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旅の五日目の今日は、別府を離れて杵築と日出を回ります。大分県内の市でいうと杵築市と津久見市は行ったことがないのですが、津久見市はどう考えても興味がわかないので、実質的には杵築市が最後のピース。杵築の中心部へは杵築駅からバスになるというアクセスの悪さもあって、これまでなかなか踏ん切りがつかなかったんですよね。<br /><br />そういうこともあって、杵築は城下町だということくらいしか知識はありませんでしたが、今回事前に調べてみると全然それだけではないですね。<br />まずは、例によって杵築藩のことですが、杵築藩の祖は小倉藩三代藩主、小笠原忠真の弟、小笠原忠知。加藤清正の三男、加藤忠広の代となっていた熊本藩が改易になるとその後に入封したのは小倉藩の細川氏。その小倉藩の後に播磨明石藩から移封されたのが小笠原忠真。杵築に忠知が封じられたのもこの時です。ただ、忠知は島原の乱への出陣等で功をあげ三河国吉田藩に加増転封。代わって、入ったのが能見松平家の松平英親。以降は幕末まで、この能見松平家は存続することとなります。ただ、松平英親の父、松平重直も忠知と同じく、小笠原忠真の弟。小笠原家から能見松平家へ養子で入って松平重直となったという関係なので、小倉の小笠原家とは引き続き、血縁の関係が続きます。ところで、そもそも小笠原家のことですが、もともとは信濃の守護だった家柄。しかし、武田信玄にその地を追われ、再興を目論んで家康に近づいたのが小笠原忠真の父、秀政。その後、秀吉の対家康政略の一環もあって、家康の嫡男、信康の長女、登久姫を娶ることに。ただ、大坂夏の陣では激戦の天王寺岡山の戦いで家康のひ孫でもあった長男忠脩とともに討ち死。しかし、このことは家康への大きな忠義の証となる。小笠原家が徳川幕府の九州対策の要となって小倉入りしたのは、堂々たる血縁と実績があったうえでのことなのですね。つまり、松平氏の庶流、能見松平家であり、そうした小笠原家にもつながる杵築藩。幕末まで、波風が立たなかったのも頷けるような気がします。<br /><br />少し長くなりましたが、二つ目のポイントは城下町の地形です。武家屋敷が並ぶのは北台と南台という二つの馬の背のような丘の上であり、町人の住むのはそのふもと。ということで、その二つの馬の背を結ぶ坂がいくつもあって、番所の坂、酢屋の坂、飴屋の坂、志保屋の坂に岩鼻の坂、勘定場の坂などなど。今でも地元の人が普通に往来する坂であり、そのアップダウンの眺めは、ほかに比較するものがないくらい独特です。街の近代化は平地の方で進められ、武家屋敷が継承された台地の方はそうした開発が及ばなかっただけとも考えられますが、結果的には貴重な歴史の遺産が残ったいう評価もできるのではないかと思います。<br /><br />そして、後半は日出。豊臣秀吉の正室、ねねの兄、木下家定の三男である木下延俊を祖とする日出藩の城下町。なお、同じ木下家の系譜だと岡山に木下家定の二男である木下利房を祖とする足守藩もあって、ともに幕末まで存続しています。杵築藩の4万石に対して日出藩は2万5千石。少し小さいですが、海に臨んだ城跡とかを拝見すると2万5千石にしては石垣とかなかなか雄大な構え。跡には中学校や小学校が建っていたり、周囲もかなりよく整備されて城下町の面影が濃いですね。有名な城下かれいや的山荘もちょっとハイクラスの文化的な香りがして、これも少なからず日出藩の歴史の賜物なのかなという気もします。<br /> <br />一日で両方を回ったことで、この日も押せ押せの旅となりましたが、大きく見れば近いエリア。まとめて回るのはまあなくはないなという感じです。

宇佐・国東半島から別府・大分の旅(五日目)~城下町、杵築の武家屋敷は北と南の台地の上。二つの台地を結ぶ堅牢な石の坂道も美しい風景の一部です~

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2022/12/15 - 2022/12/15

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たびたび

たびたびさん

旅の五日目の今日は、別府を離れて杵築と日出を回ります。大分県内の市でいうと杵築市と津久見市は行ったことがないのですが、津久見市はどう考えても興味がわかないので、実質的には杵築市が最後のピース。杵築の中心部へは杵築駅からバスになるというアクセスの悪さもあって、これまでなかなか踏ん切りがつかなかったんですよね。

そういうこともあって、杵築は城下町だということくらいしか知識はありませんでしたが、今回事前に調べてみると全然それだけではないですね。
まずは、例によって杵築藩のことですが、杵築藩の祖は小倉藩三代藩主、小笠原忠真の弟、小笠原忠知。加藤清正の三男、加藤忠広の代となっていた熊本藩が改易になるとその後に入封したのは小倉藩の細川氏。その小倉藩の後に播磨明石藩から移封されたのが小笠原忠真。杵築に忠知が封じられたのもこの時です。ただ、忠知は島原の乱への出陣等で功をあげ三河国吉田藩に加増転封。代わって、入ったのが能見松平家の松平英親。以降は幕末まで、この能見松平家は存続することとなります。ただ、松平英親の父、松平重直も忠知と同じく、小笠原忠真の弟。小笠原家から能見松平家へ養子で入って松平重直となったという関係なので、小倉の小笠原家とは引き続き、血縁の関係が続きます。ところで、そもそも小笠原家のことですが、もともとは信濃の守護だった家柄。しかし、武田信玄にその地を追われ、再興を目論んで家康に近づいたのが小笠原忠真の父、秀政。その後、秀吉の対家康政略の一環もあって、家康の嫡男、信康の長女、登久姫を娶ることに。ただ、大坂夏の陣では激戦の天王寺岡山の戦いで家康のひ孫でもあった長男忠脩とともに討ち死。しかし、このことは家康への大きな忠義の証となる。小笠原家が徳川幕府の九州対策の要となって小倉入りしたのは、堂々たる血縁と実績があったうえでのことなのですね。つまり、松平氏の庶流、能見松平家であり、そうした小笠原家にもつながる杵築藩。幕末まで、波風が立たなかったのも頷けるような気がします。

少し長くなりましたが、二つ目のポイントは城下町の地形です。武家屋敷が並ぶのは北台と南台という二つの馬の背のような丘の上であり、町人の住むのはそのふもと。ということで、その二つの馬の背を結ぶ坂がいくつもあって、番所の坂、酢屋の坂、飴屋の坂、志保屋の坂に岩鼻の坂、勘定場の坂などなど。今でも地元の人が普通に往来する坂であり、そのアップダウンの眺めは、ほかに比較するものがないくらい独特です。街の近代化は平地の方で進められ、武家屋敷が継承された台地の方はそうした開発が及ばなかっただけとも考えられますが、結果的には貴重な歴史の遺産が残ったいう評価もできるのではないかと思います。

そして、後半は日出。豊臣秀吉の正室、ねねの兄、木下家定の三男である木下延俊を祖とする日出藩の城下町。なお、同じ木下家の系譜だと岡山に木下家定の二男である木下利房を祖とする足守藩もあって、ともに幕末まで存続しています。杵築藩の4万石に対して日出藩は2万5千石。少し小さいですが、海に臨んだ城跡とかを拝見すると2万5千石にしては石垣とかなかなか雄大な構え。跡には中学校や小学校が建っていたり、周囲もかなりよく整備されて城下町の面影が濃いですね。有名な城下かれいや的山荘もちょっとハイクラスの文化的な香りがして、これも少なからず日出藩の歴史の賜物なのかなという気もします。
 
一日で両方を回ったことで、この日も押せ押せの旅となりましたが、大きく見れば近いエリア。まとめて回るのはまあなくはないなという感じです。

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  • 早朝、別府を出発して杵築まで。JR杵築駅からバスで杵築バスターミナルに到着しました。<br />バスターミナルからは台地の上にある北台武家屋敷跡に向かいますが、そのルートにあるのが、この番所の坂。杵築城下にあった6か所の番所のひとつ、北浜口番所があったので番所の坂。関所のような門があるのが特徴です。

    早朝、別府を出発して杵築まで。JR杵築駅からバスで杵築バスターミナルに到着しました。
    バスターミナルからは台地の上にある北台武家屋敷跡に向かいますが、そのルートにあるのが、この番所の坂。杵築城下にあった6か所の番所のひとつ、北浜口番所があったので番所の坂。関所のような門があるのが特徴です。

  • 番所の坂を上がるともうそこは北台武家屋敷跡のエリア。<br />そこから東側に抜ける勘定場の坂の方に向かうと、大原邸、能見邸、磯矢邸といった武家屋敷が並んでいるんですが、

    番所の坂を上がるともうそこは北台武家屋敷跡のエリア。
    そこから東側に抜ける勘定場の坂の方に向かうと、大原邸、能見邸、磯矢邸といった武家屋敷が並んでいるんですが、

  • まだ朝が早いので、その反対側へ。寺町の方に向かいましょう。

    まだ朝が早いので、その反対側へ。寺町の方に向かいましょう。

  • いったん、北台武家屋敷跡から岩鼻の坂を下りると<br />ここは台地と台地の間の旧町人街のエリア。すっきり見通しの良い自動車道が貫いています。

    いったん、北台武家屋敷跡から岩鼻の坂を下りると
    ここは台地と台地の間の旧町人街のエリア。すっきり見通しの良い自動車道が貫いています。

  • 続いて今度は南台武家屋敷跡の方に上がるんですが、これは飴屋の坂。<br />緩やかな”く”の字に曲がっていて、精緻に積み上げられているのが印象的ですね。

    イチオシ

    続いて今度は南台武家屋敷跡の方に上がるんですが、これは飴屋の坂。
    緩やかな”く”の字に曲がっていて、精緻に積み上げられているのが印象的ですね。

  • 坂に沿った白壁の塀も雰囲気があると思います。

    坂に沿った白壁の塀も雰囲気があると思います。

  • 上から振り返るとけっこうな勾配です。

    上から振り返るとけっこうな勾配です。

  • 南台武家屋敷跡を西に抜けると寺町の坂に至ります。

    南台武家屋敷跡を西に抜けると寺町の坂に至ります。

  • 寺町の坂沿いには5つの寺が並んでいるので、南側から順番に見て行こうと思います。<br />まずは、長昌寺。もともとは江戸時代の初期、播州三田で創建。

    寺町の坂沿いには5つの寺が並んでいるので、南側から順番に見て行こうと思います。
    まずは、長昌寺。もともとは江戸時代の初期、播州三田で創建。

  • その後、松平英親が杵築藩の初代藩主となるのに伴い、移転してきた浄土宗の寺です。<br />

    その後、松平英親が杵築藩の初代藩主となるのに伴い、移転してきた浄土宗の寺です。

  • 庭園は、市指定名勝。この奥ですね。

    庭園は、市指定名勝。この奥ですね。

  • 書院の前面に広く玉砂利を敷いて、そこに長く左手奥まで飛び石が続く。

    書院の前面に広く玉砂利を敷いて、そこに長く左手奥まで飛び石が続く。

  • 右手奥には鶴出島、亀出島の築山があって、それが一番のポイントなんですが、そこまでのメリハリがなくて明らかなアピールにはなっていないかな。

    右手奥には鶴出島、亀出島の築山があって、それが一番のポイントなんですが、そこまでのメリハリがなくて明らかなアピールにはなっていないかな。

  • 手前の石灯籠なんかも含めて、鑑賞の視点は少し難しいかもしれません。

    手前の石灯籠なんかも含めて、鑑賞の視点は少し難しいかもしれません。

  • 安住寺は、鎌倉時代の正元元年(1259年)、大友氏の一族で木付家初代親重が創建した臨済宗東福寺派の寺。

    安住寺は、鎌倉時代の正元元年(1259年)、大友氏の一族で木付家初代親重が創建した臨済宗東福寺派の寺。

  • 木付家は16代まで杵築を支配。大友氏の有力武将として、大友氏の滅亡までこれを支えています。山門から入ると本堂と観音堂がかぎ型に並んでちょっとした威厳。奥に開山堂とか書院庭園とかもあったようですが、行けたのかどうかどうか。よく分かりません。

    木付家は16代まで杵築を支配。大友氏の有力武将として、大友氏の滅亡までこれを支えています。山門から入ると本堂と観音堂がかぎ型に並んでちょっとした威厳。奥に開山堂とか書院庭園とかもあったようですが、行けたのかどうかどうか。よく分かりません。

  • 妙徳寺は、寺町の坂沿いに並ぶ5つの寺の真ん中。石灯籠から奥に延びる参道の先に厳めしい山門が建っていて、ちょっと威圧的な構えですね。そういうところは、浄土真宗本願寺派の寺らしいかもしれません。

    妙徳寺は、寺町の坂沿いに並ぶ5つの寺の真ん中。石灯籠から奥に延びる参道の先に厳めしい山門が建っていて、ちょっと威圧的な構えですね。そういうところは、浄土真宗本願寺派の寺らしいかもしれません。

  • 境内に入ると右手の御堂、左手の鐘楼の間を通て本堂に向かいます。

    境内に入ると右手の御堂、左手の鐘楼の間を通て本堂に向かいます。

  • 境内は、意外に穏やかです。

    境内は、意外に穏やかです。

  • 正覚寺は、浄土宗のお寺。

    正覚寺は、浄土宗のお寺。

  • 正面奥が本堂ですが

    正面奥が本堂ですが

  • 見どころは、左手のお堂に鎮座する日本一大きいという鉄鋳盧舎那仏坐像。<br />延亨元年(1744年)、大分市で造られた鉄仏で、杵築市指定有形文化財。鉄なので腐食が進んで、顔とか全体がボロボロなんですが、まあまあなんとか。半眼の視線とかも確認できますね。

    見どころは、左手のお堂に鎮座する日本一大きいという鉄鋳盧舎那仏坐像。
    延亨元年(1744年)、大分市で造られた鉄仏で、杵築市指定有形文化財。鉄なので腐食が進んで、顔とか全体がボロボロなんですが、まあまあなんとか。半眼の視線とかも確認できますね。

  • 最後は、養徳寺。杵築藩主の菩提寺で、細い杉並木から山門に至る参道は、男はつらいよ 第30作 花も嵐も寅次郎のロケで使われたようです。<br /><br />

    最後は、養徳寺。杵築藩主の菩提寺で、細い杉並木から山門に至る参道は、男はつらいよ 第30作 花も嵐も寅次郎のロケで使われたようです。

  • ただ、山門を入って

    ただ、山門を入って

  • 少し奥に本堂が見えますが、境内全部に荒れた感じが否めません。<br />藩主の菩提寺というのに、どうしたんでしょうねえ。<br />

    少し奥に本堂が見えますが、境内全部に荒れた感じが否めません。
    藩主の菩提寺というのに、どうしたんでしょうねえ。

  • 奥の墓地には、6代藩主、松平親貞、7代藩主、松平親賢の墓とかがありましたが、この墓石は上部だけ新しい感じで、どこかで取り換えたものなのかも。この墓地も荒れた感じは同じです。

    奥の墓地には、6代藩主、松平親貞、7代藩主、松平親賢の墓とかがありましたが、この墓石は上部だけ新しい感じで、どこかで取り換えたものなのかも。この墓地も荒れた感じは同じです。

  • では、南台武家屋敷跡を東の方に戻ります。<br />ところで、先ほども触れましたが、武家屋敷は保存公開されている屋敷がいくつかあります。

    では、南台武家屋敷跡を東の方に戻ります。
    ところで、先ほども触れましたが、武家屋敷は保存公開されている屋敷がいくつかあります。

  • ただ、それは北台武家屋敷の方が中心になるので南台武家屋敷跡は比較するとやや影が薄くなります。まあ、街並みの姿としてはこちらもしっかり風情をとどめていて、そんなに見劣りはしていないと思うんですけどね。

    ただ、それは北台武家屋敷の方が中心になるので南台武家屋敷跡は比較するとやや影が薄くなります。まあ、街並みの姿としてはこちらもしっかり風情をとどめていて、そんなに見劣りはしていないと思うんですけどね。

  • どんどん戻って、<br />

    どんどん戻って、

  • 志保屋の坂の上に出てきました。ここを下って、さっきの町人街のエリアにまた戻ります。

    志保屋の坂の上に出てきました。ここを下って、さっきの町人街のエリアにまた戻ります。

  • 振り返るとこんな感じ。<br />それにしても、道幅がしっかりとある石畳。モザイクのように石が敷き詰めてありますが、あまり傷んだ様子もないしそれも含めて表面はなめらか。武家屋敷に通じているので、騎馬による登り降りを考えた造りなのだそうです。

    イチオシ

    振り返るとこんな感じ。
    それにしても、道幅がしっかりとある石畳。モザイクのように石が敷き詰めてありますが、あまり傷んだ様子もないしそれも含めて表面はなめらか。武家屋敷に通じているので、騎馬による登り降りを考えた造りなのだそうです。

  • さらに下っていくと、向かいにも坂があって、これは酢屋の坂。志保屋の坂から酢屋の坂へは、ここを通って普通に通学や通勤する人がいるんですね。確かに、今朝着いたバスセンターでもこの坂を越えたところ。このルートは最短になるでしょう。<br />ただ、いずれにしても、あんまり見たことがない独特の景色。なんか風情があっていいですね~<br /><br />

    イチオシ

    さらに下っていくと、向かいにも坂があって、これは酢屋の坂。志保屋の坂から酢屋の坂へは、ここを通って普通に通学や通勤する人がいるんですね。確かに、今朝着いたバスセンターでもこの坂を越えたところ。このルートは最短になるでしょう。
    ただ、いずれにしても、あんまり見たことがない独特の景色。なんか風情があっていいですね~

  • 改めて、酢屋の坂を下から見上げますと、こちらの石畳もとても美しいですね~<br />向かいの志保屋の坂と並んで杵築を代表するの坂であることは間違いない。至極納得です。<br />なお、名前の由来は、坂の下に、かつて酒屋を営む塩屋長右衛門という豪商が新たに始めた酢屋を出したから。志保屋の坂の方も、坂の下にその塩屋長右衛門の店があったからです。

    イチオシ

    改めて、酢屋の坂を下から見上げますと、こちらの石畳もとても美しいですね~
    向かいの志保屋の坂と並んで杵築を代表するの坂であることは間違いない。至極納得です。
    なお、名前の由来は、坂の下に、かつて酒屋を営む塩屋長右衛門という豪商が新たに始めた酢屋を出したから。志保屋の坂の方も、坂の下にその塩屋長右衛門の店があったからです。

  • 志保屋の坂の方も見上げるとこんな感じ。下の方は階段になっています。

    志保屋の坂の方も見上げるとこんな感じ。下の方は階段になっています。

  • で、酢屋の坂の下の方にある綾部味噌は、創業明治33年という老舗の味噌屋さん。なんとここは酢屋の系譜を継ぐお店なんだとか。歴史はちゃんと続いています。

    で、酢屋の坂の下の方にある綾部味噌は、創業明治33年という老舗の味噌屋さん。なんとここは酢屋の系譜を継ぐお店なんだとか。歴史はちゃんと続いています。

  • 北台武家屋敷跡から南側に下りてくる岩鼻の坂。その下りたところに古井戸があって、それが岩鼻の井戸。町筋唯一の井戸だったということです。

    北台武家屋敷跡から南側に下りてくる岩鼻の坂。その下りたところに古井戸があって、それが岩鼻の井戸。町筋唯一の井戸だったということです。

  • 町人街を貫く通りを西に向かって、今度は杵築城を目指します。<br />なぜだか、鳥居をくぐって進みますと

    町人街を貫く通りを西に向かって、今度は杵築城を目指します。
    なぜだか、鳥居をくぐって進みますと

  • 少し開けたところから天守閣が見えてきました。現在の建物は模擬天守のようですけどね。<br />海側が切り立った崖になっているので、それは要害といった感じですが、景色としてもなかなか面白いですね。

    イチオシ

    少し開けたところから天守閣が見えてきました。現在の建物は模擬天守のようですけどね。
    海側が切り立った崖になっているので、それは要害といった感じですが、景色としてもなかなか面白いですね。

  • さらに進むと傍らに神社があって、青筵神社。<br />あんまりひと気もなくて寂しい雰囲気なのですが、これは、畳表に使われる七島藺で織った筵(むしろ)は豊後表というようですが、その普及に功のあった人々を祀る神社なのだそう。七島藺の豊後表は今でも地元の特産品です。

    さらに進むと傍らに神社があって、青筵神社。
    あんまりひと気もなくて寂しい雰囲気なのですが、これは、畳表に使われる七島藺で織った筵(むしろ)は豊後表というようですが、その普及に功のあった人々を祀る神社なのだそう。七島藺の豊後表は今でも地元の特産品です。

  • さあ、近づいてきましたね。

    さあ、近づいてきましたね。

  • 門を入ると

    門を入ると

  • すぐにさっき見えていた天守閣です。<br />ところで、杵築城は、もともとは室町時代初期、大友氏の一族木付氏が築いた城。木付氏は16代まで続きますが、大友氏の改易とともに滅亡。江戸期、細川家に代わって小倉に入った小笠原忠真の弟、忠知が杵築に入り、杵築藩の歴史が始まります。その忠知が三河吉田藩に移封となると代わって入ったのが能見松平家の松平英親というのは冒頭で説明した通りです。<br />

    すぐにさっき見えていた天守閣です。
    ところで、杵築城は、もともとは室町時代初期、大友氏の一族木付氏が築いた城。木付氏は16代まで続きますが、大友氏の改易とともに滅亡。江戸期、細川家に代わって小倉に入った小笠原忠真の弟、忠知が杵築に入り、杵築藩の歴史が始まります。その忠知が三河吉田藩に移封となると代わって入ったのが能見松平家の松平英親というのは冒頭で説明した通りです。

  • 杵築城は資料館になっていて、木付氏、小笠原氏、能見松平氏の関係を詳しく解説しています。

    杵築城は資料館になっていて、木付氏、小笠原氏、能見松平氏の関係を詳しく解説しています。

  • 大友氏に仕え、武勇で名をはせた木付氏です。

    大友氏に仕え、武勇で名をはせた木付氏です。

  • 小笠原氏と松平英親の系図ですけど、これで理解するのはけっこう難しいかもしれませんね。

    小笠原氏と松平英親の系図ですけど、これで理解するのはけっこう難しいかもしれませんね。

  • 松平英親の書。

    松平英親の書。

  • 時代が下って<br />太平洋戦争で連合艦隊長官を務め、終戦時は軍令部総長だった豊田副武。ポツダム宣言を受け入れるかどうかの御前会議の様子です。<br />ところで、軍令部総長というのは天皇に直属し、その統帥を輔翼する役割。参謀総長は陸軍、軍令部総長は海軍の軍令権を持っていて、陸軍大臣、海軍大臣の持つ軍政権より余程権限があったんですね。このいわゆる統帥権という化け物の存在が軍国主義の暴走を許したというのが、司馬遼太郎の見立てです。

    時代が下って
    太平洋戦争で連合艦隊長官を務め、終戦時は軍令部総長だった豊田副武。ポツダム宣言を受け入れるかどうかの御前会議の様子です。
    ところで、軍令部総長というのは天皇に直属し、その統帥を輔翼する役割。参謀総長は陸軍、軍令部総長は海軍の軍令権を持っていて、陸軍大臣、海軍大臣の持つ軍政権より余程権限があったんですね。このいわゆる統帥権という化け物の存在が軍国主義の暴走を許したというのが、司馬遼太郎の見立てです。

  • ポツダム宣言を受諾後、ミズーリ号の艦上で降伏文書調印を行ったのは、これも杵築出身の人物、大日本帝国政府全権外務大臣重光葵です。郊外に実家が残っているのですが、時間がないのでパスします。<br />ちなみに、この時、豊田副武は出席を拒否していて、批判を呼ぶこととなりました。

    ポツダム宣言を受諾後、ミズーリ号の艦上で降伏文書調印を行ったのは、これも杵築出身の人物、大日本帝国政府全権外務大臣重光葵です。郊外に実家が残っているのですが、時間がないのでパスします。
    ちなみに、この時、豊田副武は出席を拒否していて、批判を呼ぶこととなりました。

  • 最後に天守閣の前からの眺めで、河口に臨む絶好のロケーションであることを確認します。天気がイマイチなので、そこはちょっと残念ですね。

    最後に天守閣の前からの眺めで、河口に臨む絶好のロケーションであることを確認します。天気がイマイチなので、そこはちょっと残念ですね。

  • 再び市街に戻って、これは杵築ふるさと産業館。杵築バスターミナルからすぐの大きな施設です。

    再び市街に戻って、これは杵築ふるさと産業館。杵築バスターミナルからすぐの大きな施設です。

  • 地元のお土産品を扱ったり、観光案内所もあります。杵築観光なら、まずはここに立ち寄るといった場所かなと思います。 

    地元のお土産品を扱ったり、観光案内所もあります。杵築観光なら、まずはここに立ち寄るといった場所かなと思います。 

  • 改めて、北台武家屋敷跡に向かいますが、今度は勘定場の坂から。<br />杵築城から北台武家屋敷跡だとここが最短のルートになります。そういう意味では重要な坂で、藩士の多くが通った坂でしょう。一直線に通っていて、傾斜もやや緩やか。駕龍かきの足に合わせて造られたということですが、お殿様の乗った駕籠もここを通ったのかもしれません。  

    改めて、北台武家屋敷跡に向かいますが、今度は勘定場の坂から。
    杵築城から北台武家屋敷跡だとここが最短のルートになります。そういう意味では重要な坂で、藩士の多くが通った坂でしょう。一直線に通っていて、傾斜もやや緩やか。駕龍かきの足に合わせて造られたということですが、お殿様の乗った駕籠もここを通ったのかもしれません。  

  • 北台武家屋敷跡はここからです。

    北台武家屋敷跡はここからです。

  • では、ここから個別に回っていきます。<br />磯矢邸は、勘定場の坂から北台武家屋敷に上がってすぐ。

    では、ここから個別に回っていきます。
    磯矢邸は、勘定場の坂から北台武家屋敷に上がってすぐ。

  • 加藤与左衛門、200石の武家屋敷だったもので、

    加藤与左衛門、200石の武家屋敷だったもので、

  • 式台玄関から奥に進むと

    式台玄関から奥に進むと

  • けっこう広いし、

    けっこう広いし、

  • 優雅な雰囲気。

    優雅な雰囲気。

  • それぞれの部屋からは周囲の庭がよく見えますが、

    それぞれの部屋からは周囲の庭がよく見えますが、

  • 庭は手入れがよく行き届いて美しい。<br />文久4年(1864年)と刻まれた瓦なども発見されていて、江戸時代末期の建物だということです。

    庭は手入れがよく行き届いて美しい。
    文久4年(1864年)と刻まれた瓦なども発見されていて、江戸時代末期の建物だということです。

  • 最後に同じ邸内にある杵築市栗原克実美術館も拝見。係の人に声をかけると鍵を開けてくれました。栗原克実は、千葉県出身の水墨画家。水墨画でイメージするような山水画ではなくて、もう少しカジュアルな作品もあったりしてすぐに目線は合わないですね。ただ、杵築との関係は掛けてあった年譜を拝見してもよく分かりませんでした。

    最後に同じ邸内にある杵築市栗原克実美術館も拝見。係の人に声をかけると鍵を開けてくれました。栗原克実は、千葉県出身の水墨画家。水墨画でイメージするような山水画ではなくて、もう少しカジュアルな作品もあったりしてすぐに目線は合わないですね。ただ、杵築との関係は掛けてあった年譜を拝見してもよく分かりませんでした。

  • また、通りに出て、西に進みます。

    また、通りに出て、西に進みます。

  • 藩校の門は、北台武家屋敷通りの中ほど。今は杵築市立杵築小学校の門となっていますが、もともとは、江戸時代、7代藩主、松平親賢が設立した藩校、学習館にあった藩主御成門。この学習館は、士族の子弟だけでなく、町人の子弟も通うことが許されていたのだとか。杵築藩の開明的な気風が偲ばれます。

    藩校の門は、北台武家屋敷通りの中ほど。今は杵築市立杵築小学校の門となっていますが、もともとは、江戸時代、7代藩主、松平親賢が設立した藩校、学習館にあった藩主御成門。この学習館は、士族の子弟だけでなく、町人の子弟も通うことが許されていたのだとか。杵築藩の開明的な気風が偲ばれます。

  • 続いては、能見邸。

    続いては、能見邸。

  • 能見家は5代藩主親盈の9男幸乃丞が初代であり、杵築藩主、能見松平家の能見を姓にもらったもの。藩主家につながる家柄だということがこれほど明確なことはないですね。

    能見家は5代藩主親盈の9男幸乃丞が初代であり、杵築藩主、能見松平家の能見を姓にもらったもの。藩主家につながる家柄だということがこれほど明確なことはないですね。

  • 屋敷は300石の岡藤介の屋敷を受け継いだもののようですが、現在の建物は幕末の頃のもの。

    屋敷は300石の岡藤介の屋敷を受け継いだもののようですが、現在の建物は幕末の頃のもの。

  • 格式ある家柄を反映して式台玄関から

    格式ある家柄を反映して式台玄関から

  • ずずっと進んだ

    ずずっと進んだ

  • 奥の書院、

    奥の書院、

  • 周囲の庭に至るまで<br />ちょっと別格の優雅な佇まいを誇っています。

    周囲の庭に至るまで
    ちょっと別格の優雅な佇まいを誇っています。

  • 大原邸は、

    大原邸は、

  • 200石取り用人大原文蔵の屋敷跡ということですが、門前の説明板には家老上席を勤めた家とありました。

    200石取り用人大原文蔵の屋敷跡ということですが、門前の説明板には家老上席を勤めた家とありました。

  • 式台玄関の上に構える分厚い藁ぶきの屋根のインパクトがすごくて、これは単なる武家屋敷の意匠ではないですね。

    式台玄関の上に構える分厚い藁ぶきの屋根のインパクトがすごくて、これは単なる武家屋敷の意匠ではないですね。

  • 杵築藩の分家で支領であった松平家のものとありましたが、ちょっと意味はよく分かりません。<br />

    杵築藩の分家で支領であった松平家のものとありましたが、ちょっと意味はよく分かりません。

  • また、かつてこの地にあった桂花楼の建物という説もあるようです。

    また、かつてこの地にあった桂花楼の建物という説もあるようです。

  • こちらも建物内から庭周りとか本当に優雅なもの。

    こちらも建物内から庭周りとか本当に優雅なもの。

  • 杵築藩は意外に豊かな藩だったのでしょうか。

    杵築藩は意外に豊かな藩だったのでしょうか。

  • いずれにしても、武家屋敷といってもここは特別な屋敷なのだと思います。

    いずれにしても、武家屋敷といってもここは特別な屋敷なのだと思います。

  • ここからは、南台武家屋敷跡の方に移動して、<br />志保屋の坂から上がったところにある中根邸です。

    ここからは、南台武家屋敷跡の方に移動して、
    志保屋の坂から上がったところにある中根邸です。

  • 中根家は杵築藩に仕える500石取りの高級武士。ただ、この屋敷は、文久2年(1862年)、中根家9代家老、中根源右衛門が建てた隠居宅。南台武家屋敷の家老丁では唯一の家老屋敷だそうです。<br />なお、敷地内には自由に出入りできますが、建物には上がれません。

    中根家は杵築藩に仕える500石取りの高級武士。ただ、この屋敷は、文久2年(1862年)、中根家9代家老、中根源右衛門が建てた隠居宅。南台武家屋敷の家老丁では唯一の家老屋敷だそうです。
    なお、敷地内には自由に出入りできますが、建物には上がれません。

  • 中根家の脇から、きつき城下町資料館の方に向かいます。<br />

    中根家の脇から、きつき城下町資料館の方に向かいます。

  • 城下町杵築の地理や歴史の紹介なのですが、展示品がそれぞれ立派。

    城下町杵築の地理や歴史の紹介なのですが、展示品がそれぞれ立派。

  • 町衆の経済力を反映した豪華な車輪付きの神輿や煌びやかな歌舞伎衣装など予想とは違って、美術館のような雰囲気もありますね。古き良き時代の産物が保存状態よく残っているなという印象です。

    町衆の経済力を反映した豪華な車輪付きの神輿や煌びやかな歌舞伎衣装など予想とは違って、美術館のような雰囲気もありますね。古き良き時代の産物が保存状態よく残っているなという印象です。

  • さらに進んで、これは一松邸。ここは武家屋敷ではなくて、第一次吉田内閣で逓信大臣、以降国務、厚生、建設各大臣を歴任し杵築市の初代名誉市民となった一松定吉氏の邸宅。

    さらに進んで、これは一松邸。ここは武家屋敷ではなくて、第一次吉田内閣で逓信大臣、以降国務、厚生、建設各大臣を歴任し杵築市の初代名誉市民となった一松定吉氏の邸宅。

  • 敷地内からは海に臨んで建つ杵築城が正面に見えるという絶好のロケーションに、

    敷地内からは海に臨んで建つ杵築城が正面に見えるという絶好のロケーションに、

  • 式台玄関を備える悠々とした構えの日本建築が建っていました。

    式台玄関を備える悠々とした構えの日本建築が建っていました。

  • 市に寄贈され、今では公共の建物となっていて、

    市に寄贈され、今では公共の建物となっていて、

  • 明るく気持ちの良い邸内で自由に休ませてもいました。

    明るく気持ちの良い邸内で自由に休ませてもいました。

  • 市民に愛される建物だと思います。

    市民に愛される建物だと思います。

  • なお、これが敷地内から眺めた杵築城です。

    なお、これが敷地内から眺めた杵築城です。

  • そろそろ帰りの時間。最後に、北台武家屋敷の一角、佐野家をちらりと拝見。<br />ただ、ここも武家屋敷のはずなのですが、外観からするともしかして商家?と思ってしまいました。杵築藩主、小笠原忠知が侍医として召し抱え、以降、代々医家として仕えた家柄。そういう意味だとちょっと武家屋敷らしくなくても納得ですね。

    そろそろ帰りの時間。最後に、北台武家屋敷の一角、佐野家をちらりと拝見。
    ただ、ここも武家屋敷のはずなのですが、外観からするともしかして商家?と思ってしまいました。杵築藩主、小笠原忠知が侍医として召し抱え、以降、代々医家として仕えた家柄。そういう意味だとちょっと武家屋敷らしくなくても納得ですね。

  • 杵築バスターミナルに帰ってきました。<br />バスは、地元の人が大勢乗り降りして、やっぱりここが杵築の玄関であることを実感します。

    杵築バスターミナルに帰ってきました。
    バスは、地元の人が大勢乗り降りして、やっぱりここが杵築の玄関であることを実感します。

  • 杵築駅からは、日出駅に向かいます。<br />待合室の傍らにあるのは杵築駅観光案内所。小さな駅の売店が観光案内所を兼ねているという簡素な案内所。杵築駅から杵築にバスで向かう待ち時間にでも、ここで情報を取るのは効率的で無駄がないと思います。

    杵築駅からは、日出駅に向かいます。
    待合室の傍らにあるのは杵築駅観光案内所。小さな駅の売店が観光案内所を兼ねているという簡素な案内所。杵築駅から杵築にバスで向かう待ち時間にでも、ここで情報を取るのは効率的で無駄がないと思います。

  • 日出駅に到着。ここからは、後半。日出の散策です。<br />ところで、あのしっとりとした余韻を残す大分むぎ焼酎二階堂のCM。かなり有名だと思いますが、その製造元の二階堂酒造は日出の街中にあるんです。ちょっと外から中を少し覗いてみましたが、広々とした敷地はチリ一つ落ちていなくて清潔そのものでした。

    日出駅に到着。ここからは、後半。日出の散策です。
    ところで、あのしっとりとした余韻を残す大分むぎ焼酎二階堂のCM。かなり有名だと思いますが、その製造元の二階堂酒造は日出の街中にあるんです。ちょっと外から中を少し覗いてみましたが、広々とした敷地はチリ一つ落ちていなくて清潔そのものでした。

  • そのまま、近くにある二階堂美術館へ。<br />二階堂酒造が代々受け継いだ日本画を公開する美術館。<br />

    そのまま、近くにある二階堂美術館へ。
    二階堂酒造が代々受け継いだ日本画を公開する美術館。

  • 白い漆喰の大きな蔵のような建物です。

    白い漆喰の大きな蔵のような建物です。

  • ロビーを抜けて、展示室内へ。<br />展示室はかなり悠々。順路に沿って見て行きます。<br />観音の掛け軸が3幅並んでいて、一番右は、梶田半古「乳海」。三つめが村上華岳です。<br />

    ロビーを抜けて、展示室内へ。
    展示室はかなり悠々。順路に沿って見て行きます。
    観音の掛け軸が3幅並んでいて、一番右は、梶田半古「乳海」。三つめが村上華岳です。

  • 森寛斎「蓬莱山図」

    森寛斎「蓬莱山図」

  • 木村武山「孔雀と鴉図」

    木村武山「孔雀と鴉図」

  • 金地の空間を広くとって、それ自体も鑑賞の対象としているような気もします。

    金地の空間を広くとって、それ自体も鑑賞の対象としているような気もします。

  • 河合玉堂「春秋遊鹿図屏風」

    河合玉堂「春秋遊鹿図屏風」

  • 丁寧な筆致で幽玄の世界を表現していて、田舎絵が多い玉堂にしては垢抜けしているような気がします。

    イチオシ

    丁寧な筆致で幽玄の世界を表現していて、田舎絵が多い玉堂にしては垢抜けしているような気がします。

  • 村上華岳「天人図」

    村上華岳「天人図」

  • 村上華岳は、観音とかこうした仏画チックなモチーフだと最高ですね。<br />京都の何必館・京都現代美術館で初めて拝見して、それ以来の大ファン。仏像を見るのと同じレベルの感動があるのは村上華岳くらいじゃないかなと思います

    村上華岳は、観音とかこうした仏画チックなモチーフだと最高ですね。
    京都の何必館・京都現代美術館で初めて拝見して、それ以来の大ファン。仏像を見るのと同じレベルの感動があるのは村上華岳くらいじゃないかなと思います

  • 小林古径「為朝」

    小林古径「為朝」

  • 下村観山「朝陽富岳」

    下村観山「朝陽富岳」

  • 横山大観「暁暾」

    横山大観「暁暾」

  • 横山大観「長江の船」

    横山大観「長江の船」

  • ここからは、大観の富士シリーズ。

    ここからは、大観の富士シリーズ。

  • 大観の得意なシリーズですが

    大観の得意なシリーズですが

  • それぞれにやっぱり大観だなという独特の匂いがあるような気がしますが、

    それぞれにやっぱり大観だなという独特の匂いがあるような気がしますが、

  • 逆に、富士山の絵はこの大観の絵がスタンダードみたいになっているので

    逆に、富士山の絵はこの大観の絵がスタンダードみたいになっているので

  • 今や、我々の方では大観の富士山には個性を感じなくなっている嫌いもあるかもしれません。

    今や、我々の方では大観の富士山には個性を感じなくなっている嫌いもあるかもしれません。

  • そこは、少し損をしているような気もしますが、これだけたくさん集めたというのはやっぱり価値があると思います。

    そこは、少し損をしているような気もしますが、これだけたくさん集めたというのはやっぱり価値があると思います。

  • かいつまんで紹介しましたが、横山大観を始め、川合玉堂、小林古径、村上華岳、下村観山など、いわゆる銘品の数々ですね。自分の眼鏡にかなう絵を集めたというその視線がはっきりしているので、お仕着せではない自然で無理のないコレクションになっているように思います。<br />写真撮影可の絵も多くてそれも好感。とても楽しめました。

    かいつまんで紹介しましたが、横山大観を始め、川合玉堂、小林古径、村上華岳、下村観山など、いわゆる銘品の数々ですね。自分の眼鏡にかなう絵を集めたというその視線がはっきりしているので、お仕着せではない自然で無理のないコレクションになっているように思います。
    写真撮影可の絵も多くてそれも好感。とても楽しめました。

  • では、ここから改めて日出の市街へ。<br />蓮華寺は、一段高いところに山門、境内があって、

    では、ここから改めて日出の市街へ。
    蓮華寺は、一段高いところに山門、境内があって、

  • 日出城の鬼門鎮護のためここに移され、日出藩主の祈祷所ともなった真言宗の寺。まさに納得の構えですね。

    日出城の鬼門鎮護のためここに移され、日出藩主の祈祷所ともなった真言宗の寺。まさに納得の構えですね。

  • 境内には、本尊の千手観音、絹本「涅槃図」ほか貴重な文化財も伝えているとの説明板もありました。

    境内には、本尊の千手観音、絹本「涅槃図」ほか貴重な文化財も伝えているとの説明板もありました。

  • その隣りの日出若宮八幡神社は、天徳3年(959年)の創建。建久7年(1196年)、豊後大友氏の祖、能直は豊後国7社の1社と定めた歴史もあるようです。<br />正面、石段の上に大きくそびえる楼門は、元禄16年(1703年)、日出藩3代藩主、木下俊長が寄進したもの。

    その隣りの日出若宮八幡神社は、天徳3年(959年)の創建。建久7年(1196年)、豊後大友氏の祖、能直は豊後国7社の1社と定めた歴史もあるようです。
    正面、石段の上に大きくそびえる楼門は、元禄16年(1703年)、日出藩3代藩主、木下俊長が寄進したもの。

  • その奥が本殿。<br />

    その奥が本殿。

  • 二つの建物のバランスも悪くなくて、

    二つの建物のバランスも悪くなくて、

  • 全体として華麗な印象を持ちました。

    全体として華麗な印象を持ちました。

  • 光蓮寺は、真宗大谷派の寺。ただ、山門に鐘楼、本堂が限られた境内にコンパクトに収まっていて、バランスは悪くないけど、こじんまり感はありますね。ただ、どっちにしても単なる町の中にあるお寺。観光的な要素はあまりないと思います。

    光蓮寺は、真宗大谷派の寺。ただ、山門に鐘楼、本堂が限られた境内にコンパクトに収まっていて、バランスは悪くないけど、こじんまり感はありますね。ただ、どっちにしても単なる町の中にあるお寺。観光的な要素はあまりないと思います。

  • そして、最も楽しみにしていたのが、この的山荘です。<br />

    そして、最も楽しみにしていたのが、この的山荘です。

  • こちらは、馬上金山の採掘で財をなした成清博愛が建てた旧邸宅。<br />日出の市街なんですが、別府湾に臨む広大な敷地に

    こちらは、馬上金山の採掘で財をなした成清博愛が建てた旧邸宅。
    日出の市街なんですが、別府湾に臨む広大な敷地に

  • 立派な近代和風建築が建っていて、そのスケールとともに旅館のような料亭のような品のいい雰囲気も素晴らしいですね。<br />

    立派な近代和風建築が建っていて、そのスケールとともに旅館のような料亭のような品のいい雰囲気も素晴らしいですね。

  • 本当はここで食事でもしたかったのですが、時間の関係で敷地内を拝見させてもらうだけにします。<br />裏手の方に回って

    本当はここで食事でもしたかったのですが、時間の関係で敷地内を拝見させてもらうだけにします。
    裏手の方に回って

  • どんどん奥へ。

    どんどん奥へ。

  • この辺りの部屋から海を望むんでしょうけど

    この辺りの部屋から海を望むんでしょうけど

  • 私は外からそれを確認させてもらいます。<br />

    イチオシ

    私は外からそれを確認させてもらいます。

  • なるほど。優雅なもんですねえ。<br />確かに、日出では必見のスポットかと思います。

    なるほど。優雅なもんですねえ。
    確かに、日出では必見のスポットかと思います。

  • では、この辺りで昼飯です。<br />マインズは、日出の的山荘そばにある喫茶店みたいな洋食屋さん。ハンバーグが中心です。

    では、この辺りで昼飯です。
    マインズは、日出の的山荘そばにある喫茶店みたいな洋食屋さん。ハンバーグが中心です。

  • ハンバーグは、それぞれの家庭で我が家の味がありますから、意外に万人受けする味を出すのは難しいですよね。そんなことも思いながらいただきましたが、なるほどね。肉の味もそれなりに主張しながら、全体としては穏やかなやさしい味わい。これならいいんじゃないかなあ。よいお店です。

    ハンバーグは、それぞれの家庭で我が家の味がありますから、意外に万人受けする味を出すのは難しいですよね。そんなことも思いながらいただきましたが、なるほどね。肉の味もそれなりに主張しながら、全体としては穏やかなやさしい味わい。これならいいんじゃないかなあ。よいお店です。

  • 少し元気になったところで、散策再開。<br />日出町の町花、町木に指定されている日出の大サザンカは、日出中学校の敷地内。もともとは日出藩の武家屋敷だったところのようです。校舎に負けまいとするような勢いで空に向かって枝をいっぱいに伸ばしていますが、白い花の方は小さいのであんまり目立ちませんね。地味な方だと思います。

    少し元気になったところで、散策再開。
    日出町の町花、町木に指定されている日出の大サザンカは、日出中学校の敷地内。もともとは日出藩の武家屋敷だったところのようです。校舎に負けまいとするような勢いで空に向かって枝をいっぱいに伸ばしていますが、白い花の方は小さいのであんまり目立ちませんね。地味な方だと思います。

  • 続いて、すぐに日出城です。<br />この日出城は、関ヶ原の戦の功績により、豊後国日出3万石に封じられた日出藩初代藩主木下延俊が築城した城。城の縄張りは義兄である細川忠興、石垣の構築はその家臣で築城の名手、穴生理右衛門が野面積みで築きました。<br />本丸跡には日出小学校やさっきの中学校が建っているので、石垣の外側を巡ることになりますが、海に面した石垣は厳しく切り立っているし、このスケール感は3万石という感じではないですね。

    続いて、すぐに日出城です。
    この日出城は、関ヶ原の戦の功績により、豊後国日出3万石に封じられた日出藩初代藩主木下延俊が築城した城。城の縄張りは義兄である細川忠興、石垣の構築はその家臣で築城の名手、穴生理右衛門が野面積みで築きました。
    本丸跡には日出小学校やさっきの中学校が建っているので、石垣の外側を巡ることになりますが、海に面した石垣は厳しく切り立っているし、このスケール感は3万石という感じではないですね。

  • そのまま進んで海を望む場所に出てきました。この辺が城下公園ということでしょうか。そんなにスペースがあるわけではないのですが、石垣の中腹辺りに腰かけてお弁当を食べている人がいたりして、いいですねえ。

    イチオシ

    そのまま進んで海を望む場所に出てきました。この辺が城下公園ということでしょうか。そんなにスペースがあるわけではないのですが、石垣の中腹辺りに腰かけてお弁当を食べている人がいたりして、いいですねえ。

  • そして、こちら側からも石垣の険しさがまたよく分かる。

    そして、こちら側からも石垣の険しさがまたよく分かる。

  • 一方で、そこここには桜の木もあって、お花見の季節もまたよさそうです。

    一方で、そこここには桜の木もあって、お花見の季節もまたよさそうです。

  • ところで、日出城の先の海で捕れる城下かれいも有名ですよね。泥臭さがなく、淡白で上品な味とされていますが、それは海底から清水が湧き出ていて、塩分濃度が低い汽水域となっているからだそう。ここはその城下かれいが捕れる海岸。ちょっとしたコンクリートの防潮壁に守られた遊歩道が続いています。

    ところで、日出城の先の海で捕れる城下かれいも有名ですよね。泥臭さがなく、淡白で上品な味とされていますが、それは海底から清水が湧き出ていて、塩分濃度が低い汽水域となっているからだそう。ここはその城下かれいが捕れる海岸。ちょっとしたコンクリートの防潮壁に守られた遊歩道が続いています。

  • さらに進んで、一周してみますよ~

    さらに進んで、一周してみますよ~

  • 城の西側に出て、これは致道館。<br />安政5年(1858年)、15代藩主木下俊程が日出城二の丸に設立した藩校です。

    城の西側に出て、これは致道館。
    安政5年(1858年)、15代藩主木下俊程が日出城二の丸に設立した藩校です。

  • 今の建物はその当時のものなのかよく分かりませんが、あんまり傷んでいる感じはなくて復元した建物かもしれませんね。<br />

    今の建物はその当時のものなのかよく分かりませんが、あんまり傷んでいる感じはなくて復元した建物かもしれませんね。

  • 建物内は明るくて開放感があるし、

    建物内は明るくて開放感があるし、

  • 外には別府湾も見渡せて気持ちがいい。

    外には別府湾も見渡せて気持ちがいい。

  • 木下家の家系図なんかもちょろっとパネル展示がありました。

    木下家の家系図なんかもちょろっとパネル展示がありました。

  • これは城の北側の通り。一直線に伸びる見通しの良い通りです。<br />これをもう一度、城の方に戻ります。

    これは城の北側の通り。一直線に伸びる見通しの良い通りです。
    これをもう一度、城の方に戻ります。

  • すぐに見えてきた鬼門櫓は、日出城の本丸北東隅に築かれた二層二階の櫓。現在の建物は、江戸時代後期に築かれたもののよう。

    すぐに見えてきた鬼門櫓は、日出城の本丸北東隅に築かれた二層二階の櫓。現在の建物は、江戸時代後期に築かれたもののよう。

  • 内部は資料室になっていて、日出藩木下家、日出城、鬼門櫓について解説パネルが展示されていました。櫓は一時ボロボロになっていたようですが、平成の大修理で復活しています。

    内部は資料室になっていて、日出藩木下家、日出城、鬼門櫓について解説パネルが展示されていました。櫓は一時ボロボロになっていたようですが、平成の大修理で復活しています。

  • その裏手は日出町歴史資料館。<br />この日は、日出藩の第11代藩主、木下俊懋の没後200年を記念して、企画展「泰平の世と殿様と」が行われていました。この木下俊懋は、帆足萬里を日出藩の藩学教授に抜擢するなど多くの人材を発掘した藩主。展示では江戸での藩内外の人々との交流や参勤交代の様子を紹介。掛川藩主、太田資愛の娘を正室に迎えますが、この太田資愛は後に幕府の老中にもなる人物。俊懋が頼りにしていたことが窺えます。

    その裏手は日出町歴史資料館。
    この日は、日出藩の第11代藩主、木下俊懋の没後200年を記念して、企画展「泰平の世と殿様と」が行われていました。この木下俊懋は、帆足萬里を日出藩の藩学教授に抜擢するなど多くの人材を発掘した藩主。展示では江戸での藩内外の人々との交流や参勤交代の様子を紹介。掛川藩主、太田資愛の娘を正室に迎えますが、この太田資愛は後に幕府の老中にもなる人物。俊懋が頼りにしていたことが窺えます。

  • 通りをさらに進むと<br />これは帆足萬里の像。

    通りをさらに進むと
    これは帆足萬里の像。

  • さらに進むと瀧廉太郎像です。もう日出小学校の校門にも近い辺りですけどね。<br />名曲”荒城の月”の作曲者として知られる瀧廉太郎は、明治12年、現在の東京都港区に生まれますが、父を始めそのルーツは日出町。日出藩の藩士の家系です。静かな面持ちですが、音楽に賭ける強い思いも感じる像です。

    さらに進むと瀧廉太郎像です。もう日出小学校の校門にも近い辺りですけどね。
    名曲”荒城の月”の作曲者として知られる瀧廉太郎は、明治12年、現在の東京都港区に生まれますが、父を始めそのルーツは日出町。日出藩の藩士の家系です。静かな面持ちですが、音楽に賭ける強い思いも感じる像です。

  • 日出城跡、二つの像があるのは、日出小学校の校門前の一角。片側はお堀、片側は白い漆喰の塀が続く武家屋敷風の通り。それに挟まれた長く伸びる平地を公園にした成清公園の中。この名前からすると的山荘を建てた成清博愛に関係しているのかもしれません。

    日出城跡、二つの像があるのは、日出小学校の校門前の一角。片側はお堀、片側は白い漆喰の塀が続く武家屋敷風の通り。それに挟まれた長く伸びる平地を公園にした成清公園の中。この名前からすると的山荘を建てた成清博愛に関係しているのかもしれません。

  • その通り沿い。北側にあるのは二の丸館。日出小学校の通りを挟んだ向かい側にあって、立派な門構えのこの中です。

    その通り沿い。北側にあるのは二の丸館。日出小学校の通りを挟んだ向かい側にあって、立派な門構えのこの中です。

  • 日出城の裏門櫓は、日出城本丸東の搦手を守るための櫓だったものですが、その二の丸館の門の隣り。同じ敷地に建っています。板壁の黒と白い漆喰のコントラストが美しいし、屋根瓦の意匠も何気に豪華です。

    日出城の裏門櫓は、日出城本丸東の搦手を守るための櫓だったものですが、その二の丸館の門の隣り。同じ敷地に建っています。板壁の黒と白い漆喰のコントラストが美しいし、屋根瓦の意匠も何気に豪華です。

  • 観光交流施設として建てられたもので、観光案内所やちょこっとしたお土産物のショップや休憩スペースもあって、気軽に立ち寄れるのがいいところ。

    観光交流施設として建てられたもので、観光案内所やちょこっとしたお土産物のショップや休憩スペースもあって、気軽に立ち寄れるのがいいところ。

  • 建物は歴史的なものではないと思いますが、雰囲気を壊さないようにデザインされているのもグッドです。<br />なお、観光案内所は暖かな木のぬくもりを感じるカウンターがあって、パンフレットもまあまあです。

    建物は歴史的なものではないと思いますが、雰囲気を壊さないようにデザインされているのもグッドです。
    なお、観光案内所は暖かな木のぬくもりを感じるカウンターがあって、パンフレットもまあまあです。

  • 少し休憩して、再び出発。<br />龍泉寺は、荒城の月を作曲した瀧廉太郎を生んだ瀧家の菩提寺です。

    少し休憩して、再び出発。
    龍泉寺は、荒城の月を作曲した瀧廉太郎を生んだ瀧家の菩提寺です。

  • 正面から境内に入ってすぐの右手墓地に瀧廉太郎と瀧家累代の墓という一角がありました。ちなみに、瀧家は、代々日出藩の家老などの要職にあった家柄だとか。寺には瀧家他多くの日出藩士の墓もあるようです。

    正面から境内に入ってすぐの右手墓地に瀧廉太郎と瀧家累代の墓という一角がありました。ちなみに、瀧家は、代々日出藩の家老などの要職にあった家柄だとか。寺には瀧家他多くの日出藩士の墓もあるようです。

  • その少し奥にある松屋寺の前身は西明寺。

    その少し奥にある松屋寺の前身は西明寺。

  • 日出藩初代藩主、木下延俊が秀吉の正室ねねの母でもある祖母の法名から改称し、木下家の菩提寺としました。

    日出藩初代藩主、木下延俊が秀吉の正室ねねの母でもある祖母の法名から改称し、木下家の菩提寺としました。

  • 本堂前の日本一の大蘇鉄は国の天然記念物だし、木下家墓所や帆足萬里の墓も見どころ。<br />あと、雪舟の庭もあるはずと広い境内を探し回りましたが見つからず。お寺の人に尋ねると本堂の裏手にあるのですが、今は公開していないということでした。

    イチオシ

    本堂前の日本一の大蘇鉄は国の天然記念物だし、木下家墓所や帆足萬里の墓も見どころ。
    あと、雪舟の庭もあるはずと広い境内を探し回りましたが見つからず。お寺の人に尋ねると本堂の裏手にあるのですが、今は公開していないということでした。

  • さて、これが日出藩木下家墓所。木下家関係系図という説明板もあって、初代藩主、木下延俊に、その父、木下家定はねねの兄。小早川秀秋は家定の五男で小早川家に養子に出され、関ケ原の戦いでの裏切りが東軍の勝利を決定づけたのは有名ですね。墓所はさほどの規模ではありませんが、大名墓らしい大きな五輪塔が整然と並んでいて、それなりに壮観です。

    さて、これが日出藩木下家墓所。木下家関係系図という説明板もあって、初代藩主、木下延俊に、その父、木下家定はねねの兄。小早川秀秋は家定の五男で小早川家に養子に出され、関ケ原の戦いでの裏切りが東軍の勝利を決定づけたのは有名ですね。墓所はさほどの規模ではありませんが、大名墓らしい大きな五輪塔が整然と並んでいて、それなりに壮観です。

  • 帆足萬里の墓は、その先をさらにしばらく進んだところで、日出藩木下家墓所よりも高い場所。

    帆足萬里の墓は、その先をさらにしばらく進んだところで、日出藩木下家墓所よりも高い場所。

  • 別府湾を見下ろす見晴らしのいい場所です。<br />帆足萬里を敬っていた日出藩14代藩主、木下俊方の命でそうなったようですが、帆足萬里は、三浦梅園、廣瀬淡窓と並ぶ豊後の三賢。儒学だけではなく、経済や天文、物理、医学、数学と幅広い知識に教育者としての働きも大きかったようです。<br />では、日出はこれで終わって、暘谷駅から亀川駅へ。

    別府湾を見下ろす見晴らしのいい場所です。
    帆足萬里を敬っていた日出藩14代藩主、木下俊方の命でそうなったようですが、帆足萬里は、三浦梅園、廣瀬淡窓と並ぶ豊後の三賢。儒学だけではなく、経済や天文、物理、医学、数学と幅広い知識に教育者としての働きも大きかったようです。
    では、日出はこれで終わって、暘谷駅から亀川駅へ。

  • 亀川温泉は、別府八湯の一つですが、まだ歩いたことがなかったので、最後にこの辺りを散策します。<br />JR亀川駅から歩ける範囲にいくつかの温泉が点在するのですが、代表的な温泉は浜田温泉。まずは、そちらの方に向かいます。

    亀川温泉は、別府八湯の一つですが、まだ歩いたことがなかったので、最後にこの辺りを散策します。
    JR亀川駅から歩ける範囲にいくつかの温泉が点在するのですが、代表的な温泉は浜田温泉。まずは、そちらの方に向かいます。

  • 浜田温泉資料館は、かつての浜田温泉。新しい浜田温泉の向かい側に建物が保存されています。

    浜田温泉資料館は、かつての浜田温泉。新しい浜田温泉の向かい側に建物が保存されています。

  • 中に入ると、管理人のおばあさんがお守をしていました。中は少し小型の竹瓦温泉という雰囲気。昔の面影がそのままといった感じで、やっぱりなんかいいですね。<br />

    中に入ると、管理人のおばあさんがお守をしていました。中は少し小型の竹瓦温泉という雰囲気。昔の面影がそのままといった感じで、やっぱりなんかいいですね。

  • 浴槽はなぜ地下にあるのでしょうかの説明があって、間欠泉とか噴き上げる力の強い温泉以外は地面より上には噴き上げない。なので、地面より低い場所に噴き上げ口を設ける必要があるのでこうなるのだとか。

    浴槽はなぜ地下にあるのでしょうかの説明があって、間欠泉とか噴き上げる力の強い温泉以外は地面より上には噴き上げない。なので、地面より低い場所に噴き上げ口を設ける必要があるのでこうなるのだとか。

  • なるほどまた一つ新しい知識をいただきました。

    なるほどまた一つ新しい知識をいただきました。

  • では、改めて浜田温泉の方へ。

    では、改めて浜田温泉の方へ。

  • 昔ながらのレトロ感もあるし、少し大きめの温泉なのでゆったり感もいいと思います。

    昔ながらのレトロ感もあるし、少し大きめの温泉なのでゆったり感もいいと思います。

  • 亀の甲広場は、亀川温泉の一角。公園というか、何でもないような空き地に石の亀のモニュメントの池があったり、白亀塚という謂れのあるものも。これは、亀川白亀伝説に因むもの。飢饉が続いていた最中、この辺りで白亀が捕まり朝廷に献上するのですが、これを吉兆であるとして、年号を嘉祥(848-851年)に改めたというのです。続日本後紀にあり、これが亀川の語源にも。なるほどね!という内容です。

    亀の甲広場は、亀川温泉の一角。公園というか、何でもないような空き地に石の亀のモニュメントの池があったり、白亀塚という謂れのあるものも。これは、亀川白亀伝説に因むもの。飢饉が続いていた最中、この辺りで白亀が捕まり朝廷に献上するのですが、これを吉兆であるとして、年号を嘉祥(848-851年)に改めたというのです。続日本後紀にあり、これが亀川の語源にも。なるほどね!という内容です。

  • 亀陽泉は、別府八湯の一つ亀川温泉にあって老舗共同浴場の一つ。改装されて新しくなっているのですが、その分、中はきれいでバリアフリーなのもやさしい感じ。古いばかりがいいわけじゃないですよね。近所の人が中心ですが、観光客も入りやすい温泉です。

    亀陽泉は、別府八湯の一つ亀川温泉にあって老舗共同浴場の一つ。改装されて新しくなっているのですが、その分、中はきれいでバリアフリーなのもやさしい感じ。古いばかりがいいわけじゃないですよね。近所の人が中心ですが、観光客も入りやすい温泉です。

  • 筋湯温泉っていくつかあるような気がしますが、亀川にも筋湯温泉があって、亀川筋湯温泉。市街地の車道の脇にさりげなくありますが、けっこう粗末な建物で、内部は濃い紺色の配色。一人で入らないとちょっと窮屈に感じるくらい狭いですが、地元の人がけっこうやってきて、やっぱり大事にされているようには感じました。

    筋湯温泉っていくつかあるような気がしますが、亀川にも筋湯温泉があって、亀川筋湯温泉。市街地の車道の脇にさりげなくありますが、けっこう粗末な建物で、内部は濃い紺色の配色。一人で入らないとちょっと窮屈に感じるくらい狭いですが、地元の人がけっこうやってきて、やっぱり大事にされているようには感じました。

  • 四の湯温泉は、別府八湯の亀川温泉にある共同浴場。市街にあって、このこじんまりとした構えは別府ではお馴染みの雰囲気ですね。青いタイルの浴槽が鮮やかで、レトロな中にもちょっとおしゃれな感覚かな。悪くないと思います。

    四の湯温泉は、別府八湯の亀川温泉にある共同浴場。市街にあって、このこじんまりとした構えは別府ではお馴染みの雰囲気ですね。青いタイルの浴槽が鮮やかで、レトロな中にもちょっとおしゃれな感覚かな。悪くないと思います。

  • 別府競輪場は、共同浴場があるのがさすが別府という感じ。ただ、一方で入り口の門柱のとんがり屋根のステンドグラスや日が暮れてからの煌々とした照明なんかも意外に雰囲気がありますね。通りから入ってすぐの駐車場も広いのでけっこう気軽に立ち寄れます。

    別府競輪場は、共同浴場があるのがさすが別府という感じ。ただ、一方で入り口の門柱のとんがり屋根のステンドグラスや日が暮れてからの煌々とした照明なんかも意外に雰囲気がありますね。通りから入ってすぐの駐車場も広いのでけっこう気軽に立ち寄れます。

  • 競輪場の方は煌々と電気がついていましたが、

    競輪場の方は煌々と電気がついていましたが、

  • 競輪温泉は、その奥。別府八湯温泉道内8番。別府競輪場のゲートを入ってすぐの駐車場脇にある建物です。二階建ての建物の一部をい使った温泉ですが、中もこぎれいです。競輪場の広い駐車場が利用できるので、来る人にはけっこう便利かもしれません。

    競輪温泉は、その奥。別府八湯温泉道内8番。別府競輪場のゲートを入ってすぐの駐車場脇にある建物です。二階建ての建物の一部をい使った温泉ですが、中もこぎれいです。競輪場の広い駐車場が利用できるので、来る人にはけっこう便利かもしれません。

  • 競輪場前からはバスで別府駅まで。<br />トキハ別府店のフードコートに入っている東洋軒です。東洋軒は、とり天発祥のお店ということで、それなりに期待して訪ねました。

    競輪場前からはバスで別府駅まで。
    トキハ別府店のフードコートに入っている東洋軒です。東洋軒は、とり天発祥のお店ということで、それなりに期待して訪ねました。

  • ただ、店構えもそうですが、ここのとり天は本当にシンプル。ポン酢やドレッシング風なたれで食べるとり天も多い中で、ここは塩味なんですね。つけ合わせも最低限だし、とにかくとり天をしっかり食べてくださいというコンセプトなんでしょう。まあ、分からなくはないですが、あまりの飾り気のなさにはちょっと驚きました。

    イチオシ

    ただ、店構えもそうですが、ここのとり天は本当にシンプル。ポン酢やドレッシング風なたれで食べるとり天も多い中で、ここは塩味なんですね。つけ合わせも最低限だし、とにかくとり天をしっかり食べてくださいというコンセプトなんでしょう。まあ、分からなくはないですが、あまりの飾り気のなさにはちょっと驚きました。

  • 今日の宿は、アネックス松美。別府駅周辺のリーズナブルな宿の一つですが、他との違いで言うと、別府駅周辺のホテルの中では少し遠い方かな。風呂が不自然に大きかったりして昔のラブホテルを改装したような感じですが、その分、部屋の広さがあって全体に余裕がありますので、気にしなければむしろ寛げると思います。<br />明日は、大分市の周辺。また、けっこうな歩きになると思います。

    今日の宿は、アネックス松美。別府駅周辺のリーズナブルな宿の一つですが、他との違いで言うと、別府駅周辺のホテルの中では少し遠い方かな。風呂が不自然に大きかったりして昔のラブホテルを改装したような感じですが、その分、部屋の広さがあって全体に余裕がありますので、気にしなければむしろ寛げると思います。
    明日は、大分市の周辺。また、けっこうな歩きになると思います。

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