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大海人皇子(天武天皇)菟野皇女は、逼塞中の吉野から近江方の勢力圏である宇陀、鈴鹿山中を突破、北伊勢に脱出しました。壬申の乱の勃発です。<br /><br />これに連動して、大来皇女大津皇子姉弟は、高市皇子とともに近江から甲賀、鈴鹿を超え、父天武天皇に合流しました。この3日間の近江脱出行は、日本書紀を詳しく読んでみると、2人には辛かっただろうなと思いました。天智天皇に愛され、倭姫に甘やかされた11才のお姫様と9才の王子様ですからね。<br />万葉集に残された大来の歌6首は、詞書を知らなかったらまるで大津への恋歌です。でもこういう思い出があるのなら、無理ないよなあと思えました。<br /><br />壬申の乱の間、桑名の郡家で2ヵ月にわたり、姉弟は天武天皇の2人の皇子とともに、菟野皇女(うのの・ひめみこ、のちの持統天皇)と暮らしました。<br />菟野皇女の二人への、異常な警戒心は、この経験があったのではないか。<br />日本書紀の裏にちらちらと見え隠れする物語を辿ってみたいと思います。<br /><br />六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。<br />引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。<br />今回は特に椎屋紀芳(しいや・きほう)の「壬申の乱」にお世話になりました。<br /><br />4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。<br />この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。<br />

六国史の旅 飛鳥の姉弟7 大来大津近江脱出

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2020/12/07 - 2020/12/07

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旅行記グループ 六国史の旅 飛鳥の姉弟

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しにあの旅人

しにあの旅人さん

大海人皇子(天武天皇)菟野皇女は、逼塞中の吉野から近江方の勢力圏である宇陀、鈴鹿山中を突破、北伊勢に脱出しました。壬申の乱の勃発です。

これに連動して、大来皇女大津皇子姉弟は、高市皇子とともに近江から甲賀、鈴鹿を超え、父天武天皇に合流しました。この3日間の近江脱出行は、日本書紀を詳しく読んでみると、2人には辛かっただろうなと思いました。天智天皇に愛され、倭姫に甘やかされた11才のお姫様と9才の王子様ですからね。
万葉集に残された大来の歌6首は、詞書を知らなかったらまるで大津への恋歌です。でもこういう思い出があるのなら、無理ないよなあと思えました。

壬申の乱の間、桑名の郡家で2ヵ月にわたり、姉弟は天武天皇の2人の皇子とともに、菟野皇女(うのの・ひめみこ、のちの持統天皇)と暮らしました。
菟野皇女の二人への、異常な警戒心は、この経験があったのではないか。
日本書紀の裏にちらちらと見え隠れする物語を辿ってみたいと思います。

六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
今回は特に椎屋紀芳(しいや・きほう)の「壬申の乱」にお世話になりました。

4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • 「六国史の旅 飛鳥の姉弟6」でも書きましたが、書紀のいう24日発26日桑名着2泊3日の脱出行は、細かく計算すると実行が極めて困難なのです。23日発3泊4日でやっと何とかなる。<br />しかしここでは書紀のいうとおり、24日吉野脱出開始で話を進めます。

    「六国史の旅 飛鳥の姉弟6」でも書きましたが、書紀のいう24日発26日桑名着2泊3日の脱出行は、細かく計算すると実行が極めて困難なのです。23日発3泊4日でやっと何とかなる。
    しかしここでは書紀のいうとおり、24日吉野脱出開始で話を進めます。

  • 書紀天武元年(672年)6月24日、<br />「大分君恵尺(おおきたのきみ・えさか)・黄書造大伴(きふみの・みやつこ・おおとも)・逢臣志摩(あうのおみ・しま)らを、飛鳥守衛の高坂王(たかさかの・おおきみ)のもとに遣わして、駅鈴(駅馬使用のための公用の鈴)を求めさせた。恵尺らに語って、『もし鈴を得られなかったら、志摩はすぐもどって報告せよ。恵尺は馬を馳せて近江に行き、高市の皇子・大津皇子をよび出し、伊勢で落ち合えるようにせよ』といわれた。恵尺らは高坂王のところに行き、東宮(大海人皇子)の命を告げて、駅鈴を求めたが許されなかった。そこで恵尺は近江に行った。志摩はもどって、『鈴は得られませんでした』と報告した」<br /><br />飛鳥守衛の高坂王の役所がどこにあったかは不明ですが、飛鳥宮とします。狭い所ですから飛鳥であれば大きな違いはありません。<br />大津皇子たちは近江にいました。「近江」とあるだけで、近江のどこかは書いてありません。<br />大友皇子がいる近江大津宮まで、現代の道路で69kmあります。<br />書紀は高坂王が駅鈴を渡さなかったと書いていますが、これは怪しい。<br />高市皇子、大来大津姉弟を救出することは、天武天皇にとっては重大事です。3人が近江方に人質に取られたら、計画が最初から狂ってしまいます。<br />6月29日、大伴連吹負(おおともの・むらじ・ふけい)が飛鳥を奇襲したとき、高坂王は簡単に天武側に寝返りました。<br /><br />天武元年年6月29日、<br />「高坂王・稚狭王(わかさの・おおきみ)を呼んで軍に従わせた」<br /><br />つまり高坂王ははじめから天武側で、ネコをかぶって近江方のふりをしていた。駅鈴は「はいよ」と恵尺に渡したのです。<br />吉野挙兵は準備もしていない、やむを得ない正当防衛だ、というための演出。書紀のウソです。<br />もし高坂王が本当に駅鈴を拒否した場合。<br />恵尺が駅鈴を持っていないと、24日中に近江大津宮にたどり着くのは非常にむずかしい。それを恵尺必死の頑張りで、なんとか3人を救出できたのですから、「あいつのおかげで子供3人危うく人質に取られるところだった。ただじゃおかねえ、落とし前つけてもらうぜ」と天武に思われて、寝返ったところで無事では済まなかった。<br />ところが、高坂王のその後ですが、<br /><br />天武12年6月6日、<br />「三位高坂王が薨じた」<br /><br />とあります。<br />その後も咎められることなく、三位という高位で生涯を終えています。つまり駅鈴を拒否していません。<br /><br />朝6時ごろ、飛鳥守衛の役所で、恵尺が駅鈴をもらってすぐ飛び出せば、16キロごとにあった駅舎で馬を乗り継いで、約5時間で近江大津宮に到着できます。だから恵尺は駅鈴が必要だったのです。<br />近江大津宮着11時前後。<br />16キロというのは、この距離を走る場合の馬の最高時速です。そのかわりその後馬はしばらく動けなくなるので、他の馬に乗り継ぐことになります。<br />乗っている恵尺もえらい、馬術にすぐれ、体力抜群、たぶん若かった。<br />映画では、馬はいつも襲歩、時速40km、競馬並みのスピードで疾走しますが、あれができるのはせいぜい5分、距離だと4~5km、その後馬は動けなくなり。その日はおやすみです。<br /><br />近江大津宮着11時前後というのは、絶妙のタイミングです。<br />天武天皇の吉野脱出は、吉野にいた近江方の監視役から見ると、9時天武一行吉野宮発、10時矢治峠付近で行方不明、となります。<br />それを察知した監視役が12時頃伝令を近江に送ったとしても、近江着は17時。恵尺は昼頃近江に着いており、高市、大来大津姉弟は近江脱出を開始しています。<br />書紀によれば、実際には近江方の初動は翌25日午前中のようです。第1報は天武方の別働隊に阻止されたというのが、私たちの推測です。<br /><br />天武天皇の吉野脱出は、本来ならば朝なるべく早く開始されるべきです。現代の道路でも131kmあるという長旅です。それが駅鈴の問題で出発が9時まで遅れたというのは、遅れたのではなく、吉野の監視役が伝令を出すタイミングを遅らせる当初からの計画とすると、すっきり理解できます。<br />この計画、実によく練られています。実行案を作ったのは、天武自身ではないかと思います。<br />書紀天武天皇紀冒頭で、<br /><br />「(天武天皇は)天文や占星の術をよくされた」<br /><br />と紹介されています。古代では、天文占星とは数学そのものでした。天武は天文の知識で何ヶ月も前からこの時期の日の出の時間を予測し、それに基づき得意の数学で、自分の吉野発、恵尺の飛鳥発の時間を正確に計算したのではないか。<br />それに加えて、高坂王の裏切りを直前まで秘密にしておく、吉野監視役の第1伝令を阻止するなど、恵尺が先に近江に着けるよう、二の矢三の矢を用意しておく。見事なものです。<br />詳細計算は天武としても、基本アイデアは、もしかすると菟野皇女かもしれない。壬申の乱以降の天武の菟野に対する信頼の根拠は、この辺りだとすると納得できます。

    書紀天武元年(672年)6月24日、
    「大分君恵尺(おおきたのきみ・えさか)・黄書造大伴(きふみの・みやつこ・おおとも)・逢臣志摩(あうのおみ・しま)らを、飛鳥守衛の高坂王(たかさかの・おおきみ)のもとに遣わして、駅鈴(駅馬使用のための公用の鈴)を求めさせた。恵尺らに語って、『もし鈴を得られなかったら、志摩はすぐもどって報告せよ。恵尺は馬を馳せて近江に行き、高市の皇子・大津皇子をよび出し、伊勢で落ち合えるようにせよ』といわれた。恵尺らは高坂王のところに行き、東宮(大海人皇子)の命を告げて、駅鈴を求めたが許されなかった。そこで恵尺は近江に行った。志摩はもどって、『鈴は得られませんでした』と報告した」

    飛鳥守衛の高坂王の役所がどこにあったかは不明ですが、飛鳥宮とします。狭い所ですから飛鳥であれば大きな違いはありません。
    大津皇子たちは近江にいました。「近江」とあるだけで、近江のどこかは書いてありません。
    大友皇子がいる近江大津宮まで、現代の道路で69kmあります。
    書紀は高坂王が駅鈴を渡さなかったと書いていますが、これは怪しい。
    高市皇子、大来大津姉弟を救出することは、天武天皇にとっては重大事です。3人が近江方に人質に取られたら、計画が最初から狂ってしまいます。
    6月29日、大伴連吹負(おおともの・むらじ・ふけい)が飛鳥を奇襲したとき、高坂王は簡単に天武側に寝返りました。

    天武元年年6月29日、
    「高坂王・稚狭王(わかさの・おおきみ)を呼んで軍に従わせた」

    つまり高坂王ははじめから天武側で、ネコをかぶって近江方のふりをしていた。駅鈴は「はいよ」と恵尺に渡したのです。
    吉野挙兵は準備もしていない、やむを得ない正当防衛だ、というための演出。書紀のウソです。
    もし高坂王が本当に駅鈴を拒否した場合。
    恵尺が駅鈴を持っていないと、24日中に近江大津宮にたどり着くのは非常にむずかしい。それを恵尺必死の頑張りで、なんとか3人を救出できたのですから、「あいつのおかげで子供3人危うく人質に取られるところだった。ただじゃおかねえ、落とし前つけてもらうぜ」と天武に思われて、寝返ったところで無事では済まなかった。
    ところが、高坂王のその後ですが、

    天武12年6月6日、
    「三位高坂王が薨じた」

    とあります。
    その後も咎められることなく、三位という高位で生涯を終えています。つまり駅鈴を拒否していません。

    朝6時ごろ、飛鳥守衛の役所で、恵尺が駅鈴をもらってすぐ飛び出せば、16キロごとにあった駅舎で馬を乗り継いで、約5時間で近江大津宮に到着できます。だから恵尺は駅鈴が必要だったのです。
    近江大津宮着11時前後。
    16キロというのは、この距離を走る場合の馬の最高時速です。そのかわりその後馬はしばらく動けなくなるので、他の馬に乗り継ぐことになります。
    乗っている恵尺もえらい、馬術にすぐれ、体力抜群、たぶん若かった。
    映画では、馬はいつも襲歩、時速40km、競馬並みのスピードで疾走しますが、あれができるのはせいぜい5分、距離だと4~5km、その後馬は動けなくなり。その日はおやすみです。

    近江大津宮着11時前後というのは、絶妙のタイミングです。
    天武天皇の吉野脱出は、吉野にいた近江方の監視役から見ると、9時天武一行吉野宮発、10時矢治峠付近で行方不明、となります。
    それを察知した監視役が12時頃伝令を近江に送ったとしても、近江着は17時。恵尺は昼頃近江に着いており、高市、大来大津姉弟は近江脱出を開始しています。
    書紀によれば、実際には近江方の初動は翌25日午前中のようです。第1報は天武方の別働隊に阻止されたというのが、私たちの推測です。

    天武天皇の吉野脱出は、本来ならば朝なるべく早く開始されるべきです。現代の道路でも131kmあるという長旅です。それが駅鈴の問題で出発が9時まで遅れたというのは、遅れたのではなく、吉野の監視役が伝令を出すタイミングを遅らせる当初からの計画とすると、すっきり理解できます。
    この計画、実によく練られています。実行案を作ったのは、天武自身ではないかと思います。
    書紀天武天皇紀冒頭で、

    「(天武天皇は)天文や占星の術をよくされた」

    と紹介されています。古代では、天文占星とは数学そのものでした。天武は天文の知識で何ヶ月も前からこの時期の日の出の時間を予測し、それに基づき得意の数学で、自分の吉野発、恵尺の飛鳥発の時間を正確に計算したのではないか。
    それに加えて、高坂王の裏切りを直前まで秘密にしておく、吉野監視役の第1伝令を阻止するなど、恵尺が先に近江に着けるよう、二の矢三の矢を用意しておく。見事なものです。
    詳細計算は天武としても、基本アイデアは、もしかすると菟野皇女かもしれない。壬申の乱以降の天武の菟野に対する信頼の根拠は、この辺りだとすると納得できます。

  • 恵尺は、5時間の連続騎行で、とにかく近江に着きました。乗馬が日常であった古代人には、これくらいは当たり前であった。でもたぶん、ふらふらだったでしょう。<br />私たちは、忠臣蔵で4日半の早かごで江戸から赤穂に第1報を届けた水藤左衛門と萱野三平をイメージしていますが、だいたいこんなものだと思います。

    恵尺は、5時間の連続騎行で、とにかく近江に着きました。乗馬が日常であった古代人には、これくらいは当たり前であった。でもたぶん、ふらふらだったでしょう。
    私たちは、忠臣蔵で4日半の早かごで江戸から赤穂に第1報を届けた水藤左衛門と萱野三平をイメージしていますが、だいたいこんなものだと思います。

  • ここで本来は、大友皇子がいた近江大津宮の模型を出したいのですが、残念ながら私たちが大津に行った日は、模型が展示されている大津市歴史博物館はおやすみ。<br />これは近江大津宮錦織遺跡です。西暦677年天智天皇が飛鳥から移した宮がありました。壬申の乱の後廃墟となりました。<br />住宅地の広場です。案内版だけ。平城宮跡の大極殿のようなものは期待しませんが、もうちょっとなんとか。史跡に崩れ残った石垣でもあればそれなりに感慨もあります。コンクリート敷の広場ではねえ、<br />「コンクリート、つわものどもも、困ったな」<br />でも大津市の財政上の話で、しょうがない。

    ここで本来は、大友皇子がいた近江大津宮の模型を出したいのですが、残念ながら私たちが大津に行った日は、模型が展示されている大津市歴史博物館はおやすみ。
    これは近江大津宮錦織遺跡です。西暦677年天智天皇が飛鳥から移した宮がありました。壬申の乱の後廃墟となりました。
    住宅地の広場です。案内版だけ。平城宮跡の大極殿のようなものは期待しませんが、もうちょっとなんとか。史跡に崩れ残った石垣でもあればそれなりに感慨もあります。コンクリート敷の広場ではねえ、
    「コンクリート、つわものどもも、困ったな」
    でも大津市の財政上の話で、しょうがない。

  • この時高市の皇子、大来大津姉弟は近江のどこにいたか。<br />近江大津宮にいたというのは想像しにくい。<br />まず恵尺が駅鈴をならして琵琶湖沿いに宮に行ったというのは無理がある。当然見つかって、誰何されるでしょう。<br />近江大津宮から鈴鹿、伊勢方面に脱出するには、瀬田の唐橋を渡ります。<br />近江大津宮から瀬田の唐橋まで9.1kmあります。徒歩なら2時間以上、馬でも並足で1時間半。その間に脱出が発覚して唐橋を塞がれれば万事休すです。

    この時高市の皇子、大来大津姉弟は近江のどこにいたか。
    近江大津宮にいたというのは想像しにくい。
    まず恵尺が駅鈴をならして琵琶湖沿いに宮に行ったというのは無理がある。当然見つかって、誰何されるでしょう。
    近江大津宮から鈴鹿、伊勢方面に脱出するには、瀬田の唐橋を渡ります。
    近江大津宮から瀬田の唐橋まで9.1kmあります。徒歩なら2時間以上、馬でも並足で1時間半。その間に脱出が発覚して唐橋を塞がれれば万事休すです。

  • これは唐橋の西側、

    これは唐橋の西側、

  • 瀬田川の中州からの眺めです。

    瀬田川の中州からの眺めです。

  • 万葉文化館の展示より。瀬田の唐橋の戦い。右が天武天皇軍です。<br />壬申の乱の時は、最後の決戦はこの橋でした。ここを天武天皇軍が突破したことで戦いの趨勢は決しました。

    万葉文化館の展示より。瀬田の唐橋の戦い。右が天武天皇軍です。
    壬申の乱の時は、最後の決戦はこの橋でした。ここを天武天皇軍が突破したことで戦いの趨勢は決しました。

  • 川の対岸が東側。<br />高市、大来大津は24日までに唐橋の東側に渡っていたはずです。<br />恵尺は全速で3人との待ち合わせ場所に駆け込み、ただちに脱出行が始まります。<br /><br />この脱出行には協力者がいっぱいいます。<br />高市皇子が積殖の山口で天武天皇一行に合流したとき、名前が明記された人物だけで7人が皇子に従っていました。<br />迹太川のほとりで大来大津姉弟が合流したときも、恵尺以下9人が2人を護衛していたのです。<br />近江には天武方と内通する者も多く、事前にしっかりと脱出の段取りを立てておいたと考えられます。しかし日本書紀は、吉野挙兵は突発的な正当防衛だと言い張るので、事前共同謀議のようなことは書きません。<br /><br />3人は近江で孤立していたのではなく、天武側の協力者に囲まれていた。<br />大友皇子の妃十市(といちの)皇女は天武天皇の娘ですが、このとき父である天武天皇に近江方の情報を流したという有名な話があります。これは11世紀~13世紀の資料にあるもので、あまり信頼はできないそうです。しかし十市皇女側近を含めればあり得なくはない。<br /><br />倭姫(やまとひめ)は天智天皇の皇后です。<br />天智天皇は崩御の前、天皇位を譲ると大大海人皇子(天智の弟、のちの天武天皇)に持ちかけます。すると皇子は、<br /><br />天智天皇10年(672年)冬10月7日、<br />「どうか大業は太后(皇后)にお授け下さい。そして大友皇子に諸政を行わせて下さい」<br /><br />と言って、吉野に隠棲してしまいます。<br />倭姫は生没年不明なのですが、このときは確実に存命だった。彼女が天武シンパだった可能性は強い。天武は、倭姫を天皇にしろと、天智に勧めてくれたのです。<br />倭姫は子供がなく、母太田皇女亡き後、大来大津姉弟をひきとって育てたという説もあります。2人が可愛い倭姫は、なんらかの理由をつけて、唐橋の東に2人を呼び出しておいた。2人も3人も同じと、高市皇子も一緒。<br />大友皇子が実権を握った後、唐橋の東に隠棲して宮を構えていた可能性もある。<br />倭姫は、天智天皇に謀反の罪で殺された古人大兄皇子(ふるひとの・おおえの・おうじ)の娘です。父の仇を夫にしたわけで、このあたりの倭姫の心の内いかに。

    川の対岸が東側。
    高市、大来大津は24日までに唐橋の東側に渡っていたはずです。
    恵尺は全速で3人との待ち合わせ場所に駆け込み、ただちに脱出行が始まります。

    この脱出行には協力者がいっぱいいます。
    高市皇子が積殖の山口で天武天皇一行に合流したとき、名前が明記された人物だけで7人が皇子に従っていました。
    迹太川のほとりで大来大津姉弟が合流したときも、恵尺以下9人が2人を護衛していたのです。
    近江には天武方と内通する者も多く、事前にしっかりと脱出の段取りを立てておいたと考えられます。しかし日本書紀は、吉野挙兵は突発的な正当防衛だと言い張るので、事前共同謀議のようなことは書きません。

    3人は近江で孤立していたのではなく、天武側の協力者に囲まれていた。
    大友皇子の妃十市(といちの)皇女は天武天皇の娘ですが、このとき父である天武天皇に近江方の情報を流したという有名な話があります。これは11世紀~13世紀の資料にあるもので、あまり信頼はできないそうです。しかし十市皇女側近を含めればあり得なくはない。

    倭姫(やまとひめ)は天智天皇の皇后です。
    天智天皇は崩御の前、天皇位を譲ると大大海人皇子(天智の弟、のちの天武天皇)に持ちかけます。すると皇子は、

    天智天皇10年(672年)冬10月7日、
    「どうか大業は太后(皇后)にお授け下さい。そして大友皇子に諸政を行わせて下さい」

    と言って、吉野に隠棲してしまいます。
    倭姫は生没年不明なのですが、このときは確実に存命だった。彼女が天武シンパだった可能性は強い。天武は、倭姫を天皇にしろと、天智に勧めてくれたのです。
    倭姫は子供がなく、母太田皇女亡き後、大来大津姉弟をひきとって育てたという説もあります。2人が可愛い倭姫は、なんらかの理由をつけて、唐橋の東に2人を呼び出しておいた。2人も3人も同じと、高市皇子も一緒。
    大友皇子が実権を握った後、唐橋の東に隠棲して宮を構えていた可能性もある。
    倭姫は、天智天皇に謀反の罪で殺された古人大兄皇子(ふるひとの・おおえの・おうじ)の娘です。父の仇を夫にしたわけで、このあたりの倭姫の心の内いかに。

  • 夫が父を滅ぼしたのか、それとも父の仇と結婚したのか。<br />乙巳の変のとき、中大兄皇子がいくつだったのかしら?<br />なんて調べていたら、中大兄皇子が、天皇の位に就いたのは、変の後、実に23年後だったということが判明しました。<br />23年!がーん。<br />夫が父を滅ぼしたとして、23年間どういう顔をして夫の顔を見て暮らしていたのでしょうか。また、天皇位に就くに当たって、皇后に相応しい身分の女性として選ばれたとしたら、触ってもくれるなって思ったとしても不思議はない。<br />ははあ、そういうわけで、子供がいないのか。なるほど。<br />とにかく、倭姫が皇后位についたとき、彼女は。もう若くないことは確かです。もしも乙巳の変の時に赤ん坊だったとしても、23才以上だし。天智さんはピチピチギャルに囲まれていたし。<br />子供はいない寂しい生活だったでしょうね。<br />そこに来た大来と大津の姉弟、倭姫は嬉しかったのではないでしょうか。太閤秀吉の正妻ねねも、淀殿の最初の子供を引き取りますよね。同じ事だと思います。<br />思いがけず母親仕事をすることになって、倭姫は張り切ったでしょう。後には、頭脳明晰、イケメンになる大津くんは、チビのころからハキハキしていて、教育しがいがあったんじゃないですかね。<br />逆に言うと、この頃の倭姫の教育のお陰で、大津皇子は颯爽たる教養豊かな好青年に育ったということにもなるわけで。<br />そして、その一方、倭姫は、父殺しの中大兄皇子より、大海人皇子の方に好感を覚えていたでしょうし。近江朝において、天智天皇の皇后ということだけが彼女の存在意義ですから、天皇が替われば、ごみばこにポイですよ。息子が新天皇になったのならとにかく、ただの昔の皇后なんて、去年の正月飾り。<br />ということで、近江朝のなかで、第三者として、冷静に情勢を読んでいたことでしょう。<br />それで、大海人が勝つ。と判断して、大来大津を、吉野側に逃がしたのです。<br /><br />十市皇女が、近江側を裏切った話がありますが、わたしは、これには賛成しません。倭姫が、去年の正月飾りなら、十市皇女は、今まさに掲げられる旗なのですから。<br />大友皇子も十市皇女も、皇族の中では、身分は低かったのです。それが、どういうわけか、次期天皇といわれるまでなって!<br />嫁に行ったときは、まさかなれるとは思ってなかった十市皇女さん。<br />ぐんぐん出世する我が亭主を、ほれぼれ眩しくみたことでしょうね。<br />ここら辺りの心持ちは、がーすー夫人に聞きたいところです。そんな人が夫を裏切りますか?夫と二人で、いけいけですよ。<br />だからこそ、乱のあとの急死ということになるんじゃないですかね。<br /><br />サテ、倭姫に戻ります。壬申の乱の後、どうなったのでしょう。<br />十市皇女が生きて保護されているのですから、倭姫も、もちろん無事に大来大津姉弟と再会を果たしたことでしょう。そのことが記録に残っていないのは、政治的ではないからです。倭姫は、政治的には、もう価値のない過去の人なのです。が、大来大津の育ての母として、きっとふたりと暮らしたに違いありません。<br />そして、大来皇女が、伊勢の斎王になって下向したときには、共にくだったのかもしれません。<br />だとしたら、大津皇子が、姉に会いに伊勢に行ったのは、姉と共に育ての母にも会いに行ったのでしょう。ちょうど、ヤマトタケルが、東征の前に、倭姫に会いに行ったように。<br />甘ったれだなあ!<br />でも、こういう隙だらけの甘ったれ小僧が、たまらなく胸を締め付けるのですね。<br />By妻

    夫が父を滅ぼしたのか、それとも父の仇と結婚したのか。
    乙巳の変のとき、中大兄皇子がいくつだったのかしら?
    なんて調べていたら、中大兄皇子が、天皇の位に就いたのは、変の後、実に23年後だったということが判明しました。
    23年!がーん。
    夫が父を滅ぼしたとして、23年間どういう顔をして夫の顔を見て暮らしていたのでしょうか。また、天皇位に就くに当たって、皇后に相応しい身分の女性として選ばれたとしたら、触ってもくれるなって思ったとしても不思議はない。
    ははあ、そういうわけで、子供がいないのか。なるほど。
    とにかく、倭姫が皇后位についたとき、彼女は。もう若くないことは確かです。もしも乙巳の変の時に赤ん坊だったとしても、23才以上だし。天智さんはピチピチギャルに囲まれていたし。
    子供はいない寂しい生活だったでしょうね。
    そこに来た大来と大津の姉弟、倭姫は嬉しかったのではないでしょうか。太閤秀吉の正妻ねねも、淀殿の最初の子供を引き取りますよね。同じ事だと思います。
    思いがけず母親仕事をすることになって、倭姫は張り切ったでしょう。後には、頭脳明晰、イケメンになる大津くんは、チビのころからハキハキしていて、教育しがいがあったんじゃないですかね。
    逆に言うと、この頃の倭姫の教育のお陰で、大津皇子は颯爽たる教養豊かな好青年に育ったということにもなるわけで。
    そして、その一方、倭姫は、父殺しの中大兄皇子より、大海人皇子の方に好感を覚えていたでしょうし。近江朝において、天智天皇の皇后ということだけが彼女の存在意義ですから、天皇が替われば、ごみばこにポイですよ。息子が新天皇になったのならとにかく、ただの昔の皇后なんて、去年の正月飾り。
    ということで、近江朝のなかで、第三者として、冷静に情勢を読んでいたことでしょう。
    それで、大海人が勝つ。と判断して、大来大津を、吉野側に逃がしたのです。

    十市皇女が、近江側を裏切った話がありますが、わたしは、これには賛成しません。倭姫が、去年の正月飾りなら、十市皇女は、今まさに掲げられる旗なのですから。
    大友皇子も十市皇女も、皇族の中では、身分は低かったのです。それが、どういうわけか、次期天皇といわれるまでなって!
    嫁に行ったときは、まさかなれるとは思ってなかった十市皇女さん。
    ぐんぐん出世する我が亭主を、ほれぼれ眩しくみたことでしょうね。
    ここら辺りの心持ちは、がーすー夫人に聞きたいところです。そんな人が夫を裏切りますか?夫と二人で、いけいけですよ。
    だからこそ、乱のあとの急死ということになるんじゃないですかね。

    サテ、倭姫に戻ります。壬申の乱の後、どうなったのでしょう。
    十市皇女が生きて保護されているのですから、倭姫も、もちろん無事に大来大津姉弟と再会を果たしたことでしょう。そのことが記録に残っていないのは、政治的ではないからです。倭姫は、政治的には、もう価値のない過去の人なのです。が、大来大津の育ての母として、きっとふたりと暮らしたに違いありません。
    そして、大来皇女が、伊勢の斎王になって下向したときには、共にくだったのかもしれません。
    だとしたら、大津皇子が、姉に会いに伊勢に行ったのは、姉と共に育ての母にも会いに行ったのでしょう。ちょうど、ヤマトタケルが、東征の前に、倭姫に会いに行ったように。
    甘ったれだなあ!
    でも、こういう隙だらけの甘ったれ小僧が、たまらなく胸を締め付けるのですね。
    By妻

  • 前提条件ですが、全員騎馬とします。このとき高市皇子は19才ですから乗馬は問題ない。大来皇女11才。私たちは、彼女はハイティーンのころ身長170cm~175cmくらいあったと推定しています。高身長、根拠はあとで。女の子は成長がはやいので、11才でも150cmくらい。<br />大津皇子ははっきり「丈高く」と懐風藻に書いてある。成人したときは185cm-190cmはあった。9才でもすでに140cmくらい。<br />飛鳥時代人は現代の日本人より背が高かったのです。<br />現代の乗馬クラブの案内をみると、馬を操るには身長125cmが目安です。大人より子供、特に女の子が上達が早い。子供は余計なことを考えず、馬とコミュニケーションをとりながら、馬に逆らわず体を動かすそうです。<br />飛鳥時代では女が普通に馬に乗っていたと書紀に書いてあります。<br />つまり大来大津は馬に乗れました。<br /><br />書紀には近江脱出コースの情報が少ない。出発の日は書いてありません。<br />分かっているのは、書紀によれば、<br /><br />天武天皇元年(672年)6月25日、<br />「(天武天皇が)積殖の山口に至り、高市皇子が鹿深(かふか、甲賀)を越えて合流した」

    前提条件ですが、全員騎馬とします。このとき高市皇子は19才ですから乗馬は問題ない。大来皇女11才。私たちは、彼女はハイティーンのころ身長170cm~175cmくらいあったと推定しています。高身長、根拠はあとで。女の子は成長がはやいので、11才でも150cmくらい。
    大津皇子ははっきり「丈高く」と懐風藻に書いてある。成人したときは185cm-190cmはあった。9才でもすでに140cmくらい。
    飛鳥時代人は現代の日本人より背が高かったのです。
    現代の乗馬クラブの案内をみると、馬を操るには身長125cmが目安です。大人より子供、特に女の子が上達が早い。子供は余計なことを考えず、馬とコミュニケーションをとりながら、馬に逆らわず体を動かすそうです。
    飛鳥時代では女が普通に馬に乗っていたと書紀に書いてあります。
    つまり大来大津は馬に乗れました。

    書紀には近江脱出コースの情報が少ない。出発の日は書いてありません。
    分かっているのは、書紀によれば、

    天武天皇元年(672年)6月25日、
    「(天武天皇が)積殖の山口に至り、高市皇子が鹿深(かふか、甲賀)を越えて合流した」

  • 瀬田の唐橋―積殖の山口まで46.5km。私たちは、琵琶湖東岸の平野は国道1号を走りました。東海道です。古代東海道もほぼ同じ道筋です。その後野須川沿いに山中に入り、三雲トンネルを過ぎてから県道4号に入りました。県道4号が近江朝時代の東海道だそうです。<br />平行する川が杣川に変わります。やがて甲賀です。高市皇子が越えた鹿深(かふか)です。<br /><br />24日11時に恵尺が瀬田の唐橋東岸のどこかで3人と合流。天武一行は予定通り吉野を脱出したと告げます。これが大事、天武一行と連動していなければ、3人の近江脱出は無意味なのです。恵尺の仕事は完了です。事前に計画は立ててあるので、あとはそれを発動すればいい。<br />恵尺にはかわいそうですが、乾し飯をお湯でゆるめただけのお昼をかっこんでもらって、出発です。

    瀬田の唐橋―積殖の山口まで46.5km。私たちは、琵琶湖東岸の平野は国道1号を走りました。東海道です。古代東海道もほぼ同じ道筋です。その後野須川沿いに山中に入り、三雲トンネルを過ぎてから県道4号に入りました。県道4号が近江朝時代の東海道だそうです。
    平行する川が杣川に変わります。やがて甲賀です。高市皇子が越えた鹿深(かふか)です。

    24日11時に恵尺が瀬田の唐橋東岸のどこかで3人と合流。天武一行は予定通り吉野を脱出したと告げます。これが大事、天武一行と連動していなければ、3人の近江脱出は無意味なのです。恵尺の仕事は完了です。事前に計画は立ててあるので、あとはそれを発動すればいい。
    恵尺にはかわいそうですが、乾し飯をお湯でゆるめただけのお昼をかっこんでもらって、出発です。

  • 積殖の山口まで46.5km、馬の時速並足6km。実働7時間45分、2時間に1回30分馬を休ませると休憩3回計1時間30分、9時間15分必要です。<br />12時発としましょう。この日は西暦だと672年7月24日、奈良県は19時10分日没、19字40分で真っ暗となります。騎馬での行軍は危険です。天武本隊との合流は翌朝なので無理することはない。現JR草津線甲賀駅あたりで唐橋から37キロ、騎馬6時間10分、休憩入れて7時間10分です。古代東海道の甲賀駅もおおよそこの辺りだったようです。積殖の山口まで10kmくらいで野営。<br />野営地を黎明と同時に出発して、積殖の山口まで1時間30分もあれば充分です。天武本隊を待ち受けます。<br />合流場所は、積殖の山口と決まっていたと推定。

    積殖の山口まで46.5km、馬の時速並足6km。実働7時間45分、2時間に1回30分馬を休ませると休憩3回計1時間30分、9時間15分必要です。
    12時発としましょう。この日は西暦だと672年7月24日、奈良県は19時10分日没、19字40分で真っ暗となります。騎馬での行軍は危険です。天武本隊との合流は翌朝なので無理することはない。現JR草津線甲賀駅あたりで唐橋から37キロ、騎馬6時間10分、休憩入れて7時間10分です。古代東海道の甲賀駅もおおよそこの辺りだったようです。積殖の山口まで10kmくらいで野営。
    野営地を黎明と同時に出発して、積殖の山口まで1時間30分もあれば充分です。天武本隊を待ち受けます。
    合流場所は、積殖の山口と決まっていたと推定。

  • 一方、大来大津組は最後は高市皇子とは別行動です。<br />書紀の記述は以下が全て。<br /><br />25日(深夜、天武一行が三重の郡家についたとき)、<br />「この夜中に鈴鹿関の司が使いを遣わしてきて、『山部王・石川王らが、服属するためにやって参りましたので、関にとどめてあります』といってきた。天皇は路直益人(みちの・あたいの・ますひと)を遣わして呼ばれた」<br /><br />26日朝(迹太川のほとりで天照大神を遙拝後)、<br />「このとき益人が到着して奏上し、『関においでになったのは山部王、石川王ではなく、大津皇子でありました』といった。やがて益人の後から大津皇子が参られた」<br /><br />25日夜までに鈴鹿の関に着いたことになります。

    一方、大来大津組は最後は高市皇子とは別行動です。
    書紀の記述は以下が全て。

    25日(深夜、天武一行が三重の郡家についたとき)、
    「この夜中に鈴鹿関の司が使いを遣わしてきて、『山部王・石川王らが、服属するためにやって参りましたので、関にとどめてあります』といってきた。天皇は路直益人(みちの・あたいの・ますひと)を遣わして呼ばれた」

    26日朝(迹太川のほとりで天照大神を遙拝後)、
    「このとき益人が到着して奏上し、『関においでになったのは山部王、石川王ではなく、大津皇子でありました』といった。やがて益人の後から大津皇子が参られた」

    25日夜までに鈴鹿の関に着いたことになります。

  • 瀬田の唐橋-鈴鹿関は60.9kmです。<br />また唐橋東岸を同時に出発したと考えます。出発直後に警戒すべきは近江方の追跡です。3人には名前が分かっているだけでも16人が護衛についています。天武が選んだツワモノでしょう。少人数の追跡部隊なら蹴散らせますが、護衛兵力を分散するのは得策ではない。<br />24日日没までに甲賀着。<br /><br />甲賀で高市皇子とともに野営。<br />25日黎明、まず高市皇子だけ先発。<br />別行動の理由は、書紀には書いてありません。<br />やはり年少の2人の疲労が激しかったので、2人を休ませるため恵尺の判断で出発を遅らせた。<br />もう一つ考えられます。<br />天武本隊の動静ですが、<br /><br />書紀6月24日続き、<br />「伊賀の山中に入るころ、その国の郡司らが数百の兵をつれて従ってきた」<br /><br />伊賀は天武天皇側についたのです。甲賀は近江の国ではありますが、伊賀国積殖から10kmです。郡司は別働隊を送って甲賀の大来大津を保護することが可能です。<br />吉野脱出の天武チルドレンの1人に文祢麻呂(ふみの・ねまろ)という人物がおりました。書紀では書首根麿呂と書かれます。彼は大坂の大豪族出身ですが、最後はこの地に土着して現在の宇陀市の山中に葬られるほど、この地で活躍しました。彼など郡司とともに別働隊を指揮して大来大津を迎えに行くには適任です。恵尺の同僚ですからお互いに信頼できます。<br />やむにやまれぬ正当防衛などという書紀のたわごとを相手にする必要は、もはやないのです。何ヶ月も前から周到に計画された作戦でした。<br />天武側勢力内に入ったので、近江の追撃を恐れる必要がなくなった。天武が不破の前線総司令官として欲しがっている高市皇子をはやく合流させる。

    瀬田の唐橋-鈴鹿関は60.9kmです。
    また唐橋東岸を同時に出発したと考えます。出発直後に警戒すべきは近江方の追跡です。3人には名前が分かっているだけでも16人が護衛についています。天武が選んだツワモノでしょう。少人数の追跡部隊なら蹴散らせますが、護衛兵力を分散するのは得策ではない。
    24日日没までに甲賀着。

    甲賀で高市皇子とともに野営。
    25日黎明、まず高市皇子だけ先発。
    別行動の理由は、書紀には書いてありません。
    やはり年少の2人の疲労が激しかったので、2人を休ませるため恵尺の判断で出発を遅らせた。
    もう一つ考えられます。
    天武本隊の動静ですが、

    書紀6月24日続き、
    「伊賀の山中に入るころ、その国の郡司らが数百の兵をつれて従ってきた」

    伊賀は天武天皇側についたのです。甲賀は近江の国ではありますが、伊賀国積殖から10kmです。郡司は別働隊を送って甲賀の大来大津を保護することが可能です。
    吉野脱出の天武チルドレンの1人に文祢麻呂(ふみの・ねまろ)という人物がおりました。書紀では書首根麿呂と書かれます。彼は大坂の大豪族出身ですが、最後はこの地に土着して現在の宇陀市の山中に葬られるほど、この地で活躍しました。彼など郡司とともに別働隊を指揮して大来大津を迎えに行くには適任です。恵尺の同僚ですからお互いに信頼できます。
    やむにやまれぬ正当防衛などという書紀のたわごとを相手にする必要は、もはやないのです。何ヶ月も前から周到に計画された作戦でした。
    天武側勢力内に入ったので、近江の追撃を恐れる必要がなくなった。天武が不破の前線総司令官として欲しがっている高市皇子をはやく合流させる。

  • 私が疑問に思うのは、どうして高市、大来大津姉弟は無事に近江方勢力圏を脱出できたか。<br />近江が吉野攻撃を準備して兵の動員をかけていたのが、天武の吉野脱出の原因でした。<br />現に、<br /><br />書紀天武2年(673年)秋7月2日、<br />「近江方では山部王・蘇我臣果安・巨勢臣比等に命じて、数万の兵を率い、不破を襲おうとして犬上川のほとりに軍を集めた」<br /><br />とあります。数万というのは多すぎるとしても、かなりの兵力が近江に集結していた。3人の脱出経路は、近江と東国を結ぶ幹線官道東海道ですから、臨戦態勢の近江方の警戒が厳重で本来なら無事に通れるはずがない。しかも大来大津という、少年少女を含む20人くらいの一行ですから、相当目立ちます。<br />後年の義経の安宅関越えみたいに、大来大津を下級兵士に偽装という手もあります。大津はともかく、美少女大来にそういう格好をさせることになります。かわいそう。しかし小さすぎて兵士には見えませんね。<br />やはりここも、近江方の大物の協力があったと考えるのが合理的です。<br />ここでぱっと思いつくのは、25日深夜、天武一行が三重の郡家についたとき、<br /><br />「この夜中に鈴鹿関の司が使いを遣わしてきて、『山部王・石川王らが、服属するためにやって参りましたので、関にとどめてあります』といってきた」<br /><br />ここでは関の司が誤認したと書紀は言いたいのですが、本当に山部王と石川王が、甲賀の天武側勢力圏まで3人を送り届けたとすると、全てが氷解します。<br />山部王は側近の代理だった可能性あり。1週間後には近江方の総司令官にさせられるのです。3日間近江を留守にする時間はない。<br /><br />書紀天武2年(673年)秋7月2日続き、<br />「近江方では山部王・蘇我臣果安・巨勢臣比等に命じて、数万の兵を率い、不破を襲おうとして犬上川のほとりに軍を集めた。しかし山部王は蘇我臣果安・巨勢臣比等らのために殺され、混乱のため軍は進まなかった」<br /><br />山部王殺害の理由は書いていないのですが、天武側に寝返るつもりだった、特に3人の皇子皇女脱出の協力をしたのがばれたとすると、つじつまがぴったりあいます。<br /><br />私たちは石川王は自分自身で天武勢力圏まで3人を送ったと思っています。壬申の乱後の話、<br /><br />書紀天武8年(679年)3月9日、<br />「吉備大宰(きびの・おおみこともち)石川王は、病で吉備に薨じた。天皇はこれを聞いてたいへん悲しまれ、恵み深い言葉を賜って云々といわれ、諸王二位を贈られた」<br /><br />吉備大宰というのは、吉備の国とその周辺を治める重要なポストです。乱後、このポストに任ぜられたということです。

    私が疑問に思うのは、どうして高市、大来大津姉弟は無事に近江方勢力圏を脱出できたか。
    近江が吉野攻撃を準備して兵の動員をかけていたのが、天武の吉野脱出の原因でした。
    現に、

    書紀天武2年(673年)秋7月2日、
    「近江方では山部王・蘇我臣果安・巨勢臣比等に命じて、数万の兵を率い、不破を襲おうとして犬上川のほとりに軍を集めた」

    とあります。数万というのは多すぎるとしても、かなりの兵力が近江に集結していた。3人の脱出経路は、近江と東国を結ぶ幹線官道東海道ですから、臨戦態勢の近江方の警戒が厳重で本来なら無事に通れるはずがない。しかも大来大津という、少年少女を含む20人くらいの一行ですから、相当目立ちます。
    後年の義経の安宅関越えみたいに、大来大津を下級兵士に偽装という手もあります。大津はともかく、美少女大来にそういう格好をさせることになります。かわいそう。しかし小さすぎて兵士には見えませんね。
    やはりここも、近江方の大物の協力があったと考えるのが合理的です。
    ここでぱっと思いつくのは、25日深夜、天武一行が三重の郡家についたとき、

    「この夜中に鈴鹿関の司が使いを遣わしてきて、『山部王・石川王らが、服属するためにやって参りましたので、関にとどめてあります』といってきた」

    ここでは関の司が誤認したと書紀は言いたいのですが、本当に山部王と石川王が、甲賀の天武側勢力圏まで3人を送り届けたとすると、全てが氷解します。
    山部王は側近の代理だった可能性あり。1週間後には近江方の総司令官にさせられるのです。3日間近江を留守にする時間はない。

    書紀天武2年(673年)秋7月2日続き、
    「近江方では山部王・蘇我臣果安・巨勢臣比等に命じて、数万の兵を率い、不破を襲おうとして犬上川のほとりに軍を集めた。しかし山部王は蘇我臣果安・巨勢臣比等らのために殺され、混乱のため軍は進まなかった」

    山部王殺害の理由は書いていないのですが、天武側に寝返るつもりだった、特に3人の皇子皇女脱出の協力をしたのがばれたとすると、つじつまがぴったりあいます。

    私たちは石川王は自分自身で天武勢力圏まで3人を送ったと思っています。壬申の乱後の話、

    書紀天武8年(679年)3月9日、
    「吉備大宰(きびの・おおみこともち)石川王は、病で吉備に薨じた。天皇はこれを聞いてたいへん悲しまれ、恵み深い言葉を賜って云々といわれ、諸王二位を贈られた」

    吉備大宰というのは、吉備の国とその周辺を治める重要なポストです。乱後、このポストに任ぜられたということです。

  • この石川王への厚遇の理由は書いてありませんが、天武は壬申の乱の論功行賞をしっかりと行っています。<br />好例が、ここで大活躍している恵尺。<br /><br />書紀天武4年6月23日、<br />「大分君恵尺は病が重くなり、天皇は大いに驚かれて詔し、『恵尺よ、お前は滅私奉公して身命を惜しまず、雄々しい心で壬辰の乱に勲功を立てた。自分はいつもお前の努力に報いたいと思っていた。お前がもし死んだとしても、子孫に手厚く賞を与えよう』といわれた。外小紫の位に昇進させられた。いくばくもなく自宅で薨じた」<br /><br />「壬辰の乱に勲功」とは、高市、大来大津の近江脱出行を成功させたことです。とくに、迹太川まで姉弟を連れて来たのは恵尺ですから、天武は特別に恵尺に感謝していたのです。外小紫の位を送ると同時に、ここで書かれている天武の感謝の言葉は異例に長く、かつ心がこもっています。<br /><br />なお恵尺は名の通り現大分県の地方豪族出身で、大分県由布市に恵尺の墓といわれる古墳が残っています。いづれ天武チルドレンを訪ねる旅で行ってみたいと思っています。<br /><br />石川王の薨去に寄せた天武の言葉は、恵尺ほどではないにしても、やはり優しい。<br />壬申の乱の功績者の死には、高い位を贈ることと、とくに功績が著しい場合は、優しい言葉で報いています。石川王はその一連の流れで考えると、3人の近江脱出に大きな功績があったということです。<br /><br />もちろん、事前に話をつけた、共同謀議の一環です。<br />書紀としてはそれは書けない。したがって乱のあと厚遇して、なおかつそれを書紀に明記して感謝の意を表した。<br />ドンピシャではありませんか。

    この石川王への厚遇の理由は書いてありませんが、天武は壬申の乱の論功行賞をしっかりと行っています。
    好例が、ここで大活躍している恵尺。

    書紀天武4年6月23日、
    「大分君恵尺は病が重くなり、天皇は大いに驚かれて詔し、『恵尺よ、お前は滅私奉公して身命を惜しまず、雄々しい心で壬辰の乱に勲功を立てた。自分はいつもお前の努力に報いたいと思っていた。お前がもし死んだとしても、子孫に手厚く賞を与えよう』といわれた。外小紫の位に昇進させられた。いくばくもなく自宅で薨じた」

    「壬辰の乱に勲功」とは、高市、大来大津の近江脱出行を成功させたことです。とくに、迹太川まで姉弟を連れて来たのは恵尺ですから、天武は特別に恵尺に感謝していたのです。外小紫の位を送ると同時に、ここで書かれている天武の感謝の言葉は異例に長く、かつ心がこもっています。

    なお恵尺は名の通り現大分県の地方豪族出身で、大分県由布市に恵尺の墓といわれる古墳が残っています。いづれ天武チルドレンを訪ねる旅で行ってみたいと思っています。

    石川王の薨去に寄せた天武の言葉は、恵尺ほどではないにしても、やはり優しい。
    壬申の乱の功績者の死には、高い位を贈ることと、とくに功績が著しい場合は、優しい言葉で報いています。石川王はその一連の流れで考えると、3人の近江脱出に大きな功績があったということです。

    もちろん、事前に話をつけた、共同謀議の一環です。
    書紀としてはそれは書けない。したがって乱のあと厚遇して、なおかつそれを書紀に明記して感謝の意を表した。
    ドンピシャではありませんか。

  • 近江から桑名への旅は、11才の少女と9才の少年にとって、楽なものではありません。<br />24日の旅は西暦だと7月24日、天武本隊の記録によれば、この日は雨は降りません。酷暑の夏です。路上炎天下だと40度を超えます。<br />熱中症寸前、馬を休ませている間、2人は木陰でぐったりしていた。大津などはベソをかいていたかもしれない。大来だって泣きたいのは同じ、でも2才年下の弟を心配させてはいけないと、カラ元気を振り絞って大津を励ます。場合によっては、<br />「男だろ、しっかりしなさい!」と叱咤。<br /><br />甲賀駅あたりで唐橋から37キロ、騎馬6時間10分、休憩入れて7時間10分の旅と推定しました。伊賀の郡司の兵に保護された夜も、安心はしたものの、眠れぬ夜をすごしたでありましょう。<br />想像して下さい。2人は、近江で天智天皇にかわいがられ、子供のいない皇后の倭姫になに不自由なく育てられた、11才のお姫様と9才の王子様なのです。それが、何かよく分からずに炎天下の馬の旅に連れ出され、着いたのは真っ暗な田舎の、見たこともないあばらや。へとへと。<br />夕食はお湯につけた乾し飯。干し魚とダイコンくらい。<br />「お姉様、これなあに?」大津は見たこともない。<br />大来も知らない。<br />「食べて下さい。明日もまた馬の旅です」と恵尺が自分も食べながら勧めます。<br />「とにかく食べましょう」大来は一口食べてはき出しそうになるが、なんとか飲み込む。とにかく喉に押し込む2人。<br />やっと寝られると思ったら、顔を知っているのは、高市、恵尺だけ。周囲は武装した髭ヅラの男達、ガチャガチャ鎧の音が気になって眠れない。<br />怖かったと思います。<br />「怖くないのよ」と弟に言い聞かせる大来自身の声が震えていたでしょう。<br />こんな風景、当たらずとも遠からずと思いませんか。

    近江から桑名への旅は、11才の少女と9才の少年にとって、楽なものではありません。
    24日の旅は西暦だと7月24日、天武本隊の記録によれば、この日は雨は降りません。酷暑の夏です。路上炎天下だと40度を超えます。
    熱中症寸前、馬を休ませている間、2人は木陰でぐったりしていた。大津などはベソをかいていたかもしれない。大来だって泣きたいのは同じ、でも2才年下の弟を心配させてはいけないと、カラ元気を振り絞って大津を励ます。場合によっては、
    「男だろ、しっかりしなさい!」と叱咤。

    甲賀駅あたりで唐橋から37キロ、騎馬6時間10分、休憩入れて7時間10分の旅と推定しました。伊賀の郡司の兵に保護された夜も、安心はしたものの、眠れぬ夜をすごしたでありましょう。
    想像して下さい。2人は、近江で天智天皇にかわいがられ、子供のいない皇后の倭姫になに不自由なく育てられた、11才のお姫様と9才の王子様なのです。それが、何かよく分からずに炎天下の馬の旅に連れ出され、着いたのは真っ暗な田舎の、見たこともないあばらや。へとへと。
    夕食はお湯につけた乾し飯。干し魚とダイコンくらい。
    「お姉様、これなあに?」大津は見たこともない。
    大来も知らない。
    「食べて下さい。明日もまた馬の旅です」と恵尺が自分も食べながら勧めます。
    「とにかく食べましょう」大来は一口食べてはき出しそうになるが、なんとか飲み込む。とにかく喉に押し込む2人。
    やっと寝られると思ったら、顔を知っているのは、高市、恵尺だけ。周囲は武装した髭ヅラの男達、ガチャガチャ鎧の音が気になって眠れない。
    怖かったと思います。
    「怖くないのよ」と弟に言い聞かせる大来自身の声が震えていたでしょう。
    こんな風景、当たらずとも遠からずと思いませんか。

  • 25日朝、甲賀から積殖の山口までは標高差80mのゆるい登りですが、約10kmあります。杣街道は現県道4号とほぼ同じ道筋です。積植の山口で大和街道に合流。東に進路を変え加太(かぶと)峠を越えます。鈴鹿峠越の東海道は仁和2年(886年)に開かれました。それ以前はこの加太峠越が東海道で伊賀と伊勢とを結んでいたのです。<br />国道25号ですが、旧大和街道です。高市皇子が合流した天武本隊もここを通りました。<br /><br />書紀天武2年6月25日、<br />「(天武天皇は)太山(鈴鹿山脈)を越えて伊勢の鈴鹿に着いた」<br /><br />とあるのが旧大和街道、加太峠です。

    25日朝、甲賀から積殖の山口までは標高差80mのゆるい登りですが、約10kmあります。杣街道は現県道4号とほぼ同じ道筋です。積植の山口で大和街道に合流。東に進路を変え加太(かぶと)峠を越えます。鈴鹿峠越の東海道は仁和2年(886年)に開かれました。それ以前はこの加太峠越が東海道で伊賀と伊勢とを結んでいたのです。
    国道25号ですが、旧大和街道です。高市皇子が合流した天武本隊もここを通りました。

    書紀天武2年6月25日、
    「(天武天皇は)太山(鈴鹿山脈)を越えて伊勢の鈴鹿に着いた」

    とあるのが旧大和街道、加太峠です。

  • 加太峠はどこが峠だか分からない、緩やかな上り下りでした。人家ほぼなし。峠付近は採石場で荒れていました。写真の道路が白いのは採石場から出た埃です。

    加太峠はどこが峠だか分からない、緩やかな上り下りでした。人家ほぼなし。峠付近は採石場で荒れていました。写真の道路が白いのは採石場から出た埃です。

  • 峠を少し下ったあたりです。

    峠を少し下ったあたりです。

  • 積殖の山口から加太峠越は標高差177mくらいです。距離は10kmくらい。<br />加太峠を下りてから鈴鹿の関まで緩い下りで5km。

    積殖の山口から加太峠越は標高差177mくらいです。距離は10kmくらい。
    加太峠を下りてから鈴鹿の関まで緩い下りで5km。

  • 鈴鹿の関があったと思われるあたりです。江戸時代の関宿から加太峠越方向。左の川が加太川。この谷の奥から右に川を見ながら大来大津姉弟はやって来ました。

    鈴鹿の関があったと思われるあたりです。江戸時代の関宿から加太峠越方向。左の川が加太川。この谷の奥から右に川を見ながら大来大津姉弟はやって来ました。

  • 標識の加太は加太駅までの距離です。<br /><br />25日は、高市皇子に遅れて甲賀を出発、午後鈴鹿の関着。ここで足止めされます。前述の、山部王、石川王に誤認されたのが原因です。甲賀で2人を保護していた伊賀の郡司の別働隊から、2人の王が関わっていたという情報が、関の司に不完全に伝わったのか。<br />護衛部隊の隊長恵尺は猛烈に抗議したでしょう。でも関の司は聞きいれず、三重の郡家に向かっている天武に伝令を出し、指示を仰ぎます。<br />三重の郡家まで37.3kmです。明るいうちは早馬、日没後は駈けることになります。書紀は、<br /><br />「この夜中に鈴鹿関の司が使いを遣わしてきて・・・」<br /><br />となっているので、追いついたのは深夜24時前後です。ここで天武はためらわず路直益人(みちの・あたいの・ますひと)を遣わして2人を呼び寄せました。天武と石川王、恵尺の間では話がついていた。でも末端の関の司は知らないのは当然。トップシークレットでした。<br />しかし夜道は危険で馬を走らせません。路直益人は松明をたよりに37.3kmを走り、24時発遅くとも26日黎明前、4時ごろには鈴鹿の関に着いたことになります。分速155m、<br />2021年箱根駅伝10区の駒沢大・石川拓慎の分速は約333mですから、できなくはない。<br />路直益人は書紀のここにしか出てきません。「路」という氏が気になりますね。この辺りの道路状況に詳しいという意味か。後年の飛脚のように、走って情報をやりとりする専門家という意味か。<br /><br />26日朝(迹太川のほとりで天照大神を遙拝後)、<br />「このとき益人が到着して奏上し、『関においでになったのは山部王、石川王ではなく、大津皇子でありました』といった。やがて益人の後から大津皇子が参られた」<br /><br />となっています。<br />益人すごい。37.3kmを走り、同じ距離を馬で戻っている。<br />天武天皇は迹太川で天照大神を遙拝しています。天照大神は太陽神ですから、日の出を遙拝したということです。この日の日の出は4時55分です。<br />鈴鹿の関から迹太川まで37.3kmです。関からですと、騎馬で6時間13分、休み30分2回1時間、7時間13分かかります。黎明4時30分に大来大津が出発したとして、着は11時43分です。<br /><br />これ、ちょっと変です。天武天皇は遙拝後7時間弱迹太川のほとりで、ぼーっと大来大津の到着を待っていたことになります。<br />大来大津は馬術の天才で、年少ながら時速16km、馬を最高速度で走らせたとします。馬を2回乗り継ぐ。それでも2時間19分かかり、迹太川着は6時59分。<br />天武はやはり約2時間待ちますね。<br /><br />実は迹太川の現代での比定地も、三重の郡家の比定地もはっきりとは分かっていないのです。鈴鹿の関、三重の郡家、迹太川、これを書紀の記述に従って、実際に移動可能か、という観点から比定地をしぼる。そういう研究はないようです。これは修士クラスの論文になりませんかね。<br />研究テーマとして、松坂肉1年分でお譲りします。連絡先は4トラ事務局。

    標識の加太は加太駅までの距離です。

    25日は、高市皇子に遅れて甲賀を出発、午後鈴鹿の関着。ここで足止めされます。前述の、山部王、石川王に誤認されたのが原因です。甲賀で2人を保護していた伊賀の郡司の別働隊から、2人の王が関わっていたという情報が、関の司に不完全に伝わったのか。
    護衛部隊の隊長恵尺は猛烈に抗議したでしょう。でも関の司は聞きいれず、三重の郡家に向かっている天武に伝令を出し、指示を仰ぎます。
    三重の郡家まで37.3kmです。明るいうちは早馬、日没後は駈けることになります。書紀は、

    「この夜中に鈴鹿関の司が使いを遣わしてきて・・・」

    となっているので、追いついたのは深夜24時前後です。ここで天武はためらわず路直益人(みちの・あたいの・ますひと)を遣わして2人を呼び寄せました。天武と石川王、恵尺の間では話がついていた。でも末端の関の司は知らないのは当然。トップシークレットでした。
    しかし夜道は危険で馬を走らせません。路直益人は松明をたよりに37.3kmを走り、24時発遅くとも26日黎明前、4時ごろには鈴鹿の関に着いたことになります。分速155m、
    2021年箱根駅伝10区の駒沢大・石川拓慎の分速は約333mですから、できなくはない。
    路直益人は書紀のここにしか出てきません。「路」という氏が気になりますね。この辺りの道路状況に詳しいという意味か。後年の飛脚のように、走って情報をやりとりする専門家という意味か。

    26日朝(迹太川のほとりで天照大神を遙拝後)、
    「このとき益人が到着して奏上し、『関においでになったのは山部王、石川王ではなく、大津皇子でありました』といった。やがて益人の後から大津皇子が参られた」

    となっています。
    益人すごい。37.3kmを走り、同じ距離を馬で戻っている。
    天武天皇は迹太川で天照大神を遙拝しています。天照大神は太陽神ですから、日の出を遙拝したということです。この日の日の出は4時55分です。
    鈴鹿の関から迹太川まで37.3kmです。関からですと、騎馬で6時間13分、休み30分2回1時間、7時間13分かかります。黎明4時30分に大来大津が出発したとして、着は11時43分です。

    これ、ちょっと変です。天武天皇は遙拝後7時間弱迹太川のほとりで、ぼーっと大来大津の到着を待っていたことになります。
    大来大津は馬術の天才で、年少ながら時速16km、馬を最高速度で走らせたとします。馬を2回乗り継ぐ。それでも2時間19分かかり、迹太川着は6時59分。
    天武はやはり約2時間待ちますね。

    実は迹太川の現代での比定地も、三重の郡家の比定地もはっきりとは分かっていないのです。鈴鹿の関、三重の郡家、迹太川、これを書紀の記述に従って、実際に移動可能か、という観点から比定地をしぼる。そういう研究はないようです。これは修士クラスの論文になりませんかね。
    研究テーマとして、松坂肉1年分でお譲りします。連絡先は4トラ事務局。

  • 25日の夜は、雷雨だったのです。翌朝までが大来大津には最も辛かった。<br />天武本隊の状況は、<br /><br />天武元年(672年)年6月25日、<br />「ところが夜、空がくもり雨が降りそうになって、(天武一行は)ゆっくり休むこともできず出発した。寒くなってきて、雷が鳴り雨も激しくなった。お供に従う者はみな衣類が濡れて、寒さに堪えられなかった」<br /><br />この時天武本隊がいた三重の郡家と、鈴鹿の関は37kmの距離です。同じ雷が鳴り、同じ豪雨が鈴鹿関を襲っておりました。天武本隊と同じで、気温も低かった。衣類が濡れたら寒さに堪えられなかった。<br />近江からの投降者と思われているわけで、待遇もよくなかったでしょう。もともと関所ですから、宿泊設備があるわけではない。

    25日の夜は、雷雨だったのです。翌朝までが大来大津には最も辛かった。
    天武本隊の状況は、

    天武元年(672年)年6月25日、
    「ところが夜、空がくもり雨が降りそうになって、(天武一行は)ゆっくり休むこともできず出発した。寒くなってきて、雷が鳴り雨も激しくなった。お供に従う者はみな衣類が濡れて、寒さに堪えられなかった」

    この時天武本隊がいた三重の郡家と、鈴鹿の関は37kmの距離です。同じ雷が鳴り、同じ豪雨が鈴鹿関を襲っておりました。天武本隊と同じで、気温も低かった。衣類が濡れたら寒さに堪えられなかった。
    近江からの投降者と思われているわけで、待遇もよくなかったでしょう。もともと関所ですから、宿泊設備があるわけではない。

  • この地形です。山と加太川に挟まれた往復2車線の道です。現代でも道路の山側にわずかな平地があるだけです。関所としては絶好の地形ですが、関の前後の宿泊設備などわずかなもの。<br />しかも鈴鹿関はすでに伊勢の国司の軍勢が充満していたのです。<br /><br />書紀6月25日続き、<br />「太山(鈴鹿山脈)を越えて伊勢の鈴鹿に着いた。伊勢国司(以下4名氏名略)らが鈴鹿郡で天皇の一行をお迎えした。そこでまた五百の軍勢を集めて、鈴鹿の山道の守りを固めた」<br /><br />こんな狭い所に500の軍勢、姉弟たちの宿などあるはずがない。<br />天武本隊も、「お供に従う者はみな衣類が濡れて、寒さに堪えられなかった」<br />大来大津は雨に打たれたでしょう。2人は雷鳴と豪雨に怯えながら1夜を過ごしたのであります。<br />大来は、寒さに震える大津を抱きしめて暖めた。<br />大来は幼い大津がいとおしかったのです。<br />守る対象でした。<br />このとき、2才の年の差ながら、大来の母性にスイッチが入った。<br />姉というよりむしろ母として大津に接した。<br />万葉集に残された大来の大津に寄せる過剰ともいえる愛情表現は、この時の体験があると考えると、理解できませんか。<br /><br />「吾が兄子を大和へやると、さ夜更けて、暁(あかとき)露にわが立ち濡れし」(2-105)<br />「大事のあなたを、大和へたたすといふので、夜更けてから外へ出て、明方近い露の為に、立ってゐて濡れたことだ」(万葉集折口)<br /><br />「二人行けど、行き過ぎ難き安騎山を、いかにか、君が一人越えなむ」(2-106)<br />「あなたが大和へ帰る途中にある、あの安騎山は、私も知っている。二人連れて居ていても、寂しくて通りにくい所であった、それに如何にして、あなたが独りで、越えておいきなさるだろう」(万葉集折口)

    この地形です。山と加太川に挟まれた往復2車線の道です。現代でも道路の山側にわずかな平地があるだけです。関所としては絶好の地形ですが、関の前後の宿泊設備などわずかなもの。
    しかも鈴鹿関はすでに伊勢の国司の軍勢が充満していたのです。

    書紀6月25日続き、
    「太山(鈴鹿山脈)を越えて伊勢の鈴鹿に着いた。伊勢国司(以下4名氏名略)らが鈴鹿郡で天皇の一行をお迎えした。そこでまた五百の軍勢を集めて、鈴鹿の山道の守りを固めた」

    こんな狭い所に500の軍勢、姉弟たちの宿などあるはずがない。
    天武本隊も、「お供に従う者はみな衣類が濡れて、寒さに堪えられなかった」
    大来大津は雨に打たれたでしょう。2人は雷鳴と豪雨に怯えながら1夜を過ごしたのであります。
    大来は、寒さに震える大津を抱きしめて暖めた。
    大来は幼い大津がいとおしかったのです。
    守る対象でした。
    このとき、2才の年の差ながら、大来の母性にスイッチが入った。
    姉というよりむしろ母として大津に接した。
    万葉集に残された大来の大津に寄せる過剰ともいえる愛情表現は、この時の体験があると考えると、理解できませんか。

    「吾が兄子を大和へやると、さ夜更けて、暁(あかとき)露にわが立ち濡れし」(2-105)
    「大事のあなたを、大和へたたすといふので、夜更けてから外へ出て、明方近い露の為に、立ってゐて濡れたことだ」(万葉集折口)

    「二人行けど、行き過ぎ難き安騎山を、いかにか、君が一人越えなむ」(2-106)
    「あなたが大和へ帰る途中にある、あの安騎山は、私も知っている。二人連れて居ていても、寂しくて通りにくい所であった、それに如何にして、あなたが独りで、越えておいきなさるだろう」(万葉集折口)

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六国史の旅 飛鳥の姉弟

この旅行記へのコメント (28)

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  • ryujiさん 2021/02/27 19:22:25
    飛鳥の姉弟7 大来・大津 近江脱出を拝見いたしました!
     こんばんは、しにあの旅人さん。

     タイトル旅行記を見せてもらいました。 いやぁ~、凄いのひと言に尽きます。 まさにこのシリーズが佳境に入った感(私にとっては)がありますね。 見応え・読み応えのある旅行記でした。 私の頭の良くない分、幾分理解できなかったところがありましたが90%解り大満足です。

     この姉弟に義理のおばぁ様倭姫さんの行り、その関与は興味深いですね。 あの冷徹非情(異母兄を殺し、その娘を妻にするという)の天智さんができ愛したという孫の大津皇子、昔幼い自身の姿を返り見たのではなかろうか?。 その意味で深い関係がうなづけます。

     私の大好きな大伯皇女の万葉集

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/27 20:15:02
    Re: 飛鳥の姉弟7 大来・大津 近江脱出を拝見いたしました!
    コメントありがとうございます。
    みなさんのコメントが、By妻の倭姫に集中しております。本人は「どうだ」と大いばり。私としては若干忸怩たるものがあります。
    しかし夫婦一体の旅行記、というより歴史再現ドラマのシナリオ、切磋琢磨して、より面白いものに仕上げます。

    倭姫は、壬申の乱の端役なのですが、実に面白い。
    その屋敷を唐橋の東岸、現在の建部神社であるという仮説を立てて、何かこじつける根拠がないかと調べたのですが、やはり無理みたい。
    古代への推理欲を掻き立てるおばあさんであります。でもトシは本当はわかりません。
    「失礼な!」と怒られる可能性あり。
    イタリアのマンマみたいな女性像を想像していますが、By妻は同意しません。

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2021/02/27 20:19:50
    Re: 飛鳥の姉弟7 大来・大津 近江脱出を拝見いたしました!
     ごめんなさい、見切り発車のようでして。 続きをよろしく願います。

     私の大好きな万葉集の和歌が出ましたね、貴方様に感謝します。 これは
    大伯皇女の代表的な2首ですね。 私はこの105番・106番は姉弟の異常愛として親しんでいます。 何故に自身の旅行記に載せなかったか?。 二者択一で苦慮の結果として、107番大津皇子・108番石川郎女を選びました。

     素敵な旅行記をありがとうございます。
                     ryuji

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/27 20:30:13
    Re: 飛鳥の姉弟7 大来・大津 近江脱出を拝見いたしました!
    105、106の歌の解釈については、このずーっと後、詞書右注の「ひそかに」(漢字でません)という言葉について、大伴家持まで動員して、清純可憐派の立場から屁理屈を捏ね回します。ご期待ください。
    該当するryujiさんの旅行記をお教えください。

    ryuji

    ryujiさん からの返信 2021/02/27 21:00:25
    Re: 飛鳥の姉弟7 大来・大津 近江脱出を拝見いたしました!
     こんばんは、しにあの旅人さん。

     お答えします、「万葉の世界を訪ねて」前編。 最後が大伯皇女の和歌、その前2首が107番・108番で二人の相聞歌です。
                     ryuji
  • 前日光さん 2021/02/26 16:50:15
    高市、大来・大津の近江脱出!
    こんにちは。
    血湧き肉躍る高市&大来・大津の近江脱出劇!
    馬って全力疾走すると5分でバテるんですかぁ。
    西部劇や時代劇で、馬の疾走シーンをこれでもかと見てきたのですが、それは知りませんでした!
    ばんえい競馬を間近で見たので、今ではさもありなむと思いまするが。

    倭姫皇后、この人には興味がありますが、そうでしたよね、あの無慈悲な天智に父古人大兄を殺されたのでした。
    天智に心を許すことはなかったんじゃないかなぁと、私も思いまする。
    そこに降って湧いたように現れた美しい子どもたち、大来と大津、そりゃあ可愛がったことでしょうよ。
    どうしても許せない天智、でも長年共にいるうちにどこかで天智に惹かれてゆく自分も許せない!
    そこに出現した二姉弟、自分の愛情のありったけをこの二人に注ぐのは彼女の宿命!
    天智の敵である天武の子どもたち、天智は自分にとっても亡き父の敵!倭姫の複雑極まりない心中を思うとたまりませんねぇ。

    恵尺という人物、壬申の乱の陰で、このような人物が活躍していたのですねぇ。
    そして石川王ですか、この人たちに守られて、雷雨の中二姉弟を迎えた天武は心強かったことでしょう。
    十市が近江側には残されていますが、なに、この娘もやがてはこちら側に引き取ってやる!ぐらいの勢いで、天武は立ち向かったのでしょうか。

    うーーん、判官贔屓の私は、個人的には天智にも惹かれるんですよねぇ。
    冷徹、酷薄、孤高なんていう言葉が彼には似合っていて、束の間の近江朝廷、「近江の海 夕波千鳥汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ」という人麻呂の歌が染みてきます。
    大友皇子もかわいそうな気がして。。。


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/27 07:23:43
    Re: 高市、大来・大津の近江脱出!
    おはようございます。
    歴史再現ドラマのシナリオみたいになりました。きっちり読んでいただいて、作者としてはとても嬉しい。

    馬が5分しか全力疾走できないのは、私も初めて知りました。競馬だと、タイムは長くて3分くらいらしい。あの子たちは時速60kmでも走れるそうですが、長く走ると、呼吸器や心臓に回復不可能なダメージを受けるそうです。
    そういえば、映画でもロングの撮影で5分の全力疾走なんて、見たことない。10秒くらいかな。カットでつなげば長く走っているように見える。

    今日はこれからストーブの薪集めで木こりに出かけます。
    あとでまた続けます。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/27 12:52:43
    Re: 高市、大来・大津の近江脱出!
    続きです。
    大来大津は天智さんに引き取られたのは史実、そのご立派に成人しているので、然るべき人物に育てられたのは間違いない。とすると、最も可能性があるのは倭姫ですよね。
    天智天皇が近江遷都する前、大津を飛鳥岡本の宮で育てた可能性を、薬師寺縁起と扶桑略記から見つけました。後の方で触れます。もっと前に分かっていれば、大津の少年時代を語るエピソードにできたのに、残念。
    岡本の宮は雷の丘の麓で、斉明天皇の宮です。火事で焼けているのですが、再建されていたような感じ。
    雷の丘の麓で、ちょっとデブッチョの、イタリアのマンマみたいな感じの倭姫が、大来大津を抱きしめて離さない、そんなイメージです。

    恵尺は最も魅力的な人物です。このあと3年で死んでいるのですが、天武の言葉が、書紀でも異常に長く、生の感情が溢れている。多分天武は本当にこういうことを言って、それをその場にいた誰かが書き留めていたのではないかと思います。
    書紀でも、天皇のその時の個人的な感情を読み取れる、珍しいケースではないかな。

    この後桑名です。もうしばらくお付き合いください。
  • mistralさん 2021/02/22 13:53:39
    2姉弟の心中はいかに?
    シニアの旅人さん

    こんにちは。
    壮大な歴史ドラマを拝見した気分でした。
    私にとっては大来、大津の2姉弟がどのようにして天武さんに合流したのか
    が最大の関心事でした。
    天智さんの元で、2人は大切に育てられたという話は
    誰が大切に慈しんで育てたか?には触れられていませんので
    倭姫が、という説には納得がいきます。
    そして近江脱出計画、この計画は天武さん側の計画であって
    大来、大津、2人の師弟にとっては、よく知らない天武さんに会えるという事は
    あまりアピールしなかったかもしれない、
    それでも念入りに、反天智さんの側近からは、脱出計画の事は吹き込まれ
    上手く行ったら育ての母、倭姫さんと再び暮らせるからね、などと
    囁かれてきた、
    2人が長い行程をなんとか耐え抜けたのには、こういった理由もあったかも、
    など、頷ける事などがありました。
    一方高市皇子はすでに青年となっていましたから、そのような事前準備は
    必要なかったのでしょうね。

    沢山の難事を切り抜けながら、決戦の時は迫ってきていますね。

    mistral

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/23 19:44:31
    Re: 2姉弟の心中はいかに?
    大来大津が、父天武天皇をどう思っているか、という視点は全然考えたことありませんでした。母太田皇女の死後、天智天皇に愛されたとありますが、おじいさんですよねえ。肝心の天武天皇は出てきません。菟野皇女に完全に尻に敷かれていた天武さん、2人が可愛くなかったのかなあ。
    可愛くても何も言えなかった、とか。ちょっと同情します。

    倭姫養育説はBy妻が力説しております。倭姫、子供がいなかったので、ネコ可愛がりしたのは想像できる。2人が倭姫のところに連れてこられた日の、倭姫の反応など、見たかった。
    イタリアの年取ったマンマ、2人を抱きしめちゃって離さない、そんな場面の方がふさわしいみたいです。
    イタリア映画にするわけにはいかないし。
  • kummingさん 2021/02/20 20:07:54
    キャスティング♪
    4tr 参加して丸3年、そのうち直近の1年は皆さまの旅行記を眺めては(個人旅行始めたばかりで)足止めくらった我が身を嘆いてみたり、いやいや残された時間を有意義に!と叱咤激励してみたり…。ローマ帝国にはじまり、ギリシアから中東、バビロニアだのヒッタイトだの、イスラム文化、地中海と、どんどん興味の対象が広がるばかり、の中、コロナのおかげで、いきなり日本書記だの古事記だの、神話の世界に首を突っ込む事になり、とっくに脳内許容量を超えてます(;o;)
    午前中、BC3000年縄文海進の旅から戻ったばかりで、先ほど馬にまたがり吉野脱出に併走~心身疲労困憊、頭はヒートアップしております。
    地理的時間的数字による検証はネコひげセンターにお任せするとして、松坂牛1年分も喉から手が出そうになる処、今日のところは別件での応募をば^ ^
    映画化キャスティングの案件
    男優編
    反町隆史 唐沢寿明 仲村トオル 佐藤健
    女優編
    宮沢りえ 上野樹里 最近大河で信長の妻役演じた方(名前が分からず)
    最近の若手俳優知らなくて、ちょいとうが立ってるメンツ?
    ついでにもしFDIIの映画化って展開あれば^o^
    男優編
    ジャックニコルソン
    コリンファレル
    キアヌリーヴス
    ヒューグラント
    女優編
    イザベルアジャーニ
    へレムボナムカーター
    レネーゼネウイガー
    ニコールキッドマン
    メリル・ストリープ
    な~んちゃってキャスティング^ ^
    1人でも該当者出たら、551の肉まん1週間分で手を打ちます♪
    さて、脚本byしにあさん夫妻として、要はやはり監督でしょう?
    送信前にコピー忘れずに!

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/21 06:58:51
    Re: キャスティング♪
    鹿児島の果ての果てまでお連れしました。お疲れ様。
    あのあたりは、古代日本のもっとも最先端の地だったのです。言うなれば今の成田、羽田の国際線ターミナル。朝鮮半島沿岸経由なんて、みみっちいことは言わない。ドーンと東シナ海を横断して、唐に行こっていうのですから、大型旅客機が発着していたのと同じ。

    六国史の次のシリーズで、鑑真さんに出てもらいますが、その時また坊津の写真使います。3年前はこんなこと思いもしませんでした。

    もう映画化の話が出ているのですか。原作料いくらにしようかな。やはり松坂肉1年分かと。
    キャスティングは、大来ちゃんが大事。もっか11歳の子役さんですが、身長150、できれば160cm欲しい。
    菟野さんは、28歳、若い時の岩下志麻みたいな、冷たい感じで行きたいと思っています。
    脚本、がんばろー!

    ももであ

    ももであさん からの返信 2021/02/21 10:14:07
    Re: キャスティング♪
    > 信長の妻役演じた方(名前が分からず)
    きゃ~っ あたくしの愛する川口春奈ちゃんを忘れないでくださいまし^^;
    身長166cm採用下さい。

    kumming

    kummingさん からの返信 2021/02/21 10:27:11
    Re: キャスティング♪
    春奈ちゃんさまでした♪中々肝の坐った演技に好感度急上昇~
    Castingと別に
    製作総指揮 by 夫
    脚本    by 夫 by 妻
    総監督   Momodea
    撮影カメラ Momodea
    特殊映像  チーママ散歩さん
    総合美術  pedaruさん
    ナレーションmistralさん前日光さん
    時代考証  mistralさん
    衣装デザインby 妻さん
    音楽    Momodea
    エキストラ兼アシスタント わたくし~
    (↑要は雑用、パシリ、小間使い)
    カキコ参加されている皆さまにご協力頂くという形?
    もちろん、ノーギャラ(笑)

    mistral

    mistralさん からの返信 2021/02/21 16:32:04
    Re: キャスティング♪
    こんにちは。
    遅ればせながら、旅行記を読み進めてきましたら
    びっくり!
    すでに映画化にあたってのスタッフとしてキャスティング
    されていました。
    正式に決まりましたら微力ながらのお手伝いを。
    ただ、声には自信がありませんからナレーションは無理。
    kummingさんのさらなるアシスタントならなんとかなりそう。

    mistral

    前日光

    前日光さん からの返信 2021/02/26 15:49:12
    RE: Re: キャスティング♪
    しにあさん、kummingさん、こんにちは。

    > ナレーションmistralさん前日光さん

    →ご両者さま、私をどこの県人だとお思いで?
    mistralさまはともかく、私、あの無アクセント地帯の栃木県民ですよ!
    U字工事ほどではないにしても、近いものがあると思われます。
    「橋」と「箸」、「雲」と「蜘蛛」の区別、全く分かりません。
    ひたすら文章や出来事の前後関係で判断している県民に、ナレーションは120%無理!
    エキストラの老女役で、もしくはパシリでお使いくださいな^^;

    でもキャスティングって、私も大好き!(^^)!
    考えるだに楽しい(^_^)v


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/27 19:54:20
    Re: キャスティング♪
    立松和平さんですね。
    親戚に宇都宮出身がいますが、たしかに一本調子。でもいいと思います。
    下野出身の豪族のお姫様が、舎人親王の思われ人、これが教養豊か、親王からいろいろ相談され、それを晩年懐古するという設定で、地方色豊か、栃木では視聴率100%間違いなし。
    北関東は経済文化とも古代の先進地域だったということで、知事なんかも絶対乗ってくる。
    現シリーズは、まだ書き終わっていませんが、ほぼ目処ついた。次の関心は北関東に移っております。
    なんとか皆さんの関心を、秋からのブログに向かわせようとする、天武並みの深謀遠慮、かな。
    コロナちゃん、おさまってね。

    kumming

    kummingさん からの返信 2021/02/27 20:15:33
    深謀遠慮(ーー;)
    しにあさんの“みんなを歴史シリーズの泥沼にハメちゃおう大作戦”にものの見事にハメられちゃった前日光さんはじめ私たち、ではございますが、ここに来て、ココしにあさんちの掲示板→みんなの遊び板、化しちゃった感?
    しかもそのせいか、ポチ票数(いいね)伸び悩み中?な気もしながら、それでもカキコ♪
    北関東、地理もイントネーションも分かりましえ~ん(TT)
    前日光さん、スタッフキャストの件、ファクトチェック担当、いかがでしょう?

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/27 20:33:56
    Re: キャスティング♪
    みんなの遊び場大歓迎。脳トレ楽しみます。
    コメントがポチを上回るという不思議な状況です。
    もっとみんな遊びに来ないかな。
  • ももであさん 2021/02/20 09:14:31
    修論の報奨 松阪牛vs桃
    日本には現在3ヶ所のナショナルサイクルルートがあります。1)しまなみ海道サイクリング、2)つくばチーママりんりんロード、そして3)ビワイチ(琵琶湖一周)。ビワイチの起点が表紙の瀬田の唐橋です。馬で駆けても一周12.5時間ほど。ロードサイクルでもほぼ同じくらいかかり足はいい感じになります。

    > この時高市の皇子、大来大津姉弟は近江のどこにいたか。
    自分が案内役なら幹線ルートは避け、「急がば回れ 瀬田の長橋」の逆で、比叡おろしを利用して夜な夜な舟で帰帆側へ抜けます。この辺り今でも道がごちゃごちゃして分かりづらいし、紛れ込むには最適です。ここで待たせてあった馬と合流。それから明日をも知れぬ長い逃避行。アルファ米、干し魚とダイコンだけだと辛いので美濃へ抜ける前に、あたくし御用達の「美富士食堂https://bit.ly/3dtjV7Z」へ是非お誘いしたい。関西屈指の爆盛激安店です。

    松坂肉1年分には美富士食堂より惹かれます。考えてみました。でも生きて会えるかどうかも分からぬまだ幼い娘と息子の安否ですから、天武さんは天照大御神をいつも以上に懇ろに遙拝し期待と不安の間を彷徨っていたはず。Google占星術だと7時間ぼーっとかも知れませんが、あっという間の7時間はたまた永遠とも思える7時間だったことでしょう。ってことで親心の強いバイアスの影響で比定地は不明のままです^^;

    孫子の代まで根絶やしに なんて恐ろしい話はまま聞きますが、孫子の代まで褒美とはやっぱり天武さんは人格者だったのですね。多くの味方がついたのも頷けます。それに青学が相模原に移転しただけで、地元商店街は多大なる影響を受けました。飛鳥から大津遷都ともなれば、飛鳥豪族商店街連合会の皆さんの反発は相当なものだったでしょう。加えて天智さんの白村江の大敗。大学周囲にはいい定食屋がたくさんあるのであたくしも大海人皇子側に寝返ります。

    そして逃した松坂肉に替わり、美味しい桃を1年分もらいます。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/20 14:22:54
    Re: 修論の報奨 松阪牛vs桃
    まず大来大津は後回しにして、ビワイチですが、道路状況はどんなでしょう。平坦か否か、当方6段変速ではありますが、自動車搭載折りたたみ人力20インチなので、坂は苦手なのです。あと、自動車と一緒もできるだけ避けたい。坂は自動車で超えちゃうというズルも可能です。
    自転車でゆく琵琶湖1周歴史の旅、思いつきです。

    ミノに抜けるのは間に合わない。26日朝は迹太川でアポがあるのです。これは書紀以外の証拠があるので、さすがの天武さんとしても守らないと。鎌倉時代くらいまでは、書紀以外にも色々文書があったみたい。

    迹太川で7時間天武さんに待たせるというのは考えなかった。ただひたすらアマテラスさんにお願いするわけか。それは、カミさんが許しませんね。「なによ、大来大津だ熱心ね。はいはい、私の草壁はどうせバカですよ」とかふてくさって、桑名に行っちゃうんじゃないかと。
    天武夫婦の円満を考えると、やはり松坂肉1年分でももっといい比定地を探した方がいいのではないかと。
    修論募集続行します。

    飛鳥豪族商店街の豊富な資金援助が天武天皇壬申の乱勝利の原動力だった。イギなし。



    ももであ

    ももであさん からの返信 2021/02/20 17:47:05
    美富士恋しや!?

    ビワイチはナショナルサイクルルートだけあって高低差は少ないし、道も整備されているので初心者でも走りやすくなっています。一番北の賤ヶ岳隧道付近が最高地点で、若干坂はありますがほとんど気にならないと思います。がしかし。20インチ6段変速だとなかなか厳しいかも^^; 馬をお勧めします。

    山部王、石川王が大来・大津姉弟の脱出を手助けしたという話には大賛成です。強力な内通者がいない限り流石に敵の本拠地からの脱出は無理でしょう。その点山部王、石川王なら大海人皇子を討伐に行くぅ!なんて適当な口実で、怪しまれずに脱出を手助けできたのでは。謎なのは鈴鹿関まで3人を送り届けたのなら、何故そのまま大海人皇子さんと合流しなかったのでしょうか。近江に戻ればスパイ活動がバレ、命の危険もあったはず... って実際殺害されましたよね。

    所詮山部王、石川王は朝廷側と思われているから反乱軍からも狙われていた? でも無事3人を連れてきた功労が何より反乱軍の証拠だと思うのですが。それに路くんだってこのまま合流して一緒に近江を攻めようよなんて説得しなかったのですかね。それでも近江に帰るとしたら、大津君を連れてきたと知ればワンダーウーマンの怒りが恐くなった? はたまた美富士食堂の味が恋しくなった? 謎は深まるばかり^^;

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/21 08:53:09
    RE: 美富士恋しや!?
    美富士が恋しかったのではないかと。つまりわからない。
    この石川王という人は、飛鳥の守衛の高坂王の兄弟なのです。兄弟揃って近江をコケにした訳で、相当な人物。
    ところで、近江人は、今でも大友皇子シンパですか。
    するて〜と、この兄弟などは評判悪いでしょうねえ。

    書紀は半分はウソという感じですが、石川王と山辺王みたいに、適当な接続子を入れて読むと、そのまま事実を書いているみたいなところもあります。「わかんなかったの〜、鈍いんじゃない」とか作者に言われそう。

    ももであ

    ももであさん からの返信 2021/02/21 10:17:58
    Re: 修論の報奨 松阪牛vs桃
    > 兄弟揃って近江をコケにした訳で...
    その末裔が近江八幡に起業したのが、メンタームの近江兄弟社かも知れません(出典不明^^;)

    > 近江人は、今でも大友皇子シンパですか。
    近江人は根っからの商売人で、「三方よし」が経営哲学ですから、大友さん、大海人さんの両陣営に武器を卸していたかもしれませんね(出典不明^^;)

    > 適当な接続子を入れて読むと...
    天皇家とりわけ天武さんに忖度しつつ行間を読めってことですね。
    山部王を殺害した蘇我果安さんまで自殺するなんて、ここにも裏事情がありそうですね。
  • チーママ散歩さん 2021/02/20 05:35:48
    おはようございます。
    先輩おはようございます。
    お布団の中でこうやってゴロゴロするのが好きなんです。
    でも、先輩のは気合い入れないと読めない^ ^

    大来 大津叱咤激励のシーン描写が印象に残りました。
    食事内容から会話まで、
    まるでそれを見たかのようなリアルな感じ。
    万葉集から弟を思う姉の気持ちまで読み解いて
    想像されたのでしょうか^ ^

    11歳とは言え、さすが女の子。
    自分もまだ幼く、辛いのに早くも母性がありますね。母性か。
    だから神様も子供は女性だけが授かることが出来るようにしたのでしょうね。
    一方、小さい頃は男の子はちょっぴり甘えん坊で泣き言を口にするのに、いつの間にか女性を守る頼もしさを身につける。
    人間ってなんだか面白いですね。
    なんだか歴史の本題から外れましたが。

    歴史さっぱりですが、映画の脚本みたいでストーリーが入ってきます。
    初コメントとしは、ジョボい内容ですがこれくらいが、お次の人もコメントしやすいでしょう\(//∇//)\。
    だいぶ暖かくなりました。
    チェアリングはいかがでしょうか?
    執筆活動も大変でしょうけれど、外へ出られて太陽の光も浴びて下さいね。
    体内時計が狂ってしまうらしいのでリセットしてあげて下さいませ☆彡
    お体に気をつけてください。


    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/21 06:05:12
    Re: おはようございます。
    あいも変わらぬ歴史旅、お付き合いいただき感謝です。忍耐力にも感謝です。と言っても、これからも当面この調子でやりますので、よろしく。

    歴史再現ドラマのシナリオみたいですね。書紀と万葉集のポイントを外さないならなんでもOKのつもりです。

    ももであさんのコメントにあります「」

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/21 06:16:53
    Re: おはようございます。
    またまた誤操作で出てしまいました。
    「チーママりんりんロード」ですが、「つくばりんりんロード」というのはあります。これとチーママ散歩さんのペンネームに何か関連があるのですか。確か、ナワバリはこのあたりではないかと思うのですが。

    自転車はこのところお休みです。寒いのと、風がすごい。そよ風程度の向かい風でも、ギアを2段くらい落とさないと走れません。もっぱら散歩でカバーしております。

    大来大津姉弟の話は、実はまだ始まったばかりです。ご迷惑でしょうが、しばらくお付き合いください。
    多少は宝塚的に面白くしたいのですが、どうなることか。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/02/21 06:35:14
    Re: おはようございます。
    「リンリンロード」の件ですが、これはももであさんの高級ジョークですな。ジョークの種明かしを真面目に聞くのは無粋なので、ご放念ください。
    「チーママりんりんロードで」しばらくググって、「うん、これはジョークだ」と気づいた次第です。

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