2020/12/10 - 2020/12/10
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しにあの旅人さん
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日本書紀天武3年(674年)冬10月9日、
「大来皇女は泊瀬の斎宮から伊勢神宮に移られた」
皇女の行き先をたどってやって来たのは、ただの畑、林、近鉄山田線の線路。
2018年、三重県明和町史跡斎宮跡の発掘調査で、飛鳥時代の斎宮の中枢宮殿跡が特定されました。それがこの場所です。
2020年11月21日、その斎王宮跡発掘現場が公開されました。
専門家に教えていただき。まさに大来皇女が立ったであろう所に、ピンポイントで私たちも立ち会いました。
六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
-
斎宮歴史博物館は2018年に2度にわたり発掘調査を行い、193次調査では、
「飛鳥時代の掘立柱塀が方形区画(東西約41m、南北55m以上)を形成していたことがほぼ確実となり、この区画の内側が、飛鳥時代における斎宮の中枢、つまり斎王の宮殿域であると特定できました」とありました。
この調査情報を見つけたとき、「絶対斎宮歴史博物館に行くぞ」と決めました。
「現場に行ってみる」これが私たちの縦の旅の原則です。斎宮歴史博物館 美術館・博物館
-
斎宮歴史博物館
〒515-0325 三重県多気郡明和町竹川503
今回の飛鳥、奈良の旅では、とにかく博物館にお世話になりました。私たちの立ち回り先は遺跡が多いので、行ってみたところでただの空き地、畑が多い。想像力で地を貫き、空に絵を描くのですが、材料がなくてはどうにもならない。事前にネットで情報を仕入れ、仕上げは博物館です。
斎王宮博物館受付で、飛鳥時代の斎王宮跡に行きたいので、資料がほしいと申し込みました。係の女性はとても親切で、すぐに担当者を呼んでくれました。しばらくするとみるからに考古学者という若い男性がおいでになって、資料を下さいました。 -
「現在は埋め戻されているので、なにもありませんよ」
「存じておりますが、大来皇女の追っかけをやっておりますので、跡地を是非見たいのです」
若い考古学者は、ニコっとほほえまれました。
こういう案内図があるというのは、私たちのようなマニアは他にもいるということです。
案内図にある砂利敷きの駐車場への道順も丁寧に教えて下さいました。 -
現場の目印はこの建物の屋根。航空写真と同じものです。
-
現場が特定できたときの感動は特別なものがあります。
-
天武3年10月9日、西暦674年11月12日、この日大来皇女は、真新しい斎王宮に足を踏み入れました。澄み切った晩秋の蒼い空を見上げたでありましょう。
1326年前のこの日、大来皇女はこの近くにいたのです。 -
近鉄山田線
-
その日から1326年後、このようなものが彼女の目の前を驀進するとは、夢にも思わなかった。
-
中央左の林が斎王宮北端です。
-
11月21日、発掘現場公開の日です。
13時現場集合です。林の中にブルーシートが見えます。
私たちは一番乗り。やがて数名の参加者。予定時間に少し遅れて博物館のキュレーターさん2名。
「遅れました~」といいながら駈けて来られました。
現場の概略の図面をいただき、各自自由に見学、質問は自由、というやり方です。参加者はみなさん斎王宮の予備知識はたっぷり、質問したくてうすうずしているのが分かります。
どのように遺跡が公開され、どんな人が参加するのかしら?
初めてこういう機会を得た私は、興味津々。不安も少々。
最初は、やっぱり講堂みたいなところで講義があって、斎王の研究に人生をかけたというプロフェッサーが、にこりともせずに私を一瞥し、素人が来るんじゃないよ。ふんっ。ってことになったら、どうしよう。私心配。
この博物館そのものは二回目です。前回は、博物館の見学が目的でした。斎王になった少女がどのように旅をして、どのような生活をしたかというビデオを見ました。斎王役の少女が、誠に可憐で上品でした。
そのときに、本日発掘現場公開の話を知ったのです。
ビデオの少女の効果抜群。By夫は、美人に弱いもので、行く!絶対に行く!と、万難を排して今日の佳き日を迎えたのであります。って結婚式みたいですが、それくらいの意気込み。
公開は13時からというのに、12時には着いちゃいました。
遅刻なんてとんでもない!
サテ、講義がどのくらい続くのか分かりませんので、トイレにも行き。ハンカチちり紙用意して、爪は昨日切ったし。よしっ!どこからでも来い!
もしも参加者がいっぱいで、見えなかったらどうしよう?BOSOから遠路遙々来たのに。愛するネコと、ナミダの別れをしてきたのに。ってことにならないように、がんばって一番前の席をとらねば。
私は、燃える思いを胸に秘め、その辺りをぶらぶらします。ハハハ
その辺りって、畑の中ね。うちの近所とどこが違うか、違いを述べよ。の世界です。が、間近に電車がごーっと走ります。うちの近くは電車はありません。負けた のかな?
畑中の道を急ぎぬ。と、急行電車は、小石のように黙殺したと藤村、梶井基次郎を、思い出していました。ヒマだからね。そうしたら、いかにもって感じの女性がやって来たではないですか。うーむ、気むずかしいプロフェッサーは、女性だったか。と、思ったら、この人も見学者なんだって。
ということで、ぽつりぽつり人が集まってきて、手持ち無沙汰。
なんか話した方がいいかな。一緒に講義受けるんだしとか考えてたら、バタバタって作業服姿の女性と男性。
ふたりとも若かったなあ。
川端の小説に出てきましたねえ。考古学者。あーロマンティック。
で、始まりました。
講義なし。気むずかしいプロフェッサーなし。ぎゅうぎゅうの見学者なし。
さわやかーに、「分かることは、お答えします。でも、わからないことばっかりなんですよねー。」だって。
気がつけば、子供連れのパパとかも、見学者の中にいまして、非常にファミリアルかつ爽やかな午後でありました。
By妻 -
いただいた現場資料。
-
199次調査地が今回の公開場所です。
斜方位区画というのは、その後の奈良時代区画が正確に南面しているのに対し、東に33度傾いているからです。
ピンクの部分がこの区画で、短辺41m、長辺55m。ただし長辺は確認されている部分で、おそらく75mはあるだろうと、キュレーターさんは言っておられました。 -
ここあたりから遠くの鉄塔の方向にむかって、東の塀がありました。
-
斎王宮の解説ビデオから。四脚門があったようです。これは正門でありません。正門はまだ発掘されておりません。近鉄山田線の線路の下であろうとのこと。
-
四脚門を入ると左右に倉庫と思われる建物が左右に並んでおりました。
その西に、細い溝が平行して掘られており、目隠し塀を設置していました。通常の官衙(役所)にはない構造で、斎王宮の特徴だそうです。正殿に昇る斎王に倉庫など見せてはいけない、ということです。 -
発掘現場に入ります。
-
飛鳥時代の地表は現在より約1m低く、掘り下げると掘っ立て柱を埋めた跡が出てきます。柱はここよりさらに1mほど埋め込まれておりました。
-
私たちのためにブルーシートをどけていただいたようです。
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全景です。
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写真右奥の角が、
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緑〇です。ここが正殿のほぼ中央だそうです。ということは正殿にのぼる階があったはず。大来皇女は、ピンポイントでこの位置に立ったことになります。
-
木陰に立っているのはBy妻です。彼女が立っているのが、1326年前の大来皇女の立ち位置です。
ここから皇女は斎王宮のもっとも重要な場所、宗教的儀式を執り行う正殿に昇りました。
私たちが想像する14才の大来ちゃんは、好奇心の強い娘さん、目隠し塀の向こうに何があるか、覗いたりして。
まわりには伊勢の国司などがお供しています。
「皇女様、あとになさいませ」とか、そばにいる命婦に怒られました。
「ルっさいつうの」と古代飛鳥語で言って、ペロッと舌を出して、それでも大来ちゃんは威儀を正して昇殿するのでありました。
14才とはいえ、すでにまわりの女官より頭ひとつ背が高い。斎王の華麗な衣装に身を包んだ美貌の少女は、晩秋の伊勢の柔らかい陽光に映えたでありましょう。
斎王宮の周囲は、天武チルドレンの一人に率いられた兵が警備を固め、大来ちゃん間近では、似合わない女官姿の護衛、絵楠、和伊、説菟が周囲に目を光らせておりました。
ところが、キュレーターさんより不思議なことをうかがいました。発掘の結果、この区画からは衣食住の生活の痕跡が見られない。儀式の場所ですから、それは当然かもしれません。しかし、土器の破片など、儀式を執り行った痕跡も少ないのだそうです。
つまりあまり使われなかった可能性がある。
前回、大来皇女はここで祭祀など行う気はさらさらなかったという説をぶち上げました。その証拠になるかもしれない、ちょっとゾクっとしました。
でも天武3年(674年)冬10月9日、着いたその日くらいは、正殿にあがってもいいのではないかな。
私たちとしては、ここが大来皇女のプライベートな住まいであったと思っていたのですが、そうではない。この近くではあろうが、まだ発掘されていないそうです。
「斎王宮全体の発掘にはあとどのくらい時間がかかるのですか?」と聞いてみました。
「100年でできるでしょうか」
「え、私が生きている間では無理ということですね」
「私が生きている間でもダメでしょうね」
と言ったキュレーターさんは、30才前だと思います。
飛鳥時代斎王宮の概略が分かるだけでも、あと数年でできるかどうか、だそうです。 -
この日、天武3年10月9日、西暦674年11月12日、14才の少女は12年後に自分たち姉弟に襲いかかる悲劇を予想もしなかったのです。
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この旅行記へのコメント (8)
-
- 前日光さん 2021/03/26 00:03:22
- 生活の痕跡がない!
- こんばんは。
いいね!だけは早めにしたのですが、その後ヤボ用に忙殺されてなかなかコメントができず。。。<(_ _)>
さていよいよ発掘現場に!
これはワクワクしますね。
30代とおぼしき学芸員さん、「大来皇女おっかけ」のセリフに思わずニコッとして一気に打ち解け、同好の士と化す、いい空気感ですね。
同じ趣味は年齢も性別も越えますよね!
それにしても西暦674年11月12日、14歳の少女大来が立ったであろう地に今自分が立っている!という感動。何ものにも代えがたいですね。
飛鳥時代の地表は、降り積もる時の流れと物理的な泥土に覆われて、現在よりも1メートルも低いところにあったのですね。
斎王宮全体の発掘には、あと100年もかかるのですか( ̄∇ ̄)
気が遠くなるようなお話ですが、考古学のそういう天文学的な時間の観念がまた素敵ですね。
現在2歳の我が家の孫姫でも、見届けることができませんね。
何事にも結果を急ぎ、早く知りたいと心を急かしている現代人が、ひととき立ち止まって、そういう時間の観念に身を置いてみたらいいんじゃないかと、何事にもトロい私などは思います。
こういう浮き世離れした現場に集まる人々に、会ってみたいものです。
しにあさんやby妻さんや私、またこの掲示板にコメントされる方々は、きっと同じ空気感を纏っているのでしょう。
確かにこの12年後、彼女を襲う悲劇を思うと痛ましい気分に陥ります。
しにあ説では、たぶん大来は気丈にもその現実をしっかりと受け止め、強く生きて行くとなるのでしょうか。
私はまだ大来の、健気ではあっても手弱女ぶりが勝っているという印象を捨てきれないでいます。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/03/26 07:18:51
- Re: 生活の痕跡がない!
- おはようございます。
私たちの大来皇女を訪ねる縦の旅では、僅かな資料を頼りに、大来の死まで彼女の人生をたどります。次がいよいよ万葉集の歌の解釈なのですが、バラバラに拡散して、By妻からダメ出しが出ました。なんと、ご専門の家持まで出演させるつもりでいますが、前日光さんに怒られるかな。
斎宮発掘現場は遺跡の端っこでして、周りは畑と田圃、ど田舎ですから、これまで開発されなかったのです。でも鉄道線路のすぐ南までは住宅が迫っていました。あと10年遅れたら、遺跡も消えてしまったかも。
もっと遺跡公開には人が集まるかもしれないと思いましたが、合計20人いたかな。キュレーターさんはずっと現場にいましたが、参加者はいっぺんに集まったわけではないので、多い時でも10人はいなかった。
発掘中の遺跡なんて初めて見ました。こんなもんかもしれません。
Pedaruさんのブログで、ご自宅の前で遺跡の発掘が始まった話がありました。面白かったですよ。
-
- kummingさん 2021/03/23 08:30:03
- わくわく♪
- しにあさん、朝もはよから、の投稿でござ~い
昨夜は、現場に辿り着くまでのby夫by妻さんのわくわく感を共有させて頂き、光栄に存じます♪
タイムトラベルして、一瞬彼彼女(FDII 、マキャベリ、大来皇女)と同じ時空を感じたり、彼彼女の触った柱、机、樹木に触れられるのも、こうやって、現場主義、現地取材を徹底される人だけに与えられる特権ですね^ ^しにあさんのブログが膨大な下調べを基に作り上げられる、その一端を覗き見させて貰いました。
このシリーズ10巻の中にも重量の大小があるのも、もしかしたら、決して筆が速い方ではない(らしい)気まぐれby妻さんのお尻を叩いたり、飴と鞭?で催促する、作者兼編集者しにあさんの苦肉の策?苦労の結果なのかな~、などと想像しています。
以前しにあさんに教えて頂いたカントーロヴィッチも、塩野さんも、歴史学者という範疇外の立場だからこそ許される、史実として不明な部分を自身の想像で埋める、創造の羽根を広げているから、私たちには面白い♪
先日図書館が開いたので、リクエストしていた45年前にめっちゃ影響受けた本を借りました。梅原猛氏、学会の常識に捉われない大胆な仮説を数多く展開、多くの議論を巻き起こした、国文学、考古学、歴史学の立場からの批判も多い。mistral さんも読まれたらしくて、私も今回法隆寺を訪れた事もあり、読まないではいられない、という立ち位置?まだ途中ですが、45年前、自分がなぜ藤原不比等に傾倒していたのか、の謎は解けました(笑)
梅原猛氏の「記紀」の作者は藤原不比等、説、しにあさん的にはとんでも説かも?長くなるのでここでは書けませんが、自分のブログ内で少し触れられるといいな~
と、いうわけで(←無理矢理まとめ)、カントーロヴィッチも塩野さんも梅原氏も、巻末に載せられている膨大な資料、文献を読み込み、現地に赴く、という土台、基礎の上に繰り広げるロマン、でございます。私、改めてby夫にも清き一票を捧げます♪その上にこそ花開く、ロマン派by 妻にも、一票を^ ^
そして、持統>天武、by妻>by夫の方が“世界は楽しくうまく廻る”にも一票を♪(大>小、強>弱、記号)
長いなあ(ーー;)
- しにあの旅人さん からの返信 2021/03/23 09:46:38
- Re: わくわく♪
- いつもながら中身の濃いコメントありがとうございます。お待ちしておりました。長いの、全く問題なし。
梅原猛、若き日(もあったのです)、私も読みました。
記紀編纂不比等説は衝撃でした。口出しした可能性はあると思います。細かいことは覚えていません。
実はこの後鎌足さんにも出演してもらうことになり、不比等さんもかなり重要な役を演じてもらいます。
それでちょっと調べたのですが、「日本書紀」の枝葉の細かい部分まで、不比等がいじっていれば別ですが、介入はそれほどではなかったのではないかと思います。
梅原猛をこれから読み直されるのであれば、不比等がどれくらい漢文ができたか、あるいは中国語のオーラルができたか、梅原が論じていれば、場所だけでも教えてください。あれ、たしか猛烈に長いはず。
書紀では渡来中国語ネイティブが書いた部分と、漢文ができる日本人が書いた部分がはっきりわかるそうです。最終的には中国語ネイティブが校正しているはずなのに、それが残ったということは、最終校正の会議(そんなものがあったとしてですが)で、渡来中国人ライターの日本語オーラル、日本人ライターの中国語オーラルに問題があったのではないか。
不比等の中国語レベルがわかれば、その辺を糸口に介入の度合いと部分が見当つくのではないかという魂胆です。
編集責任者、舎人親王、実は漢文あまりできなかったことになります。名目だけの編纂者で、実は現物読んでなかった、なんてないですよね。
By妻は書き始めれば一気呵成なのですが、なかなかその気にならない。飴は慣れているので効果なし、鞭は取り上げられてこっちがぶたれるのがオチで危険です。
成り行きですので、分量質ともバラバラ。
-
- mistralさん 2021/03/22 11:01:43
- 追っかけ。
- しにあの旅人さん
こんにちは。
「大来皇女の追っかけをやってまして、跡地を是非に。」としにあさんが話されると
若き考古学者はニコッと微笑まれ、、、
この辺りの記述が、お互い同好の士同士のやり取り、空気感が伝わります。
考古学者はお若い、一方のご夫婦はしにあ世代 (ごめんなさい)
それでも追い求めるものが同じだと年齢を超えますね!
この辺りがピンポイントでまさに皇女が立った場所、との特定に至り
そこに立てた喜びはどれ程のものか?
もちろん、より喜びが大きかったのは、by夫さんなのでしょう。
私も、アビニョンの法皇庁のプティパレにチェーザレが一時期滞在した
と知り、2度ほど内部の見学に臨みましたが、2度とも休館日に遭遇。
次なるチャレンジはいつになるのやら?
斎王宮、あまり使われた痕跡がないとすると
やはり大来皇女を都人から目に触れないよう閉じ込める為の施設だったんでしょうか。
全容の解明まではあと100年はかかる、なんて!
ぜひそのあかつきには、再び開催されるだろう現場見学会にお臨みください。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2021/03/23 07:10:19
- Re: 追っかけ。
- 遺跡発掘現場というのは初めてでした。実際に掘っていたらもっと面白かったでしょうが、邪魔になります。飛鳥時代の表面を土が1mも覆っていて、木が根を張っていました。1300年以上前の話ですから、しょうがないですね。
キュレーターさんたち、親切でした。自分たちの仕事に興味を持ってくれるというのは、嬉しいのかもしれません。不要不急の1300年前の遺跡の発掘なんて、「え~」という人もいるでしょう。でも100年かかるなら、づっと続けなければなりません。私たちはなにもできないけれど、興味を持って、駄説珍説妄説でもなんでも、こういうブログで紹介する意味もあるのかなと思いました、
当時の地表が1m下とすると、大来ちゃんが174センチ、By妻が152センチ、胸のあたりに大来ちゃんの顔がくるかな、などとつまらぬ計算をしました。
アビニョンのチョーザレの痕跡など行ってみたいですね。いつになることやら。ワクチンが普及すると、「もう大丈夫、ヒャホー!」ということで、みんな出歩いちゃって、感染そのものは拡大するかもしれないそうです。外国は当面、多分2、3年、無理じゃないですかね。
という私も、gotoが再開されたらと思って、国内ですが、計画だけは立てています。
飽きたなあ、コロナ。
-
- pedaruさん 2021/03/22 05:32:20
- 歴史の現場に立つ
- しにあの旅人さん おはようございます。
期待に胸膨らませて(冬のスズメかっ)、発掘現場に向かう高揚した気持ちが伝わってきます。大勢の見学者の前に出て、教授の言葉を一言も逃すまいと、身を清め、襟を正し、爪を切り(笑)、戦場に赴くますらおのごときしにあさん、そばで冷ややかに見つめるby妻さん。こんな光景が目に浮かびました。
しにあの旅人さんを凌ぐ名文、ユーモアでも夫を超えています。しかし、ロマンを追い求める気持ちは全く同等、素晴らしいご夫婦ですね。
私の家も遺跡の中、発掘も庭先で行われました。よろしかったらご覧ください。
https://4travel.jp/travelogue/10800565
pedaru
- しにあの旅人さん からの返信 2021/03/22 10:12:06
- Re: 歴史の現場に立つ
- 初コメありがとうございます。
なかなか書かないこと「だけ」が向田邦子ばりのBy妻、やっと書きました。だいたい皆さん、By妻に注目しておりまして、評判良いようです。私はお膳立てに努めます。
旅行の趣味が一致していることはありがたい。4トラ皆さん豪華ランチを横目に、ミニあんぱんでついてきます。なにか似たような趣旨の歌が、村田英雄にあったような。
庭先発掘記録読みました。すごい話、ブログネタが向こうからやってきた。改めてコメントいたします。
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