」は、わが国最初の唐寺で、かつ「日本黄檗宗」の発祥の地です。江戸時代初期の長崎は中国から渡航してきた貿易商が多く、彼らが出身地別に寺院の建立を求めたそうです。「興福寺」もそのひとつです。また、自分たちがキリスト教徒ではないことの証明と、海の守護神「媽祖」を祀ることを目的に唐寺を建立し、菩提寺としました。第2代住職で「眼鏡橋」を架橋した「黙子如定」は、寛永9年(1632年)に「本堂」である「大雄宝殿」を建立しました。その後火災や暴風で大破しましたが、明治15年(1883年)に再建されました。そして、第3代住職「逸然」は漢画を日本に伝え、のちの画家たちに影響を与えた人物です。「山門」脇に描かれた第4代住職の「隠元禅師」は、インゲン豆や野菜果物、印鑑に木魚、煎茶や普茶料理などを中国から持ち込み、日本文化に多大なる影響を与えたそうです。特筆すべきは、「興福寺」の境内には国指定重要文化財の「大雄宝殿」や「旧唐人屋敷門」、県指定有形文化財の「媽祖堂」や「鐘鼓楼」、「三江会所門」や「山門」などの文化財の宝庫です。<br /><br />まず、長崎一の大きさを誇る「山門」は、二間三戸八脚の入母屋造単層屋根・総朱丹塗りの豪壮な造りとなっています。「山門」は、当初、承応3年(1654年)に「隠元禅師」が長崎に滞在していたときに、全国より寄せられた寄進により建てられました。しかし、9年後の寛文3年(1663年)3月8日に発生した「長崎大火」で「山門」など全焼しました。現在の「山門」は、元禄3年(1690年)に、日本人工匠の手で再建されたもので和風様式を基調としています。原爆で大破しましたがその後復元しました。「山門」の上部に掛けられている二つの扁額「初登宝地」、「東明山」は「隠元禅師」の筆によるものです。「山門」は、昭和34年(1959年)1月9日に長崎県の有形文化財に指定されました。<br />次に、「山門」を入り右方向に進むと、長崎市が所有している「中島聖堂遺構大学門」があります。「中島聖堂」は、正保4年(1647年)に儒者の「向井元升」が私財を投じて聖堂、学舎を創設しました。。長年、「中島川」のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれていました。明治元年(1868年)に廃滅し、昭和34年(1954年)に、「大学門」(杏檀門)と規模を縮小した大成殿を「興福寺」境内に移築・保存し現在に至っています。「大学門」には、中国では縁起ものとなるコウモリの穴がデザインされていました。「中島聖堂遺構大学門」は、昭和35年(1960年)3月22日に長崎県の有形文化財に指定されました。<br />「中島聖堂遺構大学門」の左隣には、「三江会所門」があります。三江というのは、中国の江南省、浙江省、江西省の3省のことをいいます。三江出身の中国人にとって、「興福寺」は創建以来の菩提寺でした。明治元年(1868年)に「唐人屋敷」の処分が始まり、同地方出身者が明治11年(1879年)に「三江会」を設立し、事務所を「興福寺」内に設置しました。しかし、昭和20年(1945年)の原爆で大破し、撤去されてしまいました。そのため現在では「三江会所門」のみが現存しています。「大雄宝殿」と同様に細部に用いられている純中国式の建築技法を特徴とします。そして、ここでの注目すべきポイントは「豚返し」と「東明燕」です。「三江会所門」入口に設けられた敷居は高く、これは、豚などが門内に入らないよう工夫した「豚返し」と呼ぶ中国の様式で、放し飼いにされていた豚が門内に侵入できないための仕組みです。もちろん、人が出入りできるよう二段式で上部が取り外せるそうです。次に、「三江会所門」を潜るとその先に、手入れが行き届いた見事な小庭園が視界に入ってきます。これが、「東明燕」で、三江会所跡に造成されたものです。江戸時代に造られた黄檗池、竹林など素晴らしい光景が目の前に広がります。「三江会所門」は、昭和35年(1960年)3月28日に長崎県の有形文化財に指定されました。<br />次が、「大雄宝殿」(本堂)です。「大雄宝殿」は、寛永9年(1632年)に第二住職である「黙子如定」禅師が建立しました。その後、「大雄宝殿」は、大火や天災の惨禍から、幾度もの再建を繰り返してきました。現在の「大雄宝殿」は、明治16年(1883年)に再建したものです。ほとんどが中国工匠による純粋の中国建築で、資材も中国より運送したものだそうです。「大雄宝殿」で否が応でも目を引いたのは、「隠元禅師」筆の「大雄宝殿」と大書した「扁額」です。それと「大雄宝殿」の中国建築様式で、見逃してはならないのが、堂外の前廊にある蛇腹に組まれた「黄檗天井」と呼ばれる舟型天井と文字通り氷を砕いたような文様となっている「氷裂式組子の丸窓」です。氷裂式組子は、明末期を代表する建築様式です。屋根に目をやると魔を威嚇している狛犬の「鬼瓦」と火除けのまじないであるひょうたん型の「瓢瓶」が視界に入ってきます。また、柱や梁に彫られた人物、鳥獣、花などの彫刻も技術の高さが伺え見とれてしまうほど精巧に作られています。ちなみに、「本堂」を「大雄宝殿」と呼ぶのは「釈迦」(大雄)を本尊として祀ることからきているそうです。次に、堂内に目をやると、金色に輝く「関帝像」が安置されています。中国では商業の神として崇拝されているそうです。そして、堂内中央には、高さ2.18メートルの巨大な「瑠璃燈」が吊り下げられています。そして、「大雄宝殿」は、中国南方建築の代表作とされ、明治時代の建築でありながら、戦前より国宝に指定され、平成5年(1993年)1月23日には国の重要文化財に指定されています。ちなみに堂内は撮影禁止です。<br />最後になりますが、「大雄宝殿」に向かって左手にあるのが「媽祖堂」です。「媽祖」は、「まそ」又は「ぼさ」と読み、中国南部で篤く信仰される航海の神のことで、その媽祖像を祀るのが「媽祖堂」です。長崎にやってくる唐船には守護神である「媽祖」が祀られ、船が長崎に入港し、荷役を終えて出航するまでの間大切な「媽祖」を安置して礼拝するお堂が必要となり、「媽祖堂」を建てたのが始まりだといわれています。「媽祖堂」の建築様式は、和風建築を基調としながらも、「隅屋根の反り」、「黄檗天井の前廊」、「内外装の鮮やかな朱丹塗」などの中国様式が違和感なく溶け込んだ重厚な造りとなっています。ここも堂内は撮影禁止です。<br />現在時間15時40分です。だいぶ押されてきましたので、次の目的地である「大浦天主堂」にタクシーで向かうことにしました。<br /><br />8 「大浦天主堂」<br />“聖堂内のステンドグラスに差し込む木漏れ日は、虹色の光に変わり教会を彩ります。”<br />「興福寺」近辺では、ほとんどタクシーが走っていませんでしたので、「長崎市中央公民館」まで戻り、そこでタクシーを拾い「大浦天主堂」へ向かいました。「大浦天主堂」の正門受付まで行くことができました。やはり上手にタクシーを利用すると効率的に観光ができますね。<br />「大浦天主堂」は、現存する国内最古の教会です。「大浦天主堂」は、なぜ建てられたかの経緯は、「大浦天主堂」の建立直前の文久2年(1862年)に聖人に列せられた「日本二十六聖人」に捧げられた教会であり、「大浦天主堂」の正面は殉教の地である西坂に向けて建てられています。<br />「大浦天主堂」の歴史を紐解いてみると、「大浦天主堂」は文久4年(1864年)末に完成しました。設計を指導したのは、フランス人宣教師の「フューレ」と「プティジャン」の両神父で、施工は天草の「小山秀之進」で、慶応元年(1865年)2月19日に、「大浦天主堂」の献堂式が行われました。。当初はフランス人のための教会としてスタートしました。鋭い尖塔を持つ異国風建物は、「ふらんす寺」と呼ばれて大勢が見物に押しかけたそうです。「大浦天主堂」は、昭和8年(1933年)に国宝となりましたが、原爆による損傷の修復が完了した後、現存する日本最古の教会建築として昭和28年(1953年)に再度国宝に指定されました。また、平成20年(2018年)にユネスコの世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつです。<br />そして、「大浦天主堂」で忘れてはならない画期的な歴史的出来事が、慶応元年(1865年) 3月17日に起こりました。この日に、「大浦天主堂」の門の前にやってきた15人程度の人々の中から、一人の婦人が「ここにおります私どもは、皆あなた様と同じ心でございます。」と「プティジャン神父」に告白し、聖母子像の前に案内すると「サンタ・マリアさまだ」と口々にささやいたそうです。<br />では、早速「大浦天主堂」に入っています。教会の入口には階段があり、階段を上ると左手に「大浦天主堂拝観券売り場」があるので、ここでチケットを購入します。そして、また、階段があり上ると左手に「信徒発見記念碑」があります。当日は、「長崎港」に中国の客船が停泊していたので、中国人の観光客が大勢いました。そしてさらに階段を上ると「大浦天主堂」の「聖堂」入口になります。「聖堂」入口前には、「日本之生母 信徒発見記念」と台座に刻まれたマリア様が出迎えてくれます。これより先の「聖堂」内は、残念ながら写真撮影は禁止です。聖堂」内に入り天井を見上げると本格的な「リブ・ヴォールト天井」になっていました。ちなみに「リブ・ヴォールト」とは、ゴシック建築でよく用いられた天井の様式のひとつです。「聖堂」内の両側のステンドグラスに差し込む木漏れ日は、虹色の光に変わり教会をさらに彩り、幻想的な雰囲気を醸し出していました。「聖堂」内では、「大浦天主堂」の歴史などの説明のアナウンスが流れているので、厳かな雰囲気の中、席に座ってゆっくりと説明を聞くことができます。「聖堂」を出て、左手に進むと、かつては「旧羅典神学校」や「旧長崎大司教館」であった建物が、「キリシタン博物館」として生まれ変わり開館しています。長崎のキリシタン関連資料が展示されており、歴史上重要な資料を数多く見ることができます。「大浦天主堂」の後は、今日の最後の目的地である「グラバー園」に向かいます。<br /><br />9 「グラバー園」<br />「グラバー園」は、南山手の丘に位置し、稲佐山を背景に長崎港を眺望することができます。「グラバー園」には、「大浦天主堂」の近くにある「グラバー園正面入口」と「石橋」方面のグラバースカイロードの垂直エレバーターからの「グラバー園第2ゲート」の二つの入口があります。やはり個人的にお薦めなのは、「大浦天主堂」を見学した後に「グラバー園正面入口」から入園する方法でしょう。「グラバー園正面入口」の坂を上った時、前方に階段が見えました。また、坂と石段があるのかとぞっとしましたが、少し上るだけでその先には動く歩道やエスカレーターがあり、ホッとしました。<br />「グラバー園」には、スコットランドの貿易商人である「トーマス・ブレーク・グラバー」の邸宅をはじめ、3棟の国指定重要文化財と長崎市内に点在していた貴重な伝統的建造物が移築復元されています。「国指定重要文化財」は、「旧グラバー住宅」、「旧リンガー住宅」、「旧オルト住宅」の三つですが、残念ながら「旧オルト住宅」は改装中で見学することはできませんでした。次のような順路で「グラバー園」を散策しました。そして、特にお薦めな眺望は、「旧三菱第2ドッグハウス」の二階ベランダから眺める眺望でした、長崎市のランドマークである「稲佐山」を背景に「長崎港」を一望できる絶好のロケーションでした。ちなみに「旧三菱第2ドッグハウス」は「グラバー園」で一番高いところにある建物です。<br /><br />【「グラバー園」のお薦め見学ルート】<br />①《旧三菱第2ドッグハウス》⇒②《高島流和砲》⇒③《旧長崎高商 表門衛所》⇒④《旧長崎地方裁判所長官舎(改装工事中)》⇒⑤《旧ウォーカー住宅》⇒⑥《フリーメーソンロッジの石柱》⇒⑦《旧リンガー住宅》⇒⑧《旧オルト住宅(改装工事中)》⇒⑨《旧スティール記念学校》⇒⑩《日本最初期のアスファルト道路》⇒⑪《三浦環銅像》⇒⑫《プッチーニ像》⇒⑬《自由亭喫茶室》⇒⑭《ハートストーン(石畳の中)》⇒⑮《旧グラバー住宅》⇒⑯《ハートストーン(石畳の中)》⇒⑰《日本庭園》⇒⑱《展望台》⇒⑲《ハートストーン(石畳の中)》⇒⑳《長崎伝統芸能館》<br /><br />それでは、主だった「グラバー園」の見どころ紹介したいと思います。まず、「旧グラバー住宅」は、スコットランド出身の商人「トーマス・グラバー」が、親子二代に渡り暮らした現存するわが国最古の木造洋風建築です。昭和36年(1961年)6月7日に国の重要文化財に登録されました。また、「旧グラバー住宅」は「明治日本の産業革命遺産」の構成資産にも登録されています。建築年代は文久3年(1863年)で、建築面積は主屋が510.8㎡、附属屋が129.2㎡です。建築構造は木造平屋建て、寄棟造、桟瓦葺、ベランダ付となっています。一見洋風な佇まいの「旧グラバー住宅」ですが、外観には日本瓦と土壁が使われており、和と洋の見事な調和が美しい住宅です。建築当時は住宅のそばに大きな松の木があり、それを囲むように温室があったそうです。<br />次の「旧リンガー住宅」は、グラバー商会に勤め、ホーム・リンガー商会を設立した「フレデリック・リンガー」の旧邸です。昭和41年(1966年)6月11日に国の重要文化財に登録されました。建築年代は明治元年(1868年)頃で、建築面積は350.8㎡、建築構造は木造及び石造、平屋建て、寄棟造桟瓦葺となっています。「旧リンガー住宅」は、外壁には天草の砂岩、ベランダの床石にロシアのウラジオストックの御影石、屋根には瓦、そして家の3方がベランダに囲まれたバンガロー風の様式とさまざまな国の文化が見事に入り混じった造りとなっています。残念ながら改装中だった「旧オルト住宅」は、オルト商会を設立し、製茶業を営んでいた「ウィリアム・ジョン・オルト」の旧邸です。昭和47年(1972年)5月15日に国指定重要文化財に登録されました。建築年代は慶応元年(1865年)頃です。建築面積は504.1㎡、木造及び石造、平屋建て、正面車寄付、寄棟造桟瓦葺となっています。「旧オルト住宅」の特徴は、柱間が大きく、柱の装飾がないトスカーナ風の列柱が採用されていることです。ベランダ中央にあるポーチの威厳あるデザインも特徴の一つです。そして、次は、「旧ウォーカー住宅」です。「旧ウォーカー住宅」は、ウォーカー商会を設立した「ロバート・N・ウォーカー」の次男「ロバート二世」の旧邸です。建築年代は明治中期(1890年)頃で、建築面積は112㎡、木造、平屋建てとなっています。昭和49年(1974年)に移築されました。「旧ウォーカー住宅」は、もともとは大浦天主堂横の祈念坂沿いにありましたが、洋風のデザインを残す一部分のみがグラバー園へ移設されました。そして、私が眺望をお薦めした「旧三菱第2ドックハウス」は、明治29年(1896年)に「三菱造船所」(現三菱重工業株式会社長崎造船所)の第2ドックの建設時に建てられた外国人乗組員用の宿舎です。「ドック」は造船所の主要施設で、船の建造や修理を担うところです。建築面積は201㎡、木造、2階建てです。昭和47年(1972年)に移築されました。最後に、ここにも「ハートストーン」がありました「グラバー園」内には3つの「ハートストーン」があります。ハートストーンを触ると恋が叶う、2つ見つけるといいことが起こるなどさまざまなジンクスがあり、「グラバー園観光」のなかでも人気のスポットです。ただし、石畳と同化しているので見つけるのは思った以上に大変です。私は、2つだけしか「ハートストーン」を見つけることができませんでした。一つは、「自由亭」の少し手前に、もう一つは、「日本庭園」へ行く途中に見つけました。<br />「グラバー園」の次は、すぐ近くにある「四海樓」へ向かいます。<br /><br />10 「四海樓」<br />「グラバー園」から「四海樓」までは、徒歩5分350mほどです。「グラバー坂」を下りる途中で、「四海樓」の立派な建物が視界に入ってきます。まさに外観は高級レストランです。<br />まず、「四海樓」の歴史とちゃんぽん誕生について紐解いていきたいと思います。「四海樓」の創始者は、明治25年(1892年)に中国福建省福州から長崎に渡ってきた「陳平順」です。この「四海樓」からうまれたのが、「ちゃんぽん」と「皿うどん」です。「陳平順」は、明治32年(1899年)に、明治の初めまであった「唐人屋敷」の入口付近の広馬場に中華菜館兼旅館の「四海樓」を創業しました。そして、「四海樓」で生まれたのが「支那饂飩」で、その名称も「ちゃんぽん」と変わり、長崎で最も親しまれる大衆料理へと発展していきました。「ちゃんぽん」が生まれたきっかけは、「陳平順」が中国から渡航してくる留学生のひどい食生活を見るに見かねて、どうにかしたいと知恵を絞り考案したのが「ちゃんぽん」だそうです。安くてボリュームがあり栄養満点の「ちゃんぽん」は、留学生の食生活向上に役立ったばかりか、たちまち長崎の中華街にひろまっていったそうです。「四海樓」を訪れた有名人は数知れません。「五木寛之」、「永六輔」、「清水崑」、「山崎朋子」、「新珠三千代」、「吉屋信子」など枚挙に遑がありません。そして、昭和31年(1954年)に「常陸宮殿下」、昭和52年(1977年)には「浩宮さま」(今上天皇陛下)も訪れ、ふたりとも「皿うどん」をお代わりされたそうです。<br />「四海樓」は、路面電車の「大浦天主堂」電停で降り、「クラバー通り」を進むと公営駐車場の隣にある中国風の立派なビルです。建物の一階には、入場料無料の「ちゃんぽんミュージアム」があります。この「ちゃんぽんミュージアム」には、「四海樓」と「ちゃんぽん」、「皿うどん」の歴史を物語る資料が数多く展示されています。そして、「四海樓」は、稲佐山を背景に長崎港、長崎の市街地が一望できるビルの5階にある展望レストランです。正面入口の階段を上り2階に行くと右手にエレベーターがあります。このエレベーターを使い5階に行く訳ですが、何とエレベーターの階層表示のボタンは漢数字の表記でした。開店とほぼ同時の17時10分頃に行きましたが、運よく並ばずに席につくことができました。そして、ラッキーなことに案内されたテーブルも窓際の眺望が抜群の特等席でした。もちろん注文したのは、元祖であり1番人気の「ちゃんぽん」と「皿うどん」、そして、私は紹興酒のロックを注文しました。店の方の心遣いは素晴らしいもので、何も言わなくても家内とシェアーする「ちゃんぽん」用のボールと「皿うどん」用のお皿を持って来てくれました。最初に「ちゃんぽん」、次に「皿うどん」が運ばれてきました。「ちゃんぽん」と「皿うどん」はイメージしていたものとは全く違っていました。東京で食べる「ちゃんぽん」と「皿うどん」と違い、スープとアンが牛乳のように白濁です。私が撮った写真は、夕陽が差し込んでいるせいで幾分赤みがかって見えますが、本当に牛乳か生クリームで作ったようにスープとアンは、真っ白な色をしていました。そして「ちゃんぽん」には、錦糸卵がたっぷりと載せてありました。家内と顔を見合わせ、これが本場の「ちゃんぽん」と「皿うどん」かとハーモニーしてしまいました。「ちゃんぽん」と「皿うどん」の具材も、肉、魚介類、野菜など豊富に入っていて、これなら栄養のバランスもとれ、明日への活力を生み出してくれるものだと思いました。若干甘めの優しい味だったので、テーブルにある酢と胡椒を加えてみると、全く別物に味変しました。量も結構あったので満腹になりました。帰り間際に会計のところで、牛乳が使っているのか訊いたところ企業秘密だそうです。これからホテルの無料シャトルバスに乗るために、路面電車で「JR長崎駅」へ戻ります。<br /><br />11 「長崎街道かもめ市場」<br />「四海樓」から路面電車で「新地中華街」で乗り換え「長崎駅前」まで行きました。ホテルの無料シャトルバスの発車まで30分くらい時間があり、JR長崎駅の改札前に「長崎街道かもめ市場」というショッピングモールがあったので、お土産を見るついでに立ち寄ってみました。それと「四海樓」で早めの夕食を済ませたので、ホテルに着いてからお腹が空くと思い何か軽い食べ物を購入するために立ち寄りました。「長崎街道かもめ市場」は、西九州新幹線の開業に合わせ2022年3月18日にグランドオープンしました。長崎市内最大級の「お土産ゾーン」、地酒と料理が楽しめる「かもめ横丁」やイートインスペースがあり、全部で56店舗あるそうなのでお土産もここで買い揃えることができます。もともとお土産は、「長崎空港」にもたくさんのショップがあり、荷物になるので、「長崎空港」で買おうと決めていたので、「長崎空港」では買えないようなものを探しました。「お土産ゾーン」の「長崎銘品蔵」で長崎銘菓の「クルス」があり、修道女のデザインの可愛らしい黄色の缶の箱に入った「クルス」を家内が見つけました。女性の店員に確認したところ「長崎空港」では、販売していないということだったので、それを購入しました。それとホテルで食べるスナックは、「長崎かんぼこ喜味冨」で「ハトシ」があったので購入しました。お昼に「吉宗」で食べた「ハトシ」とは形が違っていましたが、味は変わりなく美味しかったです。それと「ながさき食べんばLabo.」でソーセージの入った珍しいデニッシュを買いました。こちらもサクッとした食感で美味しくいただきました。そろそろホテルのシャトルバスの時間も迫ってきたので、「JR長崎駅」西口の「一般車乗降場」へ向かいます。<br /><br />12 「ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート」<br />長崎での宿泊先は、「ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート」です。今回このホテルを選んだのは、長崎旅行にあたり、日本橋にある「長崎館」に事前の情報を得るために行きました。「長崎館」には、「観光案内ゾーン」があり、女性のコンシェルジェの方に長崎観光について教えてもらいました。その中で宿泊先について聞いてみると、お薦めは「ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート」という答えが返ってきました。家に帰ってネットで調べてみると少し長崎市内から離れた場所に立地していますが、ホテルの客室は全て目の前に長崎港が広がるオーシャンビュー、そして、何よりも決め手になったのは、あの有名な建築家の「隈研吾」と「隈研吾建築都市設計事務所」の設計によるものだからです。<br />「JR長崎駅」西口の「一般車乗降場」からホテルのシャトルバスに乗ること約15分で「ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート」に到着しました。見るからに「隈研吾」が設計した建築物だとすぐ分かりました。一つの建物で完結するのでなく、新館、本館、クラブラウンジなど複数の建物が敷地内に立ち並らんでいました。もちろん、チェックインするレセプションデスクも別な建物です。ウェルカム・ドリンクとして冷たい琵琶茶でもてなしてくれました。手続きを済ませるとゴルフカートで宿泊する建物まで送迎してくれます。部屋の設備等の説明も懇切丁寧にしてくれました。部屋には、ベランダもありテーブルとイスがセットしてあって長崎湾と長崎市街を眺めることができます。ちょうど太陽が沈む瞬間に遭遇しました。また、バスルームからも長崎湾と長崎市街を眺めることができます。部屋は広く、綺

異国情緒あふれる長崎の街と幕末の歴史が刻まれた龍馬の足どりを辿りりました。

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2024/06/21 - 2024/06/22

725位(同エリア4058件中)

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394

Lily-junjunさん

この旅行記のスケジュール

2024/06/21

  • 北千住発(06:30)⇒羽田空港第二ターミナル着(07:23) ※京急バス

  • 羽田空港発(08:25)⇒長崎空港着(10:20) ANA661便 第二ターミナル65番ゲート

  • 長崎空港発(10:50)⇒長崎駅前着(11:33) ※長崎空港リムジンバス(5番のりば)

  • 長崎駅前⇒諏訪神社 ※路面電車:3号系統「赤迫⇔蛍茶屋」

  • 長崎駅西口⇒ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート ※ホテルの無料リムジンバスを利用

2024/06/22

  • ガーデンテラス長崎ホテル&リゾー⇒長崎駅西口

  • 長崎駅発(10:44)⇒武雄温泉駅着(11:14) ※JR西九州新幹線かもめ22号

  • 武雄温泉駅⇒武雄温泉楼門 ※徒歩15分1000mほど

  • 佐嘉平川屋 武雄温泉本店⇒武雄温泉駅 ※徒歩15分1000mほど

  • 武雄温泉駅発(13:58)⇒長崎駅着(14:28) ※JR西九州新幹線かもめ29号

  • 長崎駅前ターミナル発(17:35)⇒長崎空港着(18:19) ※4番のりば

  • 長崎空港発(19:35)⇒羽田空港着(21:15) ※ANA670便

  • 羽田空港第二ターミナル発(21:55)⇒北千住着(22:38) ※京急バス(北千住丸井前)

この旅行記スケジュールを元に

今回は一泊二日で長崎市内の名所・旧跡、龍馬の足どりをたどり、そして、佐賀県の武雄温泉にある楼門を訪ねてみました。スケジュール的にもタイトな旅行となってしまい、長崎市内は主だった観光名所の半分程度しか回ることができませんでした。稲佐山の夜景や軍艦島クルーズにも行くことができず、つくづく感じましたが、やはり長崎市内だけでも最低二泊三日が必要ですね。しかし、色々な場所で新たな発見もしましたし、美味しい料理も食べることができました。それが旅の醍醐味ですよね。そして、何よりも良かったのは、梅雨の時期に行ったのにもかかわらず雨に降られなかったことです。今回のスケジュールは、次のような場所を見て回りました。

1 「見学順路」
①《鎮西大社 諏訪神社》⇒②《眼眼鏡》⇒③《元祖茶碗むし 吉宗浜町本店》⇒④《風頭公園》⇒⑤《亀山社中記念館と龍馬のぶーつ像》⇒⑥《興福寺》⇒⑦《大浦天主堂》⇒⑧《グラバー園》⇒⑨《四海樓》⇒⑩《JR長崎駅かもめ市場》⇒⑪《ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート》⇒⑫《武雄温泉楼門》⇒⑬《佐嘉平川屋 武雄温泉本店》⇒⑭《JR武雄温泉駅》⇒⑮《浦上天主堂》⇒⑯《日本二十六聖人殉教記念碑と日本二十六聖人記念館》⇒⑰《長崎空港蜂の家》

2 「鎮西大社 諏訪神社」
「長崎空港」の「5番バス乗り場」から長崎空港リムジンバスに乗ること約45分で「JR長崎駅」前へ着きました。長崎空港リムジンバスは、座席の予約は不要で、並んだ順に乗車し、運賃は後払い方式です。ただ、長崎は人気の観光地なので、長崎市内に向かう長崎空港リムジンバスは、非常に混雑し一台見送らなければならない場合もあります。当日、私の二人後ろに並んでいた人は、満席のため次のバスになってしまいました。「4番バス乗り場」からも時間はかかりますが、「長崎駅前行き」のバスが出ていますので安心してください。また、全国相互利用交通系ICカード(nimoca、Suica、PASMO、ICOCAなど)なども利用できますので便利です。ICカードを利用する場合は、乗車時(バス入口右側)と降車時(運転手側)にカード読取部に交通系ICカードをタッチします。最初の目的地は、「諏訪神社」です。「諏訪神社」へのアクセスは、「長崎駅前」電停の路面電車の長崎電気軌道3系統「蛍茶屋行」を利用すると便利です。「長崎駅前」電停から乗車して「諏訪神社」電停で下車します。「長崎駅前」寄りに「諏訪神社」へ通じる地下道がありますので、地下道を通り階段を上がると右斜め前に「諏訪神社」の第一の鳥居があります。「諏訪神社」は、「鎮西大社」と称えられ、地元では厄除け、縁結び、海上守護の神社として崇敬され「おすわさん」と親しまれる長崎の総氏神様です。「諏訪神社」の歴史を紐解いてみると、「諏訪神社」は、かつて長崎市内に祀られていた「諏訪神社」、「森崎神社」、「住吉神社」の三社を寛永2年(1625年)に、初代宮司である肥前唐津の「青木賢清」が、長崎奉行の「長谷川権六」に願い出て、西山郷円山(現在の「松森神社」)に造営し、長崎の産土神としたのが始まりです。ちなみに、「産土神」とは、日本の神の区分のひとつで、その者が生まれた土地の守護神を指し、その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされています。そして、慶安元年(1648年)には徳川幕府より朱印地を得て「社殿」が造営されました。「諏訪神社」は、安政4年(1857年)の火災で、社殿のほとんどを焼失しましたが、孝明天皇の勅命により、明治2年(1869年)に約10年の歳月をかけて以前に勝るとも劣らぬ「社殿」が再建され、さらに、昭和59年(1974年)の「御鎮座360年祭」、平成6年(1994年)の「御鎮座370年祭」を記念して、二度の造営を行い現在の「社殿」が完成しました。毎年10月7~9日の3日間にわたって行われる「諏訪神社」の秋季大祭「長崎くんち」は、龍踊、鯨の潮吹き、太鼓山など豪華絢爛で異国情緒溢れ、長崎独特の文化的伝統を伝える祭として日本三大祭の一つに数えられ、昭和54年(1979年)2月3日に「国の重要無形民俗文化財」に指定されています。「長崎くんち」は、寛永11年(1634年)に、二人の遊女が「諏訪神社神」前に謡曲「小舞」を奉納したのが祭りの始まりと言われています。現在、奉納踊を披露するのは町ごとになっており、7年に一度の当番の町は「踊町」と呼ばれています。

《「諏訪神社」のお薦め参拝巡路》
①《社号碑》⇒②《大灯籠》⇒③《一の鳥居》⇒④《陰陽石(男石)》⇒⑤《二の鳥居》…「松の森通り」…⇒⑥《大正四年石灯籠》⇒⑦《陰陽石(女石)》⇒⑧《四の鳥居》⇒⑨《大正十二年石碑》⇒⑩《まよひ子志らせ石》⇒⑪《大狛犬》⇒⑫《五の鳥居》⇒⑬《福沢諭吉先生之像》⇒⑭《祓戸神社》⇒⑮《大門》⇒⑯《神馬像》⇒⑰《さざれ石》⇒⑱《両性合体石》⇒⑲《拝殿》⇒⑳《止め事成就の狛犬》⇒㉑《こま犬の井戸》⇒㉒《トゲ抜き狛犬》⇒㉓《願掛け狛犬》⇒㉔《酒田恒山顕彰碑》⇒㉕《祖霊社》⇒㉖《高浜虚子句碑》⇒㉗《蛭子神社》⇒㉘《八坂神社》⇒㉙《厳島神社》⇒㉚《玉園稲荷神社》⇒㉛《齋館諏訪荘》⇒㉜《舞殿》⇒㉝《神輿庫》⇒㉞《よか獅子》⇒㉟《猪目(ハートの文様)の石垣》⇒㊱《太鼓楼》⇒㊲《病魔退散大楠》

では、早速「諏訪神社」に参拝します。「諏訪神社」の「拝殿」に着くまでには、五つの大鳥居を潜り、石段は何段あるか数えませんでしたが、長く続く階段を上らなければなりません。「一の鳥居」の前には、両脇に「大灯籠」と左手に「社号碑」があります。次の「二の鳥居」の手前付近には、「陰陽石」である丸い形をした「男石」があります。分かりにくいので、注意して見つけてください。ちなみに、「諏訪神社」の「陰陽石」の御利益としては、参道を通る時に、男性は「女石」を、女性は「男石」を踏んだあと、「拝殿」前にある「両性合体石」を踏むと縁結びの願いが叶うとされています。「二の鳥居」を潜り、「松の森通り」を渡ると「三の鳥居」の両側に立派な「大正四年石灯籠」があります。さらに進むと「四の鳥居」がありその手前には、六角形の「陰陽石」である「女石」があります。「五の鳥居」付近には、「まよひ子志らせ石」、「大狛犬」、「福沢諭吉先生之像」、「祓戸神社」などがあります。見どころが沢山あるので、確かに長く続く石段ですが疲れを感じませんでした。「五の鳥居」を潜ると「長坂」と呼ばれる「大門」に続く坂があり、最後の石段を上れば、「大門」に到着します。「大門」は、「諏訪神社」の顔というべき門で、「大門」の下の「長坂」は、坂の町長崎を象徴するものだそうです。「大門」の内側から臨める長崎市内の眺望は絶景でした。「大門」を潜ると「拝殿」の左手に、「平和祈念像」の制作者である彫刻家の故「北村西望」の「神馬像」があります。ちなみに、この「神馬像」は故「北村西望」の102歳時の作品だそうです。100歳を過ぎてもなおこのような立派な作品を残せるとは偉大な彫刻家ですよね。そして、「拝殿」の右手には、「さざれ石」があります。ちなみに、「さざれ石」は、国歌「君が代」に「さざれ石の巌となりて」と詠われ、細かい石が長い年月をかけて固結してできた霊石のことです。また、「さざれ石」は私たち国民の一人一人をさしていて、一人の力は微力であるが、国民が力を合わせることで、大きな力(大きな巌)となることを意味しているそうです。そして、「拝殿」に進むと「陰陽石」のひし形の「両性合体石」があります。「拝殿」で参拝を終え、右方向に進むと「大門」の右手の廻廊(西回廊)のところに「本殿前休憩所」がありました。この「本殿前休憩所」の天井を見上げると「天井絵」がありました。この「天井絵」は、長崎美術協会会員75名により描かれたもので、目をなごませてくれました。実は、「西回廊」は、平成3年(1991年)9月に長崎地方を襲った台風17、19号により大門横の回廊(東西の廻廊)は倒壊してしまったそうです。そして、「伊勢神宮」の古材を利用し、平成7 年(1995年)11月に再建されました。「拝殿」と「社務所」の間の道を進んでいくと、私が興味があり、見たかった変わり種の「狛犬」のオンパレードです。「止め事成就の狛犬」、「こま犬の井戸」、「トゲ抜き狛犬」、「願掛け狛犬」と続きます。説明板によると「止め事成就の狛犬」は、昔から、家出の足止め、借金止め、受験のすべり止め、さらに禁酒禁煙などの願い事に、コヨリを狛犬の足に巻き祈願する信仰があったそうです。「止め事成就の狛犬」の右手には、小さな滝が流れている「神池」もありました。「こま犬の井戸」は、江戸時代から高麗犬の井戸と呼ばれ、名水としての評判も高く、どんな旱魃にも枯れることがなかったそうです。この水を飲めば安産に効き目があるともいわれています。また、別名「銭洗い狛犬」とも称され、この水でお金を洗えば倍に増えるとの信仰もあるそうです。私の家内もここぞとばかりにお金を取り出し洗っていました。「願掛け狛犬」は、江戸時代長崎の遊女街に登楼した船員に翌日海が荒れて出航できず、もう一晩泊ってもらうことを願い、遊女が「狛犬」を海の方向に廻して願いを懸けたことに由来するそうです。「狛犬」は廻せるそうですが壊れるんじゃないかと思い挑戦はやめました。「トゲ抜き狛犬」は、すごい顔の狛犬で、昔から厄払いの信仰があり、狛犬の口の中に手を触れると心に突き刺さっているトゲを抜いてくれるそうです。「トゲ抜き狛犬」の先には、「齋館諏訪荘」がありました。「諏訪荘」は、大正9年(1920年)に長崎の豪商である「永見寛二」が建築したもので、無節の日本栂材を用い、釘を一本も使用しない大正時代を代表する日本建築です。昭和11年(1936年)から「諏訪荘」の商号により和式旅館として営業を開始し、内外の著名人が多数利用したそうです。ちなみに、天皇皇后両陛下は、皇太子時代に宿泊したそうです。昭和59年(1984年)の廃業に当たり、保存を望む市民の熱意により当神社に移築奉納されたそうです。中を見学できなかったのが心残りです。「本殿」脇の坂を下ると「舞殿」、「神輿庫」があります。「神輿庫」は「東回廊」にあり、平成3年(1991年)9月に長崎地方を襲った台風17、19号により「大門」横の回廊(東西の廻廊)は倒壊してしまったそうです。しかし、「伊勢神宮」の古材を利用し、平成7 年(1995年)11月に再建されました。「神輿庫」には、神輿が3基ありました。「狛犬」のほかにもう一つ見たかったものがあります。それは「猪目(ハートの文様)の石垣」で、「社務所」の先に石垣があり、案内板も出ていたので、すぐに見つけることができました。案内板には、「神さまのいたずら?」と書いてありました。自然の力とはすごいものだと感心しました。「猪目」にふれることで御利益を得ることができるそうです。ちなみに「猪目」とは、形状そのままに「心臓型(ハート型)」とも呼ばれる文様のことだそうです。坂を下って行くと「太鼓楼」があります。「太鼓楼」は、平成の「御大典記念」として多くの氏子崇敬者の募財をもって平成4年(1992年)4月7日に完成しました。「太鼓楼」の中には、胴回り4.25メートルの「大太鼓」があり、朝夕に太鼓の音をもって、氏子地域をお祓いしているそうです。ちなみに、「御大典」とは、譲位の翌日から皇太子殿下が新天皇となられるために一連の儀式のことです。そして、「諏訪神社」の最後は、「病魔退散大楠」です。空高くそびえ立っている大楠で500~600年前のものといわれています。ここで病魔退散を願い、次の目的地の「眼鏡橋」に向かいます。

3 「眼鏡橋」
「諏訪神社」から「眼鏡橋」に向かいました。当初は、「亀山社中」方面に向かう予定でしたが、家内がお腹が空いたというので、急きょ予定を変更して「眼鏡橋」を見て、「元祖茶碗むし 吉宗浜町本店」でランチをすることにしました。まず、「眼鏡橋」までは徒歩で12分800mほどです。地下道を抜け道路の反対側に出ます。そのまま「国道34号線」(新長崎街道)を直進します。1つ目の信号(表示名「伊勢町」)のところにある「ホンダ薬局」を右折し、750mほど進むと「御菓子司 岩永梅寿軒」があります。そこを右折し50mほど進むと「眼鏡橋」があります。実は、小腹が空いたので「御菓子司 岩永梅寿軒」で洒落たネーミングの「舶来焼」という和菓子を買い求め、店の方もとても親切で店の中で食べさせてもらいました。「舶来焼」は、黄味あんにカステラを練り合わせたオリジナルの「カステラあん」生地でピーナッツ入りの白あんを包み、軽く焼き上げた小さな焼菓子です。
「眼鏡橋」は、寛永11年(1634年)に、「興福寺」の第2代住職である「黙子如定」禅師が架設したとされています。「眼鏡橋」の河岸には黙子如定禅師像もあります。「眼鏡橋」の名前の由来は、川面に映る影が双円を描き「メガネ」に見えることからこの名前がついたと言われています。「眼鏡橋」は、東京の「日本橋」、山口の「錦帯橋」と並び日本三名橋に数えられます。「眼鏡橋」は、橋長22m、幅3.65m、川面までの高さは5.46mで、本来は車両の通行も可能ですが、石積みに緩みが目立つようになったことから、昭和28年(1953年)に車両の通行を禁止し、今は人道橋として使われています。「眼鏡橋」は、昭和57年(1982年)の長崎大水害で一部崩壊しましたが翌年復元され、昭和35年(1960年)2月9日に国の重要文化財に指定されています。水位が低い時は、階段を使って川縁に降り水際を散策できるようになっています。「眼鏡橋」をはじめとする中島川護岸にある「ハートストーン」は恋愛成就のパワースポットとして注目されています。ハートの上に「I」の文字も見ることができます。修学旅行生も沢山いて「ハートストーン」探しに熱中していました。「ハートストーン」をみつけた時には大きな歓声をあげていました。それと「ハートストーン」以外にも大発見をしました。「中島川」の両岸の石垣の隙間にカニを発見しました。それも一匹だけでなく石垣の隙間の至る所にいました。たくましく生きるカニの姿をみてほっこりした気分になりました。また、長崎の冬の風物詩の「ランタンフェスティバル」の時期には、「眼鏡橋」周辺も提灯で華やかに飾られ、多くの人で賑わうそうです。

4 「元祖茶碗むし 吉宗(よっそう) 浜町本店」
「眼鏡橋」から「元祖茶碗むし 吉宗浜町本店」へ向かいました。「御菓子司 岩永梅寿軒」まで戻り、「中通り商店街」を通り抜けすることにしました。「中通り商店街」は、江戸中期から続く長崎でも最も古くからある商店街です。別名「長崎中通り四百年商店街」とも言われています。「中通り商店街」は、江戸中期から続く長崎でも最も古くからある商店街です。一見普通のお店に見えますが、実は明治時代から続く老舗です。老舗菓子に雑貨、骨董、八百屋、ファッションなど約400m続く通りに約130軒ものお店がひしめきあっています。「中通り商店街」に続く通りは「ベルナール観光通り商店街」です。「元祖茶碗むし 吉宗浜町本店」はこの「ベルナール観光通り商店街」にあります。「ベルナール観光通り商店街」を120mほど進むと二つ目の十字路があります。そこを左折すると30m先の右手にあります。また、十字路の角には、テイクアウト専門の「吉宗」もありました。
「吉宗」の歴史を紐解いてみると、慶応2年(1866年)に、長崎市万屋町で「吉田宗吉信武」が「吉宗」を屋号に、茶碗むし・蒸寿し専門の店として開業したのが始まりだそうです。また、茶碗むしは、寛政年間京・大阪ではじまり、次第に江戸や長崎に広まっていったとされています。お盆に、茶碗むしだけでなく、酢飯を蒸し、あなごのかば焼き、魚のおぼろ、卵焼きをのせた蒸し寿司を添えた、「吉宗」オリジナルの「夫婦むし」はひと揃いの茶碗むしとして、現在にそのまま受け継がれているそうです。そして、「吉宗本店」は、昭和2年(1927年)に建てられた歴史的建造物ともいえる建物です。当日は、やってもらえませんでしたが、木札を鳴らしご来客を伝える昔ながらの出迎えをするらしいです。
「元祖茶碗むし 吉宗浜町本店」に着いた時刻は、13時00分頃で、15人ほど並んでいました。順番を記帳する表はなく、ただ並んでいるだけです。20分ほど待ち店内に入れました。店内に入ると歴史と伝統を感じる造りでした。食事は一階と二階があり、一階の席に通されました。女性の店員の方は愛想がよく、とても丁寧な応対でした。事前にメニューは、ネットで調べて注文するものは決めておきました。せっかく長崎に来たのだから茶碗蒸しだけでなく、卓袱も食べたかったので、「ミニ卓袱(小茶碗むし、小蒸寿しセット)8品4,070円」を頼みました。「一の膳」で「お刺身の盛り合わせ」が出てきました。さすが海に近い長崎だけあって、生臭さは全くなく、新鮮そのもので、身もプリプリしていました。次は、「二の膳」です。酢の和え物、角煮、揚げ物、メロン、そして楽しみにしていた名物の「茶碗むし」、「蒸寿し」のセットが出されました。そして、最後のデザートはお汁粉です。温かいと冷たいお汁粉をチョイスできます。全ての料理に舌づつみをうち満足感を得られました。この中で気になったものがありました。揚げ物がとても美味しかったのです。デザートが運ばれてきたときに、店員のかたに訊いてみると長崎名物「ハトシ」だそうです。家内と顔を見合わせ、口を揃えてこれが「ハトシ」といいました。ちなみに、「ハトシ」は、明治時代に清国から長崎に伝わった料理で、エビのすり身を食パンで挟み、それを油で揚げて作る料理で、当初は円卓を囲む卓袱料理のなかの一品となっていると教えてもらいました。お腹も満たされたので、次の目的地である「坂本龍馬」が設立した「亀山社中」、「風頭山」などゆかりの施設を訪ねながら、「坂本龍馬」が闊歩した足取りを訪ねたいと思います。

5 「風頭公園」
当初の予定を変更したので少し遠回りになりタイムロスになりましたが、次は、「元祖茶碗むし 吉宗浜町本店」から「風頭公園」へ向かいました。「元祖茶碗むし 吉宗浜町本店」から戻るような感じで「ベルナール観光通り商店街」、「中通り商店街」、「中通り」を800mほど進むと右手に「ピザーラ長崎店」があります。そこ右折し100mほど進むと「寺町通り」になりますので、左折するとすぐ左手の「禅林寺」と「深崇寺」の間に細い道があります。これが「龍馬通り」です。「龍馬通り」の山道の石段をひたすら上ると、途中に「亀山社中」などがありますが、さらに先に進みます。結構な段数がありました。携帯のヘルスケアの上った階数には43階と表示されていました。本音でいうともう二度と上りたくない言う感じです。「坂本龍馬」など「亀山社中」のメンバーは毎日この地獄のような石段を上ったのでしょうか。感心せざるを得ません。上ること20分で「亀山通り」にでました。「亀山通り」を50mほど進むと右に曲がる角があるので右折します。30mほどすすむと左手に「風頭公園」、「龍馬像」の案内板がありますので左折します。「風頭公園」の手前にまた坂と階段がありました。それを上り終えるとやっとのことで「風頭公園」に到着しました。へとへとになりましたが、その甲斐あって素晴らしい眺めを手に入れることができました。
「風頭公園」は、長崎港を望む標高151.9mの「風頭山」にあり、長崎名物「ハタ揚げ(凧揚げ)」の名所として有名です。春には、約350本の桜、初夏には約2,500本ものあじさいが咲き誇り、四季折々の花々が楽しめます。春には「風頭公園桜まつり」が行われ、夜はぼんぼりが灯され、ライトアップされ幻想的な雰囲気を醸し出すそうです。私たちが行った日には、まだ、もう少しで散りはじめだと思いますが、あじさいの花がきれいに咲き誇っていました。その美しく咲き誇る姿を見ると疲れが癒されました。
お目当ての「坂本龍馬之像」は、「風頭公園」の「小広場」にあります。そして、そこには腕組みをしてブーツを履き長崎湾を眺める「坂本龍馬之像」があります。この「坂本龍馬之像」は、平成元年(1989年)に長崎在住の彫刻家である「山崎和國」によって製作され、市民の募金により建てられたそうです。また、この「坂本龍馬之像」は、「坂本龍馬」本人に良く似ていると評判です。「風頭公園」周辺には、「坂本龍馬」の姿をカメラに収めた日本最初の職業写真家「上野彦馬の墓」や「風頭公園ハタ揚げ広場」の先には、「長崎ハタ資料館( 小川ハタ店)」もあります。次は、「亀山社中記念館」へ向かいます。

5 「亀山社中記念館」
「風頭公園」から来た道を戻り、「亀山社中記念館」へ向かいます。上るのも大変ですが、下るのもまた大変です。「風頭公園」から「亀山社中記念館」までは、徒歩6分350mほどです。「亀山通り」から「龍馬通り」の急な山道の石段を下りていきます。「風頭公園」や「亀山通り」、「龍馬通り」など人とほとんどすれ違いませんでしたが、「亀山社中記念館」には、かなりの人が来館していました。「坂本龍馬」の人気の根強さを感じました。「亀山社中記念館」は、木の門があります。門を潜り10mほど進むと左手に入口があり、靴を脱いで受付で入館料を払います。受付の方に確認したところ、「亀山社中記念館」内は撮影禁止ですが、床柱がある「第一展示場」は撮影可能ということでした。
「亀山社中」の歴史を紐解いてみると、「亀山社中」は日本初の商社とされ、慶応元年 (1865年)に薩摩藩や長崎の豪商「小曽根家」の援助を受け、「坂本龍馬」が中心となって同志20数人により結成組織されました。「亀山社中」は、日本初の「商社兼私設海軍」で、貿易会社と政治組織を兼ね、徳川幕府の倒幕を目的とした活動を行うとともに、「グラバー商会」と銃器の取引を開始し、藩に武器を卸す商業活動や物資の輸送や航海訓練なども行いました。また、険悪だった薩摩藩と長州藩の関係回復の仲介をし、薩長同盟の締結に大きな役割を果たしたと言われています。「亀山社中」の名前の由来は、当時活動の拠点として借りていた民家が、もともと「亀山焼」の職人の住居として使用されていたため、その地名の「亀山」と仲間を意味する「社中」を合わせて「亀山社中」と呼ばれたそうです。その「亀山社中」の遺構として伝わる建物が、当時の姿により近い形で整備され、平成21年(2009年)から一般公開されたのが、「亀山社中記念館」です。「亀山社中記念館」の内部は、10畳、8畳、3畳の部屋と土間に分かれており、隠し部屋と思われる中二階は、はしごを途中まで上って中を見学することができます。私もはしごを上ってみましたが、結構な大きさがありました。どことなく殺伐な雰囲気の隠し部屋でした。また、「坂本龍馬」のブーツのレプリカやピストル、書簡の写し、「亀山社中」の志士達の写真などゆかりの品々が展示されています。ちなみに、「亀山社中記念館」の名誉館長は「坂本龍馬」の大ファンである俳優の「武田鉄矢」だそうです。そして、「坂本龍馬」がもたれかかって座っていたと伝えられる柱などが再現されていました。「坂本龍馬」の写真といえばまず、台に腕をかけた写真が思い出されます。写真は日本で初めて商業写真館を開業した「上野彦馬」の撮影スタジオで撮影されたものです。「亀山社中記念館」には、スタジオにあった台のレプリカが設置されていました。ここで家内と交代で、「坂本龍馬」のポーズをまねして、お互いの記念撮影をしました。ちなみに、当時、撮影をするには長時間動いてはいけなかったので、身体を固定するためにこの台を使っていたそうです。また縁側に出ることはできませんでしたが、長崎の街と港が一望できます。そして、令和4年(2022年)11月より、土日祝日に限り、常駐ガイドの5~10分程度のお話を無料で聴くことができるそうです。床柱の話など、普通に観ただけではわからないような話や当時の逸話などを話してくれるそうです。次が、「亀山社中記念館」が徒歩1分15mほどのところのポケットパークにある「龍馬のぶーつ像」へ向かいます。

6 「龍馬のぶーつ像」
「亀山社中記念館」の門を出て右方向に13mほど進むとポケットパークがあり、そこに「龍馬のぶーつ像」があります。念のためですが、「坂本龍馬」の銅像はありません。この「龍馬のぶーつ像」があるポケットパークは、視界がよく長崎の街並みや「鶴の港」と呼ばれる長崎港を一望でき、「長崎都市景観賞」を受賞するほどの絶景で、人気のフォトスポットとなっています。
「龍馬のぶーつ像」は、「亀山社中」の創設130周年を記念して、市民グループ「亀山社中ば活かす会」の呼びかけにより平成7年(1995年)に建立されたものです。「龍馬のぶーつ像」は、長崎県出身の彫刻家である「山和國」の制作によるもので、実際にブーツを履き、船の操舵輪を握ることのできる体験型オブジェです。ちなみに、何故「ブーツ」かというと、「亀山社中」の創設がわが国近代化の第1歩となったことから、長崎の歴史や文化をより深く理解してもらおうと願いをこめて、「坂本龍馬」のトレードマークであるブーツを選んだそうです。このブーツには靴を履いたまま足を入れることができるので、船の操舵輪を握りながら龍馬になった気分を味わうことができます。私も「坂本龍馬」になった気分で、船の操舵輪を握り大海原に船出しました。
一泊の旅行だったので、時間の都合上、「亀山社中」付近の「坂本龍馬」のゆかりの施設等を見学することができなかったので、簡単に説明だけしたいと思います。
① 「上野彦馬の墓」
「上野彦馬」は、日本最初の職業写真家として有名で、「坂本龍馬」をはじめとする亀山社中メンバーを撮影したと言われています。また、「高杉晋作」、「桂小五郎」などを撮影したことでも知られています。「上野彦馬の墓」は、「風頭公園」に隣接する上野家の墓地内にあり、すぐ横に展望台があり、長崎港を見下ろすように「坂本龍馬像」が立っています。ちなみに、上野家は絵師の家系であり、絵画、鋳金などに秀でていました。父親の「上野俊之丞」とその息子である「上野彦馬」は、父子は2代にわたり、写真技術の習得と普及に多大の功績を挙げ、わが国の近代化学研究の発展に寄与しました。
② 「坂本龍馬の銅像」(「若宮稲荷神社」境内)
「若宮稲荷神社」の境内にも「坂本龍馬の銅像」があります。この銅像は、「風頭公園」にある「坂本龍馬之像」の原型となったものだそうです。平成3年(1991年)に長崎市出身の彫刻家「山和國」から「亀山社中跡」に寄贈され、その後平成21年(2009年)に、「若宮稲荷神社」境内へと移設されました。ちなみに、ここの「坂本龍馬の銅像」は故郷である高知県の方角を向いているそうです。
③ 「亀山焼窯跡」
亀山社中記念館」の裏側にある「亀山通り」の「伊良林平公民館」に近くに「亀山焼窯跡」があります。「亀山焼窯」は、文化4年(1807年)に「大神甚五平」外3名が中心となって開窯しました。オランダが注文した水瓶を主に焼いていましたが、オランダ船来航の減少により白磁染付を製作するようになり、やがて慶応元年(1865年)に閉窯しました。「坂本龍馬」は自分の名と同じ龍が描かれた亀山焼の茶碗を愛用したといわれているそうです。
⑤ 「若宮稲荷神社」と「坂本龍馬神社」
「亀山焼窯跡」から「龍馬通り」をさらに下っていくと「若宮稲荷神社」が左手にあります。神社の境内には「坂本龍馬神社」があります。「坂本龍馬神社」には、高知県の「龍馬神社」から分霊された「坂本龍馬」の御霊が祀られています。そして、鳥居の正面や幟旗には「赤白赤」の龍馬らしい意匠である「二曳」や「坂本龍馬」の家紋である「桔梗紋」が施されています。ちなみに、鳥居と社の距離は、龍馬らが長崎で「亀山社中」を設立した1865年にちなんで「1865ミリ」になっているそうです。
⑥ 「亀山社中資料展示場」
「若宮稲荷神社」をさらに進むともう一つの「亀山社中」があります。それは「亀山社中ば活かす会」が管理・運営する「亀山社中資料展示場」です。先ほど訪れた「亀山社中記念館」は長崎市の管理です。「亀山社中資料展示場」は、平成18年(2006年)に閉鎖した「亀山社中跡」の資料を展示する場として設けられました。展示場内には「上野彦馬」が撮影したという、幕末の志士たちの写真や長崎の古い風景写真など、多数の貴重な資料が並んでいます。「亀山社中資料展示場」の最大の見どころは、「坂本龍馬」の筆跡が残る手紙だそうです。入場は無料ですが、ボランティア団体により運営されているので、任意で協力金を入れるボックスが設置されています。寄付をすると、特製のカードやリーフレットが貰えます。展示場内の撮影は自由です。法被や刀、ピストルを借りての記念撮影もできるそうです。
⑨龍馬通り
「龍馬通り」は、「寺町通り」の「深崇寺」と「禅林寺」の間から、「坂本龍馬」ゆかりの地である「亀山社中跡」を経て、「風頭公園」へ至る石段まじりの坂道です。「坂本龍馬」をはじめとした「亀山社中」の同志達が、どこへ行くにもこの通りを上り下りしていたという道筋は、現在「龍馬通り」と呼ばれ地域の人々に親しまれています。高齢の私にとっては、地獄のような坂道と石段でした。携帯のヘルスケアの上った階数には、最終的に53階と表示されていました。次は、「寺町通り」にある「興福寺」をじっくり見る予定でしたが、「亀山社中」エリアで時間をかなり要してしまったので、「興福寺」を急ぎ足で参拝することにしました。

7 「興福寺」
「龍馬のぶーつ像」から坂道を降りるこ10分弱で「寺町通り」にでました。「寺町通り」を左折し、徒歩3分200mほど進むと左手に「興福寺」の「山門」があります。ここでアクシデントが発生しました。先ほどからバッテリーの容量は、低電力モードになっていましたが、「興福寺」の「山門」を撮影した瞬間にバッテリーが切れてしまいました。サイドバックの中から充電器を取り出そうとしましたがありませんでした。長崎駅西口のコインロッカーにスーツケースを預け持ってくるのを忘れてしまいました。近くにコンビニは近くにないし止むなく、「興福寺」の参拝をすることにしました。特徴的な朱色の「隠元禅師」が描かれた「山門」を潜り境内に入ります。

【「興福寺」の参拝巡路】
①《山門》⇒②《中島聖堂遺構》⇒③《三江会所門》⇒④《東明燕(庭園)》⑤《大雄宝殿(本堂)》⇒⑥《瑠璃燈と金色の関帝(関羽)像》⇒⑦《媽姐堂》

最初に「興福寺」の歴史を紐解いてみると、「興福寺」は「南京寺」、「あか寺」とも呼ばれ、元和6年(1620年)に、中国の南京地方出身者が、「真円」を開基に迎え「媽姐堂・仏殿」を建てたのがはじまりです。「興福寺」は、わが国最初の唐寺で、かつ「日本黄檗宗」の発祥の地です。江戸時代初期の長崎は中国から渡航してきた貿易商が多く、彼らが出身地別に寺院の建立を求めたそうです。「興福寺」もそのひとつです。また、自分たちがキリスト教徒ではないことの証明と、海の守護神「媽祖」を祀ることを目的に唐寺を建立し、菩提寺としました。第2代住職で「眼鏡橋」を架橋した「黙子如定」は、寛永9年(1632年)に「本堂」である「大雄宝殿」を建立しました。その後火災や暴風で大破しましたが、明治15年(1883年)に再建されました。そして、第3代住職「逸然」は漢画を日本に伝え、のちの画家たちに影響を与えた人物です。「山門」脇に描かれた第4代住職の「隠元禅師」は、インゲン豆や野菜果物、印鑑に木魚、煎茶や普茶料理などを中国から持ち込み、日本文化に多大なる影響を与えたそうです。特筆すべきは、「興福寺」の境内には国指定重要文化財の「大雄宝殿」や「旧唐人屋敷門」、県指定有形文化財の「媽祖堂」や「鐘鼓楼」、「三江会所門」や「山門」などの文化財の宝庫です。

まず、長崎一の大きさを誇る「山門」は、二間三戸八脚の入母屋造単層屋根・総朱丹塗りの豪壮な造りとなっています。「山門」は、当初、承応3年(1654年)に「隠元禅師」が長崎に滞在していたときに、全国より寄せられた寄進により建てられました。しかし、9年後の寛文3年(1663年)3月8日に発生した「長崎大火」で「山門」など全焼しました。現在の「山門」は、元禄3年(1690年)に、日本人工匠の手で再建されたもので和風様式を基調としています。原爆で大破しましたがその後復元しました。「山門」の上部に掛けられている二つの扁額「初登宝地」、「東明山」は「隠元禅師」の筆によるものです。「山門」は、昭和34年(1959年)1月9日に長崎県の有形文化財に指定されました。
次に、「山門」を入り右方向に進むと、長崎市が所有している「中島聖堂遺構大学門」があります。「中島聖堂」は、正保4年(1647年)に儒者の「向井元升」が私財を投じて聖堂、学舎を創設しました。。長年、「中島川」のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれていました。明治元年(1868年)に廃滅し、昭和34年(1954年)に、「大学門」(杏檀門)と規模を縮小した大成殿を「興福寺」境内に移築・保存し現在に至っています。「大学門」には、中国では縁起ものとなるコウモリの穴がデザインされていました。「中島聖堂遺構大学門」は、昭和35年(1960年)3月22日に長崎県の有形文化財に指定されました。
「中島聖堂遺構大学門」の左隣には、「三江会所門」があります。三江というのは、中国の江南省、浙江省、江西省の3省のことをいいます。三江出身の中国人にとって、「興福寺」は創建以来の菩提寺でした。明治元年(1868年)に「唐人屋敷」の処分が始まり、同地方出身者が明治11年(1879年)に「三江会」を設立し、事務所を「興福寺」内に設置しました。しかし、昭和20年(1945年)の原爆で大破し、撤去されてしまいました。そのため現在では「三江会所門」のみが現存しています。「大雄宝殿」と同様に細部に用いられている純中国式の建築技法を特徴とします。そして、ここでの注目すべきポイントは「豚返し」と「東明燕」です。「三江会所門」入口に設けられた敷居は高く、これは、豚などが門内に入らないよう工夫した「豚返し」と呼ぶ中国の様式で、放し飼いにされていた豚が門内に侵入できないための仕組みです。もちろん、人が出入りできるよう二段式で上部が取り外せるそうです。次に、「三江会所門」を潜るとその先に、手入れが行き届いた見事な小庭園が視界に入ってきます。これが、「東明燕」で、三江会所跡に造成されたものです。江戸時代に造られた黄檗池、竹林など素晴らしい光景が目の前に広がります。「三江会所門」は、昭和35年(1960年)3月28日に長崎県の有形文化財に指定されました。
次が、「大雄宝殿」(本堂)です。「大雄宝殿」は、寛永9年(1632年)に第二住職である「黙子如定」禅師が建立しました。その後、「大雄宝殿」は、大火や天災の惨禍から、幾度もの再建を繰り返してきました。現在の「大雄宝殿」は、明治16年(1883年)に再建したものです。ほとんどが中国工匠による純粋の中国建築で、資材も中国より運送したものだそうです。「大雄宝殿」で否が応でも目を引いたのは、「隠元禅師」筆の「大雄宝殿」と大書した「扁額」です。それと「大雄宝殿」の中国建築様式で、見逃してはならないのが、堂外の前廊にある蛇腹に組まれた「黄檗天井」と呼ばれる舟型天井と文字通り氷を砕いたような文様となっている「氷裂式組子の丸窓」です。氷裂式組子は、明末期を代表する建築様式です。屋根に目をやると魔を威嚇している狛犬の「鬼瓦」と火除けのまじないであるひょうたん型の「瓢瓶」が視界に入ってきます。また、柱や梁に彫られた人物、鳥獣、花などの彫刻も技術の高さが伺え見とれてしまうほど精巧に作られています。ちなみに、「本堂」を「大雄宝殿」と呼ぶのは「釈迦」(大雄)を本尊として祀ることからきているそうです。次に、堂内に目をやると、金色に輝く「関帝像」が安置されています。中国では商業の神として崇拝されているそうです。そして、堂内中央には、高さ2.18メートルの巨大な「瑠璃燈」が吊り下げられています。そして、「大雄宝殿」は、中国南方建築の代表作とされ、明治時代の建築でありながら、戦前より国宝に指定され、平成5年(1993年)1月23日には国の重要文化財に指定されています。ちなみに堂内は撮影禁止です。
最後になりますが、「大雄宝殿」に向かって左手にあるのが「媽祖堂」です。「媽祖」は、「まそ」又は「ぼさ」と読み、中国南部で篤く信仰される航海の神のことで、その媽祖像を祀るのが「媽祖堂」です。長崎にやってくる唐船には守護神である「媽祖」が祀られ、船が長崎に入港し、荷役を終えて出航するまでの間大切な「媽祖」を安置して礼拝するお堂が必要となり、「媽祖堂」を建てたのが始まりだといわれています。「媽祖堂」の建築様式は、和風建築を基調としながらも、「隅屋根の反り」、「黄檗天井の前廊」、「内外装の鮮やかな朱丹塗」などの中国様式が違和感なく溶け込んだ重厚な造りとなっています。ここも堂内は撮影禁止です。
現在時間15時40分です。だいぶ押されてきましたので、次の目的地である「大浦天主堂」にタクシーで向かうことにしました。

8 「大浦天主堂」
“聖堂内のステンドグラスに差し込む木漏れ日は、虹色の光に変わり教会を彩ります。”
「興福寺」近辺では、ほとんどタクシーが走っていませんでしたので、「長崎市中央公民館」まで戻り、そこでタクシーを拾い「大浦天主堂」へ向かいました。「大浦天主堂」の正門受付まで行くことができました。やはり上手にタクシーを利用すると効率的に観光ができますね。
「大浦天主堂」は、現存する国内最古の教会です。「大浦天主堂」は、なぜ建てられたかの経緯は、「大浦天主堂」の建立直前の文久2年(1862年)に聖人に列せられた「日本二十六聖人」に捧げられた教会であり、「大浦天主堂」の正面は殉教の地である西坂に向けて建てられています。
「大浦天主堂」の歴史を紐解いてみると、「大浦天主堂」は文久4年(1864年)末に完成しました。設計を指導したのは、フランス人宣教師の「フューレ」と「プティジャン」の両神父で、施工は天草の「小山秀之進」で、慶応元年(1865年)2月19日に、「大浦天主堂」の献堂式が行われました。。当初はフランス人のための教会としてスタートしました。鋭い尖塔を持つ異国風建物は、「ふらんす寺」と呼ばれて大勢が見物に押しかけたそうです。「大浦天主堂」は、昭和8年(1933年)に国宝となりましたが、原爆による損傷の修復が完了した後、現存する日本最古の教会建築として昭和28年(1953年)に再度国宝に指定されました。また、平成20年(2018年)にユネスコの世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産のひとつです。
そして、「大浦天主堂」で忘れてはならない画期的な歴史的出来事が、慶応元年(1865年) 3月17日に起こりました。この日に、「大浦天主堂」の門の前にやってきた15人程度の人々の中から、一人の婦人が「ここにおります私どもは、皆あなた様と同じ心でございます。」と「プティジャン神父」に告白し、聖母子像の前に案内すると「サンタ・マリアさまだ」と口々にささやいたそうです。
では、早速「大浦天主堂」に入っています。教会の入口には階段があり、階段を上ると左手に「大浦天主堂拝観券売り場」があるので、ここでチケットを購入します。そして、また、階段があり上ると左手に「信徒発見記念碑」があります。当日は、「長崎港」に中国の客船が停泊していたので、中国人の観光客が大勢いました。そしてさらに階段を上ると「大浦天主堂」の「聖堂」入口になります。「聖堂」入口前には、「日本之生母 信徒発見記念」と台座に刻まれたマリア様が出迎えてくれます。これより先の「聖堂」内は、残念ながら写真撮影は禁止です。聖堂」内に入り天井を見上げると本格的な「リブ・ヴォールト天井」になっていました。ちなみに「リブ・ヴォールト」とは、ゴシック建築でよく用いられた天井の様式のひとつです。「聖堂」内の両側のステンドグラスに差し込む木漏れ日は、虹色の光に変わり教会をさらに彩り、幻想的な雰囲気を醸し出していました。「聖堂」内では、「大浦天主堂」の歴史などの説明のアナウンスが流れているので、厳かな雰囲気の中、席に座ってゆっくりと説明を聞くことができます。「聖堂」を出て、左手に進むと、かつては「旧羅典神学校」や「旧長崎大司教館」であった建物が、「キリシタン博物館」として生まれ変わり開館しています。長崎のキリシタン関連資料が展示されており、歴史上重要な資料を数多く見ることができます。「大浦天主堂」の後は、今日の最後の目的地である「グラバー園」に向かいます。

9 「グラバー園」
「グラバー園」は、南山手の丘に位置し、稲佐山を背景に長崎港を眺望することができます。「グラバー園」には、「大浦天主堂」の近くにある「グラバー園正面入口」と「石橋」方面のグラバースカイロードの垂直エレバーターからの「グラバー園第2ゲート」の二つの入口があります。やはり個人的にお薦めなのは、「大浦天主堂」を見学した後に「グラバー園正面入口」から入園する方法でしょう。「グラバー園正面入口」の坂を上った時、前方に階段が見えました。また、坂と石段があるのかとぞっとしましたが、少し上るだけでその先には動く歩道やエスカレーターがあり、ホッとしました。
「グラバー園」には、スコットランドの貿易商人である「トーマス・ブレーク・グラバー」の邸宅をはじめ、3棟の国指定重要文化財と長崎市内に点在していた貴重な伝統的建造物が移築復元されています。「国指定重要文化財」は、「旧グラバー住宅」、「旧リンガー住宅」、「旧オルト住宅」の三つですが、残念ながら「旧オルト住宅」は改装中で見学することはできませんでした。次のような順路で「グラバー園」を散策しました。そして、特にお薦めな眺望は、「旧三菱第2ドッグハウス」の二階ベランダから眺める眺望でした、長崎市のランドマークである「稲佐山」を背景に「長崎港」を一望できる絶好のロケーションでした。ちなみに「旧三菱第2ドッグハウス」は「グラバー園」で一番高いところにある建物です。

【「グラバー園」のお薦め見学ルート】
①《旧三菱第2ドッグハウス》⇒②《高島流和砲》⇒③《旧長崎高商 表門衛所》⇒④《旧長崎地方裁判所長官舎(改装工事中)》⇒⑤《旧ウォーカー住宅》⇒⑥《フリーメーソンロッジの石柱》⇒⑦《旧リンガー住宅》⇒⑧《旧オルト住宅(改装工事中)》⇒⑨《旧スティール記念学校》⇒⑩《日本最初期のアスファルト道路》⇒⑪《三浦環銅像》⇒⑫《プッチーニ像》⇒⑬《自由亭喫茶室》⇒⑭《ハートストーン(石畳の中)》⇒⑮《旧グラバー住宅》⇒⑯《ハートストーン(石畳の中)》⇒⑰《日本庭園》⇒⑱《展望台》⇒⑲《ハートストーン(石畳の中)》⇒⑳《長崎伝統芸能館》

それでは、主だった「グラバー園」の見どころ紹介したいと思います。まず、「旧グラバー住宅」は、スコットランド出身の商人「トーマス・グラバー」が、親子二代に渡り暮らした現存するわが国最古の木造洋風建築です。昭和36年(1961年)6月7日に国の重要文化財に登録されました。また、「旧グラバー住宅」は「明治日本の産業革命遺産」の構成資産にも登録されています。建築年代は文久3年(1863年)で、建築面積は主屋が510.8㎡、附属屋が129.2㎡です。建築構造は木造平屋建て、寄棟造、桟瓦葺、ベランダ付となっています。一見洋風な佇まいの「旧グラバー住宅」ですが、外観には日本瓦と土壁が使われており、和と洋の見事な調和が美しい住宅です。建築当時は住宅のそばに大きな松の木があり、それを囲むように温室があったそうです。
次の「旧リンガー住宅」は、グラバー商会に勤め、ホーム・リンガー商会を設立した「フレデリック・リンガー」の旧邸です。昭和41年(1966年)6月11日に国の重要文化財に登録されました。建築年代は明治元年(1868年)頃で、建築面積は350.8㎡、建築構造は木造及び石造、平屋建て、寄棟造桟瓦葺となっています。「旧リンガー住宅」は、外壁には天草の砂岩、ベランダの床石にロシアのウラジオストックの御影石、屋根には瓦、そして家の3方がベランダに囲まれたバンガロー風の様式とさまざまな国の文化が見事に入り混じった造りとなっています。残念ながら改装中だった「旧オルト住宅」は、オルト商会を設立し、製茶業を営んでいた「ウィリアム・ジョン・オルト」の旧邸です。昭和47年(1972年)5月15日に国指定重要文化財に登録されました。建築年代は慶応元年(1865年)頃です。建築面積は504.1㎡、木造及び石造、平屋建て、正面車寄付、寄棟造桟瓦葺となっています。「旧オルト住宅」の特徴は、柱間が大きく、柱の装飾がないトスカーナ風の列柱が採用されていることです。ベランダ中央にあるポーチの威厳あるデザインも特徴の一つです。そして、次は、「旧ウォーカー住宅」です。「旧ウォーカー住宅」は、ウォーカー商会を設立した「ロバート・N・ウォーカー」の次男「ロバート二世」の旧邸です。建築年代は明治中期(1890年)頃で、建築面積は112㎡、木造、平屋建てとなっています。昭和49年(1974年)に移築されました。「旧ウォーカー住宅」は、もともとは大浦天主堂横の祈念坂沿いにありましたが、洋風のデザインを残す一部分のみがグラバー園へ移設されました。そして、私が眺望をお薦めした「旧三菱第2ドックハウス」は、明治29年(1896年)に「三菱造船所」(現三菱重工業株式会社長崎造船所)の第2ドックの建設時に建てられた外国人乗組員用の宿舎です。「ドック」は造船所の主要施設で、船の建造や修理を担うところです。建築面積は201㎡、木造、2階建てです。昭和47年(1972年)に移築されました。最後に、ここにも「ハートストーン」がありました「グラバー園」内には3つの「ハートストーン」があります。ハートストーンを触ると恋が叶う、2つ見つけるといいことが起こるなどさまざまなジンクスがあり、「グラバー園観光」のなかでも人気のスポットです。ただし、石畳と同化しているので見つけるのは思った以上に大変です。私は、2つだけしか「ハートストーン」を見つけることができませんでした。一つは、「自由亭」の少し手前に、もう一つは、「日本庭園」へ行く途中に見つけました。
「グラバー園」の次は、すぐ近くにある「四海樓」へ向かいます。

10 「四海樓」
「グラバー園」から「四海樓」までは、徒歩5分350mほどです。「グラバー坂」を下りる途中で、「四海樓」の立派な建物が視界に入ってきます。まさに外観は高級レストランです。
まず、「四海樓」の歴史とちゃんぽん誕生について紐解いていきたいと思います。「四海樓」の創始者は、明治25年(1892年)に中国福建省福州から長崎に渡ってきた「陳平順」です。この「四海樓」からうまれたのが、「ちゃんぽん」と「皿うどん」です。「陳平順」は、明治32年(1899年)に、明治の初めまであった「唐人屋敷」の入口付近の広馬場に中華菜館兼旅館の「四海樓」を創業しました。そして、「四海樓」で生まれたのが「支那饂飩」で、その名称も「ちゃんぽん」と変わり、長崎で最も親しまれる大衆料理へと発展していきました。「ちゃんぽん」が生まれたきっかけは、「陳平順」が中国から渡航してくる留学生のひどい食生活を見るに見かねて、どうにかしたいと知恵を絞り考案したのが「ちゃんぽん」だそうです。安くてボリュームがあり栄養満点の「ちゃんぽん」は、留学生の食生活向上に役立ったばかりか、たちまち長崎の中華街にひろまっていったそうです。「四海樓」を訪れた有名人は数知れません。「五木寛之」、「永六輔」、「清水崑」、「山崎朋子」、「新珠三千代」、「吉屋信子」など枚挙に遑がありません。そして、昭和31年(1954年)に「常陸宮殿下」、昭和52年(1977年)には「浩宮さま」(今上天皇陛下)も訪れ、ふたりとも「皿うどん」をお代わりされたそうです。
「四海樓」は、路面電車の「大浦天主堂」電停で降り、「クラバー通り」を進むと公営駐車場の隣にある中国風の立派なビルです。建物の一階には、入場料無料の「ちゃんぽんミュージアム」があります。この「ちゃんぽんミュージアム」には、「四海樓」と「ちゃんぽん」、「皿うどん」の歴史を物語る資料が数多く展示されています。そして、「四海樓」は、稲佐山を背景に長崎港、長崎の市街地が一望できるビルの5階にある展望レストランです。正面入口の階段を上り2階に行くと右手にエレベーターがあります。このエレベーターを使い5階に行く訳ですが、何とエレベーターの階層表示のボタンは漢数字の表記でした。開店とほぼ同時の17時10分頃に行きましたが、運よく並ばずに席につくことができました。そして、ラッキーなことに案内されたテーブルも窓際の眺望が抜群の特等席でした。もちろん注文したのは、元祖であり1番人気の「ちゃんぽん」と「皿うどん」、そして、私は紹興酒のロックを注文しました。店の方の心遣いは素晴らしいもので、何も言わなくても家内とシェアーする「ちゃんぽん」用のボールと「皿うどん」用のお皿を持って来てくれました。最初に「ちゃんぽん」、次に「皿うどん」が運ばれてきました。「ちゃんぽん」と「皿うどん」はイメージしていたものとは全く違っていました。東京で食べる「ちゃんぽん」と「皿うどん」と違い、スープとアンが牛乳のように白濁です。私が撮った写真は、夕陽が差し込んでいるせいで幾分赤みがかって見えますが、本当に牛乳か生クリームで作ったようにスープとアンは、真っ白な色をしていました。そして「ちゃんぽん」には、錦糸卵がたっぷりと載せてありました。家内と顔を見合わせ、これが本場の「ちゃんぽん」と「皿うどん」かとハーモニーしてしまいました。「ちゃんぽん」と「皿うどん」の具材も、肉、魚介類、野菜など豊富に入っていて、これなら栄養のバランスもとれ、明日への活力を生み出してくれるものだと思いました。若干甘めの優しい味だったので、テーブルにある酢と胡椒を加えてみると、全く別物に味変しました。量も結構あったので満腹になりました。帰り間際に会計のところで、牛乳が使っているのか訊いたところ企業秘密だそうです。これからホテルの無料シャトルバスに乗るために、路面電車で「JR長崎駅」へ戻ります。

11 「長崎街道かもめ市場」
「四海樓」から路面電車で「新地中華街」で乗り換え「長崎駅前」まで行きました。ホテルの無料シャトルバスの発車まで30分くらい時間があり、JR長崎駅の改札前に「長崎街道かもめ市場」というショッピングモールがあったので、お土産を見るついでに立ち寄ってみました。それと「四海樓」で早めの夕食を済ませたので、ホテルに着いてからお腹が空くと思い何か軽い食べ物を購入するために立ち寄りました。「長崎街道かもめ市場」は、西九州新幹線の開業に合わせ2022年3月18日にグランドオープンしました。長崎市内最大級の「お土産ゾーン」、地酒と料理が楽しめる「かもめ横丁」やイートインスペースがあり、全部で56店舗あるそうなのでお土産もここで買い揃えることができます。もともとお土産は、「長崎空港」にもたくさんのショップがあり、荷物になるので、「長崎空港」で買おうと決めていたので、「長崎空港」では買えないようなものを探しました。「お土産ゾーン」の「長崎銘品蔵」で長崎銘菓の「クルス」があり、修道女のデザインの可愛らしい黄色の缶の箱に入った「クルス」を家内が見つけました。女性の店員に確認したところ「長崎空港」では、販売していないということだったので、それを購入しました。それとホテルで食べるスナックは、「長崎かんぼこ喜味冨」で「ハトシ」があったので購入しました。お昼に「吉宗」で食べた「ハトシ」とは形が違っていましたが、味は変わりなく美味しかったです。それと「ながさき食べんばLabo.」でソーセージの入った珍しいデニッシュを買いました。こちらもサクッとした食感で美味しくいただきました。そろそろホテルのシャトルバスの時間も迫ってきたので、「JR長崎駅」西口の「一般車乗降場」へ向かいます。

12 「ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート」
長崎での宿泊先は、「ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート」です。今回このホテルを選んだのは、長崎旅行にあたり、日本橋にある「長崎館」に事前の情報を得るために行きました。「長崎館」には、「観光案内ゾーン」があり、女性のコンシェルジェの方に長崎観光について教えてもらいました。その中で宿泊先について聞いてみると、お薦めは「ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート」という答えが返ってきました。家に帰ってネットで調べてみると少し長崎市内から離れた場所に立地していますが、ホテルの客室は全て目の前に長崎港が広がるオーシャンビュー、そして、何よりも決め手になったのは、あの有名な建築家の「隈研吾」と「隈研吾建築都市設計事務所」の設計によるものだからです。
「JR長崎駅」西口の「一般車乗降場」からホテルのシャトルバスに乗ること約15分で「ガーデンテラス長崎ホテル&リゾート」に到着しました。見るからに「隈研吾」が設計した建築物だとすぐ分かりました。一つの建物で完結するのでなく、新館、本館、クラブラウンジなど複数の建物が敷地内に立ち並らんでいました。もちろん、チェックインするレセプションデスクも別な建物です。ウェルカム・ドリンクとして冷たい琵琶茶でもてなしてくれました。手続きを済ませるとゴルフカートで宿泊する建物まで送迎してくれます。部屋の設備等の説明も懇切丁寧にしてくれました。部屋には、ベランダもありテーブルとイスがセットしてあって長崎湾と長崎市街を眺めることができます。ちょうど太陽が沈む瞬間に遭遇しました。また、バスルームからも長崎湾と長崎市街を眺めることができます。部屋は広く、綺

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
ホテル
4.5
グルメ
4.5
ショッピング
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
15万円 - 20万円
交通手段
タクシー ANAグループ 新幹線 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
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