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 アンカー区間の第21区は浦和からスタート、ゴールの日本橋を目指します。<br /> 浦和駅から高砂一丁目公園まで歩き、そこで着替えて出発。辻一里塚、蕨宿、戸田一里塚を通過して、かつての戸田の渡しに架かる戸田橋を経て東京都に入ると、清水坂、志村一里塚、板橋宿、平尾一里塚、巣鴨とげぬき地蔵尊、駒込追分一里塚、赤門を経て、本郷三丁目交差点を左折し、いったん中山道から外れ、上野不忍池にある我が国最初の駅伝のゴール「駅伝の碑」に到着。<br /> 再び本郷三丁目に戻り、神田明神を経て、1月9日に京都三条大橋を出発して以来、全21区間の駅伝のゴール江戸日本橋に到着。<br /> 公衆トイレで着替えた後「日本橋天丼金子半之助 日本橋本店」さんで、江戸到着の感慨を噛みしめビールを飲みながら特製天丼をいただき一人打上げ。<br /> それにしてもこれだけの道中、江戸時代は連続で歩き通すのですから、昔の人はすごいですよね。<br /> 

中山道駅伝単独走【第21区】27.1Km 浦和→日本橋

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2023/12/25 - 2023/12/25

184位(同エリア238件中)

旅行記グループ 中山道駅伝単独走

0

23

かくちゃんさん

 アンカー区間の第21区は浦和からスタート、ゴールの日本橋を目指します。
 浦和駅から高砂一丁目公園まで歩き、そこで着替えて出発。辻一里塚、蕨宿、戸田一里塚を通過して、かつての戸田の渡しに架かる戸田橋を経て東京都に入ると、清水坂、志村一里塚、板橋宿、平尾一里塚、巣鴨とげぬき地蔵尊、駒込追分一里塚、赤門を経て、本郷三丁目交差点を左折し、いったん中山道から外れ、上野不忍池にある我が国最初の駅伝のゴール「駅伝の碑」に到着。
 再び本郷三丁目に戻り、神田明神を経て、1月9日に京都三条大橋を出発して以来、全21区間の駅伝のゴール江戸日本橋に到着。
 公衆トイレで着替えた後「日本橋天丼金子半之助 日本橋本店」さんで、江戸到着の感慨を噛みしめビールを飲みながら特製天丼をいただき一人打上げ。
 それにしてもこれだけの道中、江戸時代は連続で歩き通すのですから、昔の人はすごいですよね。
 

旅行の満足度
3.0
観光
3.0
グルメ
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩

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  • 高砂一丁目公園。<br />公園と言っても三角地帯にベンチがあるだけですが、写真左手の小山が一里塚のような雰囲気を醸し出していたため、思わず写真を撮りました。

    高砂一丁目公園。
    公園と言っても三角地帯にベンチがあるだけですが、写真左手の小山が一里塚のような雰囲気を醸し出していたため、思わず写真を撮りました。

  • 中山道 5番目の一里塚 辻一里塚址。<br />一里塚があったと思われる場所は公園となっています。すぐ目の前は東京外環自動車道。一里塚、高速道路の下敷きになることは何とか免れたようです。<br />また、この辺りは湿地で水難が多かったこともあり、地区の守り神とするとともに、中山道を旅する人々の安泰を願うため、写真左にある弁財天が安置されています。

    中山道 5番目の一里塚 辻一里塚址。
    一里塚があったと思われる場所は公園となっています。すぐ目の前は東京外環自動車道。一里塚、高速道路の下敷きになることは何とか免れたようです。
    また、この辺りは湿地で水難が多かったこともあり、地区の守り神とするとともに、中山道を旅する人々の安泰を願うため、写真左にある弁財天が安置されています。

  • 蕨宿京口の大木戸。<br />木戸というと門のようなイメージですが、実際はこんな感じだったんですかね。<br />

    蕨宿京口の大木戸。
    木戸というと門のようなイメージですが、実際はこんな感じだったんですかね。

  • 中山道 2番目の宿場町 蕨宿。<br />駅や国道17号線から外れているということもあり、町全体で宿場町の雰囲気を作り出す努力が垣間見られます。

    中山道 2番目の宿場町 蕨宿。
    駅や国道17号線から外れているということもあり、町全体で宿場町の雰囲気を作り出す努力が垣間見られます。

  • 中山道 4番目の一里塚 戸田一里塚があったと思われる場所周辺。<br />荒川堤防は江戸時代何度か変わっているとともに、200年前には一里塚はもうなかったようでなので、場所は良く分かっていないようですが、この辺りではないかと勝手に想像しています。

    中山道 4番目の一里塚 戸田一里塚があったと思われる場所周辺。
    荒川堤防は江戸時代何度か変わっているとともに、200年前には一里塚はもうなかったようでなので、場所は良く分かっていないようですが、この辺りではないかと勝手に想像しています。

  • 戸田渡船場跡(戸田側)。<br />石碑のある歩道はこの先が行き止まりになっており、車も一時停止できず、石碑と案内板を見に行くには不便なところにあります。<br />

    戸田渡船場跡(戸田側)。
    石碑のある歩道はこの先が行き止まりになっており、車も一時停止できず、石碑と案内板を見に行くには不便なところにあります。

  • 戸田側河川敷から見た荒川。<br />船の姿は見られませんでしたが、江戸時代はさぞかし行き交う船で賑わっていたのでしょうね。

    戸田側河川敷から見た荒川。
    船の姿は見られませんでしたが、江戸時代はさぞかし行き交う船で賑わっていたのでしょうね。

  • 戸田渡船場跡(志村側)。<br />戸田側と違って、こちらは道路の脇に案内板があります。

    戸田渡船場跡(志村側)。
    戸田側と違って、こちらは道路の脇に案内板があります。

  • 板橋リバーステーション。<br />阪神淡路大震災を教訓に災害時に救援物資の輸送船を受け入れるための岸壁として整備されたものですが、江戸時代、ここは「戸田河岸」として栄え、江戸との交通の要衝だったそうです。

    板橋リバーステーション。
    阪神淡路大震災を教訓に災害時に救援物資の輸送船を受け入れるための岸壁として整備されたものですが、江戸時代、ここは「戸田河岸」として栄え、江戸との交通の要衝だったそうです。

  • 清水坂。<br />かつては坂の途中に間の宿があり、そこには立場茶屋などが置かれていたそうです。<br />志村坂上まで湾曲しながら道が続いています。

    清水坂。
    かつては坂の途中に間の宿があり、そこには立場茶屋などが置かれていたそうです。
    志村坂上まで湾曲しながら道が続いています。

  • 中山道 3番目の一里塚 志村一里塚。<br />写真は左塚。東京都内に一里塚が両塚とも残っているとは本当に驚きです。大正11年(1922年)に国の史跡に指定され、昭和8年(1933年)に新中山道の工事の際、周囲に石積みがなされて土砂の流出を防ぐ工事が施され保全が図られています。<br />

    中山道 3番目の一里塚 志村一里塚。
    写真は左塚。東京都内に一里塚が両塚とも残っているとは本当に驚きです。大正11年(1922年)に国の史跡に指定され、昭和8年(1933年)に新中山道の工事の際、周囲に石積みがなされて土砂の流出を防ぐ工事が施され保全が図られています。

  • 志村一里塚の右塚。<br />間の宿は坂からこの辺りまで続いていたのかもしれません。

    志村一里塚の右塚。
    間の宿は坂からこの辺りまで続いていたのかもしれません。

  • 板橋。<br />板橋の名称は、鎌倉時代からあったようです。江戸時代の板橋は長さ9間(16.2m)、幅3間(5.4m)の太鼓状の木製の橋だったそうです。

    板橋。
    板橋の名称は、鎌倉時代からあったようです。江戸時代の板橋は長さ9間(16.2m)、幅3間(5.4m)の太鼓状の木製の橋だったそうです。

  • 中山道 最初の宿場町 板橋宿。<br />旧街道は商店街として活用されており、月曜のお昼時でしたが混雑していました。江戸時代も結構賑わっていたんでしょうね。

    中山道 最初の宿場町 板橋宿。
    旧街道は商店街として活用されており、月曜のお昼時でしたが混雑していました。江戸時代も結構賑わっていたんでしょうね。

  • 中山道 2番目の一里塚 平尾一里塚があったと思われる場所周辺。<br />江戸時代、この辺りは畑や田んぼだったようですが、現在は住宅街化しており、一里塚があった痕跡は何も見当たりません。

    中山道 2番目の一里塚 平尾一里塚があったと思われる場所周辺。
    江戸時代、この辺りは畑や田んぼだったようですが、現在は住宅街化しており、一里塚があった痕跡は何も見当たりません。

  • とげぬき地蔵尊。<br />もともとは上野にあったそうですが、明治に入って巣鴨に移転したのだそうです。

    とげぬき地蔵尊。
    もともとは上野にあったそうですが、明治に入って巣鴨に移転したのだそうです。

  • 中山道 最初の一里塚 駒込追分一里塚があったと思われる場所周辺。<br />日光御成道と中山道の追分で、18世紀中頃まで榎が植えられていたそうです。<br />写真右手に見える「高崎屋」は江戸時代から続く酒店なのだそうです。

    中山道 最初の一里塚 駒込追分一里塚があったと思われる場所周辺。
    日光御成道と中山道の追分で、18世紀中頃まで榎が植えられていたそうです。
    写真右手に見える「高崎屋」は江戸時代から続く酒店なのだそうです。

  • 赤門。<br />東京大学の象徴のように言われていますが、もともとは文政10年(1827年)加賀藩に嫁いだ第11代将軍徳川家斉の娘「溶姫」のために建てられたものなのだそうです。

    赤門。
    東京大学の象徴のように言われていますが、もともとは文政10年(1827年)加賀藩に嫁いだ第11代将軍徳川家斉の娘「溶姫」のために建てられたものなのだそうです。

  • 上野不忍池の駅伝の碑。<br />大正6年(1917年)4月27日~29日の3日間にわたり開催された「東海道駅伝徒歩競走」は京都・三条大橋をスタートし、ゴールはここ上野・不忍池の東京遷都五十年奉祝博覧会会場正面玄関だったそうです。三条大橋にも同じような碑があります。(https://4travel.jp/travelogue/11803637)

    上野不忍池の駅伝の碑。
    大正6年(1917年)4月27日~29日の3日間にわたり開催された「東海道駅伝徒歩競走」は京都・三条大橋をスタートし、ゴールはここ上野・不忍池の東京遷都五十年奉祝博覧会会場正面玄関だったそうです。三条大橋にも同じような碑があります。(https://4travel.jp/travelogue/11803637

  • 神田明神。<br />年末にも関わらず絶えず参拝客が来訪していました。

    神田明神。
    年末にも関わらず絶えず参拝客が来訪していました。

  • ゴールの日本橋。<br />江戸時代の五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点であり、関東大震災前はここに魚河岸がありました。

    ゴールの日本橋。
    江戸時代の五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点であり、関東大震災前はここに魚河岸がありました。

  • 日本橋天丼金子半之助日本橋本店。<br />月曜日の午後2時50分に来訪したにもかかわらず、70分待ちの人気ぶり。27Kmも走った体にはかなりこたえました。

    日本橋天丼金子半之助日本橋本店。
    月曜日の午後2時50分に来訪したにもかかわらず、70分待ちの人気ぶり。27Kmも走った体にはかなりこたえました。

  • 江戸前天丼の特上。<br />蟹の味噌椀が付いて来ます。大きな穴子に車エビが2本。かなり豪華です。

    江戸前天丼の特上。
    蟹の味噌椀が付いて来ます。大きな穴子に車エビが2本。かなり豪華です。

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