2024/12/01 - 2024/12/01
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たびたびさん
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三木と京街道、堺って、特に関連はないです。関西でふと思いついたところを並べただけの四日間。正倉院展から湖西散策と六波羅蜜寺の御開帳の四日間(https://4travel.jp/travelogue/11941923)もそうでしたが、まあ、関西はなんでもないようなところにすごい歴史が眠っていることが往々にしてありますからね。むしろ、間口を狭くせず、あんまり分かっていないところも丁寧に拾ってみるのがいい結果を生むように思います。ということで、今回もそういう関西のアトランダムな旅。よろしくお願いします。
さて、1日目は三木。思いとしては、播州、播磨国の理解をもう少し深めたいということ。ちなみに、兵庫県は、摂津・播磨・但馬・丹波・淡路の五つの国から成り立った多様な県と言われますが、播磨国でさえなかなかイメージが湧きにくいですからねえ。もちろん、播磨国は、姫路が中心。これに赤穂、相生、高砂、加古川、明石みたいな瀬戸内海側のラインナップがまずは思い浮かぶところですが、先般の沿岸部じゃない龍野(https://4travel.jp/travelogue/11828381)や西脇、加東、小野(https://4travel.jp/travelogue/11929672)のそれぞれがそれぞれ感も面白くて、課題意識が膨らんでいました。つまり、播磨国ってますますつかみどころがないイメージなんですよね。
そういうことで、事前の整理として、もう一度播磨国の歴史をおさらいしてみましたが、播磨国からは有力な戦国大名が出ていないというのが大きいかも。黒田官兵衛は姫路から出ていますが、秀吉のもとで大出世する人物。播磨国を統一したとかではないですからね。黒田官兵衛が城代の頃の姫路城も播磨国では多くの城のひとつにすぎませんでした。播磨国がぼんやりしてしまうのは、やはり守護であった赤松氏がふらふらしていたことが一番の原因だと思います。その象徴は、嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱。6代将軍、足利義教が赤松満祐父子に暗殺されるという大事件ですが、満祐は山名宗全らの幕府軍の追討を受け自害。播磨はじめ備前・美作は山名宗全のものとなりました。赤松氏を再興したのは満祐の孫の9代赤松政則。山名宗全のライバル、細川勝元の力も借りてのものでしたが、権威は元には戻りません。10代赤松義村は備前国守護代、浦上氏に追われ、浦上氏の傀儡だった11代赤松晴政はさらに没落。備前、美作国は尼子晴久のものとなり、東播磨国も三好軍に押され、赤松氏庶流であり東播磨守護代だった三木城の別所氏は半独立へ。赤松氏は、赤松氏庶流、小寺氏の御着城が従うのみと、僅かに西播磨国が勢力範囲という有り様。つまり、ここからは、信長の勢力と毛利氏の勢力の争いに完全に埋没していく播磨国です。ところで、黒田官兵衛の黒田家は、小寺氏の重臣、宇喜多直家・秀家の宇喜多家は浦上氏の重臣という位置。下剋上なら下の立ち位置かな。大混乱の中から、ともに、信長、秀吉との関係を足掛かりに新しい時代に適応、大出世していくことになるのはご案内のとおりです。
で、今回訪ねるのは別所氏の三木城。嘉吉の乱以降、ガタガタになった播磨国の東播磨で独立色を強めていた別所長治。いったんは親信長となりますが、都合よく利用されるだけという不満が爆発。天正6~8年(1578~80年)、秀吉と相まみえる三木合戦の始まりです。なお、別所氏に同調した小寺氏も敗北し、実質的にこれで赤松氏の基盤は霧散したことになりますね。秀吉は、この勢いのまま天正10年(1582年)の備中高松城の戦い、本能寺の変から中国大返し、天王山の戦いへ。播磨国なんかすっ飛ばして歴史は大きく動いていく。結局、最後まで播磨国は草刈り場の域を出ませんでしたが、唯一、黒田官兵衛の出世の道が大きく開かれたということくらいでしょうか。一方、姫路城の位置づけは黒田氏や秀吉が城代となって強化されていくのですが、極めつけは関ケ原の戦い後、池田輝政が52万石に加増され城主となってから。大拡張から西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたりして、特別な城という性格が定まったように思います。
ちょっと長くなりましたが、別所長治と三木城の三木合戦は、こうした流れからすると、播磨・備前・美作の守護だった赤松氏から続いた播磨国のプライドを賭けた最後の戦いという側面もなくはない。三木の干殺しという厳しい戦いですが、どこかその気概を示すような清らかな潔さも感じられて、語り継がれる理由はわからないではないですね。三木は、播磨国の歴史としては、本筋の系譜のひとつ。味わい深いものがあると思います。
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三木市街には三木駅があるのですが、竹中半兵衛の墓にも寄りたいと思って、恵比須駅で降りて、そこから散策を始めます。
恵比須駅を降りてすぐ。面白そうなものが目に入って何かの史跡なのかなと思ったら、東経135度日本標準時子午線上に建てられた記念碑、子午線塔時計台の建物。子午線が通るまち三木をPRするために東洋物産工業という会社から三木市に寄附されたものだそうです。 -
恵比須駅から北に向かって、途中、志染川という川を渡ります。
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イチオシ
秋真っ盛り。柿もたわわに実っていました。
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県道沿いに、竹中半兵衛の墓の標識が出ていました。
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ここは、三木城を包囲する付城群の中では最大規模だった平井山ノ上付城跡のほど近く。三木城攻めの陣中で亡くなった竹中半兵衛に思いを馳せるならここしかないといった場所だと思います。
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白い漆喰の塀に囲まれた静かな墓所。
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イチオシ
美濃斎藤氏の家臣から斎藤家が滅ぶと浅井長政の客分を経て、三顧の礼により秀吉の与力へ。その後、浅井攻め、長篠の戦いや中国遠征では秀吉の近くにあって、才能を遺憾なく発揮していたよう。享年36才。
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秀吉は遺体にとりすがり、人前もはばからず泣きくずれたといいますが、傍らには遺徳を讃える最大限の賛辞が贈られていて、今でもその輝きは薄れていないような気がしました。
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続いて、平井山ノ上付城跡にも立ち寄ります。
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平井山ノ上付城は、秀吉が行った三木城攻めで、三木城を包囲する付城群の中では最大規模。駐車場のところから上って行きましたが、確かにこれは砦といった規模のものではないですね。
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尾根沿いに続く通り道はしっかりしたものだし、
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ここに多くの兵が陣取っていたのも頷けます。
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こうした泥臭い戦いから天下人への道を駆け上がっていった秀吉。感慨深い思いが湧いてきます。
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ここが一番奥のところ。
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三木城のある三木の市街地は正面です。
ちなみに、三木合戦は足掛け3年にも及ぶ戦い。攻め急がず、じっくりと勝機を窺っていた秀吉の腹の座り方もなかなかのものだったと思います。 -
これで三木の市街に向かいます。途中で振り返ると、さっきの付城。秀吉に圧力を受け続けた別所長治も苦しい立場。我慢比べのような戦いだったことが想像できると思います。
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三木の市街に入って、これは三木湯の山街道。三木のメインストリートです。
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三木湯の山街道沿いに入ってすぐの三木戎神社。「三木のえべっさん」として知られる神社で、大きな石鳥居の向こうに見えている境内はどうかすると広場のような感じ。お祭りなんかするにもぴったりですね。
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延享4年(1747年)、西宮神社から勧請されて創建されたということです。
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ここからは、しばらく三木湯の山街道です。
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東中常盤堂は、大正9年創業という老舗菓子店。
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看板商品は、長治煎餅。長治というのは別所長治。別所長治は秀吉に敗れはしましたが、自らの切腹と引き換えに城兵の助命を条件に三木城を開城するという最期。この一事だけでも、今でも地元の誇りなんだろうと思います。
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ギャラリー 湯の山みちも三木市街の湯の山街道沿い。
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入ってすぐに、
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三木の染形紙で染められたカラフルな着物の展示がありましたが、
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圧巻はその奥の建物の二階にある染形紙のコレクション。
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鈴鹿の伊勢型紙とかも有名ですよねみたいな話をしたら、
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ご主人曰く「三木染形紙は全然違います」。
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つまり、型紙は複雑な文様になると一枚の型紙では表現できない。
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しかし、一方で複数の型紙で表現するにはそれだけ高い技術力が必要になるのだとか。
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三木染形紙は最大7枚のものも確認されていて、それはとんでもないレベルのよう。
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イチオシ
なるほど~、そういう話を聞いて拝見すると
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途端にそれぞれのデザインが輝いて見えるような気がしました。
やっぱり話を聞かないと分からないものですね~
ただ、何枚か重ねていくというのは浮世絵の刷りでも同じかな。革新的というほどのことではないかもしれませんけどね。 -
さらに進んで、三木城跡に向かいます。
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万寿庵は、もう三木城跡のふもとにある三木上の丸駅のそば。甘栗がウリのお店で、甘栗を使ったジェラートとかが人気のようですね。
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奥の一角がイートイン。
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甘栗デニッシュ食パンのセットをいただきました。しかし、甘栗とデニッシュ食パンの組合せって、どうなんでしょうね。違和感もないけど、別に特別なことでもないような。甘栗が3個付いていましたが、これも普通かな。栗でアピールするって、なかなか難しいのかもしれません。
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三木城跡は、三木市街から少し丘を上った感じの場所。三木上の丸駅からだとかなりの迂回ルートになります。
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それにしても、ここで秀吉と対峙したというには頼りないような感じの場所ですけどね。
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そのさほど広くない平地の一角に
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本丸跡や
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イチオシ
別所長治の騎馬像が建っています。
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本丸跡の方に上がってみると
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三木の市街は眼下ですね。
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イチオシ
そして、傍らに建つ別所長治の辞世の句「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」の碑も。
籠城からほぼ2年経った天正8年(1580年)1月、長治は自らの切腹と引き換えに城兵の命を助けるとの条件で開城を決意。秀吉からの贈物で最後の宴を催した後、長治は妻子らとともに自害。享年23才または26才とされる最期でした。
ところで、三木合戦も後から見ると無謀な戦いだったように思えてしまいますが、合戦が始まった天正6年(1578年)だと石山合戦は続いているし、情勢を不透明とみる判断はそこまでおかしくはない。潮目は、天正6年(1578年)11月の第二次木津川口の戦いかな。毛利水軍と信長方の九鬼水軍が戦い、これまでは優勢だった毛利水軍がまさかの大敗をするという結末。以降、石山への兵糧の持ち込みが困難になると同時に三木城への支援にも限界が生ずる事態。この戦いの鋼鉄船を使った奇抜な戦法も信長の真骨頂のひとつだったと思います。 -
城跡から裏手に回ると見事な紅葉。
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これで現実に引き戻されたような気持ちですね。
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同じエリアに建つ立派な施設は、
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三木市立金物資料館です。
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館内には、
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イチオシ
三木に伝わる鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、鉋(かんな)、鏝(こて)、小刀(こがたな)といった大工道具がショーケースに所狭しと展示されていました。
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これらは国の伝統的工芸品に指定されていまして、そのルーツは、もともとあった倭鍛冶の系統と百済から渡り帰化した人の韓鍛冶の系統とが合流して基礎ができたということ。長い歴史があるよう。ちなみに、播州三木染型紙の方は国の伝統的工芸品まではなっていない。三木は金物の方が圧倒的に有名です。
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三木市立みき歴史資料館もすぐそばです。
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例によって、縄文時代から始まる展示は
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平安、鎌倉、室町へ。
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ただ、大きな見どころは、別所氏の時代の終焉となった
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三木合戦絵図。
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城主、別所長治、妻子の最期を描く場面がけっこう生々しいですね。
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開城を決意した長治は、秀吉からの贈物で最後の宴を催した後、
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妻子らとともに自害。
「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」は、自らの命と引き換えに将兵の命を救ったことをせめてもの慰めとする辞世の句です。 -
別所氏が滅亡した後は、茨木から中川秀政が配され、戦後の復興にあたりますが、秀政が文禄の役で不覚の死を遂げると弟秀成が家督を継ぎますが、ほどなく禄高を半減されて豊後岡へ。秀吉から不覚の死をとがめられたためですが、これが地元の祭り、追儺式の起源となっているのは面白いことですね。
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三木の祭りに、ここでも三木の金物や染形紙の解説も。三木の歴史と文化をバランスよく紹介していました。
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最後にもうひとつは三木市立堀光美術館。
元町長の堀田光雄氏が三木市に寄贈した建物とコレクションを基礎に設立された美術館というのですが、この日は、地元の有志が集まって、個展のようなものの準備をしている最中でした。美術館ではありますが、いろんな交流の場としての役割もある施設ではないかと思います。 -
少し南に下がって。
別所氏の菩提寺、雲龍寺です。 -
さすがに堂々とした構えですが、
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イチオシ
裏手の駐車場の方に回ると一段高い場所に羽柴秀吉の三木城攻めに敗れた別所長治夫妻の首を埋葬したと伝えられる首塚がありました。城兵の命と引き換えに切腹をした別所長治ですが、その前に妻子を刺し殺して切腹に臨んだということ。夫妻の墓は仲良く並んで建っています。
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さらに南に下がって。播州大宮八幡宮は、三木市街の端っこ。しばらく山の方に上って行った先にあります。ただ、境内は意外に広くて、これなら播州三大祭のひとつという例大祭を行うのも余裕でしょう。そして先ほど触れた中川氏に関係する鬼追式は、ここの祭り。毎年1月に行われるようで、それもちょっと興味が引かれるところです。
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ここからは三木市街の中心部へ。
まずは、明治の遺産、国登録有形文化財となった旧小河家別邸を訪ねます。 -
入り口の門から
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遊歩道を
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どんどん上がっていきます。
つまり、敷地全体が小山のような地形をしているんですね。 -
遊歩道は玄関に至りましたが、
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建物に入る前に、お庭の方を拝見します。
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飛び石とかも豪快ですねえ。
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この座敷の方から庭を眺める造りですが、
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奥行きのある日本庭園を見下ろすような関係となっていて、
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どうかすると、ここが世俗と切り離された別世界のような気持ちになるという仕掛けでしょう。やりますねえ。
明治から大正にかけて三木町長を歴任し、酒造業から三木銀行の設立にも貢献した小河秀太郎が建てた別荘。悠々と優雅な暮らしぶりが偲ばれます。 -
改めて、建物の中へ。
畳を敷いた廊下に -
イチオシ
控えの洋間のテーブルとイス。
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洋間はそのまま次の座敷につながって
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こちらは純和風の落ち着いた部屋。
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それに付属して
朝香宮鳩彦王ご宿泊の間というのも。戦前の皇族ですから、大変な名誉だったものと思います。 -
旧小河家別邸から、今度は旧玉置家住宅に向かいますが、
明月堂は、その途中。 -
しっかりした店構えの和菓子屋さんです。
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いただいたのは、俵もなか。やっぱり老舗なんでしょうね。餡子がすっきりした甘さにしっとり水分の加減もなかなか。餡子って、水分の加減がかなり重要ですからね。これならOK。期待以上においしいもなかでした。
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旧玉置家住宅建物は、文政9年(1826年)に建てられた江戸時代の建物である母屋二棟と土蔵一棟と明治になって増築された離れ座敷や渡り廊下に分かれます。
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では、中へ。
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中庭のようなところをはさんで
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これが玄関。
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ここから座敷が奥に続きます。
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土間をそのまま進むと
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これは本当の中庭。
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土蔵があって
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中はちょっとした展示室。
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ここでも播州三木染型紙の関係です。
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また元に戻って。
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ここから座敷へ。
建物は、もともとは上州館林藩の飛び地だったこの地に財政建て直しのための切手会所を開くための建物だっとか。 -
そういう意味だと実用的な建物だったはずで、
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同じ国登録有形文化財であっても旧小河家別邸のような悠々とした優雅さがないのは当然かな。規模も一回り小さいと思います。
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以上で、三木の散策は終了。
最後になりましたが、三木駅から帰る前に三木駅の駅舎の中三木市観光協会に寄ってみます。きれいに整備された建物で、列車を待つ時間、ここで休憩するにはもってこいですね。 -
なお、三木では、大宮八幡宮 秋まつりを始めとして、太鼓神輿を持ち出すお祭りがあちこちで催されるよう。意外な顔があることを知って、これにもちょっと興味を惹かれました。
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三木から須磨に戻ってきて、ここからは神戸須磨シーワールドを訪ねます。
ただ、道すがら、少しチェックするところがありまして。。
関守稲荷神社は、大通りからけっこう上の方に上がっていった先。 -
今の社殿は古いものではないようですが、源兼昌が詠んだ百人一首のうちの一首にある”須磨の関”があったとされる場所に建てられた神社。そういうことで、狭い境内ですが、須磨の関に関連する歌碑や説明板がたくさんありました。須磨の関がどこにあったのかはもう正確には分からないようですが、須磨の関への思いは消えることがない。その思いを受け止める神社になっています。
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綱敷天満宮は、菅原道真が大宰府への左遷の途上に立ち寄り、その際に地元の漁師たちが綱で円座を作ったという伝承がある神社。
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福岡とかにも同じ名前で同じ伝承を持つ神社がありますね。
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それにしても、神社は意外に大きな構え。成功を祈る波乗り祈願というのも面白いと思います。
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須磨海浜公園のエリアに入って。
旧和田岬灯台は、塔高15.76m。須磨海浜公園の中ほどに松林に半分隠れるような感じで赤い鉄塔の灯台が建っています。明治17年、もともとは和田岬の先端にあったもの。当初は木造で、鉄塔になったのはその後。存する鉄造灯台としては国内最古のものだそうですが、ただ、ペンキが丁寧に塗られていてそこまでの古さは感じません。 -
須磨海浜公園を抜けた須磨海岸。白い砂浜と松林が続いていますが、どことなく都会的でバタ臭い雰囲気もありますね。
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三宮からでもこんなに近くて、本格的な海水浴場があるって、神戸ってどれだけ恵まれているんだという感じ。
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そこに、今度は神戸須磨シーワールドも出来て、よりいっそう磨きがかかっているような気もします。
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イチオシ
「BE KOBE」のロゴもカラフルで楽しいと思います。
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そして、神戸須磨シーワールドに到着です。うーん、想像していたより、ずっと立派ですねえ。
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令和6年、神戸市立須磨海浜水族園が衣替えしてできた施設。けっこう待ってましたが、正直ここまですごい施設ができるとは思っていませんでしたね。シャチのプールとイルカのプールの二つのプールを備えているって、それだけでもかなり破格のものではないかと思います。
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では、時間の関係で、イルカショーから。
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イルカのプールとしてはかなりの規模。これだけの規模があれば、イルカにとっては悠々でしょう。
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イチオシ
係り員の指示に従って、何度もジャンプしてくれましたが、こんな立派なプールですからもう楽しくてしょうがないみたいな感じかな。
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ここはシャチがメインだとばかり思っていましたが、イルカのショーも大したもの。係り員との息がぴったりで、かなりの訓練を積んだことが窺われる。ちょっと感動もののレベルかと思います。
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続いては、シャチなんですが、時間があるので、その間に水族館の方を拝見します。
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動線がゆったりしていて、水槽との距離感もいいですね。
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その分、心なしか魚たちも活き活きと泳いでいるような気がします。
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大水槽の主役はエイとウメイロモドキの群れ。
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決して大物とは言えない魚ですが、
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それでも十分に満足。これも施設の雰囲気がいいからだと思います。
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ペンギンさんも確認して、いい時間になったようです。
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シャチのプールに向かいますよ~
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シャチのプールでスタンバイすると
向かいの海は夕焼けがきれい。いい感じになってます。 -
シャチがプールで泳ぎだしました。
一匹 -
二匹。
やっぱりでかいですねえ。 -
落ち着いたところで
いきなりジャンプ! -
ジャンプ!
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係り員を乗せたパーフォマンスは背中と
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お腹。
芸が細かいですよ~
海のギャング、シャチも頭はいいですからね。しかし、危険はないのかなあ。ちょっとヒヤヒヤですけどね。
しかし、無事に終わって、ほっと息をつきました。 -
なるほど~
シャチは迫力もあるし目玉は目玉だと思いますが、意外にイルカの方もかなりいい。施設は立派ですが、それだけではないものがちゃんとあるように感じました。大きく言えば、神戸の震災からの復興事業の一環という面もあると思いますが、これなら十分。全国にいい水族館がたくさんできていても、さすが神戸!と誇れる施設になっていると思います。 -
そして、晩飯は新開地で。
駅からすぐの洋食屋ゆうきにしてみました。 -
人気のビーフカツをいただきましたが、けっこうレアな感じのカツはとっても柔らか。ソースなんかも家庭的なやさしい味付けで、これは私の好みですね。客層も悪くないし、気さくだけどちょっと落ち着いた雰囲気もあると思います。期待以上にいいお店でした。
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この日の宿は、新開地のホテル ウインベルマジック。
ホテルがアピールするゴージャスさが確かにあって、この値段にしてはかなりお得感がありますね。と思ったら、空調に難あり。ギギギとかゴゴゴとか寝ていてもけっこう気になる音がずっと続いて、なんかよく寝れませんでした。泊まった部屋がたまたまそうだったのかもしれませんが、ちょっとこれはいただけません(泣) -
次の日からは京街道なのですが、せっかくなのでもう少し近場のチェックをしてみます。
柳原えびす神社は、通称、柳原えびす。この辺りは西国街道から兵庫への出入り口で、神社の脇には西惣門跡の説明板も建っていました。赤い鳥居から拝殿、本殿と煌びやかな構え。兵庫七福神めぐりでもあり、なかなか活気を感じる境内です。 -
福海寺は、柳原えびす神社と向かい合うような位置関係。西惣門跡の説明板が建っていて、旧西国街道を挟んで、
兵庫七福神めぐりだと、柳原えびすに対してこちらは大黒天。石柱のがっちりした門のところに誇らしげに大書した看板が出ています。 -
八王寺の境内に建つ工楽松右衛門顕彰碑。
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工楽松右衛門旧宅や工楽松右衛門の墓のある十輪寺に、顕彰碑は高砂神社と工楽松右衛門に関連するものは、ほとんどが出身地の高砂市高砂町なのですが、ここにもあるというのはどういうことなんでしょうね。鉄筋コンクリートのがっしりした寺の中に、これも石造りのがっちりした顕彰碑。ガチガチに守られたような恰好です。
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生田神社兵庫宮御旅所は、生田神社の神幸祭で神輿が立ち寄る重要な場所。ただ、明治25年以前は湊川が御旅所と定められていたようですね。今では、震災も乗り越えて、この立派な構え。境内の広さもしっかりあるし、これならかなり安全です。
このエリアは、いわゆる兵庫津。神戸でも手付かずだった場所でした。これはまた改めて訪ねる必要がありますね。そのことが分かっただけでも収穫だったと思います。
さて、これから京街道。守口に向かいます。
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