2020/12/04 - 2020/12/04
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しにあの旅人さん
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2020年11月19日、近鉄吉野線飛鳥駅の駐車場に車をおいて、県道を西へ歩きました。かなりの急坂でした。峠の頂上近くで右、谷の向こうに見えたのが、牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)と、丘のふもとの越塚御門(こしつかごもん)古墳です。復元工事中でした。
越塚御門は、大来大津姉弟の母、太田皇女の陵といわれております。
この近くには、檜隈大内陵(ひのくまの・おおうちの・みささぎ)があります。天武持統天皇陵です。飛鳥の田園を見下ろす立派な御陵です。
持統天皇は日本の古代史に君臨する女帝、知らない人はおりません。
一方太田皇女の名を知る人は、一握りの歴史マニア。
この墓は2010年偶然発見されました。牽牛子塚古墳に間借りするかのような質素なものであります。
持統天皇つまり菟野皇女は太田皇女の妹です。2人は天智天皇を父、遠知娘(おちのいらつめ)を母とする同母姉妹で、姉妹で大海人皇子のちの天武天皇に嫁ぎました。
667年の太田皇女の死が、歴史上の姉妹の地位に大きな差をつけました。
歴史にIFはありませんが、人の世の無常、太田皇女が天武天皇の皇后として、歴史に名を残す可能性もありました。
六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
出発点は近鉄吉野線飛鳥駅の駐車場。無料です。「観光客向けなので、通勤通学には車を駐めるな」と書いてありました。逆はありますが、ここまでお客さんを優遇してくれるのは初めて。この辺りには飛鳥旅のポイントも多いので、大変ありがたい。
-
牽牛小塚古墳を尋ねるのは今回が2回目。6月はこういう案内を見て引き返しました。ここからも工事中の古墳は見えたはずなのに、前回は気がつかなかったのは、古墳法面の林あるいは竹藪が邪魔したからだと思います。その後伐採したのでしょう。
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今回は地図でしっかり調べておきました。しばらく行くと分岐があり、
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かまわず右の小路に入ります。
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この小路では6月では雑草で入れなかったでしょう。ヘビが怖い。
駅の広場に産直がありまして、野菜やお土産なんかを売っていました。その建物の脇を抜けると自動車道路で、それに沿って散歩道が延びていました。途中オサレなキャッフェとかレストランとかありました。ちょっと軽井沢風。その散歩道をまっすぐ歩くと県道にぶつかります。県道に従って右に曲がり、案外な坂道を登って行きます。登りきったところの十字路を右に、すると看板がありました。
突然字が読めなくなったわたしたちは、脇道に入り、「見学じゃないも~ん」「通りかかっただけだも~ん」と、藪の中へ。
通りかかっただけにしては、ずんずん入って行くと、又々看板があったので、又々字が読めなくなりました。雑草に足を取られながら進んで行くと、どうやら目的地らしい。見えました。木の間から見える古墳は、秘密の宇宙基地のよう。今にも銀色の宇宙服の地球外生物が出てきて、「ジ・ジイ、バ・バアナ・ニシ・テル?」とか咎められて、宇宙の彼方に連れ去られたらどうしよう。とか、猪に襲われたら、ヘビが絡まってきたら、、、とか崖から転がり落ちて、新聞に、「七十代の老婆が」とか書かれたいやだなあ!とか、私は心配しながら歩いたのですが、By夫は、禁止とは書いてないと力強く歩いて行きました。
幸いなことに、きつね様たぬき様にも見逃していただき、無事に帰って参りました。しっかし、七十すぎの爺婆が、小学生の悪ガキみたいなことするかねえ! -
やがて木立の間に見えてきました。
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復元工事中の牽牛小塚古墳です。工事は2021年春には終わるそうです。もしかすると、これは工事中の珍しい写真かもしれません。
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7世紀後半の天皇陵の特徴で八角形、葺き石で覆われていました。下地工事が終わって、これから葺き石ではないかと思います。
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明日香村役場による完成予想図。
私たちが探しているのは、牽牛小塚古墳本体ではなく、丘の麓の越塚御門古墳です。予想図の中腹の開口部ではないか。
この位置からは見えません。ロープが張ってあって、これ以上は近づけません。工事の邪魔をするわけにはいかないので、全体を見渡せる県道に戻ることにしました。 -
再び県道より谷越し。谷全景と古墳です。
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丘中腹の開口部が確認できました。
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両古墳全景。
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越塚御門古墳です。
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明日香村埋蔵文化財展示室
越塚御門古墳の想像図です。
牽牛小塚古墳の麓に横穴を掘り石棺を置いた後土をかけたようです。 -
明日香村埋蔵文化財展示室
古墳の石室。発掘時の様子だと思います。667年、ここに太田皇女は眠ったのであります。 -
太田皇女の名が日本書紀に見えるのは2カ所。
天智6年(667年)春2月27日、
「斉明天皇と妹の孝徳皇后とを小市岡上陵(おちの・おかのうえの・みささぎ)に合葬した。この日皇孫太田皇女を陵の前の墓に葬った」
宮内庁によれば、小市岡上陵は高市郡高取町にある越智崗上陵となっています。しかし学問的にはこの牽牛小塚古墳が斉明天皇陵である可能性が強いそうです。八角形で葺き石張りという当時の天皇陵の形式を備え、あきらかに合葬された形跡がある。2010年に越塚御門古墳が発見されてからは、日本書紀の記述に一致することから、さらに可能性が強まりました。 -
太田皇女の埋葬の日が薨去の日ではありません。
この時代は殯の風習があります。死んでから一定期間殯屋に遺体を安置し、その後埋葬します。斉明天皇は斉明7年(661年)、間人皇女つまり孝徳皇后は天智4年(665年)に崩御していますから、天智6年(667年)までどこかで殯していたことになります。
太田皇女も667年以前のいつか薨去し、殯のあと埋葬されたでありましょう。このような石室をもつ墓が数日でできるはずもありません。
お葬式の歌が挽歌。柩を引っ張るときの歌だそうです。いつ歌うのでしょう?
この時代、殯なるものがあったはず。
殯とは、死者が蘇るのを待つ期間だそうです。ですから、この期間、祈り、歌い、力づけたりするらしい。昔の医学では、気絶と心肺停止状態との区別がつかなかったのでしょうね。そして、どうしてもダメだと、遺族の諦めがついたときに本葬ということらしいです。昔の人はなかなか諦めなかったらしいですよ。つまり、形態が変化するまでらしいです。
もし死者が有力者だったりすると、古墳の完成まで殯なのでしょうかね。
ここからは、妄想です。たぶん殯の間は、蘇りを願って祈らなくてなりませんから、弔問に来た人達は、つぎつぎと、死者を褒めたたえ、自分の愛を訴えたことでしょう。挽歌は、死者に対する愛の歌なのです。ですから、殯の期間中は、沢山の様々な歌があったに違いありません。そして、最後の本葬のとき、柩を運び、陵に安置するときは、今までで一番、ふさわしい歌が高らかに歌い上げられたに違いありません。そうやって、殯期間から繰りかえし何度も何度も歌われたうたは、多くの人々の心を動かしたことでしょう。そして、それ故に、その死者の為の特殊性は一般化して、死の悲しみの歌は、愛人との別れを嘆く相聞歌に限りなく近くなっていったのではないでしょうか。
By妻
太田皇女の薨去の日は667年2月前のある日となります。書紀は日を明らかにしません。
天武8年3月7日、
「(天武天皇は)越智に御幸され、斉明天皇の陵に参拝された」
とあります。斉明天皇は天武の母であります。
母の陵の麓に葬られている妃太田皇女の墓の慎ましさに、天武は何を思ったか。
2人の秀でた子供を授けてくれた亡き妻の何を思いだしたか。
日本書紀の目的は、天武持統朝の正当化ですから、当時の現代史から書き起こしたはずです。それに合うように過去を書き揃える。703年まで存命だった持統天皇は、681年編纂開始720年成立の日本書紀現代史の草稿を、細大漏らさず熟読していた。
姉であり、夫天武の妃であった太田皇女の薨去の日を書きもらすのは、無情であります。
また斉明天皇の陵を詣でた天武が、太田皇女の奥津城も訪れたと書いて、なんの不都合があるのでしょうか。
持統天皇、余りに無情であります。
埋葬の日、大来皇女(661年生まれ)は6才、大津皇子(663年生まれ)は4才でした。
太田の死は、667年前のなるべく遅い日であったらいいな。
太田皇女が死んだのは、二十歳代前半です。
そうすると大来は、もしかすると、若く美しい母の顔を覚えていたかもしれない。しかし大津は、まぶたを閉じても、母を思い浮かべることさえできなかった。
天武2年(673年)2月27日、
「正妃(菟野皇女)を立てて皇后とされた。妃は草壁皇子を生まれた。これよりさき皇后の姉太田皇女を召して妃とされ、大来皇女と大津皇子を生まれた」
菟野皇女立后の記録です。
このとき大来12才、大津10才。母が存命ならば、皇后の地位についたのは、天智天皇第1皇女太田皇女のはずです。菟野皇女は第2皇女。
姉弟は何を思ったか。
大来はこのあと、4月14日、伊勢の斎宮として旅立つことになるのです。おそらく、大来はまだそれを知らない。
息子草壁皇子の、皇位継承のライバルになりえる大来皇女を伊勢に遠ざける、菟野皇女の策略であるという説が有力です。
大来皇女が斎王になることを、菟野皇女の立后のときに知らなかった?いやいやそれはない。立后が発表されたとき、またはそれ以前に知らされないはずはない。準備がありますからね。たった二ヶ月で出来るとは、どう考えてもありえません。
ですから、立后のセレモニーのとき、華やかに笑いさざめく菟野皇女側の人々にたいして、大来、大津側の人々は、すぐ二ヶ月後の別れを思ってシーンと静まっていたことでしょう。その様子を見る天武天皇は、こうでもしないと、大来の命を守ってやれないのだと、自らに言い聞かせたかもしれません。
天武天皇は、菟野皇女が怖かった。吉野から今日まで、苦難を共にした菟野皇女への思いは、感謝ばかりではないはず。苦労を分かつうちに、彼女の政治家としての有能さにも、女性としての嫉妬深さにも、十分すぎるほど気づかされていたでしょう。
このお話はまた回を改めて。
By妻 -
越塚御門古墳から天武持統天皇陵まで、わずか直線1440mです。
-
歩いて25分、車なら5分だとグーグルさんは言っております。飛鳥駅から牽牛子塚古墳まで徒歩15分くらいでしたから、そんなものでしょう。
-
堂々たる御陵です。
-
宮内庁が定めた陵です。
-
天武天皇 持統天皇 檜隈大内陵とあります。
古代天皇の御陵では珍しく、被葬者が明確な御陵です。 -
しかし残念ながら、鎌倉時代に盗掘にあっております。
その盗掘の詳細が記録に残っているという希有な例でもあります。鎌倉時代の歌人、藤原定家が「明月記」に書いています。
訓読明月記第6巻。原文は漢文。
文暦2年(1235年)4月22日、
「御陵を発きて盗む事、天武天皇大内の山稜と云々。只、白骨相遣る。また御白髪猶残ると云々」
天武天皇陵が盗掘にあい、天皇の白骨があらわになり、白髪がまだ残っていた、とあります。
5月4日、
「来たる十四日に天武天皇山稜使に、勅使を遣わすべし。参議に其の人無き由、長期之を催すと云々。仰々山陵使の事、諸陵の頭未だ復任せず」
この事件が朝廷で問題になったみたい。
5月6日、
「山稜を見立奉る者、云々の説。聞く毎に哀慟の思いを増す。御陵に於いてはまた固める奉る由、その聞こえあり。定めて簡略にするか。女帝の御骨に於ては、銀の筥を犯用するため、路頭に棄て奉り了んと。塵芥と雖も、猶尋ね収められるべきか。等閑沙汰悲しむべき事か」
事後処理をどうすべきか議論があったようです。
持統天皇の遺灰は、銀の骨壺に収められていました。これを盗むため、遺灰を路頭に棄てた。
「塵芥と雖も、猶尋ね収められるべきか」遺灰を拾うべきか議論しているようです。現代なら、灰一粒にいたるまで回収するのが常識ですが、そうでもないみたいです。天皇の遺灰は、当時はそれほど大事ではないのかな。
なおこのときに報告書として「阿不幾乃山陵記(あふきのさんりょうき)」という書物が作られ、それに記録されている天武天皇の骨の寸法から、天皇は身長175cm、当時としてもかなりの長身であったことが分かっています。 -
御陵の周辺です。
-
持統天皇の遺灰が投げ捨てられたというのはどの辺りか、もとより分かりません。遺灰は無機物ですから、土に混ざってどこかに残っているでしょう。
-
当時と今と、里山の姿は変わっていない。
持統天皇は、火葬にされた最初の天皇だそうです。それは、持統天皇のご希望だったとか。この一点だけでも、持統天皇って、ただ者ではないです。
私たちは、死んだら火葬が当然という社会に暮らしておりますが、例えばフランスは、火葬もありますが、土葬が多いのです。
私がまだ若い頃、フランス人のおばあちゃんと、森に犬の散歩に行きました。森の入り口には墓地があります。犬が、どういうことか墓地に向かおうとしたのです。すると、非常な怒りよう。そんなに怒らなくてもと、なだめにかかりますと、お墓は土葬だから、犬が入って掘るといけない。だそう。土まんじゅうの木の十字架のお墓というわけではないですよ。
大理石の立派なお墓ばかり。掘り起こすはずは、ぜったいないのですけれど、昔はそんなこともあったのかもしれません。
「日本は、掘り出すとか、ないの?」なんて聞いてきました。
「冗談じゃない。日本は火葬だ!」と言ったら、
「オーなんて怖いこと!焼かれるなんて、燃やされるなんて!」って、怖がっている。年寄りだからかと思っていたのですが、その帰り、ご近所のママ友に会いました。彼女は、もと研究所つとめのリケジョ、同感を得たくて、彼女に事の次第を語ると、「まあ~怖い!焼かれるなんて!」って。「わたしは、静かに眠りたい!」って。
事ほどさように、生活慣習は、根強いようです。
とすると、持統天皇という女性が、いかに型破りの、強い精神の持ち主であったか、推測されるところです。
尚、繰り返しますが、フランスでも火葬はあります。が、圧倒的に少なくて、日本人の先輩の方のご葬儀は、火葬場待ちで、ずいぶん遅くになりました。
By妻 -
栄枯を分けた姉妹の墓が1440メートルの距離で並んでいる。今となってはすべてが歴史のかなたです。
私たちとしては、妹の陰に消え去った姉と、その子供たちに少し肩入れしたい気分です。
飛鳥時代に今日のような墓参の風習があったか、分かりません。伊勢の斎王の任を解かれて飛鳥に戻った大来皇女が、母の墓を訪れたか、知るすべもありません。
しかし天武天皇が、母斉明天皇の陵を参拝しております。故人の奥津城を訪れることが稀であったわけではありません。
二上山に弟の面影を追った大来です。弟を失った彼女が、せめてもの心の支えとして母のもとを訪れても、不思議はありません。 -
持統4年ごろ。
-
騎馬、30才ほど、長身、男装の麗人が、巧みな手綱さばきでここを訪れたとしたら、大来皇女かもしれません。
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この旅行記へのコメント (6)
-
- 前日光さん 2021/01/23 16:53:02
- まるで宇宙人の基地みたいな。。。
- こんにちは、しにあの旅人さん。
こちらにコメントしようと思いながら、あちこち彷徨っておりました。
今日はいつ雪が降ってもおかしくないような寒さです。
今晩辺りからいよいよ雪でしょうか?
さて、牽牛子塚古墳、突然文字難読症に見舞われたご夫妻、「~してはいけない」と言われると俄然奮い立つタイプなのでしょうね。
身近な知人にもそういう人がいます。
見ていてちょっとハラハラしますが、つき合うと面白いです(^^;)
まだ整備中の古墳は、まるで中に宇宙人でも居そうな外観ですね。
天武・持統陵とは1440㍍離れているとか。
牽牛子塚古墳の麓にささやかに埋葬されたと思われる姉の大田皇女と、妹持統の陵の大きさの差は感慨深いですねぇ。
持統は火葬されたのですね?
私が狭いたんぼ道で中学生とすれ違ってビビッたのは、あの辺りです。
持統の遺灰がまだ残っていたのかも(~_~;)
火葬と言えば、私の実家の寺は(時宗ですが)、少なくとも私の両親の葬儀を行った平成元年当時、まだ土葬でした(32,3年前です)
栃木県でも珍しい土葬の風習が残っていまして、それまで私は火葬というものの経験がありませんでした。
さすがに最近は、その寺も火葬になりましたが。
火葬というものは、インディオも畏れを抱くそうですね。
大地と繋がっている祖先との関係を断ち切られるように思うらしいです。
ところで、この旅行記の最後「騎馬、30才ほど、長身、男装の麗人が、巧みな手綱さばきでここを訪れた」とありますが。。
え?大伯皇女って、男装の麗人だったのですか?
まるでオスカル様のように凜々しく美しかったのでしょうか?
なんと、どのような根拠から導き出された見解なのでしょう。
乞う、ご期待 といったところですね?
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/01/23 17:51:03
- Re: まるで宇宙人の基地みたいな。。。
- 大来皇女男装の麗人説、やっと反響がありました。
種明かし、というか、根拠は、このあと、天武菟野吉野脱出行2回、大来大津近江脱出行2回の後、真打大来の登場となりますので、それまでお待ちを。
十分な(のように見える)根拠をもつ、真説と妄説の境目であると自負しております。
By妻も宝塚と言っております。私もそのイメージで書きました。
天武持統陵で中学生にビビちゃったのですか。でも今だったら、貫禄で向こうがおります。
太田皇女のお墓と持統陵の違いには、愕然としました。そもそも細かく調べて太田皇女のお墓に気がついたので、だれもが知っている持統陵とは知名度が違います。今回調べるまで、存在を知りませんでした。
平成の御世に土葬というのは、時宗という宗教の問題ではなく、栃木という古い風土の問題ではないですかね。最近上野、下野という北関東の古代をつつき始めました。
今まで私が思っていたのとは全然違って、古代北関東には高度な文化があり、その名残が現代まで色こく残ったと考える方が、多分正しい。
日本書紀で、仁徳紀などに北関東豪族が朝鮮半島にヤマトの将軍として出兵したとの記録があるそうです。まだ現物確認していません。今までは一種の神話、伝承だと思っていたのですが、史実として考えなければならないみたい。それくらい古代の北関東は実力を持っていたみたいです。
-
- チーママ散歩さん 2021/01/14 19:08:11
- こんばんは。
- こんにちは
前回までは自転車で、今回はパワフルに道なき道を進み歴史の謎を紐解く
まるで探検家のような先輩ご夫婦。
途中 「突発性漢字健忘症候群」の症状があらわれて。。。
旅の続行を心配しましたが、安心いたしました。
チベットあたりから流行りだした病だとか。
ネットニュース「ももチャンネル」で見たことがありました。
先輩も通りがかりの旅人さんだったのですね。
何事も信念をもってつき進むことの大切さを冒頭学ばせていただきました。(笑)
しかし、古墳が八角形なのですか?
なんとも意味ありげな形。草むらから見える様子はホント、宇宙基地!!
奥様の挽歌のくだり・・・なんだか素敵。
医学も進んでいない昔は、死者の蘇りを信じて待つ期間に愛を伝え歌う挽歌とは。
ロマンを感じます。
死の悲しみの歌は、愛人との別れを嘆く相聞歌に限りなく近くなっていった
。。なんとも心にぐっとくる思いを感じます。
そこにふれて感想を書かれる奥様の感性。やっぱり素敵。ごめんなさい先輩。
先輩も素敵です・・「付け加えておきます」
死後 この時代はまだ土葬が多い時代だったのでしょうね。
儒教の教えが強い中体を傷つけることは罪と考えられていた時代と聞きました。(From愛方)
その中ではじめて火葬をするのは、生前の強い意志を尊重されたのですね。
フランスは今の世でもまだ土葬が多いのですか。
宗教の違いもあるのでしょうか。
ところで現代の日本で土葬を希望したら叶うのでしょうか?
そんなふとした疑問を抱きつつ・・・
私が死んだあと愛方さんは挽歌を歌って悲しんでくれるのかしら?
できれば生きているうちにも、しっかりと思いを聞いてみたいものです。
お邪魔しました。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/01/15 05:54:05
- Re: こんばんは。
- おはようございます。
初コメありがとうございます。
のっけから陰気な話ですが、フランスは今でも土葬が主流です。火葬場はパリ市内はペール・ラ・シェーズ1箇所のはずで、By妻が言うように、在留邦人が亡くなるとほぼ全員火葬ですから、順番待ちになります。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/01/15 06:23:24
- Re: こんばんは。続き
- みなさんよくやる誤操作で、出てしまいました。
天皇のお墓がこの時代8角形なのは、陰陽道の何ちゃらとか聞いていますが、まだ調べておりません。
儒教は入ってきてはいいるでしょうが、ああいう小難しいことは、この時代の日本人には向かないでしょうね。もっとおおらかみたいです。額田王みたいに、新旧恋人(それが天皇)をからかう歌が堂々と万葉集に載るくらいです。
竜宮城の乙姫様みたいな衣装の妖艶な美女が、うろちょろしていた時代です。
行ってみたいと思います。1週間のツアータイムトラベルで。食べ物も、貴族の食事なら悪くない。刺身が好きな人はダメです。川魚以外、干物です。
住むのはちょっとと言う感じです。
再現された古代日本語というのが、飛鳥の万葉文化館で聞けますが、なんか間延びした京都弁みたいですが、理解はできます。「ふ」と「ふぃ」が区別されるので、「ナントカふぃ」というのが気になりました。「トーフ屋のラッパじゃねんだよ」という感じ。あっ、世代的に、通じませんね、このギャグ。
このシリーズ、まだまだ続きます。
- チーママ散歩さん からの返信 2021/01/15 12:56:16
- こんにちは
- 今 お昼休みです。
「トーフ屋のラッパじゃねんだよ」
残念ながらそのギャグについていけています。
もっとも 「さざえさん」で見たのですが。
大丈夫です。世代について行けてます(笑)
古代日本語 面白そうとYOUTUBE見ました。
あの時代は なんだか会話も文語調で 微妙ですね・・・
感情が読み取れない。。。YOUTUBEの例が悪かったのかな?
あれで 地方に行って方言が入ったら、もうさっぱりわからないですね。
理解されるなんてすごい。
ちなみに六国史を覗いてみました。 もっとすごいですね
あれらを ガイドブックにされたなんて。。
いやあ 私のような凡人が、こんなに簡単に感想を口にしてはいけない
すばらしい旅行記なんですね。。。。と今更ながらにまた感想を送って
しまいました。
いろんな物との出会いが楽しいです。
学生から今までずっと冬眠していましたから。
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