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日本書紀天武元年(672年)6月26日続き、<br />「(桑名)郡家につくと、まず高市皇子を不破に遣わし、軍事の監督をすることを決められた。(中略)この日天皇は桑名の郡家に泊まられ、進むことはされなかった」<br /><br />6月27日続き、<br />「その日天皇は皇后を残して、不破に入られた」<br /><br />6月27日続き、<br />「天皇は野上に行宮を設けられた」<br /><br />菟野皇女は桑名郡家に残りました。<br />壬申の乱の終了後、<br /><br />天武元年9月8日、<br />「天皇は帰路につかれ、伊勢の桑名に宿られた。9日鈴鹿に宿られ・・・」<br /><br />皇后との再会です。<br />9日には桑名発、その後6月の脱出行のルートを逆にたどり、<br /><br />9月12日、<br />「大和京(飛鳥)にお着きになり、嶋宮にお入りになった」<br /><br />大来大津姉弟は、6月26日より9月8日まで、2ヵ月余り、菟野皇女、草壁皇子、忍壁皇子と桑名にいたのです。<br /><br />六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。<br />引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。<br /><br />4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。<br />この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。<br />

六国史の旅 飛鳥の姉弟8 大来大津桑名郡家

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2020/12/08 - 2020/12/08

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旅行記グループ 六国史の旅 飛鳥の姉弟

12

35

しにあの旅人

しにあの旅人さん

日本書紀天武元年(672年)6月26日続き、
「(桑名)郡家につくと、まず高市皇子を不破に遣わし、軍事の監督をすることを決められた。(中略)この日天皇は桑名の郡家に泊まられ、進むことはされなかった」

6月27日続き、
「その日天皇は皇后を残して、不破に入られた」

6月27日続き、
「天皇は野上に行宮を設けられた」

菟野皇女は桑名郡家に残りました。
壬申の乱の終了後、

天武元年9月8日、
「天皇は帰路につかれ、伊勢の桑名に宿られた。9日鈴鹿に宿られ・・・」

皇后との再会です。
9日には桑名発、その後6月の脱出行のルートを逆にたどり、

9月12日、
「大和京(飛鳥)にお着きになり、嶋宮にお入りになった」

大来大津姉弟は、6月26日より9月8日まで、2ヵ月余り、菟野皇女、草壁皇子、忍壁皇子と桑名にいたのです。

六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。

4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
旅行の手配内容
個別手配

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  • 桑名の郡家というのは、どこにあったか分かっておりません。候補地の一つが現桑名市蛎塚新田の縣神社付近といわれております。

    桑名の郡家というのは、どこにあったか分かっておりません。候補地の一つが現桑名市蛎塚新田の縣神社付近といわれております。

  • 縣神社そのものが郡家の跡ではありません。

    縣神社そのものが郡家の跡ではありません。

  • 静かないいお社ではありました。

    静かないいお社ではありました。

  • 周囲は鬱蒼たる竹林で、

    周囲は鬱蒼たる竹林で、

  • 神社左脇の坂を上ると巨大な貯水タンクがありました。<br />残念ながら、かつての郡家を偲ぶにはとっかりがありません。<br />

    神社左脇の坂を上ると巨大な貯水タンクがありました。
    残念ながら、かつての郡家を偲ぶにはとっかりがありません。

  • 書紀の天武天皇から恵尺への指示は、、<br /><br />天武元年(672年)6月24日、<br />「恵尺は馬を馳せて近江に行き、高市の皇子・大津皇子をよび出し、伊勢で落ち合えるようにせよ」<br /><br />迹太川のほとりで天武天皇が天照大神を遙拝後、大津皇子が合流しました。<br /><br />6月26日朝、<br />「・・・やがて益人の後から大津皇子が参られた」<br /><br />大来皇女の名がありません。<br />しかし私たちは、2人一緒だと思っています。<br /><br />6月26日続き、<br />「この夜中に鈴鹿関の司が使いを遣わしてきて、『山部王(やまべのおおきみ)、石川王(いしかわのおおきみ)らが、服属するためにやって参りましたので、関にとどめてあります』といってきた」<br /><br />鈴鹿関の司の誤報ですが、山部王、石川王と、2人の名が報告されてきました。鈴鹿の関にたどり着いたのは2人であった証拠です。大来、大津の2人の皇子の名が、伝言ゲームの途中で入れ替わった。<br />なおこの時代、皇子と皇女の区別はなく、いずれも皇子(みこ)といわれていたようです。

    書紀の天武天皇から恵尺への指示は、、

    天武元年(672年)6月24日、
    「恵尺は馬を馳せて近江に行き、高市の皇子・大津皇子をよび出し、伊勢で落ち合えるようにせよ」

    迹太川のほとりで天武天皇が天照大神を遙拝後、大津皇子が合流しました。

    6月26日朝、
    「・・・やがて益人の後から大津皇子が参られた」

    大来皇女の名がありません。
    しかし私たちは、2人一緒だと思っています。

    6月26日続き、
    「この夜中に鈴鹿関の司が使いを遣わしてきて、『山部王(やまべのおおきみ)、石川王(いしかわのおおきみ)らが、服属するためにやって参りましたので、関にとどめてあります』といってきた」

    鈴鹿関の司の誤報ですが、山部王、石川王と、2人の名が報告されてきました。鈴鹿の関にたどり着いたのは2人であった証拠です。大来、大津の2人の皇子の名が、伝言ゲームの途中で入れ替わった。
    なおこの時代、皇子と皇女の区別はなく、いずれも皇子(みこ)といわれていたようです。

  • 「飛鳥宮跡出土木簡」(奈良県立橿原考古学研究所編)によると、明日香村岡340・5番地で実施した第104次調査で、ひとかたまりの木簡が発見されました。

    「飛鳥宮跡出土木簡」(奈良県立橿原考古学研究所編)によると、明日香村岡340・5番地で実施した第104次調査で、ひとかたまりの木簡が発見されました。

  • 写真の右三角形の建物(工場)を建てる前の調査だそうです。

    写真の右三角形の建物(工場)を建てる前の調査だそうです。

  • 104次調査地は現万葉文化館の飛鳥工房池跡地の真南、飛鳥宮跡北端の西になります。

    104次調査地は現万葉文化館の飛鳥工房池跡地の真南、飛鳥宮跡北端の西になります。

  • 飛鳥資料館の飛鳥宮模型(掲載許可取得済み)だと、2つの赤線の交点あたりです。<br />ここは飛鳥浄御原宮の役所群があったところです。<br /><br />その木簡のなかに、<br />「大津皇」(104-18、19)<br />「大友」(104-17)<br />「大来」(104-25)<br />「太来」(104-25)<br />「幸巳年」(104-6・7)<br />「明評」(104-37)<br />などと読める木簡がありました。番号は資料番号。<br /><br />「大津皇」は当然大津皇子。加えて「大津皇子」と思われる断片が5片。<br />「大友」は大友皇子<br />「大来」「太来」大来皇女を意味します。<br />「幸巳年」というのは天武10年(681年)<br />「明評」は伊勢国朝明郡に相当します。天武天皇が天照大神を遙拝した迹太川は朝明郡にあります。桑の郡家も朝明郡から遠くありません。<br /><br />「伊勢国」「尾張」「近淡(近江国のこと)」などと読める木簡も出土しているので、「飛鳥宮跡出土木簡」によると、<br /><br />「記載内容には壬申の乱に関わる人名や地名が多く見られ、歴史書編纂に関わる部署からの廃棄とも考えられる」<br /><br />書紀の壬申の乱の基礎資料には、大津とならんで大来皇女が登場したことが推定されます。壬申の乱に大津皇子の名があるのは、近江脱出行だけです。つまり、2人が同時に登場するのは、近江脱出行ということになります。<br />書紀には大来皇女の名は書かれていないものの、彼女は近江を大津とともに脱出し、その後桑名郡家で、共に2ヵ月を過ごしました。

    飛鳥資料館の飛鳥宮模型(掲載許可取得済み)だと、2つの赤線の交点あたりです。
    ここは飛鳥浄御原宮の役所群があったところです。

    その木簡のなかに、
    「大津皇」(104-18、19)
    「大友」(104-17)
    「大来」(104-25)
    「太来」(104-25)
    「幸巳年」(104-6・7)
    「明評」(104-37)
    などと読める木簡がありました。番号は資料番号。

    「大津皇」は当然大津皇子。加えて「大津皇子」と思われる断片が5片。
    「大友」は大友皇子
    「大来」「太来」大来皇女を意味します。
    「幸巳年」というのは天武10年(681年)
    「明評」は伊勢国朝明郡に相当します。天武天皇が天照大神を遙拝した迹太川は朝明郡にあります。桑の郡家も朝明郡から遠くありません。

    「伊勢国」「尾張」「近淡(近江国のこと)」などと読める木簡も出土しているので、「飛鳥宮跡出土木簡」によると、

    「記載内容には壬申の乱に関わる人名や地名が多く見られ、歴史書編纂に関わる部署からの廃棄とも考えられる」

    書紀の壬申の乱の基礎資料には、大津とならんで大来皇女が登場したことが推定されます。壬申の乱に大津皇子の名があるのは、近江脱出行だけです。つまり、2人が同時に登場するのは、近江脱出行ということになります。
    書紀には大来皇女の名は書かれていないものの、彼女は近江を大津とともに脱出し、その後桑名郡家で、共に2ヵ月を過ごしました。

  • 以下近江脱出行から脱線します。<br /><br />天武元年(672年)、<br />「この年、宮殿を岡本宮の南に造り、その冬、移り住まわれた。これを飛鳥浄御原宮という」<br /><br />宮殿ができると同時に役所も作られたはず。<br />歴史の編集部が、飛鳥浄御原の大安殿のすぐ近くにあったのに驚いています。グーグルさんで計ったら直線122mです。歩いて2分。<br />よほど大事な部署なのです。日本書紀の最も大事な部分は28&#12316;30巻の天武、持統紀。その中でもキモは壬申の乱です。「壬申紀」とも言われます。近江から挑発されて、やむを得ず蜂起した正当防衛なんだ。ここをうまく書いて、天武持統朝の正当性を強調しないといけない。<br />天武政権が樹立されて、記憶が新しいうちに、書くべき資料、書かない資料を収集しておく。後者は握り潰す。<br /><br />書紀の編纂は天武10年(681年)に始まったと書紀に書いてあります。じゃあ、それ以前、ここでは何をしていたか。初期書紀の編集?ダシャレです。<br />天皇の宮からすごく近いので、2人の個人的な行動記録を作っていたのではないかな。もちろんあとで、何らかの公的な歴史書にまとめ上げる意図は最初からあった。<br />菟野皇女なんか毎朝やって来て、書記の仕事をのぞき込んでチェック。「どこまで書いたの?」<br />「なにこれ、太田皇女、いらないわよ、カット」とか。<br />「なんでここで私が出てこないの?名前出すように」とか。<br />「皇室の先祖は女にしてね。名前?『あまてらすおおみかみ』なんか、かっこいいわね」とか。<br />「ここに『菟野皇女は美人』って書いたの、どなた?嫌がらせのつもり?ウソはよくないわよ。事実を書きなさい。書かない事実もあるけどね」とか。<br />編集部のスタッフは「おばさん、また来たぜ、うざいなあ」とか。<br />でも近いので便利。「ここ分かんないやあ、ちょっくら本人に聞いてくる」と宮殿に駆け込んだり、とか。<br /><br />初期書紀編集部「壬申の乱」課には、書架がいくつもあって、「大津皇子」と木簡の名札がぶら下がっていた。大津皇子らしい木簡がいっぱいあるのは、テーマごとに資料が積まれ、「大津皇子のなんとか」テーマを書いた木簡が置いてあった。<br />「大来皇女」の棚がいっぱいになった。二つ目の棚を作って、課長のほにゃらの連が「太来皇女」と書いたら、<br />若い生意気な書記が「課長、字が違います」<br />課長「読みが同じ『おお』だからいいの。近頃の若いモンは万葉仮名を知らないね」<br />この時代、読みが同じなら適当に漢字を当てたようです。<br />などなど、むにゃむにゃ・・・でも案外当たっているかも。<br /><br />発見された木簡の内容で年代が分かる下限は天武14年(685年)です。木簡が書かれたのはそれ以前となります。年代ではそのほか、断片ながら天武4年(675年)、天武7年(678年)、天智10年(671年)、天武9年(680年)、天武12年(683年)と推定できる木簡がありました。テーマで分類できない資料は、年代で並んでいたのです。現代でも、歴史書を複数ライターで分散して書くなら、こんなふうにするでしょう。<br />天智10年(671年)というと、壬申の乱勃発の前年です。どんな資料があったのかな?興味ワクワク。<br />大友皇子の妃十市皇女が、鮒の包み焼きに密書を隠して、父天武天皇に近江の情報を流した、という有名な話が13世紀の「宇治拾遺物語」にあるそうです。ひょっとして、まだかすかに鮒の匂いが残るその包み紙だったとか。<br /><br />天武14年(685年)以降のある日、編集部は引っ越しました。天武10年に本格的に日本書紀の編集が始まったので、事務所が手狭になったのでしょう。荷造りしたあと、古い名札はまとめて棄てました。<br />それが1985年の発掘調査で出てきたわけです。

    以下近江脱出行から脱線します。

    天武元年(672年)、
    「この年、宮殿を岡本宮の南に造り、その冬、移り住まわれた。これを飛鳥浄御原宮という」

    宮殿ができると同時に役所も作られたはず。
    歴史の編集部が、飛鳥浄御原の大安殿のすぐ近くにあったのに驚いています。グーグルさんで計ったら直線122mです。歩いて2分。
    よほど大事な部署なのです。日本書紀の最も大事な部分は28〜30巻の天武、持統紀。その中でもキモは壬申の乱です。「壬申紀」とも言われます。近江から挑発されて、やむを得ず蜂起した正当防衛なんだ。ここをうまく書いて、天武持統朝の正当性を強調しないといけない。
    天武政権が樹立されて、記憶が新しいうちに、書くべき資料、書かない資料を収集しておく。後者は握り潰す。

    書紀の編纂は天武10年(681年)に始まったと書紀に書いてあります。じゃあ、それ以前、ここでは何をしていたか。初期書紀の編集?ダシャレです。
    天皇の宮からすごく近いので、2人の個人的な行動記録を作っていたのではないかな。もちろんあとで、何らかの公的な歴史書にまとめ上げる意図は最初からあった。
    菟野皇女なんか毎朝やって来て、書記の仕事をのぞき込んでチェック。「どこまで書いたの?」
    「なにこれ、太田皇女、いらないわよ、カット」とか。
    「なんでここで私が出てこないの?名前出すように」とか。
    「皇室の先祖は女にしてね。名前?『あまてらすおおみかみ』なんか、かっこいいわね」とか。
    「ここに『菟野皇女は美人』って書いたの、どなた?嫌がらせのつもり?ウソはよくないわよ。事実を書きなさい。書かない事実もあるけどね」とか。
    編集部のスタッフは「おばさん、また来たぜ、うざいなあ」とか。
    でも近いので便利。「ここ分かんないやあ、ちょっくら本人に聞いてくる」と宮殿に駆け込んだり、とか。

    初期書紀編集部「壬申の乱」課には、書架がいくつもあって、「大津皇子」と木簡の名札がぶら下がっていた。大津皇子らしい木簡がいっぱいあるのは、テーマごとに資料が積まれ、「大津皇子のなんとか」テーマを書いた木簡が置いてあった。
    「大来皇女」の棚がいっぱいになった。二つ目の棚を作って、課長のほにゃらの連が「太来皇女」と書いたら、
    若い生意気な書記が「課長、字が違います」
    課長「読みが同じ『おお』だからいいの。近頃の若いモンは万葉仮名を知らないね」
    この時代、読みが同じなら適当に漢字を当てたようです。
    などなど、むにゃむにゃ・・・でも案外当たっているかも。

    発見された木簡の内容で年代が分かる下限は天武14年(685年)です。木簡が書かれたのはそれ以前となります。年代ではそのほか、断片ながら天武4年(675年)、天武7年(678年)、天智10年(671年)、天武9年(680年)、天武12年(683年)と推定できる木簡がありました。テーマで分類できない資料は、年代で並んでいたのです。現代でも、歴史書を複数ライターで分散して書くなら、こんなふうにするでしょう。
    天智10年(671年)というと、壬申の乱勃発の前年です。どんな資料があったのかな?興味ワクワク。
    大友皇子の妃十市皇女が、鮒の包み焼きに密書を隠して、父天武天皇に近江の情報を流した、という有名な話が13世紀の「宇治拾遺物語」にあるそうです。ひょっとして、まだかすかに鮒の匂いが残るその包み紙だったとか。

    天武14年(685年)以降のある日、編集部は引っ越しました。天武10年に本格的に日本書紀の編集が始まったので、事務所が手狭になったのでしょう。荷造りしたあと、古い名札はまとめて棄てました。
    それが1985年の発掘調査で出てきたわけです。

  • 桑名郡家での大来大津姉弟の生活を想像するには、縣神社は頼りなさ過ぎます。なんとか他に材料はないか。そこで思いついたのは、近くのくるべ官衙遺跡です。

    桑名郡家での大来大津姉弟の生活を想像するには、縣神社は頼りなさ過ぎます。なんとか他に材料はないか。そこで思いついたのは、近くのくるべ官衙遺跡です。

  • 桑名郡家(縣神社)から朝明(あさけ)郡家(くるべ官衙遺跡)まで、現代の道路で10.4km、直線で8.49kmです。<br />どんなものかというと、

    桑名郡家(縣神社)から朝明(あさけ)郡家(くるべ官衙遺跡)まで、現代の道路で10.4km、直線で8.49kmです。
    どんなものかというと、

  • 朝明郡家の一部が、復元されています。<br />久留倍官衙遺跡は、国道1号線北伊勢バイパス建設の事前調査で確認された古代の役所の遺跡です。<br />ここに伊勢国朝明郡の郡家がありました。第I期(7世紀後半~8世紀前半)、第II期(8世紀中頃~8世紀後半)、第III期(8世紀後半~9世紀末)の建物あとが発掘されました。<br />このうち第I期は、モロ壬申の乱のころです。<br />嬉しいことに復元されているのは第I期なのです。<br />隣の郡、桑名の郡家も同じような造りではなかったかと、やってきました。

    朝明郡家の一部が、復元されています。
    久留倍官衙遺跡は、国道1号線北伊勢バイパス建設の事前調査で確認された古代の役所の遺跡です。
    ここに伊勢国朝明郡の郡家がありました。第I期(7世紀後半~8世紀前半)、第II期(8世紀中頃~8世紀後半)、第III期(8世紀後半~9世紀末)の建物あとが発掘されました。
    このうち第I期は、モロ壬申の乱のころです。
    嬉しいことに復元されているのは第I期なのです。
    隣の郡、桑名の郡家も同じような造りではなかったかと、やってきました。

  • 四日市市が「くるべ古代歴史館」を造って、遺跡の詳しい解説を展示しています。<br />遺跡の復元建物と歴史館の模型を比べながら見学できます。

    四日市市が「くるべ古代歴史館」を造って、遺跡の詳しい解説を展示しています。
    遺跡の復元建物と歴史館の模型を比べながら見学できます。

  • 遺跡全体図。

    遺跡全体図。

  • 西側から見た復元想像図。当時は海が近かったのです。

    西側から見た復元想像図。当時は海が近かったのです。

  • 南側から見た復元模型。<br />左の大きな建物2棟は倉庫です。

    南側から見た復元模型。
    左の大きな建物2棟は倉庫です。

  • 官衙は広い丘の上にあります。

    官衙は広い丘の上にあります。

  • 八脚門。寺院や役所などの格式の高い建物の門でした。縦横6.5mx4.1m。左右の木造の塀が政庁全体を囲んでいました。

    八脚門。寺院や役所などの格式の高い建物の門でした。縦横6.5mx4.1m。左右の木造の塀が政庁全体を囲んでいました。

  • 門の奥が正殿。

    門の奥が正殿。

  • 政庁の中心、正殿。11.3mx7.4m。発掘調査で見つかった柱の跡に柱を立て、大きさを忠実に再現しています。建物は東屋として再現されています。<br />この前の広場で。儀式や宴会が行われました。

    政庁の中心、正殿。11.3mx7.4m。発掘調査で見つかった柱の跡に柱を立て、大きさを忠実に再現しています。建物は東屋として再現されています。
    この前の広場で。儀式や宴会が行われました。

  • 脇殿跡。<br />脇殿は正殿の南北にある建物で、役人たちが儀式や宴のときに着座する場所であったと考えられています。

    脇殿跡。
    脇殿は正殿の南北にある建物で、役人たちが儀式や宴のときに着座する場所であったと考えられています。

  • この近くにはもう1カ所、伊勢国郡家跡があります。

    この近くにはもう1カ所、伊勢国郡家跡があります。

  • 河曲郡の郡家跡が鈴鹿市国分町で発掘されました。<br />現代の道路で15.1km、直線13.24kmです。

    河曲郡の郡家跡が鈴鹿市国分町で発掘されました。
    現代の道路で15.1km、直線13.24kmです。

  • 現在は鈴鹿市考古博物館として整備されています。

    現在は鈴鹿市考古博物館として整備されています。

  • 隣接して伊勢国国分寺跡があります。

    隣接して伊勢国国分寺跡があります。

  • 遺跡全体図です。<br /><br />塀に囲まれた郡庁内に長方形の建物跡があります。柱が長辺9本短辺5本ある建物が正殿と思われます。久留倍の朝明郡家の正殿は柱が長辺6本短辺5本でしたから、もしかすると河曲の正殿のほうが大きかったかもしれません。でもこの時代、柱間の長さはとくに決まっていなかったそうです。

    遺跡全体図です。

    塀に囲まれた郡庁内に長方形の建物跡があります。柱が長辺9本短辺5本ある建物が正殿と思われます。久留倍の朝明郡家の正殿は柱が長辺6本短辺5本でしたから、もしかすると河曲の正殿のほうが大きかったかもしれません。でもこの時代、柱間の長さはとくに決まっていなかったそうです。

  • 正倉の復元模型図です。同じような建物跡が朝明郡家にもありました。

    正倉の復元模型図です。同じような建物跡が朝明郡家にもありました。

  • 博物館の前庭に建物の柱跡に位置が示されています。

    博物館の前庭に建物の柱跡に位置が示されています。

  • 桑名の郡家もこれらと同様の建物であったと思われます。<br />天武元年(672年)6月26日、天武天皇は桑名郡家に入りました。高市皇子は休む間もなく不破の戦線に旅立ちました。<br />天武自身も翌27日不破に出発、野上に行宮を設けました。<br /><br />桑名は、不破と飛鳥戦線の補給。兵站基地でありました。当時の桑名は海が現在よりはるかに近く、東国からの兵員、食料などの補充、補給に適していました。<br />続々到着する人員、物資を2方面に送り出すのです。桑名はもちろん、近くの朝明、河曲などの郡家の役人をかり出したでしょう。でも万単位の軍勢の補給など想定外ですから、事務処理に足りるはずがありません。このあたりの豪族は、富と武力はあっても、オツムの方は頼りなかったのではないか。各郡家に読み書き計算ができる書紀は何人いたか。<br />私たちは、菟野自身、そうした補給、兵站の指揮をとったのではないかと思います。剣や弓矢はこの際用なし、字の読み書きが必須なのです。<br />郡家の正殿に陣取って、中庭に運び込まれる食料の分配を決め、到着した部隊の隊長を謁見し、配置先を告げる。顔に墨くらい飛び散ったでしょうね。いくさの後方基地なのです。それをいやがる菟野ではない。喜々として取り組んだはず。「こういうの、大好き」<br />何たって、壬申の乱を天武に焚き付けたのは、菟野なのです。<br /><br />日本書紀によれば、近江戦線は7月23日大友皇子の自殺で天武天皇軍の勝利に終わりました。<br />ヤマトの戦場では、大伴吹負が将軍として大活躍します。<br /><br />天武元年(672年)7月3日以降と思われる、<br />「将軍(吹負)が飛鳥に帰ると、東国からの本隊の軍が続々とやってきた」<br /><br />菟野が桑名から送り出した部隊でしょう。<br /><br />天武元年(672年)7月22日、<br />「将軍吹負は大和を完全に平定し、大坂を越えて難波に向かった」<br /><br />大和戦線も終結です。<br />このあとも9月8日天武天皇が不破を離れるまで、菟野は桑名から近江、大和に駐留する軍勢に補給を続けたのです。

    桑名の郡家もこれらと同様の建物であったと思われます。
    天武元年(672年)6月26日、天武天皇は桑名郡家に入りました。高市皇子は休む間もなく不破の戦線に旅立ちました。
    天武自身も翌27日不破に出発、野上に行宮を設けました。

    桑名は、不破と飛鳥戦線の補給。兵站基地でありました。当時の桑名は海が現在よりはるかに近く、東国からの兵員、食料などの補充、補給に適していました。
    続々到着する人員、物資を2方面に送り出すのです。桑名はもちろん、近くの朝明、河曲などの郡家の役人をかり出したでしょう。でも万単位の軍勢の補給など想定外ですから、事務処理に足りるはずがありません。このあたりの豪族は、富と武力はあっても、オツムの方は頼りなかったのではないか。各郡家に読み書き計算ができる書紀は何人いたか。
    私たちは、菟野自身、そうした補給、兵站の指揮をとったのではないかと思います。剣や弓矢はこの際用なし、字の読み書きが必須なのです。
    郡家の正殿に陣取って、中庭に運び込まれる食料の分配を決め、到着した部隊の隊長を謁見し、配置先を告げる。顔に墨くらい飛び散ったでしょうね。いくさの後方基地なのです。それをいやがる菟野ではない。喜々として取り組んだはず。「こういうの、大好き」
    何たって、壬申の乱を天武に焚き付けたのは、菟野なのです。

    日本書紀によれば、近江戦線は7月23日大友皇子の自殺で天武天皇軍の勝利に終わりました。
    ヤマトの戦場では、大伴吹負が将軍として大活躍します。

    天武元年(672年)7月3日以降と思われる、
    「将軍(吹負)が飛鳥に帰ると、東国からの本隊の軍が続々とやってきた」

    菟野が桑名から送り出した部隊でしょう。

    天武元年(672年)7月22日、
    「将軍吹負は大和を完全に平定し、大坂を越えて難波に向かった」

    大和戦線も終結です。
    このあとも9月8日天武天皇が不破を離れるまで、菟野は桑名から近江、大和に駐留する軍勢に補給を続けたのです。

  • 天武が不破に向かった後、6月28日から桑名に残ったのは菟野皇女、草壁皇子、忍壁皇子、そして大来大津姉弟であります。<br />その後2ヵ月、5人がどのように暮らしたのか、まったく記録はありません。<br />大来11才半前後のころです。<br /><br />郡家の政庁は、官衙であり、郡の政務と儀式の場だったようです。生活できる設備はありません。郡司はその土地の豪族が任命されることが普通だったので、郡司の館が菟野一行に提供されたと考えられます。<br />皇后と4人の皇子たちが住める広い豪華な屋敷があったとは思えない。近江とのいくさの最中です。5人が分散して住むと警護が大変。このあたり、合理的な菟野が文句言うはずがない。「いいわよ」<br />桑名郡家隣接のどこかで、5人は、皇族としては普通では考えられない狭いところに、ごちゃっと暮らしていたのではないでしょうか。<br />大来最年長11才半、草壁、忍壁同じくらい10才、大津9才です。<br />同じ年頃の子供が4人、比べるなというのは無理です。

    天武が不破に向かった後、6月28日から桑名に残ったのは菟野皇女、草壁皇子、忍壁皇子、そして大来大津姉弟であります。
    その後2ヵ月、5人がどのように暮らしたのか、まったく記録はありません。
    大来11才半前後のころです。

    郡家の政庁は、官衙であり、郡の政務と儀式の場だったようです。生活できる設備はありません。郡司はその土地の豪族が任命されることが普通だったので、郡司の館が菟野一行に提供されたと考えられます。
    皇后と4人の皇子たちが住める広い豪華な屋敷があったとは思えない。近江とのいくさの最中です。5人が分散して住むと警護が大変。このあたり、合理的な菟野が文句言うはずがない。「いいわよ」
    桑名郡家隣接のどこかで、5人は、皇族としては普通では考えられない狭いところに、ごちゃっと暮らしていたのではないでしょうか。
    大来最年長11才半、草壁、忍壁同じくらい10才、大津9才です。
    同じ年頃の子供が4人、比べるなというのは無理です。

  • これは飛鳥資料館(掲載許可所得済み)の小墾田宮復元模型。<br />推古天皇の宮殿とされています。推古11年(603年)の建物です。70年ほどあとの裕福な地方豪族であれば、このくらいの屋敷は構えていたかもしれません。

    これは飛鳥資料館(掲載許可所得済み)の小墾田宮復元模型。
    推古天皇の宮殿とされています。推古11年(603年)の建物です。70年ほどあとの裕福な地方豪族であれば、このくらいの屋敷は構えていたかもしれません。

  • くるべ古代博物館のビデオから撮影したものです。壬申の乱当時の不破関復元模型です。官衙復元模型にくらべて、住居として使える感じがします。

    くるべ古代博物館のビデオから撮影したものです。壬申の乱当時の不破関復元模型です。官衙復元模型にくらべて、住居として使える感じがします。

  • 藤原京資料室の住居模型。<br />藤原京中心部で見つかった住居あとの復元模型です。皇族または高位の役人の住まいだったそうです。藤原京は694年から710年まで都でしたから、壬申の乱の時代からそれほど違わない。地方豪族の館は大体こんなものと考えても間違いではないでしょう。<br />推古天皇のころと比べて外観はそれほど違いがありません。<br /><br />いずれにしても、皇后と4人の皇子が暮らすには、かなり狭い。<br />皇子4人はいつも一緒だった。ほったらかしで、だんごになって遊んでいたのではないか。<br />教育係を個別につける余裕もない戦時です。文字が読み書きできる人材だったら、有無を言わさず補給事務に駆り出す。<br /><br />皇子4人初等教育は始めていたでしょう。字は読める。ひょっとして、菟野が書く木簡を持って役所中庭を走り回ったかも。大来は特に役に立った。<br />「草壁、そこじゃないでしょ。また間違えた、ばか!」<br />菟野が怒ります。<br />いくら何でもねえ~、これはない。児童福祉法違反です。<br /><br />私たちはここでの生活が、菟野皇女が大来大津姉弟を警戒する端緒となったのではないかと想像します。<br />天智6年(667年)ごろに姉太田皇女が薨じて、当時6才と4才の姉弟が天智天皇に引き取られたあと、菟野は姉弟に会っていない。それから5年後、2人に再会した菟野は驚いたのではないか。<br />一言で言えば、2人があまりに優秀だった。<br /><br />大津はのち日本書紀や懐風藻が賞賛するような、並外れて優れた知力体力の片鱗を見せた。それに比べて1才年上の我が子草壁の凡庸さが目立った。天武の後継者として、草壁の強力なライバルになりえると思った。<br />こう考えると、後年、天武天皇の崩御直後、持統天皇の大津皇子に対する迅速な決断が理解できる。このころから警戒、準備していたのです。<br /><br />大来は、弟以上に優秀で、なにより11才ながら、美しかった。今後どんな美しい女に育つか、予想もつかない。そして気が強い。菟野は自分に似ていると思った。<br />こういう頭のいい、気の強い、美しい皇女が、他の男子皇族の妃となったら何をするか、最も知っているのは菟野自身です。<br />それよりも将来有力豪族の支持を得たら、大来自身が女帝として帝位継承のライバルになる。菟野は、鼻の下を伸ばしそうな豪族を、瞬時に半ダースくらい思いついた。<br /><br />一書に曰く、<br />大来皇女は、なぜそこまで憎まれたのか?それは、大来が草壁との結婚を断ったからでしょう。<br />菟野皇女は、利発で勝ち気な、この少女大来皇女を、誰よりも高く評価していた。なぜなら、少女時代の菟野皇女に、大来はそっくりだったからです。そして、息子草壁皇子は、誰もが認める頼りなさ。彼を補佐するには、しっかり者の大来皇女がぴったりだと考えたとしても、何ら不思議はありません。<br />それより何より、大来皇女の血筋。天智天皇の孫、天武天皇の娘、そして、菟野皇女の姉を母に持つ。さらに、加えると、育ての親は、天智天皇皇后の倭姫。<br />この時代、大来皇女姉弟以上に高貴な人がいたでしょうか。<br />菟野皇女は、ほしかったでしょうね。自分の陣営に。<br />しかし、大来皇女は、断ったのですよ。理由は何だったのでしょうか。菟野皇女は、「将来の皇后よ。もしかしたら、天皇よ」とか勧誘したのかもしれません。そうしたら、「しゃらくせい!なりたかったら、自分でなるわ」なんて、憎ったらしく、答えたのかもしれません。11才は反抗期ですからね。そうでなくとも、いつも青い顔して、鼻水垂らして泣き虫で、マザコンとなんか、「だ~れが、結婚するか!」だったのか。<br />菟野皇女は、母親としては、相当頭にきたでしょう。しかしそれより冷徹な政治家として、この娘を敵に回すと、手強いぞと思ったに違いありません。味方にならないと決まった今、敵にしないにはどうするか?<br />By妻<br /><br />書紀によれば翌年突然、大来皇女は伊勢神宮に仕える斎宮と言うことで伊勢におくられます。<br />ところが、天武2年(673年)には、奈良時代以降のような伊勢神宮は成立していなかった、という強力な学説があります。<br />つまり大来皇女はありもしない伊勢神宮に送られたとことになります。これは推理しがいのあるところなので、次回以降たっぷりと。<br />桑名の2ヵ月のある日、分別あるべき28才の菟野皇女は、11才半の小娘相手に、激しく憤慨した。菟野は草壁がからむと自制心が乏しくなるので、ありえる話です。<br />逆に言うと、弱冠11才半、厳密にいうと11才8ヵ月の大来皇女は、28才の皇后を激怒させ、警戒心を漲らせるような何かをしでかした。<br />By妻説、もしかすると史実に近いかも。大来皇女は、ものすごく気の強い、やや高慢な娘となります。

    藤原京資料室の住居模型。
    藤原京中心部で見つかった住居あとの復元模型です。皇族または高位の役人の住まいだったそうです。藤原京は694年から710年まで都でしたから、壬申の乱の時代からそれほど違わない。地方豪族の館は大体こんなものと考えても間違いではないでしょう。
    推古天皇のころと比べて外観はそれほど違いがありません。

    いずれにしても、皇后と4人の皇子が暮らすには、かなり狭い。
    皇子4人はいつも一緒だった。ほったらかしで、だんごになって遊んでいたのではないか。
    教育係を個別につける余裕もない戦時です。文字が読み書きできる人材だったら、有無を言わさず補給事務に駆り出す。

    皇子4人初等教育は始めていたでしょう。字は読める。ひょっとして、菟野が書く木簡を持って役所中庭を走り回ったかも。大来は特に役に立った。
    「草壁、そこじゃないでしょ。また間違えた、ばか!」
    菟野が怒ります。
    いくら何でもねえ~、これはない。児童福祉法違反です。

    私たちはここでの生活が、菟野皇女が大来大津姉弟を警戒する端緒となったのではないかと想像します。
    天智6年(667年)ごろに姉太田皇女が薨じて、当時6才と4才の姉弟が天智天皇に引き取られたあと、菟野は姉弟に会っていない。それから5年後、2人に再会した菟野は驚いたのではないか。
    一言で言えば、2人があまりに優秀だった。

    大津はのち日本書紀や懐風藻が賞賛するような、並外れて優れた知力体力の片鱗を見せた。それに比べて1才年上の我が子草壁の凡庸さが目立った。天武の後継者として、草壁の強力なライバルになりえると思った。
    こう考えると、後年、天武天皇の崩御直後、持統天皇の大津皇子に対する迅速な決断が理解できる。このころから警戒、準備していたのです。

    大来は、弟以上に優秀で、なにより11才ながら、美しかった。今後どんな美しい女に育つか、予想もつかない。そして気が強い。菟野は自分に似ていると思った。
    こういう頭のいい、気の強い、美しい皇女が、他の男子皇族の妃となったら何をするか、最も知っているのは菟野自身です。
    それよりも将来有力豪族の支持を得たら、大来自身が女帝として帝位継承のライバルになる。菟野は、鼻の下を伸ばしそうな豪族を、瞬時に半ダースくらい思いついた。

    一書に曰く、
    大来皇女は、なぜそこまで憎まれたのか?それは、大来が草壁との結婚を断ったからでしょう。
    菟野皇女は、利発で勝ち気な、この少女大来皇女を、誰よりも高く評価していた。なぜなら、少女時代の菟野皇女に、大来はそっくりだったからです。そして、息子草壁皇子は、誰もが認める頼りなさ。彼を補佐するには、しっかり者の大来皇女がぴったりだと考えたとしても、何ら不思議はありません。
    それより何より、大来皇女の血筋。天智天皇の孫、天武天皇の娘、そして、菟野皇女の姉を母に持つ。さらに、加えると、育ての親は、天智天皇皇后の倭姫。
    この時代、大来皇女姉弟以上に高貴な人がいたでしょうか。
    菟野皇女は、ほしかったでしょうね。自分の陣営に。
    しかし、大来皇女は、断ったのですよ。理由は何だったのでしょうか。菟野皇女は、「将来の皇后よ。もしかしたら、天皇よ」とか勧誘したのかもしれません。そうしたら、「しゃらくせい!なりたかったら、自分でなるわ」なんて、憎ったらしく、答えたのかもしれません。11才は反抗期ですからね。そうでなくとも、いつも青い顔して、鼻水垂らして泣き虫で、マザコンとなんか、「だ~れが、結婚するか!」だったのか。
    菟野皇女は、母親としては、相当頭にきたでしょう。しかしそれより冷徹な政治家として、この娘を敵に回すと、手強いぞと思ったに違いありません。味方にならないと決まった今、敵にしないにはどうするか?
    By妻

    書紀によれば翌年突然、大来皇女は伊勢神宮に仕える斎宮と言うことで伊勢におくられます。
    ところが、天武2年(673年)には、奈良時代以降のような伊勢神宮は成立していなかった、という強力な学説があります。
    つまり大来皇女はありもしない伊勢神宮に送られたとことになります。これは推理しがいのあるところなので、次回以降たっぷりと。
    桑名の2ヵ月のある日、分別あるべき28才の菟野皇女は、11才半の小娘相手に、激しく憤慨した。菟野は草壁がからむと自制心が乏しくなるので、ありえる話です。
    逆に言うと、弱冠11才半、厳密にいうと11才8ヵ月の大来皇女は、28才の皇后を激怒させ、警戒心を漲らせるような何かをしでかした。
    By妻説、もしかすると史実に近いかも。大来皇女は、ものすごく気の強い、やや高慢な娘となります。

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六国史の旅 飛鳥の姉弟

この旅行記へのコメント (12)

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  • 前日光さん 2021/03/05 12:11:55
    大来のイメージが。。。(>_<)
    こんにちは、しにあさん&by妻さん。
    私の大来のイメージは、このブログとは正反対で、芯は強いがおとなしめの女性なんですよねぇ。
    ま、これが一般的ではないでしょうか?
    でも、by妻説など伺いますと、利発、活発、気が強いもありかと、だんだん長年のイメージが崩れつつあります。
    菟野さんが、大来を敵視するようになった理由が、彼女が草壁との縁組みを断ったからというのには、さもありなむと思わざるを得ません。
    大津と共に育ってきた大来から見れば、弟以外の男の子は、みんなクズと思っちゃうかもね。
    加えて超マザコンの草壁ですからねぇ(-_-)
    彼なりの「やさしさ」という美徳は備えていたと思うのですがねぇ。

    でもやっぱり大来は芯は強いが、見た目ははんなりだったんじゃ?という長年の思い込みを、まだ消去できません。

    キャスティングですが、だから菟野ちゃんは尾野真千子ってダメですかねぇ。
    天武は、向井理くんです。草壁は綾野剛くん。
    大来は北川景子ちゃんなんて、どうでしょう。(子役が必要ですが)後年の大来は北川ちゃん推しです。
    大津は、ああ、春馬君が生きてたらなぁ。。。(T_T)

    とにかく桑名郡家での数ヶ月が、菟野と大来大津の運命を決定づけたという説には頷けます。
    子どもの持つ資質というものには、真実味がありますからね。

    と、しにあ説によれば、大来は後年、確か馬にまたがって母大田皇女の陵を訪ねるのでしたよね。
    となると、やはり幼少時は才気煥発でないと、この行為に繋がりませんね!
    でも乗馬姿の北川景子ちゃん!イケテルと思うのですが(^_^)v


    前日光

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/03/05 14:56:33
    Re: 大来のイメージが。。。(>_<)
    コメントありがとうございます。

    六国史は日本後記まで読みました。この時代の日本女性は、事前のイメージと違って、非常にたくましいので驚きました。女帝が何人もいて、彼女らがみんな個性的。ご存知持統さんを筆頭に、孝謙天皇なんか、なみいる男どもを撫で斬りにしちゃうわけです。特に孝謙さんは、気に入らないやつにあだ名をつけて追放するとか、ボス女子中学生の意地悪みたいなことをしている。
    こういうのを読んでいると、我らが大来さんも、大人しいお姫様には思えないのであります。次回からいよいよ真打登場です。芯は強く、見た目もすることもギンギンというイメージでやります。

    北川景子、調べましたよ。大人になってからは、シナリオ上26から41までなんですよね。伊勢から飛鳥に帰ってきてから、それからの大来にはいいかも。ももであプロの川口ちゃんとダブルキャストでやりますか。
    皆さん、キャスティングで楽しんでもらって、作者としては嬉しい限りです。
  • mistralさん 2021/03/04 09:20:32
    大来皇女
    しにあの旅人さん

    おはようございます。

    壬申の乱、思わぬところで出会った題材についついハマって
    私もしにあ監督さんの映画化に向けてのプロジェクトのメンバーに
    入れていただき光栄に存じております。

    あちこちでの拾い読みで、すでにどこで?と考えても思い出せず、、、
    白村江の戦いの折、天智ファミリー、天武ファミリーは九州に向かいましたが
    生まれたばかりの大津、幼少の大来皇女2人は
    のちに先に都に戻る天智さんに託された、との記述を読んだように思いました。
    (年代考証、あってますか?)
    2人にとっては生みの母の記憶がないのは勿論のこと、父親の顔さえ
    わからなかったと思います。
    それがいざ決戦となって実の父親のところに呼び戻される事になり
    特に難しい年頃にさしかかる頭の良い女の子、
    「ふん、今頃になってなにさ!」って反抗的だった事、想像できます。
    そのあたり、by妻さんの説にも通じて、義理の母、実夫、2人にとって
    大来は、頭が良い上に余計に扱いにくい女の子だったのではないでしょうか。
    草壁なんて眼中にもなかったのは当然、、、

    そしてやがては都から離され、おのこたちから目の届かないよう斎宮として
    伊勢へ送られてしまう。
    天武ファミリーに生まれたことが(この時代、仮に天智ファミリーだったとしても)
    不幸な事でした。

    次回は、当時は伊勢神宮はなかった、ではどこに?
    を紐解かれるとの事。
    楽しみにしております。

    mistral

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/03/04 16:24:03
    Re: 大来皇女
    いつも読んでいただいてありうがとうございます。
    姉弟の母太田皇女が死んだのは大来6歳大津4歳、もう一つ小さかったかもしれません。その後天智天皇に育てられたのは分かっていますが、実際に育てたのは倭姫という説が、学者にもあるようです。
    最近資料を調べていて、近江に行く前は、大津は飛鳥岡本の宮で育った可能性があることがわかりました。この時学問はバッチリ仕込まれたようです。

    天武天皇が引き取って、誰かに育てさせそうなモノですが、そうなっていないのは不思議。菟野皇女がお姉さんの太田皇女と仲が悪かったのかなあ。このあたりになると、発言小町のレベルで、話のレベルがグッと落ちます。

    桑名で菟野皇女と大来が2ヶ月一緒だったのはほぼ間違いなく、その後の成り行きだと、ここで相当激しく2人がやり合ったのはあり得る。11歳8ヶ月が28歳になんかで反抗した。28才も大人気ないとは思いますがねえ。草壁の嫁になれというのを、大来がにべもなく断ったというBy妻説は、かなりあり得る線だと思います。アカンベーくらい憎たらしく言ったかも。
    当時13歳くらいの結婚は当たり前でした。確か、菟野が天武と結婚したのは、そのくらいのはずです。

    大来は色々面白そうな娘さんです。でもなんか、扱いにくそう。
  • kummingさん 2021/03/02 14:50:50
    図書館休館中につきm(._.)m
    伝言ゲームで入れ替わった?
    飛鳥宮跡出土木簡の読み取り、解釈までもされ、書紀の壬申の乱の基礎資料には大津、大来、が登場した事が“推定”され、2人が同時に登場するのは近江脱出行で、大来皇女の名は書かれていないものの、大津と共に脱出し、桑名郡家で共に2か月過ごした。
    天武側はあくまでも受けて起った、近江から挑発されてやむなく蜂起した正当防衛、天武持統朝の正統性を持たせる為の書紀であった。
    という事を、しにあさんとby妻さんの、強力な創造力に導かれて、ココまでやって参りました♪入れ替わった、り、推定された、り、所々に飛躍も見られながら、大筋合意♪
    さて、この時代のお話、高校時代から上書きされずに今日まで来てしまった私、しにあさんの「日本書紀現代語訳」とか◯◯著「壬申の乱」とか、至る所散りばめられた親切なガイダンス、ではございますが、しにあさんちや前日光さんちにやみくもに出入りして、抜き差しならない状況(°_°)にならぬ様、本を紐解き自習に励むのを慎んでおります^ ^
    で、ここまでして隠したかった、朝敵となっても皇位簒奪しちゃった、それを焚き付けたのも鸕野讚良さまであらせられると。勉強不足で分からないのですが、天智天皇は後継者に弟、大海人皇子を推したのを、大海人が辞退したのですよね?わざわざ一旦辞退したのをとりに行くのは、辞退した理由にワケあり(天智が本当は息子に継がせたかった)で、その後の期を伺っていた、という事ですか?
    幸か不幸か(笑)、只今図書館休館中(毎年度末恒例の)にて、あしからずm(._.)m

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/03/02 20:50:06
    Re: 図書館休館中につきm(._.)m
    図書館って、柳川のブログに出ていた図書館ですね。いいなあ、大きな図書館があって。
    私など、ほとんどの本は町の図書館になくて、千葉県立図書館から取り寄せてもらいます。2ヶ月かかるとか言われていますが、最短翌日に取り寄せてくれました。明月記訓読版みたいな変な本ばかりなので、町の図書館も県立図書館も、私のこと覚えているみたい。
    町の図書館の担当が、コロナのせいでマスク美人。目元だけに全努力を集中したお化粧という感じで、行くのが楽しみ。

    次から大来皇女の物語、つまり本題に入ります。最初は大津3回、吉野脱出近江脱出まとめて軽く1回の予定だったのですが、例の謎の6月23日、大来大津が鈴鹿関で雨に濡れていた、桑名で菟野さんと2ヶ月暮らした、など予想外の事実らしきものを発見しちゃって、ノリノリになってしまいました。
    大来も6回になります。伊勢から飛鳥に戻ってきてから、それからの大来という、多分あまり話題に上がらないテーマもやります。乞うご期待。と、しっかり番宣。

    天武さんが兄さんの「天皇やれや」という提案を断ったのは、「これは罠ちゃう?」という忠臣のナントカさんの助言を受け入れたという書紀の説に逆らいません。そこまで疑うのは大来大津の本題から外れすぎて、能力オーバーもいいところ。手を抜きます。
    菟野さん黒幕説には賛同の向きも多く、今後もほぼこの線でいきます。
    しっかしあの人は、息子が絡まなければすごい人だと思いますがね。その女房に完全に尻に敷かれちゃった天武さんも、だらしないと思いますが。
    じゃお前はどうなんだというのはナシということで。スケールが違いすぎるので、比較になりません。
  • ももであさん 2021/03/01 12:47:50
    本日の部 キャスティング
    昨日は瀬田の唐橋から、びわ湖毎日マラソンを生応援してました。

    大来大津姉弟はDNAもすごいことながら、天智天皇からも可愛がられ英才教育を受けていたのでしょう。もしかしたらそのまま大津市役所勤務の方が幸せだったのかも知れません。方や草壁くん。彼だって血筋は悪くないしワンダーウーマン直々の熱血指導を受けていたはず。惜しむらくは、やはりママ特製のマーキュリー・ジュースだったのでしょうか。文武に励もうにも気力・体力・集中力が続かず脱落。かのローマ帝国ですら鉛中毒が原因で滅んだと言われるくらいなのでさもありなん!?

    それで本日の部キャストを具体的に考えました。
    1)大来皇女:ここはやはり自分の好みで川口春奈ちゃん https://bit.ly/3b2wa9I
    となると自然発生的に
    2)大津皇子:横浜流星くん https://bit.ly/2NHkdOa 
    ちょっぴり名前つながりではまり役
    3)草壁皇子:草薙航基くん https://bit.ly/3b7Blpf
    そのまんま
    4)ワンダーウーマン:ガル・ガドットさん https://bit.ly/2PmDapN
    と思いましたが、あまりにも美しすぎるので、もとい
    4’)ただのモンスターペアレント https://bit.ly/3sBHBvb
    ご検討のほど、よろしくお願い申し上げます。

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/03/01 16:24:04
    Re: 本日の部 キャスティング
    キャスティング、皆さんノリノリです。
    川口春奈ちゃんは、ももであプロ専属で、もっか強力に売り出し中と拝見しました。kummingさんのアイデアでは、私の役はなんだったか、忘れてしまいましたが、映画化の際には、ぜひお願いしようと思います。

    琵琶湖マラソン、地元ですね。いいなあ。テレビ番組表を見なかったので、見過ごしました。By妻が2番に入った土方君のファンなので、見ていたらテレビの前で一緒に走って、運動不足解消になったのに。
    それにしても今回の1番には1億円が出ないとは、かわいそう。もし出たら、もう1分くらいタイムは縮まったのに。

    ところで、近江名物「鮒の包み焼き」とは、13世紀以降今もあるのですか。どんなもんだろう、食べたことありますか。
    匂いませんかね、これに包まれた密書を受け取った天武さん、「なんつう娘だ、臭くて読めん」とか文句を言わなかったのかな。

    ももであ

    ももであさん からの返信 2021/03/01 17:55:55
    腹黒い
    「鮒の包み焼き」は、地元の祭礼には出ますが、一般には出回ってないと思います。見たことありません。鮒ずしは今も高級食品として扱われています。匂いは強烈ですがぼくは発酵食品は好きです。

    > 「なんつう娘だ、臭くて読めん」
    あるいは焼きすぎて腹の中で真っ黒になっていたか。
    旦那を裏切り敵に密書を送った十市ちゃん。これが腹黒いの語源!?

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/03/01 20:43:38
    Re: 本日の部 キャスティング
    リクエスト
    近江グルメの旅 鮒の包み焼き。

    kumming

    kummingさん からの返信 2021/03/02 14:12:45
    Re: 本日の部 キャスティング
    本編へのコメントはさておき、
    ももさまイチオシの春奈ちゃん、大来皇女役で決まり♪
    鸕野讚良役はどなたが適役でしょう?
    魚漢字辞典調べまして「鮒の包み焼き」(←読めないと入力出来ない)、鮒寿司、匂ってきそうなメニューでございますが…。
    先だって、しにあさんにご紹介頂いた、薄皮パンシリーズ地域限定版、カフェラテ風味クリームパン、フジリンゴ入りカスタードクリーム、め~っけ♪
    ↑あ、リクエストされてもいないのに(ーー;)
    そういえば、一等賞ゲットの賞品はチョコレート三昧でしたか?事務局主催の記念式典とかランキング発表会とか、セレブレーションの予定はないのかしらん?
    本編の位置付けは、展開的に山場を迎える前の小休止、っぽい感じでしょうか、コメントは後ほどm(_ _)m

    しにあの旅人

    しにあの旅人さん からの返信 2021/03/02 21:00:38
    Re: 本日の部 キャスティング
    By妻によりますと、包み焼きとは、奉書焼、今日ではアルミホイルで包んで魚を焼くのと同じだろうとのこと。食べてみたいけれど、ジモティのももであさんでも見たことがないそうで、幻の食べ物となります。
    By妻は博多と徳山のハイブリッドなのですが、そういう郷土料理はないとのこと。
    kummingさんのところではどうでしょう。

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