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大村益次郎卿殉難報國之碑 施設情報・クチコミに戻る

明治維新の立役者のひとりである。

  • 5.0
  • 旅行時期:2020/03(約5年前)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

by たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん(非公開)

大阪城・京橋 クチコミ:15件

長州出身で幕末期の長州藩の医師・西洋学者・兵学者であった村田蔵六。医師でありながら長州藩を引っ張って、明治維新を成し遂げた兵学者でもある。

日本陸軍の創設者でもあり、西国の兵力の懸念から大阪を中心とした軍創設に拘っていた。戊辰戦争終結後も薩長派閥が争いを続ける中で、益次郎も海江田信義ら薩摩派閥とは相いれない関係が続いていたと言われている。

明治2(1869)年9月4日夕刻、三条木屋町の旅館で会食中に元長州藩士8名の刺客に襲われる。益次郎も重傷を負うが一命は取り止めた。しかし右膝に追った深手は骨に達するようなものであり、山口藩邸に運び込まれ数日間治療を受けるが、症状は悪化の一途を辿り敗血症を併発し予断を許さない状態に陥った。そしてボードウィン・緒方惟準らの治療を受けた結果大阪の病院にて転院治療が決まる。

高瀬川の船着場から伏見での一泊を経て大阪天満に到着、そのまま鈴木町大阪仮病院に入院する。この際楠本イネやその娘の阿高らの看護を受けるが病状は好転せず、遂にボードウィン執刀で左大腿部切断手術を受けることが決定する。しかし益次郎の立場が仇となり、手術のための勅許を得ることに手間取ってしまう。勅許を得てすぐに手術は行われたもののすでに手遅れの状態であり、敗血症による高熱を発して容態が悪化の一途を辿り、明治2(1869)11月5日夜に死去した、享年46歳。

益次郎死後彼の意向は明治維新に引き継がれる形で進む形となり、フランス軍をモデルにした近代的陸軍が置かれることになった。大阪はその後も軍都としての役割を担い続け、第二次世界大戦中も戦略爆撃の対象となり、多くの犠牲者を出すきっかけとなっている。

陸軍の創設者というと反戦主義の世界では国賊と言われることもあるようだ。しかし戊辰戦争から始まる明治維新は、近代日本における〝最後の内乱〟であることも知られている。それを治めたのはのはほかならぬ軍隊であることを忘れてはいけないように思える。確かに内乱終結後に外国へと目を向けて失敗した史実はあるが、何でもかんでも十把一絡げにして否定することも問題であるように感じられる。

益次郎自身も暴漢によって命を奪われている。それを肯定できるものは何もないが、抑止する立場が居れば軍部の暴走は引き留めることができたのではと思えてならない。

結果論ではあるが戦争をするかしないかを論議する時では既になく、ひとつの考えを暴走させないように監視する。そういった考えが必要となってきているのではないかと〝大村益次郎卿殉難報國之碑〟の碑文を読んで感じた私であった。

施設の満足度

5.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
大阪城から徒歩5分程。
人混みの少なさ:
5.0
碑の前は人通りは多いのだが…。
バリアフリー:
5.0
碑の周りは舗装されている。
見ごたえ:
5.0
一際大きい碑が目に留まる。

クチコミ投稿日:2020/09/05

いいね!:5

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