2020/12/05 - 2020/12/05
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しにあの旅人さん
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壬申の乱勃発。
大海人皇子(天武天皇)菟野皇女は、逼塞中の吉野から近江方の勢力圏である宇陀、鈴鹿山中を突破、北伊勢で軍勢を整えようと計画しました。
表紙写真は出発点吉野宮跡。
吉野脱出行を、日本書紀いけず読みで辿ります。
吉野脱出開始と同時、天武天皇は高市皇子、大来大津姉弟救出作戦も発動しました。
講談と思ってください。
時は天武天皇元年6月24日のこと、
この日の黎明4時30分、まだ深き吉野の川霧突っ切って、
天武の忠臣大分君恵尺(おおきたのきみ・えさか)、黄書造大伴(きふみの・みやつこ・おおとも)、逢臣志摩(あうのおみ・しま)、轡をならべて吉野宮発。
6時5分、飛鳥宮着。飛鳥守衛の高坂王(たかさかの・おおきみ)に、駅鈴を求めるも、交渉30分、高坂王これを拒否。
6時35分、志摩飛鳥発。吉野宮にもどって、「鈴は得られませんでした」と天武天皇に報告した。
同時刻、恵尺も飛鳥発、「馬を馳せて近江に行き、高市の皇子・大津皇子をよび出し、伊勢で落ち合えるようにせよ」との天武の命に従って、飛鳥の野に砂塵を巻き上げ、近江国大津宮までまっしぐらーっ!
ババン、バンバン、張扇の音!
当たり前ですが、ここで用いる時間表記は現代のものです。そもそも書紀には時間の記述はほとんどなく、時刻を特定できるのは日没くらいです。
六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
今回は特に椎屋紀芳(しいや・きほう)の「壬申の乱」にお世話になりました。
4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
書紀によると、天武元年(672年)6月22日直前と思われます。
近江方が兵の動員をかけ、吉野攻めの準備をしているとの報告を受け、それが事実であるとの確認をとったあと、
「(大海人皇子は)『私が皇位を辞退して、身を引いたのは、ひとりで療養につとめ、天命を全うしようと思ったからである。それなのにいま避けられない禍を受けようとしている。どうしてこのままだまっておられようか』といわれた」
このいくさは近江が仕掛けてきたモノで、吉野挙兵はやむにやまれぬ正当防衛だ、と宣言したのです。
これは極めて大事なポイントで、正当防衛でないと、単に近江の正当政府を武力で打倒して、政権を奪取したことになります。
正当防衛こそ、のちの天武政権の正当性の根拠です。
書紀には、このあと手を変え品を変え、予期せざる挙兵で準備もままならず、苦労したと書いてあります。
ところがこれがあやしい。天武は充分に時間をかけて、計画を立てている。椎屋の「壬申の乱」はあやしい根拠を分かりやすく説明しています。私たちは吉野脱出行だけを辿りますので、壬申の乱全体の計画性につては、是非この本をお読み下さい。 -
吉野脱出は、吉野宮から桑名郡家まで現代の道路で131kmあります。当時の道路だともっと長いと思いますが、旅程の距離の計算は、便宜上現代の道路で行います。つまり実際ではもっと大変な旅になります。
天武元年(672年)6月24日、
「この日、天皇は出発して東国に入られた」
とあります。長い道中を考えると、できるだけ早朝未明に出発しそうですが、大海人皇子は不思議な命令を出します。
「大分君恵尺(おおきたのきみ・えさか)・黄書造大伴(きふみの・みやつこ・おおとも)・逢臣志摩(あうのおみ・しま)らを、飛鳥守衛の高坂王(たかさかの・おおきみ)のもとに遣わして、駅鈴(駅馬使用のための公用の鈴)を求めさせた。恵尺らに語って、『もし鈴を得られなかったら、志摩はすぐもどって報告せよ。恵尺は馬を馳せて近江に行き、高市の皇子・大津皇子をよび出し、伊勢で落ち合えるようにせよ』といわれた。恵尺らは高坂王のところに行き、東宮(大海人皇子)の命を告げて、駅鈴を求めたが許されなかった。そこで恵尺は近江に行った。志摩はもどって、『鈴は得られませんでした』と報告した」
飛鳥守衛の高坂王の駅鈴拒否は、私は事実ではないと思っています。これはあとで詳しく。 -
大海人皇子がいたとされる吉野宮跡から、飛鳥守衛があったと思われる飛鳥浄御原宮まで、現代の道路で18.9キロです。当然馬を使います。馬の速度を時速16キロとして片道約70分+馬の休憩30分計100分、往復200分、交渉に30分として、志摩が復命するまで最短230分、3時間50分です。
時速16kmというのは、馬の巡航最高速度で、かなり無理して走ったことになります。
なお馬の速度は、これからも重要ですから、Yahoo知恵袋の乗馬専門家のお話などをまとめました。
馬の速度は並足6km、速歩12km、駆足20km、襲歩40km。
並足だけだと2時間歩いて30分休みを繰り返し、1日50-60km、この速度は毎日続けることができます。
急ぐ場合では、並足、速歩、駆足を交互にして、平均すると時速14-16kmくらい。頻繁に休ませることになります。これが馬の巡航最高速度。
古代官道の駅舎(駅家)はおおよそ16kmおきにありました。当時の馬の巡航最高速度で走れる限界においてありました。駅家で馬を乗り継いで情報を伝えたのです。
襲歩だと5分が限度、4-5km程度で馬は疲れ切り、その日はもう動けません。
要するに、馬は最もゆっくりでも2時間に1回30分、それ以上のスピードだともっと頻繁に30分くらい休ませないと、長くは動けないということらしい。
全力疾走、襲歩40kmで長く走り続けるなどというのは、映画の中だけです。
旧陸軍騎兵部隊の行軍距離の基準は1日40-60kmです。上記専門家と一致します。
天武元年6月24日は西暦672年7月24日です。奈良の日の出は5時01分、30分前には明るくなりますから、4時30分には馬を走らせることができる。4時30分に志摩が出発し、もどってきて大海人皇子に結果を知らせたのは早くて8時20分ころになります。
天武一行は改めて隊伍を整え、出発は9時。
高坂王が駅鈴を拒否したかどうかは別として、とにかく何らかの理由で脱出行の出発は遅れて9時になりました。遅れた理由は書けないので、これ幸いと駅鈴拒否されたことにして、「泥縄で駅鈴をもめさせるほど慌てていたのだ、挙兵は計画的ではない」という印象を読者に与えたい。 -
吉野宮跡です。現在はただの田んぼ、なにもありません。当時は田もなく、採れるものといったら吉野川の川魚くらい。「川魚は臭うてかなわん」By妻の親戚のばあちゃんが言ったそうです。
吉野川に沿って細長い平地があるだけで、周囲は山また山、大海人皇子がここに逼塞したとき、窮地に陥ったダンナを見捨てず、ついてきた菟野皇女はえらいと思いますが、このド田舎に暮らして、「おのれ大友の皇子、いまに見ておれ」川魚を食いちぎりながら、メラメラ怒りの炎を燃やしたのは理解できる。 -
脱出行のメンバーは大海人皇子(当時42才くらい)、菟野皇女(28才)、草壁(くさかべ)皇子(10才)、忍壁(おさかべ)皇子。
忍壁の生年は不明です。
手がかりは、壬申の乱直後、
天武3年(674年)秋8月3日、
「忍壁皇子を石上神宮に遣わして、膏油で神宝の武器を磨かせた」
皇子が自分で磨いたりはしなくても、幼児を使者に立てるわけはないので、ある程度の年齢のはずです。草壁(この年12才)を派遣していないので、年上かもしれません。忍壁は脱出の時10才以上と考えられます。
これからの強行軍に耐えられるか、年齢を書いてみました。大海人皇子夫婦は問題ない。草壁、忍壁もなんとかなる。なんとかしてもらいます。この脱出行は馬での長時間の移動ができないと不可能です。
同行は名前が書いてある11人+氏名不明10人余り計20人余り。加えて女儒(にょじゅ)10人余り。合計34人+余人ということになります。余人=4人で、38人にしましょう。
名前の分かる11人は、今後天武チルドレンとして活躍する若手です。氏名不明の10余人は、地元出身で道案内、斥候、伝令の兵士と考えるのが合理的。
女儒とは現場作業担当の下級女官です。したがって菟野や草壁、忍壁の世話係というイメージです。体力を考えるとこの一行の最大のウイークポイントです。でも考えてみると、強行軍が予想される脱出行に、足手まといになるのがわかっている連中を連れて行くはずがない。 -
大坂歴史博物館の女儒の娘さんたち。奈良時代聖武天皇の宮廷です。もっている大きな団扇のようなものは「さしは」天皇が出御したとき顔を隠すために前に差し出すそうです。この種の現場作業も女嬬の仕事です。
菟野皇女にしても、顔を隠す係や、たかが数日身の回りの世話をしてくれる女官がいなくてもこまらない。今後の自分たちの全てがかかるイチかバチかの旅に、そんなことを要求するモノ分かりの悪い女ではないはずです。
むしろ「1人ぐらい連れて行ったら」というダンナを遮って、「自分のことは自分でします。無駄をはぶきなさい!」と言ったくらいではないかと。
女儒は、菟野皇女の直衛護衛部隊ではないか。時と場合によっては菟野の寝室にまで入ります。女の護衛である必要があるのです。現代でも女性VIPの護衛は女性SPです。訓練された選りすぐりの女戦士は、体力は充分、武芸、騎馬にも秀でて、むしろこの一行の最強部隊ではないですかね。
菟野皇女の24時間警護、4人1組で3交代、10余人、ぴったりです。養成が難しい人材ですから、今後の長い戦陣の生活を考えて、1チーム連れていった。
書紀は女儒10余人とすることで、吉野脱出は予想だにせず、慌てて出かけたと、正当防衛のイメージを読者に与えたいのでしょう。
そうはいかない。女は女でも中身がちがう。
大坂なおみと吉田沙保里、阿倍詩級の女傑10余人!
これは昨日今日で集められませんぜ。オリンピック養成学校かなんか設立しとかないと。ウーム、それだけで計画的犯行と考えられますなあ。
By妻 -
一書に曰く、
吉野脱出行は、天武天皇、いやこの時はまだ大海人皇子でした。その奥さん菟野皇女のファミリーが、近江朝廷と対決をする壬申の乱の幕開けなのですが、そこになぜか、忍壁皇子という名前が見えます。
忍壁皇子は菟野の皇女の子供ではありません。天武天皇の第四皇子とも、第九皇子とも言われていますが、生年月日も分からないので、いろいろ想像が働くところです。
実は、高市の皇子の次の男の子で、この時はすでに役に立つ頼もしいお兄ちゃんだった説。一家の夜逃げに親戚の兄ちゃんが手伝いに来たって感じ?
もうひとつは、まだまだ赤ん坊だった説。これは、隣の奥さんが急な用事で、子供を預かっていたら、その間に逃げないといけなくなったので、連れて出たって感じ?
とにかく、なんでアンタが、菟野皇女ファミリーにいるの?なのです。
お兄ちゃん説は、確かに、高市の皇子が19才で、次が大来皇女11才くらいなら間が開きすぎです。あんなにいっぱいあちこちにファミリーを持った大海人さんがね。ちなみに天武天皇は、分かっているのだけですが、10人奥さんがいます。子供も多いです。男の子は10人。対して天智天皇は、4人の男の子です。その代わり女の子は10人。
でも、ともかく第四皇子、第九皇子と言われています。
やがて壬申の乱が終わると、天武天皇は、小さなばらばらだったファミリーを、天武ファミリーとする結成式を行います。それが吉野の盟約。
天智側からも、志貴皇子と川島皇子が参加します。
そのとき、天武側からは、四人の皇子が参加しますが、ご存知、高市、草壁、大津のビッグスリーの次に、忍壁皇子の名前もしっかりあります。オッすごいじゃないか!ですが、たぶん、他の6人の皇子は、まだ幼児か、生まれていないかだったんじゃないですかね。と言うのも、それから忍壁皇子は、ぱったり。705年に亡くなるのですが、その晩年近くにやっと、活躍し始めます。高市皇子が亡くなった後の皇族のトップだったようです。大宝律令の筆頭編纂者です。
忍壁皇子は持統天皇に嫌われたと言う噂も。
えっえ~!あの辛い吉野脱出をともにしたのに?それは、ないでしょ。
ところが、あることを、私は見つけちゃったのです!
なぜ、吉野にいっしょだったのか?
なぜ、第四皇子とも、第九皇子とも言われるか?
そして、なぜ、持統に嫌われたのか?
こたえは、忍壁皇子のお母さんにありました。
お母さんは、宍人臣大麻呂(ししひとの・おみ・おおまろ)の娘で、かぢ媛娘(かじひめの・いらつめ)という人でした。この人は、なんと、大海人皇子の身の回りの世話をする宮人(くにん)だったのだそうです。
よっぽどお気に入りだったのか、忍壁皇子は4人兄弟です。10人の奥さん方のうち一番の子持ちであります。
おわかりでしょう?持統さんに嫌われるわけだ。
大海人さんは、吉野にもこの女性を連れて行ったのですよ。だから、その子供も一緒だったわけ。ま、その当時から、忍壁皇子が、皇子だったかは、わかりませんが。
天武2年2月27日のファミリー一覧表に、彼女と4人の子供の名前がありますから、正式の妻に認められました。この時から、忍壁皇子は皇子になったのか、それとも生まれたときから皇子扱いだったのか、今はわかりませんが、皇子の中でも身分の低い、格下扱いだった事は確かです。
高市皇子のように、戦功もなければ、実家が豊かとかいうこともなかったでしょうし。
ということで、なぜ、吉野脱出行にいたか?ママが大海人の召使いだったから。
なぜ、第四皇子とも、第九皇子言われたか?生まれた順は、四番目。皇位継承権が九番目。
なぜ、持統天皇に嫌われたか?言うまでもないこと。
以上です。全て解決でしょう。ウフォフォ。
えっ?女儒は、女戦闘士だったはず、、、
そうですよ。いけないんですか?愛人が強くっちゃ。
ダルビッシュさんは、モデルの美女から、レスリング選手の美女に取り替えましたけど?
By妻 -
書紀6月24日前続き、
「ことは急であったので乗り物もなく、徒歩でおいでになった。思いがけず県犬養連大伴(あがた・いぬかいの・むらじ・おおとも)の乗馬に出会い、それにお乗りになった。皇后は輿に乗って従われた。津振川(つふりかわ)に至ってはじめて乗馬が届き、これに乗られた」
ここでははっきり「ことは急であったので乗り物もなく、徒歩でおいでになった」と、正当防衛の印象操作です。天皇が歩くくらいなんだよ、準備なんかしていない。
すぐに県犬養連大伴の乗馬に出会ったけれど、「思いがけず」だからね。
県犬養連大伴は脱出初期メンバーですから、苦しい言い分けです。 -
宮跡近くにあった壬申の乱案内板です。
吉野宮から津振川にいたる経路には諸説ありますが、最短距離は矢治峠越えです。
津振川は現在はダムができて津風呂湖、上流は津風呂川となります。
天武一行は吉野宮を出て、吉野川沿いに菜摘、そこで矢治峠を越えて津風呂川に出た、と案内板には書いてありました。峠は急ですが、直線距離は400mくらいです。 -
矢治峠直下の県道370号より吉野川。当時もだいたいこの道筋をとった。吉野宮より2.1kmです。輿などというかったるいものを担いでいるので1時間とします。10時着です。
ここまでは、菟野皇女は書紀のいうとおり輿、護衛の女戦士もおとなしく飛鳥の女官風の衣装。 -
これですね。
しかしこれでは絶対山に登れません。その後の馬の旅も不可能です。
逆に言うと、この出で立ちで吉野宮を出たら、近江の監視はまさかこのまま北伊勢まで脱出するとは思わない。
吉野川の川原で薬狩り(薬草狩り)をするとでも言っておけば、無警戒です。 -
矢治峠はこの山を登ります。現在は倉庫などがあり、景色はちょっと残念。
-
斜面は急です。
ここで一行は山に入り。あらかじめ用意しておいた旅装束に着替えます。
この場面、映画にしたら、かなりいい映像になります。
まず10人あまりの女戦士は女官の衣装をかなぐり捨て、男装、武装します。菟野皇女も同じ。衣装換えを手伝おうとする女戦士の申し出を断り、自分で着替えます。「お前達こそいそぎなさい」
薄暗い木立の間に見えがくれする十数人の白い・・・バチっ、By妻がぶった!
男達は天武自身も弓矢を構え、見張りに立ちます。ついで武装終わった女達が見張りを替わり、男達が旅衣装に着替える。甲冑を身に纏うものもいたでしょう。
菟野皇女28才、だれが演じるか。美人ではないが、度胸よく頭はきれる。
天武天皇42才、身長175cm、だれにしますかね。
いかがでしょう、吉野脱出行を映画にするなら、この場面のアイデア、吉野葛1ダースでお譲りします。 -
入野トンネル手前の高台から。谷間の奥が菜摘です。
-
矢治峠へ昇る山は、距離はともかく傾斜は急です。
「壬申の乱」の椎屋は実際に上ってみたそうです。
「四つん這いになって攀じ登らねばならない、険しい所が何箇所か控えている」 -
矢治峠を越えると春日神社があります。
中世南北朝時代の創建ですから、天武一行がここに降りてきたときはまだありません。 -
山の斜面は相当急です。斜面の白いのは、ゴミではなくホオの葉。
-
しかし稜線からの距離はそれほどないようです。登りよりは楽そうです。
-
下りはこんな感じになるということ。
-
しかし津振川はまだ下です。道路のむこう、光っているのは湖面。現在の津風呂湖まで垂直30mくらいでしょうか。
地図を見ると吉野は飛鳥から遠くない所のように思えました。なのに古来この地は逃亡者をかくまう土地なのです。
天智天皇の皇后、倭姫の父、古人大兄皇子もここに逃げ込みました。
後には義経が逃げ、後醍醐天皇も逃げ込んだ土地です。
今、人一人いないこの神社に立つと、昔も変わらずに川のせせらぎが聞こえたのだと思います。この静けさは、ときの権力者に刃向かう男達の悔しさ、焦り、敗北感、執着、憎悪、野望・・・あらゆる男の怨念を包み、慰め、いたわり、そして力づけたことでしょう。
追ってくるものたちから堀を巡らし、壁を立て、狩られるものを護った吉野の自然でした。
しかし残念なことに、都からの距離の近さゆえか、ほとんどの逃亡者は再び立つことはできませんでした。天武天皇を除いて。
By妻 -
おそらく、天武一行が降り立った、現津風呂湖底の津振川は、こんなものであったでしょう。
短いとはいえ急な峠越え、着替えを含めて所要1時間。11時着
「皇后は輿に乗って従われた。津振川(つふりかわ)に至ってはじめて乗馬が届き、これに乗られた」
菟野皇女が輿に乗っていたのは矢治峠の下まで。無名の10数人が担いできたのでしょう。近江方の監視をごまかすにはいい手段でしたが、本職は兵士。慣れない輿かきで、乗っている菟野皇女はさぞ乗り心地が悪かったはず。
「あなた、降りたいわ」と天武に言っても「だめ、もうちょっと」
輿はここで放棄です。峠を越え、津振川にいたって馬に乗ります。
ここで書紀はボロをだしています。
ここにちょうど馬が届いたということは、事前に準備されていたのです。しかも1頭だけもってくるはずがない。事前に、目立たないように数十頭、人数分ここに用意しておくでしょう。現在でもこのあたりは人家のない目立たない場所です。
でもそうはっきり書いちゃうと、事前準備がばれてしまいます。 -
春日神社にあった説明板。
「(天武天皇は)御峠を越えてこの地にいたり、(中略)ふる里の先人たちは車駕につき従ったと伝えている」
こういう伝承がありました。車駕を「馬を用意した」と読み替えます。
ここから桑名まで、自動車ですが全行程走ってみました。矢治峠越えは、短いけれど、最大の難所です。ここを越えれば、旅路の地形そのものはそれほど困難なものではありません。
さあ、全員乗馬、行軍の始まりです。
草壁、忍壁はまだ少年、吉野での半年の間に、乗馬を仕込まれた。3人が馬に乗れないと、脱出行そのものが不可能なので、菟野はビシバシと訓練させたでありましょう。おそらく菟野自身も。3人必死のお馬の稽古でありました。
菟野はこのとき、我が子草壁の鈍さにうんざりしたのではないか、と邪推しております。「運動神経の鈍い私でさえなんとか乗るのに、この子ったら・・・」と思った。
行軍中菟野は特にやることはないので、主に2人の子供の世話。続く小言に、辟易した2人の皇子。
乗馬の準備、行軍の手順を決め、着後すぐに出した斥候の報告を聞き、出発までに1時間。
斥候、偵察は非常に重要です。進路少なくとも数キロ先まで複数の騎兵を先発させ、その報告を待って動く。これは確実にやったはず。相当数の馬が絶対に必要なのです。
12時発とします。 -
書紀6月24日続き
「その日に菟田の安騎(奈良県宇陀町)に着いた。大伴連馬来田(おおともの・むらじ・まぐた)・黄書造大伴(きふみの・みやつこ・おおとも)は吉野宮から追ってかけつけた。このとき屯田司(みたの・つかさ)の舎人土師連馬手(はじの・むらじ・うまて)は天皇の従者の人々の食事をたてまつった」 -
「菟田の安騎」は現在の阿紀神社とされています。春日神社から、現代の県道256で13.7kmです。標高差約160mのゆるい登りです。
春日神社からは馬を疲れさせないように並足時速6kmとなる。
「屯田司の舎人土師連馬手は天皇の従者の人々の食事をたてまつった」
とあります。40人弱の食事を簡単に準備出来るはずがない。事前に知っていて、準備していたのは見え見えです。
「ことは急であったので乗り物もなく云々」つまり「事前の計画なんかないんだよ」という書紀の言い分は、書紀自らボロを出している。 -
阿紀神社
「大伴連馬来田・黄書造大伴は吉野宮から追ってかけつけた」
大伴連馬来田は、大伴一族の首長です。大海人皇子の吉野脱出に先立ち、弟の吹負(ふけい)と共に近江から本拠地の飛鳥に帰っていたようです。
書紀日付不明、
「このとき大伴連馬来田・弟の吹負は戦況の不利なことを知り、病と称して大和の家に退いた。そして皇位をつがれるのは、吉野におられる大皇弟(大海人皇子)であろうと思った。そこで馬来田はまず天皇に随っておき、吹負だけは止まることにし、一気に名を挙げて災いを転じようと思った」
「戦況の不利なことを知り」というのは、まだ戦いが始まっていないので変ですが、はじまれば大海人皇子が有利だと馬来田は計算した。
その馬来田が大海人皇子吉野脱出と同時に行動をおこしたのは、誰が見ても事前に打ち合わせがあったということです。
馬来田は相当したたかな人物のようです。手土産なしに黄書造大伴と2人で大海人皇子に随ったところで大した手柄にはならない。
吉野の監視役が発した、天武一行が行方不明になったという伝令が近江に駈けるのを阻止した、という設定はいかがでしょう。
現県道169と256の交差点あたり、吉野の谷からの出口で網を張っていれば、吉野からの伝令はここを通ります。これを阻止する。
10時頃天武一行が矢治峠下で姿を消して、12時頃それを知った吉野の監視役が第1報を近江に送ったとすると、吉野-近江は現代の道路で約69km、駅路の早馬システムを使えば4時間半くらいで近江はそれを知ることができます。24日夜には対策を立てることができたはず。
書紀は近江方がいつ大海人皇子の吉野脱出を知ったか書いていないのですが、最初の反応は25日午前中のようです。吉野の監視役が、第1報が阻止されたのを知ったのが24日日暮れとすると、夜は馬は走れませんから、翌朝黎明4時すぎにに第2報を出せば10時ごろ近江着、計算はあいます。
吉野から近江への少なくとも第1報をだれかが阻止したのは確実でしょう。
馬来田が14時ごろまでに阻止に成功して、手勢の騎馬隊を率いて現県道256を走れば22kmで阿紀神社です。昼食中の大海人皇子一行に1時間半で追いつきます。
馬来田根拠地の飛鳥からではなく、「吉野から追ってかけつけた」と書紀が書いている。意味深です。故意なのか、ボロなのか。
ただしこれ以上は書紀は書けない。事前共同謀議そのものです。
安騎で大海人皇子は最低数十騎の騎兵を手にしたはずですが、これも書けない。
弟の吹負はこのあと壬申の乱大和戦線で大活躍するのですが、最初は兵力不足に悩んでおります。大伴の親分の弟なのに情けないと思ったら、兄が手勢を根こそぎ連れていったとすると、つじつまがあいます。 -
神楽岡神社
「甘羅村(かんらのむら、宇陀町神楽岡か)を過ぎると、猟師二十人余りを見いだした。大伴朴本連大国(おおともの・えのもとの・むらじ・おおくに)は猟師の首領であったので、ことごく召して一行の仲間に入れた。また美濃国の王(豪族)を召された。するとやってきてお供に加わった」
甘羅村は現神楽岡神社とされているそうですが、「かんら→かぐら」と音が似ているというのが理由で、比定地とするには若干根拠薄弱。 -
阿紀神社のすぐ近くです。直線だと約850m、歩いて1km、13分くらい。
猟師20余人合流とあります。猟師だと、地元の地理に詳しく、道案内、斥候に最適です。弓の名人もいたでしょう。
地理に明るい猟師の参加は、だれがみても偶然ではなく、事前にしっかり計画されていた。
「美濃国の王」とは何ですかね。突然ここに出てきて、その後音沙汰なし。そもそもなんで美濃国の王がここにいるのだろう。吉野脱出行中の最も不思議かつ不要な人物です。
長く止まることなく、すぐに行軍は開始されたとします。
大宇陀の町並みはきれいで、いい雰囲気。ゆっくりしたいところです。
でも天武さん一行は出発しちゃったので、私たちもあとを追います。 -
書紀6月24日続き、
「湯沐(ゆ、大海人皇子の領地)の米を運ぶ伊勢国の駄馬50匹と、菟田の屯倉のあたりで逢った。そこでみな、米を捨てさせ、徒歩のものを乗らせた」 -
「菟田の屯倉」はどこか確定されていません。榛原小学校の近くという説が有力だそうです。
-
小学校は丘の上にあり、校門の前から榛原市街が見下ろせます。このどこかであったのかな。
-
神楽岡神社-榛原小学校、7.7km、標高差54m、ほぼ下りです。
私たちの推定ではここにくるまでに全員馬ですが、今後の長旅に備えて換え馬は必要です。書紀のいうとおり荷物を捨て、鞍をつけるのに時間がかかる
え~~~、50匹用の鞍は用意してあったということですね!!!
完全に事前に打ち合わせた作戦です。 -
近鉄室生口大野駅。
書紀6月24日続き、
「大野に至って日が暮れた。山は暗くて進むことができない。その村の籬(かき)をこわして燭(ひともし)とした。
大野とは現近鉄室生口大野駅付近だそうです。 -
榛原小学校から8.2km。
7月24日の奈良の日没は19時05分です。それから30分で真っ暗となるでしょう
春日神社から全員馬、並足でやってきて、19時35分着。
春日神社以降ここまで31.1kmです。馬の時速6km、5時間11分、30分休憩2回1時間、所要時間計6時間11分。春日神社12時発大野19時35分着ですから、1時間24分で安騎での食事、甘羅での猟師との合流、菟田の屯倉で馬50匹の鞍の付け替えなどをすませれば、忙しいけれど、できなくはないスケジュールです。
書紀のいうとおり、予期しない出発で、女儒は旅の訓練も受けていない、ただの菟野の世話係、草壁、忍壁も徒歩、馬は天武と菟野の2頭だけとすると、行軍速度はもっとも足の遅い女儒あるいは子供2人となります。時速3kmとして、徒歩10時間20分、1時間に1回15分の休みを10回とると2時間30分、
安騎や菟田でのイベントの所要時間は馬と同じ1時間24分として、計算上翌25日2時14分大野着となります。
後述しますが、この夜月の出は深夜24時過ぎ。19時35分に真っ暗になってからは、それまで夜道は歩けません。「山は暗くて進むことができない」と書紀が自分で言っている。「その村の籬(かき)をこわして燭(ひともし)とした」というのは大野以降です。
午前2時14分大野着も実は不可能です。
この日は西暦だと7月24日、夏の酷暑は始まっております。晴天なら路上温度は40度、曇りでも30度は下らない。休憩はより頻繁に取る必要があります。翌25日2時14分までに着ければ、いい方でしょう。
いい方どころの騒ぎではなくて、女嬬など熱中症でバタバタ倒れ、とても辿り着かないというのが、まともな推定です。吉野脱出行は初日であえなく失敗となります。
結論、最初から、全員馬だったのです。
馬でも大変な旅でした。酷暑の7月24日ですよ、大野に着いた時は全員汗みずく、馬のたてる土埃を全身にかぶる。汗がノリになって埃が肌にこびりつき、天武天皇だろうと菟野皇女だろうと、顔なんか、目以外真っ黒けのはずです。
現在この近くに室生大野寺がありますが、周囲には宇陀川が流れ、河原があります。
「その村の籬(かき)をこわして燭(ひともし)とした」とありますが、その灯りでまず全員河原で顔を洗ったでしょうね。
菟野皇女は「自分のことは自分でする」と啖呵は切ったけれど、河原で顔を洗ったことはないはず。川に落ちなければいいけれど。
人ごとですが、汗と埃にまみれて、着替えたかったでしょうね。べとべと、ごわごわですよ。着替えなんか持ってきているのでしょうか。どうやって運んでくるか。人数分の馬+荷運びの馬が絶対に必要と思いませんか。
私ならこの河原で着替えます。ついでに水浴び。
女儒の水浴びが出ると思ったでしょう。出ません、またBy妻にぶたれます。 -
室生大野寺近くの磨崖仏と宇陀川。
(以下3枚奈良県ホームページより) -
正面が磨崖仏。後鳥羽上皇の勅願により造立されたそうで、天武一行がここを通った時には、残念ながらまだありません。
水浴びするにはいい河原です。 -
菟野皇女が落っこちたという川の流れ。ウソです。
この景色を独り占め、いや二人占め!
ぜいたくの極みでした。
By妻
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この旅行記へのコメント (15)
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- kummingさん 2021/02/03 16:11:02
- 2度目のカキコT_T ”ごひれんち“
- ログインしてるのに、投稿したらログインして下さい?ログインしたら、入力文字が消えていた(TT)
「禁止とは書いていない♪」と力強く歩を進めるby夫の後ろ姿に惚れ直しつつも、明日の朝刊赤抜きスクープ記事が気になるby妻さん、多分誰も、そして2度度は拝めない復旧工事中の貴重な古墳にお目にかかれるという僥倖に恵まれ、ご夫婦の仲睦まじさも一層深まるという展開で、めでたい哉^ ^
という事で(←話題を変える前置き)、例によって本ブログとは直接かんけいない、けど、わたくし的にinspire された関連記事について少々お時間を……←って割に長い(ーー;)
西暦660年、唐、新羅連合軍の侵攻により、長年日本と深いつながりを保って来た百済が滅亡、百済からの救援要請に応え、天皇は救援軍を編成陣頭指揮を取る為、中大兄王子、大海人皇子、文武百官を率いて難波~海路、筑紫~博多に至り、大本営となる朝倉橘広庭宮を造営したのは661年5月。が、斉明天皇はわずか2ヶ月滞在75日御歳68歳で病の為崩御された。
斉明天皇の陵墓は奈良にありますが、福岡県朝倉市恵蘇八幡宮裏手の御陵山は斉明天皇のごひれんち(漢字変換出来ません(;o;)「ごひれんち」とは、ご遺体を本格的に埋葬するまでの間、仮に安置するところ。斉明天皇はここ朝倉の地で崩御され、後に奈良の地に埋葬された。
- kummingさん からの返信 2021/02/03 16:45:16
- 誤送信しちゃったT_T ので、続”ごひれんち“
- この朝倉市は実家から近いので、少し暖かくなったら現地ルポにで向こうかな~、と秘かに(と書いた時点で秘かではない?)企み中。
しにあさんの旅は、いつも企画段階でブログのシナリオが出来ていて、それに沿って実際に必要な場所を訪れ、写真を撮り、数多の史料を読み込み、数字的根拠、証拠をつみあげる、という壮大な営み(°_°)その熱意と根気、費やされた膨大な時間と労力、匠の技を、私たち読者としては、す~っと読み流すワケにはまいりませぬ。てか、そんな事しようものなら????この件につきましてはまた次回(^ ^)(←しにあさんのまね?)
日本で初めて火葬されたのは持統天皇だった?しにあさんによるとフランスは土葬で、イスラム教徒も土葬らしい。死者は土に帰って骨になった後、終末の時に元の身体で蘇る、と信じられているのだとか。宗教によって、終末観によって決まるのでしょうか?コロナ禍で死者の棺桶が所狭しと並べられていたイタリアの教会、あれらはあのまま土葬?ブラジルのコロナ禍死者は、棺桶並べた墓地に穴が掘られていたから、土葬でしょうね。
最後にもう1つ。万葉のふるさと明日香は仏教の平和思想と特別な縁があり、明日香という地名は古代インドのアショーカ王に由来する(と、唱えている人がいる)。アショーカを訳すと「無憂」。明日香という地名には古代人の思いが込められていて、仏教を平和実現の手段として掲げた聖徳太子の17条の憲法はアショーカ王の思想によって作られた(という説あり)。
(アショーカ王は、前半生を戦争と殺戮に明け暮れた事を虚しく思い、後半生は仏教によって国を治め平和をもたらしたという伝説ある王様)
めちゃくちゃ長~~くなりましたm(_ _)m次回は“歴史は勝者に作られる(捏造とも)?をテーマに時代考証してみたい♪
↑カキコの予告(笑)
- kummingさん からの返信 2021/02/03 16:51:48
- 書き直したので間違えましたm(_ _)m
- ↑は、この1つ前のブログに書いたカキコでした(TT)
膨大な文字が一気にに消えた後の衝撃で、投稿場所を間違えまして、ごめんなさいm(_ _)m
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/04 06:36:07
- Re: 2度目のカキコT_T ”ごひれんち“
- おはようございます。
福岡はBy妻一家のお墓があり、九州は毎年行っています。4トラのブログを始める前が多かったので、写真がほとんどなくて残念。当時から神社は一宮参りをやっていたのに。
福岡もいっぱい神社は行きましたが、当時は古代史はまだのめり込んでいなかった。今だったら朝倉宮なんて絶対行ったのに。
あのあたりは斉明天皇と神功皇后がごっちゃになって、面白いところです。諸国神社参りの長門国でちょっと調べ始めてら、収拾がつかなくなりそうでやめました。
朝倉宮のレポート楽しみにいています。斉明天皇は日本史上最大の女傑、おばさん、おばあさん。インタビューを、kumming節で聞かせてください。
それにしてもコロナが収まらないとどうにもならない。
亀の子作戦、飽きたなあ。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/04 07:04:34
- Re: 2度目のカキコT_T ”ごひれんち“
- ログインだかログハウスだか知りませんが、私も何度も被害に遭っています。近ごろは、全文コピーしてからポチッをするようにしています。
イタリアの教会では通路にお墓があるでしょう。なんとかの墓て書いてあって、モザイクかなんかで絵が書いてあったりする。このあたりkummingさん詳しいですよね。
私はキミ悪いし、お墓踏むっていうのがどうしても理解できないので、必ず避けて通りました。イタリア人、ていうかヨーロッパ人らしきコーカソイドの連中は、平気で直進していました。わからないな、あの感覚。そもそも人が通る道筋に墓なんか作るなよ。
あと石棺の上に個人の彫像を寝かせるでしょう。あれもやな感じ。往生際悪い。
火葬で、きれいさっぱりバイバイというのが、潔くていいと思うのですが。
持統さんは、役回りとはいえあまり贔屓ではないのですが、火葬にしろっと言い切ったキップの良さがいい。こう、キリッとした、江戸弁でいうところの「小股の切れ上がったいい女」でなかったかと。天武さんが惚れたのも理解できる。
それではコピーしてから、ポチッします。
- kummingさん からの返信 2021/02/19 12:53:49
- あ、しょ~か!
- ↑また、しょうもない事を(ーー;)
しにあさんご夫妻は確かアッピア街道行かれましたよね?道の両側にお墓がずら~りだったのでは?
持統天皇、やり手だった上に女って事も相まって、出る杭打たれ易いタイプなんじゃないかな~、と、庇いたくなります。
わたしんちにコメント頂いたお返事する前に、長くなりそうなので、こちらに分割(←ブログ分割案にヒント貰い)
しにあさんお住まいの地域では、先日の地震の影響はありませんでしたか?
昨日福岡は雪が積もりました。暖房用の薪を切ったり、サイクリングして、足腰鍛えていらっしゃるしにあさんに倣って、私も筋力と金力、蓄えなきゃ~^ ^
脚力の衰えを感じるこの頃です。では、続きは後ほど~♪
-
- 前日光さん 2021/02/03 00:32:15
- そりゃあ、やっぱり菟野皇女は。。。
- 尾野真千子さんでしょ!
あの激しい感じ、菟野皇女を演じるのは彼女しかいませんよ。
しかし大海人皇子はどうしましょう?
見た目イケメン、女性には特に優しく。。身長175㎝、うーむ、声の良さで竹野内豊?でも、なんか違うなぁ?
でも染谷將太だって、え?信長やるのー?だったけど、いつの間にか様になってるから大丈夫かな?
大田皇女は、どなたがよろしいでしょう?
儚げな美人って、なかなか浮かんできませんよ。
学生時代の中古国文学講義の時間、友だちとよく源氏物語のキャスティングをして楽しんでいました。
あのころ、夕顔は島田陽子さんだよねなんてやってましたが、もし島田陽子さんが今現在若かったら、大田皇女なんていいと思うのですが。
いやぁ、勝手にキャスティング、楽しいですねぇ!(^^)!
大河でこの時代、やればいいのに。。なんていつも思うのですが、今さらお金はかかりそうだし、古代の皇室の乱脈な人間関係を描くのは、国営放送となれば難しいのでしょうね。でも戦国時代と近代日本の幕開けは、かなり飽きてきているのですが。
やはり信長・秀吉・家康というのは、扱いやすいのでしょうね!
話が逸れましたが、天武さんはむろん近江側が攻めてきそうだからという大義名分で立ち上がった、といったところでしょうね。
でも菟野皇女は、天武ちゃんと二人きりになれたこの吉野時代、一番好きだったんじゃないかな?ほんのしばしの愛おしい時間だったのでは?
それにしても女性陣のお着替えシーンですか。
これぞ妄想爆発!ですね。
考えたこともなかったですが、by妻さんに賛成!パチッと平手で(^^;)
それと、天智さん、誰にしよう?と今、大いに悩んでいるところです。
割と天智さんが好きだったりするので(^_-)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/03 07:18:27
- Re: そりゃあ、やっぱり菟野皇女は。。。
- 大河ドラマの限界は、始まった時に結末がわかっているからですよね。古代だと、死んだってことが分かればいい方で、それも年月だけなんてザラです。
大来さんだって、伊勢から帰ってきたあと、701年に死ぬまで何もわかりません。万葉集の歌がありますが、年代わからないし、なんとでも解釈できる。波乱万丈のドラマ、作ろうと思えばできます。
実は、それをちょっとやってみます。その後の大来ってやつ。材料は集まった。あとは味付け。
キャスティング、楽しんでいただけると嬉しい。コロナ亀の子作戦中のみなさん、食事の時の話題になるといいな。
どっちに転んでも害はないし、頭の体操になります。
源氏物語の配役を、教授が講義の中でやればいいのに。学生さん、食いついてきますよね。試験問題は「六条御息所をXXにする理由を述べよ」「若紫は誰がいいか」など。教科書ノート、女性週刊誌全部持ち込み可。
By妻も元国文科ですが、ハタチの小娘に源氏がわかるはずがなかったといっています。まともにやったらそうなりますよね。そこでキャスティングを考えさせる。グッと身近になるはず。
やっている先生いますかね。
天武さん一行はやっと出発しました。このあと大来さんたちも合流して、にぎやかにやるつもりです。
-
- mistralさん 2021/02/02 19:28:45
- 楽しみなイケズ読み。
- しにあの旅人さん
こんばんは。
日本書紀など実際に読んでもいない私などがコメントをお寄せするのは
申し訳ないと思い、一旦は静かに引き下がっておりました。
しかし、しにあさんの綿密な検証の結果が書かれましたこの旅行記から、
ももであさんがお寄せになったコメントから、
又、私も今回、大友皇子の妃の都落ちなどで壬申の乱に興味を持ち
あれこれ本を読んでみたりしますと
どうも私の直感が、正史ではカモフラージュされた真実がありそうだ、と
ささやきかけています (どれほどの直感かは??ですが)
単なる滅ぼされた方に対する判官贔屓かもしれませんが (笑)
私も大友皇子は短い時期ではあったけれど天皇になっておられた説に、賛成です。
天皇が、謀反を企てている反対勢力を成敗に乗り出すのは当たり前でしょう、
と思います。
それでも、百戦錬磨の天武さんには、大友さんは
どうやっても勝ち目はなかったのでしょう。
そもそも、天武さんの出生についてははっきりわかっておらず、
本当に天智天皇とは兄弟?年齢も弟であるかもわからない、、、
更に、公称より天武さんは早く亡くなっておられ、大津皇子の天皇即位説などなど
入り乱れている事がわかり
ちょっとワクワクしてきます。
過去に起こっていたかもしれないことを想像、創造する楽しみ?!など
しにあさんのイケズ読みから、大きな風穴を開けて下さるよう
楽しみにしております。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/02 19:53:00
- Re: 楽しみなイケズ読み。
- 日本書紀ファンがまた1人増えました。同好の士の増殖、嬉しい限りです。立派な現代語訳がありますので、ぜひお読みください。いかなる解説より現物に当たるのが一番いい。
私のを含め、古代史ブログには妄説怪説色々あります。こんかいつくづく分かったのですが、こういう時の頼りのウイキペディアにも間違い、古文漢文の誤訳があるのです。
なんといっても原典にあたる。現代語訳大いに結構です。
直感、正しいですよ。By妻なんて、直感だけの生き物ですが、これが鋭い。日本女性は多かれ少なかれ卑弥呼の末裔です。ぜひ直感でやってください。
書紀はウソとホントの混合体ですが、そこは女の直感で見抜くのです。
数字と妄説、実証主義とロマン主義で大来大津の秘密に迫ります。By妻など腕によりをかけております。期待しないでお待ちください。
-
- ももであさん 2021/02/01 22:07:47
- 令和の禍
- 昨年末に大津市役所のすぐ裏手にある弘文天皇のお墓にご挨拶に伺う機会がありました。そのついでに身の丈参号機で10分の距離にあるパパのお墓へも。インタビューではお二人ともいまだに悔しいそうです。
> ところがこれがあやしい
ぼくもそう思います。そもそも大友皇子ちゃんに仮にも出家した叔父さんに挙兵する必要などあったのか? 大海人皇子さんこそ正当防衛の体で吉野を出立し、実は土地勘のある美濃で朝廷がかき集めた民兵をそのまま掠め取り、関が原を本陣に反乱軍を指揮したってことですよね。家康も壬申の乱を猛勉強したのでしょうか。
いずれにせよ叔父さんの調略・諜報の周到さ、ご近所豪族への巧みな人心掌握術。経験値の違いで勝敗は決まっていたってことなのでしょう。時の天皇を自死に追いやった叔父さん。「ろくな人間(672)でない大海人皇子」って覚えたものです。でも歴史上結果的には天智・天武の超強力な兄弟天皇の出現で、日本の中央集権・天皇体制が確固たるものとなり、外圧にも耐えうる基盤ができて良かったのかも知れませんね。
琵琶湖 瀬田の唐橋と壬申の乱... あの付近で時々カヌーをします。その度に1350年前に起こった血みどろの最終決戦を妄想します。時々川に落っこちた菟野皇女の亡霊が流れ着くそうです。江戸時代「急がば回れ」の故事が生まれたのもここ瀬田の唐橋。しじみ汁が美味しいのも瀬田の唐橋。京滋にいるとさまざまな歴史・文化を目の当たりにします。
そして時は流れ、令和の新型コロナ。ババン、バンバン、張扇の音!
図らずも私達はその生き証人になりますね。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/02 05:49:32
- Re: 令和の禍
- 日本書紀の面白いところは、ウソとホントがまぜこぜになっているところです。ケンゴシ塚古墳も、書紀に書いてあるとおり太田皇女のお墓が出てきちゃって、「うっそー!、ホントのことも書くんだ」みなさん驚いた、「じゃ、ほかもホントなんじゃない?」
なんか、1300年後くらい先を読んで編集したような感じ。
恵尺のお墓も九州大分から出てきたし。こういうふうにディテールから事実を積み上げられると、全体を疑いにくくなるのです。
そこを細かい時間計算で、穴を開けようと、根性曲がりを楽しんでおります。
イケズ読みまだまだ続きます。
「イケズ」京都語ですよね。使い方、あってますか?
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/02 06:09:40
- Re: 令和の禍
- 瀬田川の菟野さんの亡霊ですが、吉野にダンナと行く前の話ですか? 唐橋の決戦の時は、彼女は桑名で髪振り乱して米俵の発送をやっていたころです。
-
- チーママ散歩さん 2021/02/01 13:19:15
- シャーロック・ホームズ様
- こんにちは。 お待ちしておりました。
これだけ科学が発達しても時間を戻し、歴史を遡る事はできませんが、先輩は様々な書物を読み解き、まるでその時代を生きたかのように歴史を実証するミステリーハンターのようですね。
現場に足を運び時間軸を遡り、距離と移動手段(馬)の走行能力まで調べ・登場する人物の年齢、関係性・生い立ち・女儒の正体まで暴き、書記のボロまで見つけ出す。
ただ者ではないことは存じておりましたが、さながらシャーロック・ホームズのようです。
私の妄想くせより、はるかに上を行かれ、今度は映画まで製作ご予定ですか?
お着物のお着換えシーンでは奥様の平手をかわし・・(切れず)。
絵コンテで妄想。バシッ☆
どこかで28歳 菟野皇女 のオーディションがあるとか、ないとか?
頭の切れの良さ・若さには多少無理がありますが・・
どうせ、目以外の部分を真っ黒に日焼けしている設定なんですから、わかりませんよね。配役していただけませんでしょうか? 美人ではない。そのポイントだけは合っておりますでしょ。(^_-)-☆
急な斜面を駆け上るシーンも「シュラシュシュシュ♪」でございます。
いかがでしょうか? 続編の執筆までの間ご検討ください。
いや~ 都合よく塗り替えられる歴史を紐解く推理小説は面白いですね。
お邪魔しました。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/02/01 14:37:31
- Re: シャーロック・ホームズ様
- 一時は真面目な話、一つ足りない明智小四郎と車岩(シャーロック)ホム子による謎解きというスタイルも考えたのですが、もっと不真面目じゃないかという説もこれあり、諦めました。
学士修士論文のネタをあちこちで提案しているのですが、今のところだれも食いついてきませんので、今度は映画のシナリオの売り込みを目論んでおります。トーエイやニッカツなどから話がありましたら、大々的にオーディションをかけますので、奮って応募ください。
こういう細かい数字のやりくりはもっとも好きなところで、うるさい、煩雑、迷惑という轟々たる非難も喝采と取り違え、嬉々として取り組んでおります。
あと3回ほど続きます。読む人のいかなる迷惑も省みませんので、お付き合いください。
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