2023/03/11 - 2023/03/11
4位(同エリア212件中)
たびたびさん
- たびたびさんTOP
- 旅行記736冊
- クチコミ35331件
- Q&A回答420件
- 5,370,764アクセス
- フォロワー666人
ちょっと前まで大分県づいていたのですが、宮崎県を回った流れで、またまた今度は臼杵と湯布院を訪ねることに。どちらもまだ心残りがあって、いつかはもう一度訪ねたかったところ。うまいぐあいにいい機会になったみたいです。
まずは臼杵。前回来た時は駆け足で臼杵城と臼杵石仏くらい。臼杵といえば大友宗麟ですから、猛攻の島津軍を撃退した臼杵城で大友宗麟に思いを馳せたり、臼杵石仏の見事さにも感心してけっこう満足したつもりになっていたのですが、やっぱり臼杵はそんなに単純なものでもないですね。
というのも、江戸期の臼杵は臼杵藩稲葉家6万石の城下町。大友家は既になく、新たな歴史が刻まれることになります。臼杵藩稲葉家の初代藩主、稲葉貞通は斎藤家、織田家、豊臣家に仕えた美濃三人衆の筆頭、稲葉一鉄の嫡男。関ヶ原の戦いでは郡上八幡城主であり西軍に付くのですが、主筋であった織田信秀が岐阜城を開城したことで東軍に降伏。その後、家康の命令による対西軍戦に功があって、臼杵藩に加増転封されたという人物。ぎりぎり生き延びた外様大名なんですが、稲葉家の一族から徳川家光の乳母、春日局が出たこともあって、幕末まで安泰。小藩ではありますが、歴代中央政権との関りも適度にあって、まあまあの系譜かな。大友宗麟の名残りは名残りとして、それなりの自負を持って統治していたことは想像に難くないように思います。
美しく整った街並みの寺院、武家屋敷を回る中でも、その稲葉家のあれこれや吉丸一昌、野上弥生子といった一流の文学者を輩出した歴史を知ると臼杵の街としての成熟度もやっぱり強く感じざるを得ないですね。つまり、これは私の持論なのですが、優れた文学者が出てくるのは街が成熟する最後の段階。優れた文学者は個人の才能がいくらあったとしても、それとともに街の成熟が伴っていないとなかなか育たないような気がします。森鴎外の津和野。正岡子規の松山。瀬戸内寂聴の徳島や宮尾登美子の高知、松本清張の小倉とか多分にそんなところ。吉丸一昌や野上弥生子と臼杵も同じようなことかな。大友宗麟がキリシタン大名となったのも進取の気概があって、西洋式武器の類だけでなく多様な文化の力を信じていたから。その土壌に稲葉家の美濃の気風が加わったことだけを考えても、興味深い化学反応が起きていたのではないかと想像してしまうのですが、いかがでしょうか。
そして、臼杵定番のもうひとつのお楽しみは臼杵石仏。前回より気持ちに余裕がある分ゆっくり鑑賞して、記憶のリセットもできたように思います。
ちなみに、臼杵石仏は、全4群61躯。うち59躯が国宝指定となっています。亡くなった娘の菩提を弔うために長者が彫らせたという真名野長者伝説があるにしても、実は詳しいことは分かっていない。ただ、平安時代後期から鎌倉時代の作と推定される石仏は県内にある種々の摩崖仏と比べてもその垢ぬけた完成度は尋常ではない。そういう点を考えると私的には真名野長者伝説のような強い思いや外部とのつながりがあって作られたとする方が納得感はあるんですけどね。そして、代表的な石仏は、何と言っても古園石仏群の中心にある大日如来坐像。眉毛と目のアーモンドのような形や小さくまとまった鼻と口に対してのゆったりとした頬と大きな耳。少し彩色も残っているのでしょうか。凝灰岩に彫られた薄茶色の滑らかな質感とも相まって、変わらぬ抜群のオーラを放っている。他のひたすら素朴な磨崖仏にはない大きな魅力だと思います。
あとは名物のふぐもいただいて、結局、なんだかんだで一日がかり。小さな町のようですが、ちゃんと特徴があって中身は濃い。改めて、大分県は隠し玉が豊富です。
PR
-
午前中に臼杵石仏を訪ねますが、バスの時刻まで時間があるので、例によって、まずは早朝の散策です。
臼杵港は臼杵の海の玄関。臼杵駅から少し距離がありますが、まあまあ歩ける範囲ですね。臼杵港と愛媛県の八幡浜港を結ぶフェリーがあって、おれんじ四国がちょうど着岸しているところでした。所要時間は2時間半弱。姉妹船、おれんじ九州と合わせて、一日7往復の就航です。大分県と四国だと別府港も八幡浜。佐伯港からだと宿毛を結んでいて、大分県と四国間の航路は割と充実しています。 -
では、また戻ってきて、臼杵城跡、臼杵公園へ。
東側にあるループの上り口です。 -
臼杵市街を見下ろす小高い山の上。上に登るとけっこう広い平地が広がっています。まずは、桜の林ですね。
-
卯寅稲荷神社も、東側の一角。大友宗麟が臼杵城築城にあたり、卯寅口に建立したのが始まり。本丸の鬼門にあたる神社のようです。
-
市街に立派な鳥居があって、山の上の神社まで、別途、千本鳥居のような参道も続いているよう。神社自体は小さいですが、存在感は今でも健在ですね。
-
さらに進んで、
-
中央のお堀を抜けると
-
今度はグラウンドのような広場。
-
その先は梅園なんですが、その辺りには臼杵城の歴史の説明板や大友宗麟のレリーフなど。
天正6年(1578年)の耳川の戦いから劣勢となった大友氏に対し、天正14年(1586年)、島津家久を大将とする2万の軍勢が大友氏の拠点、府内を目指して出陣。その途中、すでに隠居をした大友宗麟の籠る臼杵城には2千の兵が差し向けられ、ここ臼杵城で始まった攻防戦。城下を焼け野原にはされますが、臼杵城が周囲を断崖絶壁で囲まれる天然の要害だったことやポルトガル製の「国崩し」と呼ばれる大砲フランキ砲が威力を発揮し、島津軍を撃退することになりました。レリーフには宗麟の後ろにその大砲も描かれています。
一方の島津家久軍本隊は、その後も前進。戸次川の合戦では大友・四国連合軍に勝利しますが、秀吉軍が小倉に上陸したとの情報を得て退却。何とか危機を脱した大友家ですが、宗麟はその翌年に死去しています。 -
大友宗麟が丹生島にこの城を築いたのは永禄5年(1562年)。それ以前に府内から拠点を移していたということもあるようですが、いずれにしても、湊と城下町が一体となった臼杵にはポルトガル人宣教師ルイス・フロイスもやってきて、多くのキリスト教の施設があったと記しています。
-
しかし、毛利氏との戦いや島津氏との戦いなど以降は各地で劣勢を強いられていて、大きく見れば大友家衰退の時代の城というイメージも否めないと思います。
-
イチオシ
ただ、大友宗麟の城という意味では府内大友館より臼杵城の方が明確。宗麟の描いた夢を実現するための城であり、島津氏との臼杵城攻防戦も最期の華だったような気がします。
-
では、臼杵市街から臼杵石仏まで。臼津交通の路線バスを利用します。臼杵の市街中心部からだと大分県庁行または三重町行。午前中に数本あるくらいですが、まあまあ十分。停留所には何かあった時の問い合わせ先も書いてあります。
-
臼杵石仏の拝観時間は9時から。
まだ少し時間があるのでそばにある満月寺を訪ねます。 -
満月寺に到着。
目の前、正面に臼杵石仏の施設が点在するのが確認できますね。 -
これが満月寺。小さなお寺。本堂に向かう参道の入り口に仁王像か何かの二つの石像が並んでいて目を引きます。
-
ユニークな石像ですけど
-
室町以降の作ではないかということです。
-
奥の方に進むと、
-
宝篋印塔としては日本最大の高さを誇る13世紀後半に製作された日吉塔というのもありました。
まあ、それくらいです。 -
では、石仏へ。
ここが入口です。 -
遊歩道がしっかりと整備されていて安心。
これなら車いすでもOKですね。 -
<ホキ石仏第二群>
二つの龕があって、 -
第一龕は、阿弥陀如来坐像を中心に、左右に脇侍菩薩立像の3躯。
-
阿弥陀如来坐像
-
脇侍菩薩立像
-
第二龕は
-
九体阿弥陀如来像を中心として11躯。九体阿弥陀如来像の左右に1躯ずつの菩薩立像が並びます。
-
九体阿弥陀如来像の向かって左から
-
中央、
-
右側。
中央の1躯が座像で、あとの8躯は立像です。 -
右端に不動明王がありますが、これは意味不明です。
-
移動して、
-
<ホキ石仏第一群>
一・二・三・四龕と4つの龕があって、 -
入り口入って正面が第二龕。
-
その左手が第一龕です。
-
第一龕は、如来坐像3躯と脇侍菩薩立像2躯。
-
元に戻って、第二龕。
-
第二龕は如来坐像3躯。また、第一・二龕間には愛染明王坐像も。
-
第三龕は
-
金剛界大日如来坐像を中心とする5躯。大日如来坐像の左右にそれぞれ如来坐像1躯、菩薩立像1躯が並びます。
-
第四龕は
-
地蔵菩薩像を中心に十王像が並びます。
-
ここは彩色がよく残っていて、特徴的です。
-
ホキ石仏第一群から、今度は山の上の方にある石造り五輪塔も訪ねてみます。
-
大小2基の五輪塔。大きい方は嘉応2年(1170年)、小さい方は承安2年(1172年)の銘があるそうです。
-
<山王山石仏群>
-
ここはシンプルな構成で
-
丈六の如来坐像を中心とする3躯。
-
丈六の如来坐像の左右には小さな如来坐像が並びます。
-
最後は
<古園石仏群>
臼杵石仏の象徴的存在、金剛界大日如来坐像を中心とする13躯。大日如来坐像の左右にはそれぞれ如来像2躯、菩薩像2躯、明王像1躯、天部像1躯が並びます。 -
手前に国宝に追加された金剛力士立像2躯。
-
右の立像は保存状態が比較的良好です。
-
建物の内部へ。
-
駒札には大日如来坐像ほか13躯の記載。
-
イチオシ
正面からじっくり拝見。
-
大日如来坐像はやっぱり臼杵石仏のスーパースター。
-
オーラが全然違うと思います。
-
一番右端の多聞天立像
-
気が付くと正面には今朝の満月寺が見えています。
以上で臼杵石仏は終了です。
ところで、阿弥陀如来は浄土宗みたいですけど天台宗の比叡山でもありましたし、大日如来は密教の真言宗。その選択は最澄と空海に相当する典型的な平安仏教の世界ですね。六郷満山は明らかに天台宗の色が濃いのですが、むしろその方が違和感がない。ここのようにバランスがいいのは逆にプロの宗教家の関与が弱かったような気もします。そういう意味でも、真名野長者伝説がぴったりくるんですけどね。 -
入り口の臼杵石仏のチケット売り場がある建物には、
-
地元の観光協会が直営する小さな売店。
臼杵石仏をモチーフにしたグッズがあったり、お菓子類もちょっとあったりしますが、品数は少ないし、あんまり活気もないですね。休憩スペースが隣りなので、帰りのバスの待ち時間には使えます。 -
なので、やっぱり、本命はこちら。
臼杵石仏がパッケージの臼杵煎餅の後藤製菓。駐車場の隣りにあって、 創業大正八年の老舗です。(https://4travel.jp/dm_shisetsu_tips/13678973) -
臼杵石仏から臼杵市街に戻ってきて、早めに途中下車。今度は福良天満宮へ向かいます。
-
菅原道真が亡くなった後、その一族が周防国大畠を支配し天神像を守護していたところ、秀吉の全国平定の難を逃れ、当地に移ってきたのが始まり。
-
小高い山の上に鎮座していて、
-
これが本殿。
-
で、その登り口や境内には赤い猫の置物が多数あって、ちょっと独特です。
ただ、大分には赤猫根性という言葉があって、それはけっこうネガティブな意味。きわどいものがあると思うのですが、今はあまり気にしない人が多いんでしょうかね。
参考まで(https://4travel.jp/travelogue/11798483) -
「男はつらいよ。花も嵐も寅次郎」のロケ地になったというのも面白いですね。
-
こちらは、龍原寺三重塔。
臼杵出身の名匠、高橋団内が奈良や京都の古寺を参考に理想的な姿として設計。嘉永元年(1848年)から10年の歳月をかけて造られたという傑作です。高さは21.8m。改修工事が行われていましたが、きりりと整った姿であることはそれなりに確認できました。 -
続いては、大橋寺。
厳めしい構えの山門脇には「大橋寺」と大書した石碑があって、そこから山の上の方に坂道を上ります。 -
大友宗麟が永禄年間に建立。寺に参詣するための大きな橋を架けたことで大橋寺。大友宗麟の妻の墓もあるよう。
-
西南戦争の際には大分県警視隊の本陣が置かれたともありました。
-
市街中心部に向かってさらに帰りますよ~
これは早春賦の作詞者として知られる吉丸一昌の記念館。夫人の実家だった建物ですが、白い塀がぐるりを囲み、武家屋敷のような門構えも含めて、とても勿体のある邸宅です。 -
吉丸一昌は明治6年生まれ。
漱石の出会いから、作詞家として童謡や文部省唱歌を数多く手がけたという足跡です。 -
邸内は写真撮影は不可。ひな人形だけ撮らせてもらいました。
-
すぐそばには、臼杵市歴史資料館建物。
外観も含めて、とても立派。 -
展示室もギャラリーのようにゆったりとしていますね。
臼杵の古地図や出土した土器類の展示品もそれぞれ丁寧な解説があって、好感が持てます。ただ、臼杵といえば大友宗麟というイメージからするとその方面の展示品は少ないように感じました。
なお、こちらも館内撮影はできません。 -
橋を渡ると市街中心部です。
臼杵川の中州に建つフンドーキンの本社工場。フンドーキンは醤油のメーカーのようですが、大分みそ協業組合の看板も見えています。中州全体にひしめくように建物が建っていて、けっこう圧巻。
なお、工場の見学は予約が必要です。 -
久家本店は、醸造の町、臼杵市にあって、万延元年(1860年)の創業という老舗の酒蔵。特別純米「一の井手」以下、芋焼酎、麦焼酎や粕漬けなどもやっています。酒蔵見学もやっているようですが、試飲とかならアンテナショップの満寿屋の方。こちらは市街地なので、お勧めです。
-
久家の大蔵も久家の関係。幕末に造られた古い蔵で造り酒屋の久家本店が使用していた貯蔵庫ですが、それをギャラリーとして開放しています。
-
青い陶板の壁画は、ロジェリオ・リベイロ氏の制作によるポルトガル風の壁画。
大友宗麟の流れということかな。 -
そして、この日は、うすき雛めぐりのひな人形がたくさん飾られていました。
-
これは、臼杵のうすき雛。和紙で作った折り紙のような人形で、江戸時代の天保の改革の頃、質素倹約のために、紙製のお雛様しか飾ることが許されていなかった時代があって、それを想像して誕生したのだそう。
-
イチオシ
一見素朴ですが、よく見ると和紙はどれも凝ったデザインだし、色彩も豊か。それを組み合わせる妙もあって、見慣れてくるとなかなか味わい深い。こういうオリジナリティは嫌いじゃないですね。
大分県のひな祭りだと日田が有名なんですが、日田は広瀬家が京都からお土産に買って帰った大木丸平のひな人形をやたらと自慢していましたが、そんなの借り物ですよね。やっぱり地域に即したその土地ならではのものでお祝いをするという方が好感が持てる。臼杵のうすき雛、とってもいいと思います。 -
この辺りからは、臼杵市街の中心部。見どころが多くなってきます。
こちら野上弥生子文学記念館は、実家である小手川酒造の一部を改修した施設。 -
野上弥生子は、昭和39年、「秀吉と利休」で女流文学賞を受賞。昭和46年には文化勲章を受章するという超一流の文学者。夏目漱石を師とする夫を持つという幸運もあったようですが、基本は持って生まれた才能。臼杵の造り酒屋から大変な人物が出たものです。
-
隣りは実家の小手川酒造。安政2年(1855年)の創業という臼杵の老舗酒蔵。
-
白い漆喰の壁の堂々とした店構えが迫力満点です。
-
ただ、それにもまして、文化勲章を受章した野上弥生子の生家というのが素晴らしい。ちょっと突然変異のような感じもしないではないですが、それも歴史のなせる業かな。城下町、臼杵の誇りともなっているでしょう。
-
街の一角にある臼杵八坂神社は、臼杵の祇園さま。臼杵市街地のこんな中心部にあるんですが、千年以上の歴史を持つ古社のよう。石造りの鳥居から
-
本殿などこじんまりはしていますが落ち着いた雰囲気があって、さすがという感じ。家内安全、安産祈願、商売繁盛などを願います。
-
ここから武家屋敷の方も訪ねます。
旧平井家住宅は、安政6年(1859)に建てられた上級武家の屋敷。 -
稲葉家下屋敷の敷地の奥というか敷地の続きといった場所。
ただ、入り口を間違えたみたいで、これは庭の方。 -
邸内を見ながら
-
回り込んで
-
これが入口ですね。
ここから自由に上がって見学できるよう。 -
客用の表玄関と家人用の内玄関が分かれていたり、
-
広い部屋がいくつもあって、武家屋敷としてはほとんど最上級のものではないかと思います。
-
で、すぐ隣りのこちらは旧臼杵藩主稲葉家下屋敷。
-
イチオシ
これも裏から入ってしまったよう。
-
優雅なお庭を先に確認しておきますか。
-
芝生のお庭ですけど、明治のお庭は小川治兵衛なんかもそうですが、こういう芝生の形式が多いですよね。
-
もしかしたら
当時の流行を敏感に感じて、取り入れたような気もします。 -
庭をさらに大きくして広大さを強調することもできたと思いますが、これくらいがまあほどほど。
家屋と庭のバランスはとてもいいと思います。 -
ここが玄関ですね。
-
門の方も確認して
-
では、邸内に入りますよ~
-
ちらりと雛飾りなんかもあって、いい感じ。
-
また、日本間のゆったり感はそこかしこ。
-
至る所に感じられて、ゆったり感と静謐な落ち着きがこれも程よい加減です。
-
ちなみに、この建物は、廃藩置県後、東京に居を移した稲葉家の里帰り用の住宅として、明治35年に建てられたもの。武家屋敷としての雰囲気はありますが、旧藩主だけにこの風格は抜群ですね。
それにもしかしてですが、施主のセンスも悪くなかったのかも。というのも、どんなに腕のいい大工や造園師でも、やっぱり任せっきりではいいものはできません。施主が全体に目配りしないとダメなんですよね。 -
例えば岡崎の旧本多邸とか、センスの悪い旧藩主家の建物もありますからねえ。
-
臼杵の稲葉家。これだけのものをちゃんと作れるのは、やっぱり何かを持っているのかな。
-
なかなかやってくれていると思います。
-
そろそろ昼飯かな~
臼杵はふぐが名物ということでしたが、予約が基本のよう。予約はしていませんでしたが、どこか食べれるところはないか探してこちらの山庵でなんとかいただけることになりました。 -
大広間に通してもらって、一人でふぐのミニコース。
-
イチオシ
てっさに
-
天ぷら
-
鍋なんかも一通り。
ちゃんとトラフグだし、それぞれがおいしくてリッチな気分になりました。臼杵のふぐは手軽で価値あり。是非お勧めです。 -
ここからは後半。八町大路や二王座界隈を歩きます。
まずは臼杵市観光交流プラザへ。臼杵城に臨む臼杵市街の中心部。今朝、臼杵石仏行のバスに乗ったバス停のすぐ横です。 -
単なる観光案内だけでなく、
-
稲葉家と春日局の関係や
-
野津地域に伝わる民話吉四六さんなど
-
臼杵のあれこれを紹介するパネル展示も充実していて、臼杵のビジターセンター的な施設ですね。
意外なところだと吉四六さんが懐かしい。とんち話の吉四六さんって、それなりに有名だと思うんですが、今では耳にすることもなくなったような。とんち話なら、私的には一休さんより吉四六さんなんですけどね。 -
ほか、館内には臼杵のうすき雛もたくさん飾られていました。
-
八町大路にやってきました。
この通りは、石畳の一直線の道が300mほど続く大通りで、中央通り商店街という商店街となっています。 -
慶長5年創業の鑰屋(かざりや)などレトロ感がいっぱいのお店が軒を連ねていて、
-
映画のセットにでもなりそうな感じ。楽しい街並みです。
-
八町大路の中ほどに建つ南蛮文化を思わせる洋風建物は、サーラ デ うすき。
-
イチオシ
臼杵は大友宗麟がポルトガルの宣教師を招き、キリスト教関係の施設もたくさんあったという歴史がある街ですからね。
南蛮文化の関係の説明パネルがあったり、この南蛮図屏風は迫力があるし、 -
大友宗麟の関係もしっかりとした内容。
-
イチオシ
この日はホールで音楽イベントも行われていて、街の賑わいの中核となっていることも窺われました。
-
八町大路から二王座に向かいますが、少し回り道をして、これは荘田平五郎記念子ども図書館。
東京海上火災保険、明治生命保険、キリンビールなどを設立し三菱の最高幹部だった臼杵市出身の実業家、荘田平五郎が大正時代に寄贈した木造の建物。外観は立派ですが、個人住宅ではないし、お寺でもないし、学校でもないしなあみたいな建物です。中を覗くと人がたくさんいて、図書関係のポップも賑やか。しっかり活用されて、活気がありました。 -
二王座歴史の道です。
この道は、阿蘇山の火山灰が固まってできた凝灰岩の丘を削ってできた道。ゆるやかにアップダウンする沿道には、いくつものお寺が軒を並べていて、城下町の寺町の風情が漂います。臼杵観光ではここも定番のひとつですね。
島津軍との臼杵城攻防戦の際は、ここも戦場になったという場所です。 -
善正寺は、慶長7年(1602年)の創建。浄土真宗のお寺で、表通りに面した山門は鐘楼門。
門前には駒札があって、開基の願了法師は美濃から臼杵に来たとかかなり詳しい歴史が書かれていました。 -
イチオシ
善法寺は、建武元年(1334年)の創建。これも浄土真宗のお寺です。二重屋根の山門がこれも通りによく映えています。
-
駒札があって、詳しい歴史が書かれていて、近江出身で宇多源氏の一族、佐々木氏の流れをくむ釈廓玄という人物が開基。寺を建ててから善法と名乗ったということです。
-
奥に進むと通りは切通しになっています。
-
法音寺は、その手前を右に入って行って、少し奥まったところに建つ日蓮宗のお寺。
-
臼杵3代藩主、稲葉一通が細川忠興と細川ガラシャの間に生まれた娘、多羅姫を正室に迎えるにあたり、その菩提寺として創建。
-
入口の門は仁王門かと思いましたが、安置されているのは仁王像ではなくて四天王像かな。
-
青い彩色や金を使った装飾が独特です。
-
藩主ゆかりの寺だけに、構えはやはり重厚です。
-
通りをさらに進んで
-
旧真光寺は、二王座歴史の道のちょうど切通しの辺り。廃寺となった寺の建物を改修して、開放している施設です。
-
こちらが建物の入口。
-
ちょうどひな祭りの時期だったので、
玄関の土間には、さっそくひな人形。 -
イチオシ
ただ、圧巻は建物に上がった奥の方。
臼杵のうすき雛が部屋いっぱいに飾られていてとても見事。 -
それに、ここはこうしたイベントの会場として使うのにもぴったり。
流れを感じる展示方法も臼杵のうすき雛ならではかな。 -
休憩がてら
-
イチオシ
しばらくゆっくりさせてもらいました。
-
再び、通りに出て
これが二王座歴史の道の切り通し。 -
直良信夫生家跡は、その切通しを少し越えたあたり。
-
日本の考古学史上初めて日本列島に住んでいた明石原人の骨を発見した人物だそう。昭和6年、明石の西八木海岸で発見とありますが、残念ながら、今ではそれが原人であるというのは否定する見解の方が有力となっているよう。
ただ、日本列島に旧石器時代があったという視点を持っていたのは慧眼。出アフリカを果たしたホモサピエンスが4万年くらい前に日本列島にやってきて残した遺跡がその後いくつか発見されて、今では縄文時代の前に旧石器時代があったことは明らか。当時は旧石器時代の存在は否定されていたようですからね。 -
二王座の寺町は、もう少し先まで続きます。
見星禅寺は、寛永11年(1634年)、臼杵藩主、稲葉一通が駿府臨済宗より一翁東二禅師を招き創建した寺。入口の鐘楼門にちょっと威厳がありますね。 -
本堂は工事中。境内には一言地蔵と呼ばれる隠れキリシタン時代のマリア観音があるはずでしたが、よく分かりませんでした。
-
その少し先は香林寺。この辺りはもう二王座の東端。慶安2~3年(1649年~1650年)に創建された臨済宗妙心寺派のお寺です。
-
しっかりした石垣に囲まれた境内へ続く石段はどうかするとお城のようながっちりした造り。そこに延びる枝垂れ桜の感じも悪くないですね。ただ、本堂の建物はけっこう簡素です。
-
多福寺は、少し山の方に上っていきます。
-
臼杵藩主、稲葉家の菩提寺は近くにある月桂寺とこの多福寺ですが、こちらは慶長6年(1601年)、臼杵3代藩主、稲葉一通が先ほど触れた多羅姫の死をいたみ、その居宅に建てたというお寺。山門から鐘楼、
-
スケールの大きな本堂が高台に無造作に建っていて、藩主家の菩提寺という雰囲気はあまりないように感じました。
なお、月桂寺も訪ねてみましたが、拝観は固くお断りとなっていて、境内にも入れませんでした。 -
二王座から、最後は武家屋敷をもうひとつ。旧丸毛家屋敷を訪ねます。
こちらの武家屋敷、丸毛家は200石の身分。もともとは、美濃国にあって、明智光秀の家臣である斎藤家の一族。明智光秀が山崎の戦いで敗れると流浪の身となりますが、臼杵3代目藩主、稲葉一通の遠縁であったことから家臣に取り立てられたという経緯のよう。 -
屋敷の保存状態はかなりよくて、
-
それぞれの部屋もこのまま住めそうなくらいきれいです。
-
表の座敷から縁側、庭の眺め等は品がいいし、
-
それなりに余裕のあった暮らしぶりだったことが偲ばれました。
稲葉家下屋敷や上級武士の旧平井家住宅は別格としても、臼杵藩はそれなりに裕福だったんでしょうか。田舎臭いところや貧乏くさいところが全然なくて、爽やかな印象すら残りました。 -
臼杵はこれでおしまい。臼杵駅から今夜の宿、別府に向かいます。
臼杵駅構内には、小さな観光案内所、臼杵駅観光案内所がありました。おばちゃんが一人で切り盛りしていますが、臼杵のことだけじゃなくてその他大分県内のこともそれなりに話が通じます。やっぱり観光案内をする人はいろんなことに興味を持つ人じゃないとだめですよね。いい人がいて、けっこう時間つぶしができました。
さて、臼杵駅から別府駅までは各駅で約1時間。早めに着いたら、また共同温泉巡りでもしたいと思います。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
この旅行記へのコメント (2)
-
- salsaladyさん 2024/01/25 10:19:06
- 臼杵城~大友宗麟の築城?
- ☆大分を離れて半世紀ですが、高校時代に音楽部の顧問(フルート奏者)が臼杵から通われていたので、臼杵石仏の全然整備されていないあぜ道をのんびり歩いてみたことがあります。
☆あの大日如来(首だけが飾られていたのに、誰かの仕業で北海道まで運ばれ?)が再び臼杵に戻ることが出来たのは何時だったかしら❓今は首の下の身体迄再現されているのが可笑しく思えます。他の像もつい首のあたりの不自然さに眼が行くのは習慣かな~
☆大友宗麟が大分を納めていたことは歴史にも出てきますが、臼杵との関りがこんなに深いとは?お釈迦様でもご存じないかも~知らぬは地元民ばかりなんて~
☆ひたすら懐かしい地を思い出す記述に隣の佐伯市にはグローブのK子さんの御実家があって一時小室氏が寄宿していたなんて下世話な話も思い起しました。~see you~
- たびたびさん からの返信 2024/01/25 22:57:52
- RE: 臼杵城~大友宗麟の築城?
- いろいろとコメントいただきありがとうございます。
大日如来の首のあたりの不自然さは、私もちょっと感じました。一度は胴体と離れていたそうですからね。奈良に秋篠寺の技芸天というのがありまして、これも後世に頭と胴体をくっつけたというものなんですが、そのちょっとした不自然さが逆に何か含みを持ったような神々しさになっていて、思わず目を見張りました。臼杵石仏を見ていた時、そんなことも思い出していましたが、仏像はいろんな縁とか歴史を重ねていくもの。そして、それを感じる人がまた思いを重ねていく。重なって重なってが面白いところですからね。ちょっとした引っかかりも大いに結構なことだと思います。
あと、グローブのKEIKOさんが大分なのは私も知っていましたが、佐伯でしたか。ずいぶん前のことですけど、国木田独歩館を訪ねて、フェリーで宿毛まで渡ったことがあります。なんでそんなことをしたのか。ちょっと意味不明なんですけどね。
ちょっととりとめがないですが、今後ともよろしくお願いします。
たびたび
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
たびたびさんの関連旅行記
この旅行で行ったスポット
もっと見る
この旅行で行ったグルメ・レストラン
臼杵・津久見(大分) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
2
168