2020/12/11 - 2020/12/11
21位(同エリア75件中)
しにあの旅人さん
- しにあの旅人さんTOP
- 旅行記251冊
- クチコミ253件
- Q&A回答18件
- 302,586アクセス
- フォロワー77人
大来皇女が斎王宮にいた12年間、日本書紀にはなにも記録がありません。
大来が斎王宮に送られたのは、遺跡が発掘されたので、否定できない事実。
一方、大来が斎王として仕えていたはずの伊勢神宮には、なにも記録がありません。
不思議な話です。
もっともわかりやすい説明は、大来皇女は伊勢では、斎王としてはなにもしていない。なにもしていなければ記録は残りません。
伊勢神宮については、この時期まだ存在していない。存在していない神社の記録は残りません。
六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
-
表紙写真は、さいくう平安の杜に復元された平安時代斎王宮正殿です。
斎宮歴史博物館入口ホールでは、斎王様が迎えて下さります。
歴代斎王は5才から15才の少女が多く、このような可憐なイメージとなります。上級の歴史散歩旅行にお勧め by しにあの旅人さん斎宮歴史博物館 美術館・博物館
-
斎王のプライベートな居室が再現されています。中央斎王、左が女官の責任者命婦。
これは斎宮制度の最盛期平安時代10世紀~11世紀の斎王を再現しています。残念なことに、大来皇女が斎王を務めた飛鳥時代7世紀とは、衣装がまったく異なります。この時代の斎宮、斎王のことは、まだほとんど分かっていないのです。 -
明日香村文化財展示室の、高松塚古墳の壁画を元にした、飛鳥宮の女官の姿。高松塚古墳は藤原京(694年~710年)の時代に造営されたものですから、それ以前、650年ごろから694年、飛鳥に宮廷があった時代の女官です。大来皇女の斎王在位は673年-686年、もろこの時代です。
-
これは奈良文化財研究所の藤原京宮廷女性を再現したものです。縦縞のスカートは同じです。かなり高位の女性のようです。大来皇女はおそらくこれに近い衣装であったと思います。
かなりふくよかでおられます。お年もめしているような。
私たちの想定では、大来皇女はもっと長身、スマートであった。年齢も斎王在位14才-27才です。
★大来皇女は斎宮で何をしていたか、
まったく記録なし★
大来を含め、674年~707年33年間4代の斎王がいます。次の次、泉皇女(いずみのひめみこ、生年? -734年、天智天皇皇女)は選任701年2月、退出706年ですが、
続日本紀文武天皇慶雲3年(706年)正月28日、
「泉内親王が斎宮として伊勢大神宮に詣でた」
これだけが、唯一国史に残された斎王について行動記録です。
斎王が伊勢神宮に行くのは当たり前です。そのための斎王ということになっています。それがわざわざ書いてあるということは、ひょっとして33年間1度しか行っていないのではないかな。
927年成立の古代律令の施行細則延喜式によれば、斎王が伊勢神宮に行くのは、6月12月の月次祭(つきなみのまつり)と9月の神嘗祭(かんなめのまつり)、年に3回です。しかしこれは10世紀初め平安時代の斎王を反映したもので、飛鳥時代がこの通りだったとはいえません。現に泉内親王が伊勢をお詣りしたのは1月で、延喜式の年3回には入りません。
「斎宮」(榎村寛之)におもしろい一文があります。
「この(斎王や斎宮)制度は正直、歴史的に大きな功績を残したというものではない。むしろ、ほとんど何の役に立っていたのかよく分からない存在である」
また、榎村によれば、「神宮側の資料には、大来についての確実な情報がみられない」
西宮「伊勢神宮と斎宮」によれば、神宮側にも平安時代中期に成立したと思われる「大神宮諸雑事」、9世紀初めの「止由気宮儀式帳」「皇太神宮儀式帳」などの文献があるそうです。
それらに大来皇女についての信頼できる記述がない。
つまり、私たちの想像では、大来皇女は斎宮で、後年の斎王のような宗教的行為は何もしていない。
飛鳥時代斎王宮発掘現場公開のとき、案内のキュレーターさんからうかがった話では、発掘の結果、土器の破片など、儀式を執り行った痕跡も少ないのだそうです。(詳しくは「飛鳥の姉弟10 大来皇女斎王宮に入る」をごらんください)
これは、大来が伊勢にきたのは、兎野皇女が彼女を伊勢に隔離しようとした場合、あるいは天武天皇が大来が暗殺されるのを防ぐため伊勢に送った、の2ケースに対応します。私たちは後者だと思っていますが、いずれにしても斎王は名目で、斎宮でやる宗教行事などないのです。
★不思議な十市参詣団★
書記天武4年(675年)2月13日、
「十市皇女(とおちの・ひめみこ)、阿閉皇女(あへの・ひめみこ)は伊勢神宮に詣でられた」
つまり、伊勢に支店を造って、大来皇女という支店長を常駐させてあるのに、飛鳥本社からわざわざ参詣団を送っている。
何のための支店、支店長か。
大来皇女は、伊勢神宮に行けとはいわれていない。行っていない。司のスタッフは辣腕の事務官僚と無骨な軍人、皇女の豊かな生活と警護に専念、役にも立たない神社のお参りなど興味ないので、伊勢神宮参詣の手づるもなく、手続きも知らない。
だったら、経験ある事務方をつけて、飛鳥から参詣団を直接送った方が手っ取り早い。
2人がお参りした「伊勢神宮」ですが、後年の大規模な伊勢神宮ではなくて、プレ伊勢神宮とでもいうべき小規模な天皇家ファミリーの神社だったでしょう。
一書に曰く、
十市皇女と阿倍皇女の伊勢神宮参拝について、皇太子妃の譲位式だったという説を読みました。大友皇子の正妃が十市皇女、草壁皇子の正妃が阿倍皇女ですから、確かに。
皇太子妃という位には、三種の神器みたいな何か、それを持たないと皇太子妃になれないような何かがあって、それを神の承認の許に譲渡式みたいなことが行われたのでしょうか。そして、大来皇女は神の代理人として、そのセレモニーに立ち会ったのでしょうか。
授受されたものは、なんだったのでしょう。鏡か玉か、もしかしたら櫛。
千葉外房には、橘樹神社という、弟橘姫の櫛を祀る神社がございますからね
また、博物館で、大来皇女の名の付いた出土品の中に、装飾品がありました。もちろん、大来皇女自身のものでもいいのですが、それが授受されたシンボルだとしたらどうでしょう。
皇太子妃になると、そのシンボルを授与される。普通の場合は、皇太子はそのまま皇后になるのですが、十市皇女は普通ではなかった。それで返還せねばならなかった。
それをそのまま阿倍皇女に授与したのか、または、神に祈って魂を籠めた新たな玉を授与して、古い玉は、その込められた魂が暴走しないように、神が保管した。魂鎮めですね。
というのは、いかがでしょうか。それが博物館で私が見た物だった!なんてことはないでしょうけど。
それにしても、三人のお姫様方は、どんなお話をなさったのでしょうね。
きゃぴきゃぴってわけには、いかなかったかなあ。
By妻
★斎王宮は現業部門★
続日本紀文武天皇5年・大宝元年(701年)8月4日、
「斎宮司は寮に準じ、そこに所属する官人は、長上官(毎日出勤する官)の扱いとせよ」
斎宮司とは、斎宮の運営事務部門ですが、このときまで「司」だったことが分かります。ウイキペディアによれば、古代律令制では、司は「職」や「寮」とならぶ事務部門で、一番格下、上級官庁に従属した現業部門だそうです。
斎宮の事務局は司レベルで、人数はともかく、現代風にいうと課長クラスの所長がいて、係長が半ダースくらい。しかも課長は毎日出勤してこない、ということになります。その課長も決定権はなく、なにかあったら上級官庁の指示を仰ぐ。
大来皇女が斎王になったときは、司レベルの組織のほうが都合がよかった。直属の上司が完璧に、迅速にコントロールできます。直属の上司とは、天武天皇自身。天武は、位は低くても腕利きの部下を直接送り込んだ。壬申の乱で天武の手足となって働いたのは、渡来系、舎人クラスの若手でした。いうなれば天武チルドレン。その1人を抜擢すればいい。
天武の指示は、大来に不便はさせるな、警護は完璧にやれ、あとは皇女の好きにさせろ。
★古手の女官がんばったか★
大来皇女のあと、持統天皇の時は斎王はいません。その後なぜか復活し、当耆皇女、泉皇女の最初まで惰性でこの体制でやってきた。腕利きが来なくてただの下級役人が斎宮頭を務めたので、運営がぐだぐだになった。
文武天皇4年(700年)の泉皇女の赴任のときにクレームが入ったのではないかな。あわてて格上げしました。それが上記の、
文武天皇5年・大宝元年(701年)8月4日、
「斎宮司は寮に準じ・・・」
準じ、というところがいい。正規の手続きを踏む時間がないので、とりあえず事実上寮に格上げ、ということです。
翌年、
文武天皇6年・大宝2年(702年)正月17日、
「従5位下の当麻真人橘(たぎまの・まひと・たちばな)を斎宮頭(いつきのみやのかみ)に任じ・・・」
初めて、斎宮の事務方責任者の名前が出てきました。
文武天皇7年・大宝3年(703年)6月5日、
「従5位上の引田朝臣広目(ひけたの・あそん・ひろめ)を斉宮頭兼伊勢守に任じた」
一つ責任者の位が上がりました。国司クラスになりました。
よほど泉皇女の側近がガンガン言ったのでしょうね。お付きのトップは命婦、古手の女官です。斎宮頭の文字通り頭越しに、文武天皇の側近、あるいは天皇に直接ねじ込んだ、のではないかと。この年文武天皇は20才。この女官は若いころ、下働きの下級女官である女嬬として、赤ん坊の軽皇子、後の文武天皇のむつき、オシメを取っ替える係だった、という想像はいかがでしょう。いくら天皇でも、こういう人には頭が上がりませんよ。 -
万葉集では大来、大伯、両方の表記が使われています。詞書きでは原文にしたがいますが、地の文では大来皇女に統一します。
万葉集巻第2には大来皇女の歌が6首収められています。
★「秋山」か「阿騎山」か★
持統・文武天皇の時代として、詞書きは、
「大津皇子の竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下りて上り来ましし時に、大伯皇女の作りませる御歌二首」
「大津皇子、忍んで伊勢神宮に参られて、都へ戻られる時、姉君大伯皇女の作られた御歌」(万葉集折口)
「吾が兄子(せこ)を大和へやると、さ夜更けて、暁(あかとき)露にわが立ち濡れし」(2-105)
「大事のあなたを、大和へたたすといふので、夜更けてから外へ出て、明方近い露の為に、立ってゐて濡れたことだ」(万葉集折口)
「二人行けど、行き過ぎ難き阿騎山を、いかにか、君が一人越えなむ」(2-106)
「あなたが大和へ帰る途中にある、あの阿騎山は、私も知ってゐる。二人連れて歩いて居ていても、寂しくて通りにくい所であった、それに如何にして、あなたが独りで、越えておいきなさるだろう」(万葉集折口)
現代語訳は折口訳にしました。感情がこもって、具体的なのです。
「吾が兄子」を「大事のあなた」と折口らしい純情可憐派訳でも精一杯の深い表現。
「阿騎山」万葉集原文は「秋山」です。「万葉集・全訳注原文付」で中西は「秋の山」と一般名詞と解釈していますが、折口は地名「阿騎山」 -
斎王宮から現桜井市の大津皇子訳語田(おさだ)邸の道筋には阿紀神社があります。このあたりを「阿騎山」とすると、イメージが非常に具体的になります。私たちもこの路を通りましたが、たしかに宇陀の山中です。
-
阿紀神社
-
宇陀の山並み
「二人連れて歩いて居ていても、寂しくて通りにくい所であった」大来皇女時代は、たしかにそうであったでしょう。 -
この2首は部立相聞です。相聞歌は恋の歌。大来大津は同母姉弟ですから、本来なら恋は2人の間に成立しません。
しかし大来大津姉弟については、これは許されぬ禁断の恋であったという説が、ネット上の古代ブログのみならず、学説にもあるようです。
万葉集の解釈では、By妻は清純可憐派、私は「いつもそっちに話を持って行く派」です。しかし大来大津に関しては、私も清純可憐派であります。
この2首は、そのまま読めば濃厚な恋の歌です。
詞書きは、
「大津皇子、忍んで伊勢神宮に参られて、都へ戻られる時、姉君大伯皇女の作られた御歌」(万葉集折口)
「忍んで」は万葉集詞書き原文では「竊」という字です。折口は、これを無理して「忍んで」と訳しております。彼は万葉集を極力純情可憐に訳すように努めているように思えます。
脱線します。
十市皇女の薨去のときに詠まれた高市皇子の歌、
「三諸の神の神杉夢のみに共に寝ねる夜ぞ多き」(巻2-156)
「三輪山の神々しい神杉のようなあなた。夢ばかりに見えながら共寝せぬ夜の長かったことよ」(万葉集中西)
を折口は、
「死んで過ぎ去って了ふ人の餘波(なごり)惜しさに、幻影に許りその人を見て、寝られない晩が多い」
と、共に寝る寝ないという色恋沙汰のからむ訳を避けています。
一書に曰く、
大津皇子と大来皇女の禁じられた恋?
そういうふうに簡単に片付けることができる人って、人生に悩まなくてすむでしょうねえ。そう言えば、尼姿の作家さんは、人生相談、大人気でした。世の中、すべからく色と金と割り切って生きられたら、苦労はないかも。彼女は、式子内親王の、玉の緒よ絶えなば絶えね なんか、絶対にわからないのでしょう。実行しなければ恋じゃないみたいだし。
ましてや、逆境をともに生きた、血を分けたはらからの、互いを思いやる愛が、ただ精神のつながりだけとは、こういう人には信じられないのでしょう。
現代語訳をした折口信夫という人は、非常に繊細な心を持った人でした。養子の春洋が戦いに征くときの短歌など、母親が息子を思ったものかと思うほどです。このふたりは、今流にいえばボーイズラブですが、その一途な心は、いとけない赤子を抱きしめる母親のこころ、そのままです。
この短歌を訳したときの折口信夫には、大来皇女が乗り移っていたのでしょうか。涙を流しているのは、大来皇女であり、折口信夫その人でもあったのです。
男でも女でも、親でも子でも、友達でも恋人でも、大切な人を思う究極の感情は同じ所にたどり着くのではないかと思えます。
ゴシップ的には、スキャンダラスな方が面白いだろうけど、大津皇子さんは、ちょっとなかなかの彼女はいるし、貞淑な妻もいるし、健康的過ぎるように思えます。禁じられた恋をするにはね。。
By妻
本線復帰。
「斎宮大伯皇女の歌についての一試論」(原槇子)によれば、万葉集中「竊」という文字は6カ所で使われており、すべてが男女の密会のときに使われる文字です。
これをもって道ならぬ姉と弟の恋と解することもできます。
しかしこの詞書きはおかしいのです。
大津皇子が斎王に「忍んで」会いに来る理由がありません。大来皇女は実在する初代斎王です。大来が泊瀬の斎の宮に入った天武2年(674年)夏4月14日以降、「斎王に会いに行ってはいけないという規則を作った」という記事は、書紀にはありません。暗黙の規則があったとも、そういう習慣が前からあったとも書いてない。 -
伝説上の斎王は崇神天皇の豊鍬入姫から用明天皇の酢香手姫まで9人の名が書紀にあります。伝説とはいえ、9人の記事の前後に、この種の規則が何かないかと探してみましたが、何もありません。
9人のうち、名前だけの5人を除き、哀しい物語が語られています。
倭姫は、斎王以上の存在で、伊勢神宮の創設者です。天照大神のお宮の建設地を探して、大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされます。
でも、言ってみればあたら娘盛りを旅に暮らし、恋も結婚もせず、建設用地を探して一生を終えたことになります。これって、幸せですかね。一歩引いて冷静に読めば、不幸な女の話です。
とくに3人の斎宮は悲惨な事件に巻き込まれています。雄略天皇の稚足(わかたらし)姫皇女はおぼえのない密通の疑いをかけられ自殺。欽明天皇の斎宮磐隈(いわくま)皇女は、茨城(うまらき)皇子に強姦され斎王解任。敏達天皇の菟道(うじ)皇女も池辺皇子に強姦され解任。
「斎王に会ってはいけない」という規則が、伝説上でも出来るとすれば、ここでしょ。
でもなにもありません。
逆に景行天皇の皇子日本武尊(やまとたける)は、東征の前伊勢の倭姫に会いに行っております。倭姫はヤマトタケルの伯母。「おばさん、こんにちは」という感じで気楽にあっています。おみやげの草薙の剣までもらっている。
伝説上も当時の法制上も「伊勢の斎宮にあってはいけない」などという規則があったとは思えません。
後世そういう規則ができた可能性はあります。しかし当時はない。会いたければ会いに行けばいいだけです。忍ぶ必要はありません。 -
上記「斎宮大伯皇女の歌についての一試論」(原槇子)によると、ある古典文学全集の注で、「竊」とは「禁忌を侵したことを背景におく言葉」とあるそうです。
天武天皇の崩御後忌中に国禁をおかして伊勢を訪れたので、「竊」んでということになる。このような解釈の研究者がおられるようです。
これら研究者の見解では、飛鳥-斎王宮100キロを、大津皇子は実に簡単に移動しているようです。
天武天皇の崩御後、「忌中に国家の守護神に勝手に参ることは禁忌を侵すことであった。この伊勢下向は9月24日夜半から26日朝までのことであったらしい」
伊勢神宮が「国家の守護神」であったか疑問、それに「勝手に参ること」が禁忌であったか疑問。
それよりも、24日夜に飛鳥つまり訳語田邸を出て、26日朝に伊勢の斎宮を出る、というスケジュールです。当然馬の旅です。これは不可能です。夜路は馬は危険で動けません。実動25日1日だけです。
はなはだしいのは「朝早く飛鳥を発つと夕方には伊勢に着く計算になるようだ」
専門の学者が飛鳥時代の道路状況と馬の走行能力をまったく考慮していないのには、驚きました。
100kmという馬による長距離の移動の場合、時速は6kmです。2時間おきに30分の休みを馬に与える必要があります。騎行約16時間半休憩約3時間半、20時間かかります。夜の騎行はできませんから、1日10時間として、片道2日、伊勢に1日として、往復5日間は最低必要です。
旧陸軍の騎兵の移動距離は1日40-60kmを基準としていました。中間の50kmをとると、上記計算に一致します。なお騎兵は別動ロジスティック部隊のサポートと、替え馬の使用を前提とします。
古代官道の整備は天武朝時代に整備が始まったようです。大和国から伊勢国にかけては大体下記の官道が機能していたと思われます。出典は「日本古代の道と駅」 -
黒まるが訳語田邸、逸見駅を経て隠(名張)駅、逸見と名張の間にはさらにいくつかの駅があったでしょう。
-
伊勢国に入ると壹志駅、飯高駅をへて斎王宮に至ります。
現在の国道165号に相当します。96.9kmです。
幅12mから6mの道路が整備され、駅舎には宿泊設備がありました。
もっと後年になりますが、「道路の日本史」によると、官道を使用する場合は「公務でない場合でも一定以上の官位をもつ者に対して駅家に泊まらせはするが、食事を提供してはならぬ」と律令(法律)で決まっていました。
大津皇子は、第2位皇位継承権者です。一定以上の官位もいいところなので、駅家に泊まることはできたでしょう。
この官道を使えば、なんとか2日で飛鳥から斎王宮まで行くことができます。しかし皇太子に次ぐ高位の皇族が官道を行くわけですから、「竊んで」など不可能です。通過するだけでも駅家の司以下全員勢揃いで、大騒ぎになるはず。
100kmを「朝早く飛鳥を発つと夕方には伊勢に着く」は論外です。駅鈴を鳴らして、馬の巡航最高時速16km、駅家で6回馬を乗り継げばいけないことはありません。皇子が護衛を引き連れ、自ら駅鈴を響かせて官道を疾走すれば、すわ、戦争か、何事かとみんな家を飛び出してきます。駅鈴を使用するだけで、すでに公務です。「竊んで」とはまるっきり逆さまの目立つ旅です。
★官道じゃなくて間道を行く旅★
シャレのつもりです。
実は私達も走ってみました。このブログに載せるためにグーグルさんに道筋を出してくれと頼みましたが、どうしても飯南の任柿峠越えの道を出してくれません。「車の通る路じゃねえ」と言いたいらしい。
明和町の斎宮歴史博物館を出て、多気町から県道421を飯南に向かいます。飯南郵便局で右折、国道368です。これが所謂伊勢本街道。飯南町上任柿から任柿峠を越えて、美杉、御杖村、宇陀市に出て、国道165をほぼ真西に行くと桜井市、大津皇子の訳語田邸があった戒重春日神社です。だいたい100km、
任柿峠越えはひどかった。 -
このクネクネ道ですが、こんな怖い道ははじめてでした。細いのは当然、なにが怖いって、谷側にガードレールがないのです。By妻などワーキャーの連続、私は「三重県知事出てこい!」と叫びながら運転しました。でもこれ国道なんです。知事さんごめんなさい。
3桁国道がひどいのは知っていますが、これは最悪。
さいわい対向車は1台もなし。 -
やっとたどり着いた任柿峠。45年前に廃村になっている。
-
近世のことですが、ここにそんなに旅籠が並んでいたとは信じられません。
「伊勢神宮の神霊が初めて伊勢入りされた」とありますが、伊勢神宮建設の地を探し求めた倭姫の事です。もとより伝説です。よほど古くから大和と伊勢を結んでいたのです。
本題にもどります。
飛鳥~斎王宮は、隠(名張)経由の官道ではないとすると、この伊勢本街道が先ず考えられます。現在の多気から宇陀までほぼ全線山の中、峠はいくつあるかわかりません。
飛鳥時代の山道のインフラが官道よりいいはずがない。官道を避けて間道を「竊んで」行ったら何日かかるか、見当もつきません。
書紀によれば、天武15年(686年)9月9日の崩御から10月2日の大津皇子の逮捕まで、頻繁に行事がありました。忌中ということです。それをサボって伊勢に行ったから「竊んで」ということになるという理屈です。
でもその前に「大津皇子がはじめて朝政をお執りになった」(書紀天武12年/683年2月1日)とあるので、大津は政府要人です。
政府要人が最低5日間もサボれますかね。しかも補給部隊や替え馬など、かなりのシステムを動員しないと実行できません。
官道は原理的に「竊んで」旅はできません。
間道だと往復5日間ですむはずがない。
結論として、大津皇子は天武崩御後「竊んで」伊勢に行ってはおりません。 -
大津が伊勢の大来に会いにいったのを、天武天皇が崩御する前とすると、話が簡単になります。「竊んで」いく必要がまったくなくなります。
「二人行けど、行き過ぎ難き阿騎山を、いかにか、君が一人越えなむ」(2-106)
の「阿騎山」は万葉集原文は「秋山」です。したがって大津の伊勢下向を秋と解するのが通説のようですが、これを折口のように地名「阿騎山」とすれば、季節に縛られません。
天武天皇の病状を日本書紀から辿ります。
天武14年(685年)9月24日、
「天皇が病気になられたので・・・」
このころから天武天皇は具合がよくなかった。
朱鳥元年(686年)2月4日、
「(天武天皇は)大安殿におでましになり、侍臣6人に勤位を授けられた」
この日以降、天皇自身が公式の席に姿を現すという記述がなくなります。症状が悪化しはじめたのです。
朱鳥元年(686年)7月15日、
「勅して『天下のことは大小となく、ことごとく皇后および皇太子に申せ』といわれた」
天武はこの日以降政務をとれなくなったのです。政府要人は飛鳥に足止めです。
逆に言うと大津の伊勢下向は、7月15日までならまったく問題ありません。
★「伊勢で姉さんに会ってきます」
「そうか、よろしくな」★
天武、菟野は別格として、大津は飛鳥政府では皇太子草壁についでNo2です。
天武12年(683年)2月1日以降大津皇子は朝政に参画しております。
近しい皇族を政府要職に就ける、皇親政治が天武の基本政策です。このときすでに24才の大津は天武政府の中心にいたはずです。
伊勢の斎宮である姉に会いに行く、必要であれば自分で自分に許可を出せばいいだけです。
父天武は病気ではありましたが、まだ政務を執っておりました。了解を事前にとることはできます。
飛鳥から伊勢の斎王宮まで、官道と駅舎を使って、公式旅行をします。まったく「竊んで」伊勢に行く必要はありません。
★万葉集、うけをねらう★
「大津皇子、忍んで(竊んで)伊勢神宮に参られて云々」という万葉集の詞書きはフィクションです。
それではなぜこういう詞書きができたか。
後世、万葉集を再構成した人物が、話をドラマティックにするため書き加えた、と考えるのが一番合理的です。 -
大津は大来に、謀反の相談に行った、という説があります。持統天皇の魔手が迫りつつある、いかが打開すべきか。死中に活を求めて、謀反すべきか。しかし大来は大津をなだめて、飛鳥に返した。
逆に、大津を伊勢に呼びつけたのは大来という想定はいかがでしょう。
ここでちょっと寄り道。
大来が斎王として伊勢に行ったのは、書紀の記述と飛鳥時代斎王宮発掘が一致しています。7世紀末の考古学的事実。
一方伊勢神宮がいつできたか、分かっておりません。
「伊勢神宮成立史考」(林一馬)によれば、
●最も新しい場合は奈良朝初め養老元年(717年)
●明確な資料の裏付けがあるのは、文武天皇2年(698年)。
続日本紀文武天皇2年(698年)12月29日、
「多気(たけ)大神宮を度会郡に遷した」
ただしこの多気大神宮がはたして現在の伊勢神宮かどうか、諸説あります。
●天武天皇の迹太川遙拝672年以降
天武元年(672年)6月26日、
「二十六日、朝、朝明郡(あさけの・こおり、三重県三重郡)の迹太川(とおがわ)のほとりで、天照大神を遙拝された」
有名な話ですが、ここで遙拝したのは「天照大神」で、伊勢神宮ではありません。672年前には伊勢神宮は存在しない有力根拠とされています。このイベントは、鎌倉時代の日本書紀の注釈書「釈日本紀」に、安斗智徳(あとの・ちとこ)の日記に同じ内容の記述があるのです。確実な史実であるとされています。
諸学説は、伊勢のどこかに、プレ伊勢神宮とでもいうべきより小規模な祭祀の場があったことまでは否定していません。伊勢神宮とよばれる大規模な神社ができたのは、672年の迹太川遙拝以降であることは間違いないでしょう。2年や3年でできるはずもないので、かなりあとになるはず。文武2年(698年)まで引っ張ってもいいのではないか。
★大来皇女はありもしない伊勢神宮に送られた★
理由は、菟野皇女が大来を伊勢に隔離した。私たちの根性悪邪推だと、大来が暗殺されるのを恐れた天武が伊勢に逃がした。
天武天皇が壬申の乱勝利に感謝して、天照大神の御杖として大来皇女を伊勢に送ったと言われております。逆じゃないですかね。
冷徹な政治家天武天皇が、腹の足しにもならない宗教的権威をそれほど重視したとは思えない。政治家にとって宗教的権威というものは、人を操るためのもので、自分が信じたらおしまいです。
大来皇女を斎宮という名目で伊勢に送ったら、伊勢の豪族が天照大神を崇め始めた。それじゃ大来皇女を神の御杖ということにしよう。そこいらへんの小さな神社を、伊勢神宮として拡大してもいい。
とにかく美貌の皇女です。いわば女神そのもの。 -
写真は発掘途中の飛鳥時代斎王宮の西、祓川との間の田んぼ。祓川の河原であったはずで、当時もこのような風景でしょう。
伊勢の原野を、男装して馬を走らせるのが大好きな大来が、急に巫女さんのようなことをさせられて不愉快であった。でも父天武がやれというのだからしかたがない。
東国支配の根拠地として伊勢を治めるには極めて好都合。菟野皇女も納得したのではないか。
★宝塚的妄説★
大来皇女は斎王宮で美貌の皇女として君臨したことになります。彼女にとってはバイトに等しい巫女仕事がないときは、いままで通り3人の護衛を引き連れ馬を走らせた。
伊勢の豪族の若者の憧れの的でありました。
以上、非常に宝塚的妄説でありますが、あり得なくはない妄説であると思っております。
懐風藻のいうところの、大津皇子「性格はのびのびとし、自由に振る舞って規則などには縛られなかった」2才違い同母の、よく似た姉であります。
★大津、大来の計画に驚く★
朱鳥元年(686年)夏4月8日、
「多紀皇女(たきの・ひめみこ)・山背姫王(やましろの・おおきみ)・石川夫人(いしかわの・おおとじ)を伊勢神宮へ遣わされた」
3人から大来は、飛鳥宮で菟野皇女が大津に謀反の濡れ衣を着せて、排除しようとしているという話を聞いた。
追い詰められた弟を、かつての近江脱出のときのように、伊勢で保護しようと思った。
大津皇子を伊勢に呼び寄せた。大来のプランでは、2人で父天武に謀反の計画などないと説明に行こう。菟野皇女が妨害するなら、伊勢の豪族に命じて兵を出させる。
大津は驚いたでしょうね。
それは、完全に謀反で、菟野皇女の思う壺。当然断ります。
一晩議論して、大津は飛鳥に戻ります。 -
飛鳥時代の斎宮跡発掘現場の近くに古代伊勢道の一部が再現されております。ここから西北西、現在の松坂市の方向に伊勢道は向かい、飛鳥に通じておりました。
大来皇女の私邸はまだ特定されておりませんが、公邸である斎王宮の近くでしょう。
★暁の別れ★
その日の黎明、大来は轡を並べ途中まで大津を送る。ようやく明るくなりかけた伊勢街道を大津は行くのであります。
大来は伊勢に来てから12年間、弟に会っておりません。しかしながら12年ぶりに会った弟は、予想外に立派な好男子であった。去りゆく大津に、大来が驚きを感じたことはあり得るでしょう。
「吾が兄子を大和へやると、さ夜更けて、暁(あかとき)露にわが立ち濡れし」(2-105)
大来は、馬上、馬手に手綱をにぎり、弓手を振って弟を見送る。朝露に全身濡れていたのであります。
「二人行けど、行き過ぎ難き安騎山を、いかにか、君が一人越えなむ」(2-106)
二人で、それが難しくても、兵を率いて、阿騎山を越えて、父帝に会いに行こう。そんなことはできないとあなたは言った。その道を一人行かせてしまった。
大来の頬を濡らしたのは、朝露だけではなかったかもしれません。 -
書紀朱鳥元年(686年)11月16日、
「伊勢神宮の齋の宮であった皇女大来は、同母弟大津の罪により、任を解かれ京師に帰った」
後年、伊勢の斎宮が任を解かれることを「退下」と言いますが、この時代この言葉はありません。書紀原文は「還至京帥」ですから、単に還える。
万葉集の詞書きは、
「大津皇子薨ぜられて後、大伯皇女伊勢の斎宮から、都へ上がられた時の御歌」(万葉集折口)
「かむかぜの伊勢の国にあらましを。何しか来けむ。君もあらなくに」(2-163)
「こんなことなら、伊勢の国に居たはずだのに、どうして来たのだろう。懐かしい弟の君も居られないのに」(万葉集折口)
この歌が対応するのですが、解任命令で京に帰ったわけではなく、大来は自分の意志で飛鳥に帰ってきたことになる。
詞書きも同じ。
★持統の命令無視★
万葉集の最終形が世に出るのは8世紀末ですから、日本書紀の後。この大来の歌を読む人は、書紀の11月16日の記事を知っている。
書紀の記述と合わせて読むと、持統天皇の帰還命令なんか無視して、伊勢にいることはできた。でも帰ってきてしまった。「どうして来たのだろう。懐かしい弟の君も居られないのに」
天皇の命令を無視すればどうなるか、知らないわけではないでしょう。敷衍すると、
「持統の命令など聞きません。欲しければ、この命差し上げましょう。もう大津はいないのです。でも会いに来てしまった」
ただこれは、天皇の命令違反をそそのかすような反抗的な歌で、詞書きは後世の追加の可能性あり。
★「馬つかるるに」★
「見まく欲り我がする君もあらなくに、何しか来けむ。馬疲るるに」(2-164)
「折角逢はうと思うてやって来た方も、御いででないのにどうして、わざわざ馬が疲れるのにやって来たのであらう」(万葉集折口)
無駄なことをしたという自嘲の歌です。
万葉集巻2の挽歌、大来の歌4首は、大来本人の作ではないという説があります。でもこの歌と直後の165「うつそみの」は間違いなく大来本人の歌だと思います。
大来は身長174cmの大女という私たちの前提に立ちます。
飛鳥時代の女の平均身長152cm、体重たぶん45kgくらいの華奢なお姫様が乗っても、馬は疲れません。後世の代作とすれば、そのくらいの皇女様を前提とするので、「馬疲るるに」は単なる無駄なことをしたという比喩でしかありません。
ところが174cm、体重65kgくらいの大来を運べば、馬は本当に疲れます。でも馬は主人にすりすり。泡を吹いた愛馬の首を抱いて、「ごめんね」と言う大来を想像してください。深い自嘲。泣き笑いの嗚咽が聞こえてきませんか。
馬が本当に疲れているのを知っているのは、大女の大来だけです。
一書に曰く、 -
重たい人を乗せることは、そりゃあ疲れるでしょうけど、軽い人乗せたって、長い距離走らされたら、疲れます。大来さまは、重い人ではなかったよー。と、馬が申しております。
By妻 -
「大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りし時に、大来(大伯)皇女の哀しび傷みて作りませる御歌二首」
「うつそみの人なる我や、明日よりは、二上山を阿弟(イロセ)と我が見む」(2-165)
「肉体を持った人間である私として、大事の弟を葬った山だから、明日からは、二上山を兄弟と見ねばならぬのだらうか」(万葉集折口)
これはまちがいなく大来自作。「秘密の暴露」があるからです。「秘密の暴露」の「秘密」とは本来刑事事件で真犯人しか知り得ない事実のことをいいます。
この歌が歌われた状況。
万葉集詞書きによれば、「大津皇子の亡骸を、葛城の二上山に移葬し奉った時」です。その知らせを誰かが持ってきた。その時の大来の反応です。「奉った」と過去形です。
もし後世の代作の場合。私だったら、できるだけ劇的に盛り上げたいので以下のような場面を考えます。
使いの言上を最後まで聞かず、大来はすっくと立ち上る。うろたえる使いを押しのけて、建物の軒下に走り出る。そして二上山をはったと見つめる。
その場合、「明日よりは」ではなく「今よりは」になります。いまこの瞬間。緊迫感がはるかに高まります。
それが「明日よりは」などと間延びした時間軸になっている。「ふーん、じゃあ、まあ、明日からはそうするか」と解釈する意地悪も可能。
それがあえて「明日よりは」となっているのは、そのとき大来しか知らない何かの理由があって、今この瞬間には二上山を見られないのです。大来の心うちでは切羽詰まっていますから、「明日よりは」でいいのです。
大来しか知らない秘密の暴露です。
★万葉集、書紀にケンカうる★
大津皇子が二上山に埋葬されたことは、日本書紀には書いてありません。この万葉集の歌がなければ、現代の我々は墓がどこにあるかわかりません。
「薬師寺縁起」という11世紀の文書があります。そのなかに、「大津皇子厭世籠居不多神山」大津皇子は世を嫌って不多神(ふたかみ)山に籠もった、と遠回しに墓が不多神(ふたかみ)山だと書いてある文書もあるので、当時も二上山のどこかに墓があるとは知られていた。
それを万葉集という非常にメジャーな文書に明記することで、当時の世間に広く、おそらく遠く後世にまで残そうとした。
いわば、墓の場所を書かない日本書紀にケンカを売っているわけです。
★万葉集のいやがらせ★
大津事件が持統天皇のでっち上げでであることは、720年の日本書紀、751年ごろの懐風藻を読めば、明言はしていませんが、見当はつきます。
その事件の被害者の墓を二上山とすることは非常に象徴的です。 -
これは藤原京朱雀大路近くからの二上山。この山は目立ちます。
ふたコブの特徴的な山容です。北の方からは雌岳が雄岳の陰に隠れてひとコブになりますが、葛城山地の端だからすぐ分かる。 -
畝傍山西麓。
高架道路は南阪奈道路です。 -
現在の大和高田市です。
-
高い建物がなかった当時、どこからでも二上山は丸見えです。
-
これは大阪歴史博物館9階から見た二上山。反対側から見ているので、雌岳と雄岳が左右逆になります。奈良盆地だけではなく、このような高層建築がない当時、その反対側の大阪平野からもはっきり分かる。
-
手前のビルがないと思ってください。
この山を見るたびに、奈良時代の人々は、「あれが持統天皇に殺された大津皇子の二上山か」と思うわけです。そう思うように仕組んでいる。
これは、ヤマトの中央政府への嫌がらせの域を超えた、非常に反抗的態度です。 -
大来皇女の歌6首と日本書紀を合わせて読むと、ヤマトの中央政府への反感が高まるようにできています。
だれかがこういう編集をしたのであります。
万葉集の編集者の中で、このような反抗的、反逆的思想をもっていたのは、大伴家持でしょう。
天平勝宝9年(757年)の橘奈良麻呂の乱では、親友大伴池主が殺されています。橘奈良麻呂はこのあと行方不明ですが、誅殺されたでしょう。奈良麻呂は家持が尊敬、兄事した橘諸兄の長子です。本人はクーデターに参加していなくても、権力者藤原仲麻呂への反感をたぎらせました。
その後延暦4年(785年)に没するまでの47年間に、
762年藤原仲麻呂暗殺計画立案。発覚して薩摩守に左遷。
782年氷川川継の乱に関与、解官
785年藤原種継暗殺事件を実行。事件が発覚したときはすでに死亡。
2回暗殺計画、1回クーデター計画に参加しています。
時の権力者、藤原一族への反抗心に燃えた人物です。
万葉集は、晩年の家持が最終的に編纂したというのが通説です。
そのときに、
「吾が兄子(せこ)を大和へやると、さ夜更けて、暁(あかとき)露にわが立ち濡れし」(2-105)
「二人行けど、行き過ぎ難き阿騎山を、いかにか、君が一人越えなむ」(2-106)
の2首の詞書き
「大津皇子の竊(ひそ)かに伊勢の神宮(かむみや)に下りて上り来ましし時に、大伯皇女の作りませる御歌二首」
を挿入、あるいは「竊かに」を書き加えた、というのはありえると思います。
「うつそみの人なる我や、明日よりは、二上山を阿弟(イロセ)と我が見む」(2-165)
という歌を詞書きとともに万葉集にいれたのも家持。反政府シンボルの二上山です。
「かむかぜの伊勢の国にあらましを。何しか来けむ。君もあらなくに」(2-163)
これを、
「大津皇子薨ぜられて後、大伯皇女伊勢の斎宮から、都へ上がられた時の御歌」(万葉集折口)
という日本書紀と矛盾する詞書きにしたのも家持。
まさに天平の反体制派。 -
これは飛鳥の万葉文化館に展示されていた家持の自筆です。太政官符という公文書の署名です。
奈良県立万葉文化館 美術館・博物館
-
こちらは家持が兄事した橘諸兄の自筆。これも公式文書の署名でしょう。
実にキッチリした筆跡。しかしこういう人物を亭主にした奥さんは息苦しいでしょうね。子供たちは、彼が帰ってくるとさっと部屋に引きこもってしまいそう。 -
藤原仲麻呂自筆。家持は仲麻呂が大嫌いでした。762年に暗殺計画に加わったほどです。
公式文書の署名でしょうが、なにやらいじけた印象をうけます。縦々、横々の線が揃っていないからかな。 -
そこで家持はというと、ちょっとグレている。公文書の署名ですから、上の2人みたいにきっちりした楷書で書けばいいのに、かっこつけた。
こういう字で、「吾が兄子(せこ)を大和へやると・・・」の歌の詞書きに「竊」と書き加えた。
「二人の仲が怪しくなる、いいんじゃないの、これで悲劇性がぐっと高まる。比例して政府への反感が高まる。清純可憐派は怒るし、なんでもそっちにもって行く派は妄想逞しくする。いずれにしてもキャチーだ。よく調べれば、竊でないのは分かるはずだ」
延暦4年(785年)の冬、陸奥按察使(むつのあぜち)として赴任していた多賀城で、雪見酒を飲みながら、家持はつぶやいた、といたします。
一書に曰く、
仲麻呂は、呂が小さくて、全体のバランス的には座りが悪いですね。ここいら辺りがいやな感じを受けたんでしょうかね。By夫は。
私は、精神的に不安定な感じがしますけど。
対して、家持は、確かにカッコつけてますな。自由奔放な感じ。字書くの慣れてるもんね。って言いたいのか。
注目は、諸兄。兄の字が違います。口の下に、こつこつ、このワープロでは出てきませんが、元という字の下です。この字を重ねると、こつこつ努力するのこつこつになります。
さて、兄という字は、白川静によると、神に捧げ物を持つ人を横から見た形だそうです。そして、神に仕えることができるのは、一番上の男の子、だから兄になるそうです。
こつこつの方は、白川静 常用字解にはありませんでした。
諸兄は、こつこつ努力して、諸氏の兄たらんと、この字にこめた。
ちなみに、仲麻呂の呂が口を重ねているのは、呂の古い形ですから、別に口ばっかりって、意味ではないようですよ。
家持は、諸兄と比べても、仲麻呂と比べてさえ、まじめって感じでは劣ってますよね。その分書き慣れているというか、自分の感情を字にすることに抵抗がない。思ったことを思ったように書けた人だった感じがします。
というか、私もすごいわねー。天下の大伴家持に、こんなこと言っちゃうモンね-。
当たるも八卦当たらぬも八卦。
By妻
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
六国史の旅 飛鳥の姉弟
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟1 大津皇子訳語田邸
2020/12/01~
飛鳥
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟2 大津皇子磐余の池
2020/12/02~
飛鳥
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟3 大津皇子二上山
2020/12/03~
飛鳥
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟4 大来大津まぶたの母、太田皇女越塚御門古墳
2020/12/04~
飛鳥
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟5 天武菟野吉野脱出行・上、書紀いけず読み
2020/12/05~
吉野
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟6 天武菟野吉野脱出行・下、2泊3日無理ムリ~ 謎の6月23日
2020/12/06~
赤目・名張
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟7 大来大津近江脱出
2020/12/07~
大津
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟8 大来大津桑名郡家
2020/12/08~
桑名・長島
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟9 大来皇女泊瀬斎宮
2020/12/09~
室生・宇陀
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟10 大来皇女斎王宮に入る
2020/12/10~
明和・大台
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟11 大来皇女京師に還る
2020/12/11~
明和・大台
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟12 大来皇女その後、いま輝くか
2020/12/12~
飛鳥
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟13 大来皇女宮はどこに?
2020/12/13~
飛鳥
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟14 大来皇女夏見廃寺
2020/12/14~
赤目・名張
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟15 牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の現状
2021/07/06~
飛鳥
旅行記グループをもっと見る
この旅行記へのコメント (9)
-
- mistralさん 2021/04/04 19:45:25
- しにあさんの情熱がここに。
- しにあの旅人さん
朝、壮大な論文の読破までは致しましたが、時間切れとなり
夕刻に再び参上しました。
しにあさんの大来皇女贔屓の情熱が、ついにここ迄に追い続けて
こられた感でみちていました。
名目上だけだとしても?伊勢神宮の斎王となって都から遠ざけられた大来皇女
そこでのお務めが無い日々だったとしても、自由に過ごせる毎日の生活は
どうだったのかしら?と私も想像してみますと
これまでずっと苦楽を共にしてきた弟、大津皇子を想う日々ではなかったか、と
思ってしまいます。
十市皇女と阿倍皇女の伊勢神宮参拝、実体のない神宮への参拝は何故?
皇太子妃の譲位式と、そこでの大来皇女の立会、
by妻さんのご意見にはなるほど、と思いました。
それにしても皇女3人の顔ぶれはすごいものがあります。
大友皇子の正妃、草壁皇子の皇女、そして大来皇女。
まだうら若き3人ですが、背負ってきたものが大きすぎる3人です。
天武天皇は我が皇女の行く末にはいろいろ苦慮なさったようですが
我が皇子の行く末はいかんともしがたかった、のでしょうね。
更に天武さんは、大津皇子とはあまり心も通い合う機会もなく、
やむを得ず皇子は切り捨てられた感じもします。
大津皇子が死を賜わることになってしまった運命には、かえすがえす残念に想います。
生まれた時、所が悪かったのでしょうね。
一書に曰く、大津、大来の関係は、、、と
ここではしにあさんも、by妻さんに賛同、私ももちろん異論ありません。
多分二人は、大切な人を想う究極の感情ゆえ、とby妻さんは書かれ
私も魂のレベルでのつながりがあったかのように想われました。
正史である日本書紀には表せない事実を万葉集で伝える、
万葉集の密かなる反逆、やはりそうなのねと私も共感。
家持さん、よくぞやって下さいました。
皇女、皇子たちが歌を遺していなかったとしても「反逆的思想」を持っていた
家持さんによって、その折の心情あふれる歌をさしはさんだ。
よくぞ、と思いますが、長くなりました、
それを筆跡からも検証されたしにあさんには恐れ入りました、と申し上げます。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2021/04/05 07:47:01
- おはようございます
- 長い文章を読んでいただいて、感謝です。このシリーズは、これが書きたくて2回も旅行し、延々とここまで大来皇女の跡をたどってきました。色々調べたし、面白げなことを思いついたので、全部出しちゃおう。海岸で拾ってきた貝殻をぶちまけた子供のようなものです。長すぎる、硬すぎると、By妻からダメ出しが出ましたが、小見出しをいっぱい入れることで、少しは読みやすくする工夫をしました。
大来大津姉弟の心うちや。家持の、前日光さんおっしゃるところの「いぶせき思い」に発する万葉集編纂、読み取っていただいて嬉しいです。
十市皇女と阿倍皇女の伊勢下向、そこで大来皇女と会ったとは、書紀は書いていないのですが、誰がどう読んでも会ったと思いますよね。会ったと思わせるように書紀は書いている。何を言いたいのかと、また勘ぐりたくなります。
この時大来16歳、十市23歳位、安倍24歳、人生経験豊かなお姉さん2人と何を話したか。実に興味津々。
当時伊勢神宮はなくて、大来のいる斎王宮そのものが神宮であったという学説もあるそうです。ただ神社らしきもの跡が発掘されていない。
大来の斎王宮発掘現場の北に隣接して、竹神社跡があります。石碑以外何もありません。まだ未発掘なのですが、ここらあたりから何か出てくると、面白いことになるのですが。
十市さんと阿倍さんは大来の私邸に泊まったのかな。一晩中ペチャペチャ喋って翌朝目が真っ赤、だったりして。大来さん、根掘り葉掘り2人に質問したでしょうね。
飛鳥の姉弟シリーズはこの後もまだ続きます。あまり話題にならない、それからの大来。「ヤマは超えた」とみなさんどっかに行っちゃわないように、しっかりと番宣です。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/04/05 11:51:23
- Re: しにあさんの情熱がここに。
- 計算間違い。阿部皇女は14歳でした。
好奇心旺盛な娘2人に質問攻めにあって、十市姉さんは往生したでありましょう。悲劇のヒロインとして当時でも有名だったし、高市皇子との噂もありました。「うるさいな、このメガキ」と思ったに違いない。メガキなどという下品な言葉はお使いにならなかったでしょうね。
-
- kummingさん 2021/04/03 19:14:47
- とりとめのないままにm(._.)m
- 一書に曰く
ちょっと寄り道
本線復帰
枕詞か接続詞、的な役割を担っているのではないか、と思われる↑これらに助けられて完読しました。あと、小見出しも効果的♪
往来皇女が実態のない斎宮に、現代では妖精さん、と呼ばれる職種にも似た閑職に追いやられ、よるべない無為な日々を余儀なくされたにも関わらず、逆境の中、馬に乗ってあそんだり、近隣では噂の見目麗しい人気者だった、という事でしょうか?
大津皇子が往来に会うために辿ったであろう道の検証の為とはいえ、国道368号線の道なき道、獣道、(ポツンと一軒家に出てきそう)をも踏破された、その現場実証主義はあっぱれ~でございますね。かつ、しにあさんお得意の、馬の速さと走行距離の考察も加われば、この結論に意を唱える事は不可能かと存じます。
さて、最近知った興味深い話…官吏、の官の方は比較的政治家寄りの記述を担って、嘘も捏造も言われるがままだったようですが、吏の方は同じ役人でも正確無比を旨とし、それを誇りにしていた、とか?
なので、時々、こそっとほんとの事を紛れ込ませて、溜飲を下げていたのでは、説。
ここにも“ちょっとだけ叛逆者”が隠れています。
しにあさんが日本書紀の中で見つけられる矛盾、に目をつけてそこを掘り下げ、ある事ない事、(←あ、失言(ーー;)、ある事ある事話を盛る、(←またまた失礼な!)、物語を繰り広げられる手法、吏が正義感で、職務に忠実にやってた、この辺に生じた矛盾なども含まれるのかもしれませんね?
往来皇女は、自分の意思で都に戻った。
二上山は、天武持統政権に大津皇子の事を思い出させ、睨みを効かせる為に、あの場所に陣取っている?
書、の話はよく分かりませんm(._.)m
実行しなけりゃ恋じゃない? ウケました(笑)
今後も根性悪邪推の健闘を祈っております♪
活字中毒の私にしては最近活字疲れ気味、このブログにどんだけの熱量が注ぎ込まれている?と思うと、ちゃんと読み込めてない?とりとめのないカキコでm(_ _)m
- しにあの旅人さん からの返信 2021/04/03 19:55:01
- Re: とりとめのないままにm(._.)m
- この長文を読み切った方がいるというのが感激です。
4トラの旅行ブログの目的とは関係のないブログで、そのうち事務局から文句が出るかも。
私は大来皇女の実像は、私の想像の方が近いのではないかと思っています。飛鳥の女というのは、とても溌剌として活発で、その後の日本だとむしろ現代に近いのではないか。
日本書紀の矛盾というのは、「吏」があらかじめ仕組んだのではないかという説、賛成です。「官」がいう表向きの事実を突っ込んでいくと、自然と矛盾が見えてくる。ヤマトタケルの筑波から酒折の宮までに日程と距離の時も、これ「吏」が仕組んだなと思いました。
「吏」が仕組んだエピソードを、有る事有る事、盛り上げ盛り上げ、これからも根性悪く、重箱の隅突きを続けます。
5月に3回目の奈良旅を目論んでいたのですが、やめた方がいいみたいです。そのころに我が町のワクチンも重なりそう。奈良は逃げるわけではなし。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/04/04 18:58:10
- Re: とりとめのないままにm(._.)m
- 斎宮に「妖精」説、思いもしなかった。でもこの発想、深追いすると面白いかも。妖精を、折口的古語に置き換える必要はあるけれど、それが何か思いつかないのですが。こういう発想、実にkumming的。
- kummingさん からの返信 2021/04/04 20:03:50
- Original ではございません(ーー;)
- いつも会社に来て机についてるけど、ハンコ押したり新聞読んだり?あの人仕事、何してる?的な閑職、またはお偉いさん、の事を総称して“妖精さん” と、今世代は呼ぶみたいです。
給料泥棒、よりずっと優しい呼称で、私は好感持ってますが。
他に、“お祈りメール” というのは、息子が就活中に先方から貰った、と。即ち「今後のご健闘をお『祈り』申し上げます」不採用通知のこと(笑笑)
今世代がどうしようもない現状を受け入れる時の、柔軟性というか、優しさ、みたいなものを感じます。
original ではないですが、しにあさんのインスピレーションのお役に立てれば幸いです♪
-
- 前日光さん 2021/04/03 17:43:49
- ご高説、痛み入ります(^^;)
- しにあさん&by妻さん、こんにちは
いやいや、多くの大津・大来関連の考察、どんだけ時間をかけて調べられ、またご夫婦で意見を戦わせられたのかと^^;拝察し、楽しませていただくだけの当方は申し訳ない思いです。
まず大津が大来を訪ねたのは秋ではなく、あの「秋」は「阿騎山」の「阿騎」であったとの折口説に私も賛同しようかと。
どもすれば「いつもそっちに話を持って行く派」に賛同したくなるのですが、大津と大来は12年ぶりに再会したわけですよね!
そんなに長い間会わないでいた二人が,久しぶりに相まみえて急に「そっちに話を持って行く」のは不自然、ここはやはり逸る大来の企てを大津が抑えて去って行くパターンの方が、より効果的でしょう。
その時の大来の大津に対する想いについては、by妻さんに共感します。
それにしても家持が詞書きに「竊」を書き加えることで、「ヤマトの中央政府への反感」を示そうとしたという説、驚きました!
しかもそれは家持の筆跡から判断されるというのですから、参りますね。
家持の筆跡については、高岡市の「万葉文化館」の筆跡もほぼ同じですので、この筆跡は確かでしょう。
家持の自筆署名は、2つしか残存していないそうで、言われてみれば橘諸兄などとは全く異なるグレ方をしていますね。
傾きかけた名門に生まれてしまった家持は、最初から世の中を斜めに見ているところがありました。
「いぶせし」、心が晴れない・憂鬱だというのが、彼の歌には頻出します。
生涯「いぶせき」想いに心を曇らせていた彼の、世の中や政治に対する壮大な仕返しは、千年の後もその想いを世に伝えようとして「万葉集」の編集に当たったということなのでしょうか?
本当は歌を詠むことに専念したいのに、武門の家柄大伴家の長として一族を率いてゆかねばならぬわが定めを、彼はどんなに呪わしく思ったことでしょう。
大津・大来の胸に去来する想い、そして編者家持の想いを考察いただきまして、本当にありがとうございましたm(_ _)m
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/04/03 19:20:37
- Re: ご高説、痛み入ります(^^;)
- コメントうれしく読みました
By妻によれば、長すぎる、硬すぎる。それを強行突破しました。今回の大来大津のお勉強、あえて言わしていただくと、研究の結果として、読み手の負担を顧みず思った通りに書きました。読む人いるのかなあと思っておりましたが、読み切っていただいて、本当に嬉しい。
たしかご専門は家持でしたよね。家持の心理については、私より詳しいと思います。「いぶせき」思いからの万葉集の編集態度は、私の上っ面な反抗的家持像より奥が深い。「世の中や政治に対する壮大な仕返し」とまでは私は思いませんでした。「千年の後もその想いを世に伝えようと」した家持の心意気を少しでも汲みとったかと思うと、満足です。
こういう、非常に近代的、というより現代的な詩人を8世紀の段階で持っていた日本というのは、すごいと思います。天才というのは、時代の前後の脈絡なく生まれてくる。家持はそういう天才の一人だったのでしょう。
今回は全く触れる余裕がなかったのですが、大津皇子が迫り来る陰謀に気がつかなかったはずがない。それでもあえてそれに対処しなかったのは何故か。これはもう私の能力の限界を100倍くらい超える話です。しかし結論を先に言ってしまうと、大津皇子は、家持クラスの天才ではなかったのか。自分はこの時代には早すぎたという諦めがあったのではないか。懐風藻だったと思いますが、日本の詩賦は大津皇子に始まるという一文がありました。すごい天才だったということです。
家持と大津皇子は時代が重なりませんが、それを無視してあえて2人が会うことがあったなら、どんな話をしたかな。
「本当は歌を詠むことに専念したいのに、武門の家柄大伴家の長として一族を率いてゆかねばならぬわが定め」これ、多分あっている。「そうなんだよ!」と家持は絶対言う。同じように「皇族なんかじゃなければ、詩譜に専念できたのに」と大津さんも言いそう。
結論がなくなってしまいました。感激的なコメントに舞い上がった結果です。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 六国史の旅 飛鳥の姉弟
9
34