2020/12/14 - 2020/12/14
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しにあの旅人さん
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★続日本紀文武元年(大宝元年/701年)12月27日、
「大伯内親王が薨じた。天武天皇の皇女である」☆
大来皇女が伊勢から飛鳥へ帰ったあと、国史に残る記録は、これだけです。「大来」は「大伯」とも書かれました。
大宝律令以降、皇女は内親王と呼び名が変わりました。
天武天皇のすべての皇女の没年が記録されてはいません。生年・没年がはっきり分かっている皇女はむしろ少ない。当時から注目されていたのでしょう。
享年41才でありました。この時代の平均寿命は30才くらいだそうです。
薨じた場所は分かっておりません。しかし現在の夏見廃寺ではないかと思っています。この旅行記の最後を飾るべく、行ってきました。
六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
夏見廃寺の詳しい説明は、写真以外は特に引用を明記しませんが、全面的に遺跡解説版、名張市教育委員会作成の2種類の「史跡 夏見廃寺跡」に依存しました。とても詳しく、かつ簡潔にまとめられた資料でした。
4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
夏見廃寺は現名張市の丘の上にあります。飛鳥宮跡から現代の道路で36.2km、この路は古代から飛鳥と東国を結ぶ幹線でしたから、道筋はほぼ同じであったでしょう。
名張川の北、男山丘陵裾の雑木林に瓦などが埋まっていることは、昔から知られていたそうです。1946年より発掘が行われ、寺院跡が発見されました。7世紀末に建設され、10世紀後半火災により廃絶したことが分かりました。大来皇女のその後を想像する手がかり by しにあの旅人さん夏見廃寺展示館 美術館・博物館
-
夏見廃寺展示館の「薬師寺縁起」複製品です。
平安時代長和4年(1015年)ころに書かれた書物です。
「大来皇女 最初斎宮 以神亀二年 奉為浄原天皇 建立昌福寺 字夏身 本在伊賀国名張郡」
とあります。「字夏身」はとても小さな文字らしく、写真では読めません。
「大来皇女、最初斎宮なり。神亀2年(725年)をもって、浄原天皇(天武天皇)のおんために昌福寺を建立したまう。夏身と字す。もと伊賀国名張郡にあり」と読みます。「最初」とは初代という意味らしい。
大来皇女が昌福寺を建立した、となっています。
725年には大来はもういませんが、694年に寺の金堂が建設されたことが発掘物から判明しました。したがって694年に寺の一部が完成し、大来の死後725年に寺全体が落慶した、と解釈するそうです。
皇女とはいえ、なんの後ろ盾もない大来皇女、小さいお寺をひとつ造る力も、財力もあったとは思えない。誰かが全面的に援助したのです。 -
「薬師寺縁起」大来皇女の左が大津皇子です。おもしろいことが書いてある。和漢文ですが私の能力ではちゃんとした訓読はできないので、字面だけで適当に意味をとります。
大津皇子 持統天皇4年正月大津皇子を拘禁して自害させた。(書紀では持統元年)
伝承によると、大津皇子は世を嫌って不多神(ふたかみ)山に籠もった。
誣告により掃寺(かでら?)に7日間閉じ込められた。
皇子は悪龍となり雲に上り毒を吐き、天下が静まらなかった。
朝廷はこれを憂いた。
義淵僧正は皇子の平生の師である。
(以降お坊さんがどうしてか修円にかわり、また悪龍が悪霊に変身))
勅命により修円が祈ったが悪霊はまだ収まらない。
修円は一字千金を呼ぶ(意味不明)
悪霊は成仏した。皇子のために龍峯寺を建てた。葛下郡にある。掃守寺がこれである。
「成仏」は原文だと「承諾」です。悪霊が説得を承諾したのですから「成仏」でいいかと。
「一字千金だからね、おとなしくしてね」
「うん、そうするか」
一字千金がなんだかわかりませんが、学問がある悪霊のようです。
「承」は草書で解読できなかったのですが、By妻が一発で読みました。さすが。
「誣告により掃寺(かもでら?)に7日間閉じ込められた」つまり無実の罪で自害させられたという意味です。祟りますね。
大津皇子の祟りが、薬師寺に伝承されていたことがわかります。
天武天皇の菩提を弔うためという寺建立の趣旨と皇子の祟り伝承が並んでいます。この寺は本当は大津皇子をなだめるためだと、言外に言っています。
しかし11世紀でも反逆罪に問われた大津皇子を弔うとは言えないので、表向き天武天皇とした。
おもしろいのは、この「薬師寺縁起」が書かれたころには、後述のように昌福寺は火災で廃絶し、もう存在しないのです。10世紀後半の昌福寺廃絶前にこの記録が薬師寺にあったということです。廃絶した寺の縁起にわざわざ書き込むほどの重要事項だ、と薬師寺は思っていた。
一書に曰く、
この変な話を読むと、こういう話が、広く民衆に流布されていたということが分かります。
悪龍、悪霊。なるほど、ryu ryou。
最初は、僧侶とか多少は文字が読めて教養がある人が考えたのかもしれない話だった。時が流れ、口から口へ話は広がり変化してしまったのでしょう。それでも大津皇子の無念、それだけは変わらずに民衆に深い同情とともに伝わったのでしょう。
それを、わざわざ書き留めたというところが、さすが大人の薬師寺さん。
自分が言ってるんじゃないモンね、みんなが言ってるんだよ。その証拠に、こんな馬鹿なこと言ってるよ。って。
悲劇の貴公子は、常に大衆に支持されるのです。
By妻 -
夏見廃寺跡をぐるっと回ります。
-
記念館パンフレットより。
廃寺跡の一隅に記念館が建てられています。
発掘物、寺の一部の実物大復元模型などが展示されています。
一書に曰く、
夏見廃寺には、三回は行きました。一度は、どこかに行っている時に、By夫が、突然何を思いついたのか行きたいと言いだし、予定にないのに行きました。閉館時間に間に合うか。と、途中休憩なしで息せききって、大急ぎで行き、着いたら、無情にも休館でした。ハハハ。
夏目廃寺は、今は小ぶりな展示館と、整備された寺跡を庭園風にした上品な設備になっております。
小さな駐車場から、そのまま裏の寺跡に行ける細いわき道があります。知っている人は直に庭に行くかもしれません。バイクのお兄ちゃんなんか直に庭でしたね。が、やはり普通の人は、建物に入るでしょうね。そういうふうに路ができておりました。
庭は、林の中に緩やかな高低のある小路がぐるりと回っていて、基壇跡などに導かれて行きます。
北側の庭の外れは開けていて、遠く下の方の盆地に家々がみえて、ここが高いことが実感されます。深呼吸したくなるいい景色です。
歩いた感じでは、お寺は、そんなに大きなものではなかったようです。けれど、それは私たちが奈良の大仏殿や法隆寺、薬師寺などを見ているから、そう思うので、当時の隠の人々にとっては、とてつもなく大きな豪華な堂々たる大伽藍に思えたのではないでしょうか。
山の上にあるから、なおさら高くそびえたつようだったでしょう。それが金銀朱色に飾られて、それはそれは、この世のものとは思えぬ美しさだったことでしょう。現代のスカイツリーツアーみたいに、観光に人があつまったかもしれませんね。
今は、山の中腹にいろいろな企業の工場、倉庫が有り、市営らしい運動場がありました。その山の頂上部分が夏見廃寺です。その夏見廃寺の山つづきにある池には、釣り人が集まっていました。市民に愛される憩いの場のようです。山全体が良い散歩ルートになっているらしく、散歩のついでの見学か、はたまた見学のついでの散歩なのか、展示館にも外にも、ゆったりとした時間を過ごす人をお見かけしました。
バイクのお兄ちゃんみたいな人もいて、歴女ばかりではない歴男の存在もひしひしと感じました。
あ、By夫が、突然来たくなったのは、ここから二上山が見えるか?が知りたかったのですと。
見えませんでした。
だ~から、見えなくたっていいって、言ったでしょ。
By妻 -
記念館展示パネル。
「名張には夏見廃寺の他には古代寺院跡がないことや、寺の別称が夏身と言われていたことなどから、(この廃寺跡が)昌福寺である可能性が非常に強い」となっています。 -
金堂が694年に建てられた最も古い建物です。
-
その瓦の一部。
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硯などが発掘されました。
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記念館パンフレットより。
伽藍配置です。
内側の囲みが初期夏見廃寺寺域となっています。65m四方です。
694年に金堂が完成したときで、金堂、掘立柱建物はこのときできたようです。701年の大来の死までに塔はできたかもしれませんが、講堂はなかったようです。725年講堂の完成をもって寺の落慶としたのではないでしょうか。
寺域の外周に沿って、僧坊と考えられる建物がありました。生活用品と思われる土器が発掘されたそうです。人が住んでいたのでしょう。外周は板塀に囲まれていました。一部復元されていました。 -
金堂基壇跡です。正面14.36m、奥行き11.8m。
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基壇は復元されており、人頭大の名張川の川原石を積み上げています。
正面に川原石を並べた階段がありました。 -
20個の礎石は1個を欠くものの、19個が現存しています。
礎石配置が内陣、外陣ともに間口3間、奥行き2間という特異な配置で、現存する他の寺院建築にはなく、法隆寺に伝わる「玉虫厨子」のような姿であった可能性も強いそうです。 -
玉虫厨子
(ウイキペディア・コモモンズのパブリックドメイン。日本を本国とするこの写真画像は、以下の条件のいずれかに合致するため、日本の旧著作権法(明治32年法律第39号)第23条及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)附則第2条の規定により、日本での著作権の保護期間が満了しています。
1956年(昭和31年)12月31日までに公表(発行)された。
1946年(昭和21年)以前に撮影(製作)された。コレクション:法隆寺)
この写真の上半分ということです。
金堂の中に後述の塼仏(せんぶつ)壁が安置されておりました。 -
掘っ立て柱建物あとです。柱は復元。おおよそ50~60平米くらいの建物でした。金堂、講堂、塔などの寺の主要建築物ではなく、付属の建物だそうです。
-
しかし金堂のすぐ近くに建てられ、重要な建物のようです。
「講堂の正面に位置していることから僧たちが住む僧坊であった可能性がある」となっています。 -
塔の基壇です。川原石で復元されています。
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礎石。初層が1辺5.3mのこじんまりした三重塔が推定されます。かわいい塔だったようです。
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塔・講堂創建瓦。
塔と講堂の瓦が同系統でした。しかし建築に用いられた基準尺が塔は1尺29.6cm、講堂は1尺30cmと違うので、建築時期は異なる。大来皇女の時代、金堂だけではちょっと寂しいので、塔もできていたらいいな。 -
講堂。北から南に傾斜する地形から、東から礼拝する形式でした。
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写真右が東です。
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コの寺型に一段盛り上がったところが、須弥壇で、仏像が安置されていた。
神亀2年(725年)の建立とはこの講堂が完成したときだそうです。このとき、大来皇女はもうこの世にいません。
その後、これらの主な建物の礎石には火を受けた痕跡があり、出土土器の年代から10世紀の末ごろ、一度に焼失したと推定されます。 -
大来皇女の趣味を想像できる遺跡がありました。
かなり派手好きだったみたいです。 -
展示館の奥に金堂の一部が原寸大で再現されていました。
左右のコンクリート製の柱は展示館の柱です。 -
展示館パンフレット。
金堂正面、階段を上りきった所から内部を見ると、こうなります。
古代の寺院では、僧侶といえども金堂外側より礼拝しなければならなかったのです。大来皇女もこの位置から、礼拝したはずです。
塼仏とは堂内の壁を飾る、仏陀の生涯などをモチーフにしたレリーフのタイルです。
夏見廃寺では大きさの違う5種類の塼仏709個を組み合わせた、縦2.8m横2.1mの壁でした。
金堂は火災に遭い、発掘時の塼仏は壁面にはめ込まれたまま、南に傾斜した状態でした。塼仏の使用状態が分かる姿で出土することは珍しいそうです。
大来皇女が礼拝した状態のままであったということです。 -
中央の大型多尊塼仏(部分、展示館パンフレット)
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展示館パンフレット
須弥壇の端には漢字が記されていて「庚午年□□中」と読めるそうです。庚午年とは694年に相当し、この年塼仏が造られたと推定されます。 -
オリジナルは表面に金箔が貼られておりました。
パンフレットからの引用です。
「いまのところ夏見廃寺の金堂には本尊を偲ぶ物はなにもない。華麗な塼仏を荘厳の装飾とするからには本尊は、さぞ優品であったのであろう。(中略)閉ざされた金堂は悲しい歴史を秘めたまま、平安時代、火災によって姿を消した」
この文章を書いた方の言う「悲しい歴史」とは大来皇女の物語でありましょう。
鮮やかな朱色の柱はエンタシスです。濃緑色の連子窓。金箔を貼られたレリーフをバックにした本尊は、そうとう派手でないと目立ちません。
この前に大来が立ったときは、これができあがった直後です。何百年もお線香でくすんだようなものではありません。これを好んだ大来皇女は、ぱっと華やか。うじうじとこの金堂の前でお経をあげるようなタイプではなかった。
彼女の人生は悲しい物語ではありました。しかし本人は、案外明るく、派手好き、豪快な女だったと思います。
一書に曰く、
現代の私たちは、仏教はお葬式と結びついてしまって、陰気な暗い感じを持ってしまいます。
昔は違ったと思うのです。
私は、たった一回ですが、声明をライブで聞く機会がありました。
カソリック教会のミサは、パイプオルガン、聖歌隊とで荘厳な雰囲気だということは知られております。
日本の声明は、それに負けない素晴らしい男声コーラスでした。
私が聞いたときは護摩を焚くことはなかったのですが、本来は護摩を焚きながらお経を唱えるのではないでしょうか。
だとしたら、護摩のもうもうたる煙の中、あるときは朗々と、あるときは嫋々としたコーラスに包まれることになる。
これは正気ではいられないでしょう。
そして見えるものは、金銀朱色に飾られた細緻な美術品。
視覚、聴覚、臭覚を、何というのでしょうか、支配されてしまったわけですから、これは、ジャニーズのコンサートなんて、へーでもない。とんでもない陶酔だったことでしょうね。ジャニーズのコンサートに行ったこともないので間違っていたらごめんなさい。
しかも、信者というか、お参りしている人間は、最初から、それを期待しているわけですから、これはききますよ。相当ラリって、極楽なんか見えちゃうんじゃないですかね。
と考えると、仏教は決して陰気なジメっとした感じではなかったと思います。洋のあっち側で、ジーザス・クライスト・スパースターなら、洋のこっち側では、お釈迦様がスーパースターだったと思います。
紫式部はどこまでもさめている女性で、そうでなければ源氏物語なんて書けなかった。と角田文衛が言っていましたが、大来皇女が、そういうので陶酔できる人であってほしいです。
現世の苦しみを少しでも忘れられたら、と願います。
By妻 -
上述の「史跡 夏目廃寺跡」に、たぶん同じ方が下記のように書いています。
「この伽藍の建立には、在地豪族の夏見氏の協力や、畿内の東の拠点として、あるいは大津皇子に対する贖罪として時の持統天皇や元明、元正天皇の多大な協力があったのかもしれない。夏見廃寺の建立については、微妙な古代政治のなかで、夢をふくらませる」
考古学、古代史の専門家がこう書いているので、私たち素人はどのように「夢をふくらませ」てもOKというお墨付きをもらったと思います。
大来皇女個人には、この規模の小さなお寺でも、寺を建立する力も、財力もあったとは思えません。
「薬師寺縁起」の記録によると、昌福寺建立を発願したのは大来皇女です。
持統3年(689年)4月13日に、草壁皇子が薨じております。この時代の常として、大津皇子の祟りであると、持統天皇が思った可能性はあります。大津皇子の二上山移葬もこの結果とすると、話も時期もあいます。
その後持統と大来の間に和解が成立した。和解と言うより取引かな。持統は大来に、大津の怨念を鎮めるように依頼。そのかわり、大来が希望する寺の建立を持統が許可した。
しかしこれは正史には書けません。大津の謀殺を持統が認めることになるからです。同じ理由で公費も出せない。
大来は思い出の地、隠に寺を建てたかった。そこで持統は、隠の豪族に、私寺として建立を命じた。当時名張は「隠」と書かれました。
上記引用中の「在地豪族の夏見氏の協力」ですが、地元専門家ですから、該当する豪族の見当はついているのかもしれません。
昌福寺金堂の建立が694年というのが、微妙です。この年、持統天皇は飛鳥宮から藤原京へ遷都します。藤原京の建設は4年前から始まっていました。
持統4年(690年)12月27日、
「使者を遣わして新益京(しんやくのみやこ、藤原京)に、地鎮の祭をさせられた」
翌年1月12日には、持統天皇自身が新益京を訪れています。4年間で後の平城京より規模が大きい藤原京を造るわけで、建設は急ピッチで進んだはずです。資材も大工などの人材も、全部吸い取られて、新京から40キロも離れていない隠の寺に回ってくるはずがない。それが金堂ができ、塼仏という当時の最高級寺院室内装飾まで何とかなった、持統の陰のバックアップがあったと考えられます。
金堂だけで、塔も講堂も後回しというところが、ちょっとみみっちい。
「わるいわね、今は手一杯なの、これでとりあえず勘弁してね」という持統の言い分けが聞こえます。
ここまで充分ありえる話です。最後の言い分けは除きます。
昌福寺建立は持統、元明、元正3代の天皇がバックアップした可能性に、上記解説は言及しております。持統はともかく、その後も2代にわたって、このプロジェクトを推進した人物がいるということです。だれかと推測すれば、すぐに不比等を思い浮かべます。
大来皇女が伊勢から帰ってきて飛鳥に住んだ時期と、藤原不比等が飛鳥の持統朝で活躍し始めた時期は重なります。
前回の「飛鳥の姉弟13」で、前日光さん、Kummingさんからいただいたコメント、またBy妻の印象では、天智天皇に愛されていたという共通項があって、この2人は同じかっこにくくれるのではないか。互いに親近感を感じていたのではないか。
そう解釈すると、持統、元明、元正3代にわたる昌福寺建立への協力の筋道が見えてきます。
持統に大来との和解を勧めたのは、不比等かもしれません。
とにかく、歴史の裏でなにやらやらかすのは、不比等の得意技のようです。 -
実際に資金を出し、寺を造ったのは隠の豪族となります。「在地豪族の夏見氏」
古代の豪族で夏見氏というのは特定できませんでした。
さて、これからは、完全に「夢をふくらませ」た話です。
名前がないと不便なので、夏見臣某といたします。臣は地方豪族に与えられた姓(かばね)です。
694年に藤原京への遷都が行われ、飛鳥宮の皇族たちも藤原宮に移ったはずです。大来皇女が飛鳥に宮を持っていたことは、発掘された木簡から確実です。しかし、藤原京遷都後は分かっておりません。694年に、藤原京へは行かず、隠に住んだという仮定も可能です。昌福寺は一部完成しております。
金堂近くに掘っ立て建物がありました。
掘っ立て建物とは、掘っ立て小屋というように現在では粗末な建物の代名詞です。しかし古代では、石の上に柱を立てないで、1mくらい掘った穴に柱を立てる天皇の宮殿クラスの建物もありました。伊勢の、飛鳥時代の斎宮あとの建物は、掘っ立てでした。
昌福寺のこの建物は、「講堂の正面に位置していることから僧たちが住む僧坊であった可能性がある」となっています。
居住できる建物であったということです。
講堂ができる前、つまり大来皇女生前は、彼女が住んでいた可能性があるのではないか。
50~60平米くらいの建物でした。女1人充分に住める広さです。金堂は目の前、いつでも好きなときに金堂の前に立って、弟の菩提を弔うことができます。
寺域には他に付属の掘っ立ての建物もありました。
ここからは、推定というより、こうであったらいいなという、私の希望の物語です。
持統8年(694年)夏見臣某が彼女を隠に招いたというお話しです。
大来皇女三十路すぎ、最初で最後の、遅すぎた愛のお話となります。
一介の地方豪族が皇女を妻にするなど許されるはずがない。所詮実らぬ恋であります。でも夏見臣某は、天武天皇の菩提を弔うため大来皇女を隠の昌福寺に招いた。自分はその皇女に仕える。これなら名目は立ちます。
昌福寺の近くに皇女の屋敷を造って、屋敷でも、昌福寺でも、好きな方に住めばいい。優しい、寛大な男とします。
こうすると、大来はこれから、夏見臣某との、静かな、幸せな7年を過ごせます。
持統さんは、これは許したのではないか。大津皇子を謀殺した罪の意識はあったでしょう。
時もたっております。大来、持統双方、恩讐の彼方、と言ってもいいかもしれません。
一書に曰く、
驚くことに、持統天皇も同じ年に崩御しております。
702年12月22日と。703年1月13日の二つ説がありました。
702年1月29日に大来皇女も薨じているので、同じ年の年始めとその年の終わりです。
ふたりは、仲直りしたのでしょうか?
まず仲直りするほど親しい仲ではなかったでしょう。
というかケンカしたわけではないし。持統天皇は、いろいろありました。政治に忙しかっただろうし、大津皇子をライバル視した草壁皇子も病死した。なぜだか異様に多い吉野行幸。
不安で、居ても立ってもいられないのね。と、そういう持統天皇を冷ややかに見ていた大来皇女だったかもしれない。
686年秋に大津皇子が亡くなり、16年ほど。長かったですね。
でも、16年て、恨み辛みを忘れられる年月ですかね。
私は70才過ぎましたが、16年前って、そんなに前とは思えません。
大津事件は、大来皇女の人生が変わる事件でした。
たったひとりの肉親を、病気で、または事故で亡くしたとしても、忘れられるものではありません。それを、無実の罪で刑死させられたなら、悔しさは薄れることはなかったと思います。
あるとしたら、ただ諦めでしょうか。
多忙な持統天皇にとって、大来皇女は、過去の人だったことでしょう。草壁皇子が亡くなったとき、罪は償ったつもりかもしれません。草壁皇子のために大津皇子を殺したのに、その草壁皇子が死んでしまったのだから。
これでチャラよ。
そうはいかない。大来皇女は、今にみてろ。とチャンスを狙ったかもしれない。けれど、そのチャンスは、ついに来なかった。
大来皇女は、最期まで持統を許さなかったと思います。
By夫は、夏見廃寺にはお金がかかるのだよ。そのお金は、だれが出したの?持統が援助したんじゃないかなあ。なんていっております。
出したかもしれません。出したから、なんだっていうのよ。出させてやったのよ。でも許さないわよ。
それに、天武天皇と天智天皇の血統が続く限り、大来皇女の血統的価値は、相変わらず特別なのですからね、スポンサーくらいいくらでもついたと思いますよ。
けれど、持統天皇を巻き返すチャンスは、ついに来なかった。
大来皇女は無念だったことでしょう。
病床で、持統天皇との駆け引きのあれこれ思い出して、力及ばなかったことを悔しく思ったか、それとも、我ながらよく敢闘したと思ったか。
どちらだったのでしょうか。
飛鳥時代という舞台から、光がひとつ消えていったのです。
By妻 -
ふたたび僧坊と思われる建物跡。
もしかすると、彼女の臨終の地はここだったかもしれません。
文武5年(大宝元年)12月27日、西暦702年1月29日、大来は彼に見守られて生涯を閉じることになります。
もとより希望です。このくらいのことがないと、可哀想すぎる彼女の人生でありました -
大来皇女の墓はどこか分かっておりません。しかし彼女の最後の足跡が名張にあるので、こうした名張の山中、たぶん夏見廃寺を見渡せるどこかに、眠っている可能性はあるでしょう。
いつの日か、大来皇女の墓も墓誌とともに発見されるでしょうか。
「天武天皇皇女最初斎宮」と書いてあるでしょうか。
夏見臣某の賛辞が添えられていたらいいな。
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この旅行記へのコメント (14)
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- 前日光さん 2021/05/07 16:25:17
- ロマンティックですねぇ(*^_^*)
- こんにちは、しにあご夫妻さま。
実はこの連休に、ずいぶん前に経験したことのある「四十肩」(幾つになっても四十?^^;)で右腕が上がらず難儀しました。
しかもパソコンまで、所有者に合わせて調子が悪く、ヤフー画面が開けないので連休中にも関わらず、修理の人に来てもらったりしておりました(>_<)
やっと今、コメントが書けるようになりました。
さてさて。。。
隠、名張市にある「夏見廃寺」、よく辿り着かれましたね!
実証と妄想の入り乱れたしにあ夫妻の御説、大来皇女終焉の地は隠では?という説、これを拝読するまでは、実はなんだかなぁ?と思っていたのですが、この廃寺昌福寺跡や黄金色に輝く塼仏の写真など眺めているうちに、そうなのかもしれないと思うようになりました。
持統と大来の、この寺を建立するに至る駆け引き?のようなものにも頷けます。
弟を無実の罪で処刑された姉の恨み、そう簡単に消えるものではありません。
大来は死ぬまで持統を許しはしなかったでしょう。
ただ、駆け引きとは知りながら寺を建立し、大津の菩提を弔えとの持統の意図や、それを引き継ぐ不比等の思いは十分に理解していたと思います。
さらに地元の豪族夏見氏の義務感を超えた親切に、大来は30を過ぎて初めて心打たれたかもしれません。
もしかしたら大来は、この夏見某に看取られながら生涯を終えたかも(^-^)
傍らにはもう一人、不比等も侍っていたかもしれませんね。
数奇な運命に弄ばれた大来の人生、律令制度が整備されたこの大宝元年、大来はやっと大津の元に帰ってゆきました。
案外悪くなかった人生だったわよと、大津に報告したかもしれませんね(^_^)v
膨大な調査と現地捜査、おかげさまで楽しませていただきました。
夏見廃寺、ここには行かなくては。
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/05/07 17:56:37
- Re: ロマンティックですねぇ(*^_^*)
- いくつになっても四十肩、私も5年くらい前にやりました。ほっておいても2年くらいで治ると言われましたが、幸い近くの整形外科の理学療法士さんが優秀で、半年のリハビリで治りました。
夏見廃寺はぜひいらしてみてください。こじんまりとした寺院跡ですが、感動的です。寺跡を発掘した考古学者の見解では、これが昌福寺跡であることはほぼ確実のようです。すると、薬師寺縁起を信ずるならば、大来皇女の最後の足跡が残るところとなります。終焉の地かどうかは別にして、彼女がこの地に立ったことは間違いありません。
金堂跡は小さいですから、確実に彼女の足跡を、時空を越えてですが、踏むことになります。
タイムトリップが味わえます。
Mistralさんも夏見廃寺においでになりたいとか。
2種類のパンフがありました。小さい方が有料でした。でも百円。このパンフを書いたキュレーターさんは、学問的関心を超えて、大来さんに特別な思い入れがあるような印象です。
彼の解説では、持統、元明、元正と昌福寺建立に協力した可能性があるとのこと。なぜか、文武が抜けています。何か根拠があるのかな。
続日本紀に大来皇女の薨去の記事が、月日まで書かれております。続日本紀は8世紀末の編纂ですから、その頃まで、誰かが大来大津の物語を語り継いだということです。
やはり古代の哀切なロマンだったということなのでしょう。
話はかわって、コロナワクチンですが、我が町では5月25日から接種予約ができるそうです。いろいろきいて見ると、予約を申し込んでから2週間以内に接種してもらえるみたい。
3週間以内に2回目。ということで、7月初めに、3回目の飛鳥奈良旅を目論んでおります。
そちらではいかがでしょうか。
-
- mistralさん 2021/05/04 11:50:29
- 廃寺。
- しにあの旅人さん
こんにちは。
大来、大津妹弟の壮大かつ長大な旅行記に、何もコメントを残さずに
読み逃げで終わるにはしのびなく、参りました。
すでにkummingさんからの最終回記念コメントもあって、、、
mistralの出る幕はなさそう。
でも夏目廃寺についての記述を読まれた事がきっかけで、今回の壮大な旅行記の
構想は大まかに出来上がったとのこと。
表紙の写真を拝見しますと、(ツワモノどもの、ではないとしても)
まるで夢のあとのよう。
しにあさん、まるで大来さんからのメッセージを受け取られたかのようです。
薬師寺縁起、そこに行かれて初めて目にされたわけですよね。
旅行記からの端々に、これまでも大来さんとの熱い絆?!を感じられてきました。
しにあさんの熱い想いから、私も夏目廃寺に行ってみたく思いました。
(私が行ったとしても、何もインスピレーションはないかもですが。)
今となっては、廃寺の本尊は跡形もなく失われてしまっているが
大来皇女が自ら発注されたかもしれない黄金まばゆい「せん仏のパネル」は
どこかに残っているのですね。
展示館でご覧になられたのでしょうか?
川原寺跡からも沢山のせん仏が出土したとのことでしたから、当時の流行だった
のでしょうか。
最後あたり、by妻さんのコメントに共感です。
私も声明を聴き魂が揺さぶられたような経験がありました。
グレゴリア聖歌を聴いた時と同じような感覚でした。
最後まで誇り高かった大来さんなのではないかしら?
仮に誰かから経済的支援を受けたとしても、こころはなびかなかったように想像、
いや期待をしています。
無念ではあったけれど、良くここまでたどり着いたとの満足感もあったように
思いました。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2021/05/04 15:01:46
- Re: 廃寺。
- 夏見廃寺は、機会があれば、訪問お勧めします。大友皇子と同じで、歴史から消えたヒロインの物語です。ただ大友皇子とは違って、大来さんは必ずしも敗者ではなかったと思います。最期は小さいけれど美しいお寺で静かに迎えたようです。
私はこの廃寺が大来の終焉の地であったと確信しております。なんかこう、石段を上がって金堂跡に立った時、感じたものがあったような。「よく来てくれました」と言われたかな。
ま、それはともかく、晩年の大来皇女がこの位置に立ったことは間違いなく、飛鳥の空間を感じ取れる場所ではあります。
想像のタイムトラベルであります。気のきいたセリフを言いたいところですが、その時はメモと写真撮りに夢中で気がつかなかった。
展示館に塼仏はたしか断片が展示されていたと思いますが、写真なし。その時はこれがそんなに大事な物だとは思わなかったのです。立派な原寸大復元品が展示されておりました。現物は写真よりはるかに荘厳かつ大きな物です。高さ2.8mの塼仏の前に安置された仏像は、丈六仏像つまり4.8mの3分の1、1.8m。または4分の1、1.2mのはずです。台座を含めるとどっちですかね。立像か座像か。私はこの種のインテリアと飛鳥時代の仏像の様式に全く詳しくなく、想像の範囲外。
展示館もロマンいっぱいですよ。インスピレーションぐんぐん湧いてくるはず。
行ってみて、結果報告願います。
- mistralさん からの返信 2021/05/04 17:50:16
- Re: 廃寺。
- しにあの旅人さん
夏見廃寺でのインスピレーションは
きっと受けられたのでしょう。
旅行記を読みながら、私にも何か伝わってくるものがありましたから?。
フェデリーコ2世終焉の地の旅行記の時も、
大来皇女の時も、
亡き人の魂が、喜んで迎え入れて下さったことと想像しています。
mistral
- しにあの旅人さん からの返信 2021/05/04 18:44:29
- Re: 廃寺。
- よくぞ分かってくださいました。感謝。
By妻、By夫。
- kummingさん からの返信 2021/05/09 11:12:11
- め~っけ♪
- そうでした、FDII最終章でも、私たちはby夫by妻さんと共にプーリアの風にふかれ、FDIIを悼み心を熱くしました。
今読み返しても、胸が熱くなる、傑作だと思います(TT)
それで見つけたのは、Torremaggiore(2016年までFDIIを偲ぶ?お祭りをやっていたという)に赴く予定でいらしゃると^o^
mistral さん、前日光さんのコメントが遅い!?ので、後から見返すと、心に響くmistral さんの言葉にきゅ~ん。
今回は、思いがけない新情報までついて来ました♪
アクセルとブレーキ(オリンピック開催と緊急事態宣言)を同時に踏む現政権の元、日本だけが開国から取り残されるのでは?と危惧する今日このごろT_T
- しにあの旅人さん からの返信 2021/05/09 12:22:52
- Re: 廃寺。
- kummingさんのコメントの最後に回しました。
-
- kummingさん 2021/05/03 16:35:11
- 最終回を迎えて…
- 六国史の旅 飛鳥の姉弟 大来皇女大津皇子編 最終回脱稿、おめでとうございます♪
シリーズは今後も続くという事ですが、とりあえず今回で飛鳥の姉弟編最終回、を迎え、コメントにも力入れたい処、どなたか最初にカキコしてくれないかな~、私に初コメ、はちと気が引けます…(ーー;)
夏目廃寺には3度も行かれたとか。夏目廃寺に着目されていますが、どうして( why ではなくhow to get)辿りつかれたのですか?薬師寺縁起中の「夏目廃寺が大来皇女により建立された」事は、「薬師寺縁起」の記述を見つけられたからで、その「薬師寺縁起」は夏目廃寺で出会われた?続日本紀か何かに何か端緒になる記述があっての夏目廃寺への注目だった、とか?
この件からだけでも、5年前に着想、3年前から構想し、1年かけて調査執筆、みたいな壮大な計画性がうかがえるブログです(°_°)重箱の隅を突つく前段階に、入念な下調べと資料読み込みがなされているようで(*_*)
父鎌足が天智派だった事から当初は冷や飯食わされる立場だった不比等が、草壁擁立の働きでようやく持統天皇のおぼえめでたい政府要人の地位を得る前から、ご近所付き合い+天智派繋がりで、大来皇女とは憎からぬ関係だったとして、隣同士だった時とは違うやり手妻、後宮のトップを長きに渡って掌握し、女性の伝家の宝刀、子をなすという行為で天下を駆け上り時のの中枢にいた橘三千代の目を盗んで、大来皇女に救いの手を差し伸べる事は可能だったでしょうか?(←時代考証してません)
この時代の人々が、死者の祟りを極度に畏れていたのは、中世西欧のキリスト教信者があの世での地獄堕ちを恐れて免罪符求めて100年もの長きに渡って十字軍遠征を繰り返した、のに負けず劣らずの、畏れであったようで、持統天皇が草壁夭折に感じた『死者の祟り』は、相当なものだったでしょうね。しかも死者が祟って当然の怨みを抱いて無念の死を強いられた場合、怖れる方も尋常じゃない!
なので、持統天皇は不比等が隠れてこそっと大来皇女とは憎からぬ関係なのを見て見ぬふりしつつ、ちょっと大津皇子の弔い寺でも建ててあげない?と囁いた、というのはあり得ます!と、思いたい♪ 裏工作はお手の物、な不比等さん^ ^
書に曰く、という表現が続日本紀に出てきまして、そういう意味だったのか、と今更ながら理解にいたり…。日本書紀、古事記、続日本紀、の漢文、書き下し、現代語訳付き、を手元に、遅ればせながらちょっとお勉強?!中々進まず、睡眠導入剤と化していますが、今度も六国史の旅を追っかける身には必須の基礎教養、悪あがき続けるっきゃない。
大来皇女が持統天皇への怨みを抱いたままあの世へ逝かれたとは思えません。愛する弟を奪われた怨みがはれるという事は決してなかったにせよ、大来皇女の前向きでサバサバした性格に、波乱の人生を乗り越えて来たその底力も加わり、きっと残りの人生を怨みで満たすような不毛な生き方はしていないはず。
歴史の表舞台には残っていない往来皇女の晩年に幸多かれ、とのしにあさんご夫妻の祈り、by夫by妻さんの愛溢れる大来大津への鎮魂歌、1300年の時を超えて、きっと二人の胸に届いたのではないでしょうか^o^
今夜あたり、夢枕に立つかも?
まとまりない尻切れとんぼなカキコの上、長くなりm(_ _)m
前日光さん、mistralさん他、みなさまのコメントが待たれます♪
- しにあの旅人さん からの返信 2021/05/04 06:30:55
- Re: 最終回を迎えて…
- 最終回記念コメントありがとうございます。4か月かかりましたが、どうやらkummingさんを日本古代歴史散歩の泥沼に引き込んだようで、満足。
夏見廃寺のきっかけは、たしかどこかでこれが大来皇女が作ったお寺だと読んだことだと思います。大来さんの年代的に最後になるので、ここがブログの最終回になるだろうとは思っていました。一昨年の末くらいでした。
薬師寺縁起のことは知らなかった。行ってみて、現物の写真を撮ってきて、なんとか解読して驚いたわけです。特に大津皇子についての記事は専門の学者も取り上げる人がいないくて、なんでこういうことが研究されないのかと思いました。
このシリーズを書いていて、国文科の学士卒論、修論クラスのテーマがゴロゴロあって、By妻に「学生時代何やっていたの?」って聞いたら、「真面目に勉強して、学者になっていたら、あなたなんかと結婚しなかったわよ」と言われました。
3回行ったのは、ここから二上山が見えるかどうかの確認でした。結論は見えない、でした。もし見えたら、国文学上の大発見なのでしょうが、残念。
不比等が本当に持統から3代にわたり昌福寺建立に協力したか、妄説の部類です。でも今回気づいたのですが、不比等が仕えた天皇って、文武を除くと3人とも女帝です。烈女三千代も含めて、要するに女心が分かった人物だったのでしょう。この時代では多分珍しく、男中心に物を考えなかった。
その不比等だと、大津が祟る祟らないが表沙汰にならないように、持統、大来の心理を巧みに操って和解を成立させるのは、政情不安を引き起こさない政治的な方策だった、という解釈も成り立ちます。いいアイデア、我ながら感心します。修論レベルです。
長くなりそうなので、とりあえずここまで。
- kummingさん からの返信 2021/05/04 09:02:06
- なあるほど~
- ガッテンでございます♪
薬師寺縁起に「大津皇子が無実の罪をきせられ自害させれ、その祟りを畏れ菩提を弔い建立された昌福寺」という記述がある事が、当時この謀殺説が衆智の公然の秘密だった事を裏付け、パンフの中に「今のところ夏目廃寺の金堂には~(中略)閉ざされた金堂には悲しい歴史を秘めたまま~」、「この伽藍の建立には~(中略)大津皇子に対する贖罪として~夏目廃寺の建立については、微妙な古代政治の中で夢をふくらませる」と書いた考古学、古代史の専門家もまた、ここに着目し、現代でも大津大来の悲劇の物語として語り継がれている、という事ですね。
息子が早逝したので孫が成長するまで祖母が天皇位につき、短い文武時代を除けば3度も女帝が続いたこの時期、その中継ぎに女帝を担ぐ過程にも不比等が関わり、それもひとえに自分の血統の天皇擁立という野望のため、藤原家天皇の外戚への道?女心を操る名人という褒め言葉、良いですね~^ ^
一つ訂正します、一書に曰く、出てくるのは日本書紀、ですね。つけ焼刃の知ったかはいただけませんm(_ _)mすごすご(←しっぽを巻いて退散の図)
残念ながら、国文科出の友達はいません。そういう方と話せたら、さぞや楽しかろう、と想像します♪
今後の展開への期待が高まります^o^
- しにあの旅人さん からの返信 2021/05/05 07:24:20
- 夢枕そのご
- 大来さん、夢枕に立ちましたか?
うちにもきてほしい。色紙でも用意して待ちましょう。写真には映らないよね。
怨霊ですが、続日本紀の出番のようです。昨年11月の旅では、怨霊巡りも考えたのですが、楽しい話ではないのでやめました。長屋王、井上内親王、不破内親王、相良親王、いっぱいいます。
日本古代では怨霊になると神社を作って宥めるのですが、薬師寺に龍王社という摂社があって、これが大津皇子を祀っているとなっています。創建年代不明、薬師寺の他の場所にあって移築されたようです。「龍王」というのが、薬師寺縁起の「悪龍」と一致しますね。
ただし奈良の薬師寺は710年ごろ、持統さんの死後飛鳥から移ってきたお寺で、持統さんが龍王社を作ったわけではないのです。
天武、持統夫婦が作った飛鳥の本薬師寺は10世紀には廃絶したみたい。こちらに何かあるかは、調べていません。
龍王社には、後世作られた大津皇子座像という木像が安置されていたそうです。現在は奈良博にあります。11月に奈良博に行って確認しました。未公開で、公開の予定もないというつれない返事でした。
つまり、持統天皇の同時代に建立された、独立した寺院としては、昌福寺、つまり夏見廃寺が今の所唯一大津皇子を、非公式ですが、弔う寺みたいです。
なんか、スッキリしませんね。お寺としては、金堂、塔、講堂を持った立派な形式の寺院なのに、はっきりと大津皇子を弔うと言っていない。
持統さん、しぶとい。そんなに大津謀殺を認めたくなかったのか。でも祟りは怖い。
大来さんは、なんと思ったか。
間に入った不比等はなんと言って間を取り持ったか。女心を操る名人としても、さぞかし困っただろうと、同情しませんか。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/05/09 12:19:23
- Re: 最終回を迎えて…
- FD2最終章、ずーっと前のような気がします。
あの頃は、もう次の「FD2をめぐる女たち」の準備にはいっていました。まさかこんなことになるとは思っていませんでした。Torremaggioreなんてどうなっているか。南イタリアは貧しいですからね、貧しいところほどコロナの被害が大きいみたいです。あまりに田舎なんで、コロナも来ないといいのですが。
イタリア旅行はメド立たずです。コロナが収まって、その後現地の人心がどうなるか、荒れると思います。3年くらいは無理じゃないかな。75歳以上はレンタカーを借りられないという話もあります。イエジからフォーリニョまでしらみ潰しに古い町をレンタカーで回って、赤ん坊のFD2とコンラッド夫人の通ったであろう道を探すというフィールドワークを考えておりました。見つかっても見つからなくても面白いと思うのですが、多分もうダメみたい。
クィンテーリ荘の浴場の水源を探すのも車がいるし、コロナで旅行の順番が狂いました。
- kummingさん からの返信 2021/05/09 19:58:40
- 傷口に塩~m(_ _)m
- 塩、どころか大量のハバネロを振りかけてしまったm(_ _)m
レンタカーの年齢制限、はやっかいな問題ですね、どなたか若年層のお連れ、甥っ子、姪っ子、お知合い?ドライバーがいませんか?
呑気な事を言ってるみたいでm(_ _)m
コロナ禍終息後も、確かに人心、治安の悪化が収束するにはもっと時間が必要でしょうね。
私も、一人旅、完全に自己責任なので、それでも行くなら片道切符覚悟! くらい相当な気持ちでないと旅立てないかな~
しかも、体力気力的に、残された年月はそう長くはありません(泣)
にっくきコロナめ!!
無いものねだりで嘆くより、今、手に入る幸せで満足しましょう♪
ワクチン接種して、状況が落ち着いて、しにあさんが奈良へ旅立てる日が来ますように\(^o^)/
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