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更新記録<br />2020/01/19-誤字訂正 2020/01/22-「磐余の池は見えるか」の章一部修正。<br /><br />日本書紀朱鳥(あかみとり)元年または持統元年(686年)冬10月2日、<br />「大津皇子の謀反が発覚して、皇子を逮捕し、合わせて皇子大津に欺かれた直廣肆八口朝臣音橿(じきこうし・やくちの・あそん・おとかし)・小山下壹伎連博?(しょうせんげ・いきの・むらじの・はかとこ)と、大舍人中臣朝臣臣麻呂(おおとねり・なかとみの・あそん・おみまろ)・巨勢朝臣多?須(こせの・あそん・たやす)・新羅沙門行心(しらぎの・ほうし・こうじん)と帳?礪杵道作(とねりの・ときみちの・みちつくり)ら三十余人を捕らえた」<br />大津皇子事件勃発であります。<br /><br />飛鳥、奈良の旅でいろいろガイドブックを探しましたが、元になっているのは、どうやら六国史といわれる一連の歴史書のようです。それならいっそのこと、六国史そのものをガイドブックにしよう。<br />六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。<br />引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。<br /><br />4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。<br />この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。

六国史の旅 飛鳥の姉弟2 大津皇子磐余の池

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2020/12/02 - 2020/12/02

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旅行記グループ 六国史の旅 飛鳥の姉弟

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しにあの旅人

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更新記録
2020/01/19-誤字訂正 2020/01/22-「磐余の池は見えるか」の章一部修正。

日本書紀朱鳥(あかみとり)元年または持統元年(686年)冬10月2日、
「大津皇子の謀反が発覚して、皇子を逮捕し、合わせて皇子大津に欺かれた直廣肆八口朝臣音橿(じきこうし・やくちの・あそん・おとかし)・小山下壹伎連博?(しょうせんげ・いきの・むらじの・はかとこ)と、大舍人中臣朝臣臣麻呂(おおとねり・なかとみの・あそん・おみまろ)・巨勢朝臣多?須(こせの・あそん・たやす)・新羅沙門行心(しらぎの・ほうし・こうじん)と帳?礪杵道作(とねりの・ときみちの・みちつくり)ら三十余人を捕らえた」
大津皇子事件勃発であります。

飛鳥、奈良の旅でいろいろガイドブックを探しましたが、元になっているのは、どうやら六国史といわれる一連の歴史書のようです。それならいっそのこと、六国史そのものをガイドブックにしよう。
六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。

4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • 桜井市の戒重(かいじゅう)春日神社。

    桜井市の戒重(かいじゅう)春日神社。

  • 神社の創建年代由緒は不明だそうです。しかし1745年まで織田氏の陣屋がありましたので、その後の創建ということになります。

    神社の創建年代由緒は不明だそうです。しかし1745年まで織田氏の陣屋がありましたので、その後の創建ということになります。

  • 祭神は天児屋根命(あめの・こやねの・みこと)<br />天太王命(あめの・ふとたまの・みこと)<br />武甕槌命(たけみかずちの・みこと)<br />比売神(ひめのみこと)

    祭神は天児屋根命(あめの・こやねの・みこと)
    天太王命(あめの・ふとたまの・みこと)
    武甕槌命(たけみかずちの・みこと)
    比売神(ひめのみこと)

  • 樹齢数百年と思われる巨木がありました。

    樹齢数百年と思われる巨木がありました。

  • しかしこの巨木も、7世紀にあった悲劇を目撃するには若すぎるのです。

    しかしこの巨木も、7世紀にあった悲劇を目撃するには若すぎるのです。

  • ここにかつて大津皇子の訳語田(おさだ)邸がありました。

    ここにかつて大津皇子の訳語田(おさだ)邸がありました。

  • 大津皇子が逮捕されたのは、この訳語田邸です。<br />持統元年10月2日は、西暦686年11月11日です。私たちは2020年11月15日の朝、橿原におりました。この日朝の飛鳥は雲一つない快晴でありました。気候が安定する晩秋です。686年11月11日の朝も晴れ渡っていたでありましょうか。<br />黎明と同時に持統天皇の兵は訳語田の屋敷を包囲したのであります。<br />10月2日、屋敷で逮捕されたのは大津皇子1人、他の三十数人はそれぞれ他の場所で拘束されたのでしょう。そもそも間違いなくでっち上げの事件です。全員集まって謀議などありえません。<br /><br />持統天皇元年(686年)10月2日、<br />「3日、皇子大津に訳語田の舎(いえ)で死を賜った。時に年二十四」<br /><br />「死を賜る」(賜死、しし)とは、この場合、持統天皇が大津皇子に自殺を命じたことを意味します。一種の死刑です。後年の武士の切腹と同じで、名誉刑ということです。<br />逮捕の翌日処刑です。もともとでっち上げ事件ですから、裁判もなにもありません。<br /><br />大津皇子はどのように死んだのか。<br />崇峻天皇元年(553年) 蘇我馬子と物部守屋の戦いの時の守屋の勇将、捕鳥部万(ととりべの・よろず)は、主人守屋が戦死した後も、馬子の軍勢数百を相手に1人で勇戦し、最期は「小刀で自ら頸を刺して死んだ」(書紀原文では、別以刀子刺頸死焉)とあります。おそらく頸動脈を切ったのであります。<br /><br />壬辰の乱も7月に入り、大海人皇子軍は優勢。<br /><br />天武天皇元年(673年)秋7月3日、<br />「近江方では山部王(やまべの・おおきみ)・蘇我臣果安(そがの・おみ・はたやす)・巨瀬臣比等(こせの・おみ・ひと)に命じて、数万の兵を率い、不破(大海人皇子軍の本拠地)を襲おうとして、犬上川のほとりに軍を集めた。しかし山部王は蘇我臣果安・巨瀬臣比等らのたに殺され、混乱のため軍は進まなかった。蘇我臣果安は犬上から引返し、頸を刺して自殺した」(刺頸而死)<br /><br />推古天皇36年(628年)境部摩理勢(さかいべの・まりせ)の長男毛津(けつ)は「自ら頸を刺して山の中で死んだ」(刺頸而死山中)<br /><br />また舒明天皇8年(637年)3月三輪君小鷦鷯が自害したとき、同様に「頸を刺して死んだ」(刺頸而死)とあります。<br />この時代、勇敢な男の自死はこのようであったのでしょう。

    大津皇子が逮捕されたのは、この訳語田邸です。
    持統元年10月2日は、西暦686年11月11日です。私たちは2020年11月15日の朝、橿原におりました。この日朝の飛鳥は雲一つない快晴でありました。気候が安定する晩秋です。686年11月11日の朝も晴れ渡っていたでありましょうか。
    黎明と同時に持統天皇の兵は訳語田の屋敷を包囲したのであります。
    10月2日、屋敷で逮捕されたのは大津皇子1人、他の三十数人はそれぞれ他の場所で拘束されたのでしょう。そもそも間違いなくでっち上げの事件です。全員集まって謀議などありえません。

    持統天皇元年(686年)10月2日、
    「3日、皇子大津に訳語田の舎(いえ)で死を賜った。時に年二十四」

    「死を賜る」(賜死、しし)とは、この場合、持統天皇が大津皇子に自殺を命じたことを意味します。一種の死刑です。後年の武士の切腹と同じで、名誉刑ということです。
    逮捕の翌日処刑です。もともとでっち上げ事件ですから、裁判もなにもありません。

    大津皇子はどのように死んだのか。
    崇峻天皇元年(553年) 蘇我馬子と物部守屋の戦いの時の守屋の勇将、捕鳥部万(ととりべの・よろず)は、主人守屋が戦死した後も、馬子の軍勢数百を相手に1人で勇戦し、最期は「小刀で自ら頸を刺して死んだ」(書紀原文では、別以刀子刺頸死焉)とあります。おそらく頸動脈を切ったのであります。

    壬辰の乱も7月に入り、大海人皇子軍は優勢。

    天武天皇元年(673年)秋7月3日、
    「近江方では山部王(やまべの・おおきみ)・蘇我臣果安(そがの・おみ・はたやす)・巨瀬臣比等(こせの・おみ・ひと)に命じて、数万の兵を率い、不破(大海人皇子軍の本拠地)を襲おうとして、犬上川のほとりに軍を集めた。しかし山部王は蘇我臣果安・巨瀬臣比等らのたに殺され、混乱のため軍は進まなかった。蘇我臣果安は犬上から引返し、頸を刺して自殺した」(刺頸而死)

    推古天皇36年(628年)境部摩理勢(さかいべの・まりせ)の長男毛津(けつ)は「自ら頸を刺して山の中で死んだ」(刺頸而死山中)

    また舒明天皇8年(637年)3月三輪君小鷦鷯が自害したとき、同様に「頸を刺して死んだ」(刺頸而死)とあります。
    この時代、勇敢な男の自死はこのようであったのでしょう。

  • 大津皇子事件の悲劇はさらに続きます。<br />「后の山辺皇女(やまのべの・ひめみこ)は髪を乱し、裸足で走り出て殉死した。見る者はみなすすり泣いた」<br />この時代、皇子クラスの后は、屋敷内の別棟の建物に住んでいたようです。皇子は前日に逮捕されて、屋敷内に拘束されていた。皇子の異変を聞いて、制止を振り切って夫の部屋に走り込んできた。そこで血の海に倒れ伏している皇子を見た。<br /><br />書紀はいろいろな人物の最期を物語りますが、山辺皇女ほど真に迫った描写はありません。<br />大津皇子事件は書紀編纂の時代のリアルタイムの出来事でした。この項のライターは、もしかすると山辺皇女の最期に居合わせたのではないか。少なくとも、その場にいた人物から直接話を聞いた。<br /><br />折口信夫によれば、古代の女性は、<br />「木から下がって死ぬ。あるいは死場所を求めて池へはまって死んでしまうというやうな死に方をした。さう言うのが非常に沢山あるわけです。さう言う木や水で死ぬのは、躯を傷け、血を落(あや)さぬ死に方で、禁忌を犯さぬ自殺法なのです」(「真間・蘆屋の昔語り」昭和27年4月國學院雑誌第53巻第1号)<br /><br />皇子のあとを追い刃を自らに向けることはなかった。禁忌に触れるし、もしそうなら皇子の血の海に自らの血を加えて倒れ伏すことになります。「見る者はみなすすり泣いた」どころの話ではない凄惨な場面になります。<br /><br />山辺皇女は、「髪を乱し、裸足で」建物を「走り出て」、屋敷の東端から、寺川に身を躍らせた。引き上げられたときには、すでにこときれていた。<br />「見る者はみなすすり泣いた」<br />皇女らしからぬ取り乱した最期が気になります。

    大津皇子事件の悲劇はさらに続きます。
    「后の山辺皇女(やまのべの・ひめみこ)は髪を乱し、裸足で走り出て殉死した。見る者はみなすすり泣いた」
    この時代、皇子クラスの后は、屋敷内の別棟の建物に住んでいたようです。皇子は前日に逮捕されて、屋敷内に拘束されていた。皇子の異変を聞いて、制止を振り切って夫の部屋に走り込んできた。そこで血の海に倒れ伏している皇子を見た。

    書紀はいろいろな人物の最期を物語りますが、山辺皇女ほど真に迫った描写はありません。
    大津皇子事件は書紀編纂の時代のリアルタイムの出来事でした。この項のライターは、もしかすると山辺皇女の最期に居合わせたのではないか。少なくとも、その場にいた人物から直接話を聞いた。

    折口信夫によれば、古代の女性は、
    「木から下がって死ぬ。あるいは死場所を求めて池へはまって死んでしまうというやうな死に方をした。さう言うのが非常に沢山あるわけです。さう言う木や水で死ぬのは、躯を傷け、血を落(あや)さぬ死に方で、禁忌を犯さぬ自殺法なのです」(「真間・蘆屋の昔語り」昭和27年4月國學院雑誌第53巻第1号)

    皇子のあとを追い刃を自らに向けることはなかった。禁忌に触れるし、もしそうなら皇子の血の海に自らの血を加えて倒れ伏すことになります。「見る者はみなすすり泣いた」どころの話ではない凄惨な場面になります。

    山辺皇女は、「髪を乱し、裸足で」建物を「走り出て」、屋敷の東端から、寺川に身を躍らせた。引き上げられたときには、すでにこときれていた。
    「見る者はみなすすり泣いた」
    皇女らしからぬ取り乱した最期が気になります。

  • 寺川は、現在でも、堤防がありません。平地を5メートルくらいえぐって流れております。現代では津風呂ダムや大滝ダムなどで、三重県境の治水はコントロールされているようです。当時は季節によれば、はるかに水量が多かったでしょう。

    寺川は、現在でも、堤防がありません。平地を5メートルくらいえぐって流れております。現代では津風呂ダムや大滝ダムなどで、三重県境の治水はコントロールされているようです。当時は季節によれば、はるかに水量が多かったでしょう。

  • 対岸は西方寺。左の林が戒重春日神社、かつての訳語田の屋敷の中心です。<br /><br />山辺皇女は日本書紀にただ1カ所名が出るだけです。<br />しかしながら後世皇女は文学作品のテーマとなりました。

    対岸は西方寺。左の林が戒重春日神社、かつての訳語田の屋敷の中心です。

    山辺皇女は日本書紀にただ1カ所名が出るだけです。
    しかしながら後世皇女は文学作品のテーマとなりました。

  • このサイトの画像データ(所蔵先が当館のものに限る。)は、クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。<br />国文学研究資料館ホームページより<br />http://school.nijl.ac.jp/kindai/NIJL/NIJL-00127.html#1<br /><br />「本朝女鑑」(ほんちょう・じょかん)は寛文元年(1661年)出版の仮名草子です。作者は浅井了意とされる。日本の古今の賢婦烈婦85人を5分類し絵入り仮名書きで現した。(ウイキペディア)

    このサイトの画像データ(所蔵先が当館のものに限る。)は、クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。
    国文学研究資料館ホームページより
    http://school.nijl.ac.jp/kindai/NIJL/NIJL-00127.html#1

    「本朝女鑑」(ほんちょう・じょかん)は寛文元年(1661年)出版の仮名草子です。作者は浅井了意とされる。日本の古今の賢婦烈婦85人を5分類し絵入り仮名書きで現した。(ウイキペディア)

  • 11人の后妃伝のなかで、「大津皇子妃」として、神功皇后などと並んで取り上げられております。内容はほぼ書紀と同じです。<br />「賢婦」とも「烈婦」ともいえませんが、ひたすら夫への愛に殉じたことと、書紀がかたる真に迫った最期の様子が、後世の人々の共感を呼んだのでしょう。<br /><br />現代では、永井路子の「裸足の皇女」が山辺皇女の物語です。

    11人の后妃伝のなかで、「大津皇子妃」として、神功皇后などと並んで取り上げられております。内容はほぼ書紀と同じです。
    「賢婦」とも「烈婦」ともいえませんが、ひたすら夫への愛に殉じたことと、書紀がかたる真に迫った最期の様子が、後世の人々の共感を呼んだのでしょう。

    現代では、永井路子の「裸足の皇女」が山辺皇女の物語です。

  • この事件がでっち上げであることは、明白です。<br />同時に逮捕された直廣肆八口朝臣音橿(じきこうし・やくちの・あそん・おとかし)・小山下壹伎連博(しょうせんげ・いきの・むらじの・はかとこ)、大舍人中臣朝臣臣麻呂(おおとねり・なかとみの・あそん・おみまろ)・巨勢朝臣多須(こせの・あそん・たやす)・新羅沙門行心(しらぎの・ほうし・こうじん)、帳&#20839;礪杵道作(とねりの・ときみちの・みちつくり)、名が書かれている6名のなかに、仮にクーデタがー成功したとして、その後の政界を仕切れるような大物はおりません。<br />大津皇子事件以前に書紀に名前があるのは、壱岐博徳(いきはかとこ)です。<br />書紀斉明天皇記に数カ所、「伊吉連博徳の書」(いきの・むらじ・はかとこの・ふみ)というのが出てきます。書紀の参考資料とされた文書で、遣唐使の旅の詳細について述べています。<br />天智天皇6年(667年)11月13日、<br />「(百済の使節)司馬法聡(しば・ほうそう)帰国の途についた。小山下壹伎連博(中略)を送使とした」<br />博徳は百済の使節を送って百済まで行き、7年1月23日に帰朝報告をしています。優秀な外交官のようですが、天武・持統時代に国の命運を左右するような人物であったとは思えません。<br /><br />「三十余人を捕らえた」となっていますが、そもそも30人ちょっとでこのクーデタが成功するはずがない。<br />持統天皇、草壁皇子を同時に押さえなければならないのは当然ですが、少なくとも高市皇子(たけちの・みこ)を拘束しなければなりません。<br /><br />壬辰の乱、大海人皇子吉野挙兵の直後、不破の最前線にいた高市皇子は、天武天皇(大海人皇子)が戦場から遠くにいると、使いを送って、<br />天武元年(673年)6月27日、<br />「おいでになる所と距っていると、軍事を行うのにはなはだ不便です。どうか近い所へおいでいただきたい」<br />と、父である天皇を呼びつけるくらいの、剛胆な人物です。<br />その日天武天皇が、<br />「自分には事を謀る人物がいない」<br />と嘆くと、弱冠19才の高市皇子は、<br />「腕まくりをして剣を握って、『・・・天皇はひとりでいらっしゃっても、私高市が神々の霊に頼り、勅命を受けて諸将を率いて戦えば、敵は防ぐことができぬでしょう』と言われた。天皇はこれをほめ手を取り背を撫でて、『しっかりやれ、油断するなよ』と言われた。乗馬を賜って、軍事をすべて託された」<br />高市皇子は天武天皇軍の総司令官となります。<br />654年生まれですから、大津皇子の変686年のとき32才、天武天皇の皇子では最年長。経歴からいって、天武・持統朝のいわば軍部に睨みをきかしていたはず。人望、能力もあった。4年後、持統4年(690年)太政大臣に任命され実務をとりしきります。持統天皇の信任厚かったのです。ただし高市皇子は母親の身分が低かったので、皇位継承権の順位は草壁、大津に及びませんでした。<br />その実力者高市皇子を押さえなくてはクーデタなど成功するはずがありません。

    この事件がでっち上げであることは、明白です。
    同時に逮捕された直廣肆八口朝臣音橿(じきこうし・やくちの・あそん・おとかし)・小山下壹伎連博(しょうせんげ・いきの・むらじの・はかとこ)、大舍人中臣朝臣臣麻呂(おおとねり・なかとみの・あそん・おみまろ)・巨勢朝臣多須(こせの・あそん・たやす)・新羅沙門行心(しらぎの・ほうし・こうじん)、帳內礪杵道作(とねりの・ときみちの・みちつくり)、名が書かれている6名のなかに、仮にクーデタがー成功したとして、その後の政界を仕切れるような大物はおりません。
    大津皇子事件以前に書紀に名前があるのは、壱岐博徳(いきはかとこ)です。
    書紀斉明天皇記に数カ所、「伊吉連博徳の書」(いきの・むらじ・はかとこの・ふみ)というのが出てきます。書紀の参考資料とされた文書で、遣唐使の旅の詳細について述べています。
    天智天皇6年(667年)11月13日、
    「(百済の使節)司馬法聡(しば・ほうそう)帰国の途についた。小山下壹伎連博(中略)を送使とした」
    博徳は百済の使節を送って百済まで行き、7年1月23日に帰朝報告をしています。優秀な外交官のようですが、天武・持統時代に国の命運を左右するような人物であったとは思えません。

    「三十余人を捕らえた」となっていますが、そもそも30人ちょっとでこのクーデタが成功するはずがない。
    持統天皇、草壁皇子を同時に押さえなければならないのは当然ですが、少なくとも高市皇子(たけちの・みこ)を拘束しなければなりません。

    壬辰の乱、大海人皇子吉野挙兵の直後、不破の最前線にいた高市皇子は、天武天皇(大海人皇子)が戦場から遠くにいると、使いを送って、
    天武元年(673年)6月27日、
    「おいでになる所と距っていると、軍事を行うのにはなはだ不便です。どうか近い所へおいでいただきたい」
    と、父である天皇を呼びつけるくらいの、剛胆な人物です。
    その日天武天皇が、
    「自分には事を謀る人物がいない」
    と嘆くと、弱冠19才の高市皇子は、
    「腕まくりをして剣を握って、『・・・天皇はひとりでいらっしゃっても、私高市が神々の霊に頼り、勅命を受けて諸将を率いて戦えば、敵は防ぐことができぬでしょう』と言われた。天皇はこれをほめ手を取り背を撫でて、『しっかりやれ、油断するなよ』と言われた。乗馬を賜って、軍事をすべて託された」
    高市皇子は天武天皇軍の総司令官となります。
    654年生まれですから、大津皇子の変686年のとき32才、天武天皇の皇子では最年長。経歴からいって、天武・持統朝のいわば軍部に睨みをきかしていたはず。人望、能力もあった。4年後、持統4年(690年)太政大臣に任命され実務をとりしきります。持統天皇の信任厚かったのです。ただし高市皇子は母親の身分が低かったので、皇位継承権の順位は草壁、大津に及びませんでした。
    その実力者高市皇子を押さえなくてはクーデタなど成功するはずがありません。

  • 日本書紀の、この事件を記述する腰のふらつき方がみっともない。編纂者本人がでっち上げであることを知っているからです。<br />完成時(720年)の編集責任者は舎人親王です。彼は天武5年(676年)生まれですから、このときまだ10才、しかし事件の記憶はあったでしょう。周囲の大人達の話は聞いていたはず。<br />日本書紀の編纂開始は天武10年(681年)ですから、書紀編集部のスタッフは、リアルタイムで、固唾をのんでこの事件を見守ったのです。<br />舎人親王が後年編集を総括する立場にたったとき、本人も、まわりの古参スタッフも、でっち上げであることを知っていた。<br />かと言って、「この事件はでっちあげです」と書くわけにはいかない。日本書紀は要するに天武・持統をヨイショするためのものですから、日本書紀そのものが意味をなさなくなります。<br />舎人親王は天武天皇の皇子です。母は新田部皇女(にいたべの・ひめみこ)、持統天皇は父の未亡人です。身内もいいところ。でっちあげの張本人はどうみても持統天皇ですから、事実など書けないのです。<br /><br />まず「大津皇子の謀反が発覚して、皇子を逮捕し、・・・」から始まって三十余人逮捕の事実の記述。普通こういう場合は、大津皇子を悪逆非道の大悪人にしないと具合が悪いはず。<br />ところがそのあと、<br /><br />「威儀備わり、言語明晰で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み、とくに文筆を愛された。この頃の詩賦の流行は、皇子大津に始まったといえる」<br /><br />とベタ褒め。持ち上げます。続きは、<br /><br />「皇子大津は謀反を企てた。これに欺かれた官吏や舎人はやむを得なかった。今、皇子大津はすでに滅んだ。従者で皇子に従った者は、みな赦す」<br /><br />悪いのは大津皇子ひとりであとはだまされただけ、とまた大津皇子悪玉説登場。<br />事実を知っている舎人親王や書紀スタッフは、大津皇子を極悪人にしきれないのです。あげたりさげたり、ジェットコースターです。修理中のエレベータ。<br />「ここまで書いたんだから、あとはおまえら忖度しろ。こっちだって色々あるんだ、無理言うなよ~~~」これが舎人親王の本心。<br /><br />「懐風藻」はもっと大津皇子に同情的。<br />懐風藻の成立は事件後約65年ですから、当時の人々は大津皇子事件の真実を知っています。<br />まず冒頭の大津皇子の人物評で、<br /><br />「大津皇子は天武天皇の第一皇子である。丈高くすぐれた容貌で、度量も秀でて広大である。幼少の時より学問を好み、知識が広く、詩や文をよく書かれた。成人すると武を好み、力にすぐれ、よく剣を操った。性格はのびのびとし、自由に振る舞って規則などには縛られなかった。高貴な身分でありながら、よくへりくだり、人士を厚く厚遇した。このため皇子につき従う者は多かった」<br /><br />ぐーんと持ち上げます。そのあと、<br /><br />「新羅の僧で行心という者がいた。天文や占いをよくした。僧は皇子につげてこう言った。『皇子の骨柄は人臣にとどまってよいという相ではございません。長く下位にとどまっておりますなら、恐らく身を全うすることはできないでしょう』と。この僧のまどわしに皇子は迷われ、とうとう謀反の行為に出られたのである。ああ惜しいことよ、立派な才能を心に抱きながらも、忠孝の道を守って身を保つことをしないで、この悪い小僧に近づいて死罪にあい、一生を終えられた」<br /><br />懐風藻では悪いのは僧行心ということになります。大津皇子に責任を負わせたくない。<br />「新羅の僧で行心」というのは書紀の「新羅沙門行心(しらぎの・ほうし・こうじん)です。関係者「三十余人」のうち処分をうけたのは帳?礪杵道作(とねりの・ときみちの・みちつくり)と新羅沙門行心の2人だけ、これ幸いとそのうちの1人に全責任を負わせた。<br />でもよく考えると、「この悪い小僧」にだまされるくらいなら、大津皇子もたいしたことない、ということになります。<br />そのあと非常に優れた漢詩4編を並べて、またまた大津皇子を持ち上げる。<br />ジェットコースターまたは修理中のエレベータは同じ。<br />編者を淡海三船(722年-785年)とすると、天智天皇の玄孫(やしゃまご)とはいえ、もと皇族です。事件後65年はたっていても、やはり持統天皇のでっち上げとは書けない。<br />もし淡海三船にインタビューしたら、返事は「まあ、いろいろあってな」くらいでしょう。

    日本書紀の、この事件を記述する腰のふらつき方がみっともない。編纂者本人がでっち上げであることを知っているからです。
    完成時(720年)の編集責任者は舎人親王です。彼は天武5年(676年)生まれですから、このときまだ10才、しかし事件の記憶はあったでしょう。周囲の大人達の話は聞いていたはず。
    日本書紀の編纂開始は天武10年(681年)ですから、書紀編集部のスタッフは、リアルタイムで、固唾をのんでこの事件を見守ったのです。
    舎人親王が後年編集を総括する立場にたったとき、本人も、まわりの古参スタッフも、でっち上げであることを知っていた。
    かと言って、「この事件はでっちあげです」と書くわけにはいかない。日本書紀は要するに天武・持統をヨイショするためのものですから、日本書紀そのものが意味をなさなくなります。
    舎人親王は天武天皇の皇子です。母は新田部皇女(にいたべの・ひめみこ)、持統天皇は父の未亡人です。身内もいいところ。でっちあげの張本人はどうみても持統天皇ですから、事実など書けないのです。

    まず「大津皇子の謀反が発覚して、皇子を逮捕し、・・・」から始まって三十余人逮捕の事実の記述。普通こういう場合は、大津皇子を悪逆非道の大悪人にしないと具合が悪いはず。
    ところがそのあと、

    「威儀備わり、言語明晰で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み、とくに文筆を愛された。この頃の詩賦の流行は、皇子大津に始まったといえる」

    とベタ褒め。持ち上げます。続きは、

    「皇子大津は謀反を企てた。これに欺かれた官吏や舎人はやむを得なかった。今、皇子大津はすでに滅んだ。従者で皇子に従った者は、みな赦す」

    悪いのは大津皇子ひとりであとはだまされただけ、とまた大津皇子悪玉説登場。
    事実を知っている舎人親王や書紀スタッフは、大津皇子を極悪人にしきれないのです。あげたりさげたり、ジェットコースターです。修理中のエレベータ。
    「ここまで書いたんだから、あとはおまえら忖度しろ。こっちだって色々あるんだ、無理言うなよ~~~」これが舎人親王の本心。

    「懐風藻」はもっと大津皇子に同情的。
    懐風藻の成立は事件後約65年ですから、当時の人々は大津皇子事件の真実を知っています。
    まず冒頭の大津皇子の人物評で、

    「大津皇子は天武天皇の第一皇子である。丈高くすぐれた容貌で、度量も秀でて広大である。幼少の時より学問を好み、知識が広く、詩や文をよく書かれた。成人すると武を好み、力にすぐれ、よく剣を操った。性格はのびのびとし、自由に振る舞って規則などには縛られなかった。高貴な身分でありながら、よくへりくだり、人士を厚く厚遇した。このため皇子につき従う者は多かった」

    ぐーんと持ち上げます。そのあと、

    「新羅の僧で行心という者がいた。天文や占いをよくした。僧は皇子につげてこう言った。『皇子の骨柄は人臣にとどまってよいという相ではございません。長く下位にとどまっておりますなら、恐らく身を全うすることはできないでしょう』と。この僧のまどわしに皇子は迷われ、とうとう謀反の行為に出られたのである。ああ惜しいことよ、立派な才能を心に抱きながらも、忠孝の道を守って身を保つことをしないで、この悪い小僧に近づいて死罪にあい、一生を終えられた」

    懐風藻では悪いのは僧行心ということになります。大津皇子に責任を負わせたくない。
    「新羅の僧で行心」というのは書紀の「新羅沙門行心(しらぎの・ほうし・こうじん)です。関係者「三十余人」のうち処分をうけたのは帳?礪杵道作(とねりの・ときみちの・みちつくり)と新羅沙門行心の2人だけ、これ幸いとそのうちの1人に全責任を負わせた。
    でもよく考えると、「この悪い小僧」にだまされるくらいなら、大津皇子もたいしたことない、ということになります。
    そのあと非常に優れた漢詩4編を並べて、またまた大津皇子を持ち上げる。
    ジェットコースターまたは修理中のエレベータは同じ。
    編者を淡海三船(722年-785年)とすると、天智天皇の玄孫(やしゃまご)とはいえ、もと皇族です。事件後65年はたっていても、やはり持統天皇のでっち上げとは書けない。
    もし淡海三船にインタビューしたら、返事は「まあ、いろいろあってな」くらいでしょう。

  • 履中天皇は、5世紀前半に実在したとみられる天皇だそうです。<br /><br />書紀履中天皇元年春2月1日、<br />「皇太子は磐余の稚桜宮(わかさくらのみや)に即位された」<br /><br />履中天皇2年冬10月、<br />「磐余に都を造った」<br /><br />履中天皇2年11月、<br />「磐余の池を作った」

    履中天皇は、5世紀前半に実在したとみられる天皇だそうです。

    書紀履中天皇元年春2月1日、
    「皇太子は磐余の稚桜宮(わかさくらのみや)に即位された」

    履中天皇2年冬10月、
    「磐余に都を造った」

    履中天皇2年11月、
    「磐余の池を作った」

  • 現在の奈良県桜井市池之内から橿原市池尻にかけて、古代には磐余池(いわれのいけ)がありました。

    現在の奈良県桜井市池之内から橿原市池尻にかけて、古代には磐余池(いわれのいけ)がありました。

  • 東池尻・池内遺跡案内板より。<br />磐余の池の推定全貌です。<br />

    東池尻・池内遺跡案内板より。
    磐余の池の推定全貌です。

  • 上図現在地より北を見た池のイメージです。

    上図現在地より北を見た池のイメージです。

  • 案内板の解説です。<br />長さ約300メートル、幅約20-55メートル、高さ約2-3メートルの堤が築かれ、堤の南に巨大な池があった。堤の上では6世紀後半~7世紀後半の建物や塀が多数発見されているそうです。<br />書紀履中天皇記の記述が史実かどうかは別にして、大津皇子の時代にはここに池があったことは間違いありません。

    案内板の解説です。
    長さ約300メートル、幅約20-55メートル、高さ約2-3メートルの堤が築かれ、堤の南に巨大な池があった。堤の上では6世紀後半~7世紀後半の建物や塀が多数発見されているそうです。
    書紀履中天皇記の記述が史実かどうかは別にして、大津皇子の時代にはここに池があったことは間違いありません。

  • 現在の東池尻・池内遺跡から見た、かつての磐余池。右端の建物は「長さ約300メートル、幅約20-55メートル、高さ約2-3メートルの堤」の上に建っております。<br />前方空き地の向こうに水面がありました。池は田んぼの向こうの丘陵まで広がっておりました。

    現在の東池尻・池内遺跡から見た、かつての磐余池。右端の建物は「長さ約300メートル、幅約20-55メートル、高さ約2-3メートルの堤」の上に建っております。
    前方空き地の向こうに水面がありました。池は田んぼの向こうの丘陵まで広がっておりました。

  • 少し南。

    少し南。

  • 前方空き地の先端から。<br />右が堤上の立てられた家並み。<br />正面の大屋根は妙法寺です。<br />1334年前は水面が広がっておりました。

    前方空き地の先端から。
    右が堤上の立てられた家並み。
    正面の大屋根は妙法寺です。
    1334年前は水面が広がっておりました。

  • おそらく大津皇子もこのほとりを訪れたことがあったでしょう。春のある日であったでしょうか、山辺皇女も一緒であったでしょうか。

    おそらく大津皇子もこのほとりを訪れたことがあったでしょう。春のある日であったでしょうか、山辺皇女も一緒であったでしょうか。

  • 堤の西端妙法寺、または御厨子観音。

    堤の西端妙法寺、または御厨子観音。

  • この坂を上ると、

    この坂を上ると、

  • 磐余の池あとを見下ろすことができます。

    磐余の池あとを見下ろすことができます。

  • いまは池の面影はなく、一面の水田です。

    いまは池の面影はなく、一面の水田です。

  • 妙法寺参道から真南。かつての磐余の池の南端は、このビニールハウスの先の岡となります。

    妙法寺参道から真南。かつての磐余の池の南端は、このビニールハウスの先の岡となります。

  • 参道入り口近くに、大津皇子の歌碑があります。

    参道入り口近くに、大津皇子の歌碑があります。

  • 「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(万葉集巻3 416)<br />「百に伝う磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りにして、私は雲の彼方に去るのだろうか」(中西進訳万葉集一)

    「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(万葉集巻3 416)
    「百に伝う磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りにして、私は雲の彼方に去るのだろうか」(中西進訳万葉集一)

  • 写真家入江鯛泰吉による大津皇子の歌の碑文です。

    写真家入江鯛泰吉による大津皇子の歌の碑文です。

  • 大津皇子の謀反はでっち上げであり、背後には持統天皇がいるとする研究者が多いそうです。<br />私たちもその説に従います。理由は簡単で、我が子草壁皇子のライバル大津皇子を排除するため。<br />

    大津皇子の謀反はでっち上げであり、背後には持統天皇がいるとする研究者が多いそうです。
    私たちもその説に従います。理由は簡単で、我が子草壁皇子のライバル大津皇子を排除するため。

  • 吉野宮跡<br />今はなにもありません。狭い谷間の田んぼです。<br />吉野の会盟がありました。天武天皇は皇子を全部吉野宮に集め、<br /><br />天武8年(679年)5月5日、<br />「自分は、今日、お前たちと共に朝廷で盟約し、千年の後まで承継の争いを起こすことのないように図りたいと思うがどうか」<br /><br />そのとき真っ先に誓ったのは草壁皇子です。第一皇位継承者である、と宣言したわけです。<br /><br />「・・・天皇のお言葉に従って、助け合って争いはいたしますまい。・・・」<br /><br />天武10年(681年)2月25日、<br />「この日、草壁皇子を立てて皇太子とし、一切の政務に預からせた」<br /><br />天武14年(682年)春1月2日、<br />「草壁皇子尊に浄広一位を授けられた」<br /><br />「尊」(みこと)とは、皇太子もしくはそれに準じる皇子への尊称です。(日本書紀現代語訳注)大津皇子は浄大二位ですから、草壁は大津よりあきらかに格上ということです。<br />菟野皇女(うのの・ひめみこ、のちの持統天皇)は、ここまで草壁皇子を後継者であると、天武に言わせておりました。<br />それでも彼女は安心できなかった。我が子草壁と大津の人格、能力、人望に格段の差があったのです。<br />草壁皇子は何度も名前が出てきますが、その発言内容の記録があるのは、前述の吉野の会盟の時だけ。あとは天皇の名代で誰それの葬儀に行ったというのが何回か。<br /><br />持統3年(689年)夏4月13日、<br />「皇太子草壁皇子尊が薨去された」<br /><br />これだけ。皇子の性格、容貌、業績など、一切言及なし。大津皇子とはえらい違いです。つまり書くことがなかった。天武天皇が崩御したあと、即位したのは、皇太子であった草壁ではなく、皇后であった菟野皇女、つまり持統でした。草壁は健康に問題があったか、とても能力的に天皇は勤まらないと持統が判断したのでしょう。<br /><br />書紀持統天皇紀の冒頭、<br />「(天武)2年、立って皇后となられた。皇后は終始天皇を助けて天下を安定させ、常によき助言者で、政治の面でも補弼の任を果たされた」<br /><br />政治家としては優秀であったようです。なにより天武の政治的理想、政策を理解していたのでしょう。<br /><br />天武はのちの天皇とは違い、全権を一手に握った独裁君主でした。日本最初の体系的な法典である飛鳥浄御原令(あすかきみよみはら・りょう)の編纂は天武10年(681年)に始まり、まだ完成しておりません。古代官道駅路伝路の建設も進んでおりました。藤原京の建設も天武5年(676年)ごろには始まっていました。<br />現地に行ってみれば分かりますが、天武・持統の飛鳥浄御原宮があった飛鳥は、丘に囲まれ猫の額のように狭い。駅路伝路を使って全国を律令で支配するには膨大な官僚組織が必要です。それには広大な都市が必要です。平城京は藤原京の次の都ですが、7000人の官吏が働いていました。藤原京は平城京より広かったといわれております。<br />天武の次の天皇は、これら全てを直接掌握しなければならないのです。<br /><br />草壁皇子は、By妻によれば、書紀の大津評の逆を考えればいいのではないか。<br />「威儀備わり」→態度はおどおどし、<br />「言語明晰で」→何言っているかわからない。<br />「成長されるに及び有能で才学に富み、とくに文筆を愛された」→大人になっても無能で、教養はなし、文章などろくに書けない。<br />懐風藻を加えると、<br />「丈高くすぐれた容貌で、度量も秀でて広大である」→チビて不細工、了見狭い。<br />「成人すると武を好み、力にすぐれ、よく剣を操った」→武術は大嫌い、非力で、剣など触ったこともない。<br />「性格はのびのびとし」→根性は曲がっているし、<br />「自由に振る舞って規則などには縛られなかった」→頑迷固陋前例墨守。<br />それにくらべ、大津皇子は、懐風藻のいうところの、<br />「高貴な身分でありながら、よくへりくだり、人士を厚く厚遇した。このため皇子につき従う者は多かった」<br /><br />「(大津)皇子につき従う者は多かった」というのが菟野皇女には問題です。世論は圧倒的に次期天皇として大津皇子を待望した。次期天皇は、超人的な体力、統率力と能力を要求されているのです。

    吉野宮跡
    今はなにもありません。狭い谷間の田んぼです。
    吉野の会盟がありました。天武天皇は皇子を全部吉野宮に集め、

    天武8年(679年)5月5日、
    「自分は、今日、お前たちと共に朝廷で盟約し、千年の後まで承継の争いを起こすことのないように図りたいと思うがどうか」

    そのとき真っ先に誓ったのは草壁皇子です。第一皇位継承者である、と宣言したわけです。

    「・・・天皇のお言葉に従って、助け合って争いはいたしますまい。・・・」

    天武10年(681年)2月25日、
    「この日、草壁皇子を立てて皇太子とし、一切の政務に預からせた」

    天武14年(682年)春1月2日、
    「草壁皇子尊に浄広一位を授けられた」

    「尊」(みこと)とは、皇太子もしくはそれに準じる皇子への尊称です。(日本書紀現代語訳注)大津皇子は浄大二位ですから、草壁は大津よりあきらかに格上ということです。
    菟野皇女(うのの・ひめみこ、のちの持統天皇)は、ここまで草壁皇子を後継者であると、天武に言わせておりました。
    それでも彼女は安心できなかった。我が子草壁と大津の人格、能力、人望に格段の差があったのです。
    草壁皇子は何度も名前が出てきますが、その発言内容の記録があるのは、前述の吉野の会盟の時だけ。あとは天皇の名代で誰それの葬儀に行ったというのが何回か。

    持統3年(689年)夏4月13日、
    「皇太子草壁皇子尊が薨去された」

    これだけ。皇子の性格、容貌、業績など、一切言及なし。大津皇子とはえらい違いです。つまり書くことがなかった。天武天皇が崩御したあと、即位したのは、皇太子であった草壁ではなく、皇后であった菟野皇女、つまり持統でした。草壁は健康に問題があったか、とても能力的に天皇は勤まらないと持統が判断したのでしょう。

    書紀持統天皇紀の冒頭、
    「(天武)2年、立って皇后となられた。皇后は終始天皇を助けて天下を安定させ、常によき助言者で、政治の面でも補弼の任を果たされた」

    政治家としては優秀であったようです。なにより天武の政治的理想、政策を理解していたのでしょう。

    天武はのちの天皇とは違い、全権を一手に握った独裁君主でした。日本最初の体系的な法典である飛鳥浄御原令(あすかきみよみはら・りょう)の編纂は天武10年(681年)に始まり、まだ完成しておりません。古代官道駅路伝路の建設も進んでおりました。藤原京の建設も天武5年(676年)ごろには始まっていました。
    現地に行ってみれば分かりますが、天武・持統の飛鳥浄御原宮があった飛鳥は、丘に囲まれ猫の額のように狭い。駅路伝路を使って全国を律令で支配するには膨大な官僚組織が必要です。それには広大な都市が必要です。平城京は藤原京の次の都ですが、7000人の官吏が働いていました。藤原京は平城京より広かったといわれております。
    天武の次の天皇は、これら全てを直接掌握しなければならないのです。

    草壁皇子は、By妻によれば、書紀の大津評の逆を考えればいいのではないか。
    「威儀備わり」→態度はおどおどし、
    「言語明晰で」→何言っているかわからない。
    「成長されるに及び有能で才学に富み、とくに文筆を愛された」→大人になっても無能で、教養はなし、文章などろくに書けない。
    懐風藻を加えると、
    「丈高くすぐれた容貌で、度量も秀でて広大である」→チビて不細工、了見狭い。
    「成人すると武を好み、力にすぐれ、よく剣を操った」→武術は大嫌い、非力で、剣など触ったこともない。
    「性格はのびのびとし」→根性は曲がっているし、
    「自由に振る舞って規則などには縛られなかった」→頑迷固陋前例墨守。
    それにくらべ、大津皇子は、懐風藻のいうところの、
    「高貴な身分でありながら、よくへりくだり、人士を厚く厚遇した。このため皇子につき従う者は多かった」

    「(大津)皇子につき従う者は多かった」というのが菟野皇女には問題です。世論は圧倒的に次期天皇として大津皇子を待望した。次期天皇は、超人的な体力、統率力と能力を要求されているのです。

  • 天武14年(685年)9月24日、<br />「天皇が病気になられたので・・・」<br /><br />発病後、しばらくはたいしたことがなかったようです。<br /><br />朱鳥元年(686年)1月2日、<br />「大極殿におでましになり、宴を諸王たちに賜った」<br /><br />この日、余興でしょうか、なぞなぞのようなことして遊んでおります。高市皇子が正解を出して、ご褒美をもらっております。<br />16日には大安殿で宴、17日は後宮で宴、18日には朝廷で盛大な酒宴。まだまだ元気です。<br /><br />朱鳥元年(686年)2月4日、<br />「大安殿におでましになり、侍臣6人に勤位を授けられた」<br /><br />この日以降、天皇自身が公式の席に姿を現すという記述がなくなります。症状が悪化しはじめたのでしょう。<br />病状について書紀に何カ所か記述があります。<br /><br />朱鳥元年(686年)5月24日、<br />「天皇が病重くなられたので、川原寺で薬師教を説かせ、宮中で安居させた」<br /><br />朱鳥元年(686年)6月10日、<br />「天皇の病を占うと、草薙の剣の祟りがあると出た。即日尾張国熱田社に送って安置させた」<br /><br />朱鳥元年(686年)6月12日、<br />「(勅して)『この頃わが体が臭くなった、願わくば仏の威光で身体が安らかになりたい。それ故、僧正・僧都・および衆僧たちよ、仏に誓願してほしい』といわれ、珍宝を寺にたてまつられた」<br /><br />重大な記事があります。<br /><br />朱鳥元年(686年)7月15日、<br />「勅して『天下のことは大小となく、ことごとく皇后および皇太子に申せ』といわれた」<br /><br />天武は、この日以降、政務を取れなくなったのです。「勅して」とありますから、命令は文書です。天皇の意向というより、皇后の命令でしょう。<br /><br />朱鳥元年(686年)8月9日、<br />「天皇の病気平癒を神々に祈った」

    天武14年(685年)9月24日、
    「天皇が病気になられたので・・・」

    発病後、しばらくはたいしたことがなかったようです。

    朱鳥元年(686年)1月2日、
    「大極殿におでましになり、宴を諸王たちに賜った」

    この日、余興でしょうか、なぞなぞのようなことして遊んでおります。高市皇子が正解を出して、ご褒美をもらっております。
    16日には大安殿で宴、17日は後宮で宴、18日には朝廷で盛大な酒宴。まだまだ元気です。

    朱鳥元年(686年)2月4日、
    「大安殿におでましになり、侍臣6人に勤位を授けられた」

    この日以降、天皇自身が公式の席に姿を現すという記述がなくなります。症状が悪化しはじめたのでしょう。
    病状について書紀に何カ所か記述があります。

    朱鳥元年(686年)5月24日、
    「天皇が病重くなられたので、川原寺で薬師教を説かせ、宮中で安居させた」

    朱鳥元年(686年)6月10日、
    「天皇の病を占うと、草薙の剣の祟りがあると出た。即日尾張国熱田社に送って安置させた」

    朱鳥元年(686年)6月12日、
    「(勅して)『この頃わが体が臭くなった、願わくば仏の威光で身体が安らかになりたい。それ故、僧正・僧都・および衆僧たちよ、仏に誓願してほしい』といわれ、珍宝を寺にたてまつられた」

    重大な記事があります。

    朱鳥元年(686年)7月15日、
    「勅して『天下のことは大小となく、ことごとく皇后および皇太子に申せ』といわれた」

    天武は、この日以降、政務を取れなくなったのです。「勅して」とありますから、命令は文書です。天皇の意向というより、皇后の命令でしょう。

    朱鳥元年(686年)8月9日、
    「天皇の病気平癒を神々に祈った」

  • 現代の川原寺跡。

    現代の川原寺跡。

  • 飛鳥資料館:川原寺模型。写真掲載許可資料館より取得済み<br /><br />朱鳥元年(686年)9月4日<br />「親王以下諸臣に至るまで、川原寺に集い、天皇の御病平癒のため云々と誓願した」<br /><br />5月24日以降あきらかに容体に変化が見られます。<br />7月15日以降は、事態は容易ならざる感じです。<br /><br />朱鳥元年(686年)9月9日、<br />「天皇の病ついに癒えず、正宮(おおみや)にて崩御された」<br /><br />朱鳥元年(686年)9月9日、<br />「天武天皇が崩御され、皇后は即位の式もあげられぬまま、政務を執られた」<br /><br />持統は、皇太子である息子草壁ではなく、自分が天皇になることをあらかじめ覚悟していたのです。夫天武の先が長くないことを知っていました。

    飛鳥資料館:川原寺模型。写真掲載許可資料館より取得済み

    朱鳥元年(686年)9月4日
    「親王以下諸臣に至るまで、川原寺に集い、天皇の御病平癒のため云々と誓願した」

    5月24日以降あきらかに容体に変化が見られます。
    7月15日以降は、事態は容易ならざる感じです。

    朱鳥元年(686年)9月9日、
    「天皇の病ついに癒えず、正宮(おおみや)にて崩御された」

    朱鳥元年(686年)9月9日、
    「天武天皇が崩御され、皇后は即位の式もあげられぬまま、政務を執られた」

    持統は、皇太子である息子草壁ではなく、自分が天皇になることをあらかじめ覚悟していたのです。夫天武の先が長くないことを知っていました。

  • 菟野皇女が大津皇子排除を決意したきっかけ<br />懐風藻の大津皇子の漢詩4首のひとつに「遊猟」があります。<br /><br />遊猟<br /><br />朝に三能の士を択び、<br />暮に万騎の筵を開く<br />臠を喫してともに豁たり、<br />盞を傾けてともに陶然たり。<br />月弓 谷裏に輝き<br />雲旌 嶺前に張る<br />曦光 すでに山に隱る<br />壯士 しばらく留連す<br />  <br />朝に芸能の名士を択んで狩に出<br />暮には万騎の勇士と酒宴を開く<br />肉をほおばり心のびのびと朗らかに<br />盞を傾けてうっとりと酔うている<br />勇士の弓は谷間にきらりと光り<br />旗の幔幕は峯の前にひるがえる<br />日はすでに山の端にかくれたが<br />友はなお止まり気炎をあげている<br /><br />菟野皇女は、朱鳥元年(686年)2月または5月、この詩を読んだとき、大津皇子の排除を決意したのではないか。<br />雄渾、気宇壮大。大津皇子そのものです。<br />それに比べて、我が子草壁皇子は凡庸で、体も弱い。人望を集める大津皇子をそのままにしておいたら、いつの日か我が子を追い落とす。大海人皇子の妻として、壬申の乱で、兄弟、肉親の争いを生き抜いてきた、菟野皇女です。彼女自身いくさの当事者で、政治家です。乱の敗者、大友皇子の無惨な最期は知っております。<br /><br />持統天皇には、大津皇子を天武の後継者にする選択肢はなかったのでしょうか。<br />大津には、草壁を排除する理由がありません。能力、人望において、自分が草壁にはるかに勝ることを知っております。<br />それでも持統が心配なら、飛鳥政界の実力者高市皇子に草壁の安全を保障してもらう。数年自分が天皇を務め、大津皇子に位を譲る。天武の律令国家建設の理想を実現するには、この方がベターであります。<br />しかし、持統の思いはただ一つ、我が子草壁を敗者にしたくない。<br />「ああ、だめ、このままだと、うちの子、負けちゃう!」<br />この判断に関しては、彼女は、我が子可愛いだけの、ただの凡庸な母親でありました。<br /><br />朱鳥元年(686年)9月24日、<br />「殯宮を南庭に建てた」<br /><br />朱鳥元年(686年)9月24日、<br />「南庭で殯し、発哀した」<br /><br />発哀(みね)とは、人の死にあたり声を出して哀惜をあらわす礼(現代語訳日本書紀訳注)その後、不可解な記述があります。<br /><br />朱鳥元年(686年)9月24日続き、<br />「このとき、大津皇子が皇太子に謀反を企てた」<br /><br />大津皇子が天武の葬儀のときに草壁にケンカを売ったとも読めるし、このとき謀反を決意したとも読める。<br /><br />朱鳥元年(686年)9月24日10月2日、<br />「大津皇子の謀反が発覚し・・・」<br /><br />となります。

    菟野皇女が大津皇子排除を決意したきっかけ
    懐風藻の大津皇子の漢詩4首のひとつに「遊猟」があります。

    遊猟

    朝に三能の士を択び、
    暮に万騎の筵を開く
    臠を喫してともに豁たり、
    盞を傾けてともに陶然たり。
    月弓 谷裏に輝き
    雲旌 嶺前に張る
    曦光 すでに山に隱る
    壯士 しばらく留連す
      
    朝に芸能の名士を択んで狩に出
    暮には万騎の勇士と酒宴を開く
    肉をほおばり心のびのびと朗らかに
    盞を傾けてうっとりと酔うている
    勇士の弓は谷間にきらりと光り
    旗の幔幕は峯の前にひるがえる
    日はすでに山の端にかくれたが
    友はなお止まり気炎をあげている

    菟野皇女は、朱鳥元年(686年)2月または5月、この詩を読んだとき、大津皇子の排除を決意したのではないか。
    雄渾、気宇壮大。大津皇子そのものです。
    それに比べて、我が子草壁皇子は凡庸で、体も弱い。人望を集める大津皇子をそのままにしておいたら、いつの日か我が子を追い落とす。大海人皇子の妻として、壬申の乱で、兄弟、肉親の争いを生き抜いてきた、菟野皇女です。彼女自身いくさの当事者で、政治家です。乱の敗者、大友皇子の無惨な最期は知っております。

    持統天皇には、大津皇子を天武の後継者にする選択肢はなかったのでしょうか。
    大津には、草壁を排除する理由がありません。能力、人望において、自分が草壁にはるかに勝ることを知っております。
    それでも持統が心配なら、飛鳥政界の実力者高市皇子に草壁の安全を保障してもらう。数年自分が天皇を務め、大津皇子に位を譲る。天武の律令国家建設の理想を実現するには、この方がベターであります。
    しかし、持統の思いはただ一つ、我が子草壁を敗者にしたくない。
    「ああ、だめ、このままだと、うちの子、負けちゃう!」
    この判断に関しては、彼女は、我が子可愛いだけの、ただの凡庸な母親でありました。

    朱鳥元年(686年)9月24日、
    「殯宮を南庭に建てた」

    朱鳥元年(686年)9月24日、
    「南庭で殯し、発哀した」

    発哀(みね)とは、人の死にあたり声を出して哀惜をあらわす礼(現代語訳日本書紀訳注)その後、不可解な記述があります。

    朱鳥元年(686年)9月24日続き、
    「このとき、大津皇子が皇太子に謀反を企てた」

    大津皇子が天武の葬儀のときに草壁にケンカを売ったとも読めるし、このとき謀反を決意したとも読める。

    朱鳥元年(686年)9月24日10月2日、
    「大津皇子の謀反が発覚し・・・」

    となります。

  • 懐風藻によれば、発覚したのは河島皇子の密告となっております。書紀には記載ありません。<br /><br />「(河島皇子は)はじめ大津皇子と意気投合して交際を結んでいた。大津皇子が反逆を計画したとき、河島皇子はそれを密告した。朝廷では河島皇子の忠誠を賞したが、朋友たちは情誼の薄い者と見ている。論議はまだ河島皇子の行為の是非をはっきりさせていない」<br /><br />大津皇子事件のあと、「行為の是非」つまり友人を密告するという行為の是非は議論されましたが、本当に密告したかどうかはだれも疑っていなかったようです。<br />謀反が事実であれば密告、事実でなければ讒言となります。いずれにしても河島皇子はその後辛い人生を送ったでありましょう。事件のとき29才、691年に35才で死んだとあります。<br />なお、書紀に記載がないこと、その後とくに河島皇子が優遇されていないことから、密告が虚構であるという説もあるそうです。しかしながら、懐風藻が書かれたころ、河島皇子密告説が奈良の都で流布していたことは間違いありません。

    懐風藻によれば、発覚したのは河島皇子の密告となっております。書紀には記載ありません。

    「(河島皇子は)はじめ大津皇子と意気投合して交際を結んでいた。大津皇子が反逆を計画したとき、河島皇子はそれを密告した。朝廷では河島皇子の忠誠を賞したが、朋友たちは情誼の薄い者と見ている。論議はまだ河島皇子の行為の是非をはっきりさせていない」

    大津皇子事件のあと、「行為の是非」つまり友人を密告するという行為の是非は議論されましたが、本当に密告したかどうかはだれも疑っていなかったようです。
    謀反が事実であれば密告、事実でなければ讒言となります。いずれにしても河島皇子はその後辛い人生を送ったでありましょう。事件のとき29才、691年に35才で死んだとあります。
    なお、書紀に記載がないこと、その後とくに河島皇子が優遇されていないことから、密告が虚構であるという説もあるそうです。しかしながら、懐風藻が書かれたころ、河島皇子密告説が奈良の都で流布していたことは間違いありません。

  • 「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(万葉集巻3 416)<br />ふたたび大津皇子の歌。<br />折口信夫の訳では、<br />「これ迄は、度々磐余の池に来て遊んだが、其池の鴨も、今日で見納めだ。これをかぎりとして、自分は死んでいくことであらう」<br />中西訳では<br />「百に伝う磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りにして、私は雲の彼方に去るのだろうか」<br /><br />この歌は、後世の誰かが皇子の立場にたって歌ったものだという説があります。<br />「雲隠る」という用語は「小学館・新選古語辞典」によれば、「貴人の死ぬことをたとえる」とあり、用例として上記の大津皇子の歌があげられています。<br />大津皇子が自分の死に際し、貴人にのみ使う敬語表現を用いることはない。中西進の万葉集現代語訳注では「敬語表現と思われ、一首の他人作を示す」<br />これは決定的で、どうしても大津皇子歌とするなら、皇子は高校古文の授業やり直しです。<br /><br />この歌では大津皇子は、この日が最後だと知っています。処刑を知っているので、歌ったのは逮捕された日10月2日、または賜死の直前翌3日となります。<br />この歌の詞書きは、<br />「大津皇子の被死(みまか)らしめらえし時に、磐余の池の堤にして涕を流して作りませる御歌一首」<br />逮捕され、身柄を拘束されてから、訳語田の屋敷から磐余の池の堤に行くはずはないので、歌と詞書きが矛盾します。<br /><br />訳語田の屋敷から磐余の池の湖面は見えるか。<br />国土地理院の25000/1地形図によれば、戒重春日神社付近の標高は72メートル、東池尻・池内遺跡周辺は81メートル。磐余の池は訳語田より標高が9メートル高いので、その間遮る物がないにしても、湖面は見えません。

    「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」(万葉集巻3 416)
    ふたたび大津皇子の歌。
    折口信夫の訳では、
    「これ迄は、度々磐余の池に来て遊んだが、其池の鴨も、今日で見納めだ。これをかぎりとして、自分は死んでいくことであらう」
    中西訳では
    「百に伝う磐余の池に鳴く鴨を見るのも今日限りにして、私は雲の彼方に去るのだろうか」

    この歌は、後世の誰かが皇子の立場にたって歌ったものだという説があります。
    「雲隠る」という用語は「小学館・新選古語辞典」によれば、「貴人の死ぬことをたとえる」とあり、用例として上記の大津皇子の歌があげられています。
    大津皇子が自分の死に際し、貴人にのみ使う敬語表現を用いることはない。中西進の万葉集現代語訳注では「敬語表現と思われ、一首の他人作を示す」
    これは決定的で、どうしても大津皇子歌とするなら、皇子は高校古文の授業やり直しです。

    この歌では大津皇子は、この日が最後だと知っています。処刑を知っているので、歌ったのは逮捕された日10月2日、または賜死の直前翌3日となります。
    この歌の詞書きは、
    「大津皇子の被死(みまか)らしめらえし時に、磐余の池の堤にして涕を流して作りませる御歌一首」
    逮捕され、身柄を拘束されてから、訳語田の屋敷から磐余の池の堤に行くはずはないので、歌と詞書きが矛盾します。

    訳語田の屋敷から磐余の池の湖面は見えるか。
    国土地理院の25000/1地形図によれば、戒重春日神社付近の標高は72メートル、東池尻・池内遺跡周辺は81メートル。磐余の池は訳語田より標高が9メートル高いので、その間遮る物がないにしても、湖面は見えません。

  • 湖面の鴨は見えなくても、その上を飛ぶ鴨は見えないか。<br />訳語田より磐余の池まで直線で約1.9キロです。<br />マガモとして、翼を広げると85-99センチだそうです。1羽2羽の鴨が湖上を飛んでいても見えません。また、声も聞こえません。<br />100羽くらいが群をなして飛べば識別できるかもしれませんが、鴨の大群が鳴きさけびながら湖面を群舞する光景は、この歌の寂寥感とは違う、もっと不気味な禍々しいものになります。<br /><br />後世のだれかの代作で間違いありません。では、だれか。<br />あとで想像してみたいと思います。

    湖面の鴨は見えなくても、その上を飛ぶ鴨は見えないか。
    訳語田より磐余の池まで直線で約1.9キロです。
    マガモとして、翼を広げると85-99センチだそうです。1羽2羽の鴨が湖上を飛んでいても見えません。また、声も聞こえません。
    100羽くらいが群をなして飛べば識別できるかもしれませんが、鴨の大群が鳴きさけびながら湖面を群舞する光景は、この歌の寂寥感とは違う、もっと不気味な禍々しいものになります。

    後世のだれかの代作で間違いありません。では、だれか。
    あとで想像してみたいと思います。

  • 懐風藻には大津皇子による「臨終」という漢詩が収められています。<br /><br />金烏臨西舎、<br />鼓聲催短命。<br />泉路無賓主、<br />此夕誰家向。<br /><br />金烏 西舎に臨み<br />鼓聲 短命を催す<br />泉路 賓主無く<br />この夕 誰が家にか向ふ。<br /><br />太陽は西に傾き<br />夕べの鐘に短い命がしみる<br />泉途を行くは1人の旅<br />夕暮れはどこへ宿ろうとするのか<br /><br />処刑を目前にしての辞世の作となっています。しかしこの時代の日本人は、歌にしろ、漢詩にしろ、辞世を残すという習慣はないそうで、「ももづたふ」同様後世の詩人の仮託という説もあります。<br />一方、漢詩の専門家・碇豊長によれば、この詩は漢詩としては破綻していて、<br />「大津皇子の場合は、その(推敲の)時間さえなかったことがよく分かる。彼の無念さがひしひしと伝わってくる千古の絶唱である。『懷風藻』に遺されている彼の作品群は、この『臨終』の作を除いて、どれも正確な押韻をしている。五言律詩二首も正格のものである」<br />として、大津の実作であるとしています。<br />(碇豊長、日本漢詩選<br />http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn01.htm)<br /><br />この詩を調べているうちに、非常におもしろい意見があることが分かりました。<br />「懐風藻」がなんらかの方法で中国に持ち込まれ、この「臨終」が後の中国、朝鮮の漢詩に影響を与えた可能性があるそうです。<br /><br />金文京(京都大学人文研究所教授)「本文批評と解釈」班研究報告2 中国学 PDF、発表年代不明)<br />ならびに、<br />土佐朋子「伝承される『臨刑死』-稗史の想像力―」(東京医科歯科大学教養部研究紀要第47号1-18ページ、2017年)<br />によると、<br /><br />1.大津皇子 出典「懐風藻」成立751年 詩の制作686年?<br />金烏臨西舎、<br />鼓聲催短命。<br />泉路無賓主、<br />此夕誰家向。<br /><br />2.叔宝(553-604) 出典「日本・智光『浄名玄論略述』所引「有伝」成立750年ごろ<br />鼓声推(催)命役(短?),<br />日光向西斜。<br />黄泉無客主,<br />今夜向誰家。<br /><br />3.江為 出典『五代史補』、成立1012年、詩の制作五代907年-960年<br />衙鼓侵人急,<br />西傾日欲斜。<br />黄泉無旅店,<br />今夜宿誰家。<br /><br />4.孫&#34145;(そんひ、そんふん ?-1393年)出典『西庵集』成立15世紀初 詩の制作1393年<br />〇鼓三声急,(漢字出ません)<br />西山日又斜。<br />黄泉無旅舎,<br />今夜宿誰家。<br /><br />5.朝鮮・成三問(1418-1456)出典「稗官雑記」成立1538年 詩の制作1456年<br />撃鼓催人命,<br />回看日欲斜。<br />黄泉無一店,<br />今夜宿誰家。<br /><br />まだあります。新しくは清朝から中華民国の詩人の作品まであります。<br />共通しているのは、死刑に処された文人が死に臨んで作った詩であることです。<br />第1句にはバリエーションがありますが、2句以降はほぼ同じ内容だそうです。<br />残念ながら私は漢文はダメで、読み下し文はつけられません。<br />しかし3句、4句は字面を見るだけで意味がほぼ同じであることは分かります。<br /><br />泉途を行くは1人の旅<br />夕暮れはどこへ宿ろうとするのか<br /><br />3以降は、江為の作品を下敷きに作られた可能性があるので、類似しているのはとくに不思議ではありません。<br /><br />2は日本人の僧である智光の文章中にあるものです。「伝」といわれております。<br />土佐朋子「伝承される『臨刑死』-稗史の想像力―」によると、<br /><br />「叔宝詩が記載される『浄名玄論略述』所引の「伝」は、素性が明らかにされていない。陳の滅亡ついては正史に経緯の詳細が記されるが、この伝にあるような話は見られない」<br /><br />「伝」の内容は中国の歴史書にあるものと同様ですが、肝心の臨刑詩はその歴史書にはありません。稗史といわれる民間伝承にもないそうです。<br /><br />同論文注11(P16)によると、金文京教授は、「文体が『生渋』であり、かつ中国人であれば絶対に犯さない誤りも見られることから『日本人の手になるもの』とされる」<br />つまり「伝」は智光により750年までに書かれたものとなります。叔宝の詩そのものが智光またはその協力者による創作、あるいは大津の詩の模倣となります。<br /><br />二つの可能性があります。<br />大津皇子の詩が自作である場合。智光「浄名玄論略述」所引「有伝」は成立750年ごろですから、大津は叔宝の詩を見ておりません。逆に智光は大津の詩を参考に、叔宝に仮託して臨刑詩を作ったことになります。<br />金文京教授によると、大津の詩は漢詩としては破綻しており、叔宝の方が中国語としては正しい。ただし、大津の詩はより詩語に近い。<br />次の可能性は、大津の詩が後世の詩人Xの仮託である場合。懐風藻と浄名玄論略述は成立年代がほぼ同じですから、詩人Xは草稿段階の浄名玄論略述を読んで、大津皇子の「臨終」を創作したことになります。<br /><br />私は素直に、「臨終」は大津の自作であり、懐風藻は後年何らかの機会に中国に渡り、江為に影響を与えたと、思っています。<br />碇豊長、金文京という日中の漢詩の専門家が、大津の詩は中国語としては破綻しているが、<br />「彼の無念さがひしひしと伝わってくる千古の絶唱である」<br />あるいは<br />「大津の詩はより詩語に近い」<br />と、「詩」文学作品として認めています。後世の代作であれば、充分に時間をかけて、漢詩として完成させたはずです。破綻していることそのものが、大津の自作であることを物語っている。<br /><br />懐風藻の編者とされる淡海三船はその時代きっての学者で、漢籍に深い知識がありました。「天武天皇」などの漢風諡号は、神武天皇から元正天皇まで、淡海三船によって一括選定されたといわれております。<br />その淡海三船が、大津の詩の間違いに気がつかないはずがありません。それがそのまま、なんのコメントもなく懐風藻に収録されたのは、この詩が大津の自作として当時の知識人に認識されていたからです。<br />間違っていようが何であれ、大津が書いたのだからそのまま載せる。<br /><br />江為は、「なんか文法は間違っているけれど、いい詩だな」と思ったのではないでしょうか。まさか後年、自分が同じ立場に立つとは予想もしなかった。

    懐風藻には大津皇子による「臨終」という漢詩が収められています。

    金烏臨西舎、
    鼓聲催短命。
    泉路無賓主、
    此夕誰家向。

    金烏 西舎に臨み
    鼓聲 短命を催す
    泉路 賓主無く
    この夕 誰が家にか向ふ。

    太陽は西に傾き
    夕べの鐘に短い命がしみる
    泉途を行くは1人の旅
    夕暮れはどこへ宿ろうとするのか

    処刑を目前にしての辞世の作となっています。しかしこの時代の日本人は、歌にしろ、漢詩にしろ、辞世を残すという習慣はないそうで、「ももづたふ」同様後世の詩人の仮託という説もあります。
    一方、漢詩の専門家・碇豊長によれば、この詩は漢詩としては破綻していて、
    「大津皇子の場合は、その(推敲の)時間さえなかったことがよく分かる。彼の無念さがひしひしと伝わってくる千古の絶唱である。『懷風藻』に遺されている彼の作品群は、この『臨終』の作を除いて、どれも正確な押韻をしている。五言律詩二首も正格のものである」
    として、大津の実作であるとしています。
    (碇豊長、日本漢詩選
    http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn01.htm

    この詩を調べているうちに、非常におもしろい意見があることが分かりました。
    「懐風藻」がなんらかの方法で中国に持ち込まれ、この「臨終」が後の中国、朝鮮の漢詩に影響を与えた可能性があるそうです。

    金文京(京都大学人文研究所教授)「本文批評と解釈」班研究報告2 中国学 PDF、発表年代不明)
    ならびに、
    土佐朋子「伝承される『臨刑死』-稗史の想像力―」(東京医科歯科大学教養部研究紀要第47号1-18ページ、2017年)
    によると、

    1.大津皇子 出典「懐風藻」成立751年 詩の制作686年?
    金烏臨西舎、
    鼓聲催短命。
    泉路無賓主、
    此夕誰家向。

    2.叔宝(553-604) 出典「日本・智光『浄名玄論略述』所引「有伝」成立750年ごろ
    鼓声推(催)命役(短?),
    日光向西斜。
    黄泉無客主,
    今夜向誰家。

    3.江為 出典『五代史補』、成立1012年、詩の制作五代907年-960年
    衙鼓侵人急,
    西傾日欲斜。
    黄泉無旅店,
    今夜宿誰家。

    4.孫蕡(そんひ、そんふん ?-1393年)出典『西庵集』成立15世紀初 詩の制作1393年
    〇鼓三声急,(漢字出ません)
    西山日又斜。
    黄泉無旅舎,
    今夜宿誰家。

    5.朝鮮・成三問(1418-1456)出典「稗官雑記」成立1538年 詩の制作1456年
    撃鼓催人命,
    回看日欲斜。
    黄泉無一店,
    今夜宿誰家。

    まだあります。新しくは清朝から中華民国の詩人の作品まであります。
    共通しているのは、死刑に処された文人が死に臨んで作った詩であることです。
    第1句にはバリエーションがありますが、2句以降はほぼ同じ内容だそうです。
    残念ながら私は漢文はダメで、読み下し文はつけられません。
    しかし3句、4句は字面を見るだけで意味がほぼ同じであることは分かります。

    泉途を行くは1人の旅
    夕暮れはどこへ宿ろうとするのか

    3以降は、江為の作品を下敷きに作られた可能性があるので、類似しているのはとくに不思議ではありません。

    2は日本人の僧である智光の文章中にあるものです。「伝」といわれております。
    土佐朋子「伝承される『臨刑死』-稗史の想像力―」によると、

    「叔宝詩が記載される『浄名玄論略述』所引の「伝」は、素性が明らかにされていない。陳の滅亡ついては正史に経緯の詳細が記されるが、この伝にあるような話は見られない」

    「伝」の内容は中国の歴史書にあるものと同様ですが、肝心の臨刑詩はその歴史書にはありません。稗史といわれる民間伝承にもないそうです。

    同論文注11(P16)によると、金文京教授は、「文体が『生渋』であり、かつ中国人であれば絶対に犯さない誤りも見られることから『日本人の手になるもの』とされる」
    つまり「伝」は智光により750年までに書かれたものとなります。叔宝の詩そのものが智光またはその協力者による創作、あるいは大津の詩の模倣となります。

    二つの可能性があります。
    大津皇子の詩が自作である場合。智光「浄名玄論略述」所引「有伝」は成立750年ごろですから、大津は叔宝の詩を見ておりません。逆に智光は大津の詩を参考に、叔宝に仮託して臨刑詩を作ったことになります。
    金文京教授によると、大津の詩は漢詩としては破綻しており、叔宝の方が中国語としては正しい。ただし、大津の詩はより詩語に近い。
    次の可能性は、大津の詩が後世の詩人Xの仮託である場合。懐風藻と浄名玄論略述は成立年代がほぼ同じですから、詩人Xは草稿段階の浄名玄論略述を読んで、大津皇子の「臨終」を創作したことになります。

    私は素直に、「臨終」は大津の自作であり、懐風藻は後年何らかの機会に中国に渡り、江為に影響を与えたと、思っています。
    碇豊長、金文京という日中の漢詩の専門家が、大津の詩は中国語としては破綻しているが、
    「彼の無念さがひしひしと伝わってくる千古の絶唱である」
    あるいは
    「大津の詩はより詩語に近い」
    と、「詩」文学作品として認めています。後世の代作であれば、充分に時間をかけて、漢詩として完成させたはずです。破綻していることそのものが、大津の自作であることを物語っている。

    懐風藻の編者とされる淡海三船はその時代きっての学者で、漢籍に深い知識がありました。「天武天皇」などの漢風諡号は、神武天皇から元正天皇まで、淡海三船によって一括選定されたといわれております。
    その淡海三船が、大津の詩の間違いに気がつかないはずがありません。それがそのまま、なんのコメントもなく懐風藻に収録されたのは、この詩が大津の自作として当時の知識人に認識されていたからです。
    間違っていようが何であれ、大津が書いたのだからそのまま載せる。

    江為は、「なんか文法は間違っているけれど、いい詩だな」と思ったのではないでしょうか。まさか後年、自分が同じ立場に立つとは予想もしなかった。

  • 大津皇子を逮捕して処刑までに時間があれば、人望のある皇子ですから、有力豪族などから助命運動が起こる可能性があります。それが処刑は翌日となっております。普通ですと持統天皇が許すはずがありません。<br />また山辺皇女の、錯乱ともいうべき取り乱した最期も、理解しがたい。大津皇子排除の動きは、皇子そして皇女も察していたと私は思います。覚悟は出来ていたはずです。なのに、この取り乱しよう。<br />おかしい、何があったのだろうか。<br /><br />懐風藻によれば、「成人すると武を好み、力にすぐれ、よく剣を操った」<br />剣はひとりでは稽古できません。稽古仲間がいました。<br />持統天皇は、訳語田邸に討手を送るとき、大津皇子が抵抗することを考えなかったでしょうか。皇子は「よく剣を操った」<br />討手には、当然選りすぐりの剣の使い手を選抜したでありましょう。<br />彼らは、大津皇子の剣の稽古仲間であった。<br />天皇の命令であれば、行かざるをえません。10人くらいでしょうか。大津皇子を囲んだとき、彼らは涙ながらに自決を懇願した。<br />大津皇子も、討手の顔ぶれを見たときに、戦うべき相手ではないことを知った。<br />そのかわり、時間をくれるように頼んだ。持統の命令は、即日賜死であった。彼らは独断で、このあとの天皇の命令違反の処罰を恐れずに、大津の自決を翌日にした。<br />こうすると、大津皇子が、漢詩1首「臨終」を作ることができます。<br /><br />未推敲ながら「臨終」を書き上げた皇子は、討手の仲間に「酒でも飲まないか」と言った。自ら膳部に酒と肴を命じた。討手も屋敷の膳部も驚いたでしょうが、別れの宴が始まった。<br />これを聞いた山辺皇女は、なにかの和解が成立したと思った。いそいそと、慣れない手つきで酒肴の準備をしたかもしれない。<br />あるいは二人だけの短いひとときを過ごしたか。大津は事実を言わなかった。まさか山辺があとを追うは思っていなかった。<br />ところが翌日未明、大津皇子は自決した。絶望が希望に変わり、それがまた一変した。<br />山辺皇女の取り乱した最期が理解できませんか。<br />根拠は何一つありませんが、二つの疑問を同時に解く解であります。<br />

    大津皇子を逮捕して処刑までに時間があれば、人望のある皇子ですから、有力豪族などから助命運動が起こる可能性があります。それが処刑は翌日となっております。普通ですと持統天皇が許すはずがありません。
    また山辺皇女の、錯乱ともいうべき取り乱した最期も、理解しがたい。大津皇子排除の動きは、皇子そして皇女も察していたと私は思います。覚悟は出来ていたはずです。なのに、この取り乱しよう。
    おかしい、何があったのだろうか。

    懐風藻によれば、「成人すると武を好み、力にすぐれ、よく剣を操った」
    剣はひとりでは稽古できません。稽古仲間がいました。
    持統天皇は、訳語田邸に討手を送るとき、大津皇子が抵抗することを考えなかったでしょうか。皇子は「よく剣を操った」
    討手には、当然選りすぐりの剣の使い手を選抜したでありましょう。
    彼らは、大津皇子の剣の稽古仲間であった。
    天皇の命令であれば、行かざるをえません。10人くらいでしょうか。大津皇子を囲んだとき、彼らは涙ながらに自決を懇願した。
    大津皇子も、討手の顔ぶれを見たときに、戦うべき相手ではないことを知った。
    そのかわり、時間をくれるように頼んだ。持統の命令は、即日賜死であった。彼らは独断で、このあとの天皇の命令違反の処罰を恐れずに、大津の自決を翌日にした。
    こうすると、大津皇子が、漢詩1首「臨終」を作ることができます。

    未推敲ながら「臨終」を書き上げた皇子は、討手の仲間に「酒でも飲まないか」と言った。自ら膳部に酒と肴を命じた。討手も屋敷の膳部も驚いたでしょうが、別れの宴が始まった。
    これを聞いた山辺皇女は、なにかの和解が成立したと思った。いそいそと、慣れない手つきで酒肴の準備をしたかもしれない。
    あるいは二人だけの短いひとときを過ごしたか。大津は事実を言わなかった。まさか山辺があとを追うは思っていなかった。
    ところが翌日未明、大津皇子は自決した。絶望が希望に変わり、それがまた一変した。
    山辺皇女の取り乱した最期が理解できませんか。
    根拠は何一つありませんが、二つの疑問を同時に解く解であります。

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旅行記グループ

六国史の旅 飛鳥の姉弟

この旅行記へのコメント (6)

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  • ryujiさん 2021/01/11 11:21:01
     楽しいひと時をもらいました!、ありがとうございます☻
     こんにちは、しにあの旅人さん。

     またまた発行の歴史小説、「飛鳥の姉弟2」を読ませて頂きました。 ホント・いいですね~、ワクワク&ドキドキの連続で「楽しい時間をいただきました」(これがメールのタイトル)

     改めてこの旅行記の最もテーマなるところは、持統天皇(あえて天皇名で)と大津皇子の確執箇所でしょうね。 貴方様の独自のお考えと、資料に基ずく史実を公平に判断され、私はより素晴らしく感じました。

     わがままついでに1つ注文をさせてください。(おそらくは「飛鳥の姉弟」のシリーズⅣで登場があるのでは?) 私の興味大の大伯皇女(オオクノヒメミコ)その人です。 このお方の儚い人生を思うと、「お守りをしてあげたい」そんな気持ちを持つ私です。 是非ともよろしくお願いします。

     素敵な旅行記をありがとうございます。
                     ryuji

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/01/11 12:03:10
    Re:  楽しいひと時をもらいました!、ありがとうございます☻
    過分なお褒めの言葉恐縮です。

    持統天皇は調べるほど魅力的な人物です。ただ、姉弟と対比されますから、どうしても悪役になります。

    大来皇女はこのシリーズの真打です。このあと姉弟の母太田皇女の話、壬申の乱の4回にも少し出演してもらいますが、そのあと主人公として、長々と始める予定です。
    私たちの旅行記シリーズは長いのですが、その中でも一番長くなりそうです。お褒めの感想をいただいて、続けてゆく元気が出ました。

    私たちは、コロナに弱い高齢者ですから、亀の子作戦に徹しております。しばらくは家に引きこもって、飛鳥時代にタイムトラベルです。
  • kummingさん 2021/01/08 21:13:47
    初参拝♪
    新年も明けて早9日、重役出勤ではございますがm(_ _)m
    みなさま持統天皇に批判的な中、異を唱えるのはいかがなものか!? とは思いながら、デキの悪い子ほどカワイイ母心~、政治的にもやり手おババだった彼女の肩にかかる重圧を思うと、わたくしは擁護派かも?
    禁忌を犯さぬ自殺法でも、♪お池にハマってさあ大変♪は、嫌だ~(;O;)
    賢女列伝85人、面白げなメンバー勢揃いですね!
    地図がよめないので、しにあさん力入ってる土地勘にどうしてもついて行けませんシクシク
    1月末の旅行、ざんね~ん(TT)孝謙天皇が怪僧道鏡を訪ねた地?またのお越しをお待ち致しております♪
    さて、旅行記の年度が4tr入会年度に反映されるので、しにあさんは昔むかしシリーズの年月を偽装(悪い事してるみたい!)してありました。私は、既にアップしているブログの年度を変えようか?と思っておりますが、結果はいかに?
    昨日は、口コミだけでプロフィール訪問国、増やす、せこいワザ使いました(笑笑)
    我が家も2月、息子娘は有休とっての家族旅行、企画していましたが、多分ムリ、雲行き怪しくなって来ました(:_;)行き先は奈良でした♪
    ↑原稿用紙半分に収まったかな?

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/01/10 06:06:19
    Re: 初参拝♪
    おはようございます。

    コロナ、どうにもなりません。外国旅行がダメなのはしょうがない。フランスからの知らせでは、80すぎの知人が一人入居中の老人ホームでコロナで亡くなり、もう一人若い方がかかりましたが、無事治ったそうです。若い方は母親と住んでいましたが、母親は無事だったみたい。無症状でかかっていますよね。もうこんなの、日常茶飯事で、かかるかからないは運です。
    そういうところには怖くて行けません。

    幸い日本では直接の知人にはコロナの被害者はいません。フランスに比べると100倍マシという感じです。このままワクチンができるまで、亀の子作戦で行くしかないと思います。
    国内旅行も我慢するしかないですね。
    道鏡さんに会いに行くのも、相手がどっかに行くわけではなし、goto復活まで待つしかありません。
    まっ平なところらしい。2キロくらいの範囲に目的地がまとまっているので、自転車が使えそうです。早く春とワクチンが来ないかな。

    持統さんは、いろいろ勘ぐってみると面白い人物です。でもどうやっても悪役になっちゃうのね。かわいそうなキャラクターです。これからもほぼ毎回出演していただきます。なんか、親しみを感じちゃって、隣のおばさんみたいな感じ。

    クチコミで訪問地が増えるのですか! 知らなかった、やってみよう。大阪と滋賀がかせげる。国内旅行の県はダメかな。
  • 前日光さん 2021/01/05 16:30:43
    今年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m
    しにあの旅人さん、こんにちは&新年おめでとうございます!
    年度当初から、グチャグチャな人間関係が繰り広げられておりますね!

    この事件が実際にあったとして(もちろん私はあったと思いたいし、壬申の乱と共に、万葉集の最も華々しい部分とも思います。)後代の我々が何に胸ときめかせているかというと、この事件の当事者たちのそれぞれの思惑に対してなのだと思います。
    中でもやはり持統天皇の胸中でしょうか?
    男性にも劣らない政治力・使命感は父天智譲りなのでしょう。
    理知的な、時には冷酷とも言える判断力を下せる人が、我が子草壁が絡むと、何ものを犠牲にしても構わぬと言う情に駆られてしまう、なんと凡庸な母になってしまうのか!

    見ていて歯がゆくてならぬ、我が子ながらじれったい草壁、この存在のために、一人の秀でた人材が葬り去られてしまった!
    以下妄想爆発します。
    (大津の母大田皇女は、実の姉ながら美しくたおやかで、妹の目から見ても魅力的な女性だった、そしてそんな姉にあこがれながら、いつも嫉ましかった!父の天智もこの姉には甘かった。妹の私にはおまえには政治的才能がある、天下を取るやもしれぬなどと本気とも冗談とも付かない接し方だったのに、姉にはただ甘かった。私は父が好きだった。父に褒められたくて、父の思うような生き方をしてきた。結果、私は父とその身内を滅ぼし、夫天武と共にこの都を造りあげてきたのだ。
    そんな私の息子が、なぜよりによって私と正反対のか弱い、よく言えばやさしい男に育ってしまったのか!なぜ私の強さを受け継がなかったのか!そして大津は、なぜあのように優れた魅力ある男に成長してしまったのか!
    ここに至って、神は私に試練を与えたもうたのか?
    大津の才能は私も大いに認めている。それ故に私は非情な手段を選ばねばならぬ。誰になんと言われようと、私は我が子がかわいい。やがて我が子が即位する日のために、私は可能な限りのお膳立てをしてやらねば。。。)
    等々、妄想は果てしなく続きますのでこの辺にしておきますが、持統さんの気持ちも立場も分からなくはないのです。

    次回は大来皇女VS持統天皇 なんていうのもありですか?
    あ、山辺皇女も傷ましいですよね。
    素足で髪振り乱し。。。という記述が残されているのですから、差し迫っていますね。
    ところで石川郎女は、大津にとってはお遊びだったのでしょうか?
    ああ、年度当初から楽しい妄想に耽らせていただきました。
    今年もよろしくお願いいたします<(_ _)>


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/01/06 06:22:30
    Re: 今年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m
    こちらこそ、今年もよろしくお願いします。
    初コメありがとうございます。
    文字ドッサリもやりすぎかと思っております。しかし写真で旅の思い出を記録するのも、屁理屈で旅の思い出を作るのも同じと、やらかしました。

    持統天皇の胸の内は全く同感です。書紀を読むと、古代律令国家の骨組みは持統のアイデアで、天武はそれを実行に移したのではないかとも、思えます。
    婦唱夫随。
    多分書紀は天武持統主導で、当時の現代史から書き始めたはずで、書紀にそうはっきり書いちゃえばいいのに、男社会である当時の雰囲気としては、書けなかったんですかね。それが持統のコンプレックスをまたねじ曲げた。
    吉野隠棲、吉野脱出なんか、絶対いい出したのは持統。

    大来皇女VS持統天皇は、ずーっと後になります。このシリーズの真打は大来皇女なんですが、それまでに太田皇女や、吉野脱出、近江脱出の話を入れるつもりです。

    また緊急事態宣言だそうです。我が家も息子一家は結局正月は来ない。
    1月の末、またgotoを使って行田と下野市に行く予定だったのですが、やめました。
    下野は前日光さんの縄張りですよね。
    言わずともお分かりかと、道鏡終焉の地旧下野薬師寺のまわりを自転車で走るつもりでした。
    孝謙天皇が道鏡を追って訪ねてきたという伝説のある神社があるそうです。行ってみたかったのに。

    ワクチン打ってもらって、コロナが落ち着いたら、リターンマッチです。

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