2020/12/06 - 2020/12/06
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しにあの旅人さん
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日本書紀は、壬申の乱は近江方が仕掛けてきたもので、天武天皇(そのころは大海人皇子)の吉野蜂起は正当防衛だと主張しています。
そのため6月24日、準備もままならずあわてて吉野を脱出したと書いています。
ところが、書紀をよく読むと、これがあやしい。周到に準備された作戦であることがわかります。
おまけに吉野-桑名は2泊3日なのですが、書紀のスケジュールを細かく計算すると、どう考えても無理です。ムリ~!
6月23日発の3泊4日ならできる。でも無理矢理24日発にした。なぜか?
六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
今回は特に椎屋紀芳(しいや・きほう)の「壬申の乱」にお世話になりました。
4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
書紀24日続き、
「夜半に陰郡(なばりの・こおり、名張郡)につき、陰の駅家(うまや)を焼いた。村の中に呼びかけて。『天皇が東国においでになる。それゆえ人夫として従う者はみんな集まれ』と言った。しかし誰一人出てこなかった。
横川(名張川か)に着こうとする頃、黒雲があらわれ広さ十余丈ばかりに広がり天を覆った。天皇は怪しまれ、燭(ひ)を灯して占いの式(しき)を取り、占っていわれるのに、『天下が二分されるしるしだ。しかし最後に自分が天下を取るだろう』と」
陰の駅家は特定できませんでした。
横川とは現名張川だそうです。
「しかし誰一人出てこなかった」
当たり前。夜いきなりやってきて、うまやに火をつけて、「出て来い!」
集団強盗と同じ。
これで出てくる馬鹿がいると思う方が馬鹿。
あまりの不人気に天武が驚いて、神がかりに「最後に自分が天下を取るだろう」と言って誤魔化したというだけのことでしょう。 -
このあとの旅程をみると、どこかで名張川を渡ります。距離を測るのが目的なので、渡河点は厳密である必要はありません。
国道165号は百五銀行名張支店のすぐ南で名張川を渡ります。大野から12.4kmです。 -
百五銀行前の名張川、かなりの川幅です。撮影は11月15日。川筋は変わっているそうです。当時は堤防もなく、もっととりとめなく広がっていたでしょう。天武一行の渡河は現在の暦では7月24日です。梅雨がやっと上がったころです。水量もあった。当然橋はない。月のない夜中に渡河できるものでしょうか。
-
書紀6月24日続き、
「急行して伊賀郡(いがの・こおり)に入り伊賀の駅家(うまや)を焼いた」
伊賀の駅家は伊賀市古郡(ふるごおり)となっています。正確な位置は分かりません。
徒歩コース9.4kmです。
「陰郡(なばりの・こおり、名張郡)につき、陰の駅家(うまや)を焼いた」
「急行して伊賀郡(いがの・こおり)に入り伊賀の駅家(うまや)を焼いた」
駅家を連続して2つ焼いています。9.6km、昼間なら馬で約40分の距離です。駅家の馬は接収したでしょうが、なんで建物を焼くのか。追撃してくるかもしれない近江軍を妨害するためという説もあるようですが、馬のいない建物など、近江軍にも大して役に立たないでしょう。近隣の村全部を焼き払う焦土作戦なら、近江軍の補給妨害の効果はあるでしょうが、世論対策上できない。
近江を脱出してこちらに向かっている高市の皇子、大来大津姉弟への合図というアイデアはいかがでしょう。
大きな建物を燃やせば相当な炎と煙が上がります。近隣の峯に監視係がいれば、夜でも昼でも確実に見えます。火災が1つと2つの場合を決めておく。2つなら高市皇子との合流点は積殖の山口、大来大津は鈴鹿の関に向かえ。近すぎると火災が1つか2つか判別できない可能性もあるので、離す。3つの場合も決めておいたでしょうね。
いくつかのケースに応じた合流点を事前に決めておく必要があるのです。
伊賀の駅家は「急行して」というのがミソですね。天武本隊が焼く必要はないのです。放火班を事前に出しておく。 -
書紀6月24日続き、
「伊賀の山中に入るころ、その国の郡司らが数百の兵をつれて従ってきた」
この「伊賀の山中」はどこか、江戸時代からいろんな説があるそうです。
椎屋は、大海人皇子一行は古郡から現伊賀市佐那具をめざした可能性がある、としています。佐那具というのがどこだか分かりませんが、現在その名を残す佐那具駅をポイントにしてみました。
徒歩コース15.6kmです。 -
JR関西本線佐那具駅。
佐那具駅におります。用もないのですが。
電車が来ました。人が降りてきました。
何となく、部活帰りの高校生が来ると思っておりました。
ところが、坊主頭やセーラー服の代わりに、色鮮やかなグループがワイワイがやがや楽しそうです。楽しそうに思えたのは、話す言葉が、リズミカルで歌うように聞こえたせいかもしれません。彫りの深い顔立ち、浅黒い肌の人達は、あっという間に駅の広場を出て行きました。中南米の人たちのようでした。
日本の国際化は、静かに深く浸透しているのですね。
私達も駅を後にしました。
さっきの人たちは、いったいどこに消えてしまったのか。枯れた田畑がどこまでも広がっておりました。
By妻 -
天武天皇ははじめてまとまった兵を掌握したことになります。
しかしこの話おかしいです。深夜、2つの軍事集団の合流をしますかね。両方とも武装しています。相手が見えないので、不測の事態が起きる可能性もある。
出会ってすぐ、「じゃ、行こか」と次の目的地に出発するモノでしょうか。
やはりここは、伊賀の郡司の「加勢にうかがいました」という口上があって、天武天皇が「よろしく頼むぞ」というようなお言葉があるはず。立ち話でやるわけにはいかないでしょう。なにがしかのセレモニーをしていたら、明け方までに次の目的地に着かなくなります。
百歩譲って「じゃ、行こか」の立ち話ですんだとすると、郡司と天武またはその幕僚の誰かとは顔見知り、充分に事前協議済みということです。そもそも、この時代常備兵などというものはいないので、必要に応じて郡司が郡内の農民などを招集して武装させる。それが2,3日でできるはずがない。
吉野脱出の冒頭、
「ことは急であったので乗り物もなく、徒歩でおいでになった云々」という、なにも準備しないでとにかく飛び出した、だから正当防衛なんだよ、というセリフを書紀の作者はもう忘れたみたいです。
書紀のいうとおりの行軍だとして、天武一行と郡司が会う場面を想像して下さい。
1日半のぶっ続けの行軍、体を洗う時間も着替えもない。そもそも寝ていない食っていない。天武天皇も菟野皇女も汗まみれ埃まみれ悪臭ただよい、疲れ切って化け物のような姿。
それが篝火のむこうからぼーっとあらわれ、あごの下から燭(ひともし)、松明のような灯りが当たれば、郡司は悲鳴を上げます。
そういうことになりますが、いいんですか、書紀編集長舎人親王さん。お父さんと義理のお母さんの話ですよ。 -
書紀25日、
「明け方に荊萩野(たらの)につき、しばらく休憩して食事をした」
椎屋は、荊萩野とは現伊賀市円徳院としています。 -
円徳院というのは伊賀市の地域名です。おそらく昔の大字ではないか。
グーグルさんで調べるとここが出てきます。最初お寺があると思って行ったのですが、たどりついたのは畑のふち、さらに畑を突っ切れという指示。さすがにやめました。
佐那具から1.7kmです。
ここで初めて時間が特定できました。明け方というと、この時期4時すぎになります。
書紀の記述どおりに計算すると、大野を20時に出て8時間、夜間行軍39.1kmとなります。時速4.88kmです。
馬の並足時速6kmをもってすれば、2時間に1回の馬、人間の休憩をいれても、数字上不可能ではありません。
夜間行軍はできたか。
結論からいいますと、深夜までは極めて困難。672年7月24日の月齢は下弦の月+1です。
月齢カレンダー
http://star.gs/cgi-bin/getucal1.cgi?dyy=p&dy4=0&dy3=6&dy2=7&dy1=2&mon=7
月の出は深夜24時過ぎです。それまで真っ暗。
私の父は昭和十年代、近衛師団の輜重兵、自動車部隊の運転手でした。まだ戦争前、東京多摩のどこだかの弾薬庫から都心に弾薬を運ぶ演習をしました。深夜、月のない夜、無灯火という設定だったそうです。
トラックの前、白い布を背中に貼り付けた兵隊が、道路の両端を歩きます。運転手はその白い布の正確に真ん中にトラックを持って行きます。前は真っ暗、白い布以外何も見えません。
弾薬庫ですから、人里離れた山の中にあります。山の中のカーブなど、時速1キロか2キロ、カタツムリと勝負できる速さ、いや遅さ。「おれは半クラッチの名人だ」と言っておりました。マニュエルの自動車を運転する方なら分かりますね。闇夜の無灯火の行軍とはこういうものです。
また私自身若いころ、丹沢の山中で、下山が日没後になったことがあります。5人のグループ、懐中電灯は3台ありましたが、電池切れを恐れて先頭だけ点灯。森の中を数珠つなぎで下りましたが、とても歩けるものではありませんでした。
大野から名張川の渡河点まで12.4kmの半分は、宇陀の山中です。私たちは宇陀川沿いの国道165号を走りましたが、進行方向右は断崖です。このあたりは地形からみて今も古代も道筋に大きな違いはないはず。多摩の弾薬庫と同じようなものでしょう。
天武一行は「籬(かき)をこわした燭(ひともし)」をもった兵士を道の両端に歩かせ、下馬、そのあとをゆっくりと進んだことになります。おそらく兵士の背中には白布。全員背中に白布、たよりは前の白布だけということになります。細い道で馬が暴れたらどうしようもありません。
山中は時速1キロか2キロでしょうね。
深夜下弦の月+1が上がってきます。 -
こんなものです。撮影は私の地元房総で3時56分。あと2時間で南中という月の高さ、一番明るいころでした。
5m先なら道路の状態は見えました。そこから先は真っ暗、自転車だと怖い。
天武さんたち一行もこの月明かりで、馬は下りています。速度は日中の徒歩での行軍以下です。
それよりも体力の問題。前日西暦762年7月24日は晴れ、炎天下路上温度40度、曇っても30度以上、大野まで8時間の馬の旅でした。19時35分に着いて、すぐに出発、その後39.1km夜間行軍することは、で・き・ま・せ・ん! お・こ・と・わ・り!
名張川の夜間渡河はできっこない。
佐那具での伊賀兵数百との合流も変な話。 -
日本書紀の吉野脱出行にイチャモンつけるわけではないですが、いや充分つけていますが、本当はこの旅もう1日長かったのではないですかね。
大野到着で1日目は行軍おわり。
河原で体を洗い、着替えます。
男性読者諸氏待望の女戦士の水浴もあり。詳細カット。
そして野営。
2日目朝4時出発。明るければ39.1km進軍も時速6kmの馬なら余裕です。
名張川の渡河も明るければ浅瀬を探して安全。顔ぐらい洗えます。
佐那具での伊賀兵との合流も、天武天皇菟野皇女はさっぱりして、かっこつけの儀式ができる。
その日は荊萩野(たらの)で野営。
3日目明け方に荊萩野で食事をした。
書紀「明け方に荊萩野(たらの)につき、しばらく休憩して食事をした」
要するに荊萩野で朝メシを食えばいい。つじつまはあいます。 -
書紀25日、
「明け方に荊萩野(たらの)につき、しばらく休憩して食事をした」
となっているので、4時に到着、4時間休んで朝食、8時発。 -
書紀25日続き、
「積殖(つむえ、伊賀国柘植)の山口に至り、」
7.5km。さらに、
「高市皇子が鹿深(かふか、甲賀)を越えて合流した」
従っていたのは近江で高市脱出を助けた8人、これも天武チルドレンでしょう。全員騎馬です。先について、天武本隊を待っていたとしましょう。
合流から出発までの時間不明。
前夜の2件の駅家の放火で、合流点は積殖という了解は双方にできていた、ということにします。 -
案内板がありました。
-
壬申の乱で大活躍する高市皇子にはファンが多いのです。案内版もしっかりしている。
-
現在はのどかな田んぼ。
友人に旅行に行くと伝えたら、えっー、このコロナのときに?!と言われました。
で、旅先から、この写真を送りました。
ソーシャル・ディスタンスとってるねーと、どうやら許してもらえたよう。
確かに、どこへ行っても、枯れた田んぼと畑で、だ~れにも会わなかったし。三密って、なに?の状態です。私大いばり。
ところが、友人は、こう続けました。
何しに行ってるの?うちの近所走ってなさいよ。同じじゃないの!
・・・たしかに。
By妻 -
写真中央右の三角形の山の麓が、多分これから超える加太(かぶと)峠だと思います。大来大津組も午後通ります。
-
久しぶりの親子の対面もそこそこに、天武、高市馬を並べて出発、つもる話しは馬上でどうぞ。
-
鈴鹿駅跡。
-
鈴鹿郡というのは鈴鹿郡家ですが、厳密な所在地は分かっておりません。鈴鹿駅から遠くないと考えていい。
書紀6月25日続き、
「太山(鈴鹿山脈)を越えて伊勢の鈴鹿に着いた。伊勢国司(以下4名氏名略)らが鈴鹿郡で天皇の一行をお迎えした。そこでまた五百の軍勢を集めて、鈴鹿の山道の守りを固めた」
国司が出迎えています。
なんですか、前日吉野を出るとき、国司にメールでも打っておいたというのですか。
ここまでくると事前共同謀議あきらかです。
500の兵も動員している。前日じゃまにあいません。 -
積殖の山口-鈴鹿駅16.7km。所要時間2時間47分、休み1回30分、着11時17分になります。
伊勢の国司による歓迎の儀式、500の兵の派遣段取りなどにかかる時間は計算できません。出発時間不明。 -
6月25日続き、
「川曲(かわわ、三重県鈴鹿市)の坂本(さかもと)に至り、日が暮れた」
「川曲の坂本」というのは特定できないそうです。現在鈴鹿市に河曲という地名があります。 -
JR関西本線河曲駅。
朝七時五〇分ころ、この駅の外に居りました。
通勤通学も終わったところでしょう。
物音一つしない駅前に、じいさんばあさんが、ただ立っている。
コロナをはかなんだ老夫婦が、鉄道自殺を企てていると、誰かが見張っていたかもしれませんが、無人駅に取り残されたような寂しさと、すがすがしさに浸っておりました。
朝靄が、バラ色に染まってきれいでしたよ。
By妻 -
現在は「かわの」とよみます。
このあたりと仮定して距離を測りました。18.8kmです。
荊萩野からの累積距離43km。
騎馬だと7時間10分、休み30分3回90分、計8時間40分。
書紀では、ここで日没と書いているので時間が特定できます。19時30分ごろ着です。8時に荊萩野発と仮定していますから移動可能時間11時間30分。高市皇子との合流、伊勢国司との合流に3時間くらい費やせます。合理的な数字です。荊萩野での休憩をもう1時間とって、出発を9時にしてもいい。 -
「川曲の坂本」は案外、この駅近くでいいかもしれません。駅の北1.5km、丘の上にかつて河曲郡衙がありました。
-
伊勢国の郡の1つ、河曲郡の役所です。隣には伊勢国分寺もありました。
現在は発掘が進められ、鈴鹿市考古学博物館が建設されました。
河曲駅はこの河曲郡衙の丘の下にあり、ちょうど「川曲の坂本」に一致します。 -
ここで書紀はおかしなことを書きます。
25日続き、
「皇后がお疲れになられたので、しばらく輿を留めて休んだ」
菟野皇女が、ここでは輿に乗っている。 -
輿というのは、こういうものです。これは斎宮歴史博物館の斎王群行のジオラマです。前後9人が担いでいます。皇后ですから、これより格式が高くなります。
-
輿の内部。非常時ですからこれほど豪華ではなかったでしょう。
でもこういうものが右から左に出てくるはずがない。充分に準備しています。
鈴鹿駅で伊勢国司の軍勢に迎えられ、近江方の襲撃を受ける危険がなくなったので、吉野での特訓で何とか乗れるようになった馬をやめたというのでしょう。
すると鈴鹿駅からの18.8kmは時速3kmとして、376分。こんなもの担いで、歩行速度4kmはでないでしょう。1時間に1回15分休むとして6回90分、計466分、7時間46分。鈴鹿駅着が11時17分ですから、川曲の坂本着を19時30分とすると、高市皇子、鈴鹿駅での伊勢の国司との合流に割ける時間は1時間弱です。できなくはないけれども忙しい。ほとんど立ち話。
6月25日続き
「ところが夜、空がくもり雨が降りそうになって、ゆっくり休むこともできず出発した。寒くなってきて、雷が鳴り雨も激しくなった。お供に従う者はみな衣類が濡れて、寒さに堪えられなかった」
休憩時間、出発時間はあとで検討します。 -
6月25日続き、
「三重の郡家(こおりのみやけ)について、家一つを焼いてこごえた者をあたたまらせた」
「三重の郡家」は現貝野遺跡が有力候補地だそうです。川曲の坂下:河曲駅から三重郡家:貝野遺跡まで14.6km。 -
貝野遺跡は団地の中の小さな公園になっています。7世紀後半から8世紀という、律令体制の形成期に存在した集落です。15万平米におよぶ広大な遺跡の一部だそうです。三重の郡家の周囲の村落ということなのでしょう。
貝野古墳という小さな円墳があります。
ここで大事なニュースが入ります。
6月25日続き、
「この夜中に鈴鹿関の司が使いを遣わしてきて、『山部王(やまべの・おおきみ)、石川王(いしかわの・おおきみ)らが、服属するためにやって参りましたので、関にとどめてあります』といってきた。天皇は路直益人(みちの・あたい・ますひと)を遣わして呼ばれた」
「夜中」は夜24時前後を意味します。
つまり24時前後には菟野皇女の輿も三重郡家に着いていたことになります。
川曲の坂下から三重郡家まで14.6km、時速3kmの輿だと4時間52分、15分の休み4回とると5時間52分。
川曲の坂下で「皇后がお疲れになられたので、しばらく輿を留めて休んだ」とありますが、休憩を1時間としても、21時発、三重郡家着は翌26日午前2時52分となります。
間に合いません。輿を時速4.5kmで飛ばすと3時間14分、24時前に着きます。休みなし。輿要員を交代で走らせればできないことはないでしょうが、乗っている菟野皇女はおそらく中で悶絶状態。
しかし天下の日本書紀様がそうおっしゃるので、菟野皇女は、時速4.5kmの輿で24時までに三重郡家に着いたのです。真っ暗な夜道をどうやって4.5kmで走ったか、もう考えないことにします。やけのやんぱち。
この輿、9人で担いでいます。14.6kmを時速4.5km、早足で歩いて歩調をそろえられるはずがない。菟野皇女にはトイレは我慢してもらいます。水くらいは、箱根駅伝みたいに伴走者が輿の中に差し入れてもいい。
菟野皇女は、天井から垂らした綱にしがみつき、舌を噛まないように丸めた布を咥えたでしょうな。それでも輿の中で転びまくり、あちこちぶつけてコブだらけ傷だらけ、髪振り乱し裾は乱れる。着いた時は真っ青な顔で、輿から転がり落ちて地面を這う、という状態であったでしょう。でも天下の書紀様が輿だというのだから仕方がない。
書紀は明記はしていませんが、この日は三重郡家で1泊です。
菟野皇女の哀れな到着風景を避ける一番合理的なスケジュールは、荊萩野での休憩を2時間にして6時発。菟野皇女はわがままいわず全部馬。三重郡家まで57.6kmですから、騎馬で9時間36分、30分休み4回2時間、合計11時間36分です。高市皇子、伊勢国司との合流に2時間かけても、所要13時間36分、暗くなり行軍が危険になる19時36分にはなんとか三重郡家に入っています。
輿の話と、川曲の坂下で日没は華麗にスルー。
雨で随行が濡れて、郡家の家を焼いて暖まった話は生かせます。 -
書紀26日、
「二十六日、朝、朝明郡(あさけの・こおり、三重県三重郡)の迹太川(とおがわ)のほとりで、天照大神を遙拝された」 -
三重郡家から迹太川遙拝所まで4.1kmです。騎馬で41分。急げば18分くらい。
天武元年年6月26日は西暦672年7月26日、この日三重県の日の出は4時59分です。4時30分黎明に郡家を出れば、馬をとばしてきて水1杯飲んで遙拝場所に駆け込みます。かなり忙しいですが、日の出と同時に遙拝はできます。 -
迹太川という川は現在存在しません。ここが書紀のいう迹太川遙拝所かどうかは昔から議論されております。ここに「天武天皇のろしの松」と伝承されている老松があり、それを根拠に昭和16年に四日市市が遙拝所として指定しました。
いろいろ候補地はありますが、四日市市が一番はやかった。要するに近隣市町村早い者勝ちということです。しかしいずれにしても書紀の遙拝所はこの近くであったようです。 -
この松は平成14年に枯死したので、平成18年に槇を植えました。
写真だけ見ると広いところに記念碑があるようですが、実は、つい1メートル隣は人家で、私達が写真撮ったり、あれこれ見て回ったりしていると、犬がわんわん吠えてきました。最初は泥棒と間違えられたかしら?でしたが、どうやら、あそんで、あそんで!のわんわんだったみたい。
フェンスから手を差し伸べて、よしよししようとしたけど、これって、泥棒さんと同じことしてます?あはは。
大海人皇子は、必死だったろうに。すみません のんきで。
By妻
26日続き、
「このとき益人が到着して奏上し、『関においでになったのは、山部王、石川王ではなく、大津皇子でありました』といった。やがて益人の後から大津皇子が参られた。大分君恵尺(おおきたのきみ・えさか)(以下9名氏名略)らがお供をしてきた。天皇はおおいに喜ばれた」
大津皇子この時9才、大来皇女11才も一緒のはずです。
ようやく私たちの主人公、大来大津姉弟が登場しました。 -
書紀吉野脱出行の日程で、絶対に動かないポイントがあります。
それがこの6月26日朝の迹太川遙拝です。 -
鎌倉時代に成立した日本書紀の注釈書「釈日本紀」という書物があります。それによると、
「安斗智徳(あとの・ちとこ)の日記」という書物があり、そこに、
「廿六日辰時 於朝明郡迹太川上 而拝礼天照大神」
と書いてある、とあります。「二十六日、朝、朝明郡(あさけの・こおり、三重県三重郡)の迹太川(とおがわ)のほとりで、天照大神を遙拝された」という書紀とほぼ同じ内容です。
ただ時間はこの日記では「辰時(朝7時から9時)」書紀原文では「旦(日の出)」と違いがありますので、書紀は別途自分の記録を持っていたことが分かります。
書紀以外に、壬申の乱、特に吉野脱出行の詳細を記録した文書があった。
つまり6月26日朝迹太川での遙拝は動かない客観的事実であると判断できるのです。
安斗智徳は天武の吉野脱出行に同行し、のち日記を残しました。11人の脱出メンバーに「安斗連智徳」という名があります。残念ながら彼の日記で残ったのはこの1行だけ。
ついでですが、もう1人のメンバーで「調首淡海(つきの・おびと・おうみ)」という人物がおり、釈日本紀によれば彼も日記を残している。日記の一部が釈日本紀に引用されています。
釈日本紀は1264年~1275年ごろ成立したそうで、鎌倉時代まではこれらの日記が実在したことになります。どこかの旧家、古い神社などでこの日記が発見されたら、一発で国宝ですね。ただ内容によっては、日本書紀の壬申の乱の記述、ということは古代史がひっくり返ることもありえる。
上の写真は活字になって刊行された釈日本紀の一部です。
余談ですが、この本なんて図書館や専門の研究者以外買う人はいない。絶対赤字。吉川弘文館。それでも活字化されて出版されて、私みたいな素人でも読める。これをもって文化というのでしょうね。日本の文化の厚みはすごいなと思いました。
千葉県立図書館に蔵書があり、町の図書館が1週間で取り寄せてくれました。 -
26日続き、
「(郡家に到着)この日天皇は桑名の郡家に泊まられ、進むことはされなかった」
桑名郡家まで11.4kmの旅です。 -
書紀の旅程では、吉野-桑名郡家は2泊3日です。
24日吉野宮発12時津振川を出て、19時35分大野着。その後夜間行軍。
25日4時荊萩野着、ここまで仮眠なし、16時間で70.2km
朝食、休憩後最終的に三重の郡家まで行きます。途中の立ち寄り先と思われるところをつなぐと、その距離58.2km。
前日眠らずに70.2km進軍して、翌日朝早くから深夜まで58.2km馬の旅。
24日終日、25日夜までは雨は降りません。現在の暦で7月半ば、晴れれば炎天下40度、曇っても30度以上、で・き・ま・せ・ん! 以下略。
26日三重郡家発、迹太川で遙拝後、桑名郡家着
実行可能なスケジュールは、
1日目、大野到着で1日目は行軍おわり、31.1km、野営。
2日目、朝4時すぎ大野発、夕方20時までに荊萩野着、39.1km、野営。
3日目、荊萩野発三重郡家着、57.6km、郡家泊。
4日目、三重郡家発、余裕で桑名郡家着。
3泊4日です。それでも大変なハードスケジュールです。
26日朝迹太川遙拝以降の壬申の乱の推移は、目撃者も多く、書紀以外の文献もあるので、26日桑名着は動かせない。
したがって6月23日吉野発になります。
なお天武天皇は、壬申の乱のあと逆コースで飛鳥に戻りましたが、桑名発9月9日飛鳥着12日、3泊4日でした。
吉野脱出開始は、本当は6月23日だった。それをなぜ、強引に24日発と書紀に書いたのか。
考えられる理由の一つは、高市、大来大津組の近江脱出が本当に24日で、それに合わせる必要があった。上述の安斗智徳(あとの・ちとこ)の日記という同時代資料により、26日朝の高市、大来大来の動向が、場所時刻ともピンポイントで特定されました。逆算すると24日近江発で充分です。
高市の積殖の山口での合流、大来大津の鈴鹿の関到着を特定できる他の資料があったとも、充分に考えられます。安斗智徳の日記には確実に書いてあったでしょう。
日本書紀発表の720年当時は、3人の近江脱出は24日であることは周知の事実だった。
23日に天武一行は吉野脱出開始。同時に飛鳥を出た恵尺は唐橋の東岸で3人に合流。本来なら天武一行に連動して、直ちに近江を脱出しなければならないのに、3人は何らかの理由で23日には動かず、まる1日近江にいた。
23日彼らが何をしていたかを書紀の編集者は絶対に詮索されたくなかった。そのためには、天武の吉野脱出開始を24日にしてしまえばいい。
何があったら、書紀がここまでして、23日にこだわるのか。
By妻といろいろ考えました。
大来大津が出るのを嫌だと言った。By妻説。「うるさい、ガキ!」と高市皇子が叱り飛ばした、と書けばいいだけで、隠す必要もない。よってボツ。
十市皇女と高市皇子の色恋沙汰というのはどうだろう。
「またすぐにそういう話に持っていく!エロ親父!」とBy妻は不機嫌。
でもこの説は案外いけるかも。
私たちの主人公大来大津はお子様ですので、後ろを向いていただきます。ことは、十市と高市の大人のお話となります。
壬申の乱のあと、未亡人十市皇女は父天武天皇のもとに戻ります。その後高市皇子と恋仲になった。天武7年(678年)4月7日、大事な祭礼の朝に突然十市皇女が薨去するという事件がありました。
万葉集には高市皇子の皇女への熱烈な3首の挽歌があます。そのうちの1首、
「三諸の神の神杉夢のみに共に寝ねる夜ぞ多き」(巻2-156)
「三輪山の神々しい神杉のようなあなた。夢ばかりに見えながら共寝せぬ夜の長かったことよ」(万葉集中西)
この歌の万葉仮名は古来難訓とされているそうですが、中西ははっきりと「共に寝ねる」と訓じています。2人はプラトニックではない濃厚な関係です。
万葉集でも有名な恋物語です。現代でも、小説、マンガ、宝塚の舞台と、この話は大人気。
その恋が、未亡人となった十市皇女が飛鳥に戻ってからであれば問題ありません。しかしその発端がこの6月23日であれば、ことは皇女の不倫となります。大友皇子は即位して天皇だったともいわれます。さすれば皇后の不倫です。書紀は絶対に詮索される余地を残したくない。
23日高市皇子は十市皇女を訪れ、帰ってこなかった。
書紀公開の720年からすると、672年の壬申の乱は現代史です。関係者は現存しております。十市皇女の息子葛野王(かどのの・おおきみ、706年没)は持統天皇のお気に入り、孫の池辺王(いけべの・おおきみ)は元正天皇朝の高官で、720年は現存。その子(十市皇女のひ孫)は懐風藻で有名な淡海三船(おうみの・みふね)ですが、720年ではまだ生まれていない。
もっとやばいのは、高市皇子の息子長屋王(ながやの・おおきみ、676年-729年)です。若い頃から皇族のホープ、710年ごろはもう藤原京の有力政治家でした。720年では藤原不比等につぐ政界のNo2。不比等の死後、翌年No1つまり、首相になります。
書紀としては、翌年首相になりそうな人物の父親の不倫を詮索されるのは絶対に避けたい。
さいわい大伴連馬来田率いる別働隊の飛鳥-近江遮断作戦が功を奏して、天武一行の吉野脱出の第1報が近江に着いたのは、25日午前中。吉野脱出直後の近江朝の初動は遅れてその後になりました。24日吉野発にしても矛盾はない。時間的に2泊3日で桑名まで行けっこないと言われても、できたんだと言い張る。できたできないの水掛け論にもちこめる。
書紀の作者は、読者は大和~伊勢の地理など知りはしない、まして距離なんか計算できないと思って、しらーっと24日発にした。つまり読者をなめていた
1300年後に、グーグルマップがあって、だれでも簡単に旅程の距離の計算ができるとは、思いもしなかった。
なお今、私の頭の中には、西城秀樹の「ブルースカイブルー」が流れております。
飛鳥の激情青年高市皇子は、困り果てる十市皇女の指から指輪を抜き取ったのであります。この時代の女が結婚指輪をしていればですが。
しかしこれは、大来大津の本題とは外れますので、これでお終い。
私、結婚して五十年になろうとしておりますが、この人がこんなにロマンチストだとは知りませんでした。びっくりマーク百だわ!
高市皇子と十市皇女の恋。まあね。そう思うのは勝手ですけど。
私も、ふたりにはふたりしか分からない心の通い合いは、あったと思う。でもね、そこに実態が伴うとなると、なんかねー。あの尼姿の作家さんじゃないんだよ!って言いたい。
あの尼さんは、何でもかんでも色恋で、片付けすぎるよ。よっぽど自分の肉体に自信があるんだなあ。マリリンモンローとスリーサイズが同じなのは、あの人だっけ?有吉佐和子だっけ?
すみません。はい?
私、色気のない女と、言われ続けておりますが。なにか?
By妻
吉野脱出行が終わりました。
天武天皇はこのあと不破で壬申の乱の総指揮をとり、菟野皇女は桑名郡家にとどまって、不破戦線、大和戦線の兵站を担当したようです。ただの皇后ではありませんでした。実務にもたけ、統率力のある指導者でありました。
大来大津姉弟は同じ桑名郡家で、天武天皇の皇子、草壁皇子、忍壁皇子とともに、2ヵ月の間、菟野皇女と一緒に暮らすことになります。
これはまた、別の物語にいたします。
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この旅行記へのコメント (12)
-
- 前日光さん 2021/02/19 00:12:39
- 6月23日!
- 考えもしなかった!
この日、十市皇女と高市皇子が。。。
うぬ! そういうこともありかと(-_-;)
こんばんは。
いいね!してからずいぶん経ってしまいました。
それにしても、by妻さんではありませぬが、しにあさんのロマンティストぶりに呆れたり感心したり。。
高市・十市は近江朝の昔から、いえいえ、実はもっと以前から、意識し合っていたのではないかと、私も思いまする。
天智から大友との結婚を勧められれば、十市としては逆らえず。。(この頃の額田王の発言権はどうだったのかと、疑問には思いまするが)高市は母の身分にコンプレックスがあったのだろうし。
でも。。。6月23日、十市は「指輪を外しちゃった」のね!
それで近江脱出が一日遅れ、
この説、いーんじゃないですか!
私も尼姿の作家さんと似たような考えをする傾向があって(^_^;)
by妻さん、えーって呆れないでください(~_~;)
だってそう考えると、話がおもしろくなるじゃありませんか!
歴史的な出来事の裏側には、後代の人間が思いもしない即物的な事情があったりして。
その辺りが人間のやらかす摩訶不思議な部分でもありましょう。
それにしても天武が不破で戦の指揮を取っていた頃、大津と大来は菟野皇后の下、桑名郡家で草壁・忍壁などと二ヶ月もの間一緒に暮らしていたのね?
そこで大津と草壁の差を、菟野皇后は毎日見せつけられていたということなのか。。。
すみません!
さまざまな距離や時間の計算が出てくるのですが、その当たりになるとバカの壁が降りて来てしまって(^◇^;)
今回は6月23日に限ってのコメントになってしまいました(^_^)v
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/19 07:01:06
- Re: 6月23日!
- おはようございます。
変質的な時間と距離計算は、空白の6月23日をあぶり出すため!結論をわかっていてだければ、途中経過は後でごゆっくり。
この23日に気がついた時、私はウシッシ、大喜びでありました。書紀は間違いなくこの日に何か隠している。隠されると、見たくなるのは人情。
みなさん、大いに妄想働かせてください。
桑名で菟野さん親子、任壁さんと、大来大津くんたちが一緒に暮らしたのは、書紀の言っていることを、ちゃんと押さえると、間違いないのです。私もちょっと驚いた。
おっしゃる通り、この後のことは全部ここから始まっているとすると、大津事件はすんなり理解できます。
桑名でどんな暮らしをしていたか、桑名鈴鹿をかぎまわってきました。次の次の回で、夫婦で妄想爆発です。お楽しみに。
高市十一のお話は、ロミオジュリエット説から、高市の片思いまで、百花繚乱です。
はるか神代の出来事ではなくて、史料と現地旅行である程度跡を追えるというのが素晴らしい。
「人間のやらかす摩訶不思議な部分」そのものですね。解釈の仕方によっては、2人のその時の感情をそのものズバリ追体験できる、「かも」しれない。とにかく彼らは生身の人間でしたから、何かを感じていたのは間違いない。
歴史上の「人間のやらかす摩訶不思議な部分」に迫るのは、旅行の醍醐味だと思います。
下野の縦横の旅、続編期待しております。
-
- kummingさん 2021/02/12 18:04:18
- 日本書紀編纂者に清き1票を♪
- 誰でも簡単に旅程の距離計算なんて出来る、とは思わなかった、日本書紀編纂者、正しいと^ ^
Google mapがあろうとなかろうと、この様な緻密かつ精巧な(執拗な?とも(笑)計算を全う出来るお方は、しにあさん以外思いあたりませぬ。
ローマ帝国の一兵卒が○○kgの荷物担いで1時間に××km、1日に走破出来る距離が△△km、からこの行程を□□日で辿り着くのは強行軍(°_°)とか、時速○kmで走る馬を使って街道を行き交う伝令による情報が皇帝の元に僅か×日で届くとは、敵の想定を超えていた、とか、そ~いう数字と計算の描写になると、へ~そうなんだ!でthroughしてしまう、私の様な読者には、しにあさまの血と汗の滲む様な労力も、猫に小判(;o;)
なので、一度目は通しで拝見、2度目でその、苦手な分野(数字、計算系)をも理解しよう!と努めながら読み進め、3度目で何となく全体像が、ぼんやりと(-。-;浮かんでくる感じ?
日本書紀の怪しい著述に鋭いメスを入れ、独自の偏見と妄想、創造力に満ち満ちた新説を唱えるという偉業に、敬服致しておりまする。
そういう、ないものをある、といったり、あるものをないといったり、トランプ政権や日本政府にもよく見受けられる性向ですが、しにあさんが野党の視点で得意の緻密な数字と計算でもって積み上げた事実、実証主義で論破してくれるような、見たくない現実も見据え、将来をも俯瞰出来る第一人者の登場が待たれます♪
蛇足ですが、歴史は勝者に作られる説の1つ…というか、例によってCatholicの悪口を1つ。
ローマ教皇の自領はキリスト教の繁栄に大いに貢献したコンスタンテイヌス帝による寄進、を根拠にしていました。ところが、寄進された、事を証明していた(はずの)文書は、一介の修道士による捏造、偽造文書だった(*_*)ずっとそういう怪しげなモノを、水戸黄門の印籠ばりに、頭上に高々と掲げていたという、あっぱれローマ教皇、ですね~。
持統天皇を擁護するわけではありませんが、我が子可愛さに目が眩んで後継者を選ぶ、という行為は、天智天皇だって、アウグストスだって、哲人皇帝マルクスアントニウスだってやっています。あの時代、親→子、より兄→弟が後継順として優位だったのを、天智天皇が正統な後継者だった大海人皇子を廃した事が、後々大友vs天武の布石になったのでは?(間違ってたらごめんなさいm(._.)m)だいたい、能力ではなく血統で選ぶとろくな事にはならないのに、自分の血、に拘る人、多し?でも、統治機構、官僚組織がしっかりしてると、トップが愚人でも政体が結構長持ちする、って事もありますね。
こうやって、どんどん、話題を自分の好きな方向にもって行く、年寄りの悪いクセが出た~m(._.)m
頭痛持ちだったリンカーンも、水銀を常用して、副作用の癇癪持ちだったらしい!
水銀でじわじわ追い詰めたby妻さん説にも1票♪
何でも色恋沙汰にしたがる尼さん作家、世俗にいた頃は恋多き女人だったとか…by妻さんの若人のプラトニックラブ説にも1票♪
しにあさんの熱い執筆活動、絶賛応援しておりまする^o^
また長くなってしまった(-。-;
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/13 17:45:16
- Re: 日本書紀編纂者に清き1票を♪
- 長いの大歓迎です。
ローマ法皇と聞くと、イタリア行けない病が疼きます。塩野本で読んでいた頃は、やな奴らだなと思っていましたが、今は懐かしい。
リンカーンの水銀常用は知らなかった。頭痛に効くんですか。当時バッファリンもロキソニンもないし。
我が家では、By妻はだいたい純情可憐派、私はすぐにそっちに話をもって行く派、万葉集の解釈で、夫婦喧嘩になります。
日本書紀のアラ探しを楽しんでおります。中身がウソかホントかは別にして、書いた人はどんな人だったのだろうか。確実にいるはずです。「えー、これ違うんじゃない?」とか思いながら書いていたのかも。
漢文は中国語ネイティブもいたけれど、一生懸命中国語を勉強した日本人が書いている部分もあるそうです。「存ナントカ=ナントカが存る」というのが正式な漢文で、これを「ナントカが有る」と書いちゃうらしい。意味通じちゃうから、校正ミスったのかな。ということは、最終校正が日本人だったということ?
舎人親王、案外漢文できなかったんだ。
これ、アラ探しのネタに使えそう。
これからも新説、妄説、怪説、楽しみます。コロナでどこも行けないし。
-
- pedaruさん 2021/02/12 06:54:47
- おもしろく拝見しました。
- しにあの旅人さん おはようございます。
書記の矛盾点を鋭く追及しつつ、あたかもシャーロックホームズか辣腕検事のごとく話を進めていく、現場検証よろしく旅は佳境に入るのだった。
古代史がよほど好きな人でなくては書けません、しにあの旅人さん、ご夫婦揃ってお好きですねぇ、感心します。こういう形態の旅行記ってユニークでいいですね。
壬申の乱、昔は申壬の乱だと思っていたくらいですから、無学のpedaruにはまぶしすぎる旅行記です。
pedaru
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/12 07:08:23
- Re: おもしろく拝見しました。
- おはようございます。
昨夜はこのシリーズの続きを書いていて寝るのが遅くなり、珍しくただいま起きてきました。
一つ足りない明智小四郎と車岩(シャーロック)ホム子の歴史推理旅行記、楽しんでいただけると嬉しいです。
写真さえあれば話は取り止めもなく広がるので、コロナ最中の亀の子作戦中は、もっぱらこれでタイムトリップです。
我ながらいいネタを見つけたと思います。
読まされる方は大変ですが、これもコロナが悪いと、諦めてお付き合いください。
-
- しにあの旅人さん 2021/02/11 12:11:33
- 初コメありがとうございます
- 天武さんてすごいと思いますが、惜しむらくはカミさんに頭が上がらなかった。優秀な大津くんに跡目を継がせたいと思っても、カミさんが「絶対あたしの子!」と言い張ったらいうこと聞いちゃう。菟野さんも、我が子可愛いい以外は傑物ですが、天武さんもいい勝負。なんでこんなにカミさんだけに弱いんだろうと思います。
歴史も所詮男と女、操りつられ、梅沢トミオ(どの字だか忘れた)ということですかね。
大津皇子って、案外政治なんかやる気なかったかも。陶淵明を読んでいる形跡があるとどっかに書いてあったのですが、メモし忘れ。人生楽しければいいやと思っていた可能性ある。今だったら、生まれが良くて財産があって、頭が良くてイケメンで背が高い。芸能界で人気出たのに。でもこれだけ100%揃っていたら、やっぱり誰かにハメられるでしょうね。
いつの時代でも完璧な人間は生きづらい。
よかった、平凡で、とオチをつけます。
- ももであさん からの返信 2021/02/11 12:53:56
- 打ち間違え!?
- > 惜しむらくはカミさんに頭が上がらなかった。
ホントそうですね。絶対的な兄の娘っていうだけで遠慮していたのでしょうか。
> 大津皇子って、案外政治なんかやる気なかったかも。
へぇ~そうなんですか。おもしろい説ですね。さすがはしにあさん すごい情報通。でもとっても親近感が湧く話です。大津さん今頃二上山から幽体離脱して
コロナに関係なく世界中を旅していることでしょう。
しにあさんは出来レースで勝利した草壁くんの死因をどう読みますか?
天皇家で大津皇子の隔世遺伝を受けたのが佳子さまなんでしょうね!?
出る杭とイケメンは打たれる。世知辛い世の中ですね^^;
どうせ打つなら森さんと二階さんを!
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/11 15:54:47
- Re: 初コメありがとうございます
- 草壁くんの死因ですが、持統さんが薬として与えた水銀だという説をBy妻が持っております。そういう話はちらちら聞きますが、出典がわかりません。夫天武にも飲ませていたのではないかとBy妻説。
私並みの妄説の可能性あり。
ただ、飛鳥に近い宇陀の山中には水銀の鉱脈があり、近年まで採掘されていたようです。可能性ゼロではない。
書紀で、天武さんが死ぬ前、「体が臭くてかなわん、お祈りしてくれ」という一節があります。水銀中毒でこういう症状が出るかとちょっと調べたのですが、わかりませんでした。
鎌倉時代に天武持統陵が盗掘された時の記録に、天武の骨は黒かったと書かれていました。死因が特定できないかと思ったのですが、そういう研究はないようです。
ただ500年経っても頭蓋骨には白髪が残り、寸法も測れるくらい骨がしっかりしていたので、水銀中毒ではないのではないかと思います。水銀中毒だと骨がダメージを受けると聞いております。
専門家がこの古記録をしっかり読んでくれるといいのですが。
- ももであさん からの返信 2021/02/11 19:33:01
- 仮説の検証
- 天武&持統ペアに負けず劣らず、しにあペアの知識の引き出しは抜群ですね。
「by妻仮説」をベースに検証してみました。
確かに持統さんは始皇帝も使っていた不老不死の妙薬: 丹砂(硫化水銀)をご愛用していたご様子。息子や旦那さんに勧めても全然おかしくないですね。ついでに飛鳥時代あたりから仏像に金メッキする時も水銀が大量に使われ、金を定着させるために火で炙ると水銀蒸気で三密状態だったとか。
水銀中毒では顎骨壊疽の症例が散見されるので、「体が臭くてかなわん」という症状は十分あり得るように思えます。土葬の場合は骨が酸化するし、特に骨粗鬆症であれば骨が茶色~黒褐色に変色するようです。カドミウムは骨へのダメージが多大ですが、水銀の主なターゲットは中枢神経で骨への影響は比較的少ないようです。また天武&持統さん共に長生きだったことを考慮すると、水銀暴露期間と量が比較的少なかったとも考えられます。方や本命の草壁くんは、幼少のみぎりからの筋金入りのジャンキー!!
やはりby妻仮説の通り、息子可愛さ故の悲劇かも知れませんね。
天武さんの骨の水銀量を測定すれば、実証できるのですが^^;
(因みに持統さんは、日本でほぼ初めて火葬されたお方のよう)
-
- ももであさん 2021/02/11 11:22:24
- 未来予想図Ⅲ
- 現代ですら多少の隠ぺい・改ざん・ねつ造ならオッケーよ~ な公文書ですから、日本書紀の記載事項も、忖度しまくりマクリスティーだったのでしょうね。古事記に至ってはギリシャ神話の丸パクリで今なら著作権侵害で訴えられそうです。
以前は大海人皇子のことを奥さんとともにクーデターを起こし天皇を自死に追いやったテロリストだと思っていましたが、やはり名実ともに実力者。この兄あってこの弟って感じでしょうか。しかも奥さんがワンダーウーマン!! 正当防衛でないとしても吉野に籠もると決めた時から夫婦共々、'いつかはクラウン'と思っていたことでしょう。勝算あっての吉野脱出(挙兵!?)だったとしか思えません。
真に実力のある者で日本の歴史は創られてきたという感があります。惜しむらくはやはり大津皇子でしょうか。彼が天皇になっていたら今の日本はどうなっていたことでしょう? ここは川島皇子憎しですがワンダーウーマンの親バカぶりも拭えません。この当りは妾の子を跡継ぎにしようとした天智天皇の血筋のなせる業?
はてさて、さらに未来の日本は...
2035年 佳子さま 国民皆ダンスを発令
2042年 小室天皇 即位
2043年 小室天皇 天皇制廃止を宣言
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/11 12:12:58
- Re: 未来予想図Ⅲ
- 返信を間違えて新コメ起こしました。
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