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1991年、飛鳥池遺跡南地区の発掘調査のとき、発見された木簡のレプリカです。(飛鳥資料館掲載許可取得済み。以下資料館展示品も同様)<br />「大伯皇子宮」とはっきり読み取れます。<br />伊勢の斎宮を退出した大来皇女が、飛鳥に戻ってきて、どこかに宮を構えていたことを物語っています。<br />この木簡を頼りに、その後の大来が飛鳥でどのように生きたか、想像してみたいと思います。<br />大来皇女は「大伯」とも書かれていました。「皇子」となっていますが、当時は「皇女」も「皇子」と書かれておりました。<br /><br />六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。<br />引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。<br /><br />4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。<br />この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。<br />

六国史の旅 飛鳥の姉弟12 大来皇女その後、いま輝くか

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2020/12/12 - 2020/12/12

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旅行記グループ 六国史の旅 飛鳥の姉弟

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

1991年、飛鳥池遺跡南地区の発掘調査のとき、発見された木簡のレプリカです。(飛鳥資料館掲載許可取得済み。以下資料館展示品も同様)
「大伯皇子宮」とはっきり読み取れます。
伊勢の斎宮を退出した大来皇女が、飛鳥に戻ってきて、どこかに宮を構えていたことを物語っています。
この木簡を頼りに、その後の大来が飛鳥でどのように生きたか、想像してみたいと思います。
大来皇女は「大伯」とも書かれていました。「皇子」となっていますが、当時は「皇女」も「皇子」と書かれておりました。

六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。

4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • この木簡が発見されたのは、万葉文化館中庭の溜め池あと。これは発掘現場を忠実に再現したレプリカで、オリジナルはこの地下4mに埋め戻されました。<br />飛鳥池工房遺跡とよばれ、古代の工房がありました。この工房では、7世紀後半から8世紀初め、金属製品、宝石、漆工芸品などを制作したようです。当時の超ハイテク、美術工芸品工房でありました。<br />

    この木簡が発見されたのは、万葉文化館中庭の溜め池あと。これは発掘現場を忠実に再現したレプリカで、オリジナルはこの地下4mに埋め戻されました。
    飛鳥池工房遺跡とよばれ、古代の工房がありました。この工房では、7世紀後半から8世紀初め、金属製品、宝石、漆工芸品などを制作したようです。当時の超ハイテク、美術工芸品工房でありました。

    奈良県立万葉文化館 美術館・博物館

  • 飛鳥資料館の工房模型です。赤丸が溜め池でした。<br />ここで使われていたのが「大伯皇子宮物」の木簡なのです。<br />

    飛鳥資料館の工房模型です。赤丸が溜め池でした。
    ここで使われていたのが「大伯皇子宮物」の木簡なのです。

    飛鳥資料館 美術館・博物館

  • これは受注伝票ですね。<br />現代の宅急便などと同じで、まず納入先、そのあと注文者、注文品のはずです。<br />全体は長さ18cm、幅4cm、厚さ11mm。<br />

    これは受注伝票ですね。
    現代の宅急便などと同じで、まず納入先、そのあと注文者、注文品のはずです。
    全体は長さ18cm、幅4cm、厚さ11mm。

  • 納入先「大伯皇子宮」

    納入先「大伯皇子宮」

  • 「大伯皇子宮」の下は、木簡が割れていますが、「物」だそうです。大伯皇子宮注文品という意味でしょう。<br /><br />その下に空白があって、「大伴」その下は割れ目で読めません。<br />「大伴」は注文者。大伯皇女が自分で注文してはいない。当時の国立超ハイテク工房への発注です。皇女宮の下っ端が注文するはずがない。大伴のナントカさんは、皇女宮の家政責任者でしょう。おそらく女官。宮の主は女ですから、宮の運営も女でなくては分からないこともあるはず。<br />ここで補助線を引っ張り出します。「飛鳥の姉弟9 大来皇女泊瀬斎宮」で、大来皇女に女の護衛がついたという話、思い出して下さい。絵楠。彼女が飛鳥まで大来についてきて、そのまま宮の家政を担当するという話、どうでしょうね。天武2年(674年)からの長いつきあいです。<br />大伴氏は、天皇や皇族の警護を担当した氏族です。大来に護衛をつけるとき、天武は大伴氏に人選を依頼した、一応理屈はあっています。いずれにしても補助線、表面に出ることはありません。大伯皇女宮の家政担当者がだれであれ、歴史に寸毫の影響も及ぼすことはないので、この際大伴絵楠としておきましょう。<br /><br />ところで、大伴絵楠が工房に何かを発注したのはいつでしょう。<br />確実な年代は、<br /><br />686年(朱鳥元年・持統元年):大来が飛鳥に帰ってきた。<br />688~689年:このころ大津二上山(鳥谷口古墳)移葬。<br />694年:藤原京遷都<br /><br />大来が飛鳥に帰ってきて、しばらくの間は鬱々としていたでしょう。大津の殯が終わり、今は鳥谷口古墳といわれるお墓に埋葬されて一区切り。少しは落ち着いたのではないか。それから毎日二上山を弟とみながら菩提を弔う生活をつづけたのであります。<br />持統8年(694年)には藤原京遷都ですから、飛鳥京の皇族たちも引っ越しの準備をするはず。693年ごろからは慌ただしくなります。飛鳥工房も受注打ち切り。<br />発注は688年―693年の間。<br />691年前後ではないかな。工房になにかを注文する心の余裕ができたころではないかと。大来30才です。<br />

    「大伯皇子宮」の下は、木簡が割れていますが、「物」だそうです。大伯皇子宮注文品という意味でしょう。

    その下に空白があって、「大伴」その下は割れ目で読めません。
    「大伴」は注文者。大伯皇女が自分で注文してはいない。当時の国立超ハイテク工房への発注です。皇女宮の下っ端が注文するはずがない。大伴のナントカさんは、皇女宮の家政責任者でしょう。おそらく女官。宮の主は女ですから、宮の運営も女でなくては分からないこともあるはず。
    ここで補助線を引っ張り出します。「飛鳥の姉弟9 大来皇女泊瀬斎宮」で、大来皇女に女の護衛がついたという話、思い出して下さい。絵楠。彼女が飛鳥まで大来についてきて、そのまま宮の家政を担当するという話、どうでしょうね。天武2年(674年)からの長いつきあいです。
    大伴氏は、天皇や皇族の警護を担当した氏族です。大来に護衛をつけるとき、天武は大伴氏に人選を依頼した、一応理屈はあっています。いずれにしても補助線、表面に出ることはありません。大伯皇女宮の家政担当者がだれであれ、歴史に寸毫の影響も及ぼすことはないので、この際大伴絵楠としておきましょう。

    ところで、大伴絵楠が工房に何かを発注したのはいつでしょう。
    確実な年代は、

    686年(朱鳥元年・持統元年):大来が飛鳥に帰ってきた。
    688~689年:このころ大津二上山(鳥谷口古墳)移葬。
    694年:藤原京遷都

    大来が飛鳥に帰ってきて、しばらくの間は鬱々としていたでしょう。大津の殯が終わり、今は鳥谷口古墳といわれるお墓に埋葬されて一区切り。少しは落ち着いたのではないか。それから毎日二上山を弟とみながら菩提を弔う生活をつづけたのであります。
    持統8年(694年)には藤原京遷都ですから、飛鳥京の皇族たちも引っ越しの準備をするはず。693年ごろからは慌ただしくなります。飛鳥工房も受注打ち切り。
    発注は688年―693年の間。
    691年前後ではないかな。工房になにかを注文する心の余裕ができたころではないかと。大来30才です。

  • 注文品は、<br />「一品并五十□」<br />最初の「一」は「二」「三」の可能性あり。<br />最後の□は「一」を「四」に訂正した可能性あり。訂正しているのがリアルです。<br />「大伯皇子宮物 大伴□・・・一(二または三)品并五十四」となります<br />「并」は「併」の略字で、合計を意味する。1品でそのあとに合計はおかしいので、2品または3品、合計54という意味ですね。<br />注文品の詳細は別の木簡。残念ながら失われたのです。<br />

    注文品は、
    「一品并五十□」
    最初の「一」は「二」「三」の可能性あり。
    最後の□は「一」を「四」に訂正した可能性あり。訂正しているのがリアルです。
    「大伯皇子宮物 大伴□・・・一(二または三)品并五十四」となります
    「并」は「併」の略字で、合計を意味する。1品でそのあとに合計はおかしいので、2品または3品、合計54という意味ですね。
    注文品の詳細は別の木簡。残念ながら失われたのです。

  • 何を54個注文したのか。

    何を54個注文したのか。

  • 超ハイテク工房としての飛鳥工房のウリはガラス工芸品でした。以下飛鳥資料館の説明です。<br />ガラスは金属鉛を石英ととともに坩堝に入れ1300度に熱して造ります。ガラスの融点は銅(1000度)より高温で、製造にはより高度な技術が必要でした。黄色、褐色、緑、黒に近い濃緑色のガラスも製造できました。赤色や黒色ガラス玉は製造できず、朱沙や顔料、漆を表面に塗りました。無色透明のガラスも製造できず、水晶を用いました。<br />

    超ハイテク工房としての飛鳥工房のウリはガラス工芸品でした。以下飛鳥資料館の説明です。
    ガラスは金属鉛を石英ととともに坩堝に入れ1300度に熱して造ります。ガラスの融点は銅(1000度)より高温で、製造にはより高度な技術が必要でした。黄色、褐色、緑、黒に近い濃緑色のガラスも製造できました。赤色や黒色ガラス玉は製造できず、朱沙や顔料、漆を表面に塗りました。無色透明のガラスも製造できず、水晶を用いました。

  • 玉類、穴があいています

    玉類、穴があいています

  • 勾玉でしょうか。

    勾玉でしょうか。

  • 工芸品用の金も造っていました。上部は坩堝です。純度は14Kから24K。

    工芸品用の金も造っていました。上部は坩堝です。純度は14Kから24K。

  • 銀です。純度90%~99%。<br />何に使うのでしょうか、形も不揃いで、素材のようでした。<br />

    銀です。純度90%~99%。
    何に使うのでしょうか、形も不揃いで、素材のようでした。

  • 漆の工芸品も造っていた。<br />説明には、<br />「漆の道具 飛鳥池工房には漆工房もあり、漆を塗るための刷毛や木のヘラ、漆のパレットに用いた皿や杯など、漆工関係の道具も見つかった。(以下略)」<br />とあり、現代の漆工芸とほぼ同じ作業手順のようです。<br /><br />漆細工、ガラス工芸品や玉類とくれば装身具です。当時の色ガラスは現代の宝石に匹敵する貴重品。<br />2品または3品合計54個というのは、こういうものかなと思います。いずれにしても小さいものです。<br />金や銀の細片も含め、最終製品ではないみたい。別の職人に持って行って、細工してもらうのでしょう。<br />大来皇女は、弟を失った心の傷も薄れ、少しは自分のことも考える余裕ができたころか。おしゃれに興味をもちはじめた。<br />

    漆の工芸品も造っていた。
    説明には、
    「漆の道具 飛鳥池工房には漆工房もあり、漆を塗るための刷毛や木のヘラ、漆のパレットに用いた皿や杯など、漆工関係の道具も見つかった。(以下略)」
    とあり、現代の漆工芸とほぼ同じ作業手順のようです。

    漆細工、ガラス工芸品や玉類とくれば装身具です。当時の色ガラスは現代の宝石に匹敵する貴重品。
    2品または3品合計54個というのは、こういうものかなと思います。いずれにしても小さいものです。
    金や銀の細片も含め、最終製品ではないみたい。別の職人に持って行って、細工してもらうのでしょう。
    大来皇女は、弟を失った心の傷も薄れ、少しは自分のことも考える余裕ができたころか。おしゃれに興味をもちはじめた。

  • 勝手に装身具だと決めてしまいましたが、当時の女の装身具ってどんなものでしょう。<br />54個と数が多いので、まず思いつくのはチョーク、ネックレス。ペンダント、ブレスレット、指輪、イヤリングなどもデザインによってはありか。<br />飛鳥から奈良時代の衣装のマネキンさんを回ってきました。<br /><br />

    勝手に装身具だと決めてしまいましたが、当時の女の装身具ってどんなものでしょう。
    54個と数が多いので、まず思いつくのはチョーク、ネックレス。ペンダント、ブレスレット、指輪、イヤリングなどもデザインによってはありか。
    飛鳥から奈良時代の衣装のマネキンさんを回ってきました。

  • 明日香村文化財展示室<br />高松塚古墳に描かれた女官のマネキンさん。この人には何回出てもらったか、ご苦労さん。<br />首回りと手首が見えるように拡大しましたが、チョークはしていません。ネックレス、ペンダントは分かりません。<br />手首も見えない。指輪がわかるように指を伸ばしてほしい。<br />

    明日香村文化財展示室
    高松塚古墳に描かれた女官のマネキンさん。この人には何回出てもらったか、ご苦労さん。
    首回りと手首が見えるように拡大しましたが、チョークはしていません。ネックレス、ペンダントは分かりません。
    手首も見えない。指輪がわかるように指を伸ばしてほしい。

    明日香村埋蔵文化財展示室 美術館・博物館

  • 藤原京資料室<br />ちょっと太めの女官さん。<br />チョークはしていない。首の付け根、肩がのぞいています。ネックレス、ペンダント、首から胸に垂らす装身具は付けていないようです。<br />

    藤原京資料室
    ちょっと太めの女官さん。
    チョークはしていない。首の付け根、肩がのぞいています。ネックレス、ペンダント、首から胸に垂らす装身具は付けていないようです。

    藤原宮跡資料室 (奈良文化財研究所 都城発掘調査部) 美術館・博物館

  • くるべ古代歴史館<br />聖武天皇時代で、すこし時代が下がります。<br />チョークはなし。ネックレスはわからない。短いペンダントなし。手首は見えません。<br />金糸銀糸の上着が豪華です。衣装に金、銀を縫い込むのはありかと思います。スカートは縦縞で、飛鳥時代と変わっていません。<br />大来皇女がこの衣装を着たら、長身ですから、すばらしくゴージャスだったでしょうね。<br />

    くるべ古代歴史館
    聖武天皇時代で、すこし時代が下がります。
    チョークはなし。ネックレスはわからない。短いペンダントなし。手首は見えません。
    金糸銀糸の上着が豪華です。衣装に金、銀を縫い込むのはありかと思います。スカートは縦縞で、飛鳥時代と変わっていません。
    大来皇女がこの衣装を着たら、長身ですから、すばらしくゴージャスだったでしょうね。

  • 大阪歴史博物館<br />時代は聖武天皇の時代、天平16年(744年)2月の儀式の再現です。時代が50年下がります。<br />けん帳命婦、高位の女官です。チョーク、ネックレスなし。<br />

    大阪歴史博物館
    時代は聖武天皇の時代、天平16年(744年)2月の儀式の再現です。時代が50年下がります。
    けん帳命婦、高位の女官です。チョーク、ネックレスなし。

    大阪歴史博物館 美術館・博物館

  • 同じく高位の女官です。チョークなし、胸元がかなり見えていますから、短いペンダントはつけていません。ネックレスは分からない。<br />手首はみなさん見えません。イヤリングは1人もしていませんでした。衣服の中になにかつけている可能性はありますが、胸元開くわけにはいかないし。首の周り、胸元覗き込んで写真を撮りました。変態と思われたかも。<br /><br />こまりましたね。この時代、女が肌につける装身具はなかったようです。<br />大来皇女が発注したのは、装身具の材料ではないことになる。<br />

    同じく高位の女官です。チョークなし、胸元がかなり見えていますから、短いペンダントはつけていません。ネックレスは分からない。
    手首はみなさん見えません。イヤリングは1人もしていませんでした。衣服の中になにかつけている可能性はありますが、胸元開くわけにはいかないし。首の周り、胸元覗き込んで写真を撮りました。変態と思われたかも。

    こまりましたね。この時代、女が肌につける装身具はなかったようです。
    大来皇女が発注したのは、装身具の材料ではないことになる。

  • この女官さん、頭に何かつけている。

    この女官さん、頭に何かつけている。

  • 七宝焼きみたいに見える。<br />飛鳥工房の取り扱い品目にはなかった。<br />

    七宝焼きみたいに見える。
    飛鳥工房の取り扱い品目にはなかった。

  • 髪飾りに注目します。

    髪飾りに注目します。

  • いろいろいっぱい飾っている。

    いろいろいっぱい飾っている。

  • うしろから。<br />櫛や簪は、漆細工であれば、飛鳥工房の作品かもしれません。<br />こういう髪飾りの素材としてなら、飛鳥工房に発注する可能性はあります。工房はこうした最終製品ではなく、素材を製造していたようです。<br />

    うしろから。
    櫛や簪は、漆細工であれば、飛鳥工房の作品かもしれません。
    こういう髪飾りの素材としてなら、飛鳥工房に発注する可能性はあります。工房はこうした最終製品ではなく、素材を製造していたようです。

  • By妻七十路。彼女に、鏡を見て、いくつくらいから、「自分も衰えたな」と思ったか聞いてみました。<br />「今でも思わない」とぬかしくさりました。<br />こういうのは論外として。<br />大来皇女30才、平均寿命30歳の時代です。当時の女は容貌の衰えるのもはやかったでしょう。「なんとかしなければ」と思ったかもしれない。<br /><br />飛鳥の常識ではとっくに結婚適齢期は過ぎています。中年と言える。皇族は、皇族としか結婚できなかったのです。でも、まだまだ美しい彼女に思いを寄せる皇族や豪族の男はいたでありましょう。それが実らぬ恋であっても。<br />ある日、ちょっと気になる彼からの歌を受け取った大来が鏡を見て、「まあ、ちょっとひどいわね」と思って、久しぶりに身を飾る気になった、などという想像は不謹慎ですかね。<br />でももう大津の死から年月もたち、彼女自身の幸せを考えてもいいころです。<br /><br />飛鳥工房にどうやって製品を発注するのか。まさか何も見ないで注文するはずはない。きっと工房の近くに見本をみせる官衙があったでしょう。<br />691年のある日、大来皇女は絵楠とそこを訪れ、<br />「これとこれ2品、51個ほしい」と思った。発注は絵楠名義。<br />工房の役人はさっそく木簡に内容を書きました。すると大来は気が変わって、<br />「54個にしてください」<br />役人は「最初からそう言えよ」と内心思いましたが、上にチョンチョンと書き加えるだけなので、木簡を削り直すことなく、「一」を「四」に書き直しました。<br />そして木簡を現場におろしたのでした。かなりありえるシナリオです。<br />

    By妻七十路。彼女に、鏡を見て、いくつくらいから、「自分も衰えたな」と思ったか聞いてみました。
    「今でも思わない」とぬかしくさりました。
    こういうのは論外として。
    大来皇女30才、平均寿命30歳の時代です。当時の女は容貌の衰えるのもはやかったでしょう。「なんとかしなければ」と思ったかもしれない。

    飛鳥の常識ではとっくに結婚適齢期は過ぎています。中年と言える。皇族は、皇族としか結婚できなかったのです。でも、まだまだ美しい彼女に思いを寄せる皇族や豪族の男はいたでありましょう。それが実らぬ恋であっても。
    ある日、ちょっと気になる彼からの歌を受け取った大来が鏡を見て、「まあ、ちょっとひどいわね」と思って、久しぶりに身を飾る気になった、などという想像は不謹慎ですかね。
    でももう大津の死から年月もたち、彼女自身の幸せを考えてもいいころです。

    飛鳥工房にどうやって製品を発注するのか。まさか何も見ないで注文するはずはない。きっと工房の近くに見本をみせる官衙があったでしょう。
    691年のある日、大来皇女は絵楠とそこを訪れ、
    「これとこれ2品、51個ほしい」と思った。発注は絵楠名義。
    工房の役人はさっそく木簡に内容を書きました。すると大来は気が変わって、
    「54個にしてください」
    役人は「最初からそう言えよ」と内心思いましたが、上にチョンチョンと書き加えるだけなので、木簡を削り直すことなく、「一」を「四」に書き直しました。
    そして木簡を現場におろしたのでした。かなりありえるシナリオです。

  • それから数ヶ月、大来皇女は金糸銀糸を縫い込んだ豪華な衣装をまとい、華麗な髪飾りをつけて、男の訪問を受ける。<br />心当たり、あり。<br /><br />だれ、だれ?<br />By妻<br /><br />このブログの題は当初「大来皇女その後、いま輝くか、飛鳥の島倉千代子」でしたが、By妻が猛烈に反対しました。下品だって。<br />「私たちは今輝く」という趣旨の歌詞が「人生いろいろ」にあるじゃないですか。<br />不運な大来の人生でした。<br />天武天皇の第一皇女として生まれ、世が世なれば、女帝だったかもしれません。<br />それが、<br />6歳で母を亡くし、<br />11歳で弟を庇いながら必死の近江脱出、桑名で菟野皇女と火花を散らし、<br />13歳で伊勢の斎宮という名目の島流し、恋も知らず、娘ざかり、女ざかりを無駄に費やし、<br />26歳で無実の罪で弟が刑死、<br />飛鳥に戻ったら、婚期を逸し、ひたすら大津の菩提を弔う。<br />この木簡が、大来がいま輝く可能性を物語るかと思ったのです。<br /><br />一書に曰く、<br />島倉千代子のわけないだろうが。この底なしノーテンキ!<br /><br />大来皇女は、大津事件のあと、愛する弟を失ったかなしみとともに、深い敗北感に襲われたに違いありません。<br />&#40469;野讃良皇女が草壁皇子を天皇にしたかったのなら、大来皇女だって大津に皇位を継承させたかったのです。<br />負けた!<br />&#40469;野讃良皇女の高笑いが、大来皇女の頭の中に響き渡ったことでしょう。<br />大来皇女は、絶望の余り、大津皇子の後を追おうと思ったかもしれません。<br />けれど、大津刑死の知らせの後、ほとんど時を置かず、大津の妃山辺皇女の自殺の報が届いたのです。<br />大来皇女の周囲の人々は、大津刑死のショックから、はっと気がつきます。大来皇女を死なせるわけにはいかないと。<br />大来皇女は、生きて都に帰ることになります。けれど、彼女は昔の大来皇女ではなくなっていました。昔の颯爽とした、話す相手の目をまっすぐに見つめた眼は、うつむきがちになりました。馬にも乗らなくなりました。<br />彼女には、生きる支えが必要でした。<br />現代なら、写真があります。写真を眺めて、在りし日を偲ぶこともできますが、大来が生きた時代、どのように偲んだのでしょうか。亡くなった人の着物を抱いたのでしょうか。<br /><br />どこの神社だったか、石文というものを見たことがあります。<br />旅に出た男が、国で待っている女に石をことづけるのです。円いすべすべした石でした。その石の色、形、肌触りに、男は自分の気持ちを込めたのです。待っている人は、その石をなでさすり、頬を寄せて、その気持ちを感じたことでしょう。<br /><br />大来皇女は、大津皇子らしい石を勾玉に、管玉にして肌につけたのかもしれません。<br />勾玉の、あの形は魂をかたどったという説があります。<br />大津皇子の魂は、翡翠だろうか、瑪瑙だろうか。大来皇女は、ぴったりの石を求めて、幾度も幾度も工房に注文したのかもしれませんね。<br />そういう大来皇女を見て、&#40469;野讃良皇女は、安心すると同時に、いやいや油断はできないぞ。彼女がその気になって有力政治家と組めば、自分の地位は危ういのだと、なお一層の注意を払ったのでしょう。大来皇女は、以後何の音沙汰もなくなってしまいます。<br />恋人はいたのでしょうか。結婚は?子供は?<br />何も分かりません。<br />倭姫のように、養い子がいたらいいなあ。<br />せめて、それくらいの人間らしい幸せのときを過ごさせてあげたい。<br />はるかはるか後の世の、一フアンは、心からそう思うのです。<br />By妻<br />

    それから数ヶ月、大来皇女は金糸銀糸を縫い込んだ豪華な衣装をまとい、華麗な髪飾りをつけて、男の訪問を受ける。
    心当たり、あり。

    だれ、だれ?
    By妻

    このブログの題は当初「大来皇女その後、いま輝くか、飛鳥の島倉千代子」でしたが、By妻が猛烈に反対しました。下品だって。
    「私たちは今輝く」という趣旨の歌詞が「人生いろいろ」にあるじゃないですか。
    不運な大来の人生でした。
    天武天皇の第一皇女として生まれ、世が世なれば、女帝だったかもしれません。
    それが、
    6歳で母を亡くし、
    11歳で弟を庇いながら必死の近江脱出、桑名で菟野皇女と火花を散らし、
    13歳で伊勢の斎宮という名目の島流し、恋も知らず、娘ざかり、女ざかりを無駄に費やし、
    26歳で無実の罪で弟が刑死、
    飛鳥に戻ったら、婚期を逸し、ひたすら大津の菩提を弔う。
    この木簡が、大来がいま輝く可能性を物語るかと思ったのです。

    一書に曰く、
    島倉千代子のわけないだろうが。この底なしノーテンキ!

    大来皇女は、大津事件のあと、愛する弟を失ったかなしみとともに、深い敗北感に襲われたに違いありません。
    鸕野讃良皇女が草壁皇子を天皇にしたかったのなら、大来皇女だって大津に皇位を継承させたかったのです。
    負けた!
    鸕野讃良皇女の高笑いが、大来皇女の頭の中に響き渡ったことでしょう。
    大来皇女は、絶望の余り、大津皇子の後を追おうと思ったかもしれません。
    けれど、大津刑死の知らせの後、ほとんど時を置かず、大津の妃山辺皇女の自殺の報が届いたのです。
    大来皇女の周囲の人々は、大津刑死のショックから、はっと気がつきます。大来皇女を死なせるわけにはいかないと。
    大来皇女は、生きて都に帰ることになります。けれど、彼女は昔の大来皇女ではなくなっていました。昔の颯爽とした、話す相手の目をまっすぐに見つめた眼は、うつむきがちになりました。馬にも乗らなくなりました。
    彼女には、生きる支えが必要でした。
    現代なら、写真があります。写真を眺めて、在りし日を偲ぶこともできますが、大来が生きた時代、どのように偲んだのでしょうか。亡くなった人の着物を抱いたのでしょうか。

    どこの神社だったか、石文というものを見たことがあります。
    旅に出た男が、国で待っている女に石をことづけるのです。円いすべすべした石でした。その石の色、形、肌触りに、男は自分の気持ちを込めたのです。待っている人は、その石をなでさすり、頬を寄せて、その気持ちを感じたことでしょう。

    大来皇女は、大津皇子らしい石を勾玉に、管玉にして肌につけたのかもしれません。
    勾玉の、あの形は魂をかたどったという説があります。
    大津皇子の魂は、翡翠だろうか、瑪瑙だろうか。大来皇女は、ぴったりの石を求めて、幾度も幾度も工房に注文したのかもしれませんね。
    そういう大来皇女を見て、鸕野讃良皇女は、安心すると同時に、いやいや油断はできないぞ。彼女がその気になって有力政治家と組めば、自分の地位は危ういのだと、なお一層の注意を払ったのでしょう。大来皇女は、以後何の音沙汰もなくなってしまいます。
    恋人はいたのでしょうか。結婚は?子供は?
    何も分かりません。
    倭姫のように、養い子がいたらいいなあ。
    せめて、それくらいの人間らしい幸せのときを過ごさせてあげたい。
    はるかはるか後の世の、一フアンは、心からそう思うのです。
    By妻

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六国史の旅 飛鳥の姉弟

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  • pedaruさん 2021/04/15 05:01:23
    本当にあった話ですか?
    しにあの旅人さん おはようございます。

    >どこの神社だったか、石文というものを見たことがあります。
    旅に出た男が、国で待っている女に石をことづけるのです。円いすべすべした石でした。その石の色、形、肌触りに、男は自分の気持ちを込めたのです。待っている人は、その石をなでさすり、頬を寄せて、その気持ちを感じたことでしょう

    なんというロマンティックなお話でしょう!気持ちのこもった石、人の気持ちは昔も今も変わりませんね、いやむしろ彼らは今以上の豊かな感性を持っていたのでしょうね。
    私がもっとも印象的に思える箇所でした。

    それにしてもお二人とも素晴らしい名文で人を引き込みますね。
    前日光さんの書き込みもさすがと思いました。kummingさんも同じく素晴らしい、
    お二人とも現代の樋口一葉かと思いました。

    pedaru

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/04/18 19:10:18
    Re: 本当にあった話ですか?
    コメントありがとうございます。
    石文ですが、もうずいぶん前のことではっきり覚えていませんが、宮崎の青島神社の摂社のどこかに、あったと思います。

    お褒めいただくような文章ではありませんが、推敲に推敲を重ねております。トシのせいか、やはり紙に印刷しないと文章を読んだ気になりません。1年ほど前にインクがボトル式のプリンターに変えました。おかげさまで心置きなく印刷しております。資源の無駄という説もちらほら。

    前日光さん、kummingさん、お二人ともグッとくる文章で、いつも話を前に進める力をいただいております。
    あと2回大来大津にお付き合いください。それで終わるかというと、そうでもない。ほぼ半永久的に妄説、奇説でお邪魔することになると思います。よろしく。
  • 前日光さん 2021/04/13 16:36:25
    大来皇女その後。。。
    しにあさん、こんにちは。
    大来のその後、この時代に何らかの興味関心がある者は、このことについて考えますよねぇ(-_-)
    西暦686年10月1日天武没、同月25日大津刑死、11月大来斎宮の任を解かれ伊勢より飛鳥に戻る、3年後の689年、菟野皇后の息、草壁皇子病死、翌690年菟野皇后即位(持統天皇)、私はこの時の大来及び菟野の心境を思わずにはいられません。

    菟野皇后は、この草壁を即位させたかったのではないのかと。
    自分の息子にその才がないことは充分承知している、だがしかし。。。なんとしてもわが息子を即位させ、即位の後は、背後からしっかりバックアップのつもりでいた。なのに。。。わが息子のなんという影の薄さよ、何のために、誰のために大津を死に至らしめたのか、すべてはおまえのためだったのに。
    大来の視線が私はイタイ。こんな結果を迎えるために、オバサマはわが弟を抹殺したのかと、あの目が、無言の目が私を責める。
    あまつさえあの娘は背が高い、気がつくといつも私をどこかで睥睨している、ほら、世の中はあなたの思い通りにはいかなかったでしょ!悪事はどこかで報いを受けるのよ、ざまぁごらんあそばせと言いたいけれど、私はそんな下品なことは言わない、ただずっと私はあなたがどこにいても、あなたを軽蔑の目で見つめ続けてやる。
        ↑
    ドラマ化に当たっては、こういうのはどうでしょう?
    うわぁ、陰険!
    大来はもっとサバサバした男勝りの設定でしたよねぇ。
    でも運命に弄ばれて、いつしか大来はこんなにイヤミさんになってしまいました。
    そんな大来も702年、なんと持統女帝よりも一年早く41歳で亡くなってしまいました!
    そして大来の呪縛から解放されたと思う間もなく、703年、持統も没!

    なんと諸行無常なことでしょう。

    発見された木簡、54点もの何を大来は注文したのか。。気になります(^^;)


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/04/14 09:05:15
    Re: 大来皇女その後。。。
    ドラマ化シナリオすでに書かれました。やはり大来大津の物語は、古代史ファン皆さんの注目の的。
    大来皇女宛54個の注文ですが、別のシナリオもあり得ます。宅急便と同じで、送り状と見ることもできる。送り主は大伴ナントカさんで、大伯皇子宮あてに何かを54個特注。
    この大伴さんは持統天皇の腹心で、特注品は数珠用のガラス玉。
    「これで弟の菩提を大人しく弔っていろ」という持統さんのメッセージ。こういうのだと、前日光さんのシナリオのエピソードに使えます。わあ、持統さん意地悪。
    数珠はこの時代、もう日本に入っていたようです。

    現実の大来さんは、かなり派手好き、女としては豪快な人物であったのではないか、と思っています。次の次、最終回で、このあたりをうまく表現できたらいいな。

    自分で注文したか、人から送られたかは別にして、大来さんが飛鳥工房の工芸品2または3種、計54個を受け取ったのはいわば考古学的事実。それが何かは、まさにロマンです。
    明細は間違いなく別の木簡でしょう。それが出てこない。
    でも二つの木簡が離れた場所から出てきて、しかも破損していたら、発掘した方が気が付かない可能性もあります。ますますロマンです。
  • kummingさん 2021/04/13 13:21:53
    愛のさざなみ♪
    しにあさん、こんにちは~
    いつもこちらに伺う時は、一段と気合いを入れています。
    そんな中、今回はやや軽量級?

    野に転がる石ころ一つで千年の歴史を語るしにあさん、
    1片の木簡、54個のジュエリーで、往来皇女の晩年を捏造、あ、違った、往来皇女を想うロマン派の旅へのいざない♪
    このまま彼女は歴史の表舞台から消えてしまうのでしょうか?

    島倉千代子さまの♪愛のさざなみ♪ という曲、私は、ゆーみん、きょんきょん、アンルイスのカバーヴァージョンで知っているのですが(今もYouTube で見れます)、私の持ち歌でもあり、他に“真夏の出来事” “六本木心中” “ ルージュの伝言” などなど…。あ、話がずれてます(-。-; が、↓に繋ぐ、伏線としてお読み下さい)

    歴史のさざなみに翻弄された大来皇女の人生にも、あの実行しなかった恋、魂と魂が震え合う純愛が、鮮やかな彩りを添えていただろうと、信じたいものです♪

    男の訪問、心当たりあり?
    誰、誰ですか??
    島倉千代子さんは、下品なんですか?
    人生色々、の歌詞を検索してみなきゃ!
    まあ、今回はby妻さん説に軍配?(笑)

    一般的には、女性は記憶を上塗り保存するらしい(←前の記憶に上書きするので、以前の記憶は消える、か、薄れる?)。男性の方が昔の思い出を大切にする、という説。

    ブログ出演されてるマネキンさんたち、(夜道で遭遇するのはちょっと引きますが)いつか私もお目にかかりたいものです。

    大来大津編もそろそろ佳境に入り、六国史シリーズ、次のヒロインはどなたかな♪

    それから、女性に「あなたはいつから衰え始めたのを自覚したか?」2度と言の葉にされませんようお願い致します、家内安全、家庭平和をお祈り申し上げます^ ^

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/04/14 06:36:38
    Re: 愛のさざなみ♪
    木簡があるので、大来さんが飛鳥工房に何かを54個注文したのは事実。その54個を自由に想像できるって、すごい古代ロマンです。
    飛鳥工房という縛りがありますから、ダイコンや干物とか、食い物ではない。私は大来さん自身の装身具にしましたが、可能性はいっぱい。
    kummingさんももう一度飛鳥にいらっしゃるなら、ぜひ飛鳥資料館と万葉文化館にいらして、工房の作品の現物をご覧になってください。弁当持ち込んで1日いたって飽きない。どんなイマジネーションが湧き上がってくるか。
    飛鳥資料館は、撮った写真のブログ使用許可は、個人のブログなら出してくれます。

    ブログ出演のマネキンさんたちは大阪歴博が豊富。大阪歴博の口コミを書いておきました。それにしてももうちょっと美人にすればいいのに。By妻によれば美人だそうですが、化粧のせいか、私には不気味に見える。男のマネキンさんもいましたが、こっちは貧相でもっとひどい。竹野内豊なんか、ああいう格好したら似合うと思いますが。モデルにしてはいけないのですかね。
    大阪歴博もお勧めです。
    近くまで2度も行ったのに、大阪城はパスしました。By妻は呆れています。

    六国史の旅はまだまだ延々と続きますが、大来大津はあと2回です。さてどうやってまとめるか、思案中です、捏造中です。

    最後のご忠告、留意します。
    それにしてもBy妻の回答が見事で、のけぞりました。さすが我が妻!

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