2020/12/09 - 2020/12/09
101位(同エリア587件中)
しにあの旅人さん
- しにあの旅人さんTOP
- 旅行記251冊
- クチコミ253件
- Q&A回答18件
- 303,167アクセス
- フォロワー77人
これは、中西進による、講談社文庫万葉集(一)のカバーです。画家山口芽能(はぎの)による大来皇女。
細い目、やや下ぶくれの、飛鳥美人。繊細なお姫様。
しかし日本書紀や万葉集のどこにも、大来皇女がこのような柳腰、風にも折れんばかりの美女とは書いてない。
そこで私たちは、大来皇女のイメージをがらっと変えてみました。
身長174センチ、斎宮であるとの自覚なし、男装して伊勢の原野で馬を乗りまわす。
日本書紀と万葉集をガイドブックに、飛鳥と伊勢に大来皇女を訪ねます。
六国史および参考書については、「六国史の旅 飛鳥の姉弟1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
4トラベルのブログは初投稿日順に並べることができません。
この旅行記は2020年6月23日~7月1日、11月14日~23日の2回の旅の記録ですが、初投稿日順に並べるために、12月1日以降の旅行日とします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
小夫天神社
大来皇女が日本書紀に登場するのは、
斉明天皇7年(661年)春1月8日、(216)
「船は大伯の海(岡山県邑久(おく))に着いたとき、太田姫皇子が女子を生んだ。それでこの子を大伯皇女と名付けた」
書紀で「大伯皇女」と書かれるのはここだけで、その後は「大来皇女」となっていますので、書紀に従います。
次に、
天武天皇2年(673年)夏4月14日、
「大来皇女を伊勢神宮(いせのかみのみや)の斎王にされるために、まず泊瀬の齋宮(いつきのみや)にお住まわせになった。ここはまず身を潔めて、次第に神に近づくためのところである」
泊瀬(または初瀬)斎宮は、特定されておりませんが、小夫天(おおぶてん)神社、または脇本遺跡が候補地とされております。学問的には脇本遺跡が有力のようです。
大来皇女の身体的特徴、性格については、手がかりは弟大津皇子。
まず懐風藻。
懐風藻の著者とされる淡海三船(おうみの・みふね)の生年は722年、大津の皇子の没年は686年ですから、三船は大津の皇子を知る人物から、その容貌、人となりを直接聴くことができます。
懐風藻によれば、大津皇子は、
「丈高くすぐれた容貌」とあります。「武を好み、力にすぐれ、よく剣を操った」
性格は「度量も秀でて広大である」「性格はのびのびとし、自由に振る舞って規則などには縛られなかった」「高貴な身分でありながら、よくへりくだり、人士を厚く厚遇した」
日本書紀は天武朝に編纂開始、720年成立ですから、編集部に大津を直接知る人物もいたでしょう。
書紀によると、
「威儀備わり、言語明朗で」「有能で才学に富み、とくに文筆を愛された」
2文献が一致し、大津の身体、性格、能力の情報は正確と思われます。
大来は大津と2才違いの同母姉弟ですから、体格、性格とも似ていて当然です。大津を女にしたような人物を想定してみました。軟弱な手弱女ぶりとは、正反対になります。
彼女が育った時代背景。
母太田皇女は彼女が6歳の時死んでおります。その後は大津と共に天智天皇に、近江大津の宮で育てられたようです。後ろ盾のいない姉弟は、結束が強く、姉は弟を庇うべく、健気に生きたでありましょう。
672年壬申の乱が勃発します。大来11才、大津9才。
3日間の近江脱出行と、桑名での2ヵ月の菟野皇女との生活は、大来の精神を強靱なものにしたのです。
この大来が、紫式部の時代の、屋敷の奥深く、ひたすら男の訪れを待ちわびるような、やわな精神構造ではなかったと考えるのが当然です。
大来の人物像を推測するてがかりが彼女の歌にあります。
「見まく欲りわがする君もあらなくになにしか来けむ馬つかるるに」(万葉集巻2-164)
「会いたいと思うあなたも、もういないことだのに、どうしてきたのだろう。徒に馬が疲れるだけなのに」(万葉集中西)
大来は馬に乗れるのです。 -
この時代女が馬に乗るのは普通でした。
日本書紀天武11年(682年)4月23日
「婦女が男子のように(中国の風習にならって鞍にまたがって)馬に乗るようになったのはこの日からである」
これまでも女性用の横鞍にしろ、女性が乗馬していたことがわかります。
時代は下がりますが、10世紀平安時代斎宮群行のジオラマです。三重県立斎宮歴史博物館。
衣装は違いますが、飛鳥の女は馬に乗っておりました。
皇族のような高貴な身分の女性が馬に乗ったか。
壬申の乱が勃発して、大海人皇子が吉野から伊勢に脱出したとき、兎野皇女(うのの・ひめみこ、後の持統天皇)は、
「皇后は神輿に乗って従われた。津振川に至って、はじめて乗馬が届き、これに乗られた」
皇后が馬に乗っております。
時代は下がりますが、
続日本紀淳仁天皇天平宝字8年(764年)10月30日、
「この日、詔して、東海・東山などの国に騎女(きじょ、乗馬にたくみな女性)をたてまつるよう命じた」
続日本紀が「東海・東山」の国々に騎女を求めたとあるのは、陸奥から移住した蝦夷の女性か、甲斐国で馬の飼育を得意とした渡来帰化人の子孫を念頭においているのではないか。何のために騎女が必要か書いてありませんが、わざわざ遠国から募集しています。かなりの数が必要だったのです。畿内では女性騎手は珍しくなかったことになります。
皇后や姫皇子が乗馬してもおかしくありません。
山口芽能の絵のような衣装では馬に乗れません。大来は男装し、髪を結い上げて、馬にまたがったことになります。
大来の性格からして、ぽっくりぽっくり馬で移動するだけで満足するはずがない。けっこう馬を疾走させて楽しんだのではないか。宝塚と思って下さい。
これもまた、手弱女とは正反対の姿です。
飛鳥時代の日本人の身長は、全世代平均で男163センチ、女152センチだそうです。2017年の日本人では、全世代平均で男162.3、女150.9ですから、飛鳥時代の方が、男は少し高く、女は、平均で1.1センチ高かった。平均で1.1センチとなると、かなり高かった。
現在背が高いと特筆されるには、男で185センチ、女で170センチくらいでしょうか。平均値から考えると、飛鳥時代なら「丈高い」となるともう少し高い。したがって大津皇子は185~190、大来皇女は170~175くらいは想定してもいいのではないか?
大来大津の父天武天皇の御陵は檜隈大内陵(桧隈大内陵:ひのくまのおおうちのみささぎ)です。被葬者が間違いなく確定できる数少ない御陵です。この御陵は文暦2年(1235年)に盗掘にあい、棺から天武天皇の遺骸が引き出されました。そのときの記録によれば、天武天皇の骨の寸法が測られました。これを現代的に解釈すると身長175cmと推定されるそうです(ウイキペディア天武天皇)
当時としても高身長です。
その子供達で、しかも「丈高い」と特筆されるとなると、かなりの背の高さです。 -
飛鳥時代の馬と鞍。大阪府立近つ飛鳥博物館。
-
大阪府四條畷市の、5~6世紀の集落跡蔀屋北遺跡から丁重に埋葬された馬の骨格が出てきました。
-
それをもとに復元された当時の馬です。
-
体高126センチで、現代のサラブレッドに比べるとかなり小さい。でも極めて頑強だったそうです。
この馬に大来皇女は乗りました。 -
「このひめみこさん、大きいんだよね」
-
「重いし」
-
となります。
身長152センチの華奢なお姫様が乗ったところで、馬は疲れません。
大来皇女は自分が大女であることを自覚しております。日頃愛馬が泡を吹き、がんばって自分を運んでいるのを知っているから、「わるいわね、ごめんね」と思っていた。だから「馬つかるるに」
「すぐれた容貌」とくれば、女ならばとびぬけた美貌ということになります。
成人してからの大来は、170センチ以上の長身で、体格もよく、乗馬大好き、運動神経抜群、気前がよくて明るくて、なにより「自由に振る舞って規則などには縛られなかった」
「威儀そなわり」となっているので、すごんだら怖かった。
和田アキ子(174cm)を若くして、とびきりの美人にしたようなもの、でしょうか。戦場での脱出行を経験しているので、度胸は据わっています。
長身の美女が、あの細い目で文字通り上から目線で睨んだら、並の男ならビビります。並でない男なら惚れ込むでしょう。
こういう人物であるとの前提で、大来の人生をたどり、万葉集に残る歌を解釈したいと思います。
異議あり。
和田アキ子は違うって!
今より小さい馬に和田アキ子がまたがったら、三輪車に乗るワカメちゃんかっての。想像するだにおぞましい。
和田アキ子の顔のワカメちゃん。やっぱり、同じ高身長でも、天海佑希(171cm)か米倉涼子(168cm)あたりにしてもらわないと。
By妻。
異議了解。いいとこ取り。若き日の天海祐希の美貌、目力の強さは若き日の米倉涼子、迫力は現代の和田あき子、身長174cmとします。体重3サイズ未詳。 -
ふたたび小夫天神社
-
脇本遺跡はあとで訪れます。
-
小夫は奈良県道38号線の西にある山間の小集落です。このまま38号を南下すると長谷寺です。
-
創建時代は不明ですが、社伝によると、
「皇女豊鍬入姫命が皇祖を捧持し給うた最初の霊跡」とあります。
これですね。
書紀崇神天皇6年、
「・・・そこで天照大神を豊鍬入姫命(とよ・すきいりびめの・みこと)に託し、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った。よって堅固な石の神籬を造った」
社伝では笠縫邑はこの村、小夫の村となっていますが、学問的には比定地がありません。
大来皇女の泊瀬斎宮の由来は、
天武天皇2年(673年)夏4月14日、
「大来皇女を伊勢神宮(いせのかみのみや)の斎王にされるために、まず泊瀬の齋宮(いつきのみや)にお住まわせになった」
このあと、
天武3年(674年)冬10月9日、
「大来皇女は泊瀬の斎宮から伊勢神宮に移られた」 -
社伝に「大来皇女が化粧川で禊ぎされ」とあります。
禊ぎの場所が「化粧壺」として伝承されております。
小夫天神社から直線で673メートル、途中まで車で行ける、あとは徒歩と、ナビは言いました。 -
言われるとおりに車を止めましたが、立派な舗装道路がありました。
だーれもいない田舎道をテクテク歩いて行きました。途中の畑で働いている人がひとりふたり。遠かったので、そのまま歩きまして、着いたところがここ。雑草に覆いつくされた谷というか窪地。雨期になったら水が流れるのかなあ。
By妻 -
目の前は雑草が生い茂った谷でした。
-
かつては開けていたらしい。
-
やっと案内板らしきものを見つけました。
-
一部草に隠れて読めませんが、たぶん「化粧川化粧壺の旧跡」でしょう。
雑草がひどく、これ以上近づけませんでした。しばらく前までは田んぼのようでした。耕作放棄ですね。
不思議なところでした。グーグルナビが狂うのです。手にしたiPhoneの画面で、目的地化粧壺の位置が、点滅して何回も動きました。地図上50メートルくらい。初めての経験です。
大来皇女の祟り? 私たちは、大来皇女にこころからシンパシーを感じているので、祟られる覚えはないなあ。
ああ、そうなの。グーグルさんが狂っていたのか。
もう散々歩かされて、しかもただの山道、草ボウボウ。うちの近所とどこが違うか?違いを述べよ。
五十鈴川のような清冽な川を想像しておりましたからね。おなかはへるし。
機嫌は、ぐんぐん下降線。日本の将来は、暗いなあ。
♪♪タンタータタン タンタータタン ユーホー なんて歌ってないで、なんとかしてくださいね。次期文化庁長官さま。
By妻 -
大来皇女は約1年半、ここで斎宮になるために「まず身を潔めて、次第に神に近づくための」禊ぎをしたのであります。
これを潔斎といいますが、具体的に何をするか、書紀は何も書いていません。
このあと数代の斎宮を調べてみました。大来皇女が686年に退出してから、698年まで斎宮はおりません。持統天皇在位中は空位でしたから、必ずしも必要というものではないようです。
当耆皇女(たきの・ひめみこ 生年?-751年、天武天皇皇女)
母は宍人臣大麻呂の女(むすめ)、かじ媛娘(かじひめのいらつめ)。
斎王在位698年9月10日-701年2月。
続日本紀文武天皇2年(698年)9月10日
「(天皇は)当耆皇女を遣わして斎宮とし、伊勢神宮に仕えさせた」
9月10日は斎王に選ばれた日か、伊勢神宮、正確に言うと伊勢神宮から20キロ離れた現在の明和町にあった斎王宮に移った日か、不明です。
潔斎の内容はなし。
退出の記録はありませんが、次の斎王の選任が701年2月なので、多分この年でしょう。
泉皇女(いずみの・ひめみこ、生年? -734年、天智天皇皇女)
母は天智天皇の後宮の女官である宮人(めしをみな)、色夫古娘(しこぶこの・いらつめ)
選任701年2月、退出706年。
文武天皇大宝元年(701年)2月16日、
「泉内親王を遣わして、伊勢の斎宮に侍らせた」
これも厳密には任命か伊勢下向か不明です。大宝律令施行後、女性皇族の呼び名が皇女から内親王に変わります。
潔斎の中身なし。
文武天皇慶雲3年(706年)正月28日、
「泉内親王が斎宮として伊勢大神宮に詣でた」
初めて斎宮の伊勢での動向が記録されました。
田形皇女(たかたの・ひめみこ、生年? -728年、天武天皇皇女)
母は夫人大蕤娘(おほとじのいらつめ、蘇我赤兄のむすめ)
選任706年、退出不明ですが恐らく文武天皇崩御の707年。
文武天皇慶雲3年(706年)8月29日、
「三品の田形内親王を遣わして、伊勢大神宮の斎宮とした」
潔斎の中身なし。
斎王制度は時代が下がると性格が変化するようですから、大来皇女との比較ではこのくらいでいいと思います。
要するに潔斎の中身は分かりません。
また、潔斎の期間が分かるのは大来皇女だけで、他の斎王さまたちには書いてありません。そもそも、伊勢下向前に潔斎をしたと、明確に書いてあるのは、大来皇女だけです。
後年の斎王は卜定、亀卜、亀の甲を焼く占いで、斎王を選び、任命されることになっていましたが、大来皇女を含め、4人ともそんなことは書いてありません。
平安時代になると、斎王の卜定から伊勢下向まで、詳細な手続きが定められますが、この時代では、分からない。というより、何も決まっていなくて、その時の状況で適当に行われたのではないか。
大来、当耆、泉と三人の皇女を並べて見るとある共通点があることに気づきます。
大津皇子事件です。
大来皇女は、もちろん大津皇子の姉。当耆皇女は、忍壁皇子の同母姉妹。泉皇女は、川島皇子の同母姉妹です。
忍壁皇子は、大津皇子の謀反計画に参加したという噂があり、長いこと冷や飯を食わされたといわれていますし、川島皇子は、謀反計画を密告した裏切り者といわれています。
言われていますばっかりで、なんじゃこれ?ですが、とにかく大津と仲の良かった皇子たちです。
川島くんだけは、天智さんの子供ですが、忍壁くんの妹のおむこさんです。
二人の皇子さんは、お母さんの身分が低く、また子だくさんという共通点がありました。子供がわしゃわしゃいて、お母さんが庶民的だから、子供の一人二人増えたって、どおってことないわよ。晩御飯食べていきな!とかって感じで、大津くんも楽しかったのかも。次はお姉ちゃんも連れておいで!とかいわれて。
だとしたら、よかったね。大津くんは寂しすぎる人生だもの。
ですから、川島皇子が裏切ったという説は、わたしにおいては、あり得ません!
裏切ったという説を、流して罰を与えたのだと思います。見せしめですよ。草壁に刃向かうと、こういう目に遭うぞってね・
本当に裏切ったなら、もっといい思いしなくちゃ。この人も、ズーと冷や飯です。
以上は男達の話。
その周りにいた少女たちが、次々と斎王になりました。
これって?謀反罪で死刑になった人の姉が、それを理由に解任されて、代わりが連座したと言われている人の姉妹って、なんか変。
天武天皇が、大来皇女を斎王に任命したときには、名誉ある任務としていたのに、大津事件のあと、たぶん持統天皇が、その名誉を剥奪したのではないでしょうかね。
持統天皇は、どこまでも大来皇女を貶めたい。皇女のプライドをふんずけたかったんじゃないでしょうか。やなババアだ。ま、古今東西、善良で聖母のような女性政治家なんて聞いたことありませんけどね。
草壁くんも辟易したろうけど、逆らえないんだよね-。マザコンだから。
By妻 -
そもそも斎王、その住まいである斎宮とはなにか。
垂仁天皇25年3月10日、
「天皇は、倭姫命をよりしろとして、天照大神に差し上げられた」
「よりしろ」は書紀原文では「御杖」です。
倭姫命が初代斎王といわれる所以です。
要するに、天皇の代理として、伊勢神宮近くの斎宮に常駐し、伊勢神宮に祀られる皇祖天照大神をお参りする皇族の女性ということです。
私たちが不思議に思ったのは、天武2年という次期に、何故大来皇女がいきなり斎王にさせられたか。大来13才です。
後世ではまず占いで人選をすることになっていますが、そういう手続きは一切なし。
諸説有りますが、一説では、天武天皇の皇后、菟野皇女(うのの・ひめみこ、後の持統天皇)が、大来皇女を遠ざけようとした。
菟野皇女は息子草壁皇子を溺愛し、天武のあとを継がせたかった。大来皇女自身が、ハイレベルの皇位継承者です。大来が有力豪族の力をバックにライバルとなりえます。
有力皇族と結婚したら、その皇子の皇位継承順位が上がります。この時代、異母兄弟姉妹間の結婚は問題ありませんでした。
この時代の女の13才はそろそろ結婚適齢期ですから、遠い伊勢に隔離してしまえば、そのうち適齢期は過ぎる。
一番いいのは、息子草壁の妃にすることですが、草壁はまだ12才。大来は一つ姉さん、その性格、頭の回転のよさからすると、一夜にして息子を尻に敷き、やがて母である自分に刃向かわせることもありえる、と菟野皇女が考えたとしてもおかしくありません。
壬申の乱のとき、鈴鹿で菟野皇女は大来と2ヵ月ほど一緒に暮らしております。その性格、能力は熟知していたはずです。 -
By妻説です。
いきなり大来を斎王にすると言い出したのは、天武自身。なぜなら、菟野が大来に刺客を送るのを恐れた。
天武は、もう何十年も途絶えていた伊勢の斎王を、古い記録に見つけ出し、明日にでも大来を伊勢に送れと言い出した。
側近、名前がないと不便なので、仮に近江とします。近江曰く、
「前の斎宮は、酢香手姫皇女(すかてひめの・ひめみこ)ですが、退出なさったのは推古天皇30年(622年)です。52年前のことですから、伊勢にはもう斎王宮がありません。新しく造ることになります」
天武天皇、そこまでは考えが及ばなかった。「新築には時間がどのくらいかかるのか?」
「1年半ほどかと。それにいろいろ手続きがあります。まず斎王の月料を決めます」
「何だ、それは」
「斎王のお給料です」
「斎王に給料を出すのか」
「当然です。そのほかお付きの女官の月料、事務方の人選、月料、その月料を国家公務員として中央政府から出すか、地方公務員として伊勢の国に出させるか。いろいろ段取りがあります」
古来、役人というものは、できない理由を考えさせたら右に出るものはありません。
「何とかならんか。なんでもいいから、とにかく大来を都から出したい」
「斎王におなりになるのに、なんでもいいからとはいきません。名目が必要です」
「・・・・」さすがの天武、絶句。
「こういうアイデアはいかがでしょう。まず身を潔めて、次第に神に近づくための潔斎の宮に行っていただく。期間は1年半。その間に斎王宮は何とか造ります。月料その他アレンジします」
「すばらしい!でも大来の性格は知っておろう、あのおてんばが1年半も大人しく潔斎など無理だぞ」
「潔斎は名目です。皇女様には何をしていただいても結構です。いささか皇女様にはふさわしくありませんが、乗馬の稽古や剣の修行なども、弟大津皇子様同様興味を持たれておられるとか伺っております」
天武天皇、近江の顔をしげしげと見つめて、
「悪知恵にかけては天下一品だな。近江、お主もワルよのお」
水戸黄門などの時代劇で、悪徳代官と悪徳商人の会話で「近江屋、お主もワルよのお」という決まり文句があります。出典は日本書紀です。
ウソです。受験生の皆さん、信じてはダメですよ!
By妻 -
By妻説は、近江屋の話以外は、かなりの確率でありえると思います。
大来皇女の潔斎の内容は不明。かつ以降3代の斎王には長い時間かけて潔斎をしたなどと書いてありません。大来皇女の場合だけ、なにか特別の事情があったと考えるべきです。
もう一つ気になるのは、同じ皇女といっても、大来皇女は自分自身がハイレベルの皇位継承権をもっていること。非常に高位の皇族です。こういう超一級、ばりばりの皇女を斎王に送るというのは、よほど特別な理由があるのです。
以降3代は、母親の身分からいって、彼女たち自身が天皇にはなりえません。他の皇子さんにしても、嫁にしてステータスが上がるわけでもない。ほにゃら皇女です。いてもいなくても大勢に影響なし。 -
幾何学には、問題の図形にはないが、証明のため便宜的に引く線、補助線というものがあります。
ここで、これから大来皇女の物語を、私たちに都合良く進めるために、補助線を引きたいと思います。補助線ですから、元の図形にはありません。
「お前の話は補助線ばかりじゃないか」とは言わないでね。そのとおりですが、まあまあまあ・・・
大来皇女に護衛がついたという補助線です。
天武天皇は、とにかく小夫の里の館に大来皇女を送り込んで、菟野皇女からは遠ざけました。しかし女房の執念深さは知っているので、皇女に護衛をつけることにしました。時と場合によっては皇女の寝室にまで入りますから、女の護衛である必要があります。現代でも女性VIPのSPは女性です。
幾何の補助線らしくX、Y、Zの3人。古代風に絵楠、和伊、説兎と書きましょう。
補助線はこれからも出てきます。お見知りおき下さい。 -
社務所の奥の巨木は欅。
-
樹齢1500年。
-
見事な枝振りです。
-
縦の旅の醍醐味は、その時代を直接感じること。大来皇女の時代の空を見て、空気を吸うことです。でも残念ながら空の雲はそのときの雲とは違い、空気も同じものではありません。
しかしこの欅は、もし潔斎の宮が小夫の里であれば、1346年前、大来皇女もすでに樹齢150年の大木だったこの木を見ていた。1346年の時を超える橋がここにかかっているのです。
これって、ある種のタイムトラベルじゃないかな。
大来皇女は木に触ったかもしれない。私も触ってきました。ということは、間接的に大来皇女の指に触れたことになります。
大来皇女は、まちがいなく小夫で潔斎をした。しなければならない!
小夫天神社にお参りした日は、暑くもなく寒くもなく。
先ず二人でお参りをして、By夫は社殿の周囲を探索に行ってしまいました。私は、写真の建物を、舞殿なのか宝物殿なのか、ぼんやり考えておりました。誰もいない静まりかえった建物と建物の間に出ると、やはり日射しはまぶしくて、手をかざしながら拝殿を振り返りました。
拝殿のすぐ目の前、コンクリートの参道の横に、白い長い棒が転がっています。
あら、いやだ。片付けましょ。と思いました。
ゴミ一つ落ちていない境内でしたからね。歩き出そうと思ったとき、なんの脈絡もなく、こんないい天気ならへびだって出てくるかもね。とひらめいた瞬間、棒がコロリと動いたのです。
うねったりではなく、横にコロリと。風もないのに。
近視の私は、今見た景色が、自分ながら信じられず。と、フーと棒の片側が起き上がりました。
エーッ。こっち見てる。頭を巡らせて、こっち見てます。
えっとえっと、キャーって言おうかな。おーい、By夫どこいるんだー?
と同時に、ひいばあさんが、坂道でヘビに追いかけられた話を思い出します。下り坂を、へびは棒になって飛んできたそうです。
人間って一度に複数のことを考えられるのですね。
一方叫んだら、飛んでこられるとも、冷静に考えていて。
「おーい。次いくぞー。」と、By夫の声。
は、はい。と声の方を見て顔をもどした、秒に満たない瞬間に、ヘビは消えていました。
チリ一つない拝殿の前は、明るい日の光に照らされていました。
By妻 -
脇本遺跡
奈良盆地から名張に行く谷沿いの道の入口にあります。飛鳥宮遺跡から現代の道なり8.9km、直線6.7km -
この現春日神社を中心に、東西300m、南北250mの範囲に遺構が存在しているそうです。
私たちとしては、小夫天神社が大来皇女斎宮であってほしいのですが、学問的にはこちらの方が正しいらしい。しぶしぶやって来ました。 -
春日神社と遺構の位置関係。
-
脇本遺跡第17次調査の現地説明会資料より。2011年8月20日。
「これらの調査では、100m四方に造成された平坦面上で、5世紀後半・6世紀後半・7世紀後半の3時期にわたる大型建物や柵が検出されています。このうち正方位に並ぶ柱穴は7世紀後半とされ、天武天皇の皇女である大来皇女が伊勢神宮に奉仕するため、泊瀬斎宮(はつせいつきのみや)で心身を清めたという「日本書紀」に見える記録との関連が注目されます」 -
遺構は埋め戻されて、今はなにもありません。
説明会資料の地図から推測すると、泊瀬斎宮があったのは、だいたいこの田んぼの辺りではないか。 -
もうちょっと東にふってみます。
-
県道165号線より。
脇本遺跡のある村落は、もしも「日本人の暮らし」とかいうテーマで、世界に発信するドキュメンタリーがあったなら、ここを選んでほしいです。浮ついたところのない誠実な家並みで、それを見た世界の人々は、日本人の性格を、好意とともに理解してくれそうです。
日本の地方は、誠に美しいですね。
By妻 -
このあたりになる計算ですが、なんともとっかかりがありません。
学問的に正しいということは、時としてつまらないという見本です。
脇本遺跡の近くに大和川が流れています。脇本斎宮説の根拠として、この川で大来皇女が禊をするというのがあります。しかしここは伊勢本街道のすぐ近く、こんなところで美少女が禊をしたら、街道沿いに黒山の人だかりができたでしょうね。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
六国史の旅 飛鳥の姉弟
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟1 大津皇子訳語田邸
2020/12/01~
飛鳥
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟2 大津皇子磐余の池
2020/12/02~
飛鳥
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟3 大津皇子二上山
2020/12/03~
飛鳥
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟4 大来大津まぶたの母、太田皇女越塚御門古墳
2020/12/04~
飛鳥
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟5 天武菟野吉野脱出行・上、書紀いけず読み
2020/12/05~
吉野
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟6 天武菟野吉野脱出行・下、2泊3日無理ムリ~ 謎の6月23日
2020/12/06~
赤目・名張
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟7 大来大津近江脱出
2020/12/07~
大津
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟8 大来大津桑名郡家
2020/12/08~
桑名・長島
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟9 大来皇女泊瀬斎宮
2020/12/09~
室生・宇陀
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟10 大来皇女斎王宮に入る
2020/12/10~
明和・大台
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟11 大来皇女京師に還る
2020/12/11~
明和・大台
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟12 大来皇女その後、いま輝くか
2020/12/12~
飛鳥
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟13 大来皇女宮はどこに?
2020/12/13~
飛鳥
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟14 大来皇女夏見廃寺
2020/12/14~
赤目・名張
-
六国史の旅 飛鳥の姉弟15 牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の現状
2021/07/06~
飛鳥
旅行記グループをもっと見る
この旅行記へのコメント (11)
-
- 前日光さん 2021/03/12 17:04:54
- 大来の潔斎場所?に大きな欅と白い長い棒(?_?)
- ギャーーッ、それは怖すぎる(@_@)
私も八岐大蛇の話を好き好んでしますが、実は蛇は苦手(;´Д`)
ぐにゃぐにゃと動いたのではなく、横にコロリと。。。こ、怖い!
棒になって、飛んで来なくて良かったですね!by妻さん。
大来も触ったかもしれない欅の木、娘の大学受験の時の小論文のタイトルが「接触」、どうした?何を書いた?と聞いたら、修学旅行で行った京都のどこかに織田信長(?かな?これはあやふやですが)が腰掛けた石だったかがあったので、その石に自分も座り、戦国武将との「接触」体験をした記憶について書いたとか。
ふむ、いい線いくかもと思ったら、合格しました!
いろんな場所を旅していて、そういう痕跡があると妄想全開します。
隠岐の島で「後醍醐天皇御腰掛けの石」なるものがあって、娘と同じような気持ちになりました。
ところで、大来の身長ですが、175㎝はないでしょー( ̄△ ̄)
でも松下奈緒さんならOKかな。
天海祐希さんだとすごく素敵なのですが、ベルバラっぽくなって、軍服を着せたくなりますねぇ。
もちろん和田アキコはないでしょ!
でもいずれにしても、大来の身長は高くても160㎝くらいですよ。
背が高い大来は考えられませぬ。
だって現皇室は、みなさん背は低めではないですか。
遡って考えてみても、ご先祖が高身長とはどうしても思えませぬ。
と、どうしてもキャスティングの話題になってしまいまする。
それくらい、この話題は面白いということで。(^_-)
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2021/03/13 06:58:05
- Re: 大来の潔斎場所?に大きな欅と白い長い棒(?_?)
- おはようございます。
↓のkumminさんへの返事で思いついた、大来大津を宝塚の男役2人でやるというアイデアはいかが。当然男役さんの小さい方には例外的にのっぽの娘役をやってもらいます。問題は185センチの宝塚さんがいますかね。非常に妖しい雰囲気になると思いますが、綺麗でしょう。
身長174ですが、大来の「ウマつかるるに」の歌の解釈で、比喩的な表現ではなくて、本当に馬が疲れる大女だと解釈しました。体重65kgくらい。身長160でこの体重だと、適正体重は56kgですから、かなりのぽっちゃりさん。逆に適正体重が65kgだと、身長は175cmくらいないと困るのです。大来皇女を太めにできないし。ここも苦心の、大好きな、数値計算。
欅を使ってのタイムトラベルは、この手の話は、マキアベリ山荘訪問などで何度か使いました。2年前くらい。誰も覚えていまいと思ったのですが、kummingさんが覚えていた。反省。以降気をつけます。
それだけ印象的だったということで、自画自賛。
-
- チーママ散歩さん 2021/03/10 17:42:57
- こっそり、出席いたします・・・。
- 先生こんにちは。
そろそろ今回の授業の出席も、取り終わったようなので。
こっそり教室へ入ってみました。
落ちこぼれなので・・・
ちょこっと「屋上」にいて空気を吸っていたら・・
春の温かい風に当たって。。ついうとうと。
どうせ、たいしたコメントもできないから・・私はいいやって。
ちょこっとお休みモードに入ってました。
が、しかし3月!!!。
進級だけはさせてもらおうと。
出席だけはしておいた方がいいだろうな。
そう思って・・慌てて教室に戻ってみました。
どうぞ、どうぞ、授業をお続けください。
教室の窓から外を眺めながらでも。
ちゃんと授業は聞いておりますので。
奥様が白いへびを見かけたとか・・
昔にしては大柄な女性だったとか・・
今度千葉に行ったら、新名所の市川市役所の
「お清めの滝」を見学しなくては・・・とか
先生のお話も。お友達のお話も・・・・・
ZZZ・・・ちゃんと聞いております・・・ZZZ
むにゃ むにゃ・・。
- しにあの旅人さん からの返信 2021/03/23 07:55:02
- Re: こっそり、出席いたします・・・。
- 春ですね。
確かに眠くなります。iPadを覗いていて、目が塞がってきて、気がついたら別のページを指が押さえていたりします。
古代のお話はまだこれからも延々と続きます。眠れない時はきてください。安眠お約束します。
-
- kummingさん 2021/03/10 12:20:12
- 補助線、XYZ ^o^
- (のっけから批判するつもりは毛頭ないのですが)大来皇女の性格想定を姉弟は似ている?が根拠にされ、うちの兄妹が真逆なのは例外なのだと言い聞かせつつ、読み進みます♪
飛鳥時代の日本人身長が現代人より高かったんですか?や、びっくりで~す。でも、大来もうたに詠んだ“馬つかるるに“、センス良い♪
キャスティングで天海祐希、米倉涼子が新たに参戦していますね、ももさまオシの川口春奈ちゃん、前日光さんオススメの北川景子は、身長足らずで選考対象外?両者も捨てがたいし、まだ子役は候補すら上がっていません。ジョボビッチさん、ジャンヌダルクやfifth elements の女優さん、日本人以外も選考対象?そうなら、幅が広がります♪
斎宮、斎王って、私は源氏物語で知りました。読者三昧受験の夏、もちろん現代語訳で谷崎潤一郎訳と与謝野晶子訳、所謂”夜這い“のシーンに興味津々、という不純な動機^ ^中学生の時からおフランス映画にハマって、濡れ場、的な映像はいっぱい見ていたはずなのに、文章で表現されるそのモヤもや感、想像力を刺激されたのでしょうか?
話がずれて来ましたm(_ _)mとにかく、斎宮に推される方は身分高いけど、薄幸な雰囲気、貴い役を担っていても都落ちさせられる、不遇な、時に気がふれる女人もいた、という認知度ですが。
悪徳代官と役人の会話、さもありなん、現代の官僚と政治家にも似て、トップの為に悪知恵絞る官吏の姿は、書き下ろしby妻、出典日本書紀、納得でございます♪
そして、このブログの隠しテーマ、補助線^o^ 今後、物語が佳境に向かう伏線?問題の図形には(歴史上の史実には)ないが、証明(捏造、創造)を都合よく進める為に引く。「補助線ばかりじゃないか!」などと、畏れ多くて口が裂けても申せませぬ、絵楠、和伊、説兎、しかと記憶に留めます?
小夫天神社でタイムスリップ、大来との手触れ事件♪以前、チェザーレ、FDII、マキャベリ、とも同様な体験されていて、その能力(時を超える?)分けて頂きたい♪
学問的に正しい事は時につまらない、って事で、ますます想像の翼広げ羽ばたき、大風呂敷開いて下さいませ~
年初の誓い、カキコは短く!とうに崩壊したみたい(ーー;)
- しにあの旅人さん からの返信 2021/03/10 13:07:28
- Re: 補助線、XYZ ^o^
- コメントありがとうございます。
私は一人っ子ですが、By妻は性格は別にして、兄貴によく似ている。友人で双子かと思うのがいます。で、とにかく似ているということで。
外国人がキャスティングに上がっておりますが、大来さんは、その昔ペルシャからの渡来人の子孫の隔世遺伝ということで処理するのでOK。平城京ではペルシャ人が働いていた記録があるので、なんとかなる。
ももであさんもBy妻も和田アキ子に拒否反応ですが、彼女は若い頃は結構可愛かった。中学1年で柔道初段だそうで、桑名ではその頃のアキ子さんを連れて来れるならバッチリなのですが。
すごまれた草壁さんなんて、トラウマになったでしょう。
ただあんまり宝塚的ではないです。
たしか1973年だと思いますが、宝塚がパリで公演しております。私は見ておりませんが、倒錯の美ということで、大受けしたそうです。いっそのこと大来大津は宝塚の男役2人でやったら、ビューティフルかも。でも二重三重にやばそうな雰囲気になりますね。
源氏の現代語訳は、谷崎がたしか一番やばいんじゃなかったかな。それを中学生で読むとはかなりのおませさんでした。私は、例のなんでもそっちに話を持っていく尼さん現代語訳で読みました。もうじいさんでしたから、ふーんでしたが。
補助線使っての大風呂敷は、ご期待ください。便利ですよ。家持の所でも使おうと思っているのですが、前日光さんが卒論家持なんですよね。多分激怒するんで、どうしようかな。
- kummingさん からの返信 2021/03/10 14:03:08
- 訂正、ついでにみんなの掲示板m(_ _)m
- 源氏物語読んだのは受験生の夏休み、高3夏、でございます。意味なんて分かるはずもない…。
訂正ついでに、お断り、お願いを一つ。先日ちょっとお出かけしまして、近日中に旅行記up予定してます。1番目と3番目に”しにあさん“のお名前を拝借しても宜しいでしょうか?(他にも増えるかも(ーー;)
2番目にはももねこさま、他にもmistral さんにもお名前だけお借りするかもしれません。ココで聞いてもカキコ見ることが前提になりますが、異論無ければ、異議なしとみなします?
みんなの掲示板どころか、自前の宣伝?m(_ _)m
- しにあの旅人さん からの返信 2021/03/10 14:06:04
- Re: 補助線、XYZ ^o^
- 光栄です。楽しみにしております。
- ももであさん からの返信 2021/03/10 18:36:18
- ジョボビッチさん
- ジョボビッチさん長らくバイオハザード女優が定着してましたが、
最近モンスター・ハント女優に転身です♪
しかもYouTubeで全編見れるという\(^o^)/
https://www.youtube.com/watch?v=MFQ37QdtQag
なかなかおもしろい映画でしたよ。
-
- ももであさん 2021/03/09 19:50:03
- キャスティング変更 (T_T)
- 天照大御神ともなれば、自分で何でもできると思っていましたが、
斎王という職業があったのですか。今の伊勢神宮はどうなのでしょう?
ちゃんと税金から給料ももらえる。ただし身を清める必要がある。
最近似たような話を聞いたことがあります。市川市の村越市長が、
身を清めるため!? 360万円かけて市長室にシャワー室を設置
お金の出どころは、pedaruさんからの血税
市長と設置業者 「下総屋、お主もワルよのお...」
同じ長崎県民として、絶賛イチオシだった川口春奈ちゃん
身長166cmなら十分かと思いきや174cmですか
ショックでございます^^; やむを得ず...
でも和田アキ子は ご勘弁を。それで... 新キャスト案
#1) 松下奈緒 174cm 美貌
http://bit.ly/3bu97Fl
#2) ミラ・ジョボビッチ 174cm 美貌、目力強し、迫力あり
http://bit.ly/3v1d2B0
#3) ついでに馬:黒王号(北斗の拳 ラオウの愛馬)
https://bit.ly/2OfyKkf
- しにあの旅人さん からの返信 2021/03/10 06:56:33
- Re: キャスティング変更 (T_T)
- おはようございます。
古代の日本人は背が高かった。ちっこいのがチマチマと動いていたんじゃなくて、百済観音みたいなのが、町中ゆらゆらと歩いていたのかも。
法隆寺にはもうお一方ナントカ観音という方がおられますが、彼女も長身ですよね。ああいう体型が普通だったのかも。
後年ですが、斎王の月料をどうするかとか、延喜式に決まりがあるそうです。立派な国家公務員でした。いくらくらいかな。伊勢どこだかの田んぼを収入に充てるんだったと思います。
斎王が「アタシ、自分で稲刈りする!」とかは言わない。
斎王宮には、全国から貢物が現物で入ってきて、結構実入りが良かったようです。食事なんか、豪華。儀式のご馳走なんて、手をつけないでスタッフに払い下げていたらしい。
当時から伊勢海老っていたのかな。伊勢海老食い放題!
地元松阪肉とか。
羨ましい。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 六国史の旅 飛鳥の姉弟
11
36