2019/02/03 - 2019/02/03
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しにあの旅人さん
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え、ヤマトタケルは終わったんじゃないの? これまで延々と房総の旅におつきあいいただいた方はそう思ったでしょう。
「ヤマトタケルを旅する 日本書紀編その十二、終章・なぜ房総か」
https://4travel.jp/travelogue/11457464
日本書紀が語る内房、外房、北総のヤマトタケルの旅は終わりました。
千葉県には、この範疇には収まらないヤマトタケルを祀る神社、由来の神社が数多くあるのです。
古事記には、ヤマトタケルは上総上陸後、どこを通って蝦夷に入ったか、もともと全く書いてありません。
日本書紀には、ヤマトタケルが上総から内房、外房、現在の九十九里浜を通って蝦夷に入ったと書いてありますが、現在の市原、市川に行ったとは書いてありません。
ところがこのあたりにはヤマトタケルゆかりの神社が20社以上あるのです。私たちが房総の旅で訪ねたのは20社。それより多い。
千葉県のヤマトタケルを訪ねる旅を始めた以上、途中でやめるのは片手落ち、ひとつひとつたずねてみることにします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
-
史跡国分尼寺跡展示館展示地図
ヤマトタケル、古代、市原、とくれば、連想ゲームで国府ときます。市原は上総国の国府があったところです。
上総国は、6世紀半ばには成立していたようです。7世紀以降の律令制下では、東国の大国でした。大ざっぱにいって、今の千葉県北部が下総国、中央部が上総国、富津以南が安房国です。
上総国の国府だった市原は、律令制下では市原郡、もう現在と同じ市原と呼ばれていました。律令制以前も上海上国(かみつうなかみのくに)、菊麻国(きくまのくに)があったところで、古墳もいっぱいあるし、このあたりは古い歴史があるところです。
国府のまわりにヤマトタケル由来の神社が固まっているのです。 -
黒丸がこの日の訪問先。
上総の国府は、どこにあったかまだ特定されておりません。4カ所くらい候補地があるそうです。そのうち郡本(こおりもと)遺跡群というのを探しましたが、準備不足でたどり着けませんでした。
国府は国分寺、国文尼寺とセットで建設されるのが普通です。この二つはカーナビで簡単に分かります。 -
市原市役所の西隣です。
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と言っても今は広い空き地。
国分寺は聖武天皇が8世紀半ばに全国の各国に建設を命じた寺院です。国分僧寺と国分尼寺があります。国家鎮護という国の政策で建てられたものです。お寺を建てることがなぜ国家鎮護になるのは今ひとつぴんときませんが、民衆の生活に根ざしたものではありませんでした。律令体制が崩れると多くの国分寺は衰退しました。上総国分寺は15世紀ころまでは存在が確認されているそうです。 -
国分寺跡パンフレットより。
復元模型です。
13.900平米という広大な面積をもち、僧20人が定員だったそうです。国のお寺ですから、定員があったのですね。国立大学と、似たようなものかもしれません。これに加えて建物の運営、メンテナをするスタッフが相当いたらしい。 -
国分寺跡パンフレットより。
まず目を引くのはこの七重の塔。 -
広場の中央、1メートルほど盛り上がった台地の上に、七重の塔の礎石が残っています。
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心柱の礎石です。
当時を偲べるのはこの礎石だけです。 -
現在この地の一部には上総国分寺という真言宗のお寺があります。旧国分寺衰退後、17世紀末に再興されたものです。
これは薬師堂。17世紀の再興時のままだそうです。
国文尼寺跡に向かいます。
国分僧寺の市原市役所を挟んで反対側です。 -
史跡上総国分尼寺跡展示館パンフより。
国分僧寺と同時期に建設されました。1989年の発掘調査で主要建物の配置が確認されました。中門と回廊が1993年に復元され、「史跡上総国分尼寺跡展示館」と共に一般公開されています。
当初は定員10人でしたが、その後国分僧寺と同じ20名に増員されました。菜園などをもち、自給自足の体制だったそうです。
史跡上総国分尼寺跡展示館には説明スタッフが常駐していて、詳しく説明していただけました。 -
史跡上総国分尼寺跡展示館パンフより。
完成予想図。
復元途中です。金堂はまだ復元されていません。 -
これは上記パンフ完成予想図左上方、展示館からの写真です。
正面の大きな木の位置に金堂がありました。 -
中に入る前に回廊を一周します。
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上の写真は、完成予想図左後方から。
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中門。同じく上の図面下の矢印。
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中庭に入ってみましょう。
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逆光。
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東側回廊内部。
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まっすぐです。
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回廊の基礎です。当時の工法、資材を復元しているそうです。
96本の回廊の柱も樹齢100年以上の檜で、表面はカンナではなく釿(ちょうな)を使っています。 -
金堂よりほぼ対角線。
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こういう感じです。
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金堂跡。
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こんな角度。
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かつてこの礎石の上の柱の間をだれが通り抜けて行ったのでしょうか。美しく若い尼僧、などと想像するのはロマンがすぎますかね。
上総の国府も、国分僧寺、尼寺の近くにあったはずです。ここが上総国の中心であったことは間違いありません。
ヤマトタケル由来の神社は、ここを取り囲むように点在しています。
それにしても、行ってもいないところになぜヤマトタケルの神社があるのでしょうか。
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この旅行記へのコメント (1)
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- ねんきん老人さん 2019/03/01 19:52:47
- ヤマトタケルが房総半島でそんなに受け入れられていたのですか?
- シニアの旅人さん、小生の宮島紀行をお読みくださってありがとうございました。
何も知らないくせにケチばかりつける”老人病”丸出しの駄文でお恥ずかしい次第です。
さて、私は千葉県木更津市に住んでおり、ここはヤマトタケルが東征の途中、相模灘で暴風雨に遭い、妻のオトタチバナヒメが波に身を投じて海の神の怒りを鎮め、それによって助かったヤマトタケルの舟が流れ着いた所と言われています。
ヤマトタケルがオトタチバナヒメを思って立ち尽くしたという小山の周辺には「恋の森」という地名がつき、ヤマトタケルがその場所を立ち去りかねたということから「君不去(きみさらず)」という言葉が木更津(きさらづ)の語源になったと言われています。木更津市民歌というのがあり、その中には「照りそう浦は君不去」と歌われてもいます。
オトタチバナヒメの櫛が流れ着いて、ヤマトタケルが「ああ、吾が妻よ」と涙したという所には今、「吾妻神社」というのがあり、オトタチバナヒメの木像が祀られています。
また、木更津市の隣は袖ヶ浦市ですが、そこはオトタチバナヒメの着物の袖が流れ着いた所だとも言われています。
そのように、私は小さい頃からヤマトタケルの伝説に囲まれて育っており、木更津はヤマトタケルゆかりの地であると教えられてきました。
ですが、実を言うと私はヤマトタケルがあまり好きではありません。
オトタチバナヒメはタマトタケルの妻だと言われていますが、どっこい、ヤマトタケルには出征前からミヤスヒメというれっきとした婚約者がおり、オトタチバナヒメは旅の途中で”ひっかけた”女に過ぎず、それが証拠に東征から帰るとすぐにミヤスヒメと結婚しているのですね。自分の命と引き換えにヤマトタケルを救ったオトタチバナヒメのことはすっかり忘れてです。
まあ、私が憤慨しても始まらないのですが、そのヤマトタケルが房総半島のあちこちで祀られていることは知りませんでした。
シニアの旅人さんの踏査を拝読し、またしても私の無知を思い知ったところですが、良い機会ですので、私も少し調べてみたいと思いました。
刺激的な旅行記をありがとうございました。
ねんきん老人
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