2022/12/11 - 2022/12/11
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たびたびさん
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今回の「宇佐・国東半島から別府・大分の旅」は7日間の旅。大分県は、温泉地別府を始め、福沢諭吉の中津や天領の街、日田とか何度も行ってはいるのですが、どうも部分部分の印象。大分県としての全体像がなかなか出来てこないんですよね。そういう意味だと九州では一番分かっていない県。当初の旅行記(https://4travel.jp/travelogue/10785635)から”不思議の国”のイメージがなかなか抜けません。
ところで、大分県の県民性には赤猫根性というものがあります。「ずるがしこくて計算高く、偏狭」とか、「ケチでがめつく利己的で協調性がない」とかけっこうひどい意味で使われます。八藩七領に分かれて、お互いにいがみ合ったり、足を引っ張り合ってきたことからそうなったとか言われているのですが、少なくとも、江戸期、大藩があったことでそれが県のアイデンティティになっている例が多い九州にあっては、少なくとも大分はやや特殊な状況だったのはその通りなのかなと思います。昭和54年、平松知事が音頭を取って一村一品運動が盛り上がったのも記憶に残っていますが、案外、それぞれの地域がそれぞれに頑張るという変に横の連携とかを強いなかったことも地域毎の独立心が旺盛な県民性にはあっていたのかもしれませんね。ただ、そうした歴史は直接的には大友宗麟の嫡男で、大友氏の第22代当主、大友義統が原因。義統は、朝鮮出兵、文禄の役で小西行長を救出すべきところ誤報で戦線を離脱するという大失態をしたことで秀吉の逆鱗に触れ改易となってしまったんですね。秀吉の九州平定が間に合いなんとか島津氏の侵攻を逃れ生き延びた大友氏でしたが、37万石は消滅して細かく分割されることになりました。これでは大友氏が大分県のアイデンティティとはなりにくいでしょうね。
つまり、大友氏のアイデンティティも限界があって赤猫根性からの連想だと例えばモザイクのような世界にしかならないのですが、それでもベーシックな風土や地域性はそれなりに育まれてきているはず。今回の旅では改めてそうしたところを少しでも探ってみたいと思います。
さて、初日のコースは宇佐神宮が中心と考えていましたが、そういう意味では、むしろ、今回の旅全体のいいイントロになったのは大分県立歴史博物館。川部・高森古墳群のある遺跡公園、宇佐風土記の丘の中心施設で、縄文時代から弥生時代以降、特に古墳時代について周辺の古墳から出土した銅鏡や広形銅矛などを豊富に展示する一方で、大分県の歴史と文化を概観する中、宇佐神宮や国東半島の神仏習合の仏教文化のコーナーもかなり充実。八幡神の起源についてはやや謎に包まれた感がなくもないですが、影響力を持つに至った背景や六郷満山の成り立ちを段階を追って解説したり、これならまずまず。宇佐神宮と六郷満山は豊後国の文化の背骨に相当する存在として位置づけられていて、それなりに納得できるし、翌日の国東半島の旅への期待も膨らみました。また、展示室の中央には国宝、富貴寺大堂の実物大模型があって、プロジェクションマッピングのデモンストレーションも意外に楽しめました。
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小倉駅から日豊線の特急ソニックで南下。宇佐駅の前、柳ヶ浦駅で下車して、変則ですがここから宇佐観光を始めます。
柳ヶ浦駅からまず歩いて向かったのは東光寺。 -
見どころの石仏の五百羅漢は、この本堂の裏手ですね。
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なるほどー。
お堂の建つ小さな山の斜面に石像がびっしりと並んでいますが、これは寺の住職が干害に苦しむ農民のためにと思い立ったもの。 -
24年間をかけて521体の羅漢像を完成させたということです。ただ、出来としては、まあ、そこそこかな。そこまで目立った個性も感じられないような気がします。
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隣りには十六羅漢も。
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こちらは数が少ないので、もう少し個性がくっきりしています。
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東光寺からさらに歩いて、これは宇佐空の郷。
知りませんでしたが、宇佐には戦前、宇佐海軍航空隊という航空母艦に搭載する艦上爆撃機・艦上攻撃機の搭乗員の延長教育の機関があったんですね。 -
中に入ると正面には航空隊の正門の遺構。いったん埋められていたもののようです。
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ちなみに、この航空隊は海軍の航空隊としては国内最大の規模。九州では知覧の航空隊が有名ですが、そちらは陸軍の航空隊です。いずれも終戦末期の沖縄戦では特攻部隊が編成されたのですが、こちらでは、直接、空襲にもあっている遺構が市内のあちこちに残っていて、そのエリアの一角に建てられたのがこの施設。建物は宇佐海軍航空隊の司令部庁舎をモチーフとしたデザイン。パネル展示では、宇佐海軍航空隊の説明や周辺の戦争遺構巡りを紹介しています。
ところで、後日、特攻のことを少し調べると出撃機とか戦死者の数は海軍と陸軍は同じくらい。全体では3300機とか4000人とかの数字もあって、なかなか重たい歴史です。
記憶を風化させないことは大事ですが、ただ、一方で、そうした事実をどう受け止めればいいのかは意外に難しいところ。隊員は国を守った英雄には違いないのですが、大きく見れば戦争の犠牲者でもあって単純な美化も違うように思います。反面、ウクライナのように侵略を受ければ武器を取る行為は避けられないこと。しかし、やはり戦争はしてはならないものだし、侵略戦争かそうでないかとかはある面曖昧で、たぶん、今でも太平洋戦争の総括をしようとするとあれは侵略戦争ではなかったとする人もいなくはないですね。そういう意味では、歴史を正しく認識することが戦争を二度と起こさないことにつながるというのは実際には意外と簡単ではない。韓国の歴史問題の主張も一見正しいようですが、やはりそういうことではない。戦争にはいろんな側面があって、解釈を一致させようとすると逆に分断が起きたりすることになる。戦後の日本は平和が大事であると言い続けることを選択しましたが、私はそれこそが真実なのではないかと思います。 -
せっかくなので、予定はしていませんでしたが、宇佐空の郷の近くの戦争遺構をいくつか回ることに。
これは、宇佐海軍航空隊落下傘整備所。落下傘に関係していたレンガ造りの建物ですが、 -
外壁には米軍機による機銃掃射の痕がいくつも残っていてけっこう生々しい。この痕からするとその衝撃は相当のものですね。恐ろしさを実感できると思います。
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少し歩いて、展望所が設置されたあれが爆弾池ですね。
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爆弾池は、1945年4月21日、米軍のB29が襲来し投下した爆弾の痕。直径10mほどの穴が見通しのいいたんぼの中にぽつんと残っています。
この日の空襲では29機のB29が飛来。500ポンドの爆弾を500発以上投下したということですから、実際には穴だらけになっていたのでしょう。航空隊関係者だけで300人以上が亡くなったのだそうです。 -
戦争遺構からは、またしばらく歩いて宇佐風土記の丘へ。
最初に目に入ったのは免ヶ平古墳。宇佐風土記の丘の南西角にあって、4世紀後半の築造。同じ宇佐風土記の丘では最古の古墳、赤塚古墳の次の古墳です。
一見、現状では直径30.5m、高さ4mの円墳ですが、もともとは前方後円墳だったようですから、ヤマト政権との関係は深いですね。発掘された副葬品は斜縁二神二獣鏡、三角縁三神三獣鏡や硬玉製勾玉、鉄剣などと豊富です。 -
周囲を見渡すと宇佐風土記の丘はこんな感じ。けっこう広い。ここに九州最古の前方後円墳である赤塚古墳以下、さきほどの免ヶ平古墳や福勝寺古墳、車坂古墳、角房古墳、鶴見古墳の6基の前方後円墳からなる川部・高森古墳群があるので、これからチェックしてみましょう。
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ほか、公園内には宇佐国造が登場する日本書紀の一節が紹介されたりして、この辺りが比較的早くから開かれた土地であったことも強調されていました。
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古墳チェックの続きで。
福勝寺古墳は、宇佐風土記の丘の西側。全長78mの前方後円墳で、風土記の丘では最大。大分県では4番目の大きさ。5世紀前半の築造と推定されています。
外観では他の古墳と比べるとちょっと荒れている感じ。副葬品の調査とかもまだ行われていないようです。 -
少し移動して。
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角房古墳は、全長46m、後円部径約30m、前方部幅約18m。これも前方後円墳ですが、お饅頭のような墳丘部が外観としては特徴的。福勝寺古墳、車坂古墳についで築造されたと推定されるということです。
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車坂古墳は、宇佐風土記の丘の北西側。全長58mの前方後円墳。5世紀に福勝寺古墳に次いで築造されたものと推定されています。森の中に隠れているので、全体の姿はよく分かりません。ほか、近くに車坂東1号墳・2号墳というのがあって、小さな石室が見られました。
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赤塚古墳は、大分県立歴史博物館の正面広場。芝生の広場の中にしっかりと保存されています。
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イチオシ
全長約57.5mの前方後円墳で、3世紀末頃の築造と県内では最古級。銅鏡5面(三角縁神獣鏡など)や玉類、鉄製品などが出土し、国指定史跡。宇佐風土記の丘の古墳群を代表する古墳です。
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で、いよいよ
これが大分県立歴史博物館。 -
入ってすぐのホールには巨大な極彩色の仏像。
大分県の歴史の入り口は仏教文化ということですね。 -
右手通路のこの先が展示室。
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通路沿いには鏝絵がいくつもあって、
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安心院鏝絵ですね。
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宇佐市は、この宇佐風土記の丘も含めた宇佐神宮周辺、門前町の四日市とこの安心院の地区の三か所が観光の見どころ。今回は、安心院は無理なので外しましたが、こんなところでその一端を拝見することができました。
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展示室に入ると正面には富貴寺大堂の実物大。
富貴寺は六郷満山65か寺の一つ。大堂は、九州に残る和様の平安建築として、国宝に指定されていますからね。 -
イチオシ
中はこんなことになっているんですね。
浄土の世界は、平泉の金色堂を連想してしまいます。 -
周囲の展示を反時計回りに見ていきます。
縄文時代から始まって、「いのり」が切り口。 -
土偶ではないですが、この土人形にも祈りの気持ちが込められているのかな。
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弥生人のいのり
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地域ごとにかなりの特徴がありますが
銅鐸も銅矛も祭器ですから、確かに「いのり」。 -
九州独特の広形銅矛も武器ではないでしょう。
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古墳時代のいのり
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九州に多い装飾古墳。
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こちらは先ほど触れた赤塚古墳から発掘された銅鏡(レプリカ)です。
古墳は権力者がその力を示すものという一方で、その後、寺が建てられ始めると造られなくなりました。ここから推測して、寺は古墳のある役割を継承したからという説があるよう。それは滅ぼした他者への追悼や鎮魂といった役割。弥生時代や古墳時代は意外に戦乱の時代だったこともあるし、これも「いのり」で受け止められることかもしれません。 -
豊の信仰風土
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「750年前後の世界」と題して、世界の宗教地図をしています。
ちょっと途方もないような気がしなくもないですが、隋や唐の時代は国際交流が一気に盛んになった時代。直接的なものばかりでなくても、朝鮮半島や中国から何が入ってきてもおかしくなかったような気もします。 -
大きな動きとしては、仏教が入り国家の主導で大寺が作られた流れでしょうが、たぶんそれだけではない。道教やヒンズー教、当時あった原始的な宗教などなど。人の流れもあったりして、意外なものが入ってきている可能性は十分あって、
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八幡神の成立も
まず八幡神の出現そのものにはっきりしない面があるし、もしかしたら、これも海外から何かの影響を受けたものかもしれません。
ただ、その存在が確立したのは、隼人の乱や藤原広嗣の乱でその鎮圧に功績があったからというのは面白いですね。後世の道鏡事件の顛末にも続いているように思います。 -
そして、八幡神は石清水八幡宮、鶴岡八幡宮へ。武家の神様として尊崇を集めていくことになります。
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八幡神と神仏習合
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六郷山の成立と広がり
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山岳寺院の発達
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六郷満山では、鬼は仏の化身とされ、独特の存在になる。無病息災を祈る修正鬼会で使われる鬼面です。
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イチオシ
臼杵の石仏もこうしたカオスの仏教文化の流れをベースにしたもの。
改めてですが、北九州から奈良に向かう瀬戸内海の入り口にある国東半島ですから、古来から意図せぬ人や物の出会いがあって、それが山深い地域の中で独特の変容を遂げる。もしかしたら、日本全体のあちこちでそうしたことは起きていたのかもしれませんが、少なくとも宇佐や国東半島にはその過程が比較的よくとどめられていて、かつ、中央へもそれなりの影響を与えてきたという事実。全体を通じて、そうした視点による整理なのかな。なかなか切り込んだチャレンジのような気がします。 -
そうこうしているうちに
富貴寺大堂のプロジェクションマッピングが始まりましたよ~ -
人々の暮らしの中に根付いた六郷満山の仏教文化。
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八幡信仰と仏教が融合する神仏習合は独特だったかもしれませんが
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世の中の安寧を求める願いは同じ。
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イチオシ
神道に不足する部分があれば
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それを仏教から柔軟に受け入れていくのは
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むしろ日本では自然なことだったのかも。
神と仏は同じから、鬼も仏の化身とかにしても
そもそも本覚思想では人と仏は同じ。生死不二。諸法実相。いろんなところで一元論は得意ですからね。 -
であるがゆえに広く浸透していったのだと思います。
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つまり、宇佐や国東半島が独特なのではない。こうした流れがあちこちで起きるのが日本であるという理解の方がむしろ合っているのかもしれませんけどね。多様性を受け入れ、それとうまく付き合っていく文化。いいんじゃないでしょうか。
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大分県立歴史博物館から
またまた歩いて、今夜の宿の宇佐ホテルリバーサイドへ。
ここで自転車を借りて、後半の四日市と宇佐神宮に向かいます。 -
まずは、四日市の方へ。
宇佐市平和資料館は、四日市の市街地にも近い辺り。こちらも宇佐海軍航空隊の記憶をとどめる施設です。 -
イチオシ
入ってすぐの中央には実物大の零戦21型機。
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想像していたよりもずっと大きいですね。
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特別攻撃隊の関係では桜花一一型。いわば人間ミサイル。これに乗り込んで1.2tの爆弾ごと敵艦に体当たりするというもの。飛行機ならマンに一つ生還の可能性がありますが、これは100%なし。しかし、破壊力をどこまでも優先した設計と言いつつ翼はべニア板だそうで、もうめちゃくちゃな代物ですが、そんなものまで展示されていました。
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四日市の市街に入ります。
宇佐市ではこの辺りが一番栄えている感じですね。 -
で、四日市には東西の本願寺の別院・御坊が揃ってあるという珍しい場所。これはその片方の西本願寺四日市別院。
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こちらは本堂。1859年に建てられた九州最大の木造建築。メインストリートから入ってすぐの境内にその雄姿を見せています。
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そのはす向かいは、桜岡神社。
筑後守渡辺光が旧居城の肥前国松浦郡鬼子嶽城から蛭子宮を移したのが始まり。その社殿が焼失したため、この地に改めて神社を造営。横長の堂々とした社殿で、境内の広さも含めて、この地域の鎮守といった存在かと思います。 -
これも近くの陣屋門跡。天領の四日市代官陣屋跡の正門です。
四日市は、江戸時代に入り、黒田、細川、小笠原の領地だったのに続き、その後は天領となり代官所が置かれたのですね。また、天草代官所支配から日田代官所支配へ。いかにも八藩七領があった大分の歴史の一端です。 -
十宝山大乗院は四日市の市街を見下ろす高台。寺にまっすぐ上がっていく石段は急こう配で長いです。鬼のミイラで知られているというちょっと変わったお寺。
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ただ、上がったところにある本堂とかは一般住宅に毛が生えたくらいのちょこっとしたもの。始めの予想からするとちょっと気が抜けました。
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少し進んで気が付くと民家の裏山の方にいっぱい穴が見えました。これは四日市横穴群という古墳時代後期の遺跡で国の史跡。埋葬者の階層が拡大したことから、数十から数百の墳墓が一か所に集まった群集墳が造られるようになったのですね。お墓のアパートということでしょう。
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イチオシ
東本願寺の別院のシンボルは山門。戦国時代、四日市の豪族、渡辺統綱が本願寺11世顕如の弟子となり、当地に庵を結んだのが始まり。
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山門や本堂ともに堂々とした構え。さすが浄土真宗といった威容です。
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四日市の市街から、最後は宇佐神宮です。かなり以前に来ていますが、もうあんまり記憶はないですね~
宇佐神宮に向かう勅使街道沿いに入って、これは化粧井戸。
古びた石造りの井戸で三つ並んでいます。かつて、祭礼の準備のため、木製の傀儡子(くぐつ)という人形を洗い、着物を着せるなどした場所。ここで化粧を終えた傀儡子は勅使街道を下り、これから行く百体神社に運ばれ、隼人の霊を鎮めるための演目に使われたのだそうです。 -
少し進んで、これは凶首塚古墳。6世紀後半から7世紀初頭に造られたとされる古墳。盛り土はすべてなくなっていて、石室を構成していた石組がすべてむき出している状態です。宇佐地域の豪族の長の墓ということのようですが、石組は隙間が多いし、あまり技術的なところでは評価できないのではないかと思います。
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宇佐神宮までまっすぐ続く宇佐勅使街道です。こちらは、京都から宇佐宮へ参向する勅使が通った道。鷹居八幡神社、百体神社から宇佐八幡宮に向かって緩やかに下りながらまっすぐに向かって呉橋に至ります。それなりに横幅もあるし滑らかな石畳が続く景観も見事。特別な道であるという雰囲気がすごいですね。
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で、これが百体神社。
この神社は、先ほども少し触れましたが、大和朝廷に征服された南九州の豪族である隼人の魂をなだめるため、奈良時代に創建されたという神社。 -
討ち取った隼人軍の百個の首を持ち帰りこの地に埋葬したというのもなかなかえぐい話です。
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宇佐勅使街道で呉橋に到着。
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この橋は、鎌倉時代以前からある神橋。檜皮葺の唐様の屋根が付いた朱塗りの建物はあまり見たことがない不思議な感覚。
今は工事中でしたが、もともと10年に一度の勅使祭の時だけ扉が開かれるようです。 -
呉橋から寄藻川沿いに少し北に進むと小山田記念公園。
地元の名家、小山田家の屋敷跡地を宇佐神宮参拝客の休憩所として整備した公園。子供も遊べるようなコンクリートの滑り台や入口に夏目漱石が宇佐神宮を訪れて詠んだ句の石碑もあって、これもちょっとした見どころかと思います。 -
そのまま進んで、宇佐神宮仲見世通りに出ました。商店街はお土産物屋さんやお茶屋さん、食堂まであってそれなりに賑やかですね。
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仲見世通りの手前のところに観光案内所の宇佐市観光協会があります。宇佐神宮に来たからもう観光案内は要らないよとか思ってしまいがちなんですが、そうではない。宇佐の観光地は宇佐神宮だけではない。宇佐の中心市街は四日市だし、近くには大分県立歴史博物館や特攻の基地ともなった宇佐海軍航空隊に関連した戦争遺跡もいくつかあって、宇佐神宮に来たらぜひそちらの方も回ってもらいたいところ。観光協会を覗いて、その辺りの情報を確認してもらえればと思います。
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極楽寺は、その隣り。
かつては、宇佐神宮の境内にあったようですが、今はこんなところ。宇佐神宮との距離が微妙ですが、神仏習合で有名な宇佐神宮に関わる貴重な仏像等を多く伝えている寺だとか。
そういう意味だと弥勒堂にある弥勒仏坐像が見どころなのですが、ちょっとよく分かりませんでした。 -
改めて参道の方を眺めるとこんな感じ。左手には広い駐車場があります。ここでなんとなく、前回来た時を思い出しました。
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神宮茶屋は、宇佐神宮仲見世通りの一番宇佐神宮の入り口に近い場所。「宇佐神宮指定売店」の看板が誇らしげですね。
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参拝の前にここで甘酒をいただきましたが、ちょこっとショウガも入れてもらって、気分爽快。元気が出たところで宇佐神宮に向かいます。
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これは一の鳥居かな。
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イチオシ
宇佐参宮線26号蒸気機関車は、宇佐神宮仲見世通りから鳥居をくぐって神橋の方に向かった参道左手。公園のような一角に保存設置されています。
宇佐参宮線は、大正5年から昭和40年まで走っていた路線。その路線で、昭和23年から主役として活躍していたよう。ドイツ製の機関車で、どっしりとして美しい姿です。 -
神橋を渡って、
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すぐの黒男神社。宇佐神宮の境内摂社ですが、ここはまだ大鳥居の中には入っていませんね。
祭神は武内宿禰。景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の五代の天皇と応神天皇の母である神功皇后に仕えた忠臣です。ただ、実在が確認できない天皇も含まれますから、武内宿禰の存在もやや曖昧かもしれません。 -
大鳥居をくぐって
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すぐ右手が宇佐神宮宝物館。まだ新しくて近代的な建物。神社の宝物館だと古くさいものが多かったりしますが、ここの展示品は保存状態がいいものばかりで美術館みたいな雰囲気ですね。目玉の国宝、孔雀文磬も少し小ぶりですけどピカピカ。古さを全然感じない宝物でした。
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ここからは、本殿に向かう前に大尾神社の方に向かいます。
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ちょこっと寄るつもりが、あらら。
これはけっこう山の方に上りますよ~ -
イチオシ
和気清麻呂は、道教事件を収めた立役者。大きな碑が建っていますが、まあ当然の功労者ですね。
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大尾神社は、宇佐神宮の東側、大尾山に鎮座する神社。ここまで、なかなかきついです。
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神社は、宇佐神宮の主祭神、八幡大神の分霊を祀っていて、道鏡事件ではここに八幡大神が現れ「皇位は皇室の血を引く者のみ継がれるべき」と宣うたという神聖な場所だとか。
なお、塀の門は鍵がかかっているようにも見えますが、自分で開けて中に入れるので是非どうぞ。 -
なんか道を間違えてしまい、本殿に向かうはずが先に下宮の方に出てきました。
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これが下宮。本来は本殿から降りてきてここに参拝するのが順序です。
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順序が逆になりましたが、これが本殿に向かう参道下です。
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この石段を上がった先が本殿です。
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その途中にあるのが夫婦石。
富士山みたいな三角形の敷石が二つ並んでいて、それが夫婦石。寄り添うように並んでいるのですが、意図的にこうしたものなのか偶然なのかはよく分からないですね。ちょっと微妙です。 -
夫婦石のところから参道を左手に分かれて少し下りたところにある亀山神社。小さいですが、しゃんとした雰囲気がありますね。
祭神は大山積命で、八幡大神が鎮座する小椋山を守護する神様。名前の由来に関係しているのは「亀ト(きぼく)」という亀の甲羅を用いた占い。占いで使用した甲羅をここに埋めたとされています。 -
イチオシ
参道に戻ってきて、これは若宮神社。宇佐神宮の祭神、第15代天皇の応神天皇の子女、5柱を祀る神社。その中の大鷦鷯命は後の仁徳天皇。応神天皇にはもうひとり、莵道稚郎子命という息子がいたのですが、これは大鷦鷯命に天皇を譲るために川に身を投げた悲劇の人物。別途、春宮神社で祀られています。
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さて、本殿はもうこのすぐ先。
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はい、到着しましたね~
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イチオシ
これが宇佐神宮本殿。八幡造を代表する国宝の建物は、前殿、後殿という切妻造り平入の二つの建物を前後に連結させ、中間に1間の相の間を付けるというもの。ただ、本殿は楼門の奥に建っているので、あんまりよくは見えないですね。
やっぱり、目が行くのは正面の楼門。相手を威嚇するような雰囲気があって、武家に好まれたのも納得。石清水八幡宮とかも同じ雰囲気がありますよね。 -
八子神社は、上宮の建物の一部といった感じ。西回廊の端に「八子神社」の駒札が立っているので、やっとそれと分かりました。
隣りに立つ御神木の楠が神社の本体のようですが、宇佐神宮の八幡大神の八王子の神だとか。しかし、ちょっと分かりにくい位置づけです。 -
本殿の南側正面には、大元神社遙拝所。宇佐神宮の奥宮である大元神社を望む窓が開けてありました。覗くと山の向こうにはそれらしい山の尾根が見えますが、どこが大元神社なのかまではこれでは分かりませんね。どっちにしても立入禁止の場所なので、こうしてここから拝むしかないようです。
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本殿から石段を下りきって、
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これは春宮神社。春宮というのは皇太子のこと。宇佐神宮の祭神、八幡大神は第15代天皇の応神天皇を祀ったものですが、この神社には、その応神天皇の息子で皇太子とした莵道稚郎子命が祀られています。
ただ、莵道稚郎子命は兄の大鷦鷯命、後の仁徳天皇が天皇となるべきと考え、宇治川に身を投げたのだとか。そういう意味では悲劇にまつわる神社です。 -
本殿から下宮経由で降りてきて、絵馬堂から右手に入って行ったところが宇佐神宮庭園。
池の中央部に赤い橋げたの能楽堂が建っていて、周囲にはこれも赤いアーチ橋。潤いのあるエリアで周囲には散策道が巡っています。ただ、趣のある日本庭園ですが、何か歴史はあるんでしょうか。特に説明はないようです。 -
再び参道を春宮神社まで戻って、呉橋の方に少し歩くと 八坂神社 養蚕神社。
赤い塀に囲まれた中には小さな神社が一つ。二つの神社かと思ったら、外観としては一つですね。八坂神社はスサノオノミコト、養蚕神社はアマテラスオオミカミを祀ります。 -
そのすぐ先が弥靱寺跡。
宇佐神宮の境内にあった寺。天平10年(738年)に建立した金堂、講堂は聖武天皇の援助があってのものだったとか。以後、弥勒寺は長く神仏習合の歴史を象徴する存在だったんですけどね。現在は少し荒れた平地というくらい。往時の隆盛の名残はありません。 -
では、宇佐神宮の境内を出てもう一つ。
この大楽寺は、1333年、後醍醐天皇の勅願寺として、また宇佐宮大宮司、到津家の菩提寺として創建された真言宗の寺。 -
保有する弥勒仏三尊像、四天王像は国の重要文化財でもあるよう。ただ、山門の雰囲気はさすがという雰囲気ですが、境内に入って本堂を眺めた感じはイマイチ。あんまり威厳がないように見えて残念でした。
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これで、今日の予定は終了。
本当は、仲見世通りで晩飯にしたかったんですが、終わるのが早くて間に合わず。
もう一度、四日市の方に戻って。評価が高そうな炭火焼肉 梨洞というお店を調べて訪ねました。 -
かなり混みあっていて、それに私は一人だし。持ち帰りのお弁当にしました。ホテルの部屋でいただいて、やっと息をつきました。お弁当の方は、なにげにグッド。肉がしっかりしていて、人気店があるのは納得です。
明日はレンタカーで国東半島を巡ります。
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