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1991年、飛鳥池遺跡南地区の発掘調査のとき、「大伯皇子宮」と書かれた木簡が発見されました。<br />「大伯」は「大来」と同じ。この時代、「皇女」も「皇子」と書かれていました。<br />伊勢から帰ってきた大来は、飛鳥のどこかの「大伯皇子宮」に住んでいたのです。<br />この宮がどこにあったのか、探してみたくなりました。もとよりピンポイントなどできません。でも少しは絞れたらおもしろい。<br />わずかなてがかりをたよりに、11月の2度目の飛鳥旅で、車、自転車、歩き、7泊8日のうちまる1日半費やしました。<br />我ながら物好きだと思います。しかしこれぞ旅の醍醐味。真の観光旅行です。<br /><br />それって、調査旅行っていうのよ。4トラのみなさんの豪華な御飯に比べて、車の中でミニパン食べるんだからね。<br />By妻<br /><br />六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。<br />引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。<br /><br />4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。<br />この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。<br />

六国史の旅 飛鳥の姉弟13 大来皇女宮はどこに?

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2020/12/13 - 2020/12/13

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旅行記グループ 六国史の旅 飛鳥の姉弟

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

1991年、飛鳥池遺跡南地区の発掘調査のとき、「大伯皇子宮」と書かれた木簡が発見されました。
「大伯」は「大来」と同じ。この時代、「皇女」も「皇子」と書かれていました。
伊勢から帰ってきた大来は、飛鳥のどこかの「大伯皇子宮」に住んでいたのです。
この宮がどこにあったのか、探してみたくなりました。もとよりピンポイントなどできません。でも少しは絞れたらおもしろい。
わずかなてがかりをたよりに、11月の2度目の飛鳥旅で、車、自転車、歩き、7泊8日のうちまる1日半費やしました。
我ながら物好きだと思います。しかしこれぞ旅の醍醐味。真の観光旅行です。

それって、調査旅行っていうのよ。4トラのみなさんの豪華な御飯に比べて、車の中でミニパン食べるんだからね。
By妻

六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。

4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • 発掘された木簡。<br />(複製。飛鳥資料館許掲載許可取得済み。以下資料館展示品も同様)

    発掘された木簡。
    (複製。飛鳥資料館許掲載許可取得済み。以下資料館展示品も同様)

    飛鳥資料館 美術館・博物館

    飛鳥の深い旅には必見 by しにあの旅人さん
  • 「大伯皇子宮」<br />これを探します。<br />何を手がかりにするか。ポイントは三つ。<br /><br />飛鳥宮内ではない。狭いところですから、まず場所がない。大津皇子の訳語田宮や、後述の定慧の屋敷は郊外にありました。<br /><br />二上山が見える。<br />「うつそみのひとなる我や、明日よりは、二上山を阿弟(イロセ)と我が見む」(2-165)<br />「肉体を持った人間である私として、大事の弟を葬った山だから、明日からは、二上山を兄弟と見ねばならぬのだらうか」(万葉集折口)<br />有名な万葉集の大来皇女の歌。屋敷から二上山が見えたはずです。<br />これは大来さんが住みたい基準。もっとも、大津皇子が二上山に移葬されたのは、大来さんが飛鳥にもどって数年後のことで、結果として屋敷は二上山が見える位置にあったということになります。<br /><br />監視しやすい場所。<br />屋敷は持統天皇が支給した。謀反人の姉ということになっていますから、いわば危険分子。監視しやすいところ、また飛鳥宮から遠くない方がいい。<br />こっちは持統さんが住まわせたい基準。<br />

    「大伯皇子宮」
    これを探します。
    何を手がかりにするか。ポイントは三つ。

    飛鳥宮内ではない。狭いところですから、まず場所がない。大津皇子の訳語田宮や、後述の定慧の屋敷は郊外にありました。

    二上山が見える。
    「うつそみのひとなる我や、明日よりは、二上山を阿弟(イロセ)と我が見む」(2-165)
    「肉体を持った人間である私として、大事の弟を葬った山だから、明日からは、二上山を兄弟と見ねばならぬのだらうか」(万葉集折口)
    有名な万葉集の大来皇女の歌。屋敷から二上山が見えたはずです。
    これは大来さんが住みたい基準。もっとも、大津皇子が二上山に移葬されたのは、大来さんが飛鳥にもどって数年後のことで、結果として屋敷は二上山が見える位置にあったということになります。

    監視しやすい場所。
    屋敷は持統天皇が支給した。謀反人の姉ということになっていますから、いわば危険分子。監視しやすいところ、また飛鳥宮から遠くない方がいい。
    こっちは持統さんが住まわせたい基準。

  • 飛鳥宮あとは飛鳥の原全体です。北に開けていますが、二上山はこの方向ではありません。遠くにうっすらと見えるのはたぶん耳成。

    飛鳥宮あとは飛鳥の原全体です。北に開けていますが、二上山はこの方向ではありません。遠くにうっすらと見えるのはたぶん耳成。

    飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) 名所・史跡

  • 西方向は甘樫丘に遮られて、二上山は見えません。<br />場所もないし、この一帯の平地ではありません。<br /><br />一書に曰く、<br />万葉集を初めて習った中学高校の時から、天香具山の名前は知っています。それから万葉集を習うにつれて、耳成、畝傍という名前も知って行くわけですが、初めて実物を見たときの、空振り感というか、がっかり感は、ちょっと表現できません。<br />えーっ、これが!こんなに小さいの?!って思いました。<br />写真では、それだけをアップしてますから、大きく見えるのですが。<br />お盆の上の盛り塩みたいでした。<br />天智天皇の短歌<br />香具山は、畝傍を をしと、耳成と相争いき、、って、畝傍って、相争わなければならないほどの山?<br />富士山と筑波山の背比べの昔話ほどのスケールもない。<br />アフリカにキリマンジャロ、ヨーロッパにマッターホルン。それなら明日香には二上山じゃあないのですかね。<br />高いし目立つし、特徴あるし。<br />なのに古代から、この三山が注目されるのは、姿形ではない、何か特別な理由があるのではないでしょうか。<br />例えば鉄が取れるとか、丹が露出しているとか、または宇宙船が飛来するとか。天香具山は山そのものが天下ったという言い伝えがあるそうですが。<br />なんだろ?<br />By妻<br />

    西方向は甘樫丘に遮られて、二上山は見えません。
    場所もないし、この一帯の平地ではありません。

    一書に曰く、
    万葉集を初めて習った中学高校の時から、天香具山の名前は知っています。それから万葉集を習うにつれて、耳成、畝傍という名前も知って行くわけですが、初めて実物を見たときの、空振り感というか、がっかり感は、ちょっと表現できません。
    えーっ、これが!こんなに小さいの?!って思いました。
    写真では、それだけをアップしてますから、大きく見えるのですが。
    お盆の上の盛り塩みたいでした。
    天智天皇の短歌
    香具山は、畝傍を をしと、耳成と相争いき、、って、畝傍って、相争わなければならないほどの山?
    富士山と筑波山の背比べの昔話ほどのスケールもない。
    アフリカにキリマンジャロ、ヨーロッパにマッターホルン。それなら明日香には二上山じゃあないのですかね。
    高いし目立つし、特徴あるし。
    なのに古代から、この三山が注目されるのは、姿形ではない、何か特別な理由があるのではないでしょうか。
    例えば鉄が取れるとか、丹が露出しているとか、または宇宙船が飛来するとか。天香具山は山そのものが天下ったという言い伝えがあるそうですが。
    なんだろ?
    By妻

  • 飛鳥資料館から岡寺までの県道15号からは二上山が見えます。<br />ここで注目は大原神社。<br />前の林が邪魔になり、ここから二上山は現在は見えません。<br />しかし大事なのは、飛鳥時代ここに当時の役人の屋敷があったことが確実なのです。<br />

    飛鳥資料館から岡寺までの県道15号からは二上山が見えます。
    ここで注目は大原神社。
    前の林が邪魔になり、ここから二上山は現在は見えません。
    しかし大事なのは、飛鳥時代ここに当時の役人の屋敷があったことが確実なのです。

  • 「現代語訳 籐氏家伝」の出番です。<br />「籐氏家伝」は天平宝字4年(760年)から同6年(762年)ころに成立した藤原氏の家史」(現代語訳解説、編者は藤原仲麻呂)<br />★鎌足伝<br />「大臣(鎌足)は推古天皇34年(626年)歳次甲戌に、藤原の邸宅で生まれた」☆<br />現代語訳注によれば、「藤原」は奈良県高市郡明日香村小原となっています。<br />★貞慧(じょうえ)伝(白鳳16年/天智4年/665年)<br />「百済の士人が貞慧の才能を妬み、ひそかに毒を飲ませたため、その年の12月23日に大原の自宅で亡くなった」☆<br />貞慧は藤原鎌足の長男、不比等の兄です。生まれつき非常に優秀で、11才で遣唐使に随行して唐に留学し、帰国後大原で死んだことになっています。<br />日本書紀では「定慧」ですが、籐氏家伝は「貞慧」としておりますので、これに従います。<br />ここで「大原」というのは、現明日香村小原です。<br />以下現在の地名は小原ですが、飛鳥ぽく大原と書きます。<br />鎌足一家はここにずっと屋敷を持っていたのです。<br />

    「現代語訳 籐氏家伝」の出番です。
    「籐氏家伝」は天平宝字4年(760年)から同6年(762年)ころに成立した藤原氏の家史」(現代語訳解説、編者は藤原仲麻呂)
    ★鎌足伝
    「大臣(鎌足)は推古天皇34年(626年)歳次甲戌に、藤原の邸宅で生まれた」☆
    現代語訳注によれば、「藤原」は奈良県高市郡明日香村小原となっています。
    ★貞慧(じょうえ)伝(白鳳16年/天智4年/665年)
    「百済の士人が貞慧の才能を妬み、ひそかに毒を飲ませたため、その年の12月23日に大原の自宅で亡くなった」☆
    貞慧は藤原鎌足の長男、不比等の兄です。生まれつき非常に優秀で、11才で遣唐使に随行して唐に留学し、帰国後大原で死んだことになっています。
    日本書紀では「定慧」ですが、籐氏家伝は「貞慧」としておりますので、これに従います。
    ここで「大原」というのは、現明日香村小原です。
    以下現在の地名は小原ですが、飛鳥ぽく大原と書きます。
    鎌足一家はここにずっと屋敷を持っていたのです。

  • 現在この地には大原神社があります。主祭神は奈良県神社庁によれば、品陀別命(ほむだわけの・みこと、応神天皇)、創建年代不明。<br /><br />

    現在この地には大原神社があります。主祭神は奈良県神社庁によれば、品陀別命(ほむだわけの・みこと、応神天皇)、創建年代不明。

    藤原鎌足誕生地 名所・史跡

    飛鳥時代のロマンを感じる散歩コース。駐車可。 by しにあの旅人さん
  • 鎌足とは関係なさそうです。<br />神社近くの案内板によれば、「明治初年まで、『藤原寺(とうげんじ)』(鎌足誕生堂)が立っていて、江戸時代後期に、国学者の本居宣長も訪れている」とありました。<br />

    鎌足とは関係なさそうです。
    神社近くの案内板によれば、「明治初年まで、『藤原寺(とうげんじ)』(鎌足誕生堂)が立っていて、江戸時代後期に、国学者の本居宣長も訪れている」とありました。

  • 神社近くには、鎌足の母大伴夫人(ぶにん)の墓とされる円墳があります。

    神社近くには、鎌足の母大伴夫人(ぶにん)の墓とされる円墳があります。

  • 小さな古墳ですが、被葬者など詳しい調査はされていないようです。

    小さな古墳ですが、被葬者など詳しい調査はされていないようです。

  • 神社近くには現在畑の平地があります。

    神社近くには現在畑の平地があります。

  • ある程度の規模の屋敷を作れる地形です。

    ある程度の規模の屋敷を作れる地形です。

  • 神社奥には鎌足が産湯を使ったという伝承の井戸があります。<br />つまりこのあたりは、水源には困らなかったということです。これは屋敷を構えるには好都合。<br />このあたりに飛鳥の高官の屋敷があったことは充分納得できます。岡寺までの谷筋は、飛鳥宮隣接の高級住宅地だったのではないかな。<br /><br />中大兄皇子(後の天智天皇)と当時の中臣鎌足が出会ったのは皇極天皇3年(644年)春、有名な法興寺の蹴鞠の時。中大兄皇子の住まいは飛鳥の宮のどこか。鎌足は生家、大原の屋敷。法興寺は飛鳥寺の前身ですから、すぐ近く。たぶん今の路とかわらず、700m、坂を下りて徒歩10分です。<br />長男貞慧は643年生まれの1才。その年の6月12日に蘇我入鹿暗殺を決行するのですから、幼児を家に残して、大原の屋敷を出て、この坂を下ったことになります。失敗した時はこの子はどうなると思ったでしょうね。「だいごろう・・・」という感じ。<br />鎌足の次男、かの有名な不比等は斉明天皇5年(659年)生まれとなっております。天智天皇の近江京遷都は667年、鎌足もこの年近江に移ったはずです。したがって、不比等が生まれたのは鎌足がまだ飛鳥にいたころです。場所はこの大原でしょう。<br /><br /><br />藤原武智麻呂は不比等の長男です。<br />★武智麻呂伝、<br />「(武智麻呂は)太政大臣不比等の長子で、(中略)天武天皇即位9年(680年)4月15日に、大原の邸宅で生まれた」☆<br />不比等は680年に大原に住んでいたことが分かります。次男房前(ふささき)は天武天皇10年(681年)生まれで、年子ですから大原生まれでしょう。妻蘇我娼子(そがのまさこ)は苦労したでしょうね。子供2人生まれて、夫は無職です。<br />この時代の不比等夫婦のイメージは、司法試験の勉強に没頭する夫を支える妻。娼子は畑で大根を作り、家計の足しにしたのではないか。<br /><br />不比等の史書デビューは、<br />★日本書紀持統3年(689年)2月26日、<br />「直広肆(じきこうし)藤原朝臣史(ふびと)」☆<br />とあります。30才です。天武天皇が定めた諸臣冠位48階の15番目、どのくらい偉いのか分かりませんが、中くらいらしい。「刑部省の判事」と書紀現代語訳の注にあります。公安警察の検事兼裁判官ですかね。<br />後年平城京では大邸宅を構えていましたが、この時代はしがない中級役人です。生家にそのまま暮らしていたことになります。<br /><br />大来皇女が明日香に戻ったのは686年ですから、不比等はまだ直広肆にも採用されていなくて、大原の屋敷で、子供2人かかえてくすぶっていたころです。<br />父鎌足は天智天皇の寵臣ですから、近江シンパと見なされてハブられていたのであります。朝廷への初出仕が30才とずいぶん遅い。<br />

    神社奥には鎌足が産湯を使ったという伝承の井戸があります。
    つまりこのあたりは、水源には困らなかったということです。これは屋敷を構えるには好都合。
    このあたりに飛鳥の高官の屋敷があったことは充分納得できます。岡寺までの谷筋は、飛鳥宮隣接の高級住宅地だったのではないかな。

    中大兄皇子(後の天智天皇)と当時の中臣鎌足が出会ったのは皇極天皇3年(644年)春、有名な法興寺の蹴鞠の時。中大兄皇子の住まいは飛鳥の宮のどこか。鎌足は生家、大原の屋敷。法興寺は飛鳥寺の前身ですから、すぐ近く。たぶん今の路とかわらず、700m、坂を下りて徒歩10分です。
    長男貞慧は643年生まれの1才。その年の6月12日に蘇我入鹿暗殺を決行するのですから、幼児を家に残して、大原の屋敷を出て、この坂を下ったことになります。失敗した時はこの子はどうなると思ったでしょうね。「だいごろう・・・」という感じ。
    鎌足の次男、かの有名な不比等は斉明天皇5年(659年)生まれとなっております。天智天皇の近江京遷都は667年、鎌足もこの年近江に移ったはずです。したがって、不比等が生まれたのは鎌足がまだ飛鳥にいたころです。場所はこの大原でしょう。


    藤原武智麻呂は不比等の長男です。
    ★武智麻呂伝、
    「(武智麻呂は)太政大臣不比等の長子で、(中略)天武天皇即位9年(680年)4月15日に、大原の邸宅で生まれた」☆
    不比等は680年に大原に住んでいたことが分かります。次男房前(ふささき)は天武天皇10年(681年)生まれで、年子ですから大原生まれでしょう。妻蘇我娼子(そがのまさこ)は苦労したでしょうね。子供2人生まれて、夫は無職です。
    この時代の不比等夫婦のイメージは、司法試験の勉強に没頭する夫を支える妻。娼子は畑で大根を作り、家計の足しにしたのではないか。

    不比等の史書デビューは、
    ★日本書紀持統3年(689年)2月26日、
    「直広肆(じきこうし)藤原朝臣史(ふびと)」☆
    とあります。30才です。天武天皇が定めた諸臣冠位48階の15番目、どのくらい偉いのか分かりませんが、中くらいらしい。「刑部省の判事」と書紀現代語訳の注にあります。公安警察の検事兼裁判官ですかね。
    後年平城京では大邸宅を構えていましたが、この時代はしがない中級役人です。生家にそのまま暮らしていたことになります。

    大来皇女が明日香に戻ったのは686年ですから、不比等はまだ直広肆にも採用されていなくて、大原の屋敷で、子供2人かかえてくすぶっていたころです。
    父鎌足は天智天皇の寵臣ですから、近江シンパと見なされてハブられていたのであります。朝廷への初出仕が30才とずいぶん遅い。

  • ここからが得意の妄説。<br />持統が大来の宮として指定したのは、不比等の屋敷の隣。<br />不比等には、持統の命令で「謀反人大津皇子の姉、危険人物大来皇女を見張れ」と指示。<br />3年間きっちりと役目を果たしたので、刑部省、つまり法務省、当時の公安警察に採用。以降持統天皇のお覚えよく、もともと血筋はいいので、とんとん拍子に出世。<br />いかがでしょう、話のつじつまはあいます。<br /><br />一書に曰く、<br />鎌足の息子という立場は、天智天皇の娘で、天武帝の妃である&#40469;野讃良皇女には、味方だろうか?敵だろうか?<br />それなら、大来皇女は、天武天皇の娘だけれど、天智天皇に養育されたわけですから、天武対天智という単純な対立ではないようですがね。もう、あまりにもゴチャゴチャで、何がなにやら。<br />結局この頃は、後の持統天皇対大津皇子側という対立があったとしか。<br />そして相変わらず、大来皇女は危険人物扱いだったことでしょうね。見張らされたのか、それとも、天武側の人間から見ての鎌足の息子は、やっぱり危険人物だったから、まとめて危険人物隔離ゾーンに押し込められていたのか?もしも後者だったなら、大来皇女と不比等には、心の通うことも多かったのではないか。<br />不比等に大いなる影響を与えたのは、大来皇女であった!<br />なんてなると、いよいよ大河ドラマですが。<br />By妻<br /><br />娼子の大根作りを大来さんが手伝ったという説をBy妻が唱えましたが、却下。<br />By夫<br />

    ここからが得意の妄説。
    持統が大来の宮として指定したのは、不比等の屋敷の隣。
    不比等には、持統の命令で「謀反人大津皇子の姉、危険人物大来皇女を見張れ」と指示。
    3年間きっちりと役目を果たしたので、刑部省、つまり法務省、当時の公安警察に採用。以降持統天皇のお覚えよく、もともと血筋はいいので、とんとん拍子に出世。
    いかがでしょう、話のつじつまはあいます。

    一書に曰く、
    鎌足の息子という立場は、天智天皇の娘で、天武帝の妃である鸕野讃良皇女には、味方だろうか?敵だろうか?
    それなら、大来皇女は、天武天皇の娘だけれど、天智天皇に養育されたわけですから、天武対天智という単純な対立ではないようですがね。もう、あまりにもゴチャゴチャで、何がなにやら。
    結局この頃は、後の持統天皇対大津皇子側という対立があったとしか。
    そして相変わらず、大来皇女は危険人物扱いだったことでしょうね。見張らされたのか、それとも、天武側の人間から見ての鎌足の息子は、やっぱり危険人物だったから、まとめて危険人物隔離ゾーンに押し込められていたのか?もしも後者だったなら、大来皇女と不比等には、心の通うことも多かったのではないか。
    不比等に大いなる影響を与えたのは、大来皇女であった!
    なんてなると、いよいよ大河ドラマですが。
    By妻

    娼子の大根作りを大来さんが手伝ったという説をBy妻が唱えましたが、却下。
    By夫

  • 大伴夫人の墓を左に見て坂を下ると飛鳥坐神社を経て飛鳥寺です。残念ながら、歩きませんでした。11月では籐氏家伝を読んでいませんでした。<br />鎌足が6月12日覚悟を決めてこの坂を下りたことも、不比等の通勤の路であったことも、不比等の子供2人、後の奈良時代を代表する政治家が遊び回った野原であることも、知りませんでした。<br />妻蘇我娼子(そがのまさこ)は、糟糠の妻でした。<br />武智麻呂伝には「(武智麻呂は)幼くして母を失い、激しく泣いて身体を壊し、おもゆも喉を通らず、あやうく死んでしまうところであった」とあります。「幼くして」ですから、娼子が死んだのは長男4,5才のころですね。優しい母であったようです。<br />娼子は、後の不比等の栄華どころか、直広肆としての夫の初出仕も見ませんでした。<br />不比等の妻としては、後妻の犬養三千代(いぬかいの・みちよ)ばかりが有名です。続日本紀出ずっぱりです。<br />無知では、旅ではつまらないものです。知っていたらわくわくしながらこの路を歩いたのに。<br /><br />一書に曰く、<br />日本には、妹(いも)の力なる言葉があります。<br />スサノオは、ヒロイン奇稲田姫を櫛に変えて髪に挿すことによって、八岐大蛇に勝ち、ヤマトタケルは、弟橘姫の犠牲によって浦賀水道を渡ることができました。そもそもそれ以前に、東国に出発する前に、おばの倭姫に会いに行くのは、妹の力を授けてもらうためでした。<br />そして、不比等。<br />まさに彼は、妹の力によって、ぐんぐん出世し、歴史に残る働きをした男でした。<br />彼は、糟糠の妻の死の後、若くて金持ちの娘との縁組みをしなかった。<br />縁組みしようという親たちもいなかったのか。だれにも出世するとは思われていなかったのかもしれませんが。<br />それでも、年増の出戻り?に目をつけた。<br />そこが先ず凡百の男どもとは違っておりました。犬養美千代という野心満々の才女を選んだところ、そして彼女の才を充分に引き出し、ある意味利用したところがすごい。違う言い方をすると、犬養美千代を使いこなせる能力のある男が他にいなかったのかもしれませんね。<br />何れにしましても、歴史的な運命の出会いでありました。<br />若ければいいという現代日本の男性たちは、反省した方がいいのではないですか?折角の幸運を逃してませんか?<br />使い込まれた銀食器、百年着てこなれた大島紬、古くても良いものは沢山あります。使い込まれ、磨き抜かれた物には、力がこもるのです。それをうつくしいというのです。<br />それでも新品のプラスチックがお好きなら、どうぞお好きなように。<br />By妻<br />

    大伴夫人の墓を左に見て坂を下ると飛鳥坐神社を経て飛鳥寺です。残念ながら、歩きませんでした。11月では籐氏家伝を読んでいませんでした。
    鎌足が6月12日覚悟を決めてこの坂を下りたことも、不比等の通勤の路であったことも、不比等の子供2人、後の奈良時代を代表する政治家が遊び回った野原であることも、知りませんでした。
    妻蘇我娼子(そがのまさこ)は、糟糠の妻でした。
    武智麻呂伝には「(武智麻呂は)幼くして母を失い、激しく泣いて身体を壊し、おもゆも喉を通らず、あやうく死んでしまうところであった」とあります。「幼くして」ですから、娼子が死んだのは長男4,5才のころですね。優しい母であったようです。
    娼子は、後の不比等の栄華どころか、直広肆としての夫の初出仕も見ませんでした。
    不比等の妻としては、後妻の犬養三千代(いぬかいの・みちよ)ばかりが有名です。続日本紀出ずっぱりです。
    無知では、旅ではつまらないものです。知っていたらわくわくしながらこの路を歩いたのに。

    一書に曰く、
    日本には、妹(いも)の力なる言葉があります。
    スサノオは、ヒロイン奇稲田姫を櫛に変えて髪に挿すことによって、八岐大蛇に勝ち、ヤマトタケルは、弟橘姫の犠牲によって浦賀水道を渡ることができました。そもそもそれ以前に、東国に出発する前に、おばの倭姫に会いに行くのは、妹の力を授けてもらうためでした。
    そして、不比等。
    まさに彼は、妹の力によって、ぐんぐん出世し、歴史に残る働きをした男でした。
    彼は、糟糠の妻の死の後、若くて金持ちの娘との縁組みをしなかった。
    縁組みしようという親たちもいなかったのか。だれにも出世するとは思われていなかったのかもしれませんが。
    それでも、年増の出戻り?に目をつけた。
    そこが先ず凡百の男どもとは違っておりました。犬養美千代という野心満々の才女を選んだところ、そして彼女の才を充分に引き出し、ある意味利用したところがすごい。違う言い方をすると、犬養美千代を使いこなせる能力のある男が他にいなかったのかもしれませんね。
    何れにしましても、歴史的な運命の出会いでありました。
    若ければいいという現代日本の男性たちは、反省した方がいいのではないですか?折角の幸運を逃してませんか?
    使い込まれた銀食器、百年着てこなれた大島紬、古くても良いものは沢山あります。使い込まれ、磨き抜かれた物には、力がこもるのです。それをうつくしいというのです。
    それでも新品のプラスチックがお好きなら、どうぞお好きなように。
    By妻

  • 話をもとに戻します。この現小原から岡寺あたりまでは、だいたい二上山が見えます。つまり大来皇女宮の候補地です。

    話をもとに戻します。この現小原から岡寺あたりまでは、だいたい二上山が見えます。つまり大来皇女宮の候補地です。

  • 左端の大きな屋根が万葉文化館です。飛鳥工房がありました。現県道15号に相当する道路が当時あったとは思えませんが、飛鳥宮から飛鳥工房までの路があったのは確実。そこから山に上がってすぐ近くですから、アクセスは楽だった。<br />飛鳥工房に工芸品を注文しに行くには便利です。<br />

    左端の大きな屋根が万葉文化館です。飛鳥工房がありました。現県道15号に相当する道路が当時あったとは思えませんが、飛鳥宮から飛鳥工房までの路があったのは確実。そこから山に上がってすぐ近くですから、アクセスは楽だった。
    飛鳥工房に工芸品を注文しに行くには便利です。

    奈良県立万葉文化館 美術館・博物館

    飛鳥観光の最初か最後に必見 by しにあの旅人さん
  • 飛鳥ぽい黒瓦屋根のどれかが飛鳥寺です。<br />飛鳥寺(当時は法興寺)、甘樫丘、畝傍、二上山が一直線に並ぶ、これぞ、The 飛鳥、という風景です。<br />大来皇女が弟を弔うには、ここは絶好の宮の位置ではあります。<br /><br />

    飛鳥ぽい黒瓦屋根のどれかが飛鳥寺です。
    飛鳥寺(当時は法興寺)、甘樫丘、畝傍、二上山が一直線に並ぶ、これぞ、The 飛鳥、という風景です。
    大来皇女が弟を弔うには、ここは絶好の宮の位置ではあります。

  • 飛鳥寺(法興寺)復元図。制作者Ooenonatukiさん。ウイキペディア・コモモンズのパブリックドメインにあります。利用制限なし。<br /><br />壬申の乱の時、飛鳥寺の周囲には人家はなかったようです。五重塔が目立ったでしょう。<br />★書紀天武元年(672年)6月29日、<br />「留守司の高坂王と、近江の募兵の使いの穂積臣百足らは、飛鳥寺の西の槻の木の下に軍営を構えていた。(中略)軍営の中の兵たちは、秦造熊の叫ぶ声を聞いてことごとく散り逃げた」☆<br />

    飛鳥寺(法興寺)復元図。制作者Ooenonatukiさん。ウイキペディア・コモモンズのパブリックドメインにあります。利用制限なし。

    壬申の乱の時、飛鳥寺の周囲には人家はなかったようです。五重塔が目立ったでしょう。
    ★書紀天武元年(672年)6月29日、
    「留守司の高坂王と、近江の募兵の使いの穂積臣百足らは、飛鳥寺の西の槻の木の下に軍営を構えていた。(中略)軍営の中の兵たちは、秦造熊の叫ぶ声を聞いてことごとく散り逃げた」☆

  • 軍営を構えて、かなりの兵が集まっていたので、飛鳥寺の西は開けていたことがわかります。<br />現在「入鹿の首塚」があるあたりが西になります。<br />

    軍営を構えて、かなりの兵が集まっていたので、飛鳥寺の西は開けていたことがわかります。
    現在「入鹿の首塚」があるあたりが西になります。

  • こういう風景と大差なかった。

    こういう風景と大差なかった。

  • 現代の飛鳥寺。左の金堂は建て替えられていますが、位置は飛鳥時代の法興寺と同じ。

    現代の飛鳥寺。左の金堂は建て替えられていますが、位置は飛鳥時代の法興寺と同じ。

  • 飛鳥大仏は609年鋳造で、当時もこの位置にありました。ただし現在に伝わるのは顔の一部といわれております。<br />大来皇女は、当時黄金色に輝く釈迦如来像を礼拝したか。飛鳥のどこに住まいがあっても、近いですからね、おそらくその機会はあったでしょう。<br />

    飛鳥大仏は609年鋳造で、当時もこの位置にありました。ただし現在に伝わるのは顔の一部といわれております。
    大来皇女は、当時黄金色に輝く釈迦如来像を礼拝したか。飛鳥のどこに住まいがあっても、近いですからね、おそらくその機会はあったでしょう。

  • 岡寺周辺にもポイントあり。

    岡寺周辺にもポイントあり。

  • 岡寺を通り過ぎて、石舞台方向に岡を下りかけたあたりに、二上山を見渡せるポイントがあります。<br />でもここは、彼女は嫌いだった。<br />

    岡寺を通り過ぎて、石舞台方向に岡を下りかけたあたりに、二上山を見渡せるポイントがあります。
    でもここは、彼女は嫌いだった。

  • 飛鳥浄御原宮がはっきり見えるのです。<br />「あすこに持統がいるのか」と毎日思うのは、大来はつらかったでしょう。<br />逆に持統としても、大来皇女から見下ろされるのは不愉快だったにちがいない。<br />このあたりは、宮の候補地としては失格。<br />

    飛鳥浄御原宮がはっきり見えるのです。
    「あすこに持統がいるのか」と毎日思うのは、大来はつらかったでしょう。
    逆に持統としても、大来皇女から見下ろされるのは不愉快だったにちがいない。
    このあたりは、宮の候補地としては失格。

  • 岡寺の麓に有料駐車場があります。

    岡寺の麓に有料駐車場があります。

  • この駐車場からも二上山は見えます。候補地の一つです。<br />11月17日16時27分ですから、そろそろ夕方の感じです。夕日をバックにシルエットになった二上山を「いろせ」と大来は見ていたのかな。<br />

    この駐車場からも二上山は見えます。候補地の一つです。
    11月17日16時27分ですから、そろそろ夕方の感じです。夕日をバックにシルエットになった二上山を「いろせ」と大来は見ていたのかな。

  • 階段を上ると、

    階段を上ると、

  • 左は現在の岡寺。

    左は現在の岡寺。

  • 右は治田神社。<br /><br />ここから和漢文がちょっと出てきます。私は漢文が読めるわけではなく、字面から大体の意味をくみ取るだけです。訓み方が違うなんて、言わないでね。<br /><br />ここに大来皇女宮があったのではないかという根拠らしきもの発見。<br />12世紀(1106年あるいは1134年)に編纂された東大寺要録という文書には、<br />★「天智天皇聞 食之 与日並智王子共令移岡宮。遂以宮賜僧正」☆<br />とあります。日並智王子(普通は日並皇子)は草壁皇子のこと。<br />「天智天皇これ(幼い義淵が優秀であること)を聞き、草壁皇子とともに義淵を育て、ともに岡宮に移させた。このようないきさつで宮を僧正に賜った」じゃないかと。<br />「明日香村文化財調査研究紀要第6号」によると、<br />「『東大寺要録』には義淵は草壁皇子と共に育てられ、皇子没後にその宮を寺としたとみえる」とあります。この一文のことです。<br />現在の岡寺が義淵の創建になることは間違いありませんから、草壁皇子は岡宮で育ち、草壁の死後義淵が岡寺を引き継いだことになります。<br /><br />後述の「薬師寺縁起」によれば、義淵は大津皇子の師でありました。<br />義淵が大津の師であれば、その姉大来が飛鳥に帰ってきたとき、義淵が大来を面倒見てもおかしくありません。彼がよく知っている現在の岡寺周辺に大来の宮を斡旋したというのが、推理の結論です。<br />

    右は治田神社。

    ここから和漢文がちょっと出てきます。私は漢文が読めるわけではなく、字面から大体の意味をくみ取るだけです。訓み方が違うなんて、言わないでね。

    ここに大来皇女宮があったのではないかという根拠らしきもの発見。
    12世紀(1106年あるいは1134年)に編纂された東大寺要録という文書には、
    ★「天智天皇聞 食之 与日並智王子共令移岡宮。遂以宮賜僧正」☆
    とあります。日並智王子(普通は日並皇子)は草壁皇子のこと。
    「天智天皇これ(幼い義淵が優秀であること)を聞き、草壁皇子とともに義淵を育て、ともに岡宮に移させた。このようないきさつで宮を僧正に賜った」じゃないかと。
    「明日香村文化財調査研究紀要第6号」によると、
    「『東大寺要録』には義淵は草壁皇子と共に育てられ、皇子没後にその宮を寺としたとみえる」とあります。この一文のことです。
    現在の岡寺が義淵の創建になることは間違いありませんから、草壁皇子は岡宮で育ち、草壁の死後義淵が岡寺を引き継いだことになります。

    後述の「薬師寺縁起」によれば、義淵は大津皇子の師でありました。
    義淵が大津の師であれば、その姉大来が飛鳥に帰ってきたとき、義淵が大来を面倒見てもおかしくありません。彼がよく知っている現在の岡寺周辺に大来の宮を斡旋したというのが、推理の結論です。

  • その場合、さきほどの駐車場など、どうでしょう。二上山はよく見えます。<br />岡宮、後の岡寺からはここは見下ろせます。つまり、持統は草壁の側近に命じて、大来を監視することができるのです。<br />

    その場合、さきほどの駐車場など、どうでしょう。二上山はよく見えます。
    岡宮、後の岡寺からはここは見下ろせます。つまり、持統は草壁の側近に命じて、大来を監視することができるのです。

  • 「えっ!」というような、インパクトのある妄説を。<br />平安時代長和4年(1015年)ころに書かれた「薬師寺縁起」という文書があります。詳しくは次回で触れる予定です。そのなかに、<br />★「義淵僧正者皇子平生之師ナリ」☆<br />「義淵僧正は皇子の常日頃の師なり」という意味だと思います。皇子とは大津皇子を意味します。「なり」略字みたいな記号ですが、変換ができないのでナリで勘弁して下さい。<br />「義淵僧正」という人物はこの岡寺を開山した高僧です。生年不明-神亀5年(728年)ウイキペディアは生年を皇極2年(643年)にしていますが、根拠が分かりません。<br /><br />「扶桑略記」(1094年編纂)という歴史書の天智天皇紀に、<br />★「天智天皇傳聞 相共皇子 令養岡本宮」☆<br />意味は「天智天皇これ(幼い義淵が優秀であること)を聞き、皇子と共に岡本宮で育てさせた」だと思います。この皇子は普通草壁皇子とされています。これ、ちょっとおかしい。草壁さんが、神童義淵と一緒に学べるほど賢いとは、書紀には書いてない。<br />「薬師寺縁起」を念頭におくと、大津皇子がふさわしい。共に育って「平生之師」というのは、年が少し離れていて、かつ義淵が極めて優秀で、いつも大津が教わっていた、というケースもありえます。<br />すると薬師寺縁起と一致します。<br />優秀な義淵と同じに育てるくらいだから大津皇子も優秀。これは書紀に一致。<br />神童といっしょに育てようというくらい、天智天皇は大津皇子を可愛がっていた。これも書紀に一致。<br />薬師寺縁起は、扶桑略記より79年、東大寺要録より91年~119年古い記録なので、こちらの方が古代の記録を正確に伝えている可能性はあります。<br />岡本宮はかつて斉明天皇の宮の名前で、現在の雷の丘の麓にありました。そこに新たに宮を造って、大津、義淵を育てたということになります。<br /><br />草壁皇子の宮は現在の石舞台近くの嶋宮とする説があるのです。学問的にはこちらの方が信頼性があるそうです。<br />「薬師寺縁起」「扶桑略記」のコンビネーションで、かつ草壁の宮が嶋宮で、岡宮などなかったとの前提にたちますが、現治田神社の向かって右にあったという建物跡など、いかがでしょうか。<br />

    「えっ!」というような、インパクトのある妄説を。
    平安時代長和4年(1015年)ころに書かれた「薬師寺縁起」という文書があります。詳しくは次回で触れる予定です。そのなかに、
    ★「義淵僧正者皇子平生之師ナリ」☆
    「義淵僧正は皇子の常日頃の師なり」という意味だと思います。皇子とは大津皇子を意味します。「なり」略字みたいな記号ですが、変換ができないのでナリで勘弁して下さい。
    「義淵僧正」という人物はこの岡寺を開山した高僧です。生年不明-神亀5年(728年)ウイキペディアは生年を皇極2年(643年)にしていますが、根拠が分かりません。

    「扶桑略記」(1094年編纂)という歴史書の天智天皇紀に、
    ★「天智天皇傳聞 相共皇子 令養岡本宮」☆
    意味は「天智天皇これ(幼い義淵が優秀であること)を聞き、皇子と共に岡本宮で育てさせた」だと思います。この皇子は普通草壁皇子とされています。これ、ちょっとおかしい。草壁さんが、神童義淵と一緒に学べるほど賢いとは、書紀には書いてない。
    「薬師寺縁起」を念頭におくと、大津皇子がふさわしい。共に育って「平生之師」というのは、年が少し離れていて、かつ義淵が極めて優秀で、いつも大津が教わっていた、というケースもありえます。
    すると薬師寺縁起と一致します。
    優秀な義淵と同じに育てるくらいだから大津皇子も優秀。これは書紀に一致。
    神童といっしょに育てようというくらい、天智天皇は大津皇子を可愛がっていた。これも書紀に一致。
    薬師寺縁起は、扶桑略記より79年、東大寺要録より91年~119年古い記録なので、こちらの方が古代の記録を正確に伝えている可能性はあります。
    岡本宮はかつて斉明天皇の宮の名前で、現在の雷の丘の麓にありました。そこに新たに宮を造って、大津、義淵を育てたということになります。

    草壁皇子の宮は現在の石舞台近くの嶋宮とする説があるのです。学問的にはこちらの方が信頼性があるそうです。
    「薬師寺縁起」「扶桑略記」のコンビネーションで、かつ草壁の宮が嶋宮で、岡宮などなかったとの前提にたちますが、現治田神社の向かって右にあったという建物跡など、いかがでしょうか。

  • 治田神社案内板<br /><br />「史跡岡寺跡<br />岡寺(龍蓋寺)は義淵僧正によって建立されたと伝えられる寺院であるが、創建当初の伽藍は仁王門の西か、ここ治田神社境内地にあったと考えられている。(中略)ここに古代の建物があったことは間違いない。(以下略)」<br />

    治田神社案内板

    「史跡岡寺跡
    岡寺(龍蓋寺)は義淵僧正によって建立されたと伝えられる寺院であるが、創建当初の伽藍は仁王門の西か、ここ治田神社境内地にあったと考えられている。(中略)ここに古代の建物があったことは間違いない。(以下略)」

  • 「明日香村文化財調査研究紀要第6号」によると、この建物跡から発掘された遺物は7世紀末-8世紀初頭です。大来皇女がここに住んだとすると686年-702年。おそらく695年ごろにはもういない。<br /><br />建物あとには雑草がひどくて入れませんでした。<br />

    「明日香村文化財調査研究紀要第6号」によると、この建物跡から発掘された遺物は7世紀末-8世紀初頭です。大来皇女がここに住んだとすると686年-702年。おそらく695年ごろにはもういない。

    建物あとには雑草がひどくて入れませんでした。

  • 駐車場から見るこの木立の中が建物あとです。<br />おそらく二上山は見えると思います。<br />

    駐車場から見るこの木立の中が建物あとです。
    おそらく二上山は見えると思います。

  • 飛鳥宮から見て甘樫丘の西側に和田池という溜め池があります。<br />私たちは、この池の周辺が大来宮をおく条件に合っていると思いました。<br />

    飛鳥宮から見て甘樫丘の西側に和田池という溜め池があります。
    私たちは、この池の周辺が大来宮をおく条件に合っていると思いました。

  • 和田池は飛鳥宮からは甘樫丘の反対側です。監視の目が行き届かないかというと、そうでもない。すぐ北に、推古天皇の小墾田宮とも言われていた古宮遺跡、壬辰の乱の時は近江朝の武器庫があったのです。<br />★天武元年(672年)6月29日、<br />「(穂積)百足(ももたり)だけは小墾田の武器庫にいて、武器を近江に運ぼうとしていた」☆<br />これです。<br />遺跡の案内板によると、壬辰の乱のあとも離宮や武器庫として奈良時代まで存続していました。つまり和田池周辺に大来皇女を閉じ込めれば、監視下におくことができるのではないか。<br />持統天皇にとっては住まわせたい場所です。<br />

    和田池は飛鳥宮からは甘樫丘の反対側です。監視の目が行き届かないかというと、そうでもない。すぐ北に、推古天皇の小墾田宮とも言われていた古宮遺跡、壬辰の乱の時は近江朝の武器庫があったのです。
    ★天武元年(672年)6月29日、
    「(穂積)百足(ももたり)だけは小墾田の武器庫にいて、武器を近江に運ぼうとしていた」☆
    これです。
    遺跡の案内板によると、壬辰の乱のあとも離宮や武器庫として奈良時代まで存続していました。つまり和田池周辺に大来皇女を閉じ込めれば、監視下におくことができるのではないか。
    持統天皇にとっては住まわせたい場所です。

  • 現在はなにもなくて、土壇に木が1本生えているだけ。

    現在はなにもなくて、土壇に木が1本生えているだけ。

  • 駐車場になっています。この地下にも遺跡が埋まっているそうです。

    駐車場になっています。この地下にも遺跡が埋まっているそうです。

  • 周囲は田んぼ、右端が土壇、中央にかすかに耳成山、左端に畝傍山が見えます。

    周囲は田んぼ、右端が土壇、中央にかすかに耳成山、左端に畝傍山が見えます。

  • ここからは二上山は、畝傍に遮られてまったく見えません。つまり県道124号沿線は、大来皇女宮の候補地からはずれます。

    ここからは二上山は、畝傍に遮られてまったく見えません。つまり県道124号沿線は、大来皇女宮の候補地からはずれます。

  • 二上山は見えないかなと思いましたが、念のため自転車で来ました、和田池。<br />この池は見るからに溜め池で、そんなに古いものとは思いませんでしたが、明日香村役場に電話で聞いてみました。係の方が丁寧に調べてくださりました。その方が驚いておられましたが、何と1681年にできた池でした。<br />そういう記録が村役場にちゃんと残っているのがすごい。でも明日香村では1681年なんて、昨日と同じかもしれません。681年ならちょっと古いといえますかね。<br />大来皇女の時代は甘樫丘西麓の谷の延長だったのでしょう。<br />

    二上山は見えないかなと思いましたが、念のため自転車で来ました、和田池。
    この池は見るからに溜め池で、そんなに古いものとは思いませんでしたが、明日香村役場に電話で聞いてみました。係の方が丁寧に調べてくださりました。その方が驚いておられましたが、何と1681年にできた池でした。
    そういう記録が村役場にちゃんと残っているのがすごい。でも明日香村では1681年なんて、昨日と同じかもしれません。681年ならちょっと古いといえますかね。
    大来皇女の時代は甘樫丘西麓の谷の延長だったのでしょう。

  • ダメ元でぐるっと回ってみました。<br />左から葛城山がのびてきて、畝傍らしい山があって、うん?その間にちょっと見えるのは・・・<br />

    ダメ元でぐるっと回ってみました。
    左から葛城山がのびてきて、畝傍らしい山があって、うん?その間にちょっと見えるのは・・・

  • 民家の屋根に真ん中が隠されていますが、二上山の雌岳と雄岳です。

    民家の屋根に真ん中が隠されていますが、二上山の雌岳と雄岳です。

  • これは甘樫丘からの畝傍と二上山。手前の池が和田池です。

    これは甘樫丘からの畝傍と二上山。手前の池が和田池です。

  • 甘樫丘の斜面を少し登り、西麓、現在は段々畑になっているあたりからは、二上山丸見えです。<br />俄然有力候補地となりました。<br />大来皇女としては、最初は押し込められて不愉快だったかもしれませんが、遮る物なく二上山を見渡せるので、満足だったでありましょう。<br /><br />一書に曰く、<br />大来皇女邸から二上山は見えた?<br />大来皇女の屋敷を捜して、二上山が見える。ということを頼りに、By夫は、あちらこちら走り回りまして、わたしもひきずられて、一緒に道路脇で、「見えるかあ?」「見えないよー」なんてやったんです。<br />明日よりは、二上山を いろせと わが見ん<br />ですからね。<br />でも、ただいま冷静になりましたら、私とBy夫とは、背の高さも違いますし、見え方違うんじゃないかと。<br />それに現代だって、墓参りには、年に何回かしか出かけません。あの時代だって、一日中見ている必要はないんじゃないか。<br />二上山が見える静かなところに、独り行って、人知れず涙を流せばいいのではないですかね。<br />そのほうが、私の抱く大来皇女のイメージに合うのですけれど。<br />By妻<br />

    甘樫丘の斜面を少し登り、西麓、現在は段々畑になっているあたりからは、二上山丸見えです。
    俄然有力候補地となりました。
    大来皇女としては、最初は押し込められて不愉快だったかもしれませんが、遮る物なく二上山を見渡せるので、満足だったでありましょう。

    一書に曰く、
    大来皇女邸から二上山は見えた?
    大来皇女の屋敷を捜して、二上山が見える。ということを頼りに、By夫は、あちらこちら走り回りまして、わたしもひきずられて、一緒に道路脇で、「見えるかあ?」「見えないよー」なんてやったんです。
    明日よりは、二上山を いろせと わが見ん
    ですからね。
    でも、ただいま冷静になりましたら、私とBy夫とは、背の高さも違いますし、見え方違うんじゃないかと。
    それに現代だって、墓参りには、年に何回かしか出かけません。あの時代だって、一日中見ている必要はないんじゃないか。
    二上山が見える静かなところに、独り行って、人知れず涙を流せばいいのではないですかね。
    そのほうが、私の抱く大来皇女のイメージに合うのですけれど。
    By妻

  • ★持統8年(694年)12月6日、<br />「(持統天皇は)藤原宮に遷都された」☆<br />遷都に前後して皇族方も藤原京へ移ったはずです。大来皇女が藤原京に住んだ記録はありません。飛鳥に残ったという記録もない。どこに住んだか。唯一推測できる根拠は、飛鳥から東へ約40km、隠(なばり)、現名張市にありました。<br />かつて13才のころ、伊勢の斎宮となる前、1年半禊ぎをした泊瀬あるいは小夫の郷の彼方です。<br />禊ぎが終わり、伊勢の斎王宮へ向かうとき、天武3年(674年)冬10月初旬、大来は隠を通りました。思い出の地であります。<br />それから20余年、再びこの地を訪れたとき、大来皇女は何を思ったでしょうか。<br />

    ★持統8年(694年)12月6日、
    「(持統天皇は)藤原宮に遷都された」☆
    遷都に前後して皇族方も藤原京へ移ったはずです。大来皇女が藤原京に住んだ記録はありません。飛鳥に残ったという記録もない。どこに住んだか。唯一推測できる根拠は、飛鳥から東へ約40km、隠(なばり)、現名張市にありました。
    かつて13才のころ、伊勢の斎宮となる前、1年半禊ぎをした泊瀬あるいは小夫の郷の彼方です。
    禊ぎが終わり、伊勢の斎王宮へ向かうとき、天武3年(674年)冬10月初旬、大来は隠を通りました。思い出の地であります。
    それから20余年、再びこの地を訪れたとき、大来皇女は何を思ったでしょうか。

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六国史の旅 飛鳥の姉弟

この旅行記へのコメント (5)

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  • 前日光さん 2021/04/23 23:57:31
    捨てがたい大根作り手伝い説( ・∀・)
    こんばんは しにあさん
    大来皇女宮はいずこに?

    大来が飛鳥に戻ったのが686年、不比等が史書に登場したのが689年、不比等が大原でくすぶっていた時期に、大来との接触は確かに考えられますね?
    持統は不比等をどのように見ていたのか?
    不比等の父鎌足と天智は切っても切れない親密な関係、でも持統の父は天智、しかも持統の酷薄な性格は、たぶんに天智の血を受け継いだものと自他共に認めていたとすれば?
    一方の大来が男勝りで、ややもすると持統へのクーデターを大津にけしかけたというのであれば、これまた祖父である天智の血を引いたのかもしれず。。。

    はてさて、そういう持統から見て不比等とはいったい?
    大来は不比等に親近感を抱いてもおかしくはないですね?
    不比等から見て大来は、名目上は彼女を見張らねばならぬとはいえ、父鎌足の敬愛する天智が愛した孫娘が大来なのですから、勢い大来に対しては、少しばかり怪しい動きがあったとしても、おそらくは目をつぶったのではないでしょうか?
    つまり持統は、不比等を心底信頼していたとは思えません。

    不比等と犬養の三千代って、似たもの同士ですよね?
    何らかの野望を持ち、愛情よりは同士としての結びつきの方が強い。
    目的達成のためには手段を選ばないようなところが、この二人にはあったように思います。
    後の藤原氏の天下は、この二人の合理的な決断や判断によって、まるで藤の枝のようにしぶとく逞しく、他の木にもまとわりつき締め上げて、ついに藤の枝に取り込んでしまうような執拗さで築いていったのではないでしょうか?

    不比等の話になると、ついいろいろな方向に発展してしまいます(^^;)
    この旅行記のテーマは「大来皇女の宮」はどこか?ということでした。
    で、私は和田池説が頷けるのですが(一日中二上山が見えなくてもいいという)、でも現大原神社辺りで、不比等の糟糠の妻娼子と大来が仲良く大根を作っていたのではないかというby妻説が捨てがたいのです!
    岡寺麓の二上山がよく見える駐車場辺りから、山を眺めながら大根掘りに精を出す娼子と大来皇女、牧歌的でなんかイイですよね!

    鎌足の長子定慧にも、ものすごく興味があるのですが(妖術を使うという妄想説あり)これも言い出すとキリがないので、この辺にいたします。
    種々の文献からの考察妄察、楽しませていただきました。
    ちなみに私は記紀その他、ほとんど読んでおりません。
    漢文は苦手で教科書掲載以外のモノは、読めません。
    聞きかじりの事柄を繋ぎ合わせて、辻褄合わせをしているにすぎません。
    細かい所を突かれると、返答に窮します。
    わずかな知識に妄想をふくらませているだけなのです(~_~;)
    今後ともお手柔らかに(^◇^;)


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/04/24 09:10:48
    Re: 捨てがたい大根作り手伝い説( ・∀・)
    今回もタイムトラベルの思考実験にお付き合いいただき、同好の士を得て嬉しいかぎりです。
    歴史資料から得られる条件の範囲内で、あれこれ可能性を考えていくのが、大好きなのです。
    鎌足が大原生まれは知っていました。息子の貞慧がここで死んだというのをどっかで読んだ時、もしやと思って藤氏家伝を読んだら、大当たり、鎌足さん一家は不比等の時代までここに住んでいたのでした!大来大津の近江脱出の謎の23日の発見(!?)に次ぐ大スクープ(???)週刊文春に売り込もうかな。

    不比等と大来の付き合いは、前日光さん、kummingさん、By妻も、どちらかというと仲良し説のようです。一方私は、不比等は真面目に監視役をやったのではないかと。「今日の大来」とかいう日誌みたいなのを作って、毎日大来邸の動静を記録、毎日持統さんに送った。「今日のおかずは大根だった、なんて報告してこなくもいいのに。でもこの不比等って、真面目ね」とか持統さんに思われて、出世の糸口にした、のではないかと。

    しかし、不比等と大来は天智天皇関連で同類項にまとめられるのは、考え付かなかった。次の最終回で触れますが、持統と大来は後年仲直りした形跡があるのです。その裏で動いたのは不比等だったという可能性も排除できないなと思いました。
    不比等という人物は、こういう風に裏でなんかやるというイメージがありますね。
    それにしても、不比等というとどうして話が盛り上がるのですかね。kummingさんも相当な不比等ファンのようです。

    私も漢文は読める部類に入りません。でも漢字のありがたいところで、ぼーっと字を眺めているとなんとなく意味がわかってくることも、あるのです。フェデリーコ2世を追いかけていた時、資料を辿っていくと、最後はラテン語になってしまうことがありました。その場合はここでおしまい。イタリア人やフランス人は、ラテン語などやったことがなくても、なんとなく意味がわかるらしい。我々の漢文だなと思っています。
  • kummingさん 2021/04/22 11:03:10
    不比等さんちのお隣^o^
    しにあさんこんにちは♪
    昨夜から何度か読ませて頂き、大来皇女の居住地を探る旅、妄説1~4楽しみました♪
    検証順番に不比等さんち、飛鳥寺、岡寺、和田池、ですが、信憑性は逆順?

    まず、思いっきり逸脱しますが、不比等さんちの隣説。藤原氏家伝まで読まれたので?
    中でも「不比等伝」だけが散逸、又は消失してしまったというのは、やはり不比等さんは才女三千代に助けられただけのただのおっさん(TT)なので、業績を消したかった?それとも、藤原家繁栄の基礎固め、黒子、影の実力者に徹する為に、敢えて遺棄した?
    持統さんに睨まれる事確実なので、妻には監視役を命じ、付かず離れず怪しまれない距離感に徹し、大来皇女は誇り高い女人故、一緒に大根掘りましょ~、のお誘いは上手にお断り。残念ながら、大河ドラマにはなりそうにないか?
    一番あやしい不比等さんちのお隣説に萌え~^o^ 不比等さんの出番を、無理矢理?増やして頂き、ありがとうございます^ ^
    生まれて最初に見た大人が白鳥だったので、自分も白鳥だと思い込んだまま成長したアヒル(←長っ)、と同じく、誤ちかもしれない認識を中々書き換えられない私でございます。げに、思い込みとはあなおそろし。三千代さんが烈女、だったというのは、日本書紀現代語訳に出てきますか?その辺、ちょっと知りたいです。
    今や奈良も危険水準で近寄り難くなりにけり、ですが、いつか私も不比等さまが通ったあの坂道を歩いてみたい♪

    さて、本筋に戻ります。
    飛鳥寺は、確かに54個のジュエリー発注には最適の立地。
    次は岡寺説。東大寺要録、薬師寺縁起、扶桑略記、を読み解かれてたどり着いた、岡寺を開いた神童義淵僧正と共に大津皇子が育った地、岡宮。なあるほどね~、といいつつも、実は、岡寺、岡宮、岡本宮、の定義がよく分かっていませんが(ーー;)

    最後に、甘樫丘の西側、和田池付近説。
    念のために自転車で行き、ダメ元でぐるっと廻って、ようやく見つけた二上山が見える場所♪ それなのに、by妻さんに、一日中見える場所でなくっても?と言われては立つ瀬がないではありませぬか!私、しにあさん、by妻さんが脚で稼いだこちらの説に清き一票を♪
    今まで散々、おちゃらけた、場当たり的な、的外れの、とんちんかんなカキコをして来ておいて、今更言うのもアレですがm(_ _)mこの後も続くらしい六国史シリーズを楽しむ為には、最低限現代語訳日本書紀、古事記あたりは基礎教養として抑えなきゃな~、と思う今日このごろ…。
    前日光さんみたいな正統派のコメント、憧れるアヒルでございます(笑)
    大津大来編の最終章、楽しみにしています♪

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/04/22 19:58:50
    Re: 不比等さんちのお隣^o^
    初コメありがとうございます。
    「藤氏家伝」は短いし、現代語訳あるので楽勝。
    「東大寺要録」「薬師寺縁起」「扶桑略記」は現代語訳なし。「扶桑略記」は漢文と読み下し文は出版されているようですが、お値段がものすごく高い。幸いネットに漢文原文がありました。これらを打ち込んだ方、その熱意に感謝、驚嘆です。普通の日本語ではないので、数千字の漢字一字一字打ち込むのです。助かりましたが、もはやこれは文化的功績です。頭が下がります。それを元に妄説を垂れるのは申し訳ないくらいです。
    「薬師寺縁起」は何にもなくて、夏目廃寺資料館でとってきた写真を頼りに解読しました。

    三千代さんが活躍するのは、続日本紀です。こいつは貴重な資料かもしれないけれど、あんまり面白くない。通読するにはかなりの根気と目的意識がいります。そこにいくと、日本書紀や古事記は、単純に、血湧き肉躍る面白さ。青少年向きです。
    三千代さんは今回は出演予定がないので、私は真面目に読んでいません。でもすごい女性で、最初の夫との間に生まれた子供が橘諸兄。2番目のダンナが不比等さんで、娘がのちの光明皇后。子供を産むという女にしかできない武器で(あれ、これセクハラ表現?)間接的に古代日本を支配しちゃったわけで、やっぱり烈女だと思います。
    もう少し後の時代の薬子さんと並んで、その個性で日本古代に燦然と輝いております。
    続日本紀はこういう風にテーマを絞って意地悪く読むと面白いです。字面の向こうに週刊誌的悪趣味あり。人生経験ある中高年向け。
    極め付けはご存知孝謙天皇と道鏡さん。

    長くなるので、今回はコメントの返事を分割します。とりあえず今夜はここまで。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/04/23 08:04:18
    Re: 不比等さんちのお隣^o^
    続きです。
    不比等さんと大来さんが飛鳥にいた時期は重なります。不比等さんが大原にいたのはほぼ間違いなく、その間大来さんがどこに住んでいたとしても、ご存知の通り飛鳥は狭いところですから、どこかで出会った可能性はあるでしょうね。
    不比等さんはこの時期まだ無名ですが、大来さんは有名人ですから、遠くから見て「あ、大来だ!」くらい思ったかもしれない。2人の交点というと飛鳥寺くらいですかね。
    ロマンがいっぱいの飛鳥です。
    5月に3度目の奈良飛鳥旅を目論んでいたのですが、中止にします。今回は奈良の北から宇治のあたりがメインのつもりでしたが、どうにもなりません。
    ワクチン券が町役場から送られてきました。でもいつ、どこで打ってもらえるかはまだわかりません。

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